鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

彦根で一泊

2015-07-11 | 鉄道の旅


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 4 時 3 7 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

J R 安 土 駅



念願の安土城の登城を果たし、とりあえず観音寺城にも足を運ぶことができました。



JR安土駅に戻ると、時刻は午後4時半です。
夕暮れ近くになったので城めぐりは中断し、旅立ち前に予約したビジネスホテルへと向かいます。



安土駅の南東、観音寺城がある繖山(きぬがさやま)を眺めながら、

「観音寺城に行くときに、また伺います――」

レンタサイクルのご主人夫妻との言葉を反芻しつつ、



JR安土駅の駅スタンプを押して、電車を待ちます。
(次の駅スタンプのインクが濃すぎて、滲んじゃってます)


【今回の乗車記録】

JR安土駅・1番線 16時55分発
琵琶湖線(東海道線) 普通 米原行き 6両
彦根駅・3番線 17時13分着
【移動距離】18.9km  【運賃】18きっぷ使用(不使用の場合は320円)




本日の宿泊地・彦根に到着。



JR彦根駅北口から出ます。
国宝5天守のひとつ・彦根城は、北口から歩いて20分ほどだったかと。
彦根城は、今回は登城しません。



北口ロータリーに立つ井伊直政の銅像です。



足もとにはちょこんと彦根城天守と(たぶん)彦根城天秤櫓の模型がありました。



時刻は午後5時を回ったばかりでしたが、早々に夕食をいただこうと考え、駅前をぶらり。
近くに「ひこね丼」なる名物ののぼりを掲げた店があったので、こちらに入店しました。

「八千代」駅前店。
そういえば私の住む街の隣は八千代市でしたねぇ~なんて思いながら、メニューを眺めます。

そして、「ひこね丼」ではなく、それよりボリュームのありそうな「牛丼重」なる、概念が混乱しているようなメニューを注文。
牛丼を重箱に詰めてみましたっていうものでしょう。

さらに、一刻も早く胃に食物を入れたい私は、



小鮎の佃煮(550円)と、赤コンニャクの刺身(450円)を注文。
赤コンニャクの味は、普通のコンニャクと一緒なのですが、食感がコンニャクよりも少しだけザラついているようでした。
しかし、コンニャクと酢味噌の組合せはなかなかうまい。

続いて牛丼重・味噌汁付き(1,350円)がやってきました。



牛丼重・・・うまい!
朱色の糸みたいなのは赤コンニャクです。
先に赤コンニャクの刺身をいただいてなければ、「何、この気持ち悪い糸みたいなヤツ?」とよけて食べたことでしょうね。
私は食に関してはかなり守旧的なので。



夕食をすませ、駅から歩いて10分ほど、本日のお宿へ。

チリン チリン チリン

耳慣れない鈴の音が聞こえてきます。なんなのでしょうか?


本日宿泊するビジネスホテルへ到着。



彦根で一泊! チリン チリン



!!!!





観音寺城登城?

2015-07-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 3 時 3 3 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 址 を 出 る



2011年には雪で中に入れなかった安土城を、見事にリベンジ登城した私。



時刻は午後3時半を回っていました。
安土城をじっくり2時間も回るという、予定時刻をはるかにオーバーしていました。



次の城は、同じ近江八幡市内(旧安土町内)にある観音寺城です。

安土城からは4km近く離れているので、

 

レンタサイクル「信長号」を借りたのですが・・・
事前に調べたところによると、観音寺城は安土城よりもかなり広大で、しかも山も高いというのです。

「信長号」を借りたレンタサイクルの優しき媼によると、観音寺城の登城にはとても時間がないだろうということでした。


幸いにして安土城登城の時に降っていた雨は上がっています。
「信長号」にまたがり、とりあえず観音寺城を目指します。



観音寺城は、雲がかかる繖山(きぬがさやま)の上。

ちなみにふもとの建物は、



左から滋賀県考古博物館



中央は文芸の郷セミナリヨ
セミナリヨは、安土城下に実際にあった宣教師の学校で、そこからネーミングをとったのでしょう。
セミナリヨの裏手には「信長の館」があり、安土城天主の上層部分の復元模型があります。



2011年、雪のため安土城に上れなかった私は、「信長の館」でスタンプを確保しました。



いちばん右の安土マリエートは、あんな見てくれですが、総合体育館です。




中腹に見える寺院。

たしか観音寺城には、観音正寺という寺院があったはず・・・
ということは、今からあそこに行かなければならないのか!? とても時間がない・・・。

などと当時は考えていましたが、この寺院はおなじ繖山にある桑實寺で、観音正寺とはまた別の寺院です。



レンタサイクルの媼からもらった地図をもとに、近道作戦をとったりしましたが、知らない集落に迷い込んでしまいました。



ようやく正規の道へと出てみると、もう午後4時前。

 

観音寺城入口と思われるゲートを通過していきます。
・・・このゲート、封鎖されているんじゃねぇのか?



そして、観音正寺参道の近くにあるこの建物は、石寺楽市なるおみやげ処のようです。



・・・そう、登城よりもまずは確実にスタンプ確保の途をとりました。
この登城記おなじみの姑息な作戦

しかし扉が閉まっている・・・まさか、姑息な作戦がかえって仇となったのか?



「石寺楽市開店のお知らせ」

何だよ~まぎらわしい貼り紙で人を脅かしおって・・・。



入口の傍らには、山登り用の杖が貸し出されています。
さて、中に入りますが・・・中には全く商売をする気のない翁と媼がひとりずつ。
売り物を見ても・・・はっきり言ってここで買う価値のあるものはなさそうですねぇ。

さっさとスタンプをもらって立ち去りましょ。



52番! 観音寺城!
シャチハタ式のスタンプは押すのが難しいのぅ。



100名城スタンプは確保したので、観音寺城をちょっとだけでも・・・と思ったのですが、先ほどのとおり、おそらく中には入れないだろうと考えていました。
そこで、石寺楽市から近い名勝へと「信長号」を走らせます。

味のある集落のなか小道を進んでいくと、



教林坊というお寺があるそうです。
江戸時代初期の作庭家・小堀遠州の手による庭園があると聞いては、庭園好きの私が黙ってられません。

そして午後4時10分ごろ、教林坊に着きました。



「9時30分~16時30分まで」・・・ギリギリ間に合ったようです。
「拝観日 11月1日~12月15日は毎日拝観可能、それ以外は土、日、祝日、1月1日~3日のみ拝観可


・・・私は黙って、安土駅へと「信長号」を走らせることにしました。



その途中、観音寺城の入口を見分するために、くだんの門扉へと近づきました。



その看板。



「石寺集落では全区域にわたり、農作物を食害する『猪の被害を防ぐために』防護柵を設置することにしました」
つまりは封鎖されているわけではなく、通行する車や歩行者は、ここを開け閉めしなければならないというものでした。



観音寺城からだいたい15分、距離にして約5kmほど、安土駅前に戻りました。

ここで「信長号」とはお別れです。
レンタサイクルふかおのお爺さんとお婆さんとお話して、自転車とレインコートを返却。

「観音寺城に行くときに、また伺います――」

そう言って、心温かき老夫妻と別れました。



駅北口のロータリーに立つ信長像を背にして、



安土駅へと入っていきました。





安土城・終章~見寺

2015-07-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 2 時 5 5 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 天 主 台 址





天主址から下りました。



岐路のある伝織田信忠邸址まで戻りました。
そこから今度は大手道とは反対方向の道を下っていきます。



ほどなく広い曲輪に出ます。
ご覧のとおり三重塔が建っている空間、ここがかつて見寺があったところでした。


見寺は、安土城の城内に創建された寺院です。
安土の城下町から安土城に登城するときは、百々橋口から上り、見寺を必ず通るというルートとなっていました。
本能寺の変直後の大火では、天主などは焼失しましたが、見寺は災厄を免れました。
しかし江戸時代に炎上、ほとんどの伽藍を焼失してしまいました。
その後、寺の中枢は大手道脇に移され、現在に至ります。



ということで、当時の建物はほとんど残っておらず、



本堂は礎石のみが残ります。



創建当時のまま残っている建物のひとつ、三重塔【国指定重要文化財】。
三重塔が建っている辺りは崖が迫っていて、なかなかいいアングルがなかったです。



見寺からの眺め。
湖は琵琶湖、ではなく西の湖で、琵琶湖中最大の内湖だそうです。
そして、洪水で孤立してしまったかのような湖面ギリギリの集落がなんとも不思議で、なぜかシムシティを連想してしまいました。




眺望を堪能し、下へ。
このときには雨が上がっていましたが、石段は濡れていて、しかも急なので、大変滑りやすくなっていました。
私はここで転びました。
雨の山城を行く際には十分注意していただきたいものです(^_^;)

階段の下には・・・



二王門【国指定重要文化財】が建っています。
こちらも安土城が築城された当時のものが現存しています。
左右に立つのは金剛力士像【国指定重要文化財】です。

 



二王門の表側に出ました。



二王門の先は、安土の城下へと続いていた百々橋(どどばし)ですが、石段が急峻でしかも踏みしろが小さいので、現在は通行できません。
なので、このまま曲輪ぞいの道を歩いていきます。



伝羽柴秀吉邸址の横に出ました。



大手道を下って入口へと戻ると・・・

 

杖を立ててあったカゴの裏には、安土城の事蹟が記載されていました。

天正4年(1576年)正月、織田信長、安土山に築城を命じる。
天正5年(1577年)6月、13か条のおきてを定め、城下町を楽市楽座、諸役を免除して商業活動の自由を認める。
天正6年(1578年)正月、諸将を城中に招き、城内の見物を許す。
同年8月、近江や京都から相撲取を集め興行する。
天正7年(1579年)5月11日、吉日につき、正式に安土城「天主」に移る。
天正8年(1580年)、宣教師に安土城下での教会建設の敷地を与える。
同年5月5日、5月17日、6月24日、国中の相撲取を召し集め、興行、終日見物する。


・・・と、信長公は相当の相撲好きのご様子。

天正9年(1581年)安土城の北、松原町に馬場を築かせ、1月15日左義長(三毬杖)(どんど焼き)を盛大に行う。
同年7月15日、天主および見寺に提灯を吊るし、江中に舟を浮かべ巡察師バリニャーニをもてなす。
同年9月8日、安土城築城に関与した職人頭に小袖を与える。
同年10月20日、セミヨナリを南北二道にするため町屋敷を築く。


・・・と、天正9年は安土城が規模の大きなエンタメの場になっています。
職人頭に小袖、というエピソードが、苛烈な魔王の面が表に立つ信長公の、民政を極めて重視したという戦国時代ではまれなる善政を敷いていた面を表しています。
そして事蹟表は激動の天正10年(1582年)へ。

天正10年元旦、諸将を礼金100文にて見寺と本丸御殿の見学を許す。

・・・さすがは覇王、臣下から抜け目なく上納金を取り立てます。

5月19日、見寺にて能興行をもよおす。
5月20日、徳川家康一行を城中の江雲寺御殿で接待。


・・・このとき家康を接待したのが明智光秀です。
俗説では、このときの接待に不手際があり、信長が光秀を厳しく叱責。
これと同時に、中国攻めを担当していた羽柴秀吉より援軍の要請を受け、光秀に秀吉支援を命じるわけですが・・・

5月29日、信長上洛し、本能寺へ入る。

そして・・・

6月2日、明智光秀、本能寺を襲撃、織田信長自刃。
6月5日、光秀、安土入城。


ですが・・・

6月13日、秀吉、山崎で合戦して、光秀を破る。
6月15日、安土城天主炎上、焼失する。


この炎上は、明智光秀の娘婿・明智秀満が山崎の敗戦後に退却の際に放火した説、織田信長の次男・織田信雄がとち狂って放火した説と、秀満の退却後に主がいなくなった安土城を土民が略奪した時に炎上した説があり、近年は略奪説が有力となっているようです。



受付で預けた荷物を回収し、



見寺のご朱印を拝領し、

 



信長号で安土城を後にしました。





安土城・第2章~天主

2015-07-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 2 時 3 0 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 黒 金 門 址





大きな石で組まれた石垣の虎口、黒金門址

往時は、金箔が施された瓦が使われるなど絢爛豪華な造りで、天下人の住まうところにふさわしいものだったといいます。
本能寺の変後に起きた大火で、黒金門も焼失してしまいました。
しかし門の礎となっていた石垣はその後も残り、400年以上たった今もなお、豪壮な構えをなしています。



黒金門より先は、信長が居住し、政務を執っていた中枢部分となります。


順路を外れた脇道の先には、織田家四代の墓塔がありました。



しかしこのとおりの水ひたし、墓塔に近づくことはままなりません。
傍らに「誰々の墓」という看板はあったのですが、よく見えない。

織田家4代というと、有名どころで信秀、信長、信忠、秀信(三坊師)あたりかな?
信長のお父さんの名前は信秀ですよぉ~、決して恒彦ではありませんよぉ~。
まぁ、試験に出ないから覚えなくてもいいですけどね。

あとから調べてみたら、どうもこの4つの墓は信長の次男・「茶筅丸」信雄からの4代らしいです。

茶筅丸くんはとにかくいいエピソードがない。
信長に無断で伊賀を攻めて敗北、「お前を勘当してやる」と信長パパを激怒させます。
本能寺の変後のゴタゴタでは、なにをとち狂ったか安土城を焼いてしまったとも。(現在は、土民の略奪にあって炎上したとの説が有力)
豊臣秀吉徳川家康の直接対決である小牧長久手の戦いでは、家康とタッグを組むも、秀吉に懐柔されて単独講和。
そして領国の尾張からの領地転換を提示されてダダをこね、秀吉が激怒、領地没収される、など。
茶筅丸くんの最大の功績といえば・・・信長の直系の血縁を現在に伝えていることでしょうか?



さて、順路に戻ります。



400年の時を経て、今もなおそびえ立つ石垣。



順路を進み、石碑が立つところで、二の丸と本丸との分岐。



岐路を左に曲がり、まずは二の丸へ。
水たまりが行く手を阻みますが、水のないところをなんとか選んで通過。



二の丸には織田信長公廟が建立されています。



本能寺に斃れた覇者は、天主の脇にある二の丸にて祀られています。



織田信長公廟のそばに設置されている100名城スタンプ。
ボックスのあちらこちらで試し押しをされていて、なんとも残念な心持ちになります・・・。
たしかにシャチハタ形式のスタンプは、きれいに押すのが難しいのではありますがねぇ。



スタンプ自体は、2011年に収得済みではありますが、51番、安土城!


そして水たまりを越えて、道を戻ります。




二の丸の次は、本丸です。
(三の丸は順路を外れたところにあったので、行きそびれてしまいました)

本丸には御所の清涼殿を真似たという御殿がありました。
現在はただの広場になっています。この日は行く手を阻む水障害になってました。

その先の石段・・・



ここを上っていくと・・・



安土城のてっぺん、天主台址です。


普通、「てんしゅ」は「天守」と書きます。
しかしこの安土城だけは「天主」と書くのが正しいとされます。

安土城の「天主」が、その後の城郭建築の花形ともいうべき「天守閣」のさきがけとなりました。
しかし「天主」と「天守」とは決定的な違いがあります。

「天守」は「守」の字が表すように、防御施設のひとつでした。
城郭を防衛し、武器を収納するやぐら。そのやぐらに、権威の象徴という意味合いを込めたのが「天守閣」です。

それに対し「天主」は、防御施設の意味合いが(ないとはいえないにしても)薄いのです。
天主には武器を収納したのではなく、信長その人が住んでいたのです。

信長は、日本で最初に高層建築に居住した人物ともいえます。


天主台に立つと、雨は相変わらずでしたが、それ以上に強い風が吹き抜けていました。
大垣で買ったかわいい傘が、たった1日で壊れてしまうのではないか、と思うくらいの風。



信長その人が住んでいた場所から、信長その人が祀られている廟を見下ろします。







琵琶湖はもやがかかってあまりよくは見えなかったものの、そこそこ長い石段を上ってきた者にとっては、疲れをいやす景色でした。
それにしても、風に耐えながら傘を差し、デジカメをいじる。なかなか難儀です。



天主台から本丸、黒金門址へと下っていきました。





安土城・第1章~大手道

2015-07-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 1 時 2 6 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

J R 安 土 駅



城攻め旅では2度目の安土駅下車。
目的はもちろん、安土城の登城。
そして、安土城から4kmほど離れたところの観音寺城も行ってしまおうというのです。



はじめて安土に下り立ったのは、4年前の2011年1月。



朝7時ごろ電車を下りた私を待っていたのは、雪国かと見紛うほどの大雪

 

ハタから見る分には絵になりますが、これから登城しようという身にとっては、これほど迷惑なものはありません。
早朝に到着したので、開城時刻の9時になるまで休憩所で待機していました。

9時を回り、大手道の入口に行ってみると・・・



まったく開く気配がない。
電話で問い合わせると、「雪崩の危険もあるので、本日は閉鎖する」との無情の返答を浴びせられたのでした。




さて、安土駅から安土城まではだいたい2kmの道のりがあります。
また、観音寺城までの道のりはさらに長いので、ここはためらわずレンタサイクルの力を借ります。



駅を出てからいちばん右手にある「安土観光レンタサイクルふかお」。

じつはここのレンタサイクル屋さんには「借り」があるのです。
4年前の早朝、安土駅前に下り立った私は、想像だにしていなかった銀世界にたじろいでしまいました。
そして雪はしんしんと降っていて、当時傘のなかった私は、開店準備をしていた「ふかお」さんに駆け込み、ビニール傘を借りたのでした。

というわけで、隣にもレンタサイクル屋はあったのですが、私にとっては「ふかお」さん以外のレンタサイクルを利用することは考えていなかったのです。

4年ぶりに「ふかお」さんへ。あのときの翁と媼は健在でした。

ここで自転車を借りますが、料金は1時間200円、3時間500円、1日1000円の3つのコースがあります。
安土城だけなら3時間で500円のコースを選ぶのですが、今回は観音寺城も行くつもりなので、1日1000円のコースを選びます。

「4年前、お世話になったんですよ」と話しましたが、さすがに覚えてはいなかったようです。
けれども翁と媼の世話好きは健在で、雨具が折り畳み傘しか持ち合わせていない私に、雨カッパを貸してくださいました。
安土城へ行くと話したら、観光マップを用意してくれて、行程を丁寧に説明してくれました。
さらに観音寺城へ行くと話したら、「それは無理なんじゃないの?」と言いつつも、やはりマップをくれました。
自転車に乗せる手荷物を雨から守るために、近江八幡市指定のごみ袋もくださいました。

 

信長号、出陣!




午 後 1 時 4 2 分

安 土 城 に 到 着


信長号とともに出陣してから10分。
媼から教わったとおりのルートをたどって、安土城に到着しました。



安土城の濠の役割をしていたであろう小川、それにかかる百々どどを渡ると、



「安土城址」の石碑と、上へと伸びる石段。
こちらは百々橋口で、安土城の裏口のひとつです。
ここの石段は踏み場が狭いため、通行が禁止されています。


百々橋口から道なりに進んでいくと、



立ち並ぶ石塁と、その切れ目には虎口があり、



木造の建物が見えてきます。
あれこそ、4年前に安土城の開城を待って約2時間いた休憩所
休憩所の前に、駐輪スペースがあります。


ここで雨カッパを脱いで、



例の「一番可愛くない傘」を広げる時がきました。
とてもコンパクトな折り畳み傘だったので「小さいなぁ~」、そして「やっぱり可愛いなぁ~」。
30過ぎの男にはあまり似つかわしくないものだったのでした。

とはいってもここまで来た以上、そして雨が強く降っている以上は、この可愛い傘に頼らざるを得ません。

しかし・・・安土城に来るときはいつも天気にヤラれているなぁ。




午 後 1 時 5 7 分

登 城 開 始


4年前は固く閉ざされていた門扉も、この日は確実に開いています!



登城の前に、ここで入城料500円を支払います。
ここでは無料で荷物を預けることができるほか、總見寺のご朱印もいただけます。



安土城は山城なので、杖が用意されています。
が、ここは自分の健脚を信じて、杖なしで上っていきます。



安土城、最初は長い石段がまっすぐ伸びる大手道です。



この大手道こそ、安土城が他の城とは別格であるゆえんです。
城の通路は、敵に攻め込まれたときを想定して、何度も曲げて造られるのが普通です。
しかし安土城の大手道は、山の中腹までまっすぐ伸びているのです。
このことからも、安土城が戦のための城ではなく、むしろ政庁の機能を重視した城と考えられています。

石垣、通路、石塁と、圧巻ともいうべき石造りの遺構。
これらの遺構は復元されたものではあるのですが、土塁や空堀などの土造りの城が主流であった戦国時代に、これだけ多くの石でできた城はまさに先鋭的なものでした。


大手道の中腹。
左に伝羽柴秀吉邸址、右に伝前田利家邸址が並んでいます。
意外にも、重臣の羽柴秀吉の屋敷が城の入口近くにあります。
その盟友ともいうべき前田利家の屋敷が向かいにあるのも面白いです。
「お~い、又左衛門、一杯やろうじゃないか、おお、松どのもご一緒に」なんて会話が繰り広げられたのでしょうか。
でも実際は、秀吉は当時すでに長浜城の城主であり、しかも中国攻めで姫路城に出張ったままだったはずです。
利家も柴田勝家の寄騎として、北陸に出張っていたはずです。
彼らが安土に滞在した時間はそうそうなかったかもしれません。

 

まずは伝前田利家邸址。あくまで「伝」なので確定しているわけではないのです。

 



次は伝羽柴秀吉邸址。
さすがは織田きっての重臣、個人の屋敷なのに複数の曲輪で成り立っているようです。



羽柴秀吉邸の復元図です。
ここだけで一合戦できそうな感じもします。



少し上って右側には、現在の見寺の仮本堂があります。この日は立ち入ることができませんでした。
またこのあたりは、伝徳川家康邸址ともなっています。
徳川といえば、当時はいちおう織田家から独立した大名家のはずですが、こういったところに屋敷が宛がわれている以上、織田徳川は従属関係となっていたと見ることができます。

本能寺の変が起きる15日前、徳川家康は安土城で織田信長の接待を受けています。
このときの接待役の責任者は明智光秀。
接待の中途で光秀は役目を解任され、中国攻めの羽柴秀吉の助勢を命ぜられます。
あとで信長も出立することとなりますが・・・あとは周知のとおり。

こういった歴史の転換点であった場所に立っていると想像するだけで、なんとなく心奮い立つものがあります。



大手道を上って振り返ると、あっという間に絶景。



大手道がまっすぐ続いていることもおわかりいただけるでしょう。

後半は七曲り坂といって、多少の入り組みはあるものの、あっち行ったりこっち行ったりというようなきつい曲がりはありません。



石造りの城なので、莫大な量の石が必要となります。
そのため、灯篭や石仏なども転用されました。



大手道を過ぎ、石段上りがひと段落。
このあたりは信長のそば近くに仕えた家臣と、織田一族の屋敷がありました。



まずは伝武井夕庵邸址
武井夕庵ははじめ美濃国の斎藤氏に仕えていましたが、斎藤氏が信長によって滅ぶとそのまま信長に仕え、右筆(身近に仕える秘書)を務めました。
年齢は信長よりも20以上も上で、後世の説話ではよく信長に諫言をすることが多く(あくまで後世の説話なので信憑性は疑問ですが)、信長の信頼は厚かったようです。



広い平坦な地には、伝織田信忠邸址
今となっては多くの木々が立つところも、往時は豪奢な屋敷が建っていたのでしょう。
織田信忠は信長の長男で、幼名は「奇妙な顔をしているなぁ~」ってことで奇妙丸。
現代のDQNキラキラネームに通じる信長のネーミングセンスの最初の犠牲者ともいえます。
(二男の信雄は「髪型が茶せんに似ている」から茶筅丸、三男の信孝は「三月七日生まれ」だから三七丸)



伝織田信忠邸址の前で、道は二手に分かれます。
ひとつは見寺へと下る道、いまひとつは天主址へと上る道です。



雨は相変わらずですが、あたりを覆っているもやが夢幻の雰囲気を醸し出しているような気がします。



道の傍らには、伝織田信澄邸址伝森蘭丸邸址の石碑がひっそりとたたずんでいます。

織田信澄は、信長の弟・信行信勝とも)の子です。
本能寺の変が起こった当時は、3月7日生まれの織田信孝率いる四国征伐軍に属していましたが、信澄は明智光秀の娘婿であったために内通を疑われて謀殺されてしまいました。

森蘭丸は諱を茂利といい、信長の側近として活躍しましたが、本能寺の変で信長とともに討死しました。

それにしても、嫡男の信忠を差し置いて、側近の森蘭丸が信長の居住地の近くに屋敷を構えているのも、信長の実用性重視の考え方が顕れているように感じます。




ひときわ大きな石で組まれた石垣の虎口は、黒金門址です。

これより、安土城の中枢に入っていきます。




第65回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記・最終日

2015-07-02 | 鬼ヅモ同好会


2 0 1 5 年 5 月 5 日 ( こ ど も の 日 )

横 浜 市 某 所

第 6 5 回 鬼 ヅ モ 同 好 会 麻 雀 大 会 会 場



第65回鬼ヅモ同好会麻雀大会、最終日。



前日までのスコアでは、大本命・会長がリード。
しかしポイントは3ケタに届かず、まだまだ予断の許さない状況。
かくいう私は、+57ptsで好位置につけていました。


会長は私用のため、茨城のご自宅へ一時帰宅。

会場のよね先生宅に滞在していた、たか副会長、私に、ご~氏が駆けつけ、試合が始まりました。



鬼ヅモ同好会麻雀規約第86条の規定により、最終日は試合数をあらかじめ決めることとなっています。
が、鬼ヅモ同好会麻雀競技先例第14号もあるので、ひとまず4人で試合を続け、会長が合流したときに試合数を決めることとしました。


最終日第1試合目となる第32試合目、トップはたか氏、ラスはご~氏。
第33試合目、トップはよね氏、ラスはたか氏。
第34試合目、トップは私、ラスはよね氏と、見事に浮いては沈みを繰り返す展開に。

となれば、次は・・・

第35試合目、トップはご~氏、私はラス、ではなくなんとか3着にとどまります。




第 3 5 試 合 目 途 中

会 長 、 合 流


時刻は忘れてしまいましたが、会長が合流。
決戦の火蓋が切って落とされました。

これより先の試合数は、協議の結果、10と決まりました。最終試合は第45試合となります。
出席者は5人ですので、抜け番の順序も決めました。
たか氏→ご~氏→よね氏→私→会長→(繰り返し)となりました。

第35試合目終了時のスコアは、
  会長 +97pts
  よね △48pts
  たか △35pts
  ご~ △106pts
  めい +92pts
首位の会長に肉薄しているではないか!
この日は2着、2着、トップ、3着と順調にポイントを重ねていました。



ここから、前日は沈んでいたよね氏の巻き返しが始まります。

第36試合目、トップはよね氏で+35pts。私は3着で△9pts、会長がラスとなり△29pts。
この時点で私が首位に返り咲きます。

第37試合目。



よね氏、大三元を和了。
トップはもちろんよね氏で+57pts。会長が2着で+12pts、私は3着で△15pts。
トータルスコアは、会長が+83pts、私が+68ptsで、会長がトップを奪取。
そこによね氏が+44ptsと猛追。

第38試合目、好調のよね氏は抜け番。
この試合ではトップはたか氏。会長は2着で△1pt、私は痛恨のラスで△21pts。
会長との差は開き、気が付けば3着のよね氏に肉薄されています。


私にとって厳しい展開が続いた末、第39試合、私の抜け番。
トップはよね氏で+45pts。よね氏は抜け番を挟んで3連勝と、勢いが衰えません。
会長も手堅く2着を守り、+2pts。

そして第39試合終了時点のスコアは、
  会長 +81pts
  よね +89pts
  たか △65pts
  ご~ △152pts
  めい +47pts
ついによね氏が首位に立ったのでした。




第 4 0 試 合 目

抜 け 番 か ら 戻 る


私が抜け番から戻り、第43試合までの4連戦が始まります。

第40試合。私の親番で純全帯ヤオが炸裂!
抜け番の会長が後ろから見守る中、大物手をキッチリ決め、この試合をトップで終了。
私が+48ptsで、よね氏の連勝を阻止。
しかしよね氏は2着で△5ptsと踏みとどまります。

ここで私がみたび首位を奪還。


第41試合。ここまで我慢の展開であったご~氏がついに爆発。
東1局でいきなり会長に親跳ねを直撃させます。
この試合ではふたたび会長がご~氏に直撃を食らい、トビ終了。
トップはご~氏で+50pts。
2着はよね氏で+3pts、3着は私で△13pts、会長がラスで△40pts。

この結果、よね氏が+87pts、私が+82pts、会長が+41ptsとなり、またしても首位の座を明け渡すことに。


第42試合。私が大物手をあがり、先制。そのまま逃げ切ってトップ、+32pts。
会長は3着で△10pts、よね氏がラスをとり△26pts。

よたび私が首位を奪還し、+114pts。この大会で初めて100ptsを突破。
よね氏が+61pts、会長が+31ptsで、アタマひとつ抜け出てきました。


第43試合、よね氏が抜け番。
私は全試合に続き大物手で先制、試合を優位に展開していきます。
しかしここで会長が実力を発揮し、私を逆転。
トップは会長で+41pts。私は2着でしたが、10ptsと着実にポイントを積んでいきます。

ここまでの総合得点は、私が+124pts、会長が72pts、よね氏が61pts。


第44試合、私は抜け番でひと休み。




最 終 第 4 5 試 合

そ し て 決 着 へ


第44試合、私が抜け番の中、会長とよね氏での2着争い。
ここでトップをとったのはよね氏で、+46pts。
会長は3着で、△22pts。

その結果、私は+124ptsで、よね氏が+107ptsと躍進、会長は+50ptsとなりました。



最終試合、ここで会長は痛恨の抜け番。
優勝争いは私とよね氏との一騎打ちとなりました。

よね氏が優勝すれば、3大会ぶり11回目。
そして私が優勝すれば、・・・わからないけど、とにかく2回目。

この機を逃せば、優勝はないかもしれない。

どんなに無様でも、優勝せねば・・・!

私とよね氏とは17pts差、順位が上だったほうが優勝となる展開。

最初の場決めで、私は北家、ラス親ということになりました。
地の利は我にあり! といったところ。

そしてまたしても私が大物手で先制。
しかしよね氏も手堅い攻守で追いすがります。


東4局、私の親番。
このときの点数は、私が35600点、よね氏26300点。
私の絶対的優勢。

局は始まり、私は役牌で早々に聴牌にもっていきます。
鬼ヅモ同好会ではあがり止めルールがあるので、1,500点でもあがって、久しぶりの優勝に多少の華でもそえようか・・・
なんてことは許さない鬼ヅモの諸将。

よね先生がしっかり聴牌して、立直を仕掛けてきました。
おそらくは逆転手を作ってきたに違いない・・・。

こうなれば体裁なんて整えていられません。
オリ→不聴終了→優勝のシナリオのみ。
下手に打ち合ってロンでもされようものなら、まさに宋襄の仁。
優勝のために手段など選んでいられないのです。



そして・・・


私の思惑通り?このまま和了はなく、流局へ。
私の優勝が決まった瞬間でもありました。



最終結果です。

私においては、今大会はラスが3回だけで、最大失点が△23ptsと、堅守が奏功しました。
あと、赤牌の影になりがちな全帯ヤオ系の役が出て、かなりの力になってくれた感じがしました。
そういえば純全帯ヤオって3翻ですからねぇ~強いです。



私の優勝が久しぶりということで、過去を紐解けば・・・

以前に初優勝したのは、なんと第27回大会。
今は昔のものとなってしまった取手会場で、2003年3月以来、12年ぶりのことだというのです。


私が優勝するのに、干支が1周してしまうとは・・・。
4回目の優勝を迎えるころには還暦になっているということでしょうか???



第65回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記 完

第65回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記・後編

2015-07-02 | 鬼ヅモ同好会


2 0 1 5 年 5 月 3 日 ( 憲 法 記 念 日 )

横 浜 市 某 所

第 6 5 回 鬼 ヅ モ 同 好 会 麻 雀 大 会 会 場



GWも鬼ヅモ大会も後半へ。

GW前半に発症した私の風邪は、徐々に復調へと向かいました。
そして私はふたたび横浜の会場へと向かいます。


私の不在の折も、闘いは繰り広げられており、私のスコアなどとうに抜かれているものと思いきや・・・



なんと予想外にも私がトップを守っているではありませんか!

私のスコアはご覧のとおり+45pts、トップ1、2回程度で十分逆転できるものなのですが・・・
よね先生曰く、「45ptsが思った以上の壁でしたよ・・・(^_^;)」
誰かが浮上しては、出る杭は打たれるといわんばかりに沈み、緊張感ほとばしる接戦になっていました。



出発時刻が遅くなったため、日付が変わって5月4日0時ごろ、試合再開。



一進一退の様相は変わらず。
私も体調不良の割には善戦したかな?
この日は、ポールポジションをよね先生に譲り渡して終了。

私の体調不良を考慮して、4試合で終わりとさせていただきました。すみません~(T_T)




5 月 4 日 ( み ど り の 日 )

試 合 第 4 日 目


この日より私は本格参戦。大会は後半戦となります。

一進一退、「出る杭は打たれる」展開だった状況は一変。
ついに巨魁・かつ会長が動き出します。

本日の第1試合目である第22試合目、首位&2位だったよね先生と私が3位&ラスとなり、会長がトップ。
  会長 +43  よね +41  めい +33
わずか1試合でポールポジションを奪取。

この日は会長の快進撃が続き、面々からは早くも、
「会長、優勝おめでとうございます」
なんてセリフが出る始末。



この日は会長の快進撃と、よね先生のブレーキが対照的な試合展開でした。
私はなんとかトータルで黒字を死守。
運命の最終日をむかえます。



会長は用事があるとのことで、一時帰宅しました。