鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

東北本線ほぼ完全制覇・最終章~かつての終点・青森へ

2016-10-29 | 鉄道の旅


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 1 1 時 2 2 分

青 森 県 八 戸 市

根 城 ・ 博 物 館 前 バ ス 停



青森県の100名城・根城【国指定史跡】の登城を終了。
前日とは打って変わり、この日は正午前になってようやく移動を開始します。

次の目的地は、青森県の西側・津軽地方の100名城・弘前城【国指定史跡】です。
弘前城は、日本に現存する12の天守で最北に位置します。
5月には天守や城郭を桜が彩る「桜の名所」として全国的にも有名です。

八戸からのアクセスは、まず青い森鉄道線青森へ出て、そこから今度は奥羽本線で南下するルートをとります。
八戸からいったん北の青森へ、そして西南の弘前へ。あたかも八甲田山を中心とする半円の弧をたどるようなコースで、青森県内を横断していきます。



まずは根城から八戸駅へ出なければなりません。



見えてきたのは、11時24分発 南部バス 八戸駅行きの赤い車体。
バスといえば、5分、10分の遅れは当たり前、20分ほどの遅れを計算に入れておくのが私の計画策定での注意事項ですが・・・
南部バスさんは定時運行を遵守していて、とても素晴らしい!
きっちり11時24分に乗車することができました。

乗車しようとすると、黄色いコスのおねいさん
どうやらアテンダントさん(乗務員)のようです。
乗車した私は、ドアそばの席に座ろうとしましたが、どうやらこの席はおねいさんが使っているような雰囲気・・・。
そこで私はそのひとつ前の席に座り、バスは発車しました。

案の定、おねいさんは私の後ろに着席。
せっかくなので話しかけてみました。

私『すみません、根城・博物館前から八戸駅までの運賃はいくらですか?』
「え~と・・・」

おお、私としたことが、不本意にもおねいさんを困らせてしまうとは・・・
おねいさんは手持ちの運賃表を読み解くのにてこずっています。

私『ちょっと貸してください・・・』
(運賃表を受け取る)
私『えぇと・・・はいはい、200円ですね』

私は運賃表を見て10秒で断定・・・おねいさん、なんか・・・ごめんね。



【今回のバス乗車記録】

根城・博物館前バス停 11時24分発
南部バス (T60)田面木・日赤病院経由 八戸駅行き
11時40分着

*乗車時間 16分  *運賃 200円




午 前 1 1 時 4 0 分

八 戸 駅 に 到 着




特段の混雑もなく、バスは定刻どおりに八戸駅に到着しました。



駅前の噴水には人魚像
日本有数の漁港を有する海洋都市・八戸を象徴しているようです。
私は見ませんでしたが、八戸市博物館には人魚のミイラなるものがあるのだとか・・・?


さて今度の列車は・・・



12時13分発 青い森鉄道線 快速列車「しもきた」 大湊行きです。
出発時刻までまだ時間があるので、改札口横で駅スタンプを回収。

  

青い森鉄道・八戸駅と、その傘下であろう北隣の陸奥市川駅と南隣の北高岩駅のスタンプもありました。
八戸駅のスタンプの絵柄は、「南部一ノ宮」と称される櫛引(くしひき)八幡宮正門【国指定重要文化財】です。
北高岩駅の絵柄は、八幡馬(やわたうま)という八戸の郷土玩具だそうです。
陸奥市川駅は・・・ネタ切れだったんでしょうねぇ。



そして、朝食を摂らずに城攻めをしたので、ここで食事をしておきたいところ。
前日見た感じで駅構内に立ち食いそば屋さんはなさそうだったので、



八戸駅のロータリーに面している「食処 味まる」というラーメン屋さんに入店しました。
駅のロータリーに面している店は、同好会員おなじみの某食堂という炎上必至の店がありますが(内輪ネタ失礼)・・・ここはどうでしょうか?

入店してみると、狭いながらも昼休み(出張中か?)のサラリーマンでにぎわっています。
老人のたまり場となっているどこぞ(内輪ネタ失礼)とは違いますね。

時間があまりない中でササっと食せるものを注文しようとも思いましたが、来ているリーマンたちがこぞってオーダーしている「日替わり定食」(850円)なるものを私もオーダーしました。



味まるの日替わり! うまい!
魚介ダシのスープで食する中華そばミニ叉焼丼、なぜか冷奴と、私の苦手なたくあん
店頭に「いわし」「さば」の文字もあり、スープはガチガチの魚介系かとも想像しましたが、ダシは控えめのさっぱりした醤油スープで、スルスルと食べ進むことができました。
叉焼丼の油ものと、冷奴の水ものという対照的な組み合わせも面白く、私は空腹が程よく充たされていきました。



スマホさんで列車の発車時刻を確認し、急遽みどりの窓口に立ち寄ったうえで、いよいよ八戸を発つときは来ました。



地方に来た~!という感覚を味わわせてくれるこの車両は、キハ100形というそうです。
列車は2両編成で、座席は進行方向左側が二人掛けのボックスシート、右側が一人掛けのボックスシート的な配置です。
快速列車だけあって乗客は多く、私はお立ちでこの日の乗り鉄をスタートすることになりました。




午 後 1 2 時 1 3 分

八 戸 駅 を 出 発




農業、漁業、工業が共存する街・八戸ともお別れです。



この日も、実り始めた稲穂をかき分け、列車は進んでいきます。


12時22分。八戸発車から9分で最初の停車駅へ。

 

スタンプのネタに窮した陸奥市川駅を飛ばして、下田駅に停車します。
伊豆半島の先っちょではないですよ~、あちらは「伊豆急下田」ですよ~。


青い森鉄道はその名にふさわしく、



青い森の中をひたすらに進んでいきます。


12時30分。



向山駅を通過し、2番目の停車駅は三沢駅
私の近くに立ち、目の保養を17分間務めてくれたナイスバディのおねえちゃんは、外人の男とともにこの駅で下りていきました。
さすがは空港と基地の街・三沢です。くぅぅ・・・。

三沢の次は、小川原、上北町、千曳(ちびき)の各駅を飛ばし、一気に乗換駅の野辺地に進みます。



小川原・上北町間で、日本有数の汽水湖・小川原湖が見えてきます。
それもつかの間、上北町を通過すると、





森、ときどき田んぼといった光景になります。


森を抜けてきたところで、野辺地駅に到着します。




午 後 1 2 時 5 4 分

青 森 県 上 北 郡 野 辺 地 町

野 辺 地 駅 に 到 着




三沢駅から24分間ノンストップで、野辺地駅に着きました。
乗車してきた快速「しもきた」は、この後JR大湊線に進入してしまうので、ここで乗り換えとなります。



向かい側のホームでは、13時02分発 青い森鉄道線 快速列車「しもきた」 青森行きキハ100形の気動車が待機しています。
この列車は先ほどの列車とは逆に、大湊線からやって来たものなので、もうすでにかなりの乗客を乗せています。
車両数も半減の1両、座席を確保するのは無理・・・ということで、わずかな時間で野辺地駅散策。



次の列車の発車時刻までは、約7分ほど。



野辺地町にある常夜燈【野辺地町指定文化財】の模型。
現存するものでは日本最古の常夜燈です。
陸奥湾(野辺地湾)に面する野辺地は盛岡藩領内にある日本海航路の拠点となる港町で、また弘前藩との境界に近いところにありました。



野辺地駅のスタンプ。
この常夜燈あたりが絵柄になっているかと思いきや、絵柄は駅舎でした。



野辺地駅駅舎外観。
看板は「青い森鉄道 のへじ駅」となっていますが・・・



1番線ホームの駅名標だけはJR東日本様式になっています。
時間がない中トイレを早々に済ませ、列車は13時02分、定刻どおりに発車しました。



野辺地駅からしばらくは、野辺地湾近辺を進んでいきます。





車窓からは向こうに野辺地湾、そのさらに向こうに下北半島が見えます。





ですが次第に海から離れ、



「青い森鉄道」らしく森が迫ってきます。



森の合間に、美しい色の田。



乗換後最初の停車駅、小湊駅は、夏泊半島への拠点駅のようです。
青森県の2大半島(津軽&下北)に囲まれる陸奥湾、その陸奥湾にちょこんと突き出している半島が夏泊半島で、夏泊半島と下北半島に囲まれる海域が野辺地湾です。



列車は小湊駅を後にしました。
そういえば最後尾にいたから、後ろの車窓も撮れるなぁ~と思って撮ってみた1枚。



小湊駅を出て1分後に渡った川。森の向こうが夏泊半島です。



えらくまっすぐなレール。



森&田の光景から、



再び海の光景へ。



水辺にたたずむ亀のような形をしているから亀島・・・ではなく、(かもめ)が見えてきたら、青森の温泉地・浅虫温泉までもうすぐです。



鴎島とは別の島、まるっこい湯ノ島が見えたところで、列車は2番目の停車駅・浅虫温泉駅へ。








列車はしばらく陸奥湾ぞいを進みます。
小湊駅付近までは北西に進んでいた路線は、浅虫温泉から南西に方向を変えて青森を目指していきます。
そのため陸奥湾の向こうには津軽半島が見えてきます。



そのうち海とはお別れ。列車は青森市街に入っていき、



3番目の停車駅・東青森駅




車窓から目に入る建物は、その数と大きさを増していき、



13時43分、かつての東北本線の終点・青森駅に到着しました。


これによって、新旧含めて東北本線は完全に制覇した!と言ってもいいでしょう。
何? 東京・大宮間はどうしたと?
その区間は何度も乗っているからいいんです!

ほらね!! ⇒ 100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」最終話より



しかし今回の目的地は、青森ではなく弘前。
さらに移動を続けます・・・が、この青森駅でちょっとしたサプライズが私を待っていたのです。



【今回の乗車記録】

青い森鉄道 八戸駅 2番線 12時13分発
青い森鉄道線 快速 しもきた JR大湊線直通 大湊行き 2両ワンマン
野辺地駅 2番線 12時54分着

野辺地駅 1番線 13時02分発
青い森鉄道線 快速 しもきた 青森行き 1両ワンマン
青森駅 1番線 13時43分着

*所要時間 1時間30分 (乗車時間 1時間22分  待ち時間 8分)
*移動距離 96.0km   *運賃 北海道&東日本パス使用(不使用の場合は2,280円)





根城・最終章~淑女とめぐる史跡根城の広場

2016-10-26 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 9 時 4 6 分

青 森 県 八 戸 市

史 跡 根 城 の 広 場







八戸市博物館で手荷物をコインロッカーに預け、予備知識を学んだ末、ようやく根城の登城に向かいます。




旧八戸城東門【八戸市指定文化財】。
この先が史跡根城の広場となっています。


いざ、往かん!


するとひとりの女性が話しかけてきました。

「ガイドはいかがですか? 無料でやっているのですが・・・」

その語り口は明らかに南部訛り、齢は50代後半であろう淑女の申し出に、私は何の異論もありません。
喜んでご同行を願うこととしました。ただし・・・

私『少々時間が限られているもので・・・』
淑女「どれくらいですか?」

この日は、根城を登城したのちに弘前城に向かう予定。
弘前には午後3時前には到着しておきたいので、逆算すると根城の最寄りの根城・博物館前バス停11時24分発のバスに間に合うようにしたいところ。
登城の後に博物館で荷物を回収する時間を考えると、根城を周遊できる時間は・・・

私『1時間強くらいでしょうか』
淑女「1時間ですか? わかりました。少々駆け足になりますね」

ここに淑女とめぐる史跡根城の広場の段、開幕。

(さすがに仇敵?にあたる「弘前」の名は伏せました)



旧八戸城東門をくぐると、



空堀が通っていて、



東善寺館と呼ばれる曲輪に入ります。

広場はとてもよく復元、整備されています。
このあたりには梅、桃などの果実のなる木や、薬効のある草木が植わっていたようです。
現在もそれらの樹木、草木が植えられています。




ハナショウブが植えられている空堀を渡ると、中館と呼ばれる曲輪へ。



この曲輪に限らず、広場内には多くのシダレザクラが植えられています。
淑女によると、これらの桜は山梨県にある日蓮宗の総本山・身延山久遠寺から贈られたそうです。

日蓮宗の開祖・日蓮が佐渡への流刑を解かれ、鎌倉へ戻ったおり、南部氏の始祖・南部光行の三男・南部実長(さねなが)により迎えられ、身延山に久遠寺を創建しました。
実長は根城南部氏の祖とされ、自らも日蓮宗に改宗しました。
博物館前に立っている銅像の南部師行は、実長の家系に養子として入り、これを継いだものとされています。
(諸説あり。師行と実長との家系にはつながりがない、とする説もあります)




深めの空堀の先が本丸です。
ここから先が有料で、入城料は250円。
博物館との共通券は400円となっていて、私はすでに共通券を購入済みなので、淑女とともにそのまま入っていきます。

本丸をはじめとする各曲輪は空堀で囲まれていて、防御力を上げているほかに、自軍の騎馬隊を走らせて敵軍に奇襲をかけることもできるようになっていました。
本丸と中館の間には木橋【復元】が架けられ、当時はそれを使って行き来しました。



木橋の先にある東門【復元】が、本丸への正門とされていました。
現在は土橋が造成されていて、ここから本丸に入れます。


本丸の入口にある南部家家紋の案内板より。



南部家は甲斐源氏(武田氏)の庶流であることから、当初は左の「武田菱」を用いていました。
そして室町時代以降用いられているのが「南部鶴(向かい鶴)」です。

「南部鶴」が家紋になった由来は諸説ありますが・・・

応永18年(1411年)、隣国出羽(秋田)の安東氏が攻め込んできました。
三戸南部家の南部守行は、根城南部家の光経に命じ、迎え撃つこととしました。
光経は仙北に向けて出陣し、安東勢と対峙しますが、なかなか手強く容易に打ち破れません。
そこで、出羽国(山形)の霊山・湯殿山で七日七晩、味方の勝利を一心に祈願しました。

満願の夜、光経は不思議な夢を見ました。
それは、二羽の鶴が山の上を飛んでいる夢でした。

「鶴は長生きのめでたい鳥、命永らえて勝利を勝ち取るとの夢のお告げである!」
光経は全軍に決戦を指示しました。
すると不思議なことに、戦場の空に夢で見たような二羽の鶴が現れたのです。
これで南部軍の士気は大いに高まり、大勝利を収めることができました。

この勝利を記念して、これ以降南部家では二羽の鶴を表す「向かい鶴」の家紋を使うようになったといいます。


淑女がそう話すと、私にひとつの問いを与えてきました。



「『向かい鶴』の左右の鶴は、1ヶ所だけ異なるところがあります。それはどこでしょう?」

私は1分たっても見つけることができずに降参、「サイゼリヤの間違い探しより難しい(>_<)」と思いました。
正解はのちほどお伝えしましょう。



淑女のガイドがとてもわかりやすく、私も多少予習して知識をかじってきたため話は弾み、本丸到達は登城開始から35分経過していました。



本丸に入ると、正面に建っているのが主殿【復元】。



来客の接待や、儀式などの公的行事が行われていた場所で、普段はあまり使用されなかったのだとか。
しかしながらここではまだ立ち入らず、主殿の脇にある・・・

 

上馬屋から淑女の解説が始まります。

南部といえば、馬。
騎馬隊といえば、武田。・・・・・・いえいえ南部も勇猛な騎馬隊で知られていました。

武田家の庶流である南部家も、もとは馬産地である甲斐国(山梨県)を本拠地としていました。
南北朝時代、南部師行北畠顕家に従い奥州に下り、根城を築城しました。
甲斐国同様、根城周辺も馬産地であったため、馬繁殖のノウハウを有していたであろう南部氏を顕家が配置したといいます。
一戸、二戸、三戸、四戸はなくて、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸はすべて馬牧場の番号から由来しているそうです。

そして馬小屋の中にいる当時の馬。
体躯は大きくなく、動物園で乗れるポニーのようなサイズ。
それでいながら面長だったそうです。


淑女による馬の解説が終わり、次は主殿の中へ。
この主殿の復元に八戸市は相当力を入れたようで、材木も良質のものを取り寄せ、何億円もの費用をかけたのだとか。
「そんなところに税金を使うなら云々」とちょっとだけ毒を吐く淑女とともに中に入ります。



まずは詰の間
来客の応対をする人が詰めていた場所だそうです。
いろりに吊り下げられているのは、ご当地らしく南部鉄器のようですね。



と呼ばれる廊下には採光のための窓があります。
窓はこのように板をせり上げて開けていました。
さらにこの窓、下の板も外れるようになっていて、非常時には板を外して逃走できるという仕掛けになっていました。



窓から外を眺めます。
正面の立木の向こう側には常御殿跡の柱、左奥は板蔵【復元】、右奥には工房【復元】が建っていました。
板蔵は一門が使用する道具や衣類を納めた蔵だったそうです。
また工房では武具を製作していたようです。



ふたたび主殿の中。詰の間の隣りは茶の間です。
その名のとおり、来客に茶を立ててもてなす部屋だったようです。



なんの変哲もない段差ですが、さすがはガイドの淑女、ここでも解説。
ここから先は高い身分の者しか入れなかったといいます。
そして段差の先にあるのが・・・



二の間です。
ここで控えていらっしゃる方は、お隣の広間で儀式の最中であるために、変事に備えて待機しているようです。

 

先ほどの茶の間と、二の間の天井を比べてみましょう。
右の画像である二の間の天井の方がしっかりとした造りになっています。
ここにも身分差が顕れているようです。



儀式が開かれている広間です。
ここでは「武事始め」と呼ばれる正月十一日の儀式を再現しています。
手前に着座する6名は、それぞれの曲輪にある館の主、いわば家老にあたる者たちです。
そしてひとりだけ甲冑をまとって当主にかしずいている者は「年男」で、淑女によると前年の「MVP」が宴に呼ばれ、当主より栄典を受けていたのだそうです。
奥に座る当主は、八戸政栄(まさよし)


八戸政栄(南部政義)は、戦国時代末期の根城南部家当主です。

このころの三戸南部家は南部晴政が当主で、南部家は最盛期を迎えていました。
「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われたのもこのころです。
しかし晴政には子ができず、娘を叔父の子・石川信直と一族・九戸実親に嫁がせました。
そして信直が後継者と目されていましたが、ここで晴政に嫡男・晴継が生まれました。
そうなると晴政にとって信直は邪魔な存在となってきました。
信直の妻(晴政の娘)が先に死ぬと、いよいよ信直の立場は微妙なものになっていき、両者の関係は険悪なものになっていきました。

(この合間をぬって津軽を奪い独立したのが、後の弘前藩主・大浦(津軽)為信です)

このとき八戸政栄は、信直の境遇を哀れに思い、信直を根城に匿ったそうです。

南部晴政が死ぬと、嫡男・晴継が後継となりますが、晴継は直後に病死してしまいました。
これは病死のほか、石川信直による暗殺説、九戸氏による暗殺説があります。
(さらに一説では、信直が晴政・晴継父子ともども攻め滅ぼしたというものもあります)

南部家を誰が継ぐか。
これをめぐり、晴政のふたりの娘婿が争うこととなりますが、八戸政栄は石川信直を推し、信直が当主に就きました。
信直は南部家を代表して、関白・豊臣秀吉に面会し、秀吉は信直を南部家の大名と認めました。
八戸政栄はこのとき留守を任されていましたが、これにより政栄をはじめ他の南部一族は信直の臣下に組み込まれることとなりました。
これを良しとしない九戸政実・実親兄弟は、南部家からの独立を画策して挙兵しますが、豊臣の大軍に攻められ滅亡しました。

以後、政栄は信直とその子・利直をよく補佐したといいます。
慶長15年(1610年)に死去。



さて儀式での食事はというと・・・

 

御前に鏡餅も供えられているし、餅なんだろうな~と思ったら、そうではないとのこと。
淑女によれば、餅は貴重品であったので、滅多には食べられなかったそうです。
じゃあこの味噌汁に入っているものは何かというと、豆腐だそうな。
味噌汁の隣りの白い直方体は、これも餅ではなくて生の大根なんだとか。
あとは煎り大豆と黒い何かと、酒。
とても質素なものだったといいます。



主君・政栄より栄典を受ける「年男」。
前年の勲功から毎年ひとり選ばれ、「武事始め」では甲冑をまとうのが通例であったといいます。



広間を去り、その裏手にある細長い重宝の間へ。
その名のとおり、南部家に伝わる家宝をしまっていた部屋のようですが、現在は当然そのようなものはなく、写真板だけです。

左は赤絲威鎧(兜、大袖付)【国宝】で、鎌倉時代末期の甲冑です。
大袖と兜の金物装飾から「菊一文字の鎧」とも呼ばれています。
右は白絲威褄取鎧(兜、大袖付)【国宝】で、こちらは南北朝時代の甲冑。
南部信光後村上天皇から拝領したものといわれています。
そして2領の甲冑はいずれも八戸市内の櫛引(くしひき)八幡宮に奉納されています。



主殿最後の間は祈祷の間
根城には東善寺があり、その住職が祈祷を行った部屋とされています。



主殿の外に出ました。
時刻は午前10時59分、そろそろ時間がなくなってきました。
淑女もそれを察し、解説は駆け足になってきます。

 

主殿の南側、常御殿跡と、工房【復元】です。
100名城スタンプは、常御殿跡の柱と、工房、主殿を絵柄にしているようです。



本丸南端の建物は板蔵【復元】。



主殿の脇にある縄文時代にもあったようなコレは、納屋【復元】。
米、味噌、梅漬けなどの食料が保管されていたそうです。
かの竪穴式住居のごとく地面を掘り下げており、これにより中が涼しくなるという効果があるそうです。



根城の本丸は半分程度しか回っていなかったのですが、次の目的地のために時間が差し迫っており、泣く泣く根城の登城を終了とさせていただきました。
詳細にガイドしてくれた淑女とともに、八戸市博物館まで戻ります。


根城の広場の入口である旧八戸城東門まで戻ったところで、淑女が突如商売モードに。
100円で手作りのしおりを売っているとのこと。
あれだけ熱心にガイドしてくださった淑女を、私が無下に扱うことはできるわけはなく、感謝の気持ちを込めて100円を寄付させていただきました。


博物館にて手荷物を回収。
そして退出する刹那、



誰だい、あんたは!?
ゆる~いお姿の彼を詮索することなく、バス停まで急いだのでした。






さて、淑女の問題の答えです。



鶴のくちばしを見てください。もうおわかりですね。
右の鶴はくちばしが開いているのです。






根城・第2章~複雑怪奇な南部一族

2016-10-25 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 9 時 0 8 分

青 森 県 八 戸 市

八 戸 市 博 物 館





午前9時に開館する八戸市博物館



館前には南部師行(もろゆき)公騎馬像が立ちます。


南部師行は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した武将です。
甲斐国(山梨県)に所領を持っていた師行は、新田義貞の軍に加わり、鎌倉幕府の討幕に武勲を立てました。

後醍醐天皇による建武の新政が始まると、陸奥守・北畠顕家(あきいえ)に従い、義良(のりよし)親王(後村上天皇)を奉じて奥州へ下り、鎌倉方の残党を平定する任務に就きました。
このとき顕家の命により、糖部(ぬかのぶ)(青森県東部から岩手県北部一帯)を治め、根城を築城して拠点としました。

建武の新政が混乱をきたし足利尊氏が反旗を翻すと、北畠顕家は強行軍で上京し、ついには尊氏を九州へと敗走させました。
この間師行は、尊氏方の武将と戦いを繰り広げています。

尊氏が九州に逃亡したあと、顕家はふたたび奥州に下りましたが、尊氏が軍を立て直し京へと攻め上ります。
師行は顕家に従い上京、尊氏方の軍勢と連戦することになります。
度重なる戦の果て、石津の戦いでついに潰走、顕家・師行主従は奮戦の末討ち死にしたのでした。



そしてこの師行ですが・・・
盛岡城主となった南部氏とはまた別の家柄で、「根城南部氏」の祖と称されます。
盛岡城の南部氏は当初三戸を拠点としたので「三戸南部氏」と呼ばれます。



・・・・・・今話は登城記、というより複雑怪奇な南部家をなんとか文章にまとめてみたというような内容になりそうです。



入館料は大人250円で、史跡根城の広場との共通券が400円です。
共通券は100円お得となっているので、私も共通券を購入しました。

博物館入口の受付で、100名城スタンプをもらうことができます。



5番、根城!
根城をめぐるのは次話・・・この絵柄の光景はどこにあるのでしょうか???

さて館内へ。
展示物を鑑賞する前に、まずはコインロッカーへ。
なにを隠そう、博物館に入った主たる目的はコインロッカーで手荷物を保管することです。
展示の鑑賞はおまけ程度に考えていたのですが・・・南部家が複雑なのでしっかり展示を見てしまいました。



最初に目にするのは、「八戸を襲った津波の高さ」の表示です。
東日本大震災で八戸に襲来した津波の高さは、1階の床面を0メートルとしたときに2階の天井のさらに3メートル上にも及んだそうです。
我々の想像をはるかに超える災害だったと実感。



2階に上がり、展示室へ。
展示内容は大きく分けて、縄文時代の出土品などの考古展示、南部地方の生活習俗を取り扱う民俗展示と、南部家の行跡を扱う歴史展示に分かれます。
「信長の野望」好きの私は、考古展示をすっ飛ばして歴史展示に足を停めます。

・・・「信長の野望」では伊達政宗をプレイする私にとって、南部家(南部信直)は最初の方で滅ぼしてしまうことは秘密です。


まず「甲斐源氏から糠部南部氏へ」のパネル。



根城南部氏も三戸南部氏も、もとは同じ源氏(河内源氏)をルーツにしています。

河内源氏の2代棟梁・源頼義
その長男は源義家(八幡太郎)で、鎌倉幕府を開いた頼朝、「牛若丸」義経に続くのですが、南部氏の祖はこちらではなく三男の義光(新羅三郎)です。

新羅三郎義光の嫡男・義業(よしなり)は、常陸国(茨城県)に勢力を構え、のちの佐竹氏の祖となります。
義業の弟・義清(武田冠者)も常陸国那珂郡武田郷(現在のひたちなか市)に所領を得ますが、紛争を起こして甲斐国に追放となりました。
義清の一族は甲斐国で勢力を伸ばし、「甲斐源氏」と称されるようになります。

甲斐源氏からは、戦国大名武田信玄を輩出する武田氏をはじめとする諸氏に分かれます。
そのひとつ加賀美氏から出た光行が、その所領であった南部郷(現在は山梨県の最南端に位置する南部町)から南部姓を名乗ったのが、南部氏の発祥といわれています。



つぎは「南部氏の流れ」のパネル。



南部氏の祖・光行の孫・時実(ときざね)から、三戸南部氏と根城南部氏に分かれていきます。
南部家の宗家は三戸南部氏であるとされています。

光行は源頼朝に仕え、糠部の地に所領を得たようですが、実際に居を構えることはなかったようです。
(光行が糠部の地を所領として得たという記録は、後世に記された家伝にしかなく、また天文8年(1539年)の本三戸城の火災で大部分が燃えてしまったといいます)

鎌倉幕府の討幕のおり、根城南部氏の祖となる南部師行後醍醐天皇南朝に与し、北畠顕家とともに奥州に下って根城を築き、糠部郡を治めたのは前に述べたとおりです。
師行は顕家とともに戦死してしまいますが、弟の政長が跡を継ぎ、根城南部氏は南北朝時代を通じて南朝を支持しました。

一方三戸南部氏は、南部守行北朝方につきました。
元中9年・明徳3年(1392年)の南北朝合一では、守行が政長の子・信政を説得して室町幕府に帰順させました。
時の将軍・足利義満は、守行の忠節と政長の篤実を称賛したといいます。

これまで活躍してきた根城南部氏は、このときより表舞台から退き、代わって三戸南部氏が出てきます。
根城南部氏は以後姓を「八戸」と名乗っていくこととなります。
一説によると、実は根城南部氏が南部宗家だったところ、このとき入れ替わって三戸南部氏が宗家となったともいいます。
それでも南部一族の間に明確な上下関係はなく、三戸南部氏を盟主とする同盟、連合のようなものでした。

その関係が変化するのが戦国時代の末期、三戸南部氏の当主はのちの盛岡藩の藩祖となる南部信直のころです。
豊臣秀吉による天下統一事業が進み、惣無事令(私闘禁止令)が発布されました。
そして南部信直は南部家を代表して秀吉に帰順したため、秀吉は信直を大名と認めたのでした。
これは、他の南部一族は信直の臣下に組み込まれることを意味し、さらに信直に背くことは惣無事令に反するため秀吉政権に背くことを意味しました。
実際に、信直からの独立を図った一族の九戸政実らは豊臣の大軍に攻められて滅ぼされました。

こうして南部家は三戸南部氏を頂点とする組織に生まれ変わり、江戸時代になると盛岡城に居を移し盛岡藩が成立しました。
三戸南部氏は「盛岡南部氏」と改称されます。
一方根城南部氏は、江戸時代初頭に居城を根城から遠野の鍋倉館に移ることとなりました。
のち姓が「八戸」から「南部」に戻ることを許され、「遠野南部氏」と称されています。





時は江戸時代に入り、展示の内容は八戸藩に関わるものが中心となります。
まずは八戸城御殿模型

八戸藩の成立は盛岡南部氏の分割相続によるもので、三八城公園の段で記述しているのでここでは割愛します。
「八戸南部氏」というと、江戸時代に成立した八戸藩の家系を表します。



八戸藩領地目録(写し)
許可証にあたる朱印状に添えてある書状で、将軍が藩主に認めた領地のリストです。
この写しは貞享元年(1684年)5代将軍徳川綱吉より与えられたものを、八戸藩の控えとして書き写したものだそうです。



将軍家に認められた八戸藩の版図はこんな具合です。
八戸藩の母体ともいえる盛岡藩の版図がなんとも広大です。
同じ青森県ということで、仇敵?ともいえる弘前藩と黒石藩の版図も載っています。
かつてはこれらすべてが南部家の版図であり、「三日月の 丸くなるまで 南部領」という歌(南部領を旅すると、領内に入る頃は三日月だったのに、抜ける頃には満月になるくらい広大だ、という意味)もありました。

肝心の石高はというと、江戸時代後期になると 盛岡+八戸≒弘前+黒石 といったところ。
岩手県は広大な割には平地が狭く、津軽平野を抑えた弘前藩の方が経済力があったようです。



博物館でもひときわ目を惹く調度品、八戸南部家旧蔵・大名婚礼調度【青森県指定文化財】です。
調度品に描かれる蒔絵の家紋は2種類あって、



ひとつは鶴が向き合って翼を広げる「南部鶴」



もうひとつは薩摩藩島津家(くつわ)十字」です。
八戸藩9代藩主(最後の藩主)南部信順(のぶゆき)は、薩摩藩主島津重豪(しげひで)の十四男で、天保9年(1839年)八戸南部家に婿養子として迎えられました。
このときの調度品が、現在も保存されているというわけです。
信順は天保13年(1842年)に家督を継ぎ、明治維新まで藩主を務めました。

幕末の戊辰戦争では、盛岡藩の南部宗家をはじめ東北諸藩は奥羽列列藩同盟を締結し、薩長が主導する新政府軍に抵抗しました。
薩摩出身の信順は列藩同盟の圧力を直に受けることとなりましたが、同盟に列しながらも新政府軍と誼を通じ、八戸藩領を戦火の手から守り抜きました。



明治2年(1869年)の版籍奉還で、信順は藩主の座を下り八戸藩知事に任ぜられました。
正式な官名は「知藩事」ですが、画像のとおり地名が冠となる場合は「●●藩知事」というそうです。ややこしい。

明治4年(1871年)の廃藩置県により、八戸藩はその幕を閉じることとなります。



最後に、民俗展示を少しだけ。



なんとなく気になった「猫イラズ」の看板。

 

食用菊の王様・「阿房宮」のコーナー。
八戸は食用菊の栽培が盛んで、味噌汁の具やおひたしなどにして食べたり、干し菊にして保存するのだそうです。
お造りに添えてある菊も「阿房宮」という種なのだそうです。



博物館の外に出ました。



移築されている旧八戸城東門【八戸市指定文化財】。
ようやくながら根城の登城にまいります。



100名城登城の旅・第15弾「北日本完全制覇!」第13話へ続く。


根城・第1章~翻弄する空き地

2016-10-15 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 7 時 5 0 分

青 森 県 八 戸 市

中 心 街 で バ ス を 待 つ



平日の出勤時刻とほぼ変わらない時刻にホテルをチェックアウトし、八戸城跡を見て回りました。
そのうえでこの日最初の100名城・根城(ねじょう)【国指定史跡】を登城すべく、バスが出ている八戸市の中心街まで歩いてきました。



八戸市の中心街です。
そして八戸は全国でも珍しい青空ターミナル(中心となる建物がないターミナル)で、中心街に乗り場が点在しています。



中心街を西に伸びる市道にある八戸中心街ターミナル5番のりば(六日町バス停)
ここから田面木(たもぎ)経由 八戸駅行きのバスに乗ることになります。


ここでひとつの問題。
根城の開城時刻は午前9時となっています。

・・・・・・まだ早い・・・。


 

バス停の対面にある複合ビル「ガーデンテラス」
その1階にあるタリーズで時間をつぶしました。


そして8時35分、定刻どおりにやってきた南部バスに乗車。


【今回のバス乗車記録】

八戸中心街ターミナル 5番のりば(六日町バス停) 8時35分発
南部バス (T60)司法センター・田面木・日赤病院経由 八戸駅行き
根城・博物館前バス停 8時45分着

*乗車時間 10分  *運賃 150円




午 前 8 時 4 5 分

根 城 ・ 博 物 館 前 に 到 着


 

ほぼ定刻どおりに根城・博物館前バス停に到着しました。
赤い帯が印象的な南部バスの車両ともお別れ。


時刻は午前9時前。
目的地の史跡根城の広場は開場していません。

ここで事前にプリントアウトしておいた資料を見ると・・・

 (※私が準備した資料はこちら ⇒ http://www.hachinohe-cb.jp/nejo/upload/nejou_info.pdf )

史跡根城の広場の外側にある三番堀沢里館跡は見学できそうです。
この地図をたよりに、先に見学することにしました。



ただの空き地じゃねぇの?



いちおう周りには土塁のようなものもあります。


人様の私有地にも見える“三番堀のようなもの”をそのまま歩くわけにもいかず、地図をたよりに沢里館跡へと向かいます。



民家が居並ぶ住宅街。この道でいいはずですが・・・



空き地に出てしまいました。
道筋ができているので、普段から人の往来があるようです。私も歩きます。



道筋の真ん中で左を見ると、どうやら博物館前で見た空き地が途中で折れ曲がり、続いているようにも見えます。
やはりこの空き地は三番堀なのでしょうか?



こんどは右側。空き地はまだ続くようです。
しかし草ぼうぼうなので無理な突破はせず、公道沿いを歩きます。



ふたたび空き地を貫く道筋。
たどって行くと、別の公道に出ました。
結局、この空き地が三番堀であるという確証は得られませんでした。




次は小高く盛り上がった土地。沢里館跡でしょうか?

 

付近にあった観音堂
「奥州南部糠部(ぬかのぶ)三十三観音」の第12番霊場・根城隅ノ観音だそうです。

観音堂の横。



高く積み上がった土塁。
やはりここが沢里館跡なのか・・・?



土塁が途切れている箇所がありました。
ここから中に入れそうです・・・が、やっぱり草ぼうぼう。
短パンという軽装で来ていた私は草地に入りたくなかったので、ここで沢里館の探索は打ち切り。





根城・博物館の面する国道104号線に戻ってきました。
時刻は午前9時09分、両施設は開場しています。





先ほどの空き地まで戻ってきました。
よくよく注意してみると・・・



ひっそりと石標が立っていました。やはりここは三番堀だったのです!
しかしこの石標、哀れにもごみ集積所にされてしまっています。





三番堀であることがわかりモヤモヤ感が晴れたところで、八戸市博物館に入館することとしました。





三八城公園

2016-10-12 | 城郭【その他】


2 0 1 6 年 9 月 1 5 日 ( 木 )

午 前 7 時 1 4 分

青 森 県 八 戸 市

J R 本 八 戸 駅 南 口



平日の出勤時刻とほぼ変わらない時刻に、ホテルをチェックアウト。
JR八戸線高架の反対側、本八戸駅南口に出ました。



駅舎とプラットホームの屋根のあいだから、前日宿泊したホテルが見えていますね。
このホテルは朝風呂も問題なく入れたし、まったく不可のないホテルでした(*^_^*)



さて、この日のスケジュールをかんたんにまとめますと・・・

(1)八戸市内にある根城(ねじょう)【国指定史跡】を登城。
(2)その後弘前へ移動、弘前城【国指定史跡】を登城。
(3)青森市内へ移動し、一泊。

・・・という具合です。
この日は青森県内を満喫し、「試される大地」への上陸は翌日に持ち越し、ということになります。

いちおう今回の旅は「北日本完全制覇!」と銘打っています。
青森県内の諸城をスルーすることは許されません。


そしてこの日最初の登城となる根城へのアクセスは・・・

(1)まず徒歩で八戸の中心街へ出ます。
(2)そこから八戸駅行きのバスに乗車します。
(3)途中の根城・博物館前バス停で降車します。

・・・という行程になります。


話はさかのぼること3ヶ月前。
本八戸駅前のホテルを予約したうえで、そこから根城へのアクセスを検索していたときのこと。
Google Map先生のお力をお借りしていたおり、Map先生がおもしろそうな場所を表示したのでした。

「三八城公園」

まず「何て読むんだ?」という疑問。
「さんぱちじょう」? 「みやしろ」?

そして「三八城」という公園の名称。
いかにも「お城がありましたよ~(*^_^*)」っていうネーミングです。
なんとも私の知的好奇心をくすぐるではありませんか。

まず、読みは「みやぎこうえん」

そして公園には、かつて八戸城が存在したことがわかりました。
さらには八戸城の建物が、公園近くの南部会館と、史跡根城の広場に現存しているとのこと。

そういったわけで、根城を登城する前に三八城公園に立ち寄ることとし、チェックアウトの時刻を早めにしました。



本八戸駅から八戸の中心街へと続く本八戸駅通りを歩いていきます。



「みやぎパーキング」
三八城公園の近くであることを実感させます。
ところで看板にひっついている、フキダシのようなものはなんでしょう?

「ここは三八城旅館っていう大きな旅館だったらしいよ」
「八戸の最高齢者は107歳!のおばあちゃんなんだって~!」
「平成8年8月8日生まれの八戸ッ子が6人!いるらしいよ(男子3人、女子3人)


みやぎパーキングの看板についていたフキダシは、正直どうでもいいような内容のもの。
こういったトリビア的な、というより本当の意味のトリビア(ムダ知識)が各店舗の看板、ウィンドウ、シャッターに記載されています。
なかには社長の趣味が何だの、といったまったく個人的なことをのたまうものもありますが、



「ここを曲がると↑三八城公園と↓おがみ神社があるらしいヨ」
という役に立つ情報もわずかにあるようです。
ナイスな情報をくれた酒屋さんの角を曲がり、フキダシのうるさい本八戸駅通りとはいったんお別れ。



住宅地へ入りました。通勤通学のため人通りがそこそこあります。
途中の十字路(画像中の人が歩いている地点)を右折すると三八城公園ですが、まずはこのまま直進。




三八城神社に着きました。



境内はそれほど広くなく、鳥居も立っておらず、そのまま拝殿へと通じています。



手水舎
木が茂っていて虫が多く飛び交っていました(^_^;)
メンテナンスは大丈夫なのだろうか・・・?



どこかで見覚えのある女の子



境内に置いてある大きな石。弁慶石というそうです。
案内看板によれば、石のくぼみが武蔵坊弁慶がつけた足形だそうです。
ちなみにその案内看板は前置きに、

「・・・後世の人々は『義経は・・・ひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅にでた』という伝説を作り上げたのである。
 世に言う『判官びいき』であろう。」

と記載して、あたかも弁慶石のいわれを否定しているようにも感じます。



三八城神社の拝殿
なんらかの作業をしていたのか、脚立が放置されています(^_^;)


三八城神社の境内は、もともと八戸城の本丸があったところです。
明治4年(1871年)廃藩置県で城内の建物が取り壊され、明治11年(1878年)その跡に建てられました。
祭神は八戸藩初代藩主・南部直房、南部氏の祖である南部光行と南部氏の祖先にあたる甲斐源氏の祖・源義光(新羅三郎)の3柱です。



旅の晴天と重要人物の護衛を祈願し、早々ながら境内を出ました。





次いで三八城公園へ。



公園に入ってすぐ右側に、ややひっそりと立っている「八戸城本丸跡」の碑
園内は八戸城の遺構がほとんど残っていませんでした。



園内にある築山。八戸城当時のものかは不明です。

 

築山に立っている八戸城跡碑
見上げるほどの高さがある、かなり大きな石碑です。
それに比べて字は小さく、何が書いてあるか読めません。(私が浅学の徒であることが大きな理由なのですが(^_^;))
そのためか、横には碑文の内容を現代語訳した案内板が立っています。
ここは案内文をまるごと借用させていただき・・・


寛永6年(1629)、南部利直は、荒地を開いて城を築き、周りには二重堀を巡らし、郡奉行をおいてこの地を治めていた。
寛文4年(1664)、利直の後を継いだ重直は、子がないまま没した。
この年将軍家綱は、重直の遺領10万石のうち8万石を次弟の七戸隼人重信に継がせ、末弟の中里数馬直房には2万石を与え新たに分家させた。

寛文6年、直房は八戸城に入り、それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。


(中略)

明治2年(1869)、版籍奉還して八戸城は政府の管理となったが、のちに子爵南部利克所有となった。
明治11年(1878)八戸城に三八城神社が創建され、新羅三郎義光南部三郎光行南部左衛門佐直房を祀り県社に名を連ねた。



・・・案内文はさらに続き、三八城神社の改築を記念して石碑を立てた次第である、と締めくくります。
この石碑は昭和3年に立てられたもので、碑文本体は漢文で記されています。

 

築山には八戸城跡碑をはじめとする数基の石碑のほか、八戸藩の藩祖・南部直房公銅像が立っています。
八戸藩は、石高では盛岡藩の約4分の1で盛岡南部家の傍流の出身ではありますが、将軍の裁定により成立した藩であることから、当初より盛岡藩とは独立した組織であるとみなされていました。


築山を下りて、公園の西側へ。



西側は断崖になっていて、八戸市内を一望できます。



三八城公園を出ました。



公園からそのまま進んだところにある八戸市公会堂



公会堂の脇に「八戸城跡」と「三八城公園」の石標が立ちます。



2本の石標のあいだにある立看板は、八戸城を案内するもの。
八戸城の由来とともに、往時の八戸城の図面と現在の地図(といっても昭和54年当時ですが)を重ねた地図を表示しています。



八戸市公会堂のあたりに、本丸と二の丸を隔てる堀があったようです。

また、八戸城があった当時の道の多くが、現在もそのまま利用されていることもわかります。
八戸城外、画像中央やや下にある、東西に進む二重の道もそのひとつで、この道路が現在の八戸の中心街を形成しています。

ちなみに昭和54年作成の看板なので、鉄道は「国鉄八戸線」、そして本八戸駅は「八戸駅」となっています。
現在の八戸駅は、最初は「尻内駅」で、本八戸駅が「八戸駅」でした。



八戸市公会堂から、ふたたび本八戸駅通りに戻りました。



「この門は八戸城の一部らしいですよ 『楼門』ってゆう構造では全国で最大級なんだって」
・・・という語法をちょっと誤っているフキダシのとおり、この門は旧八戸城角御殿表門【青森県指定文化財】で、八戸城の数少ない遺構のひとつです。
建築当初から移築されず保存されていて、現在は南部会館の表門になっています。


駅前通りを中心街方向へ歩いていきます。



八戸市庁前のロータリー。このあたりはもう八戸城の外にあたります。
2本のヒマラヤスギの大木が見事です。八戸城があった当時から立っているのかな・・・?

そういえば「八戸市役所」ではなく「八戸市庁」っていうんですね。
「市役所」を「市庁」と称するのは、どうも八戸だけなんだとか。



八戸の中心街に着きました。



先ほど述べた二重の道路です。
片側2車線の一方通行になっていて、こちらは西行きの市道。
ちなみに反対側は東行きの国道340号線で、こちらも一方通行のまま終点の国道45号に続きます。
ということは、国道45号側からは国道340号に入れないため、八戸側からは国道340号を走破することはできない、ということです。



だんだん八戸城とは関係がない話になってきたので、このへんで終了。








午 前 9 時 1 8 分

史 跡 根 城 の 広 場


忘れていました、八戸城のもうひとつの遺構・・・



史跡根城の広場に移築されている旧八戸城東門【八戸市指定文化財】です。

八戸城築城のおり、もともと根城にあった門を移築して使用したのが、八戸城東門だったそうです。
しかし幕末期に大風で倒れてしまい、再築したものを家臣の屋敷の門として用いていたのが、現存するこの門だそうです。



八戸城の登城、これにて本当におしまい。





東北本線ほぼ完全制覇・第3章~銀河と青い森

2016-10-07 | 鉄道の旅


2 0 1 6 年 9 月 1 4 日 ( 水 )

午 後 6 時 3 6 分

岩 手 県 庁 前



県庁近くの白龍(パイロン)」本店じゃじゃ麺ちいたんたんを食し、あとはホテルへ。


今回の旅の最終目的地は根室。
その途上にある城を取りこぼしなく登城することを考えると、盛岡で宿をとるわけにはいきません。
さらに北へ進まなければならないのです。


まずは県庁・市役所前バス停から盛岡駅に戻ります。
ここから盛岡駅へ向かうバスは本数が豊富なのですが、このときなぜか財布のひもをきつく締めてしまった私は、それらをスルーし狙いを100円バス一本に絞っていたのでした。

定刻から遅れること数分、盛岡都心循環バス「でんでんむし」右回りルートのバスに乗車。
そして6時51分、駅に到着しました。
定刻では駅到着が6時50分、なんとバスがかなり挽回したようです。


【今回のバス乗車記録】

県庁・市役所前バス停 18時40分発(遅れ4分)
岩手県交通 盛岡都心循環バス「でんでんむし」 右回り
盛岡駅東口バスプール 15番のりば 18時51分着(遅れ1分)

*乗車時間 11分  *運賃 100円




ふたたび盛岡駅



岩手が生んだ詩人・石川啄木の筆による「もりおか」ともお別れです。


盛岡から北へ向かう電車は、JRではなくIGRいわて銀河鉄道線&青い森鉄道です。
平成14年(2002年)に東北新幹線が盛岡から八戸まで延伸した際、在来線であった東北本線は第三セクターに移管されてしまい、これらの2路線になってしまいました。
この結果、日本一長い路線であった東北本線は、その座を山陰本線に明け渡すこととなるのです。
(新幹線がさらに延伸すると、その並行区間も三セク化し、東北本線は山陰本線、東海道本線に次いで3番目に長い路線となりました)



盛岡駅の在来線改札口・・・ですが、ここにIGRいわて銀河鉄道線の文字はなし。

 

JRの改札口へ続く通路から、すこし脇にそれたところに下り階段。
JRとIGRは別会社ということで、かなり隅に追いやられたという印象です。
JRの路線なのにIGRの方に追放されているJR花輪線がいささかあわれ。
といっても、花輪線は途中までIGR経由なので仕方がないのですが。



多少迷いながらも、IGRの改札までたどり着きました。



本日9本目となる電車は、19時09分発いわて銀河鉄道線 普通電車 青い森鉄道線直通 八戸行きです。



入線してきた電車は、何度も乗車してきた701系電車です。
座席はロングシートで、さらに通勤帰りの時間のため乗客はお立ちの方多数。
とても車窓は楽しめそうにありません。まぁそもそも夜なので、外はまったく見えませんがね。




午 後 7 時 0 9 分

盛 岡 駅 を 発 車


18きっぷユーザーにとっては壁として立ちはだかるいわて銀河鉄道
北へ向かう重要経路でありながら、盛岡・八戸間は18きっぷを使うことはできず、運賃をしっかり徴収されてしまうからです。
しかし・・・



今回の旅のおとも・「北海道&東日本パス」は、この区間であっても乗降自由。
気がねなく旅を続けることができます。




そうこうしているうちに、盛岡から11駅目・小繋駅の手前です。
刮目すべし! この運賃表を。
運賃は順調に右肩上がりの様相、高度経済成長期の我が国のようです。
この区間の初乗りが310円だと~!? 恐ろしい・・・。


なんだかあっさり進んでいるようですが、夜なので車窓は撮れません。
駅でも撮ろうとするのですが、窓に自分の姿が反射してしまうので思うようにはいきませんでした。
それ以上に、なぜかIGRの駅舎は電気を必要以上に消していて、暗かったです。

暗いのは、新幹線が停まる二戸駅も同様。
新幹線ホームは明るかったのですが、IGRのホームはかなり暗く、駅名標も消灯したまま。
新幹線ホームの明かりを借用しているような、そんな感じを受けました。

・・・いわて沼宮内にも新幹線が停まるだと?
そんな人がメシを食おうとしているところに「うまくない~うまくない~」と言い放つ駅など、私は知りません。
(「駅弁小噺」より)


二戸駅、斗米駅ときて、次は金田一温泉駅



初めて知りましたが、きんたいちおんせんと読むんですねぇ。
小説での某探偵氏も、国語学の権威の学者氏も「きんだいち」ですから、ここもそう読むかと思っていました。



金田一温泉駅。
「ようこそ、座敷わらしの里へ」とありますが、金田一温泉は座敷わらしという子供の精霊が出る旅館があるそうです。
駅舎の中に電灯がついていますが、灯っている電灯はそれだけで、ホームは真っ暗でした。

なお、金田一温泉駅で岩手県の駅は最後です。
ちなみに岩手県最北の駅は、当駅ではなく、八戸線の角の浜駅となります。


外は真っ暗なのでわかりませんが、馬淵(まべち)を越えると、青森県に入ります。



青森県最初の駅は、目時駅
盛岡からここまで、2,360円と、運賃の上がりっぷりが、18きっぷの1日分(2,370円)に迫る勢いです。

なお、目時駅は会社境界線となっており、その先は青い森鉄道線となります。


青い森鉄道線に入り、最初の駅は三戸駅



このとおり駅名標が点灯しています。
青い森は、どこかの銀河なんとかのように過度の節電はしていないようですね。


車窓が見えないので居眠りしつつ、



終点・八戸駅までもう少しのところまで来ました。
私が居眠りしている間も運賃は右肩上がりを続け、気が付けば3,000円を突破していました(・_・;)

18きっぷで旅する場合、この金額を容赦なく徴収されてしまいます。
この盛岡・八戸間、新幹線でも3,500円と、鈍行との値段の差が小さいので、18きっぷユーザーの多くはここを新幹線でワープするのだそうです。




午 後 8 時 5 6 分

青 森 県 八 戸 市

八 戸 駅 に 到 着




人生初の青森県に下り立ちました!
自身の最北端も、母方の実家のある秋田県鹿角市から青森県八戸市に更新されました!
この最北端、今回の旅で日々更新されていきます。

さて次の電車、ではなく列車の発車時刻まで少しばかり時間があるので、駅の外に出てみました。



八戸駅東口。駅舎より隣のホテルが目立っています。



駅舎の近くから。緑のライトで照らされた立木がイイ感じ。



東西自由通路「うみねこロード」も、夜遅いため閑散としています。


そろそろ発車時刻が迫って来たので、改札内へ戻ります。



この日最後となる10本目の乗車です。
最後の列車は、21時16分発 八戸線 普通列車 鮫行きです。



乗車する列車がこちら。あまり詳しくないですが、この車両はキハ40系気動車というようです。
この旅初の、電車ではなく気動車です。



八戸線ホームにかかる横断幕。
八戸駅から鮫駅までの間は八戸市内にあって、八戸といえば「うみねこ島」と呼ばれる蕪島という景勝地があるので、「うみねこレール八戸市内線」という愛称があるそうです。

・・・長い愛称だなぁ。でもあくまで愛称なので、まぁいいでしょう、控えめだし。
・・・愛称のくせにゴリ押ししてくる「東武スカイツリーライン」くんと「東武アーバンパークライン」くん、君たちを私はまだ許していないよ~、伊勢崎と野田の地名を覆い隠すことは許さんぞぉ~(*^_^*)



八戸線ホームの駅名標です。
いちおうJR東日本の管轄のはずですが、駅名標のスタイルは青い森鉄道のものに準じています。



もうひとつの駅名標。「うみねこレール八戸市内線」仕様でしょうか。



午後9時16分、列車は発車しました。

そして2駅目、



本八戸駅で下車。
本日の移動、ここに終了。



高架駅である本八戸駅のホームからは、本日宿泊するホテルが一望できます。


私が乗ってきた列車が、本八戸駅の最終列車。
駅が営業を終了する前に、ここで駅スタンプを確保しておきます。

  

スタンプは3つ。
「八戸三社大祭・えんぶりの駅」・・・これは「うみねこレール八戸市内線」バージョン。
「三社大祭」・・・こちらは古い「八戸線」バージョン。
もうひとつは「義経の紀行」?(印影が淡いのでよくわかりません)

「えんぶり」とは、この地方に伝わるお祝いの舞いだそうです。
「義経」云々は、よくわかりません・・・平泉での襲撃を逃げおおせた義経は、逃避行でこのあたりを通っていった、ということなのでしょうか。


本八戸駅を出ました。



本八戸駅北口です。
そして本日は、このロータリーに面したビジネスホテルに宿泊。
さきほどの画像でホテルの実名が判明してますね・・・こういう実名を明かすホテルは、とくに不満はなかったホテルです。
実名を明かさないホテルについては、なんらかの不満があったホテル、と思っていただいて結構です。



よしよし、いたって不可もない、普通のお部屋。
でもこれでいいんです、宿泊代は4,000円を切っていますし、なにより部屋にユニットバスがついています。
風呂は夜より朝に入る(夜にも入りますが)私にとって、自由に朝風呂に入れるのはかなり重要です。

まず朝風呂に入れないホテルについては、私はかな~りボヤキを入れます。

ともかく・・・八戸で、一泊!!



【今回の乗車記録】

IGRいわて銀河鉄道 盛岡駅 0番線 19時09分発
IGRいわて銀河鉄道線 普通 青い森鉄道線直通 八戸行き 2両ワンマン
青い森鉄道 八戸駅 3番線 20時56分着

JR東日本 八戸駅 1番線 21時16分発
八戸線(うみねこレール八戸市内線) 普通 鮫行き 2両
本八戸駅 2番線 21時24分着

*移動時間 2時間15分 (乗車時間 1時間55分  待ち時間 20分)
*移動距離 113.4km   *運賃 北海道&東日本パス使用(不使用の場合は3,230円・・・IGR・青い森鉄道 3,040円 JR 190円)





白龍(パイロン)

2016-10-07 | グルメ


2 0 1 6 年 9 月 1 4 日 ( 水 )

午 後 6 時 0 1 分

盛 岡 地 方 裁 判 所 前



盛岡城址公園をあとにしました。
櫻山神社でお詣りした神徳か、ぽつりぽつり降っていた小雨も止んでしまいました。

ちょうど夕食の時刻。
私はあらかじめチェックしておいた盛岡じゃじゃ麺の店まで歩くことにしました。


じゃじゃ麺とは、うどんのような麺を茹でて皿に盛り、ネギとキュウリ、そして特製の肉味噌をのせた、「盛岡のソウルフード」と称される料理です。
食べ方は、肉味噌を全体にぐっちゃぐっちゃにかき混ぜて食べるだけ。
わんこそば、盛岡冷麺とともに「盛岡三大麺」のひとつに挙げられます。


盛岡城跡公園から少し歩いて中央通りへ。



盛岡地方裁判所の前に来ました。
それでは出廷してきます!



こんな夕方に裁判は開廷しているわけはなく、そもそも私は訴訟案件を抱えているわけでもありません。
盛岡地方裁判所の敷地内に立っている1本の桜、これぞ名高き石割桜【国指定天然記念物】です。

裁判所は、もとは盛岡藩の家老の敷地でした。
その庭石が落雷により裂け目ができ、そこに何かの拍子でサクラの種が入り込み生長した、という言い伝えがあるそうです。

夕刻なので裁判所の門扉は閉ざされており、石割桜をじっくり見ることはできませんでした。


盛岡地方裁判所の隣り、



岩手県庁。その向かい、



櫻山神社の参道に入ります。そして参道沿いにあるのが、



盛岡じゃじゃ麺発祥の店・白龍(パイロン)」本店です。



いざ入店。
店内はかなり狭く、カウンターが6席程度にテーブル席が2ボックスほど。
繁盛店なのでほぼ満席、私はカウンターの入口に最も近い席に座りました。
私が着席したとほぼ同時に帰る客。私がいすをしっかり引いて座らないと通れない、それくらい狭い店内でした。

メニューは、やっぱりじゃじゃ麺
あまり聞いたことがないろうすう麺、サイドメニューのような焼きぎょうざ、水ぎょうざ

今回はじゃじゃ麺をじっくり味わうべくじゃじゃ麺・中盛(550円)を注文しました。

そして忘れてはいけないのが、我が天敵・キュウリを抜いてもらうこと
「白龍」ではキュウリを抜くことができることを知っていたので、じゃじゃ麺を食するならここ!と決めていたのです。

オーダーの後で麺を茹で始めるようです。
立ち食いそばよりは少しばかり時間を要しますが、それでもオーダーから3分後、



じゃじゃ麺・キュウリ抜き・・・ジュルジュル・・・うまいっ!!
うどんとは似て非なる麺がモチモチしていい食感です。
味噌は思っていたよりも塩辛いですが、食欲をかき立てる味覚です。
ねぎやおろししょうがの辛みがちょうどいい具合にパンチを利かせてきます。

・・・大盛り(650円)にすれば良かったかな~。

そういえば忘れていたものがありました。ちいたんたん(50円)です。
ちいたんたんは、じゃじゃ麺を食べた後または少し残したところに、生卵を溶き入れ、麺の茹で汁を注いで作る玉子スープです。
そのオーダーをすっかり忘れていましたが、追加オーダーでもできました。

私は味の薄い玉子スープになることを警戒し、味噌と麺を少し残したうえでカウンターに皿を渡しました。
するとちいたんたんのために肉味噌を追加してから茹で汁を入れてくれました。





ちいたんたん!・・・ズズズ・・・うま~い!
私の危惧をよそに、味噌のしっかりきいたスープが飲めました。

そして、思った以上に満腹感に充たされました。



午後6時22分、600円を支払い、「白龍」本店をあとにしたのでした。





盛岡城・後章~東北唯一の総石垣

2016-10-05 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 4 日 ( 水 )

午 後 5 時 0 2 分

盛 岡 城 跡 公 園



盛岡城【国指定史跡】の登城、本格的に開始。

時は夕刻、午後5時すぎ。
通常ならば登城の儀はできない時刻なれど、盛岡城は年中無料開放。
暗くなってしまわない限り、いつでも見聞することができるのです。

不気味な灰色の空の下、大手側にあたる北側から登城していきます。



まずは、さきに詣でた櫻山神社周辺から。



端整に成形された石による算木積みの角、そして側面はこれも成形がじゃっかん粗い石を用いた打込接ぎの石垣。
造成されたのは江戸時代中期と判明している石垣です。
その証拠が・・・



普請奉行銘石の存在です。

「宝永二 乙酉歳 九月二日
 奉行 野田弥右衛門 川守田弥五兵衛」

宝永2年は西暦換算で1705年、当時は将軍・徳川綱吉の晩年期です。
文字は現代人にも読みやすい楷書、私でも解読することができました(*^^)v




瓦御門跡を通り、三ノ丸へ。
進路が折れ曲がっているので、ここはかつては枡形構造だったのかな~と思いをはせてみます。
しかし手持ちのガイドマップを見ると、どうも枡形構造ではなく、門はひとつだけだったように記載されています。



三ノ丸に入りました。



三の丸の石垣・・・ではなく、三ノ丸の崖っぷち?から望む二の丸の石垣です。
この石垣は高さが約14メートルあり、盛岡城では最も高い石垣だそうです。



お次は二ノ丸



石垣によってカギの手に曲がった通路。
ここは車御門跡で、この先が二ノ丸です。



市民に親しまれている公園らしく、歩道が整備され樹木が整然と植わっていて落ち着いた雰囲気です。



二ノ丸の通路から外れた場所、片隅に立っているのは、石川啄木の歌碑です。


不来方(こずかた)の お城の草に 寝ころびて
空に吸はれし 十五の心


南部家の所領ははじめ現在の青森県から岩手県北部地方に及んでおり、居城は三戸城(青森県三戸)にありました。
南部信直の代、所領は岩手県中部にまで拡大するも、同族の大浦為信の離反で青森県津軽地方を失いました。
(ちなみにこの離反で信直は父・石川高信を討ち取られてしまいました。このため南部・津軽の怨讐は江戸時代を通じて続き、現在もなお津軽と南部は仲が悪いとか??)
そこで信直は、豊臣政権の有力者・蒲生氏郷浅野長政の助言もあり、また南が野心家・伊達政宗の領地と接することとなったため、居城を「不来方」の地に移すこととしました。

しかし着工翌年、信直は病没、嫡男の利直が継ぎます。
利直は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、所領を守りました。

慶長20年(1615年)ごろ、城がほぼ完成しました。
利直はこのときに地名を「盛り上がり栄える岡」という願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めました。

その後も工事は続き、利直の子で3代藩主・重直の代になり、寛永10年(1633年)に全城域が完成しました。
以後、明治4年(1871年)に廃城になるまで、南部家の居城であり続けました。



もう少し二ノ丸。



二ノ丸のふちから望む、三ノ丸の石垣。
粗く成形された大石に細かい石を埋め込む打込接ぎ、石を不規則に積む乱積みで造成されているこの石垣は、江戸時代初期のものです。


二ノ丸の先へ。



盛岡城のシンボルのひとつといえる朱塗りの渡雲橋。その先は本丸です。
本丸と二ノ丸を橋で結ぶ構造となっている城郭は、盛岡城と高知城だけだそうです。
またかつては「御廊下橋」と呼ばれていて、本丸から二ノ丸まで続く御殿の一部をなしていて、屋根付きの橋となっていたそうです。

 

橋の下は通路になっています。
本丸も二ノ丸も完全に石垣で囲われています。



本丸に入りました。



かつては御殿があった本丸も、いまでは植樹がなされていて落ち着いた空間になっています。



本丸の中央部にぽつんと残されている台座は、南部中尉銅像台座です。
戦前には南部家42代南部利拝の銅像が立っていましたが、戦中時の金属類回収令で接収されてしまい、現在も台座だけが残っているのです。


本丸を取り巻く石垣。



渡雲橋側の隅櫓跡



その反対側の納戸櫓跡



別の出入口・御末御門跡



現在はあずまや「凌虚亭」が立つ御三階櫓跡
いずれも大きな石が用いられています。
盛岡の採石の豊富さを物語っているようです。



御末御門より本丸を出て、淡路丸という曲輪に入りました。



淡路丸と本丸を隔てる石垣は、野面積みという自然石をそのまま積み上げたものとなっています。





この石垣は盛岡城内で最も古いものとされています。



本丸の周囲を時計回りに歩き、腰曲輪へ。



ここでついに雨が降ってきてしまいました。
神社で神頼みしたのに効果がなかったのか・・・・・・いや、それでも小雨程度だったので、この程度で済んでいるのは南部公のご神徳でしょう。
そう思いながら、城めぐりを続行します。



腰曲輪は本丸の北側。
こちらの石垣も古そうな野面積みです。



本丸を取り巻く石垣も、南西部に差しかかるとその姿が変わってきます。
だいたいが古式の野面積みなのに対し、こちらは石を成形して隙間なく積み上げる切込接ぎです。

時代が下るにつれ御殿が増築されていくと、本丸は手ぜまになっていきました。
そこで従来ある石垣のさらに外側に土を盛り、石垣を造成していったそうです。
造成された石垣が、新式の切込接ぎによるものだそうです。



本丸の西側。
御殿を増築するために、石垣からさらに張り出した建物ができたそうです。


本丸の北西側です。



二ノ丸と本丸をつなぐ渡雲橋まで戻ってきました。

 

渡雲橋をくぐって本丸北東側へ。
このあたりが100名城スタンプの絵柄になっている場所ですね。



さらに外側を周っていきます。



本丸の外側・淡路丸のさらに外周です。

 

淡路丸をとりまく石垣。
全体的に盛岡城の石垣は、それぞれの石が大きめです。
こちらの積み方は粗く成形した石を積み隙間を小石で埋める打込接ぎです。
右の画像中央部にある石に残っているくぼみは、石を割るときに打ち込んだくさびの跡です。


さきほどの淡路丸と腰曲輪の周囲を取り巻く帯曲輪



鶴ヶ池と呼ばれる水濠代わりの泉水が流れています。
この泉水は、天然の水濠にもなっている中津川につながっています。


淡路丸南東部の石垣。



画像右側のカドの部分には小さな櫓があったそうです。
そして画像中央右寄り、シダレザクラの木の近くに黒い穴のようなものがあります。
これは蛇口という排水口の樋で、外周の石垣にはところどころに備えられています。


さらに南東部。



石垣のカドがふたつ。なかなかの光景ですなぁ。
ここの上には二重隅櫓【現存せず】が建っていました。
南方から見ると、この櫓の延長線上には本丸の御三階櫓があり、あたかも5重の天守のようにも見えたそうです。


少し歩いて南側。このあたりは腰曲輪の石垣が目に入るところです。



白壁の蔵が1棟建っています。
この蔵が盛岡城唯一の現存する建物で、彦御蔵【現存】です。
もともとは別地にありましたが、市道の整備のため現在の位置に移築されました。
ちなみに現在彦御蔵が建っている場所は、別の蔵である米内蔵があったところだそうです。


南西側。

 

なかなか圧倒的な石垣です。


西側。



小さい曲輪・榊山稲荷曲輪を取り囲む石垣です。
カドの石垣の勾配は、西国や近畿の城郭と比べると緩やかであります。
ちょうど寺の屋根になぞらえて「寺の勾配」というそうです。



榊山稲荷曲輪付近の石垣。ここにも蛇口があります。
こちらの勾配は、少々急になっていますね。


北西側、二ノ丸西側を取り巻く石垣。



見ごたえのある高い石垣が続きます。
造成時期は、江戸時代中期だそうです。
よく見ると蛇口もあります。


さらに進み、二ノ丸北側と三ノ丸西側の石垣に着きました。



画像中央が14メートルの高石垣、左が江戸時代初期の石垣です。



盛岡城をぐるりと1周したところで、今回の盛岡城の登城はこれにて終了。





盛岡城・前章~プラザおでって&櫻山神社

2016-10-04 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 4 日 ( 水 )

午 後 4 時 1 7 分

J R 盛 岡 駅 東 口 バ ス プ ー ル



早朝5時半よりさいたまを発って約11時間。
コインランドリーの探索に手間取りながらも、手荷物を預けて盛岡駅を出ました。



夕刻に差しかかってようやく、この日の城攻めが始まります。

この旅最初の城は、盛岡城【国指定史跡】。
築城以来盛岡藩南部氏の居城であり、明治維新後は岩手公園となって市民の憩いの場となっています。

盛岡城は公園なのでほぼ年中開放されています。
そのためまずは100名城スタンプを確保しておくこととしました。



今回利用する交通手段は、盛岡都心循環バス「でんでんむし」です。
どこまで乗車しても100円というリーズナブルなバスで、まずはスタンプ設置場所であるプラザおでってに向かいます。



左回りコースの「でんでんむし」に乗車します。
右回りでも行けますが、遠回りのため時間がかかってしまいます。

あと、岩手県内のバスは、Suicaなどの交通系ICカードは使えません。


登城に割ける時間が限られている中で、この日は道路も混雑ぎみでした。
盛岡も交通量が多いのかな・・・と思いながら車窓を眺めると、



盛岡秋祭り(盛岡八幡宮例大祭)の山車行列に出くわしました。
前々から旅の準備を進めてきましたが、この日に大祭があるとは想定外。
残念ながらお祭りを楽しむ時間がない私にとっては、祭りによる渋滞にヤキモキするしかできませんでした。



盛岡城跡公園前バス停付近。
目の前に盛岡城の石垣が現れます。なかなかに圧倒的。
ですが、ここのバス停では下車せず、もう少し先へ。

バスは岩手地方裁判所、岩手県庁、盛岡東警察署といった公の機関が立ち並ぶ中央通へ。
この通りにある県庁・市役所前バス停で降りることとしました。

料金箱に100円玉1枚を投入して、下車。


【今回の乗車記録】

盛岡駅東口バスのりば 16番のりば 16時20分発
岩手県交通 盛岡都心循環バス「でんでんむし」 左回り
県庁市役所前バス停 16時29分着

*乗車時間 9分  *運賃 100円


最初の目的地はプラザおでって。
その最寄バス停は、盛岡バスセンター
このとき私はカン違いしていて、そのひとつ前で下車してしまいました。
すぐに誤りに気が付きましたが後の祭り、仕方なく手持ちの地図を頼りに歩くこととしました。


下車して徒歩10分。



レンガ造りの格調高い建造物は、旧岩手銀行本店本館【国指定重要文化財】です。

中央停車場(現東京駅)を手がけた辰野金吾葛西萬司が設計を担当しました。
明治41年(1908年)に着工し、3年後の明治44年(1911年)に竣工し、当初は盛岡銀行の本店として開業しました。
しかし盛岡銀行は昭和6年(1931年)に昭和恐慌のあおりを受けて破たん、2年後に解散することとなりました。
昭和11年(1936年)、岩手殖産銀行がこの建物を買い受け、本店としました。
昭和35年(1960年)岩手殖産銀行は岩手銀行に商号変更し、昭和58年(1983年)本店を移転しましたが、引き続き中ノ橋支店として使用されました。
平成6年(1994年)現役の銀行建物としては初めて国の重要文化財に指定されましたが、平成24年中ノ橋支店は隣地に新築し、この建物は現役を引退ということになりました。
現在は「岩手銀行赤レンガ館」として内部が公開されています。



旧岩手銀行本店本館と道を挟んで向かいにあるのが、



プラザおでってという観光案内施設です。
「おでって」とは、盛岡弁で「おいで」という意味で、「おでってくなんせ」(おいでください)が短くなった表現だそうです。

この日は例大祭があったからか、プラザおでって前広場にも出店が出ていました。
しかし私は出店のニオイ攻勢をくぐり抜け、プラザおでって2階へ。



ひとまず6番! 盛岡城!
少し失敗してしまいましたが・・・絵柄は本丸・二の丸間の石垣です。

ここでは盛岡城跡公園のパンフレットも入手できます。
中のガイドマップは、盛岡城の見どころが細かく記載されていて、登城時におおいに役立ってくれました。



それでは盛岡城跡公園へ。



プラザおでってのそばを流れている中津川
盛岡城を防衛する天然の水濠の役割を果たしたことは、想像に難くありません。
先に見えるのは、おそらく岩手山でしょうか??
(実際は岩手山ではないようです)



中津川に架かる中の橋を渡った先に、まず見えてくるのはもりおか歴史文化館です。
本来ならばここで盛岡城の歴史を学び、盛岡を統治した南部家の歴史を学ぶのがスジというものですが、なにぶん時間がありません。
ここでも100名城スタンプがもらえますが、歴史文化館は割愛させていただきました。



歴史文化館前の広場には、ペットボトルで再現した御三階櫓【現在はない】が展示されていました。





今度こそ盛岡城跡公園に入ります。
しかし「もりおかじょうあとこうえん」という読みはなんだかヘンな感じがします。


そもそも盛岡城跡公園は、もとは「岩手公園」という名称でした。
盛岡城が明治政府に明け渡され、城内の建物は破却されました。
その後明治39年(1906年)、「岩手公園」として一般に開放されました。

そして長く「岩手公園」の名称で親しまれていました。
岩手県出身の作家・宮沢賢治の作中でも「岩手公園」が出てきます。

しかし平成18年(2006年)、開園100周年を記念して盛岡市は公園の名称変更を発表しました。
これに対しては反発が強かったらしく、名称変更から愛称設定とトーンダウン。
そして愛称が「盛岡城跡公園」となったのでした。



私も「岩手公園のままでいいんじゃねぇ?」とは思いますが、とにかく紆余曲折、賛否両論ある盛岡城跡公園を歩きます。


まずは、公園の外郭を囲う池泉・鶴ヶ池です。



中津川と同様、盛岡城を守る水濠の役割も担っていました。


その先に、



櫻山神社神門が立っています。



櫻山神社は江戸時代中期の寛延2年(1749年)、盛岡8代藩主南部利視公が初代信直公のご遺徳を偲び奉るため、神殿を建立したことに始まります。
さらに盛岡藩11代利敬公は信直公を「櫻山大明神」と尊称し、文化15年(1818年)には南部家初代光行公を、大正元年(1912年)には利直公、利敬公を合祀致しました。


(櫻山神社社務所の立看板より)


さらに看板の案内表示を丸パクリさせていただいて・・・櫻山神社の御祭神となっている南部家の4人の当主をかんたんに紹介すると、


(1)南部家初代 南部光行
800年を超える南部家を興し、北東北の平安に努めた「永続神」
(2)南部家26代・盛岡藩初代 南部信直
戦国を英知・勇気・決断をもって駆け抜け、盛岡に藩を拓いた「開拓神」
(3)南部家27代・盛岡藩2代 南部利直
城を築き、町を整え、農産業の振興と五穀豊穣、領地安堵を図った「安泰神」
(4)南部家36代・盛岡藩11代 南部利敬
法律と 消防組を整え、学問を奨励し、藩校教育を推進した「学問神」


(櫻山神社社務所の立看板より)


・・・というわけで、



雨を降らせず、空を晴れさせたまへ~
4柱の御祭神を詣でました。
天候の安泰だから、今回のご担当は南部利直公でしょうか。


境内をもう少し歩いてみました。

 

御神木でしょうか。石垣の上に植わっていて、葉を繁らせています。
石垣と神木が一体となっているかのような、見事な姿です。

神木脇の階段を上がると、目の前にそびえ立つ大きな岩。



烏帽子(えぼし)です。兜岩とも呼ばれています。


盛岡城築城時、この地を掘り下げた時に、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきました。
この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され、災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の“お守り岩”として、今日まで崇拝されています。


(櫻山神社社務所の立看板より)


一般的に、東北地方は石垣に用いられる石の産出が少なく、石垣のある城郭は少ないとされています。
その中で、盛岡城は東北唯一の総石造の城郭といわれていますが、盛岡の地は東北にはめずらしく採石に適した地だったのかもしれません。



石垣で囲われた曲輪と、その上に鎮座する烏帽子岩。
烏帽子岩の大きさもさることながら、石垣を構成する石がなかなか大きいのも目を惹きます。
(この画像では遠近法で烏帽子岩が小さく見えますが、実際見たところでは石垣の石も大きかったです)



この後は櫻山神社の境内を出て、石造りの城郭へと足を踏み入れます。





東北本線ほぼ完全制覇・第2章~終点・盛岡へ

2016-10-03 | 鉄道の旅


2 0 1 6 年 9 月 1 4 日 ( 水 )

午 後 1 2 時 3 3 分

J R 仙 台 駅 在 来 線 中 央 改 札 前



 

仙台駅でこの日最初のまともな食事をした私は、「試される大地」を目指してさらに北上します。


この日6本目となる今度の電車は、



12時45分発 東北本線 普通電車 小牛田(こごた)行きです。

私事ではありますが・・・
大学在学当時、家庭教師のバイトをしていた私は、仙台駅から電車に乗って生徒さんのご家庭へと出向いたものでしたが、このときの電車がたいてい「小牛田行き」でした。
仙台市内からだいぶ離れたところにあるご家庭を担当することとなって、知人友人は「貧乏くじを引かされた」と言っていましたが、ここのご家庭が私をよくもてなしてくださいました。
ご夕食、休憩時のおやつ、そしてたまにお土産、さらにはお父様といっしょに国分町(仙台市内の繁華街)で飲んで、あげくの果てにはキャ●●●まで連れて行ってもらうことに・・・。

・・・というわけで、そこのご家庭にちょいと立ち寄る・・・時間などなく、北上の途を急ぐこととします。



この電車は、私の学生当時には存在しなかったタイプで、E721系というそうです。
座席は、ボックスシートとロングシートが併用されています。
ボックスシート窓側の席を確保できれば、仙台平野の車窓が楽しめそうです。

車両は4両編成・・・でしたが、さすがは仙台。
すでにお立ちの乗客もいるほどですから、当然私もお立ちとなりました。
しかしながらその分、フレキシブルに車窓を楽しめそうです。




午 後 1 2 時 4 5 分

仙 台 駅 を 発 車


電車は順調に北へと進み始めました。
しばらくは仙台の市街地を進むのですが、仙台から2駅目の岩切駅を過ぎると、



田園風景が目に入るようになります。いちおうまだ仙台市内です。
田んぼの向こうに見えるのは、新幹線の高架。
岩切駅で分かれる利府支線とともに、西に行ってしまいます。
岩手県の一ノ関駅まで、新幹線とはおさらばです。

 

岩切駅からさらに2駅、国府多賀城駅です。
その名のとおり、多賀城【国指定特別史跡】の最寄駅・・・ですが、この画像は失敗ですな(T_T)
右の画像は、多賀城築城のいきさつを示す多賀城碑(壺の碑)【国指定重要文化財】が安置されているお堂があるあたりです??


仙台駅を出て以来、私は進行方向左側のドアに寄りかかっていました。
国府多賀城の次、塩釜駅を出て、

「次は、松島です。 The next station is Matsushima. 」

ぼ~っと外を眺めていた私に自動放送アナウンスが耳に入ることもなく、



あ゛あ゛っ! 松島だ!! すっかり忘れてた!!
左側を眺めていた私は、右側に見える松島湾を見逃してしまったのです。
松尾芭蕉が「おくのほそ道」で記した「扶桑第一の佳景」(日本一の光景)。
私のデジカメさんにはこの程度のものしか収まりませんでした。
東北本線から松島湾を眺めることができるのは、塩釜駅を出てから約4分後のこの間だけ。
東北本線は内陸寄りを進むため、トンネル連続区間に入ってしまうともう眺めることはできません。



松島駅に到着する手前、突如海方向へ分かれていく1本のレール。
仙石東北ラインはここから東北本線を脱し、松島湾沿いを進む仙石線に繋がります。


松島駅からは、愛宕、品井沼と続きます。
品井沼駅は、かつて利府支線との分岐駅でした。
というよりも利府支線がかつての東北本線でした。

品井沼の次は、家庭教師に出向いていた鹿島台



おお~、えらく近代化されてしまったなぁ~。
私が学生のころは、平屋の駅舎に商店(キオスク?)がついていたのですが、いまはなんと橋上駅舎になっています!
ちゃんとエレベータもついています。
ここでも、眼に見えるかたちで時の経過を思い知らされました。そういえば18年前になるのか~(T_T)




電車は、仙台平野の田園地帯をひたすら北上していきます。
まわりはひたすらに田んぼです。



鳴瀬川を越えたところで、電車は終点・小牛田駅に到着します。




午 後 1 時 3 0 分

宮 城 県 遠 田 郡 美 里 町

J R 小 牛 田 駅


ひさしぶりのこごたです。



東北本線に加え、陸羽東線、石巻線、気仙沼線が乗り入れるターミナル駅です。
ゆえに乗り鉄には有名な難読地名ともなっている田。
なぜ「ご」「牛」なのでしょう???

諸説あるようですが・・・
まずこの地は奈良時代は小田郡に属していて、その一部ということで「小小田」(こごだ)と呼ばれていたそうです。そして・・・
(1)隣りの牛飼村とが合わさって「小牛田」と記されるようになった説、
(2)隣りの牛飼村小塩村の間にあり、土地開発により田園が拡がったため、2村の頭文字に「田」をつけた「小牛田」という地名になった説、
などがあるようです。

まぁ、平成の大合併でいまでは美里町になっちゃったんですけどね。



次の電車は、13時46分発 東北本線 普通電車 一ノ関行きです。



2両編成のE701系電車ということで、座席は車窓を楽しみにくいロングシート。
睡眠時間にあてるとしますか・・・。


電車は相変わらず仙台平野の田園地帯を進みます。



田。



た。



TA!!



たまに川。



数分おきに駅。この繰り返しで進んでいきます。
駅名標しか撮れませんでしたが、石越駅の次は岩手県に入ります。


岩手県最初の駅は、油島駅



駅名標だけ・・・しかも反対方向のやつ。



油島の次は、花泉駅。今度は駅舎だけ・・・プラス駅員氏。



次は清水原駅



お次は有壁駅
ここでなんと宮城県に逆戻り。
そのため有壁駅が宮城県最北の駅ということになります。

そしてふたたび岩手県に入り、



14時32分、終点・一ノ関駅に到着。




午 後 2 時 3 5 分

岩 手 県 一 関 市

J R 一 ノ 関 駅




一ノ関駅の外に出てみました。
ひらがなで「いちのせき駅」の駅名表記の左右には、左に「ようこそ一関温泉郷」、右に「『世界遺産』浄土の風薫る“平泉”」と大書してあります。
・・・ちゃっかり平泉に便乗しています。



一ノ関駅のスタンプ。改札口の脇にありました。
ひとつは「もちの里・いわて南の玄関口」というもの。
日本有数の米どころとあって、岩手県は豊かな餅の文化を有しています。



もうひとつは「厳美渓・いわて南の玄関口」
そういえば一関には厳美渓【国指定名勝】、猊鼻(げいび)【国指定名勝】がありました。
このふたつの景勝地を差し置いて平泉をパワープレイする一ノ関駅・・・やはり「世界遺産」の称号は強いようです。



今度の電車は、14時43分発 東北本線 普通電車 盛岡行きです。



電車は2両編成、色づかいは変わっていますが同じE701系電車
またも座席は車窓の観にくいロングシートです。



電車の中にはごみ箱が備わっています。首都圏の鉄道では見られない設備です。


乗客は意外と多く、お立ちの人もそこそこいました。
しかし平泉駅で、ほとんどの乗客が降りていきました。
やはり「世界遺産」は強い・・・。


平泉からは、東北の大河・北上川とともに北へと進みます。
岩手県は都道府県で第2位の面積を誇る県ですが、その多くが山地です。
岩手県の人口は、その多くが平地のある北上川流域に分布しています。
なので一関から北に、水沢、北上、花巻、そして盛岡と、トビトビに街があります。

乗客は、徐々に増え始め、そして学校の放課後とも時間が重なり、車内は高校生でいっぱいに。
私は車窓をあきらめ、人間観察でもして時を過ごすのでした。




午 後 4 時 1 1 分

J R 盛 岡 駅 に 到 着




現在の東北本線の終点・盛岡駅に到着しました。
大宮から盛岡まで、その距離は500km超。
これにて東北本線はほぼ制覇!と言っていいでしょう。
東京・大宮間? そこは何度も利用しているから、制覇ということでいいんです!!

そして、30年ぶりの盛岡。といっても盛岡は通過しただけなので、盛岡の街中を歩くのは初めてです。
しかしながら、あまり感傷に浸っている時間はありません。
早々にコインロッカーに荷物を預け、



駅舎の外に出ました。

午後4時を過ぎて、この旅最初の城攻めが始まりました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 仙台駅 2番線 12時45分発
東北本線 普通 小牛田行き 4両
小牛田駅 3番線 13時30分着

小牛田駅 2番線 13時46分発
東北本線 普通 一ノ関行き 2両ワンマン
一ノ関駅 1番線 14時32分着

一ノ関駅 2番線 14時43分発
東北本線 普通 盛岡行き 2両ワンマン
盛岡駅 7番線 16時11分着

*移動時間 3時間26分 (乗車時間 2時間59分  待ち時間 27分)
*移動距離 183.5km  *運賃 北海道&東日本パス使用(不使用の場合は3,350円)