鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

坂東33箇所霊場20番札所 西明寺・後編~笑う閻魔大王と立ち並ぶ仏様

2019-12-15 | 寺院仏閣


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 3 1 日 ( 日 )

午 前 8 時 4 1 分

栃 木 県 芳 賀 郡 益 子 町

独 鈷 山 西 明 寺





石段を上って、独鈷山西明寺の境内に入りました。



まず正面に現れるのは、楼門【国指定重要文化財】です。



境内の中から、斜めに見た楼門。
室町時代の後期、明応元年(1492年)に建立されたものだそうです。
茅葺き屋根を支える垂木は、放射状に配置される扇垂木
欄間の下を見ると、柱と柱の間に組み物が入っている詰組
屋根には強い反りがあります。
いずれも唐様からよう(禅宗様)と呼ばれる寺院の建築様式に則っています。




楼門の隣りに建っているのは、三重塔【国指定重要文化財】。



こちらは楼門より後れること約50年、天文12年(1543年)の建立です。
西明寺城の城主であった益子家宗によって建てられました。
塔の下層は、四方の垂木がそれぞれ平行になっている平行垂木の構造で、和様の様式となっています。
これに対し上層は扇垂木となっており、唐様となっています。
屋根は銅葺きで、反りもあって優美な造りになっていますね。




三重塔の隣りには、鐘楼【栃木県指定文化財】。
江戸時代中期の享保7年(1722年)に建立されたものだそうです。
梵鐘【栃木県指定文化財】は寛文12年(1672年)に鋳造されたもので、鐘楼ともども現役です。




本堂のある高台から眺めた楼門、三重塔、鐘楼。
桜のつぼみは膨らみ、シダレザクラは花開いているものもありますね。
境内はそれほど広くはない、むしろ小ぢんまりという言葉の方が合いそうなほどです。
それでも文化財が密集している「濃い」境内です。

そうそう、この西明寺境内【栃木県指定史跡】も文化財指定されています。




鐘楼の向かい側に建っているのが、閻魔堂【益子町指定文化財】です。
こちらは正徳4年(1714年)の建立で、閻魔大王、善童子、悪童子、奪衣婆しょうずかばばあ、地蔵菩薩の5体の仏像が安置されています。
閻魔堂の中には入れないので、窓から失礼して・・・



木造閻魔王坐像【栃木県指定文化財】、通称「笑いエンマ」です。
閻魔大王は地蔵菩薩の化身と考えられており、地蔵菩薩の慈悲のために閻魔大王が笑った表情をしているのだといいます。
閻魔大王の表情が怒りの表情に見える人は、なんらかの悪事に手を染めた人なんだとか。

大王の右にお立ちの赤い仏像は、赤い金剛書を携え無明(迷いを意味する仏教用語)を降伏させる悪童子【栃木県指定文化財】。
大王の左にお立ちの白いお顔の方は、白い金剛書を携え法性ほっしょう(事物固有の本性を意味する仏教用語)を整える善童子【栃木県指定文化財】です。
画像からは見えませんが、悪童子の後方に奪衣婆、善童子の後方に地蔵菩薩が安置されています。


いよいよ本堂【栃木県指定文化財】へ。



はじめ応永元年(1394年)に建立され、元禄14年(1701年)の大改修をうけて現在の姿となりました。
屋根は銅板葺きとなっています。

ちなみに、本堂の前に日立の「重要文化財」の看板が立っていますが、本堂は重要文化財ではありません。
本堂の中にある厨子が重要文化財です。



「西明寺」の扁額・・・私は最初読めませんでした。



幕の内側、本堂の外陣へ。お賽銭箱はこちらにあります。
外陣の天井は格子の縁がない鏡天井で、龍の墨絵が描かれています。



内外を隔てる蔀戸や板戸の上には、欄間に彩色彫刻が施されており、それぞれ鶴と仙人



天女奏楽



浮舟上の仙人が表現されています。


本堂に向かって右側に内陣に入る扉があり、ここから出入りできます。
本堂の内陣に入るには、拝観料300円を独鈷處どっこいしょで支払う必要があります。
普段は内陣の入口で検札をする係員がいるようですが、この日は朝早く誰もいませんでした。
「独鈷處」の翁に「自由にはいっていい」とのお許しをいただいていたので、靴を脱いで中へ。




午 前 8 時 5 4 分

西 明 寺 本 堂 の 中 へ




本堂内陣の様子。
内陣は自由に撮影してもいいとのことなので、仏様のお姿を有難く頂戴いたします。



まず内陣中央、観音様の後ろにある建物が、本堂内厨子【国指定重要文化財】です。
応永元年(1394年)に建立されたもので、二重の扇垂木が美しい厨子です。
外壁は黒漆で塗装されており、金色の装飾がよく映えています。
本堂内に立ち並ぶ仏様たちのうち8体は、もともとはこの厨子内に安置されていました。



厨子の正面に立つのが、御前立本尊・十一面観音立像です。
本尊とされる仏像は「秘仏」すなわち一般公開されないのが普通なのですが、西明寺さんは惜しげもなくご開帳されています。
しかも撮影OKなのですから、有難いことです。



本尊の左で、燃え盛る炎とともに立つのは不動明王像
右に立つのは、勢至菩薩立像【栃木県指定文化財】です。
「勢至」とは「大いなる勢力を得たもの」という意味で、知恵と慈悲の勢力が自在に働き出るということを表しているのだそうです。
本堂内厨子に納められていた仏像の1体です。


本尊の左側・・・



本尊に近いほうから延命観音菩薩立像【栃木県指定文化財】。
その前方に如意輪観音菩薩坐像【栃木県指定文化財】。
その斜め後方に馬頭観音菩薩立像【栃木県指定文化財】。
曼荼羅の下に目立たなくお立ちなのが毘沙門天立像【栃木県指定文化財】です。
如意輪観音像は室町時代、ほかの仏像は鎌倉時代の作といわれ、本堂内厨子に納められていました。



延命観音は文字通り、衆生しゅじょうすなわちあらゆる生き物の延命を叶える存在とされています。
西明寺の延命観音はしょう観音の容姿をしていて、はじめは聖観音像であったと考えられています。

如意輪観音は、右ひざを立て両足の裏を合わせて座る輪王座という座り方をし、6本の腕をもっています。
胸元の手のひらで如意宝珠という宝玉を握り、左肩のところにある手の人差し指には法輪という輪を持っています。
如意宝珠は福徳、法輪は知徳を表し、この功徳で衆生の苦を和らげるといいます。
6本の腕で天道、人間道、餓鬼道などの6つの世界、六道を救済するといわれています。

馬頭観音は「駿馬の首をもつもの」という意味合いを持ち、観音の中で唯一恐ろしい形相をしています。
その形相は、休むことなく疾走する駿馬の如く奔走し、衆生の救済に身命を惜しまない大いなる精神の顕れとされています。


本尊の右側は・・・



前列に准胝じゅんでい観音菩薩立像【栃木県指定文化財】で、厨子に納められていた仏像のひとつです。
後列は木造千手観音菩薩立像【栃木県指定文化財】と木造千手観音菩薩坐像【栃木県指定文化財】。
いずれも鎌倉時代の作とされています。

准胝観音七倶胝仏母しちくていぶつもとも呼ばれ、七倶胝(七千億万)もの仏を産んだとされています。
聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音とともに「六観音」の一尊とされ、その中で唯一の女性とされています。
聡明、子授け、治病などに功徳があるといわれています。



千手観音は、千の手と、それに備わる千の眼をもって、あらゆる衆生を漏らさずに救済するとされています。
「千」は「無限」を意味し、実際に「千手」である像は多くはありません。
千手観音像の手の数は42本である場合が多いようで、胸元の2本で合掌するほか、すべての手がそれぞれ異なる物を持っています。




これだけの仏像が一堂に会するのは、関東ではなかなかありません。
しかもこれらのほぼすべてが、鎌倉・室町時代作の文化財です。



貴重な体験をさせていただき、本堂を出ました。



本堂の横にある大木。

 

西明寺のこうやまき【栃木県指定天然記念物】です。
こうやまきは「高野槙」と表記し、紀州の高野山に多く生えていることからこの名があるといいます。
このこうやまきは、承元3年(1209年)宇都宮景房が本堂再建の記念として植えたものと伝わり、樹齢は800年を超えているのだとか。
これだけ長寿の木ですから、その大きさは北関東最大を誇ります。



境内にはほかにも見どころがあったのですが、私の不注意で見落としてしまいました。
西明寺の散策、リベンジが必要でしょうか???




午 前 9 時 0 8 分

ど っ こ い し ょ




納経所兼休憩所「独鈷處」に戻ってきました。



久々の記帳! 20番、西明寺!
坂東33箇所巡りも、ぼちぼち再開していかなければなりませんなぁ。


さてこの西明寺、閻魔大王のお寺にちなんで「笑いエンマの御朱印」もあるとか。
しかしこの日はその描き手がいらっしゃらなかったので、閻魔さまの御朱印はいただけませんでした。



やっぱり、西明寺は後日リベンジが必要ですね。





坂東33箇所霊場20番札所 西明寺・前編~道を歩いてどっこいしょ

2019-12-15 | 寺院仏閣


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 3 1 日 ( 日 )

午 前 7 時 3 9 分

栃 木 県 芳 賀 郡 益 子 町

真 岡 鐡 道 益 子 駅







益子駅から、焼き物の街・益子へ。
その前に、ここでも「城攻め」



西明寺城、攻略!
・・・というわけで、今回向かうのは西明寺城・・・ではありません。
「城」の字を削った、西明寺です。


西明寺は益子にある真言宗豊山派の寺院で、山号は独鈷どっこ、院号は善門院です。
坂東三十三箇所霊場第20番札所となっています。
奈良時代の天平年間(729年~749年)に行基によって開山し、紀有麻呂の開基によって創建されたといいます。
その後兵火によって何度も焼失しましたが、益子氏宇都宮氏の援助によって再建されました。





駅を出てまっすぐのびる通りを進み、突当りを左折。



栃木県道41号・つくば益子線を進みます。







益子焼の工房が建ち並ぶ、益子のメインストリート。



ちょっと目立たない所に立っている道しるべ。
西明寺への近道です。



要所要所に道しるべが立っているので、迷うことなく行けます。
向かうはあの山の上か・・・。



看板に導かれ、栃木県道262号・益子公園線へ。



県道のようには見えない、山村の田舎道ですね。



益子駅から約2.5kmのところで、路傍に「坂東第二十番霊場」の石標が見えてきました。
西明寺に到着!・・・ではなく、ここが上り坂の始まりです。
西明寺までは約600メートルほど。







進むにつれて傾斜はきつくなっていきますが、



(画像では見にくいですが)青看が見えてきて・・・



駐車場が見えてきたら、ゴールはもう少し。



最後のカーブを曲がると、



西明寺の境内に続く石段と、休憩所兼納経所である独鈷處どっこいしょが見えてきました。



ふぅ~、どっこいしょ。



【今回の移動記録】



真岡鐡道 益子駅 7時39分発
独鈷山西明寺「独鈷處」 8時31分着

*所要時間 52分
*移動距離 3.6km




午 前 8 時 3 1 分

独 鈷 山 西 明 寺 に 到 着


「独鈷處」は開錠されていて中に入れるのですが、照明はついておりませんでした。
ここでは手打ちそばをいただくことができるのだそうですが、その時刻は午前11時から午後2時までの間に限られるとのこと。
朝から何も食べないでここまで来ましたが、朝食はもうしばらくのお預けになりそうです。

「独鈷處」の隣りにある納経所も照明が灯っていませんでしたが、中には翁がいらっしゃいました。
翁にご朱印帳を提出すると、記帳しておきますので境内を拝観してから再び来るようにとのこと。
また本堂の中にも入れるというので、拝観させていただくこととしました。

ご朱印300円と本堂拝観料300円を支払い、境内へ。




「独鈷山西明寺」の石標が立つ、参道石段。
「独鈷山」の「独鈷」とは密教で用いられる仏具で、短い金属製の棒で両端が尖っているものをいうそうです。
山号の由来とはあまり関係がないのかな・・・?



参道の両側に立つのは、シイの大木です。
これらのシイは西明寺の椎林叢しいりんそう【栃木県指定天然記念物】として文化財指定されています。

西明寺はそれほど大きい寺院ではありませんが、文化財が多く存在する興味深いお寺なのです。



石段を上っていくと、重要文化財がふたつも見えてきましたよぉ~。



石段を上りきると楼門【国指定重要文化財】に出迎えられ、西明寺の境内へといざなわれます。






ときわ路パス

2019-12-15 | 鉄道の旅


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 3 1 日 ( 日 )

午 前 5 時 0 4 分

茨 城 県 取 手 市

取 手 駅



平成最後の日と勘違いした方も多かったという、平成31年3月31日。
この日も「ちばらぎリベンジ」と称して城攻めの旅に出ます。
「ちばらぎ」と銘打ってはいますが、この日はもっぱら茨城県へ。
そして「ちばら」なので、茨城県から少し足をのばし、栃木県にも行ってしまいます。




やってきたのは、わが本拠地の柏から快速で3駅の取手駅
利根川を渡って最初の駅で、茨城県では最南端の駅でもあります。
いわば茨城の端っこの駅にわざわざ降りたのは、



「ときわ路パス」を購入するためです。
お値段は、2,150円(購入当時)。
かんたんにいうと、茨城県限定の乗り放題きっぷです。
乗車できる範囲は・・・

 常磐線  取手駅大津港駅
 水戸線  小田林駅友部駅
 水郡線  水戸駅下野宮駅
       上菅谷駅常陸太田駅(常陸太田支線全線)
 鹿島線  潮来駅鹿島サッカースタジアム駅

・・・というように、茨城県より外に出ない範囲になります。
そのため宇都宮線(東北本線)古河駅は、両隣の駅が他県になってしまうために茨城県のJR線の駅で唯一ハブられています。
ときわ路パス自体も、上記の有効範囲内の駅でしか売っていませんのでご注意を。

さらにこのきっぷはJRのみならず、私鉄&三セクでも使用することができます。
具体的には・・・

 関東鉄道  常総線  取手駅下館駅(全線)
        竜ヶ崎線 佐貫駅竜ヶ崎駅(全線)
 ひたちなか海浜鉄道  湊線  勝田駅阿字ヶ浦駅(全線)
 鹿島臨海鉄道  大洗鹿島線  水戸駅鹿島サッカースタジアム駅(全線)
 真岡鐡道  真岡線  下館駅茂木駅(全線)

これらの路線も乗り放題です。
真岡鐡道真岡線で茨城県内にある駅は、起点の下館駅からひぐち駅までの4駅のみなのですが、終点の茂木駅まで利用できます。
これとは逆に、某TXとかいう路線は、茨城県内の区間であっても一切利用できません。



券売機で発券される「ご案内」。
この中での重要事項は、特急券を買えば、特急にも乗れるということです。
「ご案内」では「SLもおか」云々のことが強調されていて、特急に乗れることはサラリと記載されていますね。



ときわ路パスは私鉄にも乗れるということで、今回は茨城県内の私鉄に乗っていきましょう!




午 前 5 時 0 6 分

関 東 鉄 道 取 手 駅




JRではなく関東鉄道の改札口へ。



そうそう、このきっぷは自動改札も通れるんですよ・・・う゛!



自動改札は通れないのか!と思いましたが・・・「ご案内」をよく読みましょう。
「関東鉄道常総線各駅では、有人通路をご利用ください」とあります。
すなわち、関鉄の自動改札は通れないということですね。
あと、ひたちなか海浜鉄道、鹿島臨海鉄道、真岡鐡道には自動改札がないということも示唆しているようであります・・・。



今度の列車は、5時18分発 関東鉄道常総線 普通列車 下館行きです。
1両編成のかわいい気動車が、筑波嶺の西をひた走ります。



5時47分、水海道駅に到着。
ここまでは複線でしたが、この先は単線になります。
列車行き違いのために、数分ほど停車するようです。



水海道駅の駅名標&時刻表。
この駅を境に、列車の本数がほぼ半減してしまいます。
線路も、複線から単線となります。



誰もいねぇ!
運転手氏まで下りてしまったようで、車内は完全に貸切状態。
運転手氏は発車時刻前に戻ってきましたが、乗客は私を除いてゼロ。
常総線の車窓を誰に遠慮することもなく、思う存分楽しみましょう。




あいにくの曇り空で、筑波山が全く見えませんが・・・





関東平野のまっただ中を北上する常総線、茨城ってまっ平らなんだな~ってことを実感させてくれます。


そして忘れてはいけない「城攻め」
普段は乗らない路線なので、この機会に怠りなく・・・



この日最初の攻略は豊田城。浪人も発見し・・・



不死鳥小田氏治・・・と、その子の守治を登用できました。
このパッとしない能力値の彼が、なぜ「不死鳥」とあだ名されるのかというと・・・


氏治は、近隣の結城氏佐竹氏、そしてわざわざ関東にやってくる上杉謙信との戦にことごとく敗れ、何度ともなく居城の小田城を奪われているのです。
しかし何度も城を奪い返し城主の座に返り咲いたため、「不死鳥」と呼ばれているのだとか。

ですが常陸国統一を目指す佐竹義重との戦いは、次第に劣勢になっていきます。
氏治は北条氏政と同盟を組んで対抗、辛うじて勢力を維持していました。
そして天正18年(1590年)の小田原征伐で北条方となった小田氏は、小田原に参陣せず、豊臣方の佐竹家に対抗したことを理由に、すべての領地を没収されてしまいました。
最後は結城秀康徳川家康の二男)に客分として迎えられ、波乱の生涯を閉じました。





南石下駅を過ぎ、次の石下駅に到着するあたりで、右側の車窓にご立派な天守閣が見えてきます。
常総市地域交流センターの建物で、このあたりに豊田城があったそうです。
豊田城には天守はなかったので、現在の天守閣はまったくの作り物です。
豊田城の主であった豊田氏小田氏治と盟約を組んでいましたが、敵対する結城氏・多賀谷氏の謀略にかかって滅亡しています。



石下駅周辺は住宅地が広がっているので、「豊田城天守」がうまく撮れませんでした・・・。


6時24分、大宝駅



なかなか味のある駅舎ですね。
ここでの「城攻め」で、大宝城【国指定史跡】を攻略できました。



大宝駅を過ぎると、車窓には梨園が目に入ってきます。
梨園といっても歌舞伎じゃないですよぉ~。



次の駅は騰波ノ江駅、読みが難しいですね。
ここの「城攻め」では、関城【国指定史跡】と海老ヶ島城を攻略できました。
これらの国指定の史跡になっている城は、南北朝時代に北畠親房ら南朝の臣が下向して勢力拡大を図った際に、その拠点となりました。
親房の著作である『神皇正統記』は、これらの城に滞在しているときに記されたといいます。




梨園の風景が終わり・・・



日本ハムの工場とJR水戸線が見えてきたら、関鉄の旅はそろそろおしまいです。




午 前 6 時 4 6 分

茨 城 県 筑 西 市

下 館 駅




終点・下館駅に到着。
ここからは・・・



水戸線ではなく、その反対側・・・



6時54分発 真岡鐡道真岡線 普通列車 茂木行きに乗ります。
真岡鐡道では交通系ICカードは使えないので、ホームにある簡易改札機で精算する必要があります。



個性的な塗装の列車です。モオカ14形気動車というようです。
真岡線は、その沿線で木綿の生産がさかんであったことから「コットン・ウェイ」という愛称があります。
この塗装は「コットン・ウェイ」を意識したものでしょうね。





6時54分、下館駅を発車。
真岡鐡道の前身はJR真岡線だったからなのか、駅名標はJRのものにそっくりですね。




のどかな風景が続く中、



珍妙な駅舎が現れ、



真岡駅へ。
ここで数分停車するということなので、いったん列車の外へ。

 

SLをかたどった駅舎からは、真岡の市街地を見渡せます。
この時間は駅に人影もなく、ひっそり静まり返ってちょっと怖かった・・・。



真岡駅を定刻どおりに出発した列車は、



7時38分、益子駅に到着。
ここで下車します。




午 前 7 時 3 9 分

栃 木 県 芳 賀 郡 益 子 町

真 岡 鐡 道 益 子 駅


駅員も誰もいない益子駅のホーム。
下車したのは、私だけ。



駅のホームでレンタサイクルを借りられるようですが、まだ早朝。
係員もおらず、自転車もしっかり固定されていたため、私はあきらめて駅の外へ。

ちなみに料金は2時間400円で、以後1時間ごとに+100円、1日最大800円。
借りられる時間は、8時00分から17時までとなっています。

レンタサイクルが借りられる8時まで待っても良かったのですが、ひっそりとした肌寒い駅でただただ待つのはツラいので、今回は自分の健脚を信じて歩きます。




駅入口に置かれている巨大な壺。
焼き物の町・益子らしさが見て取れますね。



益子駅を後にして、益子の街を練り歩きます。



【今回の乗車記録】

関東鉄道 取手駅 7番線 5時18分発
常総線 普通 下館行き 1両ワンマン
下館駅 6番線 6時46分着

真岡鐡道 下館駅 1番線 6時54分
真岡線 普通 茂木行き 1両ワンマン
益子駅 1番線 7時38分着

*所要時間 2時間20分 (移動時間 2時間12分 乗換時間 8分)
*移動距離 76.2km
*運賃 ときわ路パス使用(使用しない場合、2,270円(関東鉄道 1,510円 真岡鐡道 760円))



【今回の「城攻め」成果】

常総線
5時18分 取手駅  発車
6時06分 南石下駅(取手から15駅)  豊田城(常総市)を攻略、小田守治小田氏治を登用。
6時20分 下妻駅 (取手から19駅)  多賀谷城駒城(ともに下妻市)を攻略、多賀谷重経を登用。
6時24分 大宝駅 (取手から20駅)  大宝城(下妻市)を攻略。
6時29分 騰波ノ江駅(取手から21駅) 関城海老ヶ島城(ともに筑西市)を攻略。
6時46分 下館駅  到着

真岡線
6時54分 下館駅 発車
7時07分 久下田駅(下館から4駅)  久下田城(筑西市)を攻略。
7時08分 久下田駅発車後      中村城(栃木県真岡市)を攻略。
7時13分 寺内駅 (下館から5駅)  芳賀高武芳賀高定を登用。
7時18分 真岡駅 (下館から6駅)  真岡城(真岡市)を攻略。
7時38分 益子駅 到着