鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

眠れぬ夜のムーンライトながら

2016-04-29 | 鉄道の旅


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 7 時 4 5 分

大 阪 市 北 区

J R 天 満 駅



天神橋筋商店街でお好み焼きを食べ、JR天満駅に戻ってきました。
あとは東に帰るのみ。



まずは大阪環状線で、一駅隣の大阪駅へ。


大阪からは大正義・新快速登場(*^_^*)
20時ちょうど発の京都線&琵琶湖線で、スムーズに米原駅へ。


米原からは、普通電車で関ヶ原を越え、大垣駅まで到達。


ここまでほぼ寝てました~(^_^;)




午 後 1 0 時 0 2 分

岐 阜 県 大 垣 市

J R 大 垣 駅




大垣からは、いよいよ夜行列車・ムーンライトながらに乗車します。

18きっぷユーザーにとってはほぼ御用達の電車。
日付をまたいで大垣から東京まで移動できる、いわば走る宿屋みたいなものです。
まぁ、居心地は最悪の宿屋ではあるのですが・・・。


22時42分発の快速電車が出発後、満を持してムーンライトながらが入線してきました。



私の指定席は、



「2番D席」です。
「D席」なので、進行方向右側の窓側です。

なんといってもながらは最悪の宿屋(^_^;)です。
窓側の席を取っておかないと、寝られません。


22時49分、列車は定刻どおり大垣駅を出発しました。




午 後 1 1 時 ご ろ

車 中 に て


隣りに座るのは誰かな~? 誰もいなかったら座席を広く使えるからすごくラッキーなんだけどな~。
はぁ・・・40過ぎのおじさんか・・・。やれやれ。

ともかく、あとは車中で寝るだけだ。
リクライニングシートを倒して、頭を窓に寄りかからせて・・・。

おじ「すみません」

関西弁のようなイントネーションで、おじさんが私に話しかけてきました。

おじ「私、子供連れなんですけど、子供ひとりだと心細いから席を換えてもらっていいですか?」

知らない大人との相席を子供ひとりというのはなんとも気の毒・・・仕方ない。

私「いいですよ~。いちおう指定席券も交換しておきましょうか」

こうして席を交換することになったのです。



新たな席は「3番C席」で、なんと通路側(ToT)
子供ひとりを助けたつもりが、眠れぬ夜を過ごすハメになりました。

さらに・・・新たなる敵。
JR東海からの刺客、検札の乗務員。
いつもは来ないJR東海の乗務員が、今日は検札にやって来たのです。
(ちなみに東京→大垣を担当するJR東日本の乗務員は必ず検札にやってきます



まずい、交換した指定席券はなんと小人のもの
このままでは・・・

ここであらかじめブログ用に指定席券を撮影しておいたことを思い出します。
デジカメさんを起動し、指定席券の画像を乗務員に見せて、事なきを得ました。


しかし、交換してしまった席を元に戻すことはできず。
私は寝づらい通路側の席で一夜を過ごすハメに。




ね、ね、寝れないんだよぉ~




翌 日 午 前 4 時 4 0 分

J R 横 浜 駅 7 番 線 ホ ー ム


夜も明けきらぬ午前5時前、横浜駅に到着。

くだんの親子も横浜駅で下車したようです。
お礼を言う親子(というよりおじさん単独)に対して、どんよりとした表情をひた隠しながら応じた私。

親子とは別れ、京浜東北線の発着する4番線ホームに移動し、ヤラれた表情で電車を待ちました。




午 前 5 時 3 2 分

J R 御 徒 町 駅


京浜東北線でゆっくりと北上し、約50分間車中で居眠り。
「ながら」よりも質の良い睡眠をとった私は、秋葉原の隣り・御徒町駅で下車しました。



朝そばで腹を満たし、



「燕湯」くそあっちぃ湯船につかり、長い旅を終えたのでした。



【今回の乗車記録】

JR西日本 天満駅 1番のりば 19時47分発
[O]大阪環状線 普通 ゆめ咲線直通 大阪・ユニバーサルシティ方面・桜島行き 8両
大阪駅 1番のりば 19時50分着

大阪駅 9番のりば 20時00分発
[A]京都線(東海道線) 新快速 米原方面・長浜行き 12両
米原駅 7番のりば 21時27分着

米原駅 8番のりば 21時29分発
東海道線 普通 大垣行き 4両
JR東海 大垣駅 5番線 22時02分着

大垣駅 5番線 22時46分発
東海道線 快速 ムーンライトながら82号 東京行き 10両
JR東日本 [JT05]YHM 横浜駅 7番線 翌24日4時40分着

[JK12]YHM 横浜駅 4番線 4時46分発
[JK]京浜東北線 各駅停車 大宮行き 10両
[JK29]御徒町駅 4番線 5時32分着

*移動時間 9時間45分 (乗車時間 8時間44分  待ち時間 1時間01分)
*移動距離 561.0km   *運賃 乗車券 18きっぷ使用(不使用の場合は8,750円)  指定席券 520円



日本100名城の旅・第14弾「はじめての四国」 完

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天神橋筋商店街でお好み焼きを食す

2016-04-29 | グルメ


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 6 時 4 6 分

大 阪 市 北 区

J R 天 満 駅



学生時代に食べたお好み焼き屋さんを探しに、JR天満駅にやってきました。

学生時代・・・というても、とうに15年以上たっています。
しかもこのときに大学当時の友達に連れられて一度訪れただけ。
たしか「一言ノート」みたいなものがあって、読んでみると日本全国からお客さんが来ているような、なかなかの名店だったような気がします。

このようなおぼろげな記憶をたよりに、とりあえず天神橋筋商店街を歩くことにしました。




このパチ屋のような派手なネオンサイン・・・これが激安で知られる噂のスーパー玉出のようです。
ここで買い物でもしようか・・・などとは露とも思わず、早くお好み焼きが食べたい私は、なおも商店街を歩きます。

この天神橋筋商店街、南北2.6kmにも及ぶ日本一長い商店街なのです。
徐々に空腹感と、本場のお好み焼きへの期待感が高まりますが、店探しはだんだん面倒になってきました。


・・・いいや、このさい近場の店で。


こうして、天満駅からそこそこ近いところ、「鶴橋風月」天神橋筋四丁目店に入店しました。

大阪のお好み焼きをがっつり食べようと思った私は、牛スジネギ玉モダン焼きをオーダー。
自分で作らなきゃいけないのかと心配していると、かわいいおねいさんが全部やってくれるというではないかっ!!



鉄板に生地を流し込んで、きれいな円形にしました。



生めんを乗せ、鰹節をまぶします。



華麗なターンオーバー。生めんが下に。



再び華麗なターンオーバー。



おねいさんが卵を片手で割り、おとなりに目玉焼きが登場(^^♪



ターンオーバー。ソースを塗って、マヨビーム発射(^^♪
さらに目玉焼きを載せまして・・・



最後にねぎを載せて、できあがり(^^♪

うまぁ~い!



日本100名城の旅・第14弾「はじめての四国」最終話へ続く。


大阪環状線完全制覇?

2016-04-28 | 鉄道の旅


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 6 時 0 3 分

大 阪 市 天 王 寺 区

天 王 寺 公 園



通天閣で浪花商人の心意気にすっかりヤラれてしまった私は、このままJR新今宮駅には戻らず、天王寺公園を経由して天王寺駅方向へ歩きました。



天王寺公園内にある天王寺動物園の入口ゲート前。
現代的な動物園のゲートの前には、なんと浮浪者が「ここをキャンプ地とする!」かのごとく居座っています。

・・・この街はやべぇぞ。

なんとなく事件に巻き込まれる恐怖を感じつつ、天王寺公園の遊歩道を歩いていきました。


そういえば天王寺は、大阪夏の陣徳川家康が本陣を構えた地。
先の冬の陣の講和で水濠を埋められてしまい、裸城になった大阪城。
玉砕覚悟で打って出た真田信繁(幸村)らの豊臣軍との激戦が繰り広げられた地でもあります。



茶臼山歴史について!

慶長3年、1598年8月18日、豊臣秀吉は、63才で死去!
死の直前、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家五大老、現在風でいえば大物大臣である!
さらに、五奉行石田成、浅野長政、増田長盛、前田玄人、長束正家をおいた、秀吉死去により、家臣石田成、浅野長政軍は関ヶ原で、徳川家康との最後の戦になった、秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦に出さず、豊臣家の家臣が、次々と徳川家に付き、関ヶ原で石田成軍が敗北した!

そのころ、真田幸村和歌山九度山にいた、大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった!
大阪城攻防で名高い茶臼山は冬の陣では家康の本陣となり、夏の陣では幸村の激戦地となった!
幸村は信州の田舎の住人で、父にならって、優れた戦略家であった!
夏の陣は冬の陣のわずか4ヶ月後のことで、幸村はただちに国分道明寺に出陣した後、大阪城最後の決戦にのぞむ!
主戦と成ったのは、茶臼山から四天王寺西門あたりで幸村軍はすさまじい勢いで家康軍に殺到したが、全員討ち死にし大阪城本丸炎上、秀頼、淀君討ち死に豊臣家二代にわたる栄華は、夢ときえた!!


(本文ママ、文字色の変更は筆者による)

なんとも気合の入った石碑ではありますが・・・赤字の部分は誤りです。

まず石田成は、正しくは石田成です。
そして前田玄人(くろうと??)は、前田玄以(げんい)です。
第3文目ははっきりいって構文がメチャクチャなのですが、徳川家康との最後の戦は関ヶ原ではなく大坂の陣なので、これもおかしい。
第4文目、真田幸村は「そのころ」ですが、「そのころ」は関ヶ原の戦いのころを表すので、関ヶ原の戦いのころは和歌山にはいません。信州上田で徳川秀忠の大軍と戦っていて、関ヶ原の戦後に和歌山九度山に流罪となります。
第6文目・・・「田舎」はひどくねぇ?
あと、句点(、)の使い方もおかしい。

はっきりいって酷い石碑であります。



石碑が立っているのはいかがわしげなホテル・・・それならばこの石碑も致し方ないか?


わけのわからん石碑を過ぎれば、すぐに大通りに出ました。



大阪ミナミの中心的なターミナル駅・JR天王寺駅です。
そばにある高いビルは、あべのハルカス

ああ・・・あべのハルカスに行けばよかった・・・とはもう言うまい。


このまま天王寺駅に入り、大阪環状線に乗車。

この旅最後の食事を大阪のお好み焼きと決めていた私は、かつて最初に大阪に来た時に食べたお店を、おぼろげな記憶とともに探すことにしました。
その店の名前すらもう覚えていないのですが、最寄駅が天満駅で、長~い商店街の中にあったという記憶だけはありました。

車中、スマホさんでいろいろ検索してはみたのですが、どうも記憶に合致する店が見つかりません。



とうとう天満駅に到着。
天満の次は大阪、これで大阪環状線一周達成!・・・といいたいところですが、新今宮と天王寺の間は歩いてしまったので、大阪環状線完乗ならず・・・。



ともかく、お好み焼き屋さんを探しに、天神橋筋商店街を歩きます。



【今回の乗車記録】

JR天王寺駅・11番のりば 18時24分発
[O]大阪環状線 内回り 普通 鶴橋・京橋・大阪方面行き 8両
天満駅・1番のりば 18時45分着

【移動距離】9.1km  【運賃】18きっぷ使用(不使用の場合は180円)



日本100名城の旅・第14弾「はじめての四国」第51話へ続く。


通天閣~商魂

2016-04-26 | 美術館・博物館


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 4 時 5 5 分

大 阪 市 西 成 区

J R 新 今 宮 駅





新今宮駅で下車し、大阪を南北に通る大通り・堺筋に出ました。



めざすは大阪のシンボル・通天閣【国指定登録文化財】です。

このまま通天閣を最短経路で向かってもよかったのですが、私の通天閣に対するイメージといえば・・・
通りの前面にド~ンとそびえる通天閣!
そのイメージどおりの画が見たかったので、回り道して向かうこととしました。

周辺地図を確認したところ、通天閣に一直線に通じる通りは、堺筋を北に歩いたところにあるようです。

・・・なんかこう、大都市の街並みとはなにか違う、殺伐とした雰囲気はなんだろう・・・?

そういえば新今宮駅は西成区にあります。
新今宮駅の南側は、あのあいりん地区がすぐ隣に。
駅の北側は浪速区なのですが、南側の雰囲気をそのまま引っ張って来たかのような雰囲気を感じてしまいます。
手荷物多い旅行者の私は、いつも以上に通行人への警戒を解かぬまま、堺筋を歩きました。



堺筋を歩くこと約500メートル。
阪堺鉄道恵美須町駅に到達。
「はんかい線」って鉄道があることを初めて知りました。

堺筋をはさんで恵美須町駅の対面に、



通天閣本通の入口がありました。



目の前にドド~ンてとそびえたつ通天閣!
でもなんか私の思い描く画とは違う・・・?
アーチ状のなにかが、ちょいとじゃまにも見えます(^_^;)



通天閣本通の終点、すなわち通天閣の入口に着きました。



入口からしてはやくもカオスの状況を呈しています。
展望台ではありますが、まずは地下1階に潜ることとなります。

そこそこの行列が並びます・・・さすがは大阪を代表する観光地です。
その中でも漢の一人旅はどうも私だけ。
やめときゃよかったかな~?



レトロ調を目指した内装?のようですが、かえってチープな感じもしてしまいます(^_^;)
やっぱりやめときゃよかったかな~?



エレベータが近づいてきたようです。


展望フロアへのエレベータに乗りました。



エレベータの天井からは、公式キャラのビリケンさんが見守ってくださいます。
「ビリケン」と聞いて、藤子不二雄A氏の「ビリ犬」を思い出したのは私だけでしょうか?

エレベータは、地上約80メートルの展望フロアに到着しました。


まずは東側。



日本一の高層ビル・あべのハルカスが、こちらを見下ろしています。

やっぱハルカスにすればよかったかな~?

次は西側。



ユニバーサル・シティがあったような・・・(?_?)
地図を見て妙に頭に残っている「咲くやこの花高校」とかいう高校もあったかな?



北西方向。
大阪ドームが見えています。
そういえばいまは「京セラドーム大阪」っていうんだったか。



北方向。
大阪ビジネスパークの高層ビル群が居並ぶ中、



大阪城天守【国指定登録文化財】が存在感を出している?・・・やや埋もれている感もありますなぁ(^_^;)



展望フロアを一周。
展望窓とは反対側にたたずむビリケンさん。

ビリケンは通天閣にある妖怪・・・ではなく、生まれは意外にもアメリカ。
女性芸術家フローレンス=ブリッツ「夢の中で見た神様」をモデルに製作したのが始まりとされています。
その後、シカゴの企業ビリケンカンパニーがビリケン像を制作、販売したのがもとで、世界に広がったそうです。

日本には明治時代にやってきました。
大阪の田村商店(繊維商社で、現在は田村駒株式会社)が商標登録を行い、通天閣に併設された遊園地にビリケン堂を建立したことから、ビリケンは通天閣の神様ということになったそうです。


そして、ビリケン像の足の裏をなでるとご利益がある・・・ということですが、私は当然スルーしました。


展望フロアをもう1周。
今度は説明写真を見ながら、眺望を楽しむとしましょうか。



なになに・・・スパワールド 世界の大温泉とな?
こんなの展望台からわざわざ見下ろすようなシロモノなのか?



すぐ下! 説明書きなどいらんわ!



なになに・・・今度は天保山か。



んなもん、見えるかい!
※天保山は、標高4.5m、日本一低い山


通天閣がかましてくるボケの数々に対し、漢の一人旅の悲哀か、こっそりクスっと微笑むリアクションをとるのが精一杯。
誰かと一緒にいれば、「あほやな~」みたいに笑いを共有できるのですが・・・やっぱりここは一人にはつらい場所かもしれません。



しかし通天閣の本領は、展望フロアを下りたあとに待っていました。



帰りのルート、まずは通天閣の歴史を紹介するフロアです。



なんだ、この賽銭箱は!?
小銭を寄付する理由もないので、そそくさと通過。


今度は江崎グリコの歴史を紹介するフロアでしょうか?



「ひとつぶ300メートル」のキャッチフレーズでのロングセラーを誇るキャラメル「グリコ」。
その絵柄である「ゴールイン・マーク」の変遷をまとめたもののようです。

だからなんなんだ、この賽銭箱は!?

そして江崎グリコのアンテナショップへ。
このアンテナショップ、順路に完全に組み込まれていて、レジ前を強制通過しなければならないのです!!

・・・汚い、汚いぞ、江崎グリコ!



併設されている飲食用のテーブル。
江崎グリコの人気商品「ポッキー」が全面にラッピングされています。
マザー牧場のパンフがありましたが、なんででしょうか?


商魂たくましい通天閣の攻勢をかわして、



最後も、土産物店を強制通過させられたうえで、ようやく外に出られました。



やっぱりあべのハルカスにしておけばよかったかな~?



通天閣のおもてなしにすっかりヤラれてしまった私。



「安心と信頼の日立グループ」・・・フ~ン(;一_一)



ビリケンさんの足を撫でることなどまったく意識せず、そそくさと新世界を後にしたのでした。



日本100名城の旅・第14弾「はじめての四国」第50話へ続く。


大阪のどこかに行こう

2016-04-25 | 鉄道の旅


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 3 時 1 0 分

兵 庫 県 姫 路 市

J R 姫 路 駅



姫路城【国指定特別史跡・世界遺産】を登城したものの、またしても天守まで近づくこともできず、失意のうちに退去。
手荷物を抱え、JR姫路駅に戻ってきました。



ともかく、まずは腹ごしらえ。
姫路駅でうどん・・・ではなく、あえてそばを食べました。



今後の予定は、この段階では白紙となってしまいました。
というのも、姫路城をじっくり回っていくともりでいたところ、予想外に立入制限区域が広く、登城があっさり終わってしまったのです。

そして時刻は午後3時をすでに回っています。
ここからもうひとつ城めぐりをぶっ込むのもいいのですが、閉場時刻(だいたい午後5時)のために中途半端な登城になってしまいそうです。



・・・考えても仕方がないので、とりあえず姫路から東に進路をとることとします。
JR神戸線の新快速に乗車。


姫路から加古川、西明石ときて3駅目の明石駅



明石駅は明石城の最寄駅。



左のひつじさる【国指定重要文化財】と、右のたつみ【国指定重要文化財】。
明石城のシンボルが駅のホームから見渡せるのです。

明石城に行こうか・・・とは考えましたが、できれば行ったことのない城に行ってみたい。
ということで、明石駅をそのまま通過。



電車の中では、ほかの城へのアクセス、そして帰りの電車に間に合うかの試行錯誤を繰り返します。

丹波篠山城竹田城・・・いずれも不可能。
中途半端に終わった大阪城の再登城・・・広大な大阪城を回る時間はなさそうです。


そうこうしているうちに、電車は明石のとなり、神戸駅まで到達しました。
新快速はホントに速いです(*^_^*)

神戸の街並みを歩いて、おしゃれなカフェで・・・なんて漢の一人旅にはまったく合わないだろう。
そう考え、神戸も通過。


神戸の次は三ノ宮、次いで芦屋、尼崎、そして大阪です。

神戸には寄らないという決心はしたので、神戸の中心地・三ノ宮はスルー。
私はいたって金持ちではありませんので、芦屋もスルー。
・・・・・・いうまでもなく、尼崎なんて当然スルー。

そうすると大阪。

大阪には何度か訪れたことはありますが、観光地というと心斎橋大阪城しか行ったことはありません。
ならばここは大阪のメジャーな観光地へ行ってみよう。

あべのハルカスはどうだろう?

日の本一の高層ビル・ハルカス・・・大阪の景色を一望できるでしょうが、ここもやはり漢の一人旅には合わなさそう。


だったら通天閣に行ってみよう!



スマホさんで経路検索をして、



大阪環状線に乗り換え、新今宮駅までやってきたのでした。



【今回の乗車記録】

JR姫路駅・6番のりば 15時26分発
[A]神戸線(東海道・山陽線) 新快速 米原方面・敦賀行き 12両
大阪駅・8番のりば 16時28分着

JR大阪駅・1番のりば 16時32分発
[O]大阪環状線 内回り 普通 西九条・弁天町・天王寺方面行き 8両
新今宮駅・1番のりば 16時51分着

【移動距離】97.9km  【運賃】18きっぷ使用(不使用の場合は1,610円)



日本100名城の旅・第14弾「はじめての四国」第49話へ続く。


再訪!姫路城・後編~天守をめざして

2016-04-23 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 2 時 1 1 分

兵 庫 県 姫 路 市

世 界 遺 産 ・ 姫 路 城





千姫ゆかりの西の丸から望む天守。
いよいよ、その天守に向けて足を運ぶとしましょう!

天守をめざすルートは複数あります。
まずは正攻法のルート・・・ではなく、「下道」とよばれる、いわば裏道ともいうべきルートから進んでいきます。



西の丸を出て、二の丸へ戻りました。



まずは小さくぽっかり開いた通り道、るの門【国指定重要文化財】です。



この門は埋門うずみもんという門で、戦時になると土砂で埋めてしまい通行できなくするものです。



るの門の前にある石垣。
よく見ると断層のように切れ目が走っています。
右側の石垣が古く、羽柴秀吉の時代に築かれたものです。
その石垣が、池田輝政の代にて増築されました。


るの門を通過。



三国濠から眺めているのは天守ではなく、先ほどまでいた西の丸。
化粧櫓【国指定重要文化財】、ヌの隅櫓【国指定重要文化財】、ワの渡櫓【国指定重要文化財】へと続く百間廊下が見えます。



ちょっとだけ出っ張った石垣は、をの門跡



すぐ先にある櫓門・ぬの門【国指定重要文化財】。
かつては、これらの2門で枡形虎口を形成していました。



ぬの門そばにある扇の勾配は、姫路城でも一二を争う見事な石垣です。




ぬの門を通過。
門からはリの一渡櫓【国指定重要文化財】が続き、



リの二渡櫓【国指定重要文化財】、チの隅櫓【国指定重要文化財】、太鼓櫓南方土塀【国指定重要文化財】に囲まれる上山里曲輪とよばれる空間に入りました。



大山里にはお菊井戸とよばれる井戸があります。
怪談「番町皿屋敷」にまつわる井戸なのだとか。





このあたりはちょうど天守の下。
大天守【国宝】と西小天守【国宝】がよく見えます。



太鼓櫓【国指定重要文化財】を従えるりの門【国指定重要文化財】をくぐれば、天守まではもうすぐなのですが・・・



ここまでか・・・。



上山里を経由しての下道からの登城は断念。
いったん二の丸に戻りました。



ろの門【国指定重要文化財】から、正攻法のルートで天守へ。



通称「将軍坂」を上ります。
坂の上には目指すべき天守がそびえ立ちます。



「将軍坂」の先に構えるはの門【国指定重要文化財】。



はの門をくぐって振り返ると、こんな感じ。


さて・・・い、ろ、は、と来たから、次はにの門だったか・・・。
にの門はなかなかの難所だったはず。



この道の突き当りを左に折れ曲がったところにあったはず・・・



ここで通行止めかよ~!!
前回の登城の時よりも天守に近付けていないではないか!!



こうして、午後の時間めいっぱいを費やして登城する予定であった姫路城を、失意のうちにあっさりと退去するしかなかったのでした。


ああ、あと3日、あと3日遅かったならば・・・。





再訪!姫路城・中編~千姫物語

2016-04-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 1 時 2 3 分

兵 庫 県 姫 路 市

世 界 遺 産 ・ 姫 路 城







平成の大修復が完了し、グランドオープン3日前の姫路城。
白亜の天守群をもっと見たい!という欲求を抑え、まず向かったのは西の丸


西の丸は前回の登城でも訪れたところでしたので、記述をあっさりにしようと思っていました。
しかし今回の記事編集にあたって、旧サイト上での編集ミスで、記事が散逸していたことが判明したのです。

というわけで、しっかり内容のある(かどうかはわかりませんが・・・)記事を編纂してまいります。



・・・ともかく、まず向かったのは西の丸。

この西の丸は、姫路城で最大の曲輪となっています。
天守のある本丸側の曲輪が、塀で囲まれそれぞれが小さな空間で区切られているのとは対照的です。


もともと現在まで残る姫路城の城郭を築いたのは、「姫路宰相」の異名をとった池田輝政
輝政は関ヶ原の戦いでの活躍により、播磨姫路52万石を領することとなり、姫路城を改修しました。

輝政が姫路城を改修した時代は、いまだ戦国の風紀が色濃く残っていた時期。
大坂には豊臣秀頼が健在でした。
そのため、姫路城は戦争に備えた造りになっていて、曲輪を塀で細かく仕切り、要所要所に門を構えるなどしていたのです。

輝政の孫・光政の時代。戦国時代は終わり、天下泰平の世が固まろうとしていた時期。
光政は鳥取、次いで岡山に転封となり、代わって本多忠政が15万石で姫路に入りました。
西の丸の増築が始まったのは、忠政の時代になります。
このころになると、戦時の備えよりも平時の利便性が優先され、曲輪は広くとられ、その中には御殿が造営されていました。



西の丸の入口は、西の丸南門跡から。



不自然に塀が途切れているのは、この先に武者溜りと呼ばれる空間があったためです。
戦時に門を突破してきた敵兵に横槍を入れるための備えでした。
西の丸が平和な時代にできたものとはいえ、戦争のための備えは残されていました。

城主本多忠政は、西の丸に御殿を造営し、嫡子忠刻(ただとき)と、その妻千姫を住まわせました。
千姫は2代将軍徳川秀忠の長女なので、相応の格式をもってお迎えする必要があったのでしょう。
忠刻と千姫の婚礼では、徳川家より10万石の大金が化粧料(持参金)として下賜されています。





西の丸から眺める天守群は見事の一言。
パンフレットの表紙にも採用されている、ある意味おなじみのアングルです。


西の丸は、まず西の丸南門から続くカの櫓北方土塀【国指定重要文化財】、



曲輪南東のカの隅櫓【国指定重要文化財】、そこから続くワの櫓東方土塀【国指定重要文化財】、



二階櫓のワの隅櫓【国指定重要文化財】と続き、さらにそこから百間廊下と呼ばれる長屋で囲まれています。

百間廊下はまずワの隅櫓から始まり、



レの渡櫓【国指定重要文化財】、ヲの隅櫓【国指定重要文化財】(中央から右)、



ヲの隅櫓からタの渡櫓【国指定重要文化財】(中央)、ルの隅櫓【国指定重要文化財】(右)、



ルの隅櫓からはヨの渡櫓【国指定重要文化財】が長く続き、



ヨの渡櫓が長~く続いて、



ヨの渡櫓からヌの隅櫓【国指定重要文化財】(中央)、カの渡櫓【国指定重要文化財】(右)、



カの渡櫓を経て、最後に化粧櫓【国指定重要文化財】まで続きます。
ワの隅櫓から始まる百間廊下は、終点の化粧櫓までおよそ300メートルにわたります。


それでは百間廊下に入ってみましょう。
ワの隅櫓から中に入れますが、中は土足厳禁。ここで靴をぬぐこととなります。



百間廊下は姫路城の外郭になるため、敵の侵入に対する備えも必要となります。
建物の西側、北側には、このような石落としが配備されています。



窓枠の下についている溝。
結露によってたまった水は、この溝から外へと排出できるという工夫です。



百間廊下から望む、百間廊下&天守群。



やはりどうしても天守に目がいってしまいます(^_^;)

百間廊下は、中間地点のヨの渡櫓へ、



ヨの渡櫓への入口には、このような大きな木戸があります。
ここから先は、奥女中たちが生活をしていた西の丸長局
そのため男性が中に入れないように、厳重な扉が備わっていました。

 

ふたつの面格子。
それぞれ東南側の格子(左)と西北側の格子です。
曲輪の外側にあたる西北側の格子は、太く、格子が白漆喰で覆われて耐火構造になっています。
いっぽう東南側は木造の格子がそのままあらわになっています。
ここからも戦時への備えを見ることができます。


西の丸長局の終点・化粧櫓に着きました。



おやおや~、千姫さまはいまだにカルタをなさっていらしたのですね~(*^_^*)


千姫は、2代将軍徳川秀忠と妻小督おごうの長女です。
小督の父は北近江の大名浅井長政、母は織田信長の妹

千姫はなんと7歳で豊臣秀吉の子秀頼に嫁ぎました。
豊臣と徳川の仲をとりもつという政略結婚でしたが、秀頼との夫婦仲は良好であったようです。

慶長19年から20年(1614・15年)の大坂の陣により、大坂城は祖父家康と父・秀忠の大軍勢に攻められます。
そして秀頼は自害。千姫は救出されました。

このとき、どうしても千姫を救出したい家康(秀忠とも)は、「千姫を助け出した者には、千姫との婚礼を許す」というおふれを出したそうです。
燃え盛る大坂城をかいくぐり、坂崎直盛の軍勢が救出に成功します。
しかし直盛は50をとうに過ぎた初老、さらに火傷を負っていたため顔はすこぶる醜かったそうです。
千姫は直盛への婚礼を強烈に拒絶してしまったそうです。


大坂城落城後、千姫はイケメン貴公子本多忠刻に出会い、彼との婚礼を強く望んだそうです。

このことに面目をつぶされた坂崎直盛は激しく憤り、千姫強奪計画を企てましたが露見。
最期は江戸の屋敷で自害して果てました。(内通した家臣に殺されたともいいます)

ともかく本多忠刻に嫁いだ千姫は、姫路での生活を愉しんだといいます。
しかし忠刻は早逝してしまいました。

その後は姫路を退去し、江戸城に住まい、出家して最愛の夫・忠刻の菩提を弔って余生を過ごしたそうです。



千姫が人生でもっとも幸せであった時期を過ごした姫路城西の丸をあとにします。





再訪!姫路城・前編~白すぎ城でもいいじゃない

2016-04-13 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 後 1 2 時 4 0 分

兵 庫 県 姫 路 市

J R 姫 路 駅



姫路駅に到着。
これから向かうはいうまでもなく姫路城【国指定特別史跡・世界遺産】です。

前回の登城では平成の大修復をやっていて、天守が覆いの中に囲まれてしまっていました。

  ※前回の登城のようすはこちらから ⇒ http://blog.goo.ne.jp/bamboo-and-sparrow-0123/e/37e1cc85f73df827d48b5646ca43c323

そして今回も、大修復終了まで3日前という微妙な時期ながら、それでも姫路城は外せないだろうと判断。
こうして姫路城へと向かっているのですが・・・



真っ白な大天守【国宝】が、その姿をあらわにしています!



姫路城の入口である桜門橋にたどり着きました。





前回の登城で見れなかった分、食い入るように大天守を撮影しまくりです(^_^;)



大手門【復興】をくぐります。



やっぱり天守を仰ぎ見てしまいます!

ふと視線を天守よりそらすと、車いすの老婆を押す紳士・・・
どこかでみたことのある顔だが??

思い出しました! 俳優の榎木孝明氏です。
なにかの撮影か?とも思ったのですが、クルーを引き連れていなかったことから、どうもプライベートで来ていたようです。

  ※榎木孝明氏についてはこちら ⇒ 榎木孝明オフィシャルサイト

美しき天守群に目を奪われがちですが、



高い石垣と厳重な櫓の配置もまた魅力です。



手前方にあるのはカの隅櫓【国指定重要文化財】。



南西のはずれに建つのはワの隅櫓【国指定重要文化財】。
足元の扇の勾配もまた見事です。



でもやっぱり天守が素晴らしい!
手前方に構えるチの渡櫓・隅櫓【国指定重要文化財】、その上段に天守群がそびえ立ちます。
中央の真っ白な大天守【国宝】は最近まで修復工事をしていたため、屋根瓦が銀色に輝き、真っ白に見えてしまいます。
その左隣の西小天守【国宝】、その隣乾小天守【国宝】の屋根瓦の色が対照的です。



それでは姫路城の内部に突入します。



当時は修復工事中とのことでしたので、入場制限がありました。
そのためか、入城料は格安の400円。
現在は1,000円になっています。

入城を管理する管理事務所には、コインロッカーも整備されており、



100名城スタンプもこちらにございます。



姫路城内部への入口は、菱の門【国指定重要文化財】です。



菱の門をくぐると、方形の三国濠



そこから眺める天守群も素晴らしい。

こうなれば早いとこ天守に近づいていきたいところですが、まずは寄り道をして西の丸を回っていきます。





赤穂から姫路へ

2016-04-12 | 鉄道の旅


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 前 1 1 時 5 0 分

兵 庫 県 赤 穂 市

J R 播 州 赤 穂 駅





赤穂城【国指定史跡】と、「忠臣蔵」ゆかりの地を回って、JR播州赤穂駅に戻ってきました。

観光案内所でレンタサイクルを返却し、預けていた手荷物を回収すると、電車の発車時刻まではまだ時間がある模様。



うどん!・・・ズルズル・・・うまい!
早めのお昼をいただくと淑女なる店員さん、



梅茶(だったか?)をお勧めなさいました。
金箔がぷかぷか浮いているお茶もなかなかよろしゅうございました。



播州赤穂駅で腹ごしらえをして、12時08分、姫路行きの電車に乗車。
播州赤穂から、西相生相生・・・これでJR赤穂線は完全乗車達成。

このまま姫路まで直通し、12時39分、あっさりとJP姫路駅に到着しました。



おお~、憧れの大天守が駅から見えるぞ~!!

残りの時間をすべて姫路城【国指定特別史跡】につぎ込むつもりで、この旅最後の城に闘いを挑みます。



【今回の乗車記録】

JR播州赤穂駅・3番のりば 12時08分発
[A]赤穂線 普通 姫路行き 4両
5番のりば 12時39分着

【移動距離】31.2km  【運賃】18きっぷ使用(不使用の場合は580円)





花岳寺~赤穂藩主の菩提寺

2016-04-07 | 寺院仏閣


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 前 1 1 時 3 0 分

兵 庫 県 赤 穂 市

赤 穂 城 を 出 る







赤穂城【国指定史跡】の裏口にあたる塩屋門跡を出ました。

このまま赤穂駅に戻ってもよかったのですが、赤穂駅への帰途・・・



赤穂義士ゆかりの花岳寺に着きました。


花岳寺は、正保2年(1645年)赤穂藩初代浅野長直によって建立され、歴代藩主の菩提寺となりました。
赤穂事件ののちは、赤穂四十七士の木像・宝物を安置し、墓所が置かれています。



境内にある梵鐘は、「鳴らずの鐘」と呼ばれています。



赤穂四十六士が切腹し、その報が赤穂にもたらされると、赤穂の町民はその死を悼み、鐘を撞いて撞いて撞きまくったそうです。
それ以来鐘が撞かれることはなくなってしまったそうです。
そのためいつしか「鳴らずの鐘」と呼ばれるようになりました。
戦時中の金属供出で市内の鐘が徴収されるなか、この鐘だけは赤穂義士とのゆかりが深いため、供出を免れています。



本堂の前に立つ立派な松。
「二代目大石なごりの松」と呼ばれます。
大石内蔵助が赤穂を去る際に、松の木のもとで名残を惜しんだといいます。
しかしその松は害虫によって枯れてしまったため、あらたに松を植えたのが「二代目」なのだそうです。



本堂に入ると、渾身の筆遣いで描かれた天井画が目に入ります。
幕末に描かれたトラの画のようです・・・一見すると獰猛な妖怪にも感じてしまう、凄まじい迫力。



本堂の左手の建物。
おそらく四十七士の木像や宝物が安置されているのでしょうか。

私は中には入らず、そのまま出てしまいました。
今思えば、惜しいことをしたものですね。



花岳寺を出た私は、そのまま自転車でJR播州赤穂駅へと戻りました。