鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

偕楽園・好文亭の章

2014-04-23 | 公園・庭園

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 後 1 時 5 9 分

水 戸 偕 楽 園

好 文 亭 中 門





日陰に覆われた好文亭中門



中門をくぐると、空間に開放感が出てきます。
3月は水戸の梅まつりということで、ここにも出店が来ていました。

梅の季節になると公園内のいたるところに出店が開きます。
そして偕楽園は、名勝に指定されている庭園のなかではめずらしく無料で入園できます。
それは、偕楽園が「民と偕に楽しむ公園」であるという、徳川斉昭(烈公)の理念がいまもなお生きているからなのだそうです。





偕楽園は入園料が無料なのですが、好文亭に入るときに限り入場料が190円(当時)かかります。



亭内の庭には遅咲きの梅が咲き誇っています。

「好文」とは梅のことを表します。
出典は『晋書』の「武帝紀」で、晋の武帝が学問に励むと梅が咲き誇り、武帝が学問を怠ったときは梅が咲かなかったそうです。
そこから梅は学問を象徴する花となり、「好文」の異名がついたといいます。
なお、晋の武帝は司馬炎、三国志に出てくる司馬懿の孫です。



3月の末に咲いた寒緋桜は見ごろを迎えていました。



好文亭は2階建ての奥御殿と平屋の別邸で構成されているように見えます。
奥御殿の2層目は「楽寿楼」と呼ばれます。

現在の好文亭は、昭和20年の水戸空襲での焼失後、昭和33年に再建されたものです。
また平成23年の東日本大震災でも被害を受けましたが、翌年に修復が完了しています。



それでは好文亭の中に入ります。
「陰」の世界からやや開放されつつある庭と比べると、邸内はかなり薄暗い印象を受けます。
邸内のはじめは北面の部屋で、陽光があまり入ってこないためです。



まずは別邸を縁側にそってめぐります。
邸内のそれぞれの部屋にはふすま絵に草木が描かれていて、薄暗い「陰」の邸内においていっそうの「陽」を放っているかのようです。



最初の部屋は菊の間



次は桃の間
これら2つの部屋は板敷きで、調理室として使われていました。





つつじの間は、藩主夫人のお供の女中が休息をとった控えの間でした。



松の間は藩主夫人の休息の間でした。



紅葉の間は藩主夫人のお付きの者の控え室でした。





竹の間は、倒幕後の明治2年から明治6年の間、藩主夫人の居室になっていました。



梅の間も藩主夫人の居室でした。
また皇室にゆかりのある部屋で、大正天皇が皇太子のときに行啓されたおりに、梅の間でお泊りになったそうです。
昭和天皇が皇太子のときに行啓されたおりにも、この部屋でご休憩をとられています。



1部屋だけふすま絵のない部屋は清の間と呼ばれています。
こちらも藩主夫人の部屋でした。

そしてここを越えると北面から南面へ変わります。
「陰」から「陽」への転移がここでも味わえるのです。



もう一度竹の間。





萩の間もつつじの間と同じく、藩主夫人のお供の女中が休息をとった控えの間でした。



桜の間も同じく、女中の控え室でした。


縁側の外に目を向けると、「陰」から望む「陽」の世界がきらびやかに見えます。



北面する縁側からは、梅や緋桜、そして奥に大杉森がわずかに望めます。





南面する縁側からも、梅が美しく咲き誇る姿を見ることができます。
奥には千波湖を望むことができます。

北面の庭と南面の庭には、空間の広がり、開放感に大きな違いがあるようです。
大杉森は「陰」、千波湖は「陽」の世界に属します。

好文亭から望む景色にあっても、このような陰陽の対比がなされているのです。



好文亭の奥御殿へ入ります。



奥御殿への通路は太鼓橋廊下とよばれ、床がアーチ状の橋をかたどったものとなっています。
また、左側には格子窓がついています。



外から見た太鼓橋廊下です。
格子窓は外から見えないつくりになっています。

太鼓橋廊下を渡ると、南面する18畳の広間へ。
塗縁ぬりえんという広間では、烈公が領内の老人を招待して養老の会を開いたという記録があります。





東塗縁から望む「陽」の佳景です。
これだけの情景、腰を下ろしてゆっくり眺めたいものですが、休息は禁止されています。

東西の塗縁にはさまれるかたちでたたずむのが、藩主の間であった御座の間です。



2本の竹以外には装飾がない質素な部屋です。
烈公はこの部屋で文人墨客と接したそうです。



この部屋の縁側に、「好文亭」の扁額がかかっています。
(扁額は、となりの西塗縁から見ることができます)
扁額の文字は烈公の自筆なのだとか。

御座の間の先には、東塗縁よりもさらに大きい西塗縁へ。



だから休息は禁止だってば!



まぁ、休憩したくなる気持ちもわからないではありませんが・・・。
たしかに東西の塗縁と、楽寿楼からの景色は素晴らしい。

そして素晴らしい景色を妨げることのないよう、烈公はこれらの間の雨戸を回転式にして戸袋がなくなるように設計しました。

 

西塗縁には、文字がぎっしり書かれている戸が4枚あります。
この部屋は詩歌の宴が催されたそうです。
宴で漢詩を作る際の辞書(カンペ?)として使われたそうです。



好文亭の奥御殿は、外から見ると2階建てのように見えますが、実際は3階建てです。
そして2階・3階部分は楽寿楼と呼ばれます。



斜度がかなりある階段です。
松本城(長野県)や丸岡城(福井県)などの天守閣にも引けを取らない斜めっぷり。



外から隠されている2階の部分には武者控えがあります。
こういった武者控えといい、外から見えない太鼓橋廊下の窓といい、ある種のからくり屋敷というか、出城のようにも感じます。

烈公は、この好文亭に身分を問わずさまざまな客を招待し、また偕楽園は庶民にまで開放されていたので、賊が侵入したさいの防衛策としたのでしょう。
好文亭の通路がかなり狭いのも、武器を振り回すのを困難にするためといいます。

 

からくりといえば、楽寿楼で飲食を楽しむため、烈公は配膳用の昇降機を取り付けました。
この昇降機は滑車を利用したもので、1階(右)で用意した食事を乗せて3階まで持ち上げるというものでした。



そして3階、楽寿楼の正室です。
正室は南面していて、楼からは東南の千波湖、西の大杉森と崖を眺めることができます。



南側には「楽寿楼」の扁額もかかっています。
「楽寿楼」の名は、『論語』の一節から引用しています。


    知者は水を楽しみ 仁者は山を楽しむ
    知者は動き 仁者は静かなり
    知者は楽しみ 仁者は寿いのちなが







楽寿楼から眺める「陽」の佳景をしばしながめて・・・・・・いたかったのですが、この日は観光客が多く、楽寿楼もそれほど広くないので、あまりじっくりとは景色を堪能できなかったのが少し残念です。
この時季は偕楽園がもっとも観光客でにぎわうので、致し方ないでしょう。



好文亭から出て、再び大杉森の「陰」の世界へ戻ります。




偕楽園・陰の章

2014-04-17 | 公園・庭園

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 後 1 時 4 1 分

水 戸 偕 楽 園

好 文 亭 表 門





日本三名園のひとつ、偕楽園。


水戸藩主・徳川斉昭(烈公)は、弘道館で文武に勤しむ藩士へのレクリエーション施設として、水戸城三の丸近辺に公園の造成を計画し、天保12年(1841年)に工事を開始、翌天保13年に完成しました。
「偕楽園」の名は、中国の儒教の古典『孟子』の「古の人は民とともに楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとっています。
その名のとおり、3のつく日と8のつく日には民衆に開放されていました。

現在は木塀で囲われた本園と、その外側に広がるいわば外園によって偕楽園公園を構成しています。
偕楽園公園は、ニューヨークのセントラルパークに次いで、世界で2番目に広い公園なのだそうです。



偕楽園の本園には、好文亭表門のほかに、西門、南門、東門、御成門と複数の門があります。



そして東門の近くには、JR偕楽園駅があります。
偕楽園駅は梅が開花する時期だけに開かれる臨時駅で、しかもホームは下り専用です。

しかし偕楽園を真に味わうならば、好文亭表門以外の門から入ってはならないとされます。
偕楽園駅で降りて東門から入るなど論外!なのだそうです。


偕楽園の造園で烈公は、「陰」と「陽」を表現しました。
杉林、竹林、梅林や千波湖の借景は、すべてこの陰陽を表現するための道具なのです。

偕楽園の真の楽しみ方は、陰と陽の対照を味わうことです。

始めは陰の世界を味わい、その中に陽を見出す。
次いで陰と陽の移ろいを感じる。
終わり陽の世界を味わい、その中の陰に思いをはせる。

こうすることによってのみ、偕楽園の真髄を味わうことができるといいます。

1年のうちの大部分の時季は、梅が咲いていません。
それにもかかわらず三名園のひとつとされているのは、陰陽の対比を見事に体現しているからです。


偕楽園の真髄を味わうためには、まず陰の世界に入らなければなりません。
そして陰の世界に属する門は、好文亭表門だけ。



表門は偕楽園造園当時から現存しています。
茅葺屋根の四脚門で、松材から作られています。
時代とともに門は黒色を帯び、「黒門」とも呼ばれます。

そして好文亭表門にあっても、陰陽の対比が表現されています。
門の左に植わっているヤブツバキは陰を、右に植わって花を咲き誇るソメイヨシノは陽を表しています。



逆から見た好文亭表門。
陰の世界に属していることがよくわかります。


好文亭表門をくぐったら、すぐ先に見える門に進みます。
左を見てはいけません。左は陽の世界・梅林です。


好文亭の先に見えるこけら葺きの簡素な門は、一の木戸



この門から先はわずかに下り坂になっています。



偕楽園は、園内に崖を取り込み、土地の高低差を利用した立体的な表現を実現しています。


一の木戸から広がるのは、右手側に大杉森の世界。





立派な杉の大木と、根元に生い茂るのはクマザサです。
そして左手には孟宗竹林



これらの孟宗竹は、弓の材料にするために京都の男山から取り寄せたものだそうです。



竹林に閉ざされた陰の空間は、心を癒し和ませてくれます。
そしてこの日は風もあり、竹のざわめきがまた素晴らしい。
このざわめきは陰の中の陽でしょうか。


孟宗竹の「孟宗」とは、三国志の呉に仕えた孟宗という人物のことです。
この人は中国史でも指折りの親孝行の人とされています。
孟宗の母親もなかなかご立派な方です。

孟宗の母はタケノコが好物でしたが、冬場では採れません。
孟宗が竹林に入って祈ったところ、とたんにタケノコが生えてきたそうです。
このエピソードから「孟宗竹」という名が付いています。
のちに孟宗の母が死ぬと、知事を務めていた孟宗は後任の着任を待たずに母の葬儀に駆けつけます。
これは死刑に値する行為でしたが、丞相(総理大臣)の陸遜がかばい、呉の皇帝・孫権は助命しました。

孟宗はのちに官僚に復帰し、孫権、孫亮、孫休、孫皓の4代の皇帝(呉の皇帝全員)に仕え、271年に天寿を全うしました。



辺りは木陰に覆われて暗く・・・・・・と言いたいのですがこの日は天気が良すぎて日差しが入ってきています(^_^;)
空を見上げると空は青いですが、杉の大木により空間が閉ざされた感じ。

まさに陰です。
日差しは陰の中にある陽といったところでしょうか。
(でもちょっと明るいなぁ)

“偕楽園=陰陽”を知らなければ、大杉森や孟宗竹林のゾーンはただの通路に成り下がってしまうことでしょう。
ここでも、水戸の観光地は予習が必要ということを思い知らされます。



大杉森の崖を下ると、ひときわ大きな杉の木が立っています。



太郎杉という名がついている杉の大木は、樹齢800年なのだそうです。
またかつては、次郎杉、三郎杉、・・・と命名されていた杉の大木があったそうです。



次郎杉は、昭和39年(1964年)の台風で倒れてしまったそうです。


太郎杉のそばには、吐玉泉が湧いています。



偕楽園のある崖は湧水が多かったそうです。
斉昭は、偕楽園造成にあたってこれらの湧水を集め、白色の井筒を据えたそうです。

現在の井筒(泉石)は大理石(寒水石)で、4代目のものです。



鬱蒼と生い茂る杉の中に、白く輝く吐玉泉もまた、陰の中の陽を表現しています。



下りてきた崖を上り、再び大杉森を歩きます。





日陰の下、茅葺きの門が見えてきます。



好文亭中門をくぐると、陰の世界に陽が帯びてきます。



◆参考文献
偕楽園(茨城県営都市公園オフィシャルサイト) http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kairakuen01.html?
偕楽園の歩き方<決定版!!>(七味 様) http://www.geocities.jp/mitopride/mitopref/kairakuenwalk.htm




歴史館・偕楽園へ

2014-04-06 | 移動の旅

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 1 6 分

水 戸 芸 術 館





いろいろな体験をした水戸芸術館のシンボルタワーを出ました。
しばらくはきれいなおねいさんの癒し声はお預けだろうな(ToT)/~~~





そろそろお昼なので、お腹はあんまり減っていなかったのですが、足を休めたいので近くの京成百貨店に向かいました。
「ウェスタン牧場」というファミリーレストランで照り焼きハンバーグステーキを食べました。

ここのウェイターさんもなかなかかわいかったですね(*^_^*)




午 後 1 時 1 0 分

水 戸 京 成 百 貨 店


京成百貨店の前にバス停があります。

偕楽園方面へ行くバスは、1時間に5本もあります。
昼間の常磐線各駅停車と同じ頻度です。
ほかに茨大(茨城大学)前行きのバスはそれ以上の本数。
2、3分もすればバスが来る、といった感じです。

次の目的地は茨城県立歴史館ですので、歴史館・偕楽園行きのバスを待ちました。


茨城交通バス 泉町一丁目バス停 13時16分発
10系統 歴史館・偕楽園行き
緑町歴史館前バス停 13時24分着
移動距離 1.6km 運賃 180円


茨城交通バスではSuicaを使うことができません。
乗る前に細かい硬貨があることを確認する必要があります。



バスを降りると、歴史館の正門は目と鼻の先です。



それでは入場!・・・しようと思ったのですが、デジカメのバッテリーがそろそろ危なくなってきたので、歴史館へは寄らず、そのまま偕楽園へ行きました。



歴史館内に移築されたある旧水海道小学校校舎【茨城県指定文化財】を横に見ながら、偕楽園へ歩きます。
ああ、それならバスを降りなきゃよかった。




歴史館から続く偕楽園御成門通りに入っていきます。



ここで降りればよかった(T_T)



好文亭表門通りの看板がある十字路を曲がります。
ここで曲がらずまっすぐ進むと御成門に着きますが、ここは「真」の入口ではないのです。



好文亭表門通りを200メートルほど進みます。







偕楽園の好文亭表門に到達です。




水戸芸術館のタワーを作ってみた

2014-04-05 | 日記

2 0 1 4 年 4 月 4 日 ( 金 )

午 後 7 時 1 4 分

拙 宅 に て



水戸芸術館からもらったパンフレットの中にこのようなものがありました。

 

水戸芸術館のタワーのペーパークラフトです。


今週に入って体調を崩し、家にこもってブログを更新しているだけの日々を過ごしてきましたが、体調も少しは回復してきたので、ここは軽いリハビリってことで作ってみました。


まずはパーツを切り離します。

土台と思われるパーツがひとつ。
そして正四面体が27個。



午後8時20分、全部のパーツを切り離しました。
途中、咳でパーツを吹き飛ばしてしまうなどのトラブルもあり、思いのほか時間がかかってしまいました。


そうそう、このペーパークラフトの作り方ももちろん書いてあります。

1.すべての図を1枚ずつ細い線に沿って切り離します。(同じ形が27枚、違う形が1枚できます。)
2.同じ形のものはすべて点線で谷折り、違う形の1枚には、山折りが3ヵ所あります。貼り合わせると印刷線は隠れます。
3.正四面体を「28」個積み重ねた形なのに、同じ図は27枚しかありません。もう1個はどこに隠れているでしょう。
(原文ママ)


作り方に関する記述はこれだけです。
3については作り方とは関係ないし(^_^;)


作り方の2.にしたがって、パーツを折って組み立てていきます。



あ~! 時間がかかるわ!!



まずパーツに折り目をつける作戦に変更。
「探偵ナイトスクープ」の録画を見ながら、黙々と紙に折り目を付けていきます。
午後9時25分、完了。


次いで、パーツを組み立てて正四面体を27個作ります。
糊が余計なところにくっつく、と思いきやのりしろの糊は乾いてくっつかない、今度はのりしろに糊をつけすぎた、紙がフニャフニャになる・・・・・・。
手先が不器用な私にとっては、憤怒との闘いでもありました。



そして塔の形状から考え、正四面体をふたつくっつけて正八面体を作りました。
ああ、もう午後10時を回っている(T_T)


ここからが問題。
この先の作り方が書いてないからです。
ここから先は自分で考えろ、という水戸芸術館からの挑戦状なのでしょうか。

実物の画像を見ながらパーツを糊でくっつけていきます。

あれ・・・なんか違う・・・・・・??

糊が乾く前にはがす。

う~~~ん・・・・・・???

「水戸芸術館 ペーパークラフト 作り方」でググっても、調べることはできません。

明日にしようかな~? もう捨てちゃおうか?

厭戦気分との闘いです。

何度も実物の画像と見比べて、正八面体の配置の規則性を探っていきます。



お、いい感じだ!!


製作を開始して4時間。



ついに完成です!
ほら、しっかり自立しているではありませんか!!

時刻はこのとき午後11時30分近くになっていました。





2 0 1 4 年 4 月 5 日 ( 土 )

午 後 1 1 時 0 9 分

起 床 し て




PCさんの陰に隠れていたパーツが出てきました!
正四面体をてっぺんにくっつけて、本当に完成です。
でもくっつける前よりバランスが悪くなっている?

 

紙の塔は自分で立つのも精一杯(T_T)

本物の塔は震度6弱に耐えた強靭なものです。
ただ強風の日は入場できないので、天候状態には注意が必要です。




水戸の塔

2014-04-04 | 美術館・博物館

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 3 8 分

水 戸 市 三 の 丸

茨 城 県 三 の 丸 庁 舎 前



水戸城の空堀を見た私は、水戸城登城の締めくくりとして高所から縄張りを望みたいものだと考えていました。

そうだ! 展望台といえばやはりあの塔しかないだろう。
そう思った私は水戸地方裁判所から水戸芸術館通りを歩いていきました。


途中にあった、吉田松陰留学の地の碑文

 (少し私が写ってますね・・・)

碑文は「四海皆兄弟」で始まる吉田松陰の詞が刻まれています。
記名は松陰の本名である「吉田矩方(のりかた)」となっています。

松陰は東北旅行のため脱藩し、嘉永4年(1851年)12月に水戸に入り、藩士の永井政介の自宅に1ヶ月ほど滞在しました。
水戸では、当代きっての学者であった会沢正志斎に学びました。
会沢より学んだ水戸学の精神は、松陰の私塾・松下村塾をへて明治維新の原動力となりました。



松陰が滞在した永井宅の跡地は、現在は健保協会の建物になっています。


さらに水戸芸術館通りを歩いていきます。



見えてきました(*^_^*)



ついに到着!
地震速報で見た以上に、かの塔は大きいです。

高さは100メートルで、展望室が84メートルの所にあります。
しかし窓がどこにあるのでしょうか??



水戸芸術館は英語名が Art Tower Mito で、塔が中心のようなイメージです。
でも実際は国内最大級の総合芸術施設で、音楽のコンサート会場、演劇の劇場が完備されています。
館長はあの小沢征爾氏が務めていて、水戸市は水戸芸術館の運営にかなりの予算をつぎ込んでいるとか。



では白銀の塔の中へ。

まずエレベーター近くにある券売機で入場券(200円)を買います。
そばに係員のお姉さまがお立ちで、私が入場券を買ったことを確認するとすばやくエレベーターのボタンを押してくださいました。

(私はきれいな女性に対しては、ついつい尊敬語になってしまいます)

エレベーターがやってきてドアが開くと、お姉さまは私を中へと導きます。
そして展望室はこちらです、みたいなことをおっしゃいまして、展望室のフロアのボタンを押して、

「いってらっしゃいませ」


あ、お姉さまはついてきてくださらないのね。



エレベーターは四面ガラス張りになっていますが、エレベーターが昇降するフロアが無機質な金属(チタンだったか)で覆われているので、景色は愉しめません。



エレベーターのフロア表示灯はなんと三角形です!!
一筋縄ではいかないタワーですねぇ(^_^;)



展望室に到達しました。



まぁ予想はしていましたが、窓は小さいです。



水戸市の中央にひろがる千波湖と、郊外に移転した茨城県本庁舎はよく見えました。



北側の窓からは、茨城県を横断する那珂川が悠然と流れるさまを見られます。



!!! 危ないじゃないか・・・足元注意。



お目当てだった水戸城が全く見えない。
この塔が三角形(正四面体)を組み合わせた構造になっているので、角度が悪かったのでしょう。

そういえば水戸芸術館の英語表記は Art Tower Mito でした。
そうであれば、この塔は展望塔じゃなくてひとつの芸術作品なんだ!
そのように考えれば納得ができます。



かわいい人が展望室に来ました。
何を撮っているのかな?


私は水戸城の空撮をあきらめて、早々に下ります。
エレベーターのボタンを押して待ちます。

エレベーターが上まで来てドアが開くと、今度は係員の別のお姉さまが乗っていらっしゃいます。
このお姉さまと一緒に下まで降ります。

お姉さまに対し、「あんまりよく見えませんでした」と申し上げると、
お姉さま「よく言われます」と。
そして「市街地なので、住民の方から『見えすぎると困る』って要望があったのです」とのお言葉。


エレベータに乗って約1分半、地上へ到達。
お姉さまの癒しのお声とはもうお別れです。



水戸芸術館にあったパンフレットをいただいて、外に出ました。



◆参考文献
水戸芸術館ホームページ(水戸市芸術振興財団) https://arttowermito.or.jp/




水戸城完全制覇

2014-04-04 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 3 分

水 戸 市 三 の 丸

弘 道 館 公 園









弘道館公園で見事に咲き誇る梅をながめつつ、水戸城登城の仕上げとまいります。



100名城スタンプの絵柄に採用されているのは、まず水戸一高の敷地内に入らないと見られない橋詰門(薬医門)【茨城県指定文化財】。



それに掘りの深い空堀です。



三の丸と二の丸を隔てる切通し、



二の丸と本丸を隔てる切通しもそれぞれ規模の大きな空堀といえますが、どうもスタンプの絵柄の空堀とは違います。


その点についてもしっかり予習をしてきました。
どうも三の丸の北側にあるらしいのです。

・・・・・・何だろう、そのふわっとした情報は。

まぁいいや、いざとなったらスマホさんでググればいいんだ。
そういう軽い気持ちで空堀探しが始まりました。






弘道館公園の裏口?で空堀&土塁のような遺構を発見。





土塁は私の背丈より少々高い2メートル前後ですが、空堀はずいぶん浅い感じがします。
スタンプの絵柄のものとはイメージが違います。



いったん弘道館公園に戻り、孔子廟や鹿島神社を拝んだ後、隣接する茨城県三の丸庁舎の方へ歩いていきました。



茨城県三の丸庁舎は昭和5年に建築された洋風の建造物で、平成11年(1999年)までは本庁舎でした。
ドラマのロケ地としてもよく利用されるそうです。



建物正面中央に懸っている県章は一世代前のものです。



現在の茨城県章はこちら。
いずれも県の花であるバラをモチーフとしたものですが、かつて茨城県民であった身の私としては三の丸庁舎の旧県章のほうがなじみがありますね。





三の丸庁舎の広い駐車場から公道に出るところに、空堀&土塁がありました。







さきほどの空堀&土塁とは段違いの規模を誇ります。
空堀の深さは5メートル超、そして土塁の斜度はかなりのものがあります。

この空堀こそ、スタンプの絵柄として採用されたものに違いありません。


以上で水戸城は完全制覇! と言っちゃっていいのかな(^_^;)




弘道館公園

2014-04-03 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 3 分

水 戸 市 三 の 丸

国 指 定 特 別 史 跡 ・ 弘 道 館



弘道館の敷地を出ました。
これで弘道館は終わり、ではありません。



弘道館の裏手に弘道館公園があり、弘道館の付随施設が置かれ、梅林がひろがっています。
この地図には載っていませんが、学生警鐘と孔子廟の間に鹿島神社の鳥居があり、太い道をたどった先に鹿島神社の本殿が建っています。



弘道館公園も梅の名所として知られています。









1株だけ様子が異なる梅。



強風か何かによっていったんは倒れてしまった梅の木が、なおも生き続け満開の花を咲かせています。
なんという生命力でしょうか。
このような姿も、徳川斉昭(烈公)が梅を愛したゆえんかも知れません。


弘道館の施設を順番に回っていきます。
まずは孔子廟
この日は特別公開で、門内に入ることができ御廟も開いていました。



孔子廟は昭和20年の戦災で焼失し、後に再建されました。
戟門(正門)は焼失を免れ、現存しています。

水戸学は儒教の考え方も受け入れています。(この点で国学とは一線を画すものといわれます)
そのため烈公は弘道館内に孔子廟を建て、孔子、孟子、顔回らを祀りました。


次は鹿島神社です。



鹿島神宮の末社であり、武神・建御雷大神(たけみかづちのおおかみ)をお祀りしています。
水戸学の主張であった尊皇攘夷(皇室を奉じ、外敵を打ち払う)にふさわしいものです。

※「建御雷大神」は「武甕槌大神」とも書きます。前者は古事記上の表記、後者は日本書紀上の表記です。

鹿島神社の境内には烈公御手植えの梅があります。



「鈴梅」という白梅で、鹿島神社の神木となっています。
もともと御手植えの梅は3株あったのですが、戦災のため、「鈴梅」のみが残りました。


お次は種梅記碑です。





烈公が藩主に就任したとき、水戸領内に梅が少ないことを知り、江戸屋敷の梅の実を集め、水戸に送って育てさせたという由来を記した碑文です。


その隣りにあるのが八卦堂です。



八角形のお堂で、中には弘道館記碑が納められています。
この日は特別公開のため、八卦堂の扉は開かれ弘道館記碑が公開されていました。



藤田東湖が考案し烈公が撰文した弘道館記を、常陸太田産の寒水石に刻んだものです。



平成23年の東日本大震災では、八卦堂は無事でしたが弘道館記碑が大きく損壊しました。
この修復が完了したということで特別公開をしていました。


もうひとつの碑文、要石歌碑





日本人が実践すべき太古からの道を歌い上げています。
鹿島神宮にあり地震を起こす大ナマズの頭を押さえているという要石になぞらえています。



歌碑の両脇にあるシイの木もなかなかの大きさです。




鹿島神社の鳥居から出ました。



弘道館の学生に時刻などを知らせた学生警鐘です。
寺院の鐘とは異なり小さめです。
外にあるのはレプリカで、本物は弘道館内の資料室に展示されています。



弘道館公園の敷地は、隣接する茨城県三の丸庁舎の敷地に隣接しています。
行き来も自由なので、弘道館の入口に戻らず、そのまま三の丸庁舎の方へ歩いていきました。




弘道館昇殿

2014-04-03 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 0 6 分

水 戸 市 三 の 丸

国 指 定 特 別 史 跡 ・ 弘 道 館





弘道館昇殿。正庁の玄関・・・・・・



ではなくその脇にある出入口で靴を脱ぎます。



まずは正庁【国指定重要文化財】から。



この部屋は諸役会所といい、おもに来客者の控えの間として用いられました。

玄関から見えた力強い「尊攘」の書。
徳川斉昭が水戸藩の藩医・松延年に書かせた安政3年(1856年)の作ですが、ものすごいインパクトです。
斉昭自身もかなり豪快な筆づかいの書を遺していますが、この書はそれをも凌駕する、光圀から起こる水戸学が積み重ねてきたエネルギーが込められているかのようです。


館内の釘隠しは三つ葉葵の御紋が施されています。



そして軒先からも梅を愉しむことができます。



武芸の試験場であった対試場も、前庭にあります。




正庁の最奥にある正席の間です。
この日は老年層を中心に観光客が多い日だったので、じいさまがそのまま写っています。



24畳敷きの部屋で、藩主や重臣が臨席して文武の試験を行い、諸般の儀式を挙げたところです。
外の対試場は至近にあり、藩主らはこの部屋から観覧したそうです。

この部屋の掛け軸は、弘道館の建学の精神「弘道館記」の拓本です。
「弘道館記」は藤田東湖が考案し、徳川斉昭が作成したもので、漢文で書かれています。
これを石碑に刻み、その拓を掛け軸にしたものです。



弘道とは何ぞ。人能く道を(ひろ)むるなり。
(「弘道」とはいかなる意味だろうか。それは人が「道」を広め、人が「道」をもとに生きることができるという意味である)
道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須臾(しゅゆ)も離るべからざる者なり。
(では「道」とはいかなる意味だろうか。それは自然界の大きな秩序を立てているものであり、生きている人間がしばらくもそれを離れてはならないものである)

このような問答形式で「道」が天孫降臨以来どのように変遷してきたかを述べ、建学の精神を記しています。
そしてところどころに不自然な改行があったり、不自然な空白があったり、行頭がそろっていなかったりします。
行頭の飛び出している部分の文字は「皇」「神」「王」などで、「東照宮(家康を表す)」にも不自然な改行、「義公(光圀)」「威公(初代藩主・頼房)」「国家」「祖宗」などに不自然な空白があります。
このような記述をすることで、皇室や偉大な先祖に敬意を表しているそうです。

予習はしてきているのですが、やはり弘道館は難しい(?_?)



次は離れの至善堂【国指定重要文化財】です。
正庁が藩士の勉学、試験の間であるのに対し、至善堂は藩主一家の勉学の間でした。
藩主の子息は、二の間・三の間・四の間で勉学に励み、その中には最後の将軍となった徳川慶喜もいました。



そして最奥の御座の間は、藩主の休息の間として用いられていました。
のち戊辰戦争で朝敵とされた徳川慶喜は、この部屋で恭順の意を表して謹慎していました。

右上に「至善堂」の扁額が懸っています。
そして左の掛け軸は要石歌碑の拓本です。



行末毛 富美奈太賀幣曽 蜻島 大和乃道存 要那里家
(ゆくすえも ふみなたがえそ あきつしま やまとのみちぞ かなめなりける)

太古の昔から我が国に伝わる大和の道はいつまでも変わらない大いなる道であるから、これを固く信じ迷い惑わされることなく、信念をもって正しく歩むように、という教えを記した徳川斉昭の和歌で、歌碑には万葉仮名で刻まれています。
斉昭の文字は豪快ですねぇ。





中庭の梅は終わっていましたが、花はなくても十分素晴らしい!



弘道館内の資料展示館を拝見して外に出ました。

ううぅ、やはり弘道館は難しい(?_?)
水戸学をまとめるのも難しいよ(?_?)
いや、こんなぼやきブログごときが水戸学とか高尚な学問を扱うべきじゃないんだよ、きっと。
うんうん、このブログはあくまで旅日記ですからねぇ。

時間があったらまとめますわ。








遅咲きの梅が盛りを迎えていました。
梅は学問を表す花・・・・・・もう少し水戸学について学んでみようかな、と考えました。
しかし難しいなぁ。



◆参考文献
『弘道館』 http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan01.html
『弘道館記』 http://www.j-texts.com/kinsei/kodo2.html
『常盤神社』「烈公の名文」(安見隆雄氏) http://www.komonsan.jp/mitogaku/cat34/post_277.html




弘道館

2014-04-02 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 5 6 分

水 戸 市 三 の 丸

国 指 定 特 別 史 跡 ・ 弘 道 館



水戸駅から、ふたたび水戸城旧三の丸へ。
水戸城の登城のため後回しにした弘道館に入ります。



なんとこの日は入場料が無料。
なんでも、弘道館の修復が完了したということで特別公開をしていました。
なんという嬉しい誤算でしょう。

弘道館の敷地内に入る前に、まずは弘道館正門【国指定重要文化財】です。



天保12年(1841年)に弘道館が創立されて当時のものが現在まで残っています。
普段は閉ざされたままで、藩主の来館や儀式を行うときにのみ開門しました。
通常の来館者は脇にある通用門(現在の入場門)から入りました。



「三つ葉葵」の御紋もしっかりあります。
そしてところどころにある穴は、水戸における戊辰戦争・弘道館の戦いによる弾痕です。


敷地内に入ると、梅が多く植わっています。



梅は「好文」とも呼ばれ、学問を象徴する花なのだとか。


この日は快晴で、梅の開花が見られる最後の休日と思われ、観光客が多いように思えます。
あとはやはり入場料無料のチカラなのでしょうか。



弘道館は、しっかり予習をして来なければタダの武家屋敷&梅林に過ぎません。
弘道館創立に係る経緯、歴史上の意義がわかっていてこそ訪れる価値があるのではないかと思うのです。
この後訪れる偕楽園もそうですが、水戸の観光地は学習してきた観光客のみを受け入れる、客を選ぶ観光地ともいえるのではないでしょうか。
それゆえに水戸の魅力が理解されないのであって、それは水戸が悪いのではなく、観光客の学習が足りないだけではないのでしょうか。

かくいう私も、弘道館の歴史については多少かじってきましたが、現況についてはあまり調べてきませんでした。
水戸を訪れた日がもう少し早かったら、弘道館は工事中で入れなかったのです。

事前の確認は欠かせませんね(^_^;)



では弘道館を眺めていきましょうか。



弘道館正庁【国指定重要文化財】と、その右側は資料展示室になっています。
観光客の出入口は、2棟をつなぐ廊下の部分になります。





正庁玄関です。
身分の高い武家屋敷に用いられる舞良戸が左右にあります。



その舞良戸にも、弘道館の戦いの弾痕が残っています。



「弘道館」の扁額も注意してみないと読みにくいです。

正庁玄関前には2本の木が植わっています。



ひとつは徳川斉昭公御手植の黒松・・・の3代目のマツ。



もうひとつは左近桜で、こちらは2代目。
徳川斉昭の夫人登美宮が水戸徳川家に降嫁されるにあたり、仁孝天皇が鉢植えの桜を下賜され、それを弘道館に植えたのだといいます。
長い年月を経て初代の桜は枯れてしまいましたが、昭和38年の弘道館修復工事が完了したのを記念して、もとの桜の子孫にあたる苗を宮内庁から譲られ、これを植えたそうです。



弘道館正庁を眺めます。



南側に回りました。



正庁の南面には「游於藝」の扁額があります。
儒教の四書『論語』の一節「志於道 拠於徳 依於仁 游於芸(道を志し、徳を拠り、仁に依りて、芸に遊ぶべし)」から取ったものです。
この「藝(芸)」とは教養という意味で、学問、作法、武芸なども含まれました。

その言葉のとおり、弘道館は学問だけでなく武芸も重要とされ「文武両道」を目指す藩校でした。



「游於藝」の扁額のあたりには武芸の鍛錬の場であった対試場がありました。
武芸の試験が行われ、藩主もその様子を見ていたのだとか。


近くにあった「烈公梅」の名木。





梅もそろそろ終わりですねぇ。



弘道館の外観を見たのちは、玄関脇の入口から靴を脱いで中に入ります。



◆参考文献
『弘道館』 http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan01.html
『心の免疫力~書とことばから』「游於藝(芸に遊ぶ)」(沙於里 様) http://blog.goo.ne.jp/a1019/e/bd01df253588f460541845be5e8f8b92




水戸黄門神社

2014-04-01 | 神社

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 3 7 分

水 戸 市 三 の 丸



水戸城跡通りから国道51号に入った私は、このまま水戸駅方向へ歩きました。

すると、左車線側になにかを発見。



道路を横切って確認してみると、「水戸黄門神社」とありました。



水戸黄門神社は通称で、正式名称は義公祠堂というそうです。
義公とは、水戸黄門こと徳川光圀おくりな(死後に与えられる尊称)で、このあたりで光圀が生誕したといいます。



しかしこの筋骨隆々の光圀公ののぼりはなんなんだろう(^_^;)


徳川光圀は、徳川家康の孫、水戸徳川家初代頼房の三男で水戸藩の2代藩主となりました。

家臣の三木仁兵衛の屋敷で産まれました。頼房は流産させるように命じていたようですが、三木はその命に反し光圀の母をかくまったといいます。
若いころは吉原通い辻斬り(!!)をするなど札付きのワルでしたが、『史記』の「伯夷伝」を読んで素行をあらためたといいます。
光圀の名は、3代将軍家光から「光」の字を拝領したものであり、家光の高い評価を受けて頼房の次の藩主に指名されたといいます。
光圀は兄を差し置いて藩主になることをかなり気にしたようで、後に自分の子を兄に養子に出し、自らは兄の子(綱條(つなえだ))を養子として藩主の座を継がせました。

長じて学問を好み、『大日本史』の編纂事業を開始したのはあまりにも有名です。

水戸藩主は参勤交代の例外として、常に江戸に滞在するのが通例でした。
光圀は歴代藩主の中で最も水戸に入った回数が多いそうです。
また隠居したあとは、西山荘(常陸太田市)で『大日本史』の事業に勤しんでいました。

諸国を漫遊したのはもちろんフィクションで、実際には鎌倉や日光などに数回、最西端は熱海、最北端は勿来(福島県いわき市)までは足を運んだそうです。





それでは参拝。
「このまま天気がもちますように」
10円玉をお賽銭として奉納し、水戸黄門神社を後にしました。あっさりしたもんですな。




黄門様御一行の後ろ姿が見えて、水戸駅に到着。
このままもういちど水戸城三の丸へと歩き出します。

次は弘道館【国指定特別史跡】に入ります。


水戸城跡通りから水戸黄門神社、弘道館への足取りです。




いい天気なんだけど、少し暑いですな(^_^;)