鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

松江城登城・最終章~松江水燈路

2021-10-31 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 参 時 四 拾 伍 分

島 根 県 松 江 市

居 酒 屋 「 や ま い ち 」 前



松江の郷土料理と地酒を堪能し、居酒屋やまいちを出ました。



空は暗闇に覆われ、街灯が照らす大橋川
やまいちさんで酒を飲んでしまったので、ここからはママチャリを手押しして徒歩移動となります。
自転車とはいえ酒酔い運転をするわけにはいきませんからね。




大橋川の北を流れている京橋川は、松江城の外濠でもあります。
夜の川は街灯に照らされ、格別の美しさがありますね。
水の都・松江を、夜風に当たりながらそぞろ歩いていきましょう。





島根県庁前の広場。
松江城天守【国宝】を向いている松平直政公騎馬像



ライトアップされている松江城二之丸
この日は風もなく水濠が鏡のように実像を反射し、見事な「逆さ石垣」を見ることができました。



沿道には提灯が吊り下げられ、そぞろ歩く観光客の目を愉しませてくれます。



直政公に加え、堀尾吉晴公像もライトアップされています。
老齢の吉晴公にこのライトアップは、ちょっとお体に堪えるかな・・・と妄想。
それにしてもこの画は・・・私のスキルのなさが顕わになってしまいますなぁ。




黄色のネコ2匹が気になるところですが・・・

この日は、松江水燈路すいとうろが開催中。
松江城とその周辺が、秋の夜長に幻想的な燈火で彩られるイベントで、「神在月」の10月に行われます。
辺のに行を並べる光のイベントということで「水燈路」というのだそうです。




手作りの行燈に導かれ、松江城に入っていきます。



ライトアップされている石垣もまた、魅力。



大きめの行燈は、プロのアーティストさんの作品。
松江城の建造を指揮した「仏の茂助」堀尾吉晴さん。
吉晴さんの来歴は、こちらをどうぞ。



同じアーティストさんの作品、「山陰の麒麟児」山中鹿介さん。
松江城とは関係がない鹿介さんの来歴は、こちらをご覧ください。



こちらも同じ方の作品、堀尾忠氏さん。
お父様の吉晴公ばかりが表に立っていますが、松江藩の初代藩主はこの御方。
忠氏さんの来歴はこちらをどうぞ・・・って、当ブログでも取り上げてなかったですね。


堀尾忠氏は、天正6年(1578年)堀尾吉晴の次男として生まれました。
天正18年(1590年)兄が早世したことから、吉晴の嫡男となりました。
(異説として、忠氏は次男ではなく長男だったともいいます)
元服に際しては、徳川秀忠から一字を受けて「忠氏」と名乗りました。

慶長4年(1599年)父が隠居し、遠江浜松12万石を相続。
翌年の関ヶ原の戦いでは、父が加賀井重望の刃傷沙汰に巻き込まれて負傷したため、代わりに出陣。
徳川家康の東軍につき、前哨戦で武功を挙げて、戦後に出雲24万石を与えられ、月山富田城に入りました。

関ヶ原前の小山評定にて、忠氏は親交のある山内一豊居城の浜松城を家康に献上して家康の歓心を買う策を話したといいます。
評定の場に臨むと、一豊は忠氏の策をパクり、忠氏に先んじて居城の掛川城を献上すると宣言してしまいました。
この一豊の宣言で、去就に迷っていた諸将はこぞって家康に味方し、一豊は大きな武功を立てずして、土佐20万石を与えられたといいます。

月山富田城に入った忠氏は父と共同で藩政を運営し、また新しい城下町の形成を図って新たな城の建造を考えます。
築城の地をめぐっては父と意見を異にしましたが、忠氏の案が採用されました。
しかし慶長9年(1604年)に27歳の若さで急逝してしまいます。
子の忠晴は幼かったため、隠居の父・吉晴が復帰して藩政を主導することとなりました。
慶長12年(1607年)松江城の築城が始まり、慶長16年(1611年)正月に落成。
松江城の完成を見届け、吉晴は6月に亡くなりました。





小さな行燈を伝いながら、二之丸上の段へ。
これらの行燈は、松江市民のみなさんの手作りなのだそうです。




昼間は行燈の倉庫となっていた太鼓櫓【復元】。



櫓から出た行燈は、ほのかな光を放っています。



松江市民のみなさんによる小さな行燈。
プロのアーティストさんによる大きな行燈。
ライトアップされている明治後期の洋館・興雲閣【島根県指定文化財】。
各々がはなつ光と、見物客の影による競演。





昼間は立ち寄らなかった興雲閣を、じっくりと拝見。



夜の松江神社を詣でて、



夜の松江城本丸へ!





再びまみえた松江城天守【国宝】!
当然中には入れませんが、眺めるだけでもいいですねぇ。





夜の天守、水燈路バージョン!
出雲国の神在月、良い時季に登城できたものです。




催し物を見ながら、松江城を散策していました。





松江城のお濠の外へ。
遊覧船でめぐるお濠沿いを、ママチャリ・・・だと酒酔い運転になってしまうので、チャリを手押ししながら散策していきます。




堀尾さんがいらっしゃる広場からお濠沿いを北に歩くと、見えてくる最初の橋が北惣門橋
松江護国神社の参道にもなっています。




松江城の北側に走る通り・塩見縄手
昼間は観光客でにぎわう通りも、静寂とともにほのかな光で照らされています。

「縄手」というのは「縄のように一筋にのびた道」のことで、かつては大八車(リヤカーのことですね)1台がようやく通れるくらいだったといいます。
このあたりには、家禄50石から1000石の「中老」クラスの武家屋敷が築かれました。
50から1000って、随分と幅が広いような気もしますが。

「塩見」は塩見小兵衛さんのことだそうです。
小兵衛さんのご先祖さまは、松江松平家初代・直政公が信州松本藩主を務めていたころからの家臣で、直政公といっしょに松江に移転しました。
そしてここの武家屋敷街のほぼ中央に小兵衛さんが住んでいましたが、あるとき異例の昇進を果たしました。
その栄誉を称え、この小道は「塩見縄手」と呼ばれるようになったそうです。



夜のために閉門されている武家屋敷【松江市指定文化財】。
小兵衛さんが住んでたかどうかはわかりませんが、江戸時代当時のまま残っている唯一のお屋敷です。



塩見縄手ぞいの蕎麦屋「八雲庵」
ここには寄りませんでしたが、翌日店名が似ている出雲市内の蕎麦屋さんに行く予定。



小泉八雲旧居(ヘルン旧居)【国指定史跡】。
ギリシア生まれの明治の文豪・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が5ヶ月の間住んでいました。




松江城のお濠回りを散策し、



翌日お世話になる一畑電車さんの松江しんじ湖温泉駅に立ち寄りました。
あらかじめ一日乗車券を購入しておこうと思いましたが、当日でないと購入できないとのことでした。
この日は駅の場所を確認するだけにとどめました。




宍道湖沿いを歩きます。









翌日帰路に就くので、今宵は松江の最後の夜。
心地よい涼風に酔いも醒めていき、水と光に彩られた美しい松江の夜を愉しむのでした。



否、今宵が松江の最終夜ではなかったのです。





松江城登城・第2章~登閣!国宝天守

2021-09-28 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 弐 時 廿 弐 分

松 江 城 天 守





やって参りました、松江城天守【国宝】!

江戸時代以前から現存している天守は、全国でも12棟しかありません。
そのうち国宝に指定されている天守は5棟で、東から順に松本城、犬山城、彦根城、姫路城、そしてこちら、松江城であります。

わが城攻め旅では、国宝4天守は制覇したのですが・・・
(姫路城の天守は、修復工事のために入れていませんが)



平成27年(2015年)7月8日に松江城が国宝に指定され、私にとってはぜひとも訪れなければならない城だったのです。


国宝たる天守にもう少し近づきましょう。

 

森永ハイソフト「日本の名城」カードの画角です。
松江城の天守もなかなかの迫力ですなぁ~、そしてなにより・・・美しい。
屋根が形作る三角形・入母屋破風いりもやはふが、どっしり構える望楼型天守に優美さを加えていますね。

しばし足を止め、天守をじっくり眺めていました。
こんなに天守を見ていたのは、松本城以来かも。
それくらいに私は、この松江城天守に魅せられていたのでした。





天守の中へ。
天守に付属している南西附櫓【国宝】から入ります。



入城料は、大人680円。
松江城周辺の史跡である小泉八雲旧居【国指定史跡】や武家屋敷【松江市指定文化財】との共通券もありましたが、今回はその2ヶ所には訪れる時間がなかったので、松江城だけの入場券を購入しました。
そして天守入口の受付にて・・・



64番、松江城!・・・あっ・・・。
やってしまった・・・試押しを何度もやったのに、本番でミスをするとは・・・。



64番、松江城!
絵柄はもちろん、この天守。
画角は、森永さんのカードとほぼ同じですね。




午 後 弐 時 廿 七 分

天 守 の 中 へ




附櫓から中に入ります。
靴を脱ぐ三和土たたきの場所に、石打棚が据えられています。
附櫓に侵入してきた敵兵を射撃するための足場になっているそうですが・・・画の角度が悪すぎて、よくわかりませんなぁ。





次いで天守の地階へ。
地階は塩蔵として用いられていたようです。
昭和の解体修理で発見された塩札から、この塩蔵には有事に備えて塩俵25俵が納められていたと考えられています。

また、地階には井戸があります。
塩蔵とともに有事に備えたものといえます。
天守の中にある井戸といえば、浜松城の天守もこれに該当しますが、松江城、浜松城のどちらも堀尾吉晴の手がけた普請であるということが興味深いですね。
現存天守のなかで天守内に井戸があるのは、この松江城だけ。



ついつい覗いてしまう、井戸の底。
かつては24メートルもの深さがありましたが、現在は半分が埋められているのだそうです。



地階の柱に打ち付けられている、祈祷札・・・のレプリカ。
「奉讀誦如意珠洼長栄処」と筆記されているようですが・・・(ちょっと自信ありません)
それより重要な記述が、「慶長十六年 正月吉祥日」というもの。
平成24年(2012年)の調査で、この祈祷札が地階の柱に打ち付けられていたことが判明し、松江城天守の落成時期が慶長16年(1611年)の正月と特定されました。
築城を手がけた堀尾吉晴は、松江城の完成を見ることなく亡くなったと考えられてきましたが、この発見により、吉晴は松江城の完成を見た後で6月に亡くなったこともわかりました。




石垣があらわになっている地階から、上層階へ。



階段の角度チェック。
松江城の階段は、傾斜約50度ほど。
戦乱の火種が残っている江戸時代初期の城郭建築らしく、敵兵が上りづらい傾斜になっています。

 

松江城の柱には、番付と呼ばれる符号が残っています。
1階のこの柱には「十ノ九下」と彫り込まれており、建物を組み立てる際の整理番号として用いられたと考えらています。
彫込みの番付は、地階から2階までの柱で9か所確認されているそうです。
もっとよく見ればよかった・・・。




午 後 弐 時 参 拾 八 分

天 守 弐 階


天守の2階は、武具や史料の展示スペースになっています。
こういうところの展示物はたいていはレプリカなので、軽く確認して通過かな~と考えていました。



紺糸威こんいとおどし具足大身槍が展示されていますね~。
なになに、後藤又兵衛所用?!
軍師・黒田官兵衛と、その子で福岡藩主となった黒田長政に仕えた猛将の武具が展示されています。
又兵衛は長政とそりが合わず、黒田家を出奔して豊臣秀頼に仕え、大坂の陣で戦死するのですが・・・又兵衛の武具がなんで松江にあるのでしょうか?

案内板の記述によると、又兵衛の弟が武具をもって脱出し、親戚の土岐氏に身を寄せたのだそうです。
土岐氏は松江藩士として仕え、又兵衛の武具を継承していったのだといいます。




午 後 弐 時 四 拾 参 分

天 守 参 階




2階から3階に上る階段。
ここの柱は、2フロアを貫いていて立っていることがわかります。

松江城の特徴のひとつに、通し柱というものがあります。

江戸時代の初期は、関ヶ原の戦いの戦功で新しい領地を得た多くの大名が、統治の本拠地となる城郭を改修、新築しました。
そしてこの時期に流行したのが、豪奢な天守閣。
長くて太い材木が不足したため、松江城の建造においては、短めの材木を使わなければならなかったのです。
松江城の天守では308本もの柱が利用されていますが、天守の上から下までを貫く心柱は1本もなく、2階分を貫く通し柱が96本配置され、天守を支えています。

建築時期の特定とともに、この通し柱の構造が解明されたことも、松江城天守が国宝に指定された要因となっています。



松江城の階段は、1階から4階まではを材料としています。
桐は防火や防腐に優れて軽いので、タンスの材料によく使われます。
平時においては長持ちするのと同時に、有事においては簡単に取り外しができるという利点があるようです。

階段下にある太鼓は、二之丸の太鼓櫓で使用されていたもので、レプリカではないそうな。
また、松平直政大坂冬の陣・真田丸の戦い真田信繁(幸村)からもたらされた軍扇も展示されているのだとか。
もっとしっかり見ておけばよかった・・・。




3階正面にある花頭窓



この部分の窓です。
実用性重視の松江城天守ですが、この花頭窓にはその意味合いはなく、もっぱら装飾を目的としています。




午 後 弐 時 四 拾 八 分

天 守 四 階




西側の空間には箱便所が置かれていたのだといいます。
藩主用のものだったといいますが、このように天守内に便所があったのは珍しいものだそうです。




最上階への階段。
木材は、1階から4階までの階段に用いられた桐ではなく、栗の木が用いられているそうです。
途中に踊り場が設けられていて、これまでの階段とは趣を異にしていますね。




午 後 弐 時 伍 拾 分

天 守 最 上 階


天守最上階は「天狗の間」とも呼ばれ、どの方向からも松江の城下町を見下ろすことができます。
最上階の柱は端整に製材され、太さも均一に揃えられているそうです。



文部科学大臣による国宝指定書も、最上階に掲げられています。


関ヶ原の戦いの後に出雲松江藩24万石の藩主となったのは、堀尾忠氏でした。
忠氏は当初月山富田城【国指定史跡】を本拠地としていましたが、狭い山地にある当地では城下町の形成に限界があったため、宍道湖を見下ろす亀田山に築城する計画を立てます。
しかし忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で急死、子の忠晴が後を継ぎますが幼年であったため、



隠居していた父の吉晴が後見人として藩政に当たることとなりました。
慶長12年(1607年)亀田山に築城が始まりました。
慶長16年(1611年)正月、松江城の落成を見届けた吉晴は、この年の6月に69歳で亡くなります。
その後寛永10年(1633年)堀尾忠晴が跡継ぎを残さずに死去したため、堀尾家は3代で改易となってしまいました。

寛永11年(1634年)京極忠高が若狭小浜藩(福井県)から26万石で加増、移封されました。
忠高により松江城の三之丸が造営され、松江城の全容が完成します。
しかし寛永14年(1637年)忠高は跡継ぎなく没したため、京極家は一時断絶してしまいます。
(のち忠高の甥・高和により再興され、丸亀藩(香川県)主として丸亀城の改築を手がけることとなります)



寛永15年(1638年)松平直政が信濃松本藩(長野県)より18万6千石で松江に入りました。
以降明治維新まで、松平家が松江藩主を務めました。

明治8年(1873年)の廃城令により、天守を除く建造物は払下げ、撤去されてしまいました。
天守も180円で払い下げられましたが、出雲の豪農・勝部栄忠しげただ・景浜父子や元藩士・高城たかぎ権八らが買い戻したために、解体を免れることができました。

昭和10年(1935年)当時の国宝保存法に基づき、松江城天守が国宝に指定されました。
昭和25年(1950年)国宝保存法が廃止されて文化財保護法が施行されると、松江城天守は重要文化財に指定されます。



平成27年(2015年)天守は国宝に指定され、現在に至ります。



「天狗の間」と称される最上階から、松江の街を見下ろすとしましょう。



南側。

手前に見える洋館は、二之丸に建っている興雲閣【島根県指定有形文化財】。
明治36年(1903年)に完成した建物で、当初は明治天皇巡幸のおりの行在所あんざいしょとなる予定でした。
その後明治天皇の巡幸は実現しませんでしたが、明治40年(1907年)皇太子・嘉仁親王(のちの大正天皇)が山陰を行啓されたときに、御旅館としてご滞在されました。

興雲閣の後方、旧三之丸には島根県庁舎
その後方には松江の城下町、そして恵みの宍道湖が広がっています。


そうそう、「城攻め」も忘れずにしておきましょう。



日本100名城・第64番、松江城攻略!



松江城の南西にあった荒隈あらわい、同じく北にあった白鹿しらがも攻略できました。


引き続き、松江の城下を見下ろします。



北側は山がちな地形になっています。
中央の松江北高校より右後ろ側にある山が白鹿山で、ここに白鹿城が建っていました。
白鹿城は尼子氏に与する松田氏の居城で、日本海から島根半島を経て月山富田城へ至る補給路の中継地でもありました。



南西側。
宍道湖に西日が射していますね。
画像右側の小高い丘にあったのが、荒隈城です。
永禄5年(1562年)毛利元就月山富田城攻略のための本拠地として築きます。
宍道湖の目の前ということで、宍道湖・中海の水運を監視できるとともに、白鹿城を経由する月山富田城の補給路にも影響を与えることができました。
月山富田城の攻略後、荒隈城は廃城となったようです。
松江城を建てる前、堀尾吉晴は荒隈の地に新たに城を築くべきと主張したといいますが、子の忠氏の「荒隈では城域が広すぎて、現状の石高では手に余る」という意見を容れたため、荒隈の地に再び城が築かれることはありませんでした。




なぜか気になる天井の棟札を確認し、天守から下りました。




午 後 参 時 弐 分

松 江 城 本 丸




西側からの天守&附櫓。



北西側からの天守。



やっぱり南西からの天守&附櫓が、一番画になりそうですね。




午 後 参 時 七 分

松 江 城 二 之 丸

松 江 神 社


本丸を退去し二之丸に戻ってみると、興雲閣の前に鎮座する神社に、長蛇の列ができていました。
どうやら御朱印を頂戴するための行列のようです。



列に並ぶ前に、まずは参拝。



なんだか今にも朽ち果ててしまいそうな感じのする手水舎【移築現存】。
説明書きによると、寛永16年(1639年)に建築されたもので、明治32年(1899年)に松江城二之丸に移築されたもののようです。

・・・そうだったのですか、朽ち果ててしまいそうなんて失礼なことを考えちゃいましたね。



奉拝、松江神社!
松江神社・・・だったんですね、御朱印を頂戴して初めて社号がわかりました。
「松江」の名を冠しているわりには小規模な(失礼)神社ですが、松江城が国宝指定されるきっかけとなった祈祷札は、この神社で発見されたものです。



御朱印を求めるために30分近く行列に並び、





松江城を退去した時には、時刻は午後3時半を回っていました。





松江城登城・第1章~うんぱく3城制覇?

2021-09-28 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 壱 時 参 拾 参 分

島 根 県 庁



日本100名城登城の旅・第22弾「縁結び祈願のたび」の最大の目的地・・・



松江城【国指定史跡】にやって参りました。
早くも、平成27年(2015年)に国宝に指定された天守にお目見えしております。


さて、私をここまで運んでくれたママチャリさんを、どこに停めたらいいのか・・・?
水濠を挟んで松江城の対面にある島根県庁のあたりで、駐輪場を探していると・・・



一体の騎馬像を発見。





天守を仰ぎ見る騎馬像は、松平直政公騎馬像(初陣像)です。


松平直政は、慶長6年(1601年)松平秀康の三男として誕生しました。
松平秀康は徳川家康の二男なので、直政は家康の孫、2代将軍秀忠の甥にあたります。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に出陣し、真田幸村が守る真田丸の攻略を担当しました。
このときの戦いぶりを見た敵将の幸村は、大いに感心して自らの軍扇を投げ渡したといいます。
翌20年(1615年)の大坂夏の陣にも参戦、兄の忠直の指揮下で活躍しました。

戦後の元和2年(1616年)上総姉ヶ崎藩(現在の千葉県市原市)に1万石の所領を与えられ、大名となります。
寛永10年(1633年)には信州松本藩7万石に移封されます。
国宝に指定されている松本城の天守に月見櫓が増築されますが、これは直政の手によるものです。

寛永15年(1638年)出雲松江藩18万6千石に加増、移封されます。
以後松江藩は、明治維新まで松平家が治めることとなりました。





軍馬にまたがる直政公の視線の先、松江城の本丸へと向かいます。



ママチャリにまたがって、大手門跡へ。
その手前の広場には、もう1体の銅像が立っています。



本丸を指し示す堀尾吉晴公像


堀尾吉晴織田信長に仕えて、上官となった木下秀吉(豊臣秀吉)とともに立身出世を遂げた武将です。
永禄10年(1567年)の稲葉山城攻略戦では裏道の案内役を務め、秀吉の軍勢を城内に導いたといいます。

吉晴は「仏の茂助」と称されるほど穏やかな人柄であったといい、そのためか敵軍との交渉役や味方内のの調整役を務めることもありました。
天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の切腹を見届け、秀吉死後は「三中老」のひとりとして徳川家康石田三成・前田利家らの対立を調整しました。
(なお「三中老」は実在しなかったというのが、現在では有力な説となっています)

慶長4年(1599年)老齢を理由に隠居し、家督を嫡子・忠氏に譲りました。
翌年の関ヶ原の戦いでは親子ともに徳川方につき、戦後忠氏は出雲24万石が与えられました。
当初の本拠地は月山富田城でしたが、城下町の形成に有利な亀田山に築城する計画を策定します。
慶長9年(1604年)忠氏が急逝し、吉晴の孫・忠晴が後を継ぎますが、幼年のため吉晴が後見することになります。
慶長16年(1611年)正月、亀田山に築城された松江城が落成し、その年の6月に亡くなりました。




銅像の吉晴公は、松江城の築城を指図しているところでしょうか。
築城が始まった慶長12年(1607年)で、吉晴公は御年65。
彼が精励するこの銅像は、老将の力強さとともに、嫡子の急死で楽隠居できなくなったという、ある種の悲壮感をも表現しているかのようですね。




戦国の世を生き抜いた堀尾吉晴の城・松江城に入りましょう。
こちらの大手門跡から、ママチャリに乗ったまま入城することができます。



路傍には、広告のような立て看板が並んでいます。
そういえば宿屋でぼんやりニュースを見ていたら、松江水燈路とかいうお祭りをやっているとか言ってたな・・・それかな?




二之丸下段の空間。
最初は2棟の米蔵があっただけでしたが、備蓄の必要から米蔵は増築されていきました。



二之丸下の段の脇に駐車場があり・・・ってことは、自転車どころか自動車まで城内に入ることができるようですね。
駐輪場はぶらっと松江観光案内所の脇にあるということで、ママチャリさんとはしばしのお別れ。
案内所に立ち寄って、パンフレットを入手するとともに・・・



登閣記念 国宝天守・松江城!・・・の御城印(300円)を、また登閣してもいないのにゲット。
3つの家紋は松江藩主を務めた3家のもので、最初に藩主を務めた堀尾家「分銅紋」、次いで藩主を務めた京極家「平四つ目ゆい、その後を受け明治維新まで藩主を務めた松平家「三つ葉葵」です。



うんぱく3城制覇!
(いずも)国の月山富田城【国指定史跡】に松江城【国指定史跡】。
耆(ほうき)国の米子城【国指定史跡】。
3つの御城印がそろったことで、「うんぱく3城御城印めぐりキャンペーン」への応募権を獲得!
さっそくこの場で応募しましたが、その結果はまた、別の話ということで。





大手道にそびえ立つ、二之丸の石垣。
いい画ですねぇ~、圧巻です。
2棟の櫓は、右が太鼓櫓【再建】、左が中櫓【再建】。



太鼓櫓下の石垣。
端整な算木積み、そして美しい扇の勾配ですねぇ。



二之丸上段へと続く三ノ門跡の石垣。
くさびを打ち込むために穿った矢穴がくっきり。



石をよく見ると、堀尾家の家紋「分銅紋」が描かれているものもありますね。





三ノ門跡を経由して、二之丸上段へ。



時を知らせる太鼓が置かれていたという太鼓櫓【再建】。
他の櫓とは異なってひさしが据え付けられているのは、人の出入りが比較的多かったからでしょうか。



こちらは中櫓【再建】。
幕末の図面では「御具足蔵」と記されているので、武具の保管庫であったものと考えられています。



二階建ての南櫓【再建】。
幕末の図面では「御召し蔵」とあったようです。
二階建てで城下町の方向を向いていたため、その監視をする役割があったものと考えられています。



この日の櫓の役割は、燈籠の保管庫といったところでしょうか。



南櫓付近からの眺め。
島根県庁のあるところは、松江城の三之丸にあたります。


本丸に上る前に・・・



石垣を見て回ります。



メインディッシュの天守【国宝】は次回で・・・。



荒々しい野面積みの石垣です。



こういう天守の画も、悪くありませんねぇ~。

 

松江城にも人柱伝説があるようです。
難工事だったことを物語るような石垣ですね。





二ノ門跡





一ノ門【再建】を経て、



ついに天守とご面会へ・・・!





月山富田城登城・最終章~七曲りを上る

2021-01-26 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 壱 日 ( 月 )

午 後 弐 時 廿 九 分

島 根 県 安 来 市

月 山 富 田 城 山 中 御 殿 址





月山富田城【国指定史跡】の登城は、中枢の郭である御殿(なり)まで到達しました。



城全体からみたら、このあたり。
残るは山の上にある郭だけ、といったところです。



さあ、眼前に迫る七曲りを上っていきましょう。



坂の中腹に到達。
このあたりには山吹井戸という水源があり、現在もこんこんと水が湧いています。
ここで山ろくへと振り返ってみると・・・



先ほどまで立っていた御殿平ひとつ名も知らぬ郭があって、小屋が復元された花の壇まで見ることができます。



山上まであと少し。
七曲りは、ふもとから山上まで約100メートルの標高差を約550メートルで上っていきます。
観音寺城竹田城鳥取城と、山城を連日踏破してきた身。
両脚に疲労がたまっているものの、昨日までの登山に比べたら高さもそれほどないし、なにより道が整備されているので、難なく上ることができました。



上り始めてから約10分、

 

七曲りを踏破し、山上の西袖ヶ平に到達しました。



ふもとに振り返ると、山下の郭群から飯梨川、そして広瀬の城下町まで見渡すことができます。



北側に目をやると、菅谷口にある集落が見えます。
私は最初、ここが新宮谷だとカン違いしていましたが、新宮谷はこの画像の右側、もう少し山あいにあります。
新宮谷は、尼子家の精鋭部隊・新宮党の居館があったところです。
新宮党は尼子経久の二男・国久が率いていましたが、その武勇をかさに着て傲慢な振る舞いが多かったため、尼子晴久(経久の孫)によって粛清されてしまいます。



西袖ヶ平にそびえ立っている三ノ丸
郭は段々の石垣によって囲まれ、段丘のようになっています。
戦時に通路として利用したり敵を待ち構えるために、段状になっていると考えられています。
あるいは、高石垣を築く技術がまだ伝わっていなかったからだとも。



七曲りを踏破してすぐそばに見える、三ノ丸への入口。
七曲りから来た攻め手は、左へ少し進んで回り込むようにして入る必要があります。
攻め手の勢いを削ぐ構造になっていますね。

階段を上って、三ノ丸、そして二ノ丸へと進みます。


  (楕円は三ノ丸と二ノ丸)

三ノ丸に到達。
なにやら鳥居がありますね。



飯梨川の下流方向を眺めます。
川が合流する中海島根半島まで見えます。
天候に恵まれれば、境港の街と弓ヶ浜半島日本海、そして隠岐島まで見えるそうです。
月山富田城が難攻不落の防御力とともに、宍道湖・中海の水運を抑えるのに適していたことがわかります。



月山富田城を攻めた大内義隆が布陣した京羅木(きょうらぎ)
どの軍勢も、月山富田城を力攻めで落とすことはできませんでした。



一段高くなっている郭は、二ノ丸です。
発掘調査では建物や柵、塀の柱穴の痕跡が確認されており、建物1棟が復元されています。
そこからは、備前焼の世紀末大革命恋愛大皿瓶が3つ出土しており、攻城戦の際に水を貯蔵しておくための建物だったと考えられています。

 

二ノ丸と本丸を隔てる大堀切
深さは約10メートル、幅は約20メートルとかなりの規模。
二ノ丸から本丸へは、直接進むことはできません。




西袖ヶ平に戻り、階段を上らずにふちを進んでいきます。



さきほどの大堀切を上り、

 

本丸に到達しました。



本丸から二ノ丸を見ると、こんな感じです。
堀切の両岸には石垣が施されています。




本丸の眺望のよさそうなところには、山中幸盛塔が立っています。
明治時代に立てられた、山中鹿介幸盛の慰霊塔だそうです。



その先には、勝日高守神社が鎮座しています。
出雲大社の神様・大国主命(おおくにぬしのみこと)をお祀りしていて、尼子時代においては城の祭神でもありました。
神社が鎮座するこのあたりが、月山の山頂にあたります。

山中公は、三日月に「七難八苦を与えたまえ」と祈願しましたが・・・
軟弱者の私は、七難どころか一難もないよう神社にお詣りしました。



それでは、本丸まで到達したということで・・・「城攻め」!



日本100名城・第65番、月山富田城攻略!

 

尼子の精鋭部隊が居住した新宮党館跡【島根県指定史跡】と、毛利元就が月山富田城を攻略する際に築いた陣城・勝山城も攻略できました。



「出雲の謀聖」尼子経久



「毛利両川」・軍略の吉川元春



「山陰の麒麟児」山中鹿介



合計12名の武将を発見、全員登用しました。
時代順に、一気に紹介していきましょう。


尼子久幸は経久の弟で新宮党を最初に率いた人物ですが、天文9年(1540年)から10年までの吉田郡山城の戦いで、退却する際にしんがりを務めて戦死しました。
尼子晴久は経久の孫で、経久の後を継いで尼子家を盛り立て、その最盛期を現出しました。
しかし晴久は急死し、その後を継いだ尼子義久は台頭してきた毛利家に追いつめられ、ついには居城の月山富田城に攻め込まれてしまいます。
重臣の宇山久兼は斜陽の尼子家を献身的に支えましたが、毛利の離間の計にかかった義久によって殺されてしまいます。
その後義久は降伏を余儀なくされますが、山中鹿介立原久綱らはこれをよしとせず、新宮党の遺児・尼子勝久を担ぎ出して尼子再興軍を結成します。
再興軍は出雲国を席巻し月山富田城に攻めかかりますが、このとき城将を務めた天野隆重は奮戦してこれを撃退。
最終的に尼子再興軍は、毛利家の山陰方面総司令官となった吉川元春により滅ぼされました。
元春の後を長男の吉川元長、次いで二男の広家が継いでいくこととなります。



 

月山富田城の本丸で、しばしの休息。
対岸に拓けた、広瀬の城下町をゆっくりと眺めていました。




午 後 参 時 参 拾 六 分

安 来 市 歴 史 資 料 館 前


本丸から約20分ほどで、ふもとの安来市歴史資料館前に戻りました。



資料館の裏手にある、ちょっとした広場。
千畳(なり)の足元に、安来市が設置した石碑が立っています。


月山富田城の築城時期はわかっておりませんが、保元・平治年間(1150年代後半)に平景清が築城したとの伝承があります。
鎌倉時代、承久3年(1221年)の承久の乱の戦功により、佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり、月山富田城に入っているので、このころには月山富田城が存在していたことになります。

室町時代に入ると佐々木道誉(京極高氏)が出雲国の守護となり、出雲国は京極氏の領国となります。
山名氏に領国を奪われていた時期もありましたが、元中8年(1391年)以降は京極氏が守護となりました。
明徳3年(1392年)尼子持久が出雲の守護代に任じられ、以後尼子氏が守護代を歴任していきます。

戦国時代になると尼子経久が台頭し、出雲国は次第に尼子氏の領国となっていきます。
その後を継いだ経久の孫・晴久は、天文12年(1543年)大内義隆率いる大軍を撃退し(第1次月山富田城の戦い)「八ヶ国守護」とうたわれるまでに勢力を拡大していきます。
天文23年(1554年)晴久は専横甚だしい精鋭部隊・新宮党を粛清し、支配体制の刷新を図ります。
しかし晴久はその途上で急死、後を継いだ義久は体制固めの最中で、台頭してきた毛利元就との闘いを余儀なくされてしまいます。
元就は巧みに調略の手を伸ばして領内の国人(在地の武士)を次々に寝返らせ、永禄8年(1565年)義久はついに月山富田城に追いつめられてしまいました。
第1次月山富田城の戦いに参陣して惨敗した経験のあった元就は、時間をかけてじっくりと兵糧攻めを行い、さらには重臣に調略の手を伸ばします。
永禄9年(1566年)尼子義久はついに降伏、月山富田城は毛利家の支配下となったのでした。

永禄12年(1569年)尼子勝久山中鹿介らが率いる尼子再興軍が出雲国を席巻し、月山富田城も落城の危機に陥りました。
城代の天野隆重はよく持ちこたえ、元亀元年(1570年)毛利軍本隊が援軍に来たため、尼子再興軍は敗退しました。
その後は吉川元春が城主を務め、その死後は吉川広家が継ぎました。

豊臣秀吉が天下統一を果たすと、広家はあらためて東出雲、隠岐、西伯耆に領地を与えられました。
広家は山に近い月山富田城から、海に近い米子城【国指定史跡】への移転を計画します。
しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで宗家の毛利輝元が敗れると、広家は岩国へと移ることとなりました。

広家の後を受けて領主となった堀尾吉晴も、はじめ月山富田城に入りましたが、宍道湖のほとりに松江城【国指定史跡】の築城を始めます。
慶長16年(1611年)吉晴の死後、孫の忠晴の代になって松江城が完成すると、月山富田城は廃城となりました。





この広場にも、月山富田城の模型があります。
資料館の中の模型よりも広範囲で、城域の地形がよくわかります。



今回の月山富田城の登城ルートは、こんな感じです。
そういえば大土塁など、見ていない遺構も少なからずありますね。





帰りは富田橋を渡り、



安来市民病院へ。



安来市コミュニティバス「イエローバス」に乗車して、



JR安来駅へと戻っていきました。



【今回のバス乗車記録】

安来市広域生活バス 市立病院前 16時01分発
広瀬=米子線 安来駅経由 吉佐入口行き
安来駅構内バスのりば 16時25分着

*所要時間 24分
*運賃   200円





月山富田城登城・第2章~月に祈る

2021-01-26 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 壱 日 ( 月 )

午 後 壱 時 四 拾 九 分

島 根 県 安 来 市

安 来 市 歴 史 資 料 館



 

安来市歴史資料館にて、100名城スタンプと御城印をいただきました。
パンフレットももらったので、これより月山富田城へ討ち入ります!



当時の月山富田城の登城口は3つありました。
ひとつは赤い矢印御子守口で、月山富田城の正面口にあたります。
もうひとつは北側にある黄色の矢印菅谷口
いまひとつは南側の黄色い円一帯からつづく塩谷口です。

永禄8年(1565年)からの第2次月山富田城攻防戦では、御子守口を毛利元就、菅谷口を小早川隆景(元就の三男)、塩谷口を吉川元春(元就の二男)が攻め立てました。
いっぽう御城印に描かれる山中鹿介幸盛は、塩谷口の防衛を担当していました。




歴史資料館の裏にある1基の墓。
尼子経久の三男・塩冶(えんや)興久のものと考えられています。

尼子経久の出雲支配に対する大きな壁となっていたのが、西出雲に勢力を保持する塩冶氏でした。
経久は塩冶氏に対し三男の興久を養子に送り込むことに成功しましたが、興久は反尼子勢力に取り込まれてしまいます。
享禄3年(1530年)ごろ、ついに興久は父・経久に反旗を翻し、内乱は出雲国一帯に広がりました。
不利な状況に追い込まれた経久は、敵対している大大名の大内義隆に援軍を要請。
大内軍はこれに応えたため、興久の陣営は次第に追い詰められていきます。
興久は妻の実家である備中(岡山県)甲山(かぶとやま)へ逃れるも、天文3年(1534年)に自害してしまいます。



 

伝・塩冶興久の墓から続く登城口から、中に入ります。
史実上の3つの登城口とは異なるルート・・・史跡整備にあたって貫通された道でしょうか。

 

最初の坂を上って分岐点を曲がると、馬乗馬場が広がっています。



高台から馬場全体を眺めます。
切り立った崖の上に整備された、広くて平らな土地。
月山富田城の広大さを物語っていますね。


 

馬場の反対側は、千畳平
最も城下に近い郭です。



よく見ると、斜面に石垣が施されていますね。



千畳平からの眺望。
現在は飯梨川(富田川)の川向うに市街地が形成されています。
月山富田城があったころは飯梨川の手前側に城下町があり、また川は広瀬寄りを流れていました。
月山富田城の廃城後に川手前の城下町は荒廃し、江戸時代に発足した広瀬藩の城下町が新たに川向うに形成され、現在に至っています。


 

次の郭は、太鼓壇
尼子氏が城主のときは、太鼓を打ち鳴らして合図を送る場所だったといいます。
現在では桜の木々が植わっており、花見の名所になっているのだそうです。



ここから眺める馬乗馬場は、なかなかに端整ですね。



桜の木に囲まれて立つ山中鹿介幸盛像


山中鹿介幸盛は、天文14年(1545年)ごろに現在の島根県安来市広瀬町に生まれたと考えられています。
鹿介の前半生や出自は不明な点が多いのですが、山中家は尼子家の家老を務め、尼子家の一門衆だといわれています。
鹿介の幼少期は、父が早世していたために生活は貧しく、母一人の手で育てられたといいます。
若いころから尼子家に仕え、戦いに従軍。
16歳ときには菊池音八という豪傑を一騎討ちで討ち取るなどし、武名を挙げていきました。

このころ毛利元就は弘治3年(1557年)に大内義長を滅ぼして周防・長門国(山口県)を攻め取りました。
いっぽう尼子家は、尼子晴久が永禄3年(1561年)に急死して、子の義久が跡を継ぐも、毛利家が次第に尼子家を圧迫していきました。
元就は月山富田城までの経路にある拠点を確実に押さえていき、また月山富田城の周囲の城郭をしらみつぶしに落としていき、永禄8年(1565年)月山富田城は孤立。
ついに毛利軍の総攻撃が始まりますが、すべて退けました。
元就は力攻めから兵糧攻めに切り換え、また謀略を仕掛けて内部分裂を図りました。
鹿介は品川大膳との一騎討ちに勝利するなど気勢を吐きましたが、戦況を好転させるには至りませんでした。
永禄9年11月(1567年1月)尼子義久は毛利元就に降伏、大名としての尼子家は滅亡しました。



「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」
鹿介は三笠山にかかる三日月に祈り、尼子家再興を誓ったといいます。

永禄11年(1568年)京都で僧となっていた尼子新宮党の遺児・尼子勝久と出会い、還俗させます。
ここに尼子家再興の闘いが始まります。

永禄12年(1569年)毛利元就が九州へ出兵している隙を狙って、石見・出雲(島根県)で挙兵。
かつての尼子家の家臣団も集結し、奪われた月山富田城へと攻めかかりました。
難攻不落の月山富田城は容易に攻め落とせませんでしたが、尼子再興軍の勢力は山陰地方一帯に広がっていきます。
元亀元年(1570年)元就は大軍を送り込み、さらに直属の水軍も派遣し、翌年ついに最後の拠点を陥落されてしまいました。

鹿介は捕らえられますが、但馬国(兵庫県北部)へ逃亡。
但馬山名家の支援の下、勝久とともに尼子再興軍を再結成し、因幡国(鳥取県)へと攻め込みます。
一時は名城とうたわれる鳥取城若桜鬼ヶ城を勢力下におさえます。
しかし山名家はここで毛利家と盟約を結んでしまい、尼子再興軍は因幡で孤立してしまいます。
毛利の大軍に若桜鬼ヶ城を攻められ、今度は織田信長のもとに逃亡します。

鹿介らは織田家の武将として戦い、明智光秀丹波攻略戦などで戦功を挙げました。
そして羽柴秀吉のもとで中国攻めに従軍することとなり、よたび毛利軍と対峙することとなります。
鹿介らは播磨国(兵庫県)西部の上月(こうづき)を拠点とします。
しかしここで別所長治が信長に謀反したため、秀吉軍団は播磨国に孤立してしまいます。
そんな中で、毛利軍が大挙して上月城を攻めてきました。
秀吉は信長に上月城への援軍を乞いましたが、信長はこれを拒絶して別所の鎮圧に援軍を充てるように厳命しました。
信長の方針に逆らうことのできない秀吉は、上月城への援軍を退くこととなり、上月城は孤立無援となってしまいます。
天正6年(1578年)4月、上月城は降伏。
「七難八苦」そのものであった鹿介の生涯はここに終わり、尼子家の再興は夢と散ったのでした。



鹿介の生涯に想いを馳せつつ、

 

太鼓壇の先にある奥書院平へ。



現在は広瀬町戦没者慰霊塔が立っています。




奥書院平からは下り坂と上り坂を繰り返します。
月山富田城の散策路は全般的に整備されていて、山城ではありますが行き来しやすかったです。
足元を照らす昭明も、ところどころに設置されています。



郭の案内看板も要所要所に設置され、手元に地図がなくとも迷うことはないでしょう。
そうそう、ここは花の壇という小規模な郭への分岐点です。

 

花の壇に入りました。
多くの花が植わっていたということから、この名があります。
ここは御殿に近く、また外敵の侵入を監視するのに適している立地から、ここには重臣が居住していたと考えられています。

急峻な山頂への道が、ついに我が眼に入ってきました。
郭の先端にある小屋は・・・なにやら見覚えがありますねぇ。



この小屋は、発掘調査の結果をもとにして復元したものだそうです。
この小屋と背後の山こそ、スタンプの絵柄に相違ありません。

 

足場ギリギリの場所から、スタンプの画角を捉えることができました。
本当にギリギリの場所です・・・滑落には十分にご注意を。



花の壇から眺める御殿平
月山富田城の中枢まで、もう少しです。




花の壇あたりから、郭に石垣が施されるようになります。
ここからいったん下って・・・

 

御殿のあった御殿平です。



場所はコチラ。



郭の周囲に造成されている石垣は、秀吉が天下統一した後に城主となった吉川広家、そして関ヶ原の戦いの後に城主となった堀尾吉晴の手によるものと考えられています。



雑用井戸というそうです。
御殿があった場所からは離れているので、御殿居住者のための井戸ではなかったのでしょうか。



その近くにあったのが、菅谷口門
菅谷口から登城した場合は、ここから御殿平に入ることとなります。




こちらが御殿跡。
山中御殿と呼ばれていました。
「やまなかごてん」ではなく、「さんちゅうごてん」です。


御殿平から本丸へは・・・



菅谷口門の近くから始まる月山軍用道から進むこともできますが、



山中御殿付近の石垣からも上ることができます。
いずれのルートも七曲りに続き、月山富田城の登城は佳境へ。





月山富田城登城・第1章~謀聖と麒麟児

2020-12-31 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 壱 日 ( 月 )

午 後 拾 弐 時 廿 六 分

島 根 県 安 来 市

安 来 節 演 芸 館 を 出 る



足立美術館で日本一の庭園に圧倒され、横山大観をはじめとする巨匠たちの作品に感動しました。
安来節演芸館で安来節・・・は観ませんでしたが、お昼ご飯でどじょう鍋に舌鼓を打ちました。

しかしながらわが旅は、「城攻め旅」。
これから向かう月山富田城【国指定史跡】こそ、この日の本当の目的地なのです。



月山富田城へのアクセスは、JR安来駅から出ているコミュニティーバス「イエローバス」広瀬行きに乗車します。
広瀬行きのバスは途中足立美術館などを経由して、市民病院(安来市民病院)の前に停まります。
市民病院が月山富田城の最寄りのバス停となります。





さて私は、安来節演芸館の敷地を出て、イエローバスが通っている県道へと歩いています。
このあたりには鷺の湯温泉という温泉が沸いているようですが、一風呂浴びることもなく先を急ぎます。
なにせこの先行くのは難攻不落の山城、時間には余裕をもって臨みたいですからね。



途中のバス停。
三日月が描かれているのは、あの麒麟児にちなんでいるのでしょうか。
時刻表を見ると本数は1時間に1本ほどあるのですが、今度のバスは約1時間後。
運悪くバスの運行がない時間帯に当たってしまったようです。
足立美術館&安来節演芸館から月山富田城までは、道のりにして約3キロほどなので、今回は歩いていくこととしました。



歩いている道は、島根県道45号・安来木次きすき
左脇を流れる水路とともに進んでいきます。



安来市広瀬町。
「山陰の麒麟児」山中鹿介幸盛が生まれた地だそうです。


 

歩き始めて約15分ほど、月山富田城が見えてきました。




さらに歩いて8分ほど。
“ひろせ”の立看板の先にある交差点で、県道から外れます。



安来市立病院の方へ向かって歩いています。
その途中にあるのが・・・



「山中公一騎討之處」の碑文です。


永禄8年(1565年)毛利元就は、約3万の軍勢で月山富田城の攻略をめざしました。
籠城する尼子義久の家臣・山中鹿介幸盛富田川(現在の飯梨川)の堤を巡回していると、対岸の毛利軍から一騎討ちを申し込む者が現れました。
その者は、毛利方・益田藤兼の家臣・品川大膳将員まさかず
武勇の誉れ高い鹿介を倒すため、大膳は自らの名を棫木狼介勝盛たらぎおおかみのすけかつもりに変えて勝利を祈願したといいます。
鹿介は一騎討ちの申込みを承諾し、富田川の中州(川中島)で両者は戦うこととなりました。
戦いは鹿介が勝ち、
「石見国(島根県西部)より出でたる狼を、出雲の鹿が討ち取った。もとよりタラノキは好物なり」
と叫びながら、味方の陣に戻っていったといいます。

しかしながらこの戦いによって戦況が好転したかといえば、そうではありませんでした。
毛利軍は月山富田城を兵糧攻めにし、尼子義久とその重臣に離間の計を施して内部分裂させ、尼子軍を疲弊させていきました。
永禄9年(1566年)11月、ついに尼子義久は毛利軍に降伏することとなります。



この碑文があるところが、鹿介と大膳の一騎討ちの行われた中州だったそうです。
富田川(飯梨川)は洪水などで流れが変わってしまい、中州は跡を留めていないのです。
また近所には敗れた品川大膳の墓が立っているそうですが、ここには行きませんでした。




月山富田城の最寄りのバス停となる安来市民病院
ここに立ち寄って、帰りのバスの時刻を確認しておきました。


市民病院から県道、飯梨川方面へ歩いていくと、



三日月公園があります。
こちらには・・・



「名将とよばれる者は、皆、悪徳と背中合わせに生きておる」



「謀多きは勝ち、少なきは負ける。戦いの世に生きる男の有りようだ」

「謀聖」尼子経久公の銅像が立っております。
大河ドラマ「毛利元就」で緒形拳さんが演じられた経久公は、私の中でいまだに強烈に印象に残っております。


尼子経久は、長禄2年(1458年)出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国で生まれました。
当時の出雲国は出雲守護・京極政経の勢力下にありましたが、政経はほかに飛騨、隠岐、近江の3ヶ国の守護も兼任し、自身は京都に滞在していたため出雲は守護代の尼子氏が治めていました。
文明10年(1478年)ごろに家督を父から譲られ、最初こそ京極氏の代官の任を果たしていましたが、そのうち自己の勢力拡大に努めるようになりました。
そのため主君・政経や出雲国の国人(在地の武士)と不和となってしまい、文明16年(1484年)ごろに守護代の職を剥奪されてしまいます。

経久はこのときに居城・月山富田城を追われてしまい、代わって塩冶えんや掃部助かもんのすけが守護代となりました。
経久は放浪生活のさなかに同志を募り、月山富田城の奪還を狙っていました。
そして文明18年元旦、新年祝賀の宴が催されていたところに、経久が奇襲をかけてきました。
経久は見事に月山富田城を奪い返し、塩冶掃部助は討ち死にしてしまったそうです。


これは軍記物のストーリーで、実際には城を追い出されることはなかったようです。
ただし守護代に返り咲くのは明応9年(1500年)のことで、永正5年(1508年)に主君・京極政経が死ぬと、その後継となって出雲を支配しました。
その後は周防すおう国(山口県)の大大名・大内義興よしおきと争い、主に謀略を用いて勢力を広げていき、「十一ヶ国の太守」と称されるまでになりました。

安芸国(広島県)に毛利元就が台頭してくると、経久の勢力に陰りが見え始めます。
毛利ははじめ経久の勢力下にありましたが、大永4年(1524年)に元就が毛利家当主となると、これを阻止しようとして失敗、翌年に元就は大内方に鞍替えしてしまいます。
天文6年(1537年)家督を嫡孫の詮久あきひさ(のちの晴久)に譲りますが、詮久は天文9年(1540年)元就の居城・吉田郡山城を大軍で攻めますが、これに完敗。
大内軍が直接月山富田城を攻めようかというところで、天文10年(1541年)84歳で亡くなりました。



経久公が扇子で指している方向は・・・



台頭してきた若き「謀神」毛利元就の居城・吉田郡山城の方角でしょうか。
街路樹の間から頂を現わす山は三笠山で、そこにかかった月に向かって山中鹿介が尼子家再興を祈願したといいます。



角度を変えて北西方向。
左の薄緑色の屋根のところにある山が京羅木山、そこから2つ右の頂が勝山です。
京羅木山は、天文12年(1543年)の第1次月山富田城攻防戦で、攻め手の総大将・大内義隆が本陣をおいたところです。
また勝山は、永禄8年(1565年)からの第2次月山富田城攻防戦で、毛利元就が本陣をおいたところです。




三日月公園から月山富田城に行くには、飯梨川を渡らなければなりません。
月山富田城の攻防戦でも、川を挟んで両軍がにらみ合っていました。
現在は近場に2本の橋が架かっており、



下流側にある新宮橋を渡ります。



登城の前に、安来市立歴史資料館に立ち寄ります。




午 後 壱 時 廿 四 分

安 来 市 歴 史 資 料 館




資料館の入口で早速・・・



65番、月山富田城!
絵柄は・・・山と小屋ふたつ?!
なんだかショボいような気もしますが・・・後ほど画角探しもしていきます。


さて資料館の入場料は、大人210円。
受付で300円を支払い、御城印も購入しました。



国指定史跡・日本百名城、富田城!

3つの家紋は、尼子家の「平四つ目結めゆい、吉川家の「丸に三つ引両紋」、堀尾家の「分銅紋」
さらに、三日月に祈る山中鹿介がシルエットに描かれています。




月山富田城の立体模型を確認。
パンフレットもゲットしたところで、これより月山富田城を登城していきます。





鳥取城・最終章~渇殺しの攻城戦

2020-07-12 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 前 十 一 時 廿 七 分

鳥 取 城 跡 本 丸



鳥取城【国指定史跡】の登城を開始してから1時間20分経過。



二ノ丸脇から続く中坂を進んで20分弱、久松山(きゅうしょうざん)に構える石垣が目に入り、



ようやく本丸に到達しました。
標高は260メートル。
天球丸が51メートルなので、200メートル以上の山登りを敢行してきたことになります。
いや~、きつかった・・・羽柴秀吉が兵糧攻めを選択した理由もよくわかります。



中坂を見下ろすかのようにそびえ立つ石垣。
「落石注意」という看板があったのでそそくさと通り過ぎましたが、このあたりには月見櫓が建っていました。



本丸にある大きな井戸・車井戸
鳥取城の籠城戦で大きな役割を果たした・・・と思っていましたが、この井戸が完成したのは関ヶ原の戦後に城主となった池田長吉の時代になってからだそうです。



さて、鳥取城の本丸に着きましたので・・・「城攻め」



日本100名城・第63番、鳥取城攻略!



国指定史跡・太閤ヶ(なる)攻略!
もうひとつ、鳥取城の出城であった丸山城も攻略できました。



武将は吉川経家中村春続を発見し、登用。
二人とも第二次鳥取城攻防戦の関係者ですね・・・中村さんの相方・森下道誉はいないようですが。


鳥取城の築城は16世紀中ごろの天文年間、因幡守護・山名誠通(のぶみち)によるものと考えられてきましたが、近年では誠通に対立する但馬守護・山名祐豊によるものと考えられています。
山名同士の対立は中国地方の二大勢力・大内義隆尼子晴久の対立が根本にあるとされていて、誠通は隣国の尼子と同盟を、祐豊は大内と同盟を組んでいました。
天文17年(1548年)祐豊軍が因幡を奇襲し、誠通が討ち死にすると、祐豊は弟・豊定とその子豊数を因幡に送り込みました。
永禄5年(1562年)山名家の重臣であり因幡の有力な国人であった武田高信が鳥取城を奪取し、山名家に反旗を翻します。
高信は、中国の覇者・毛利輝元の保護を受けて勢力を拡大していきますが、天正元年(1573年)豊数の弟・豊国と手を組んだ山中幸盛(鹿之介)率いる尼子再興軍によって鳥取城を落とされ、没落してしまいます。
山名豊国は、自らの居城を布施天神山城から鳥取城に移しました。



室町時代は「六分の一殿」といわれるほどに繁栄していた山名ファミリーも、戦国時代になるとこのゴタゴタっぷり。
鳥取城の歴史紹介が、山名のゴタゴタのせいで長文になってしまいますねぇ。
いや、それは私に文章をまとめる能力がないから?!
それはそうと、もう少しだけ山名さんのゴタゴタっぷりを記述しなければなりません。


山名豊国と尼子再興軍の本拠となった鳥取城に、毛利軍の山陰方面の総司令官・吉川元春が攻め込んできました。
これに豊国は抗しきれず降伏しますが、尼子再興軍が再び鳥取城を奪取します。
しかし山名家が中国の覇者・毛利家に対抗できる力はなく、天正3年(1575年)山名豊国は毛利家に従属。
あくまで毛利家と敵対する尼子再興軍は、鳥取を去り織田信長を頼ることになります。

その織田信長が東から勃興してくると、毛利軍はこれに敵対することになります。
天正8年(1580年)羽柴秀吉が軍勢を率いてくると、山名豊国はあっさりとこれに降伏します。
これに対し毛利軍は再び鳥取に来たため、山名さんはこれまたあっさりと降伏。
毛利家から城主が派遣されることとなり、山名さんは城主の座を下ろされてしまいます。
天正9年(1581年)再び羽柴秀吉が鳥取に攻め込んできました。
前の城主の山名さんはここでまたしても秀吉に降伏しようとしますが、家臣の中村春続森下道誉らによって追放されてしまいます。
中村・森下らは有力武将をあらたに城主に派遣するよう毛利家に依頼し、これに応えた吉川元春は、一族の吉川経家を鳥取城の城主としました。





「日の本にかくれなき名山」からの景色は、その名に恥じませんね。
鳥取市は人口が20万に満たない都市ですが、ここから眼下に広がる市街地を見てみると、鳥取の街も大きいなぁ~と感じてしまいます。



こちらは南東方向。
あの山の向こうに、次の目的地・若桜鬼ヶ城があるのですが・・・さすがにここからは見えませんね。




本丸の西の端にある天守台
元禄5年(1692年)落雷によって焼失するまで、ここには天守が建っていました。
宮部継潤によって建てられた天守は3階建てでしたが、池田長吉によって2階建てに建て替えられたのだそうです。
江戸時代の絵図には茶色の屋根で描かれていることから、(こけら)葺きか板葺きだったと考えられています。

天守台からの眺め・・・



朝まで立っていた鳥取砂丘
砂地の周りを、緑の森が完全に包囲しているかのよう。



鳥取を潤す千代川の河口。
河口西岸には鳥取港も見えますね。



西側の眺め。
千代川の両岸に市街地が広がっています。
向こうに見える湖は湖山池で、日本最大の「池」だそうです。


山上ノ丸の東側にも足を運びます。



こちらは山上ノ丸二ノ丸
眺めのよい本丸とは違って木々が雑然と生い茂り、人の出入りもほとんどなさそうです。



さらに下の曲輪に続いていく道ですが・・・ここだけ見たらなるほど、クマさんも出そうな雰囲気。
ここから先は立ち入らずに、本丸に戻ります。



本丸から東を眺めると、羽柴秀吉が本陣を構えたという太閤ヶ平が見えます。


天正9年(1581年)の鳥取城攻防戦
羽柴秀吉率いる2万の軍勢に対し、鳥取城は吉川経家率いる2千。
「日の本にかくれなき名山」に築かれた名城を、羽柴軍は力攻めできないでいました。

秀吉の軍師・黒田孝高(よしたか)(官兵衛)は、鳥取城の攻略にあたって兵糧攻めを献策します。
鳥取で売られている食糧を高値で買い取る。
鳥取城をとりまく陸路や海路すべてを封鎖。
鳥取の領民に兵を向けて城内へ追いやり、早期に穀を潰させる。
これに対し毛利家の吉川元春は兵糧を運び入れようと軍勢を動かしますが、伯耆国(鳥取県西部)の南条元続が織田方に鞍替えしてしまったために、兵糧を鳥取に持ち込めずにいました。

兵糧攻めを始めて1ヶ月ほどで、城内は飢餓に陥りました。
あたりに生えている木や草、普段は食用としないカエルやネズミなどの動物すらも食べ尽くしてしまい、餓死者が続出。
食糧を求めて城外へ出た者は、羽柴軍の銃撃にあってことごとく討ち果たされます。
すると城兵はその死体に群がり、人肉を食べていく・・・・・・。
城主の吉川経家も4ヶ月ほどの籠城に耐えてきましたが、凄惨な場面に心を痛め開城を決心したといいます。
経家と旧山名家臣の中村春続・森下道誉は、城兵の助命と引き換えに切腹。
後世「鳥取の(かつえ)殺し」といわれる凄惨な攻城戦はこうして終わりました。







下山する前に、もう一度石垣を仰ぎ見ます。
これらの石垣は「鳥取の渇殺し」後に構えられたものです。


羽柴秀吉は、攻め取った鳥取城を宮部継潤に与えました。
継潤は鳥取城を改修し、石垣が多く用いられる近世城郭へと変貌していきます。
継潤死後、子の長房が後を継ぎますが、関ヶ原の戦いにて時流を読み誤り西軍方へ寝返ってしまったため、東軍の攻撃を受けてしまいました。
長房は所領を没収されてしまい、池田輝政の弟・長吉が6万石で鳥取に入りました。

江戸時代の鳥取は、もっぱら池田氏の所領となります。
元和3年(1617年)長吉の子・長幸備中松山へと移封され、代わって光政(輝政の長男・利隆の嫡男)が姫路から32万石で入りました。
光政は鳥取城の規模拡大に乗り出し、山麓の曲輪をあらたに建造していきました。
寛永9年(1632年)光政は、池田光仲(輝政の三男・忠雄の嫡男)が治める岡山との国替えを命じられます。
以降、鳥取城は、池田光仲を藩祖とする鳥取池田氏12代の居城となりました。



下山へ。





山登りのときには目に入らなかったのですが、坂道からは石垣の跡のようなものをところどころに見ることができました。
そうしているうちに時刻は正午を回り、



山下(さんげ)ノ丸に戻ってきました。
登る前に「なんだろう?」と思っていた石垣は、武運の神・八幡神をお祀りする八幡宮のものだったようです。




午 後 十 二 時 十 四 分

鳥 取 城 山 下 ノ 丸




本丸二ノ丸天球丸との分岐路に戻ってきました。



二ノ丸に下り、さらに画像中央の石垣のある辺り・・・



表御門跡へ。



左手に天球丸の石垣、



右手に二ノ丸の石垣を見ながら、さらに下っていきます。



二ノ丸の菱櫓跡の石垣が見える所まで来たところ。



振り返ると、前には天球丸、左に二ノ丸
天球丸の上には、久松山
ここで少し寄り道して、右の脇道へ。





天球丸の巻石垣を下から見られるスポットへ。



起伏に富んだ石垣に、巻石垣。
鳥取城もまた、来てよかったと思えるお城でした。

気がつけば、鳥取城には2時間以上も滞在していました。
それくらい見どころが多く、試練もそれなりにある名城です。





二ノ丸の石垣に別れを告げ、



太鼓御門の石垣を通ります。
この通路が大手登城路となっているのですが、この日は水濠付近で工事中だったため、



仁風閣【国指定重要文化財】の下を通って、鳥取城を後にしました。





鳥取城・第2章~日の本にかくれなき名山

2020-07-10 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 前 十 時 五 十 八 分

鳥 取 城 跡 ・ 山 上 へ の 岐 路





山登りに向かおうか・・・・・・。



その前に、



天球丸に立ち寄りました。
鳥取藩初代藩主・池田長吉の姉・天球院が晩年に居住していた場所だったために「天球丸」の名がついています。

天球院は、若桜鬼ヶ城の城主で若桜藩主だった山崎家盛の正室でした。
慶長19年(1614年)家盛が亡くなり、その後を継いだ家治が側室の子であったからなのか、天球院は若桜鬼ヶ城から鳥取城に移り住み、余生を過ごしたそうです。



標高51メートルの天球丸からの眺め。
かつての三ノ丸には、現在は鳥取西高校鳥取市立武道館があります。
そしてその先には、鳥取県庁本庁舎も建っています。
鳥取城の目の前に、鳥取市の中心街が広がっているんですね。

天球丸の足元には・・・





天球丸のシンボル、そして鳥取城のシンボルともいえる巻石垣【復元】があります。
文化4年(1807年)ごろ、天球丸の石垣に孕みと呼ばれる出っ張りが現れ、崩落の危機が生じました。
このとき河川の堤防や港の突堤に関わる職人が集い、角のない丸いかたちの石垣を造成して崩落を防いだのだそうです。

敵兵が上り攻めてくるのを防ぐためにある石垣ですが、これは明らかにその目的に反している構造です。
巻石垣が造られた時代がいかに戦乱から程遠かったか、想像に難くありません。



先ほどの分岐路に戻り、



山上ノ丸へ、いざ参らん!



注意! クマ出没?!
ええっ、こんなところにクマが出るの?!



ここって、鳥取県庁の裏山ですよ・・・?



先に歩いているおじさんもいるし、大丈夫でしょう。
おじさんの後をつけていけば比較的安全に進めます、多分。



石垣で構成されている、なんらかの曲輪。
それよりもまずは、山登りを優先。
先にいるおじさんに遅れないように、山道を進んでいきます。




午 前 十 一 時 七 分

久 松 山 を 登 る




初っ端から岩肌を上ります。
いかにも山登り!といったところです。



なかなかに険しい道。



まずは一合目。
鳥取城の山道は、一合目から九合目まで順番に立札が据えてあります。



二合目。
前を往くおじさんがなかなか健脚です。
ついて行くのがやっと。



三合目。
左側は崖、落ちたら死んじゃいます。



四合目あたり。
手すりが厳重に据えてあるようですが、かえって怖いです。



五合目。
中坂稲荷が祀られています。



登り始めてから約8分、早くも絶景が見られます。
鳥取の街もなかなか大きいなぁ。


登山もようやく後半戦。



六合目。



七合目・・・。



八合目・・・・・・。
石段が粗っぽく、登るのに苦労します。
こんな山城、槍もって鎧着て登りたくはありませんねぇ。

「日の本にかくれなき名山」
防御性の高い鳥取城はこのように賞され、また織田信長も「名城」と評していました。



八合目を過ぎると分岐路が現れます。
右が近道だけど危険、左は遠回りだけど危険はないというようです。
結論を言ってしまうと、私にとってはどっちも急で、狭くて、足場がおぼつかなくて危険だと感じました。



九合目、あと少しだ・・・。



11時26分、登山開始から約20分。



山上ノ丸の石垣が見えてきた!



山の上に構える石垣・・・ついに到達したのです!
・・・ん、落石注意



なんだか今にも崩れてきそうな石垣・・・。
ここはさっさと通過して、



ついに鳥取城本丸に到達したのでした。





鳥取城・第1章~姫路の弟城

2020-07-10 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 前 十 時 四 分

鳥 取 城 跡 ・ 仁 風 閣 バ ス 停





時刻は午前10時を回り、鳥取城【国指定史跡】へ。
鳥取城は、標高263メートルの久松山(きゅうしょうざん)の地形を活かして築城されました。
鳥取城の攻略は、言い換えれば久松山の攻略ともいえます。

久松山のふもとには、鳥取城の山下(さんげ)の丸と呼ばれる曲輪群が残っています。
天下泰平の江戸時代に入り拡張された曲輪群であり、現在は久松公園として市民の憩いの場となっています。


久松公園・鳥取城山下の丸に入る前に・・・



吉川経家像を拝見。


吉川経家は、毛利元就輝元に仕えた武将です。
石見国(島根県西部)に所領をもつ石見吉川氏の当主として石見国の経営に務める一方、山陰地方の総大将であった吉川元春(元就の二男)を補佐する立場にありました。

天正8年(1580年)天下布武をめざす織田信長の先鋒として、羽柴秀吉が山陰地方に攻め込んできました。
このとき城主の山名豊国は3ヶ月の籠城戦の末に降伏し、鳥取城はいったん織田方の城となりますが、すぐさま毛利軍が奪還しました。
毛利軍は城将を派遣していますが鳥取は安定化せず、山名の旧臣たちは毛利一族に連なる有力な武将の派遣を望みました。
吉川元春はこれに応え、経家を城将に任命しました。
天正9年(1581年)3月、経家は部下400名を率いて鳥取城に入城しました。
このとき経家は自分の首を納める首桶をも持参しており、相当の覚悟をもって赴いていたことが窺えます。

羽柴秀吉が2万の大軍を率い、再び鳥取城に攻め込んできました。
このとき城主の座を下ろされていた元大名の山名豊国は、あっさりと秀吉に降伏しようとしましたが、家臣の中村春続森下道誉らの反対にあい、彼らに追放されてしまいます。
秀吉軍は付近の農村を襲撃して鳥取城内に追い払うと、徹底した兵糧攻めを行いました。
城内には兵糧1ヶ月分ほどの蓄えしかなく、さらに食い扶持を増やされてしまったので、城内はまたたく間に飢餓に陥ってしまいます。
後世鳥取の渇殺(かつえごろ)と呼ばれる惨状に、城将の吉川経家らは開城を決断し秀吉に使者を立てます。

秀吉は「鳥取の戦の責めは、山名旧臣の中村・森下らにあるので、経家殿は切腹せずともよい」と回答しました。
経家は毛利家の有力武将なので、その身柄を確保することは対毛利への有力な交渉カードを得ることにもなりますが、経家は、
「戦の責めは城将の自分にあるから、自分の切腹をもって城兵の命を助けてもらいたい」と答えたといいます。
秀吉は信長に伺いを立て、信長がこれを認め、

武士(もののふ)の 取り伝えたる 梓弓
かえるやもとの (すみか)なるらん


10月25日早朝、「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切腹になるかもしれんなぁ」と大声で言ってから切腹しました。
享年35歳。

経家の首は秀吉の下に届けられました。
秀吉は首実検で「哀れなる義士かな」と言って男泣きしたといいます。
経家の首はさらに安土城の信長の下に送られ、信長によって丁重に葬られたそうです。




極めて困難な任務にまい進し、己の命を鳥取に燃焼させた経家。
銅像の顔を見ると、そのような生き様がよく顕れているかのようです・・・が、どこかで見たことがあるような?
日曜日の夕方、テレビでよく見ていた顔に、なんとなく似ているような?

経家の子孫に、吉河寛海という人物がいます。
「笑点」の司会者、昇太師匠の前の歌丸師匠の前の司会者、五代目 三遊亭圓楽師匠です。
現在の六代目・「黒円楽」ではなく、その先代・「馬圓楽」
経家は肖像画が残っていないため、銅像が造られる際に子孫である圓楽師匠のお顔が参考にされたのだそうです。


悲劇の名将に思いをはせつつ、鳥取城に入っていきます。



復元されつつある大手登城路
水濠を渡る擬宝珠(ぎぼし)、その先は中ノ御門と続くのですが、この日は工事のため通行できず。



水濠に沿って、石垣が続いています。



対岸に建つ仁風閣【国指定重要文化財】。
明治39年(1906年)旧鳥取藩主・池田侯の別邸として、鳥取城三ノ丸に建築されました。



北ノ御門跡が、久松公園の正面口となっています。



橋のたもとにひっそりと立っている石柱・・・



「史跡 鳥取城跡 (つけたり) 太閤ヶ(なる)」の石碑です。
もうちょっと目立つところに立てればよかったのでは・・・?





鳥取城を散策する前に、まず仁風閣に立ち寄ります。





陽光にきらめく白亜の仁風閣。
それよりも・・・



仁風閣から見上げる、この石垣の美しさよ!
建物よりも石垣に魅入ってしまうあたり、私も城びととしてだいぶ成長したようですなぁ。


さてさて仁風閣にやってきたのは、鳥取城のパンフレットを入手するため、そして・・・



63番、鳥取城!
100名城スタンプを無事にゲットできたのですが・・・これはどこの画でしょうか?!
石垣が連なって、上り階段・・・まぁ、そのうち通りかかることもあるでしょう。
さらに・・・



御城印、国指定史跡・鳥取城!
2つの家紋は鳥取池田氏のもので、「丸に揚羽蝶」「角輪紋」
揮毫はなかなかに個性的で、鳥取の書家である柴山抱海氏によるものだそうです。
御城印は、1枚300円で販売されています。


この日は仁風閣にて祝言が行われていました。
中には入れなかったので、このまま仁風閣を後にしました。




午 前 十 時 三 十 八 分

鳥 取 城 攻 城 開 始




西坂下御門【復元】から、鳥取城の城攻めを開始。
慶応3年(1867年)に造られた門でしたが、昭和50年(1975年)の大嵐で損壊し、その後現在の門が復元されています。



西坂下御門から続く石段を上っていきます。



二ノ丸を取り囲んでいる石垣・・・



・・・と共に、石段を上がっていきます。







二ノ丸を取り囲んでいる石垣はなおも続きますが、石段は一旦終わって右膳(うぜん)ノ丸と呼ばれる曲輪へ。
手持ちのパンフによると、標高は26メートルとのこと。
パンフレットに標高が明記されているのもなかなか珍しいものなのですが、鳥取城は山城でもあるので、この後標高の値が一気に跳ね上がります。

右膳ノ丸の一画にある、数基のお墓・・・?



澤市場屋(さわいちばや)の古墓だそうです。
澤市場屋は鳥取城下に住まう町人で、鎌倉時代ごろから続いている家柄だったそうです。
澤市場屋の墓は鳥取城内に唯一存在していた町人の墓だったそうですが、古くから鳥取の地に根差す名家に、藩主の池田家が敬意を表して城内に墓を整備することを許可したともいいます。



右膳ノ丸から続く坂道を上っていけば、標高37メートルの二ノ丸にたどり着きます。



二ノ丸は、久松山のふもとの曲輪群である山下(さんげ)の丸の中核をなす曲輪で、江戸時代初期の鳥取藩主・池田光政のころに造成されました。
光政は江戸時代初期の名君としても知られていますが、その祖父は「姫路宰相」池田輝政
輝政の姫路城大改修に携わった職人たちが、この鳥取城の大改修にも携わっていた・・・すなわち鳥取は「姫路の弟城」と、パンフレットには紹介されています。

台形状の石垣は三階櫓台で、明治12年(1879年)に撤去されるまで三階櫓が建っていました。
天守は山頂に建てられていましたが、元禄5年(1692年)に天守が焼失した後は鳥取城の権威の象徴となっていました。


三階櫓の跡地に進む前に、山側の方に目をやると・・・





ひっそりと登り石垣がたたずんでいます。
嘉永2年(1849年)に造られたこの石垣は、幕末に造られた登り石垣としてはわが国唯一のものだそうです。


登り石垣の先には・・・



石切場跡の露出した岩盤。
元和5年(1619年)から始まった二ノ丸大改修では、この石切場から石材を調達したのだそうです。


三階櫓の傍らまで来ました。



このあたりには裏御門という門が構えられていました。
ここから下っていくと、仁風閣に至ります。



三階櫓の石垣は、荒々しい野面積み



隅の部分は、端正な算木積みで構成されています。
そして中上にある穴の開いている石は、左近(さご)の手水鉢といわれています。
別の用途の石製品を石垣に用いた転用石のひとつですね。
池田光政の前の城主であった池田長幸の侍女であったお左近が、自らの手水鉢を差し出して石垣に埋め込んだところ、難工事であった三階櫓の石垣が無事に完成したという言い伝えがあります。



凛としてそびえる二ノ丸の石垣。
当時の人々にとっては大変な難工事だったのでしょう。



ここから見下ろす仁風閣
そういえば祝言は終わったのかな?




二ノ丸に戻りました。



二ノ丸の南東に構え、三ノ丸ににらみを利かせていた菱櫓の跡地。



その近くに構えられていた表御門
今回の登城では進まなかった大手登城路から来た場合は、ここから二ノ丸に入ってくることになります。



二ノ丸のさらに上層へ進みます。



そのためには、城内に鎮座するお稲荷さんを経由することになります。
こちらで登城の無事を祈願して、先へ。



上層の曲輪の様子。
しっかりと石垣で造成されています。
これから山登りに挑む人もチラホラいらっしゃいますね。





山登りに向かおうか・・・・・・。





竹田城登城・最終章~日本のマチュピチュ

2020-04-12 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 七 時 十 分

兵 庫 県 朝 来 市

竹 田 城 二 の 丸



早朝の竹田城【国指定史跡】。



北千畳三の丸を経て二の丸まで到達しました。

この日の竹田城の天候は霧、晴れ、曇り、霧、小雨・・・と、寸刻ごとに目まぐるしく変わっていました。
二の丸にいらっしゃった監視員のおじさまと話をしたところ、
「このあとは雨が来そう」「今日は雲海は見られない」
とのことでした。

竹田城といえば、雲海の上に浮かぶ「天空の城」として知られています。
その姿が見られないのは残念ですが、それを差し引いてもなお魅力的な竹田城。
「日本のマチュピチュ」と謳われる竹田城を、じっくりと堪能していきます。


二の丸のお次は本丸
竹田城が築かれた虎臥山の頂上であり、それぞれの郭が一望できるところです。



本丸の突端にある天守台に上がります。



天守台から望む、北側の郭。
本丸に近いほうから二の丸三の丸、そして北千畳と下っています。



天守台から望む、南側の郭。
本丸に近いほうから南二の丸、そして南千畳と続きます。
この景色が竹田城最高のものとされており、人をして「日本のマチュピチュ」と言わしめるのです。
この日は残念ながら雲がまばらにかかっていましたが、天候に恵まれると・・・



「ハイソフトキャラメル」のカードに採用されている、雲海に浮かぶ竹田城が見られるのです。
このカードの画角は、本丸を取り巻いている平殿という郭の東側からのものと思われます。
現在は安全性確保と遺跡保護のために竹田城の管理が厳しくなり、ビニルシートによる通路や柵による立入禁止エリアが設定されています。
このカードの撮影スポットは崖ギリギリの場所のため立入禁止となっていて、同じ画角を撮ることはできません。

 

スタンプの絵柄も南側の郭を描いたものですが、こちらの画角は天守台の脇からのものです。
本丸から平殿東側へ下る石段の脇からのものです。


平殿の東側は立入禁止区域となっています。
南側の郭へは平殿の東側を通るのが近道なのですが、そこが通れないためいったん二の丸三の丸に戻ります。



桜の木が立っているところが、三の丸と平殿の境界です。
桜の木の先にそびえるのが本丸と天守台、その手前の低い石垣が造成されているのが二の丸です。



平殿を取り巻く石垣。
日が当たらない北側なので、ぎっしりと苔が生しています。
この下は崖、こんなところに巨大な石垣が造られたのが驚嘆に値しますね。





平殿に入りました。
本丸を取り巻く石垣を見ては足を止め、見ては足を止め・・・。



西側に続く虎口の跡。
その先は花屋敷と呼ばれていた郭に続きます。
ここは芝生が生えている・・・ということは、立入禁止区域となっています。

本丸から二の丸、三の丸、北千畳と続く北東の郭。
本丸から南二の丸、南千畳と続く南東の郭。
本丸から平殿、花屋敷と続く西の郭。
竹田城の縄張は、本丸を中心とする3枚のプロペラのような形をしています。





平殿の南側から、



南二の丸へ。



進路が常にかぎ状に曲げられていて、石垣の配置がまことに絶妙です。





振り返ると、平殿と本丸の石垣がそびえ立っています。
なかなかの威圧感です。



南二の丸。



こちらは南千畳へと続く通路。
言い換えれば、南二の丸へと上るための虎口ですね。



南二の丸からの眺望。
一段低い右脇は正門の枡形虎口となっています。
通常、枡形虎口はその四方を城門や城壁で包囲されていますが、こちらの枡形虎口は崖側に城壁はなかったようです。
向こうに見える本丸の石垣の威容を、攻め込んできた軍勢に見せつけるかのような構造になっているようですね。



正門を形成する石垣。
通路はかなり狭くなっていますね。





正門の枡形虎口から望む、本丸の石垣群。ただただ圧巻・・・。





正門跡を経て・・・



南千畳という広い郭へ。



振り返って正門跡を見ると、石垣がこれでもか!と迫ってくる感じ。



正門から少し離れると、石垣群が凛としてそびえ立っているかのようです。



正門脇の石垣。
ひときわ大きい石がはめ込まれています。
権力の象徴である鏡石です。

石垣の構造は、自然石をそのまま用いた野面(のづら)積みですが、穴太(あのう)という技術者集団が手がけたので穴太積みとも呼ばれます。
穴太は現在の滋賀県大津市内、比叡山のふもとに位置しているので、穴太衆はもともとは寺院の石工を任されていました。
その高い技術を買われ、織田信長安土城築城の際に石垣の構築を手がけ、それ以降多くの城郭の普請を手がけることになったのです。
竹田城の石垣も穴太衆が手がけたものとされており、彼らの高い技術をもって、400年以上たった今でも石垣がそびえ立っているのです。




広い南千畳まで来たら、竹田城とはそろそろお別れです。



南千畳から竹田の城下町を眺めます。



城下町のさらに南側。
向かいの山は立雲峡です。



この天空城の画は、立雲峡からのものです。
この日は雲があまりかからなかったのですが、それでも竹田城を存分に味わうことができました。
私としては大満足です。




アディオス、竹田城・・・・・・!

 

南千畳虎口から帰り道へ。



階段を下って、



舗装道に出ます。
ここを左に曲がって約100メートル歩き、スタート地点の料金所に戻っていきました。