鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

しだれ桜リベンジ

2022-06-26 | 寺院仏閣


令 和 4 年 ( 2 0 2 2 年 ) 3 月 2 6 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 5 0 分

茨 城 県 龍 ケ 崎 市

金 剛 山 般 若 院 観 仏 寺



令和4年、桜の季節
昨年は時季を外してしまったため、葉桜ばっかり観ることになってしまいました。

そこで今年の桜は、令和3年のリベンジ
女王様とともに、樹齢何百年の見事な桜をお目にかけようではありませんか。




花曇りのこの日にやってきたのは、龍ケ崎市にある般若院
正式には金剛山般若院観仏寺といいますが、これだと長ったらしいので「般若院」と呼ばれます。


寺院には、「東大寺」のように寺号で呼ばれる寺と「平等院」のように院号で呼ばれる寺があります。
「寺」は仏様をお祀りする場所という意味があり、「院」は仏様に仕える僧侶が所在する場所を表します。
「●●寺」か「●●院」のどちらで呼ばれるかについては特に決まりはなく、昔からの慣習で呼び方が決まっている所がほとんどのようです。




本堂の近くまで車が入れるので、柏ナンバーのかわいいクルマに乗ったまま境内へ。
・・・そういえば昨年は駐車場がどこだかわからなくて、それがもとでどなたか激怒なさっていたなぁ・・・。

この本堂の裏手にしだれ桜は立っているのですが・・・



般若院のシダレザクラ【茨城県指定天然記念物】。
しだれ桜の周りは墓地になっていて、決して広くない境内。
その境内いっぱいに、しだれ桜が枝を広げているかのようです。



案内看板によると、その枝張りは東西約15メートル、南北約22メートルに及び、樹齢は推定500年といいます。



龍ケ崎の地は、慶長11年(1606年)仙台藩の飛び地の所領として伊達政宗に与えられています。
仙台藩は、龍ケ崎を江戸への米輸送の中継地として重要視したといいます。
もしかしたらこのしだれ桜を、あの政宗公もご覧になっているかもしれませんね。

 

私が歴史のロマンに浸っている中、女王様はなにやら珍妙なことをのたまいました。

「この幹、象に見える」

???? 私にはさっぱり。
この難解すぎるロールシャッハテスト、説明を受けてもわかりませんでした。



昨年とは異なり、今回はスイセンの花が脇役へと回りました。



女王様は・・・



このあと滅茶苦茶パピコをもふもふしました。




午 後 8 時 4 6 分

千 葉 県 流 山 市

荒 井 山 清 瀧 院


つくばで、カピバラのパピコさんをもふもふしてきた帰り。
第2王子をお迎えすべく、JR南流山駅へとクルマを走らせました。

その帰り、私はしだれ桜リベンジを果たすべく、夜のお寺へ。



清瀧院のシダレザクラ【流山市指定保存樹木】、見事に満開です!



 





枝の下から見上げると、まさに桜の雨が降っているかのよう。



本堂の傍らに立つソメイヨシノも満開を迎え、しだれ桜に負けじと花を咲かせています。

 

漆黒の帳の中で、照明と相まって、その姿を両目に焼き付けんばかりに咲き誇るソメイヨシノ。





しとしとと降る春雨のように、しとやかな姿のしだれ桜。
花を凝視すれば、激しく降る夏の雨のようにも見えてきます。


女王様第2王子、思い思いに桜を愛でていましたが・・・

午後9時、照明消える。

あまりにも突然の夜桜との別れに、拍子抜けしてしまいました。




4 月 1 日 ( 金 )

午 後 5 時 2 5 分

本 拠 地 近 く に て


この日の2日前に、37.8度の発熱症状が出てしまった私。
ついにかの国からの災厄をもらってしまったのか?!というわけで、PCR検査を受けて自宅待機していましたが、

「おめでとうございます、陰性です」

病院からの連絡もあり、晴れて自宅軟禁が解かれたのでした。
まだ本調子ではありませんでしたが、



わが心の友とともに、春の空気を吸収してきたのでした。




4 月 2 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 1 1 分

茨 城 県 守 谷 市

抑 護 山 清 浄 院 西 林 寺


恢復間もないにもかかわらず、この日もおでかけ。
目的地はもちろん、パピコさんのおわすイオンモールつくばです。
その途上で寄り道をし、しだれ桜リベンジをしていきます。

この日のしだれ桜リベンジは、守谷にある西林寺
ぽつんと本堂だけがあるだけの、寂れてしまったようなお寺です。



西林寺のシダレザクラ【守谷市指定保存樹木】。
樹齢は約80年とこの中では「若手」の桜ですが、咲く花は変わらず美しいです。



私が200歳を迎える頃には、この桜も枝張りが大きく伸びるのでしょうね。




午 後 7 時 0 2 分

茨 城 県 坂 東 市

辺 田 山 地 蔵 院 歓 喜 寺


パピコさんをもふもふした帰り。
例によって第2王子を迎えに行くのですが、この日は時間調整のため坂東市に寄り道していました。



離れた車中からでも見える、歓喜寺のエドヒガン【坂東市指定天然記念物】のライトアップ。
歓喜寺の桜だけは、シダレザクラではなくエドヒガンです。
その樹齢は推定400年といいますから、これは見事な桜。
それなのに、見物客はだれ一人いません。





あ、葉桜だ。
花はとっくに散ってしまっていました。
わずか数輪だけ、花が咲いていました。

それにしても、そばに行かなければ花が咲いているかがわからないなんて・・・。
我が目も、女王様の目も節穴のようですね。う~む。



我々は柏ナンバーのかわいいクルマに乗り込み、この日は越谷レイクタウン駅第2王子を迎えたのでした。





雨引観音楽法寺~くじゃく寺

2022-06-26 | 寺院仏閣


令 和 4 年 ( 2 0 2 2 年 ) 3 月 1 9 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 5 2 分

茨 城 県 つ く ば 市

筑 波 山 山 ろ く





筑波山、ど~ん!

関東平野の田園から、突如として盛り上がる筑波山。
男峰と女峰のふたつの頂からなるがゆえに、古来から恋愛の象徴とされていますが、そんなことは知ったことじゃねぇと言わんばかりの堂々たる姿。

今回はこの筑波山の近くにある古刹を訪れます。




午 後 1 2 時 3 4 分

茨 城 県 桜 川 市

雨 引 山 楽 法 寺




やってきたのは雨引山楽法寺、通称雨引観音
坂東三十三箇所霊場の第24番札所であり、四季折々の花を愉しむこともできる名刹です。
この日はカワヅザクラが、葉桜になり始めてはいましたが、きれいに咲いていました。

入口に構える黒門(薬医門)【桜川市指定文化財】は、付近にあった真壁城【国指定史跡】の城門を移築したものだといいます。
これをくぐると、145段もの石段・「厄落としの石段」が続き、



山門(仁王門)【茨城県指定文化財】へ。
ここまで来たところで、めまいを持病とする女王様はすでにヘロヘロ。

「よくもこんな所に連れてきたわね~」

恨み言をのたまいますが、しっかり厄を落としていただきたいものです。
境内はさらに高所に続き、



本堂【茨城県指定文化財】、



多宝塔【茨城県指定文化財】まで到達。

 







傍らを彩るカワヅザクラが、これまた見事。





そして絶景。
高所まで歩かせたことに対する苦言をおっしゃりながらも、女王様もお喜びのようです。


多宝塔の足元にある池泉には、



カモアヒルといった水鳥が泳いでいます。
これらの水鳥や鯉の餌が、寺務所にて100円で販売されています。
動物好きの女王様が買ってきたのですが、100円にしては思いのほか多い!
「ガチャガチャ」のカプセルに、餌がめいっぱい入っていました。





我先にやってくる水鳥たちに、女王様がにこやかに餌を分けてあげます。



池の鯉にも、おすそ分け。

これらの生き物たちもいいのですが、雨引観音にはシンボルともいうべき鳥がいます。
多宝塔の脇から続く小道は、本堂の背後にある高台へと続きます。
高所へと歩くことに苦言を呈する女王様をなんとかなだめていくと、



お堂にて羽休めをしていたクジャクを発見。



瑠璃色の身体に碧色の尾羽。
たたずんでいるだけでも美しいクジャクさんですが、やはり羽を広げた姿を拝みたいものです。
手に持っていた鳥の餌を近づけてみましたが、クジャクさんはまったく興味を示してくれませんでした。



立ち上がって振り返り、いよいよ羽を広げるか?!



期待していましたが、クジャクさんはお堂から逃げてしまいました。
我々には手を出すことが叶わない屋根の上へ。
場所を変えてクジャクさんの美しい姿を待ちましたが、羽をひろげてくれることはありませんでした。
それでも、平等院鳳凰堂の棟飾りのように気高き姿のクジャクさんを見られたことは、なにかの瑞兆でしょうか・・・?


ほかにも、境内を歩き回ってクジャクさんを探しましたが、



境内の片隅にある鳥小屋を除いて、クジャクさんは1羽もいませんでした。






花鳥風月を愛でて、雨引観音を後にします。
100円の鳥の餌がだいぶ余っていたので、



三門の下にてにぎやかな鳴き声をあげているガチョウ(シナガチョウ)に食べさせてあげました。



午後1時46分、雨引山を下山。




午 後 5 時 1 9 分

茨 城 県 つ く ば 市

も ふ も ふ ふ れ あ い 動 物 園




この日も、パピコさんにお会いしていました。



お花見2022・第4話「雨引観音楽法寺~くじゃく寺」 完

お花見2022・第5話「しだれ桜リベンジ」へ続く。

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松江藩主菩提寺・月照寺~藩主全員墓参り

2021-10-16 | 寺院仏閣


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 参 時 四 拾 伍 分

松 江 藩 主 菩 提 寺 ・ 月 照 寺



松江城【国指定史跡】をいったん退去して、



ほど近くにある寺院に立ち寄りました。



入口前で湧き出でる清水。
不昧公愛用の名水とされている水で、現在もこの水でお茶を立てているそうです。


今回立ち寄ったお寺は、歓喜山月照寺【国指定史跡】。



月照寺は、もともとは禅宗の寺院で「洞雲寺」という寺号でした。
松江藩主として松江城に入った松平直政は、寛文4年(1664年)その生母・月照院の霊牌を安置するため、浄土宗の長誉ちょうよ上人を招聘して寺院を復興し、「蒙光山月照寺」と改めました。
次代・綱隆はここを廟所とし、山号を「歓喜山」と改めました。
以来、松江藩松平家の菩提寺となり、松江藩主9代がこの地で眠っています。





境内に入る前に立っている碑は、雷電為右衛門の碑
雷電は松江藩お抱えの力士で254勝10敗!!の戦績を残しており、史上最強の力士ともいわれています。
碑には雷電の手形が刻まれています。



境内の正面入口にあたる唐門
その先直進すると7代治郷はるさと公御廟に続くのですが、ここからは入れないようです。

宝物殿横の通用門から、境内へ。




午 後 参 時 伍 拾 弐 分

月 照 寺 境 内


通用門から境内に入ったところにある書院が、拝観の受付となっています。
こちらで拝観料500円を支払います。
さらにお抹茶をいただくために450円を支払いました。
境内を散策の後に、お抹茶をいただくことにしましょう。



四季折々の花が咲き誇る寺院だそうですが、時季は晩秋。
花はなく、紅葉も始まっていないという“谷”の時季だったんですね。



そんな中で、ただ一輪で咲く花。
茶の湯でいうところの「寂び」の美しさというものでしょうか。





月照寺・最初の廟門が見えてきました。
高真院廟門【島根県指定有形文化財】です。



桃山文化の影響が色濃く残るらしいのですが、よく見てきませんでした・・・。
蟇股かえるまたの彫刻は、笹と、眠る獅子でしょうか?





高真院御廟
松江藩松平家初代・直政公の墓所です。
初代藩主ともあって、境内で最大の墓所となっています。





続いて、造りがひときわ豪華?な廟所。
大圓庵御廟で、7代藩主・治郷はるさと公の墓所です。


松平治郷は松江藩松平家7代当主で、江戸時代を代表する茶人でもあり、号の不昧ふまいで知られています。
破たん寸前の松江藩の財政を藩政改革で立て直し、「松江藩中興の祖」とされます。
茶人としても一流で、名物とよばれる茶器の散逸を防ぐため、大金を投じて収集に努め、また数多くの名工を保護、育成していきました。
ただしこのことは、持ち直した財政を傾けていくことにもつながってしまいます。
茶人としての活躍とともに松江城下に銘品とされる和菓子が多く生まれていき、現在も「不昧公御好み」の銘菓が作られています。
松江が文化の街として評される礎を築き、当地では現在も「不昧公」として敬われています。





大圓庵廟門【島根県指定有形文化財】。
この廟門も、ほかのものに比べてひときわ豪華。
不昧公お抱えの名工・小林如泥じょでいの手によるものといいます。



蟇股に悠然と舞う雲龍の彫刻、そして脇柱に施された葡萄の透かし彫りが見事。
この画だと葡萄がよく見えないのですが・・・。



合掌、不昧公。



廟門を出ると、向こうに見える松江城天守【国宝】。
生前不昧公は、城がよく見えるこの場所を選んで、廟所を造らせたといいます。





続いては、善隆院御廟
5代当主・松平宣維のぶずみ公の墓所です。



彫刻は、梅の木に止まっている鳥ですね。
尾が長いから、ウグイスではないでしょう、多分。



松平宣維は、宝永2年(1705年)7歳で家督を継ぎましたが、当初から財政難に悩まされました。
あまりの財政難のため、継室との婚礼費用が捻出できずに婚礼を延期するほどだったといいます。
税制の改定、商品作物の開発などに取り組み、藩札の発行にも着手しました。
享保5年(1720年)からは、幕府より隠岐国の治政を委ねられ、以後松江藩が隠岐を治めることとなりました。
享保16年(1731年)34歳で死去しました。




5代宣維公の隣りに、



月照院墓所がひっそりと立っています。

月照院徳川家康の二男・松平(結城)秀康の側室で、松江藩松平家初代・直政の生母です。
月照院は身分の低い階級からの出身だったため、直政が大坂の陣に出陣するため軍資金を工面するのに苦慮したのだそうです。
家臣の尽力によって出陣できることとなった直政に対し、「祖父(家康)の目にかなうよう、卑しい母の子として後ろ指を指されることのないように」と励ます言葉をかけて送り出したそうです。
直政は真田丸の戦いで奮戦し、敵将の真田幸村に軍扇を贈られて賞賛されたといいます。




月照院墓所の隣り、



隆元院御廟へ。
3代目・綱近公の墓所です。



「隆元院」の扁額の横には、何らかの花の意匠が施されています。
花? いや、歯車かな?



門扉には桐の紋と、葵の紋でしょうか。
葵といえば、水戸黄門の印籠に施されている「三つ葉葵」が有名ですが、これは徳川家の定紋すなわちメインの家紋です。
家紋には替紋とよばれるサブの家紋があり、松江松平家ではこの「六つ葉葵」を用いていたようです。



廟門の天井にも、植物の透かし彫りが施されています。



松平綱近は、延宝3年(1675年)数え年16歳で家督を継ぎ、藩主となりました。
極度に悪化していた財政の改善に取り組み、製鉄や産馬の奨励などの政策を進めていきました。
また大梶七兵衛を招聘して治水や植林などの開発を進めました。
しかし財政を改善するには至らず、晩年には眼病を患ってしまいます。
ただ家臣からの信頼は篤かったようで、綱近を慕っていた小姓が自らの目をえぐり出して献上した!!という話も残っています。
宝永元年(1704年)に隠居し、宝永6年(1709年)に51歳で死去しました。






夕刻を迎えつつある月照寺。
境内の奥地へと続く紫陽花の小径も、このときは物寂しさを覚えます。





直指庵御廟
9代当主・斉斎なりとき公の墓所。「さいさい」さんじゃありませんよぉ。



「鷹殿様」の異名をとった斉斎公。
扁額の左上に施されている彫刻も鷹ですが、暗くて少々見づらいですね。



松平斉斎は、文政5年(1822年)家督を継いで9代目の当主となりました。
なお最初の名は直貴でしたが、文政9年(1826年)に11代将軍・徳川家斉から一字授かって斉貴に、隠居後に斉斎に改名しています。
斉斎の治世は天保の大飢饉などの天災が相次いだにもかかわらず、幕府に多額の献金をし、さらに鷹狩などの趣味に興じて財政を極度に悪化させてしまいました。
このため嘉永6年(1853年)家臣団によって主君押込め、つまり強制的に隠居させられてしまいます。
松江藩は婿養子の定安が継ぎ、明治維新を迎えることになります。






境内で最も奥にある宝山院御廟
2代当主・綱隆公の墓所です。



廟門は蟇股に3枚の葉の彫刻があるだけで、いたって質素な造りです。
歴代当主で最も飾り気のない廟門のような気がします。



松平綱隆は、初代当主・直政の長男で、寛文6年(1666年)に父の死をうけて家督を継ぎました。
父・直政の御廟を月照寺に築き、以降、同寺は松江藩松平家の菩提寺と定めりました。
松江藩成立時からの問題であった財政難に対し、藩札を発行するなどしましたが、改善には至りませんでした。
延宝元年(1673年)日御碕ひのみさき神社の宮司であった小野隆俊の妻に横恋慕し、隆俊に無実の罪を着せて隠岐に島流しにしてしまいます。
隆俊は隠岐島で失意のうちに亡くなりますが、延宝3年(1675年)綱隆も急死してしまいました。
人々は、綱隆は隆俊の怨霊に殺されたのだと噂したのだそうです。






8代当主・斉恒公の墓所、月潭院御廟



廟門には、ひょうたんの彫刻が施されています。
手持ちのパンフレットには「お酒の大好きだった殿様」と表記されています。



松平斉恒は、「不昧公」治郷の長男で、文化3年(1806年)に父より藩主の座を譲られました。
父同様に文化の面で活躍した人物で、茶道や俳諧、書道に通じていました。
また、盲目の大学者・保己一ほきいちを招聘して、平安時代中期の法令である延喜式の校訂を行いました。
この「雲州本『延喜式』」の事業の途上、文化4年(1821年)に保己一が死去、その翌年に斉恒が32歳の若さで急逝してしまいます。
それでもその事業は絶えず、松江藩士・藍川慎らがその遺志を継承し、文化11年(1828年)に完成しました。






4代当主・吉透よしとお公の墓所・源林院御廟



松平吉透は、2代綱隆の五男で、3代綱近の弟です。
元禄14年(1701年)兄の藩主・綱近より新田開発によって増加した1万石を分与され、松江新田藩の主となりました。
しかし綱近が眼病に罹り、また世継ぎとなる子が夭折してしまったため、元禄17年(1704年)吉透は綱近の養子となります。
同年家督を譲られ、松江新田藩は廃止となりましたが、翌年の宝永2年(1705年)江戸で急逝してしまいました。






歴代藩主のお墓参り、ラストは天隆院御廟

 

門扉の金剛力士像が印象的な、天隆院廟門をくぐると・・・



亀が碑を背負っているという、奇妙な石像?が立っています。
これは寿蔵碑といい、7代治郷公が父の6代宗衍むねのぶ公の徳を讃え、寿命長久を祈願するために建立したものといいます。
碑は天明2年(1782年)に完成しましたが、宗衍公は同じ年の10月に亡くなってしまいました。

この大亀、明治の文豪・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)の怪談にも登場します。



7代当主となった不昧公は、亀を可愛がっていた亡き父を偲んで、大きな亀の石像を造りました。
ところが、その大亀は夜な夜な動きだし、蓮池の水を飲み、城下で人を食らうようになったのです。

月照寺の住職が大亀に説法をすると、
「私にもこの奇行を止めることはできないのです。何とかしてもらえないでしょうか」
と大亀は涙ながらに懇願してきたといいます。

そこで、亡き藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀に背負わせたのでした。
これよりは、大亀が夜な夜な暴れまわることはなくなったそうです。





松平宗衍は松江松平家6代当主で、享保16年(1731年)に父・宣維の死により数え年3歳で藩主となりました。
延享4年(1747年)成長した宗衍は自ら政治を執るようになり、「御趣向の改革」と呼ばれる積極的な財政振興策を推進していきます。
はじめのうちは改革の成果が出たものの、のちに反対派が盛り返したために改革は頓挫してしまいます。
明和4年(1767年)財政窮乏の責任を取って隠退、次男の治郷に家督を譲りました。



隠居してからの宗衍公は、数々の奇行で評判となったそうです。
江戸の藩邸に、天井からふすままで妖怪や化け物を描いた部屋を造らせ、夏の暑い日は一日中この妖怪部屋にこもっていたといいます。
あるいは、参加者が全員素っ裸という茶会を開催したといいます。
寿蔵碑の怪談も、奇天烈な宗衍公の言動から尾ひれがついてできたのかもしれませんね。




午 後 四 時 参 拾 分

藩 主 全 員 の 墓 参 り 完 了


歴代藩主全員の霊廟にお参りし、書院に戻りました。

 

 

枯山水の庭園を眺めつつ、お抹茶(450円)を一服。



不昧公以来のお茶の文化が花開き、これに伴ってお茶菓子の生産が盛んになった松江。
京都、金沢に並ぶ「日本三大菓子処」に挙げられる松江にていただくお茶菓子は、「風流堂」さんの「路芝」
ほのかな甘みとごま風味が、奥行きの深い味わいとなって口の中に広がっていきます。
しかしながらその味わいは、お抹茶という主の前面にでしゃばることなく、そばに侍っているかのよう。
さらにお抹茶をいただけば、よりまろやかな味わいを楽しむことができました。

良きお点前にございました。


最後に本堂へ。



ご本尊の阿弥陀如来像を拝して、外へ出ました。



時刻は午後4時50分、松江の街に日没の時が迫っていました。





枝垂れ桜ハシゴ旅・第3章~龍ケ崎コロッケ再び

2021-07-23 | 寺院仏閣


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 4 月 3 日 ( 土 )

午 後 3 時 1 7 分

茨 城 県 龍 ケ 崎 市

金 剛 山 観 仏 寺 般 若 院



牛久沼の湖畔・かっぱの小径から、ママチャリで移動すること約50分。



国道6号JR常磐線ぞいから東へ進んだところ。
関東鉄道竜ケ崎線の終点・竜ケ崎駅がある、昔ながらの市街地へ。



今回のママチャリの旅の目的地・般若院に到着しました。
山号は「金剛山」、寺号は「観仏寺」で、創建は平安時代という歴史ある寺院です。


般若院は、天元元年(978年)に道珍法師によって創建され、大永4年(1525年)に現在の地に移されました。
江戸時代初頭の慶長11年(1605年)龍ケ崎は伊達政宗の所領となり、仙台藩の陣屋が構えられ代官が置かれました。
般若院は伊達家代々の位牌所とされ、寺院領として3石を付与されました。
寛永年間(1624年~1644年)朗月晃順法印は後水尾天皇の勅命により法談(説法)を行い、般若院は別格寺の待遇となりました。
また江戸の雨乞いに功があったとして、3代将軍・徳川家光より「虎の尾」を拝領するなど、般若院は隆盛をきわめました。
しかし幕末の安政3年(1856年)暴風雨により伽藍の大部分が倒壊してしまいます。
昭和38年(1963年)に再建がなざれ、現在に至っています。



龍ケ崎って、あの「独眼竜」の領地だったんですねぇ~、初めて知りました。
「独眼竜」の領地だったから「龍ケ崎」なんでしょうかねぇ~って、そんなわけないですね。



般若院の入口。
前回訪れたときは駐車場を見つけることができず、女王様の怒りを買ってしまったわけですが・・・
正面入口に駐車場がありましたね・・・なんで当時はこれを見逃してしまったのか・・・。



駐車場の一角にママチャリを停め、境内へ。



ご立派なケヤキの木。



昭和時代に再建されたと思われる本堂



本堂の左側から裏手に進むと、



般若院のしだれ桜【茨城県指定天然記念物】が立っています・・・・・・。
ああ、カンペキに葉桜ですね。

樹齢は推定500年だそうです。
もしかしたら、政宗公もこのしだれ桜をご覧になったのかもしれませんね。



しだれ桜はこのとおり、本堂の真裏にあります。







枝ぶりがなんとも見事なしだれ桜。



やっと見つけた・・・桜の花!



根元には、スイセンの花がきれいに咲いていました。



この日のしだれ桜・・・見事なほどにすべて葉桜ということになってしまいました。



失意のうちに柏へと帰りますが・・・その前に、



やっぱりコロッケは食べていきます。
今回のお店は、龍ケ崎の市街地から少し離れたところにある平野精肉店さん。



ポテトコロッケ(120円)と、カレーコロッケ(120円)をいただきます。
普通ならメニューの3番目くらいに表示されているカレーコロッケが、こちらでは筆頭に挙がっています。
お店イチ推しのカレーコロッケはあとにいただくとして・・・



ポテトコロッケ、うまい!
あっさり目の味付けで、じゃがいもの味をしっかりと感じることのできるコロッケですね。
何より、揚げたてのコロッケをハフハフいいながらいただくのがいいんです。



カレーコロッケ、おいしゅうございます!
まず前面に出ているのは、じゃがいもの甘み。
それも変に甘いのではなく、カレー粉によってうまく醸し出されているかのよう。
メニューの筆頭に挙げられているのも納得の、素晴らしいカレーコロッケです。

「平野」さんで鋭気を養って、柏へ戻ります。




午 後 4 時 2 1 分

茨 城 県 北 相 馬 郡 利 根 町

若 草 大 橋




流山、守谷、そして般若院と全敗を喫した私。
このままじゃ帰れないということで「泣きの一回」をすべく、若草大橋を渡ってもうひとつの桜の木をめざして行きました。



お花見2021・第7話「枝垂れ桜ハシゴ旅・第3章~龍ケ崎コロッケ再び」 完

お花見2021・最終話「枝垂れ桜ハシゴ旅・最終章~吉高の大桜」へ続く。

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あけぼの山の桜・前編~布施弁天詣で

2020-05-30 | 寺院仏閣


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 前 9 時 1 3 分

千 葉 県 柏 市

紅 龍 山 東 海 寺 ・ 布 施 弁 天



令和2年。
赤き帝国から端を発した災厄は、全世界を混乱の渦に巻き込んでいます。
大いなる災厄があったとしても、春は確実にやってきて、桜はいつもと変わらぬ美しい花を咲かせます。

この日は女王様をお勤めの場にお送りし、帰りに少しだけ寄り道をしました。

わが本拠地・柏で桜の名所というと、利根川にほど近いあけぼの山というところがあります。
あけぼの山の桜の様子をチラッと見ていこうというわけです。

そしてあけぼの山の傍らにあるのが、「布施弁天」紅龍山東海寺
柏市随一の名刹なのですが、私は今まで参拝したことがありませんでした。
そこでこの機会に、布施弁天さんにも参拝していきましょうというわけです。



柏ナンバーのかわいいクルマを駐車場に停め、



段葛?から参拝開始。
鳥居が立っていますが・・・でもここってお寺ですよねぇ?





楼門【千葉県指定文化財】をくぐります。



楼門はけやき造りの二階建てで、階上に釈迦三尊、階下に四天王が安置されています。
扁額の文字は「最勝閣」
軒下の龍、麒麟などの彫刻も見事です。
楼門の前に構える白い枠のようなものも楼門の一部分で、あたかも竜宮城の門のようなかたちをしています。
現在はコンクリートでできていますが、建築当時は白漆喰で塗り固められていました。



東の持国天



南の増長天



西の広目天



北の多聞天
四天王を拝礼して、境内へ。




境内はそれほど広くなく、早速本堂が見えてきます。



手水舎で手水を・・・・・・



時節がら、今回は手水なし。




本堂【千葉県指定文化財】でお詣り。

「世を脅かす災厄が、一刻も早く取り除かれますように」
もちろん「女王様のご多幸」も忘れずに祈念しましたよぉ~。



本堂には、皇室の象徴「菊花紋」が掲げられています。
傍らの灯籠にも、菊の御紋が施されています。
これは、弘仁14年(823年)東海寺が嵯峨天皇によって勅願所に定められたことに由来します。



布施弁天がおわすこの地は、江戸時代中期には沼田藩(現在の群馬県沼田市周辺)を治める本多氏の所領(飛び地)となりました。
藩主の本多正矩は布施弁天を篤く信仰し、各地の大名から寄進を求め、享保2年(1717年)に現在の本堂を完成させました。
本堂内陣(本尊をお祀りする空間)の天井には、寄進した諸大名の家紋が描かれているそうです。




本堂の傍らには、鐘楼【千葉県指定文化財】が建っています。
この鐘楼、かなり珍しいかたちをしています。



屋根が△、上層が〇、土台が□の多宝塔のようなかたちをしています。
このような形式の鐘楼は、全国的にもまれなのだとか。
そして土台は□というよりも多角形、正確には八角形です。



棟札によると文化15年(1818年)建立で、筑波の名主を務めた飯塚伊賀七という人物が設計しました。
伊賀七は「からくり伊賀」と称される発明家で、この鐘楼の設計図は現在も残っているのだそうです。




三重塔
こちらは昭和48年(1973年)の建立。




布施弁天参拝、〆は東海寺の高台の際にお立ちのfont color="blue">布施観音像。
この日は天気がとても良く、筑波山がくっきりと見えました。



お花見2020・第1話「あけぼの山の桜・前編~布施弁天詣で」 完

お花見2020・第2話「あけぼの山の桜・後編」へ続く。

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観音正寺参拝

2020-02-24 | 寺院仏閣


令 和 元 年 神 無 月 十 八 日 ( 金 )

午 後 二 時 十 八 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

西 国 三 十 三 箇 所 第 三 十 二 番 札 所 ・ 観 音 正 寺





観音正寺が鎮座する(きぬがさ)



ふもとの石寺楽市会館前から徒歩で登り、



約40分かけて踏破しました。
疲労困憊の私はしばし座り込んでしまいましたが、そこに無情にも雨が降り始めてしまいました。

この日の滋賀県の天気予報は、あまり芳しいものではありませんでした。
このまま時を過ごしては雨が本降りになり、下山も困難なものになってしまうかもしれません・・・。

意を決して、まずは観音正寺の境内を歩いて息を整え、しかるのちに観音寺城の散策をすることとしました。




一筋の参道に、伽藍が建ち並ぶ境内。



きのこのような?小さなほこら。
中には北向地蔵が安置されています。



なんらかの仏堂かと思っていたのですが、方丈だそうです。
方丈とは、寺院の住職が生活する建物のことをいいます。



なんという絶景!
この眺めだけでも、繖山を踏破して良かったと感じられます。
また登りたいかといえば、それは話は別ですが。



大仏様でしょうか? わが本拠の近所にあるKヶ谷大仏よりも大きくなさそうです。
正式名は濡仏阿弥陀如来坐像といい、昭和58年(1983年)に製像されたそうです。
もともとは江戸時代に造られたものだったのですが、戦時中の金属供出にあってしまい、現在の像は2代目なんだそうです。

観音寺城を訪れた方は、この大仏様?が大きな目印となりますよぉ~。



境内の奥に構える本堂
平成16年(2004年)に落慶した、比較的新しい仏堂です。
旧本堂は彦根城欅御殿を拝領、移築したものだったのですが、平成5年(1993年)に焼失してしまったのです。


観音正寺は、聖徳太子ゆかりの寺院とされています。
伝承によれば、推古天皇13年(605年)太子がこの地を訪れた際に、自ら千手観音像を彫って祀ったといいます。
実際の創建時期はよくわかっていませんが、11世紀の平安時代にはすでに存在していたようです。

鎌倉時代以降は、佐々木六角氏の居城・観音寺城とともに立ち、寺は六角氏の庇護を得て大いに栄えました。
戦国時代になると観音寺城が拡張されていき、寺は城に取り込まれ、やがては山上からふもとに移転することとなります。
しかし六角氏が織田信長に敗れ去ると、観音正寺は山上の現在の場所に再興しています。





本堂横にある石積みの山・・・これは何を意味するのでしょうか?
そばに「西国三十三ヶ所巡礼 三十八ヵ度 四国八十八ヶ所巡礼 三十八ヵ度」なんて石碑が立っています。
小さく「巡礼功徳石」ともありますので、この石積みをお参りしたら西国を38周&四国を38周したことと同じ!ってことなのでしょうか?

八十八箇所を3周するって、すごいことだよ~
(どうでしょうゼミナール 大泉校長)



本堂でお詣りしつつひと休みしていましたが、悲しいことに雨が本降りになってきました。
こうなっては、観音寺城の登城を急がなければなりません。



先ほどの大仏様。



その背中に回ると、ひっそりとたたずんでいる簡素な木戸。
この木戸こそ、観音寺城へと続く通路の入口なのです。



登山の疲労が抜け切れないところに、本降りとなってきた雨。
観音寺城、なかなか手ごわいようですね。





坂東33箇所霊場20番札所 西明寺・後編~笑う閻魔大王と立ち並ぶ仏様

2019-12-15 | 寺院仏閣


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 3 1 日 ( 日 )

午 前 8 時 4 1 分

栃 木 県 芳 賀 郡 益 子 町

独 鈷 山 西 明 寺





石段を上って、独鈷山西明寺の境内に入りました。



まず正面に現れるのは、楼門【国指定重要文化財】です。



境内の中から、斜めに見た楼門。
室町時代の後期、明応元年(1492年)に建立されたものだそうです。
茅葺き屋根を支える垂木は、放射状に配置される扇垂木
欄間の下を見ると、柱と柱の間に組み物が入っている詰組
屋根には強い反りがあります。
いずれも唐様からよう(禅宗様)と呼ばれる寺院の建築様式に則っています。




楼門の隣りに建っているのは、三重塔【国指定重要文化財】。



こちらは楼門より後れること約50年、天文12年(1543年)の建立です。
西明寺城の城主であった益子家宗によって建てられました。
塔の下層は、四方の垂木がそれぞれ平行になっている平行垂木の構造で、和様の様式となっています。
これに対し上層は扇垂木となっており、唐様となっています。
屋根は銅葺きで、反りもあって優美な造りになっていますね。




三重塔の隣りには、鐘楼【栃木県指定文化財】。
江戸時代中期の享保7年(1722年)に建立されたものだそうです。
梵鐘【栃木県指定文化財】は寛文12年(1672年)に鋳造されたもので、鐘楼ともども現役です。




本堂のある高台から眺めた楼門、三重塔、鐘楼。
桜のつぼみは膨らみ、シダレザクラは花開いているものもありますね。
境内はそれほど広くはない、むしろ小ぢんまりという言葉の方が合いそうなほどです。
それでも文化財が密集している「濃い」境内です。

そうそう、この西明寺境内【栃木県指定史跡】も文化財指定されています。




鐘楼の向かい側に建っているのが、閻魔堂【益子町指定文化財】です。
こちらは正徳4年(1714年)の建立で、閻魔大王、善童子、悪童子、奪衣婆しょうずかばばあ、地蔵菩薩の5体の仏像が安置されています。
閻魔堂の中には入れないので、窓から失礼して・・・



木造閻魔王坐像【栃木県指定文化財】、通称「笑いエンマ」です。
閻魔大王は地蔵菩薩の化身と考えられており、地蔵菩薩の慈悲のために閻魔大王が笑った表情をしているのだといいます。
閻魔大王の表情が怒りの表情に見える人は、なんらかの悪事に手を染めた人なんだとか。

大王の右にお立ちの赤い仏像は、赤い金剛書を携え無明(迷いを意味する仏教用語)を降伏させる悪童子【栃木県指定文化財】。
大王の左にお立ちの白いお顔の方は、白い金剛書を携え法性ほっしょう(事物固有の本性を意味する仏教用語)を整える善童子【栃木県指定文化財】です。
画像からは見えませんが、悪童子の後方に奪衣婆、善童子の後方に地蔵菩薩が安置されています。


いよいよ本堂【栃木県指定文化財】へ。



はじめ応永元年(1394年)に建立され、元禄14年(1701年)の大改修をうけて現在の姿となりました。
屋根は銅板葺きとなっています。

ちなみに、本堂の前に日立の「重要文化財」の看板が立っていますが、本堂は重要文化財ではありません。
本堂の中にある厨子が重要文化財です。



「西明寺」の扁額・・・私は最初読めませんでした。



幕の内側、本堂の外陣へ。お賽銭箱はこちらにあります。
外陣の天井は格子の縁がない鏡天井で、龍の墨絵が描かれています。



内外を隔てる蔀戸や板戸の上には、欄間に彩色彫刻が施されており、それぞれ鶴と仙人



天女奏楽



浮舟上の仙人が表現されています。


本堂に向かって右側に内陣に入る扉があり、ここから出入りできます。
本堂の内陣に入るには、拝観料300円を独鈷處どっこいしょで支払う必要があります。
普段は内陣の入口で検札をする係員がいるようですが、この日は朝早く誰もいませんでした。
「独鈷處」の翁に「自由にはいっていい」とのお許しをいただいていたので、靴を脱いで中へ。




午 前 8 時 5 4 分

西 明 寺 本 堂 の 中 へ




本堂内陣の様子。
内陣は自由に撮影してもいいとのことなので、仏様のお姿を有難く頂戴いたします。



まず内陣中央、観音様の後ろにある建物が、本堂内厨子【国指定重要文化財】です。
応永元年(1394年)に建立されたもので、二重の扇垂木が美しい厨子です。
外壁は黒漆で塗装されており、金色の装飾がよく映えています。
本堂内に立ち並ぶ仏様たちのうち8体は、もともとはこの厨子内に安置されていました。



厨子の正面に立つのが、御前立本尊・十一面観音立像です。
本尊とされる仏像は「秘仏」すなわち一般公開されないのが普通なのですが、西明寺さんは惜しげもなくご開帳されています。
しかも撮影OKなのですから、有難いことです。



本尊の左で、燃え盛る炎とともに立つのは不動明王像
右に立つのは、勢至菩薩立像【栃木県指定文化財】です。
「勢至」とは「大いなる勢力を得たもの」という意味で、知恵と慈悲の勢力が自在に働き出るということを表しているのだそうです。
本堂内厨子に納められていた仏像の1体です。


本尊の左側・・・



本尊に近いほうから延命観音菩薩立像【栃木県指定文化財】。
その前方に如意輪観音菩薩坐像【栃木県指定文化財】。
その斜め後方に馬頭観音菩薩立像【栃木県指定文化財】。
曼荼羅の下に目立たなくお立ちなのが毘沙門天立像【栃木県指定文化財】です。
如意輪観音像は室町時代、ほかの仏像は鎌倉時代の作といわれ、本堂内厨子に納められていました。



延命観音は文字通り、衆生しゅじょうすなわちあらゆる生き物の延命を叶える存在とされています。
西明寺の延命観音はしょう観音の容姿をしていて、はじめは聖観音像であったと考えられています。

如意輪観音は、右ひざを立て両足の裏を合わせて座る輪王座という座り方をし、6本の腕をもっています。
胸元の手のひらで如意宝珠という宝玉を握り、左肩のところにある手の人差し指には法輪という輪を持っています。
如意宝珠は福徳、法輪は知徳を表し、この功徳で衆生の苦を和らげるといいます。
6本の腕で天道、人間道、餓鬼道などの6つの世界、六道を救済するといわれています。

馬頭観音は「駿馬の首をもつもの」という意味合いを持ち、観音の中で唯一恐ろしい形相をしています。
その形相は、休むことなく疾走する駿馬の如く奔走し、衆生の救済に身命を惜しまない大いなる精神の顕れとされています。


本尊の右側は・・・



前列に准胝じゅんでい観音菩薩立像【栃木県指定文化財】で、厨子に納められていた仏像のひとつです。
後列は木造千手観音菩薩立像【栃木県指定文化財】と木造千手観音菩薩坐像【栃木県指定文化財】。
いずれも鎌倉時代の作とされています。

准胝観音七倶胝仏母しちくていぶつもとも呼ばれ、七倶胝(七千億万)もの仏を産んだとされています。
聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音とともに「六観音」の一尊とされ、その中で唯一の女性とされています。
聡明、子授け、治病などに功徳があるといわれています。



千手観音は、千の手と、それに備わる千の眼をもって、あらゆる衆生を漏らさずに救済するとされています。
「千」は「無限」を意味し、実際に「千手」である像は多くはありません。
千手観音像の手の数は42本である場合が多いようで、胸元の2本で合掌するほか、すべての手がそれぞれ異なる物を持っています。




これだけの仏像が一堂に会するのは、関東ではなかなかありません。
しかもこれらのほぼすべてが、鎌倉・室町時代作の文化財です。



貴重な体験をさせていただき、本堂を出ました。



本堂の横にある大木。

 

西明寺のこうやまき【栃木県指定天然記念物】です。
こうやまきは「高野槙」と表記し、紀州の高野山に多く生えていることからこの名があるといいます。
このこうやまきは、承元3年(1209年)宇都宮景房が本堂再建の記念として植えたものと伝わり、樹齢は800年を超えているのだとか。
これだけ長寿の木ですから、その大きさは北関東最大を誇ります。



境内にはほかにも見どころがあったのですが、私の不注意で見落としてしまいました。
西明寺の散策、リベンジが必要でしょうか???




午 前 9 時 0 8 分

ど っ こ い し ょ




納経所兼休憩所「独鈷處」に戻ってきました。



久々の記帳! 20番、西明寺!
坂東33箇所巡りも、ぼちぼち再開していかなければなりませんなぁ。


さてこの西明寺、閻魔大王のお寺にちなんで「笑いエンマの御朱印」もあるとか。
しかしこの日はその描き手がいらっしゃらなかったので、閻魔さまの御朱印はいただけませんでした。



やっぱり、西明寺は後日リベンジが必要ですね。





坂東33箇所霊場20番札所 西明寺・前編~道を歩いてどっこいしょ

2019-12-15 | 寺院仏閣


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 3 1 日 ( 日 )

午 前 7 時 3 9 分

栃 木 県 芳 賀 郡 益 子 町

真 岡 鐡 道 益 子 駅







益子駅から、焼き物の街・益子へ。
その前に、ここでも「城攻め」



西明寺城、攻略!
・・・というわけで、今回向かうのは西明寺城・・・ではありません。
「城」の字を削った、西明寺です。


西明寺は益子にある真言宗豊山派の寺院で、山号は独鈷どっこ、院号は善門院です。
坂東三十三箇所霊場第20番札所となっています。
奈良時代の天平年間(729年~749年)に行基によって開山し、紀有麻呂の開基によって創建されたといいます。
その後兵火によって何度も焼失しましたが、益子氏宇都宮氏の援助によって再建されました。





駅を出てまっすぐのびる通りを進み、突当りを左折。



栃木県道41号・つくば益子線を進みます。







益子焼の工房が建ち並ぶ、益子のメインストリート。



ちょっと目立たない所に立っている道しるべ。
西明寺への近道です。



要所要所に道しるべが立っているので、迷うことなく行けます。
向かうはあの山の上か・・・。



看板に導かれ、栃木県道262号・益子公園線へ。



県道のようには見えない、山村の田舎道ですね。



益子駅から約2.5kmのところで、路傍に「坂東第二十番霊場」の石標が見えてきました。
西明寺に到着!・・・ではなく、ここが上り坂の始まりです。
西明寺までは約600メートルほど。







進むにつれて傾斜はきつくなっていきますが、



(画像では見にくいですが)青看が見えてきて・・・



駐車場が見えてきたら、ゴールはもう少し。



最後のカーブを曲がると、



西明寺の境内に続く石段と、休憩所兼納経所である独鈷處どっこいしょが見えてきました。



ふぅ~、どっこいしょ。



【今回の移動記録】



真岡鐡道 益子駅 7時39分発
独鈷山西明寺「独鈷處」 8時31分着

*所要時間 52分
*移動距離 3.6km




午 前 8 時 3 1 分

独 鈷 山 西 明 寺 に 到 着


「独鈷處」は開錠されていて中に入れるのですが、照明はついておりませんでした。
ここでは手打ちそばをいただくことができるのだそうですが、その時刻は午前11時から午後2時までの間に限られるとのこと。
朝から何も食べないでここまで来ましたが、朝食はもうしばらくのお預けになりそうです。

「独鈷處」の隣りにある納経所も照明が灯っていませんでしたが、中には翁がいらっしゃいました。
翁にご朱印帳を提出すると、記帳しておきますので境内を拝観してから再び来るようにとのこと。
また本堂の中にも入れるというので、拝観させていただくこととしました。

ご朱印300円と本堂拝観料300円を支払い、境内へ。




「独鈷山西明寺」の石標が立つ、参道石段。
「独鈷山」の「独鈷」とは密教で用いられる仏具で、短い金属製の棒で両端が尖っているものをいうそうです。
山号の由来とはあまり関係がないのかな・・・?



参道の両側に立つのは、シイの大木です。
これらのシイは西明寺の椎林叢しいりんそう【栃木県指定天然記念物】として文化財指定されています。

西明寺はそれほど大きい寺院ではありませんが、文化財が多く存在する興味深いお寺なのです。



石段を上っていくと、重要文化財がふたつも見えてきましたよぉ~。



石段を上りきると楼門【国指定重要文化財】に出迎えられ、西明寺の境内へといざなわれます。






犬伏の別れ

2019-08-11 | 寺院仏閣


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 前 7 時 1 1 分

栃 木 県 佐 野 市

佐 野 駅 前



佐野駅を出ました。



朝早く開いている飲食店を探します。
駅前を見てみると、があるだけでファミレス、ハンバーガー、牛丼の店は見当たりません。



7の隣りにレンタサイクルしのはらがありました。
朝早いからまだ営業を・・・おや、開いている?



本日の我が愛馬です。
ほの暗い室内から突然現れた翁にやや驚いたものの、営業は午前7時からということで無事に借りることができました。
レンタル料金は1時間110円、以後1時間ごとに70円ずつ加算されていきます。
3時間で250円、5時間でも400円弱ですから、お安いといえますね。


さあ、まずは朝飯を食べられるところを探しましょう!



あ、向かいにあった・・・。
けど、開いているのか?
あ、扉はカギがかかっていない、中にはすでに先客がいます。

佐野駅に一番近い飲食店、「松葉食堂」
「本日、親子丼550円」という札が懸っているので、おすすめは親子丼なのかもしれませんが・・・



佐野ラーメン1杯目、うまい!
朝飯としてはちょうど良いラーメンを食し、550円を支払いました。
「こんなのでいいんだよ~」というような素朴だけどうまいラーメンで、幸先の良い旅のスタートです。





再び佐野駅前。
丁字路を右に進みます。
そのまま道なりに進むと細い道になりますが、そのまま進み・・・



センターラインが黄色の、幹線道路っぽい道が現れたら、左折。



JR両毛線の踏切を越え、その先の東武佐野線の高架をくぐり、



その先の丁字路を栃木市方面へ右折、栃木県道141号線に入ります。



唐沢山まで6km・・・ですが、最初の目的地はそちらではありません。



「真田丸農場直売所」・・・こんなところにも大河ドラマの影響が。



「犬伏町」
最初の目的地が近づいてまいりました。
前方に見える低い山、その足元。



真田六文銭が翻る小さなお堂、新町薬師堂に到着しました。



【佐野駅前→新町薬師堂の行程】



佐野駅前(松葉食堂) 7時30分発
栃木県道141号唐沢山公園線・同75号栃木佐野線経由
新町薬師堂 7時47分着

*所要時間 17分
*移動距離 3.3km




慶 長 5 年 ( 1 6 0 0 年 ) 7 月 2 1 日 ( 金 )

下 野 国 安 蘇 郡 犬 伏 ( 現 在 の 栃 木 県 佐 野 市 )

真 田 軍 本 陣


太閤・豊臣秀吉が薨去し、徳川家康が次の天下人に名乗りを上げようとしている時節。

家康は会津の上杉景勝難癖をつけ「謀反の疑いあり」として、申し開きのために上洛をするように促しましたが、景勝がこれを拒否。
家臣の直江兼続から「直江状」を送られ・・・たかどうかはわかりませんが、家康は「上杉の謀反、疑いなし!」として、上杉討伐軍を起こしました。
上杉討伐軍には主に東国の諸大名が参加し、信州上田の領主・真田昌幸とその次男・信繁(幸村)、上州沼田の真田信幸も参戦すべく、軍勢を動かしておりました。

昌幸の軍と長男の信幸の軍は、下野国犬伏の地で合流しました。
その晩、はるか西の上方から重大な書状が届けられたのです。

「内府違いの条々」、内大臣・徳川家康に対する弾劾状。
豊臣五大老の毛利輝元宇喜多秀家、そして豊臣五奉行の前田玄以増田長盛長束正家の5名が連署しています。
石田三成はこのとき佐和山城に謹慎していたため、表向きは記名していません)
これに応じた西国の大名は軍勢を大坂に集結させ、石田三成とその親友といわれる大谷吉継も加わります。



これを受けて、真田親子は今後の去就を決めるべく、犬伏の地にあった薬師堂で話し合いをしたといいます。

父・昌幸は、その正室・山手殿が三成の正室の姉という説があります。さらに上田合戦以来、家康は仇敵。
兄・信幸は、その正室・小松姫が家康の重臣・本多忠勝の娘で、家康の養女でもあります。
弟・信繁は、その正室・竹林院が大谷吉継の娘です。

父と弟は西軍に、兄は東軍につくことを主張しましたが、両者は折り合いません。
そこで双方が敵味方に分かれ、東西どちらが勝っても真田の家は生き残るという策をとりました。

この犬伏の談合が、昌幸・信繁と信幸との今生の別れとなりました。
世に云う、「犬伏の別れ」です。





午 前 7 時 4 8 分

新 町 薬 師 堂


犬伏の別れから400年。



当時のままではありませんが、今もなおお薬師さまが祀られているようです。



お堂の中には、コスプレ用と思われる3領の甲冑が置いてありました。
信幸(信之)の甲冑の背後には、93歳もの天寿を全うした真田信之その人の辞世が掲げられていました。

何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思はざりけり
(どのような事も時が過ぎれば変わってしまうものであるが、それでも昔あった出来事を夢であったと思うことはできない)




薬師堂で互いの去就を決断した親子は、近くの川にかかっていた橋で今生の別れをしました。
現在は川はなく、当然橋もかかっていないのですが、その橋は道路を挟んだ向かいの寿司屋付近にあったそうです。



別れ橋伝承地
当時の川は、現在では暗渠になっているようですね。




午 前 8 時 0 1 分

犬 伏 町 ・ 大 庵 寺


薬師堂から佐野駅方面へ引き返します。



進んでいる道は日光例幣使街道
江戸時代に天皇の代理として、日光東照宮へ幣帛(お供え物)を運ぶ使者が例幣使でした。
例幣使は中山道から東国に下り、高崎の倉賀野宿から脇街道を進みましたが、その脇街道が日光例幣使街道です。
上杉討伐に向かう真田の軍勢も、この道を通ったことでしょう。



1km弱進んだところで、大庵寺に着きました。



【新町薬師堂→大庵寺の行程】



新町薬師堂 7時57分発
栃木県道75号栃木佐野線・同141号唐沢山公園線経由
大庵寺 8時01分着

*所要時間 4分
*移動距離 0.9km





寺の境内へ。



朝早い境内には、まだ誰もいません。



本堂でしょうか。
ずいぶん現代的ではありますが・・・

「犬伏の別れ」の話し合いが行われたのは、薬師堂ではなくこのお寺だったという説もあるのです。
真田親子も名のある大名でありますし、親子とはいえ昌幸と信幸は別々の所領が与えられていたので、大名同士の会談としてはふさわしい場所かもしれません。
しかしながら小さな薬師堂で談合したというほうが、よりドラマチックではありますね。



唐沢山城【国指定史跡】に行く前に、少しばかり寄り道をいたしました。





浄妙寺に寄ることにした

2016-12-30 | 寺院仏閣


2 0 1 6 年 1 1 月 1 2 日 ( 土 )

午 後 1 時 5 7 分

神 奈 川 県 鎌 倉 市

報 国 寺 入 口 付 近



やや遅いランチを堪能し、時刻は午後2時前。
帰りの集合時間が午後4時45分なので、鎌倉駅までの戻りの時間を考えると、もう1ヶ所くらいは行けそうです。
なのでスマホさんの助力で、報国寺付近の寺院仏閣を調べてみると、

「浄妙寺  枯山水の庭が美しい寺院」

という記述がありました。
庭好きの私にとってはなんとも魅力的な響き。
即決して、徒歩で向かうこととしました。




金沢街道から脇道に入って歩くこと約2分、山門に到達しました。
山門をくぐってすぐの受付で、拝観料100円を支払います。

 

本堂へ至る参道の両側に、さっそく枯山水の庭が広がっています。
こちらの枯山水は、石庭よりむしろ植わっている草木がメインのようにも見えました。
この日の紅葉はまだ色づき始めといった具合ですが、樹冠の部分の紅葉はとても美しいものでした。



色づき始めの紅葉だけでなく、



路傍の草花も美しい。

 (C)傍の御前

野菊に止まるハナアブ
御前の画像はなぜだかわかりませんが、動物がよくカメラ目線になります。



振り返ってみると、なんだか山の中にいるような感じ。
鎌倉の狭い地形が織りなす光景ですね。



本堂でお詣り。
その裏側は墓地になっています。



その中にぽつんとある1基の墓、足利貞氏公の墓
足利貞氏は、のちに室町幕府を立てる足利尊氏の父です。




本堂から脇に入ると、白石の美しい枯山水が見えます。



ツバキ越しの枯山水。



このあたりから枯山水に近寄ることができるかと思ったのですが、どうにもたどり着けません。









木々の色づきを見ながら境内を歩いていくと、

 

崖が現れ行き止まり。
そしてここには足利直義墓がありました。



この人が足利直義源頼朝ではありませんよ~。
足利貞氏の子で、尊氏の弟です。
戦は強いが精神的には弱いところがある尊氏を政治面で支えた弟。(弟は戦がかなり弱かったのですが)
敗走する尊氏軍の立て直し、室町幕府の屋台骨の形成など、裏方で辣腕を振るいました。
しかしながら足利家の執事・高師直と対立し、兄が師直に加担することで兄とも対立してしまいます。
師直の排除には成功しましたが、兄はなんと敵であるはずの南朝に降伏
直義は次第に追い詰められ降伏しますが、鎌倉で幽閉され、直後に変死してしまうのです。


ちなみに「頼朝」と教えられてきたこの肖像は、現在では足利直義のものであるというのが定説になってきています。
兄の尊氏の肖像も、じつは尊氏ではないそうです。


足利直義墓から引き返し、小ざっぱりとした枯山水に向かいます。



「石窯ガーデンテラス」・・・ここでもない。


本堂付近まで戻り、脇道をよくよく探してみると、





枯山水にたどり着くことはできました。
できましたが・・・なかなかよろしい画角が見当たりません。
よさげなのは、枯山水に隣接している茶屋の中から見た画のようですが・・・茶屋から枯山水を望むにはお抹茶(500円)を飲まなきゃならない様子。
お抹茶は竹寺でいただいたので、もういいかな~・・・・・・

この寺は茶一杯飲まねぇと、庭一つ見せてやらねぇってか!

傍の御前の前でボヤいてしまいました。







枯山水をよく見られなかったのは残念でしたが、色づき始めの木々と蒼天は美しく、我々は晴れ晴れとした心持ちで浄妙寺を後にしました。