高崎駅から、群馬バス箕郷行きに乗って約30分で田町バス停へ。
そこから徒歩10分ほどで、高崎市役所箕郷支所に到着。

今回登城するのは、群馬が誇る堅城・箕輪城。
戦国時代の上州は、はじめ上杉氏(関東管領家)の勢力であったが、当主の上杉憲政は河越城の戦い(河越夜襲)で相模の北条氏康に大敗し、没落の一途をたどる。
上杉憲政は、上州を放棄して越後の長尾景虎のもとへ落ちのびる。
(憲政は景虎を養子とし、景虎はのちに上杉謙信と名乗る)
憲政が逃亡したのちも、在地の豪族であった箕輪城主・長野
業正の死後、ついに信玄が箕輪城を攻略。
その後は武田家が治め、武田を滅ぼした織田、本能寺の変に乗じた北条へと移る。
豊臣秀吉の小田原攻めののち、徳川家康が関東に移封となる。
箕輪城は徳川四天王のひとり・井伊直政が預かり、改築にとりかかったが、1598年に高崎城に移り廃城となった。

16番、箕輪城!
登城前にあらかじめ箕郷支所でスタンプを得ておいた。
箕郷支所から歩いて20分くらいで、城の入口へ。

こちらは城の搦め手らしい。
ひさびさの山城なので身が引き締まります。

明らかに攻城の障害になりそうな空堀と土橋。
往時には城門が構えられていたのだろうか。

もう少し進むと、かなり規模の大きい空堀。
この大きな空堀こそ、箕輪城が難攻の要塞たるゆえんであった。
(画像は城の内部側から見たものです)
そして画像左側には郭馬出が備えられ、向かってくる侵入者に対し横槍を入れられるようになっていたという。

こちらは二の丸。
それぞれの曲輪に連絡する出撃の拠点であった。

少し下って三の丸。


三の丸付近には、往時の石垣が残っている。
箕輪城の守備の要であった大堀切に下りた。


ざっと10メートル以上は掘り下げたであろうと思われる。
当時の人夫の労苦は尋常なものではあるまい。

大堀切の石垣は、御前曲輪を防衛する。
堀を上って、いきなり城内の最奥部。

御前曲輪は本丸のさらに奥で、持仏堂や井戸があった。
いわば精神的な機能があったという。

持仏堂の跡には慰霊碑が立っている。
箕輪城主・長野業正は知勇兼備の名将であり、武田信玄の軍を何度も撃退していた。
信玄は「業正が生きているうちは上州には手が出せない」と嘆いていたという。
しかし1561年、業正病死。
嫡子・業盛への遺言が壮絶なものであった。
「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」
業正の死は隠されたが、武田方が察知してしまう。
1562年、箕輪城落城。
業盛は父の遺言に従い、持仏堂で自害して果てた。享年19。
御前曲輪から本丸へ。

「箕輪城跡」の碑は本丸の隅にひっそり立っている。

本丸から東を見やると、

澄み切った青空に赤城山がくっきり浮かんでいた。
名のみぞ残る箕輪の山里
季節は春ではないが、年若くして討ち死にした長野業盛の辞世の句で、この旅を締めくくるとしよう。
日本100名城登城の旅・初段「雪中北陸縦断」 完