鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

今井の桜2019~七分咲き

2019-05-25 | 公園・庭園


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 ) 年 4 月 6 日 ( 土 )

午 前 8 時 3 1 分

千 葉 県 白 井 市

今 井 の 桜



この日は朝早く出かけ、今井の桜リベンジへ。
柏ナンバーのかわいいクルマに乗っかって、女王様とともに向かいます。



先日は真っ暗だった橋・・・



蒼天に向かって咲き誇る桜が、我々を魅了します。



ピンクの女王様



ピンクのおじさん(おにいさん?)も、桜にすっかり見入っています。



手掘りの用水路である金山落を覆わんばかりの桜。



下流の手賀沼方向を見やれば、水面はすでに桜一色。


昨年は最初の橋・今井二号橋から、下流の今井一号橋までを往復しました。
しかし距離が思いのほか長かったので、今年は上流側へと歩くことにしました。



上流側にも橋があるようでしたので、そこまで歩こうかと提案すると・・・

「そこの3本目まで歩きましょ」

誰かさんの鶴の一声で、距離はぐぐっと縮まり往復50メートル。
(昨年対比 △1,250メートル)
なんだか少し味気ないなぁとは思いながらも、

 

 



これから満開になる桜を楽しんだのでした。


橋に戻って桜を眺めると、

 

 



ミツバチが花粉の摂取に勤しんでいる姿に、ほっこりしていました。



この日は午前10時30分までに、かわいいクルマを返さなければなりませんでした。
その前に、ファミレスのモーニングと、女王様御用達のお茶屋さんでソフトクリーム。
女王様の中では、そのように行程が組まれていたのですが・・・・・・。



お花見2019・第2話「今井の桜2019~七分咲き」 完

お花見2019・第4話「カタクリの花を見た」へ続く。

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柏の葉公園の夜桜

2019-05-25 | 公園・庭園


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 ) 年 4 月 5 日 ( 金 )

午 後 6 時 5 0 分

千 葉 県 柏 市

柏 の 葉 公 園



この日は、自転車で近所の柏の葉公園に行ってみました。
今回は私ひとりです。


日は完全に沈み、薄暗い公園。
その中に、あたたかな光と、それを取り巻く人だかり。





柏の葉公園の南入口に立っているしだれ桜
4月1日から7日までは、桜のライトアップが行われているそうです。
ライトアップの時刻は、日没から午後8時くらいまでだとのこと。


しだれ桜だけでなく、公園内には見ごたえのある桜並木もあるそうです。
桜並木のライトアップも行われているようです。


ですが、この日はあまり時間がなく、桜並木までは見られませんでした。





今井の夜桜?

2019-05-25 | 公園・庭園


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 4 月 2 日 ( 火 )

午 後 9 時 4 6 分

千 葉 県 白 井 市

今 井 の 桜



平成31年、春。
今年も、今井の桜を見に来ました。



昭和の干拓事業で、大小2つに分かれた手賀沼



小さいほうの手賀沼に注ぐ手掘りの水路が、金山落です。
読み方は「かなやまおとし」
(いまだに「かなやま」のほうはちょっと自信ないです。「かねやま」かもしれません)
そして金山落ぞいに植わっている桜並木が、今井の桜です。


今回も女王様とともに、柏ナンバーのかわいいクルマで向かいます。



おおぅ、なんと暗い・・・。
街中から隔離されたかのような場所なので、街灯はほとんどなし。
ライトアップも、まったくなし。



今井二号橋という古い小さな橋から、金山落をながめてみると・・・・・・見えない。



帰ろう。



結局、女王様の不興を買っただけに終わりました。





第75回鬼ヅモ同好会麻雀大会・最終日~登頂

2019-05-19 | 鬼ヅモ同好会


令 和 元 年 ( 2 0 1 9 年 ) 5 月 4 日 ( み ど り の 日 )

午 後 8 時 ご ろ

横 浜 市 某 所

よ ね 氏 宅





3回目の「ロッシュ」で舌鼓を打った後は、近所の7で買い物をしてよね先生の部屋に戻りました。

この日の試合数は・・・
とりあえず今大会は20試合やろう!という意見で一致。
20試合まではあと8試合・・・ですが、そこまで気力がもつかどうか・・・?
今夜は6試合やって、翌日の午前中に2試合やろうという意見が出ました。
しかし「翌日やろう」と決めて、実際に試合をした例はありません。

かくして、全員一致して8試合の長丁場に赴くこととなりました。
1試合がだいたい40分と計算して、8試合は5~6時間といったところ。
ツラいんですよ、年を重ねた人間にとっては。



ここまでのスコア。
首位のたか先生から2位の私までの点差は、135pts。
絶望的な点差とまではいえないものの、う~ん そうとうきついですぞ。



第13試合、この日の第1試合。
私がトップで+36pts、幸先がいいですな。

第14試合、私がトップで+46pts。
第15試合、これまた私がトップで+31pts。


気がつけば首位のたか先生とは5pts差。


そして第16試合。
この試合も手が入り、さらにはたか先生に跳満を直撃して、今度はしっかり飛ばしました。
この試合で108pts差をつけて、ついに逆転。

第17試合も、序盤に12,000点クラスの和了で先制し、そのまま逃げ切る展開。
この日は怒涛の開幕5連続トップで、2位に160pts以上の差をつけるに至りました。

第18試合はラスに沈んだものの・・・
第19試合は横一線の展開からの、オーラスで立直・一発・自摸・ドラ1で満貫をツモり、逆転。
勝利をぐぐっとたぐり寄せた感覚。


最終試合。



最終試合の最終局で、会長のダブル立直が入りました!
赤五索を切っての立直・・・どうすることもできませんなぁ。

「ドラのは切れねぇ」
何度も口にしていたたか先生が、まさかの切り・・・



最後は会長の豪砲、ダブル立直・七対子・ドラ3で終幕となりました。



最終スコアは・・・






+177ptsを獲得した私が、4年ぶり4回目の優勝となりました。
ありがとうございます!




5 月 5 日 ( 子 供 の 日 )

午 前 1 0 時 ご ろ


私が第75回大会という大きな山の頂きに立ってから、約8時間。
眠りから醒めた私は、もうひとつの山の登頂を目指していました。


ドラゴンクエスト2
シリーズ最難関といわれる、ロンダルキアへの洞窟ロンダルキアの台地

NO PHOTO

洞窟序盤に現れるダークアイ
奴らの不思議な踊りでMPがあっという間に枯渇、退却を余儀なくされました。
ドラクエ2の不思議な踊りは、最大MPの1/4ほどをもぎ取っていく鬼畜仕様なのです。



洞窟中盤から現れる、バーサーカー
高い攻撃力で集中攻撃され、あっという間にサマルとリアの王子が討ち死に、退却を余儀なくされました。



洞窟中盤の敵、フレイム
燃えさかる火炎を連発してきてパーティーが半壊・・・さらに仲間を呼んで追い打ちをかけてきました。
何とか逃げ延びて全滅は免れたものの、やはり退却。



同じく洞窟中盤の敵、ハーゴンの騎士
敵の首魁・ハーゴンさん直属の騎士は、ハーゴンさんの居城から離れたこちらの洞窟で現れます。
彼らの恐ろしいところは、バーサーカーほどの高い攻撃力で2回攻撃を繰り出し、しかも徒党を組んで襲撃してくるのです!
騎士軍団にパーティーを半壊状態にされ、退却へ・・・。



洞窟最大の難敵・ドラゴンです!
高い攻撃力と燃えさかる火炎で、集団で襲撃してきます。
こいつ*4 の軍団で襲われたら、逃げの一手!・・・・・・なのですが、こういう時に限って逃げられない!
とはいえ全滅寸前でなんとか逃げおおせること、数回。
もちろん、退却も数回。


退却を数回重ね、パーティーも徐々に強くなっていきました。そして・・・

NO PHOTO

ロンダルキア、登頂!
いやいや、ここでも予断は許されません。
洞窟の先に広がる白銀の台地・ロンダルキアは、上記のモンスターよりも強い魑魅魍魎どもの巣窟なのだから・・・。

NO PHOTO

キャンプ地にぃ~ 到着~!
強いモンスターは運よく現れず、無事にほこらに到達できました。


今回の冒険は、ここまで。
破壊の神を破壊する王子の勇姿は、次の大会でお目にかけましょう。




午 後 2 時 3 0 分

解 散 前 の 昼 食


最後に4人全員で昼食を食べ、解散ということになりました。



最後はここ・・・?
私自身は今大会4回目、ほかの会員にとっても今大会3回目の「ロッシュ」・・・



ではなく、最後は「太田屋」でおそば。
たか先生がかつ丼セット、ほか全員は天ざるそば・・・?



私だけ、海苔の乗っていない天もりそばにしました。
海苔が乗っていないだけで△100円なのでお得・・・というよりも、私は薬味の海苔があまり好きではないので、ざるそばを頼まないだけのことです。

ねぎ、わさびなどの薬味とともにそばを楽しみ、揚げたての天ぷらで舌鼓を打ち、今大会は終了。



第75回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記  完

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鬼ヅモ同好会会員のみ、秘密の部屋へ。


ロッシュ三昧

2019-05-12 | グルメ


令 和 元 年 ( 2 0 1 9 年 ) 5 月 2 日 ( 国 民 の 祝 日 )

午 後 1 時 4 6 分

横 浜 市 南 区



大会1日目の試合が終わってから約半日。
私はひとり買い出しに出かけました。
昼食もちょうど外で済ませようと考えていたので、当会御用達の洋食屋・「ロッシュ」さんへ。

ランチタイムももうすぐ終わりという時刻でしたが、無事に入店できました。
ランチセットもオーダーできるということだったので、エビフライセットをオーダーしました。



先にやってきたかき玉スープと、エビフライ用のソース。
魔法のランプのような容器が登場するのも、洋食屋さんならではですね。
この容器、グレイビーボートという名称だそうです。



2分ほど後れて、メインディッシュとライスがやってきました。



エビフライ、うまい!
おそらくは揚げたてであろう、ころもの立ちっぷり。
気管に入って咳き込んでしまうほど、細やかなころもです。
ソースに染み出てくる、エビのエキス。こりゃ、うまいです。

つけあわせのスパゲッティは、ミートソース仕立て。
ニンジン、タマネギなどの野菜がふんだんに使われていて、その甘みがよく出ているのがわかります。
これもまた、うまいです。


エビフライ、ライス、ミートソース、サラダ、スープ。
すべてを完食すると、



ラストはアイスコーヒーで〆。
コーヒーの量に比べてガムシロップの量が多かったのですが、甘党の私にはむしろ好都合。
コーヒーも完飲し、お食事代920円を支払って外に出ました。




5 月 3 日 ( 憲 法 記 念 日 )

午 後 6 時 2 0 分


この日は皆で「ロッシュ」さんへ。
思い思いのオーダーとともに、



ロッシュサラダ(620円)をシェアしていただきました。
むむっ、私の天敵・キューカンバー
これは他の方に召し上がってもらって・・・

ロッシュサラダ! うまい。
昨日のサラダもそうですが、ドレッシングがシンプルな味わいで、これがなぜかうまかったです。
グレイビーボートさん、この日も登場。

やがてメインが登場。この日の私は、ハンバーグステーキ(980円)をオーダー。
主食として、ライス(220円)もオーダー。



ハンバーグステーキ! 熱いけどうまい!
ソースは醤油ベースの和風と、デミグラスソースが選べるのですが、洋食屋さんに来ているので後者を選択。
そのデミグラスソースがぐつぐつと煮立った状態でやってきます。
しっかりと手ごねして作られたであろうハンバーグとの絡みは最高。
付け合わせの野菜も美味しく、インゲンに甘みを感じたのは初めてだったので、軽く衝撃を受けました。



この日も満足して、店を出ました。




5 月 4 日 ( み ど り の 日 )

午 後 6 時 3 6 分


この日はひとりで買い出し。



ふとこのたたずまいを見た瞬間、私は中へと導かれてしまいます。
3度目の「ロッシュ」

ひとりで入店した私は、はじめ2人席のテーブルに席をとろうとしましたが、淑女が「空いているから」と広い4人席に導いてくれました。
漢ひとりにとっては広い4人席。



ロッシュのメニューの写真をLINEに上げたところ・・・・・・鬼ヅモ軍団、こぞって襲来。
漢一人から漢四人の席になったテーブル。
もしかして淑女、こうなることを予期していたのでは・・・?



私のオーダーしたエビグラタン(980円)とパン(220円)が、一足早く登場。



エビグラタン、うまい!
フライ、肉と続き、この日はホワイトソース系のものをオーダーしました。
おおぅ、よね先生も同じものをオーダーされたようですな。


私が食べ終わった後、



むむむ・・・私ひとりが待ちぼうけで、なんだか損をした気分。
会長がオーダーしたディナーのエビフライ(980円)は、お頭がついて大きいです。
副会長がオーダーした地鶏の香草焼き(980円)も、赤ワインベースのソースが食欲をかき立てます。



こりゃあ、大会終了まで「ロッシュ」通いかな?





第75回鬼ヅモ同好会麻雀大会・前半戦~不死身の副会長

2019-05-12 | 鬼ヅモ同好会


令 和 元 年 ( 2 0 1 9 年 ) 5 月 1 日 ( 即 位 の 日 )

午 後 1 1 時 2 0 分

横 浜 市 某 所

よ ね 氏 宅



令和最初の日がもう少しで終わろうとしていたころ、大会会場に続々とメンバーが集結。
日付が変わって5月2日、闘いの火蓋が切って落とされました。



令和最初の和了は、私。
立直・平和・自摸という平凡なあがり。
それでも、スロースターターの私にしては上々の立ち上がりではないか! これはきっと瑞兆に違いない!



う~ん、第1試合は3着でしたが・・・第2試合はトップ。
よね先生の勤務の関係で、この日は2試合で終了。
まぁ、上々なスタートといえるでしょう。




その後は各々酒と肴をつまみつつ、「Keep Talking and Nobody Explodes」なるニンテンドースイッチのゲームをすることに。
このゲームは、爆弾解除実行部隊と指令部隊の二手に分かれ、実行部隊から伝えられる情報をもとに、指令部隊がマニュアルを参照しつつ爆弾解除方法を実行部隊に指令するパーティーゲーム。
指令部隊は爆弾=画面を見ることができないので、

「タコが盾持ってるマーク」
「スーファミのマークみたいな仕掛け」
「ツートントントン」


実行部隊から伝わる、意味不明な情報を解析していかなくてはなりません。
とくにモールス信号に係る仕掛けに大苦戦・・・「令和になったのにモールス信号を覚えるのか!」(たか氏)なんてボヤキまで飛び出す始末。
やってみると思いのほか盛り上がったゲーム・・・なのですが、やっていくうちに指令側=攻撃側、実行側=防御側と呼ばれてしまいます。
実行側は制限時間内に解除できなければ爆死してしまうので、実行側=防御側なのでしょうか。



よね先生&私チームによって幾度となく爆死させられていた会長・・・・・・闇の部分を見てしまいました。




5 月 2 日 ( 国 民 の 祝 日 )

大 会 2 日 目


この日の夕方は、「太田楼」で中華料理に舌鼓。



豚バラ、うまい!
他にも餃子、しそ餃子、炒飯、エビチリなどなどを美味しくいただきました。
が、この日は私のおなかが下り飛龍で、何度もトイレに籠らなければなりませんでした。
そのため料理の画があまりありません。


よね先生宅に戻り、試合再開。
この日は副会長たか先生が絶好調、



第4試合では混一色・一気通貫・一盃口・ドラ3の親倍をあがり、スコアを伸ばしていきます。
しかし次の試合では、



私が平和・断ヤオ九・一盃口・ドラ3の跳満を直撃し、たか先生を持ち点3,900点まで追い詰めます。
しかしこの試合・・・・・・。


この日もよね先生の勤務を考慮し、試合数は4試合で終了。

  

第5試合、私は飛ばされ、たか先生は40,000点超え。
ボストロールばりの自動回復を見せつけたたか先生が順調にスコアを伸ばしました。
ロケットスタートはできなかったものの、会長もここにきて躍進してきました。




5 月 3 日 ( 憲 法 記 念 日 )

大 会 3 日 目


この日も、前日と同様夕方皆で外食し、試合再開。



第10試合、沈黙していた前回王者・よね先生が爆発!
混一色・七対子・自摸・ドラ3の倍満をお見舞いしてきました。







よね先生、第10試合でスコアを大きく回復。
終わってみれば、たか先生の1強3弱の様相を呈してきました。
たか先生とのスコアは、2位の私からも135pts離れています。



さて私は、皆で麻雀と爆弾解除をする傍ら、ファミコン版のドラゴンクエスト2をプレイしていました。



ムーンペタ付近でマンドリルの集団にボコられて全滅・・・。



大灯台でドラゴンフライ*5 に焼き殺されて全滅・・・。



操作ミスで王女のみかわしのふくを捨ててしまい、王女を素っ裸にしてしまう・・・!



海底の洞窟でキラータイガーの襲撃にあい、脱出呪文リレミトを覚えている王子を討ち取られ、逃げの一手で脱出を図るも、結局全滅・・・。

そのほかにも幾度となく窮地に追い込まれ、退却を繰り返しながらも、最大の難所・ロンダルキアへの洞窟へと到達したのでした。





夜の皇居へ~新帝陛下にご奏上?

2019-05-12 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 ( 2 0 1 9 年 ) 5 月 1 日 ( 即 位 の 日 )

午 後 8 時 5 7 分

東 京 都 千 代 田 区

J R 東 京 駅 丸 の 内 南 口



2019年5月1日、令和の御代が始まり、私は横浜へ発ちました。
JR常磐線に乗って、南へ。
上野を過ぎ、その次のJR東京駅

久しぶりにライトアップされた丸の内駅舎を見たくなった私は、改札の外へ。



丸の内駅舎の南北にふたつある円形のドーム。
令和の到来を祝うとともに、新しい天皇陛下のご即位を祝う垂れ幕が掲げられていました。


外へ出ると、東京も雨。



東京駅丸の内駅舎【国指定重要文化財】。
雨のおかげで、路面が光を反射して幻想的な風景が映っています。
また道歩く人も少なく、ゆっくりと駅舎を眺めることができました。



振り返ると、人気の少ない雨の行幸通り
馬車の通り道となっている中央の通行帯を、街灯だけが照らしています。
連休まっただ中とあって、ビルの明かりはほとんど灯っていません。



行幸通りに立っている標識。
「信任状捧呈式関係車両」云々という注意書きは、本邦ではおそらくここだけのものでしょう。


薄暗い行幸通りを歩いて、このまま皇居のほうへ。
本日ご即位された、新しい天皇陛下にご挨拶を奏上いたそうではありませんか。


お濠沿いを通る日比谷通りを渡ると、



重厚な石垣!



広大な水濠!



たまらんのぅ~~
水濠に面している石垣は打込接ぎで、江戸城古来のもの。
通りに面している石垣は切込接ぎで、行幸通りを開通させる際にできたものだそうです。
石垣と水濠が塞いでいた部分に行幸通りを通すため、石垣を切り崩し、水濠を埋め立てたのです。
通りに面している石垣は、大正時代にできた新しいものですが、古来の石垣と比べてもまったく遜色なく素晴らしいものですね。


行幸通りをさらに進み、皇居へ。



向こうに見えるのは、(たつみ)【再建】です!
三の丸の南東(巽の方角)にある櫓で、「桜田二重櫓」ともいいます。
この日は、警察車両の赤色灯が妖しくきらめいていました。



閑散とした内堀通り
皇居の周りを走る者たちは、この日は皆無でした。
それとは対照的な、警らをしている警察職員の多さ・・・。



反社会的な者どもを押し込める車両もスタンバイ。
いやいや、私はそのような者ではありませんよぉ・・・・・・。
令和の初日に逮捕などされたくないので、近くにいた警察職員に尋ね、進入できる範囲を確認しておきました。



二重橋前広場まで来ました。
警察職員氏によると、ここに張ってある規制線までは近づいてもいいとのこと。



どうやらここまでのようです。
宮殿まではかなり遠いですが、ここからご挨拶を奏上いたしました・・・・・・心の中で。



正門石橋がよく見える二重橋濠ぞいまで近づくことができました。
向こうには伏見櫓【現存】が見えます。
夜のライトアップされた二重橋の画を期待したのですが、この日はやっていなかったようです。
そもそも二重橋のライトアップは、普段の日は行っておらず、年末年始のみに限られているようですね。


二重橋濠ぞいを歩き、



桜田門二の門【国指定重要文化財】が見えてきました。
頭上からは、「桜田門」の異名をもつ警視庁が私を監視しているようです。

江戸城には桜田門と呼ばれる門がふたつあり、ひとつは警視庁の近くにあるこちらの門で、正しくは外桜田門といいます。
もうひとつは、桜田二階櫓の近くにある内桜田門で、こちらは桔梗門と呼ばれることが多いです。
そのため「桜田門」は外桜田門のことを示す場合が多いです。



櫓門である桜田門二の門をくぐっていけば、高麗門である桜田門一の門【国指定重要文化財】があるのですが・・・
この日は「桜田門」の警戒が厳重だったので、近づくのは差し控えました。



晴海通りを歩いて、JR有楽町駅方面へ。



祝田橋からの凱旋濠
相変わらず見事な打込接ぎの石垣。
将軍の御膝元とあって、石1個1個がとても大きいです。
石垣が濠に出張っている横矢係りの構造も多くみられます。



日比谷濠ぞいを歩き、日比谷通りまで戻りました。
街灯が水濠を照らして、とても美しかったです。



図らずも、令和最初の城攻めをしてしまいました。





パンチョ柏&松戸二郎

2019-05-11 | グルメ


令 和 元 年 ( 2 0 1 9 年 ) 5 月 1 日 ( 即 位 の 日 )

午 後 1 時 4 0 分

千 葉 県 柏 市

J R 柏 駅 東 口 付 近



2019年5月1日。この日より令和の御代が始まりました。
平成最後にして、令和最初のゴールデンウィーク。
やることは全く変わりなく、集いて麻雀に興じるのです。



不退転の決意をもって本拠地を出た私。
入ったお店は、柏駅東口近くにある「スパゲッティのパンチョ」柏店
前回大会でも柏を出る前に食したナポリタンを、今回もいただきます。



ナポリタン・メガ盛り600g! うまい!!
スパゲティからの湯気で画がくすんでしまい、まずそうに見えますが、うまかったですよぉ~!

ナポリタンは、並みのサイズで400g、690円。
100g増しの大盛り、200g増しのメガ盛りもお値段据え置きというコスパの良さです。

さすがにナポリタンをひたすら食べると飽きが来そう・・・でもなく、すんなりと食べ進めることができました。
途中から粉チーズをかけていただいたのですが、この粉チーズがなかなか大きめな容器に入っていて、事実上の粉チーズかけ放題といったところ。



この日の勝負メシをがっつり味わった後は、近くのコメダでブログの編集をしていました。



天候はがらりと変わり、強めの雨が降っていたのです。




午 後 7 時 0 5 分

千 葉 県 松 戸 市

J R 松 戸 駅 西 口 付 近


松戸に着いても、強い雨は止みそうにありません。
渋々デイリーヤマザキでビニール傘を購入し、松戸の繁華街へ。



悪天候の中、漢の群れが列をなす「ラーメン二郎」松戸駅前店
ここを~今宵の勝負メシ・その弐とする!
しかしニンニク臭をお見舞いするわけにもいかないので、ニンニクは抜くこととしました。


並び始めてから約25分、ようやく店の出入口に到達。
この段階で食券を購入します。
券売機を見ると、小ラーメン、小豚ラーメン、大ラーメン、大豚ラーメンの4つだけ。
ラーメン二郎は店によってルールが異なるようですが、松戸二郎は入口に到達してから食券を買うようですね。


さらに5分後、ようやく着席できました。
カウンターに食券を置いて、勝負メシの着丼を待ちます。
麺を少なめにするときは、着席時に申告するのがルールになっています。
私の胃袋には、まだパンチョのナポリタンがまだ残っていたのですが・・・ここでの申告はパス。


着席から約10分、坊主頭の店主さんから「ニンニク入れますか?」と尋ねられました。
いつもなら、ここで「ニンニクヤサイアブラ」の呪文を唱えます。
しかしこの日は、ニンニクを忌避し、ナポリタンの名残もあったので・・・

「何も入れないでください!」

初めて用いた呪文を唱えないという選択肢。
場の空気が0.5秒ほど固まりましたが、意を察した店主さんより、



オプションを何も加えない、勝負の一杯を授かりました。



野菜増しにはしていませんが、モヤシとキャベツがなかなかの盛り上がり。
火山の種類でいえば、アスピーテ(楯状火山)とコニーデ(成層火山)のあいだくらい。
野菜増しにしている方の丼を見たところ、ほぼトロイデ(溶岩円頂丘)クラスでしたね。

量の大きさでは二郎の中でも有数ともいわれる、松戸二郎。
ナポリタンがまだ胃に残っている現状を考えれば、小ラーメンのオプションなしがちょうど良さそうです。



松戸二郎、うまい!
食べ始めは、アブラのかかっていない野菜を3口ほど。
次いで麺をほじくり出して2口ほど・・・そして、天地返し!
やや柔らかめの麺ですが、また旨し。



豚さんを表に出しました。
満腹になると真っ先に敵に回る豚さんは、早い段階でいただいてしまいます。
このほうが、豚さんを美味しく味わえるような気がしますね。


メニューにつけ麺もなく、トッピングもなく、ラーメンだけで勝負しているお店にふさわしい、「素の二郎」を味わうことができました。
気がつけば麺も野菜も豚さんも完食し、スープまですすっていました。
絶好調すぎる、私の胃袋・・・。



店を出ると、相変わらず降っている雨。
ビニール傘が別のものにすり替わっていましたが、そんなことはお構いなく、横浜へと歩き出したのでした。





三春城・後編~愛姫のご実家?

2019-05-01 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 9 月 1 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 6 分

福 島 県 田 村 郡 三 春 町

城 山 公 園 ・ 三 春 城 本 丸



この日の城攻め旅は、「白石リベンジ」
8年前に訪れたけど、まったく登城できなかった白石城を最終目的地としております。
そこでご覧いただきたい、1枚の画。



知る人ぞ知る、ナムコ「独眼竜政宗」
あの独眼竜政宗が、奥羽統一を目指して、頭と金と力を使う、実にわんだふるなゲーム!
そしてこの画は、年ごろになった政宗が嫁を選ぶというシーンです。
この中に、実在していた人物がふたりいます。

ひとりは、右下にいる「小十郎」・片倉小十郎景綱
伊達政宗の腹心で、のちに白石城の城主となります。
今回の旅は、片倉小十郎のお城をめぐっていく旅でもあるのです。

・・・では、小十郎と三春城との関係は?



同じくわんだふるなゲームより。
この画に登場している政宗さんと、下で激怒している秀吉さん。
三春城&小十郎をつないでいるのは、政宗さんではなく秀吉さんのほう。

豊臣秀吉奥州仕置により、小田原北条攻めで参陣しなかった奥州の大名たちは領土を没収されてしまいました。
三春城も没収の対象となったのですが、その三春を秀吉が小十郎に与えようとしたことがあったのです。
「伊達の知恵袋」として名高かった小十郎の才覚を秀吉は認め、大名に取り立てることにより政宗のもとから引き離してしまおうと企んだのですが、
「関白殿下(秀吉)に直接忠節を尽くすことと、政宗様への忠節を通じて関白殿下に忠節を尽くすことは同じ」
と断ったそうです。




そしてもうひとりが、小十郎の上にいる「めご」。
(めご)は、三春城主・田村清顕(きよあき)の一人娘です。
永禄11年(1568年)に生まれ、天正7年(1579年)数え年12歳で伊達政宗の正室となりました。


三春城を登城したこの日は、愛姫生誕450年の記念年・・・なのですが、愛姫の実家・三春ではあまり「愛姫推し」はしていない様子ですね。




さて私は、三春城の本丸にいました。
本丸ということで、スマホさんで「城攻め」を行います。



続日本100名城・第110番、三春城攻略!



ここでは片倉景綱には会えませんでした。
登用できた田村隆顕は、愛姫の祖父にあたります。



三春城の築城時期は不明ですが、16世紀初頭に田村義顕が本拠地として移ってきたことから、歴史の表舞台に上がります。
田村氏は分立割拠する小豪族のひとつで、婚姻政策により命脈を保ってきました。
義顕の孫・清顕は娘の愛姫伊達政宗に嫁がせました。
清顕は男子に恵まれずに死し、三春城は勢力拡大しつつあった伊達政宗の下に置かれ、清顕の甥・宗顕が城主となります。
しかし宗顕は、政宗の指示もあって豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため、領地を没収されてしまいました。

その後三春城は会津若松城の支城と位置付けられ、会津を領した蒲生氏郷上杉景勝蒲生秀行などの家臣が城代を務めました。
蒲生氏が改易となると、替わって会津に入った加藤嘉明の三男・明利、次いで松下長綱が城主となり、長綱のときに大改修が行われて現在残る姿となりました。
松下氏が改易されると、秋田俊季(としすえ)が三春藩主となり、秋田氏が明治維新まで三春を治めました。




いったん入口まで戻ります。



本丸を取り巻く石垣は、蒲生家臣・蒲生郷成の改修によるものだそうです。



帰りは階段ではなく、小道となっている坂を下りました。
こちらが本当の裏道だったところで、途中には搦手門が構えていました。



小道を下りきると・・・ここは進入禁止だったようです・・・。




二之門跡まで戻ってきました。
最後に、ここから本丸に続く大手道を上っていきましょう。



二之門跡の駐車場の先に、本丸へと続く大手道があります。



分かれ道は、城山を上っていきそうな左を進みます。
ちなみに右の道は、



竪堀跡、そして三の丸に続きます。



つづら折りの坂道、なかなかに急です。



カーブのところに門が構えられていたようです。
2番目のヘアピンカーブは、揚土門跡
愛姫の父・田村清顕死後の内紛では、この門を挟んで攻防戦が繰り広げられたそうです。
江戸時代の図面に揚土門はないので、改修時に撤去されたのかもしれません。



石垣?・・・ではなくて天然石のようです。



次のヘアピンカーブは、三之門跡
こちらは江戸時代の図面にも記載があります。
本丸まではあと少し。



石垣?・・・ではなく、こちらも天然石。



石垣かな~? 天然石かな~? 考えつつ階段を上りきると、

 

スタンプの絵柄になっている、大門跡から望む本丸に到達です。




午 前 1 1 時 2 4 分

城 山 公 園 を 出 る


二之門跡の駐車場に戻り、レンタサイクルを回収。
これよりJR三春駅に戻ります。



三春町役場の手前にある、三春町歴史民俗資料館自由民権記念館への入口。
入っていくと、



自由民権発祥の地の碑とともに、



河野広中像が立っています。
「自由民権」という言葉・・・・・・明治時代で自由民権運動といえば、連想するのは自由党板垣退助ですね。


明治維新後河野広中はイギリスの政治学者・ジョン・スチュアート・ミルの著書を読んで影響を受け、東北地方の自由民権運動の中心人物となりました。
土佐に下野していた板垣退助とともに国会開設運動をおこし、明治14年(1881年)には自由党の結成に参加しました。
明治15年(1882年)福島県令・三島通庸の圧政による福島事件で検挙され、禁固刑を受けることになってしまいます。
明治22年(1889年)明治憲法発布による特赦で出獄し、のちに開設された帝国議会で衆議院議員に選出されました。


その後自由党の内紛で脱党したり、桂内閣を糾弾する奉答文事件を起こして衆議院解散を招いたり、日露戦争の条約締結に反対する日比谷焼打ち事件を扇動したりと、なかなかのトラブルメーカーっぷり。
同じく対外強硬派であった大隈重信と行動を共にするようになり、大正時代の第2次大隈内閣では農商務大臣を務めました。




午 前 1 1 時 4 0 分

J R 三 春 駅


駅を下り立ってから約1時間半、再び三春駅へ。



駅に戻ってようやく、愛姫のご実家らしいものを見つけたのでした。





三春城・前編~福島なのに秋田さん

2019-05-01 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 9 月 1 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 0 8 分

福 島 県 田 村 郡 三 春 町

J R 三 春 駅



この旅最初に下車したのは、JR磐越東線・三春駅



阿武隈高地にあるこの町にも、続100名城に選定された三春城【三春町指定史跡】があるのです。
今回の「白石リベンジ」の旅にもほんのちょっと関わりのある三春城に、



レンタサイクルの力を借りて向かいます。
三春駅の中にあるばんとうプラザという土産物販売施設の、レジにいるお姉さんがエージェントとなって自転車を貸してくださいます。
自転車には普通のママチャリと電動アシスト付き自転車があり、料金はそれぞれ1日500円、1日1,000円となっています。
丘陵地にある三春を往くには電チャリの方が圧倒的に楽ですが、己の健脚を信じ、経費を節減すべく、ママチャリを借りることとしました。



三春駅を出たら、駅前を通る県道を右に進みます。
(画像のように、県道側から駅を見ている場合は左方向です)
とにかく東へ。



そのまま道なりに市街地方向に進んで、磐越東線の跨線橋を渡ります。
急なアップダウンは跨線橋くらいなものなのですが、地味~に緩やかな上り坂が終始続きます。



三春の市街地に入りました。
左に折れ曲がる急カーブに沿って進みます。つまりは道なりに行けばOK。


右手に三春郵便局が見えてくると、



左側には現在三春小学校の校門となっている藩講所表門【三春町指定文化財】が現れます。
三春藩の藩校・明徳堂の表門だったので、「明徳門」と呼ばれています。

18世紀末の藩主・秋田倩季(よしすえ)により、明徳堂が設置されました。
その表門であったのがこの明徳門で、扁額の揮毫は倩季本人によるものだそうです。
明徳堂は別の場所にあったそうですが、明徳門だけが現存し、三春小学校前に移築されています。

なお、明徳門のある場所は、追手門跡にあたります。
また、現在の三春小学校一帯に、秋田氏時代の御殿があったそうです。


明徳門を過ぎ、三春町役場も通過してしばらく進むと、



「←舞鶴城址入口」の看板が現れます。
「舞鶴城」は三春城の雅称ですので、ここで左に曲がりましょう。



三春城へ続く坂は、お城坂というそうです。



坂の途中から傾斜が急になっています!
つい最近も急な坂を上らされたばかりですが・・・



三春の坂もなかなか・・・ここを進むときだけは、レンタサイクルさんが足手まといになってしまいますね。



きつい坂を上った中腹にある二之門跡
ここから続く道が本丸へと続く正規のルート、すなわち大手道だったようです。
現在は駐車場が設けられており、私もここでレンタサイクルから下りることとしました。



【今回の移動記録】



JR三春駅 10時12分発
福島県道28号・本宮三春線、国道288号、福島県道40号・飯野三春石川線経由
三春小学校(明徳門) 10時22分着
城山公園(三春城址) 10時29分着

*移動距離 2.5km
*移動時間 17分
*速さ平均 8.8km/h  ※最後のお城坂で自転車を手押しした分、速さが伸びなかったですね。




二之門跡付近に立つ、江戸時代初期の三春城想定図。
このときの私は坂にやられていたため、「よくわかんねぇ図だな・・・」としか思わなかったのでした。
白字が江戸時代の三春城、緑色が現在の三春城を表しているようですね。
そして赤い点が現在地を表しているようですが、登城当時は「どれが現在位置だよ~???」と困惑していました。

この案内図をよく読むと、秋田氏入府時」とあります。
先ほどの明徳門のときといい、福島なのに秋田さんなんです。
秋田さん・・・その名のとおり、もとは秋田に住んでいた秋田さんなんです。


秋田さんの祖は、秋田地方に勢力を張っていた安東氏です。
現在の能代市にあった檜山城を居城とし、津軽半島西岸の十三湊を根拠地とする安東水軍、さらには蝦夷地の蠣崎氏とも連携していました。
8代当主の安東愛季(ちかすえ)は最大の版図を築き、「斗星の北天にあるにさも似たり」(北の空で輝く北斗七星のような、北国の名将だ)と謳われました。
愛季が壮年で急死し、子の実季(さねすえ)は若くして当主となると、お家騒動と周辺大名の侵攻の対応に追われますが、所領を守り抜いて豊臣秀吉奥州仕置を迎えます。
実季は秋田の所領を安堵され、秋田周辺の国司にあたる秋田城介(あきたじょうのすけ)にあやかり、秋田に改姓しました。

豊臣秀吉が亡くなり、天下分け目の関ヶ原へ。
出羽国(山形・秋田)では慶長出羽合戦が起こります。
安東改め秋田実季は東軍につきましたが、積極的な軍事行動を起こしませんでした。
西軍の上杉景勝と真っ向から戦う羽目になった最上義光が、戦後に実季の働きぶり(怠けぶり?)を徳川家康に報告したため、実季は常陸宍戸(茨城県笠間市)に移封されてしまいます。

実季の子・俊季(としすえ)の代に常陸宍戸から三春に移り、以降明治維新まで秋田氏が三春藩主を務めました。





レンタサイクルは二之門跡の駐車場に停めましたが、私はお城坂をもう少し進みます。
この日の天気予報は、気象庁によると曇り時々雨。
三春駅から三春城までは雨が降らなかったものの、城内に入って時折小雨がぱらついていました。



への入口。
「の」の字の色を変えて記述するのには理由がありますが、それはのちほど。



二の丸へと続く虎口?のような構造。
先の階段を上がると・・・



現在は児童公園となっている二の丸です。
三春城は、中央の城山に本丸、そこから西と南の尾根にそれぞれ二の丸と三の丸が造成されていて、空で鶴が舞うかのような縄張りを成していることから舞鶴城とも呼ばれています。

あと、ここで三の丸についても言及しているのは、時間の関係上三の丸に足を踏み入れることができなかったためです。あしからず。


二の丸から下りました。



本丸と二の丸を隔てる切通しです。
坂になっており、下れば二之門跡へたどり着きますが、ここは戻らずに上っていきます。



車も乗り入れることができる、山上へと続く道。
本丸へと続いているようなので、ここから上っていきます。



中腹の駐車場と分かれて続く、本丸への階段。
これらの通路や駐車場は江戸時代の縄張図には記載されておりません。
三春城が廃城となり、公園化したときに設置されたものなのでしょうか。



折れている「矢倉跡」の標柱。
このあたりに矢倉(櫓)があったと思っていたのですが、縄張図を参照するとそのような事実はなさそうです。
ただ単に折れた標柱が打ち捨てられているだけでしょうか???



本丸まではもう少し。
この階段もなかなか急ですが、これを上っていくと搦め手(裏道)に合流します。



搦め手に合流しました。
本丸を取り巻いている石垣が、わずかに残っています。
ここの石垣は蒲生氏郷が領主であったころに造成されたものだそうです。




「舞鶴城址」の標柱が立っているあたりに、搦め手を守る本丸裏門がありました。



これよりく本丸・・・



二之丸だと?!
丸はさっきあったじゃないか・・・ん? 二丸?
まぁいいでしょう、その四阿(あずまや)の横にあるのは・・・



100名城・・・じゃなくて続100名城スタンプです!
中にはスタンプに、三春城のパンフレットも入っています。



110番、三春城!
絵柄は・・・「大門跡」の標柱が立っているあたりのようですね、ゆっくり探してみるとしましょう。それにしても・・・

ここは本丸なのか、二之丸なのか?
二の丸はこっちなのか、あっちなのか?


手に入れたばかりのパンフレットを参照すると・・・四阿が建っている空間は「本丸」と明記されています。
そして先ほどの児童公園になっている空間が「二の丸」とあります。

う~~~ん、標柱よりもパンフのほうが新しい研究成果に基づいているだろうから・・・「二之丸」はガセなのかな?
この二の丸が表記ゆれ問題のおかげで、私は最後まで腑に落ちない登城を続けることになってしまいました。


じつはこの「二之丸」、間違いではありません。
現在までに「舞鶴城」と称される三春城は、江戸時代初期に松下長綱が三春藩主であったころに改修されてできあがったものなのです。
それまでは、城の主要部(江戸時代の「本丸」)が区分されており、「二之丸」はそのひとつだったわけです。

ちなみに松下長綱のお爺さん・松下之綱(ゆきつな)は、若かったころの木下藤吉郎(豊臣秀吉)織田信長に仕える以前に仕えていた人物といわれています。
三春城を改修した松下さんはその後改易されてしまい、秋田さんが三春藩を引き継ぐこととなります。



・・・というわけなので、松下氏以前の二之丸をここでは旧二之丸と表記することとします。





旧二之丸の南端から望む、城下町・三春。
三春城を翼広げる鶴になぞらえるならば、ちょうど鶴の頭にあるこの位置に御三階櫓が建っていたそうです。
先ほどの「矢倉跡」の標柱は、このあたりに立っていたのでしょうか。
城下から仰ぎ見ることができたであろう御三階櫓は、三春城にとっては事実上の天守だったのでしょうね。



旧二之丸にある、四阿付近にある礎石と標柱・・・。
気になりますが、それよりも草が深いです。
この日は小雨が降ったり止んだりだったので・・・私の大好きなスネークでも出そう・・・。


よし! ここは後で来よう。




虎口のような狭い構造を経て、



「本丸跡」の標柱が立つ曲輪へ。
この「本丸跡」も、江戸時代以前の本丸を示しています。ここでは旧本丸と表します。
江戸時代以降の本丸は、この旧本丸と旧二之丸の双方を含んでいます。
ここには本丸御殿が建っていたようで、



「奥跡」の標柱がある北側に、城主の住まう奥御殿があったそうです。

 

現在は秋田家祖先尊霊の碑が立っています。
石壇も据えられていてお墓のようなたたずまいなので、私も手を合わせましたが、お墓ではなく石碑なのだそうです。



尊霊の碑のそばには、明治戊辰役三春藩烈士碑が立っています。


幕末、勤皇(新政府)か佐幕(旧幕府)で揺れる中、三春藩の藩論は勤皇でした。
しかし小藩のため、周辺諸藩とともに佐幕派の奥羽越列藩同盟に加盟することを余儀なくされます。
新政府軍が列藩同盟軍の諸城を次々攻略し、次は三春城か・・・。
このとき下級武士であった河野広中は、新政府軍を率いる板垣退助美正(みしょう)貫一郎らと面会し、三春城の無血開城へと導いていきます。

列藩同盟軍はこの無血開城を「裏切り」と非難、同盟軍の陣に身を置いていた4人の三春藩士を死に追いやってしまいました。



三春の無血開城に尽力した美正貫一郎は、その後会津攻略のおりに戦死してしまいます。
板垣と河野のふたりは、後に明治の政界でその名を轟かせるのですが・・・それは後ほど。




奥跡の石壇から見た、旧本丸。



旧本丸の南側は、御殿の大広間があったそうです。



三春城の登城は、ここで折り返し点。
草地にあった礎石と標柱は? スタンプの絵柄の場所は?
板垣退助と河野広中の関係は?
あと、ここの城で生まれたというひとりの女性は?

続きは後編で。