鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

足利学校~閉ざされた学校門

2011-04-03 | 美術館・博物館


平 成 2 3 年 ( 2 0 1 1 年 ) 1 月 9 日 ( 日 )

午 後 4 時 4 0 分

栃 木 県 足 利 市

鑁 阿 寺 ( 旧 足 利 氏 館 )



この日の城めぐりは終了。
残った時間で歴史のまち・足利を散策してから、帰路につくこととしましょう。
といっても日没後なので、ぶらりと散策することは叶わず、チラ見程度しかできません。




鑁阿寺から南に下る小径には、その傍らに足利尊氏公の像が立っています。


尊氏公像から歩くこと2分ほどのところに、足利学校があります。



足利学校の入口に立つ入徳門
江戸幕府4代将軍・徳川家綱の治世、寛文8年(1668年)に建てられますが、天保2年(1831年)の火災で焼失してしまいます。
天保11年(1840年)に再築され、紀伊徳川家当主・徳川斉順(なりゆき)の書による「入徳」の額が掲げられました。
明治中頃に裏門を移築したものが、現在の入徳門です。

このとき時刻は午後4時45分、入徳門はまだ開いています。もしや・・・



足利学校のシンボル・学校門
入徳門と同じく寛文8年(1668年)に建てられました。


学校門はすでに閉門されており、ここで終了。


足利学校の創建については、奈良時代から鎌倉時代まで諸説あります。
足利学校が史料にあらわれるのは、室町時代の関東管領・上杉憲実が学校を再興したというところからです。
戦国時代には足利学校は隆盛し、宣教師フランシスコ・ザビエルは、「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と記録しています。
江戸時代の末期になると「坂東の大学」の役割を終え、明治6年(1873年)に閉校しました。




空は宵闇に覆われ、私は足利駅へ戻ります。

列車の出発時刻まで時間があったので、駅前で夕食をとることにしました。
夕食は、「はなまるうどん」
店内で冷やしぶっかけうどんをすすりながら、今回の旅を振り返ります。



終始、たいした物を食わない旅だったな。



日本100名城登城の旅・第5弾「攻城!関八州」 完

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8年後の足利学校「足利学校~念願の入学」に進む。


足利氏館~駆け込み参拝

2011-04-02 | 城郭【日本100名城】


平 成 2 3 年 ( 2 0 1 1 年 ) 1 月 9 日 ( 日 )

午 後 4 時 1 1 分

栃 木 県 足 利 市

J R 足 利 駅



足利駅を出ると、すでに空が暗くなり始めていました。
冬の午後4時は、危険な時間帯。
たいていの城や寺院は、閉門してしまう時刻なのです!
足利に着いたのはいいのですが、門前払いを食うだろう・・・。
空と時刻からみて半ばあきらめつつも、足利氏館跡のある鑁阿寺(ばんなじ)を目指しました。



駅から歩いて10分ほどで、到着・・・



三門太鼓橋【栃木県指定文化財】はまだ開いていました!


12世紀の半ば、足利氏の祖・源義康が居館をこの地に構えました。
建久7年(1196年)義康の子である足利義兼が伽藍を整備し、足利氏の氏寺となりました。

その後居館は消滅しましたが、氏寺は「鑁阿寺」となって現在に至ります。
寺号の「鑁阿」は、寺の開祖である足利義兼の法名からとったものです。



時刻が時刻だけに、まず優先すべきは100名城スタンプをもらうことでしょう。
100名城の本によるとスタンプは本堂にあるということで、正面に鎮座する本堂へ急ぎます。



本堂【国指定重要文化財】には50人近くの人が集まっていました。
そういえばこの日は成人の日の前日、新成人の心に期するものがあったのでしょうか。

本堂を詣でた後にスタンプのありかを探しますが、見当たりません。
本堂の脇で、お札やお守りを売っているお坊さんがいらっしゃいますが・・・この方々に申請しなければならないのでしょうか?
小心者の私は「スタンプのみよこせ」とは言えず、一番安いおみくじ(100円)購入のついでに「スタンプください」と申し出ました。



15番、足利氏館!
間に合った・・・ちなみにおみくじは中吉でした。


あとは、時間の許す限り境内を巡りました。



鐘楼【国指定重要文化財】は、三門から本堂に向かって右側に建っています。



経堂【国指定重要文化財】は、本堂から少し奥まったところに建っています。



鐘楼の対面には、多宝塔【栃木県指定文化財】。
この多宝塔のあたりに、足利家の居館が建っていたといいます。



日が没してきて、デジカメさんがうまく働かなくなってきました。
むむむ・・・こたびの城めぐりは、これにて終了。