鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

壮絶なる遺言!上州箕輪城

2012-11-19 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 7 日 ( 火 )

午 後 1 時 0 5 分

群 馬 県 高 崎 市

高 崎 市 役 所 箕 郷 支 所




高崎駅から、群馬バス箕郷行きに乗って約30分で田町バス停へ。
そこから徒歩10分ほどで、高崎市役所箕郷支所に到着。



今回登城するのは、群馬が誇る堅城・箕輪城。


戦国時代の上州は、はじめ上杉氏(関東管領家)の勢力であったが、当主の上杉憲政河越城の戦い(河越夜襲)で相模の北条氏康に大敗し、没落の一途をたどる。
上杉憲政は、上州を放棄して越後の長尾景虎のもとへ落ちのびる。
(憲政は景虎を養子とし、景虎はのちに上杉謙信と名乗る)

憲政が逃亡したのちも、在地の豪族であった箕輪城主・長野業正(なりまさ)は、北条氏康やその同盟者・武田信玄に抗戦していた。

業正の死後、ついに信玄が箕輪城を攻略。

その後は武田家が治め、武田を滅ぼした織田、本能寺の変に乗じた北条へと移る。

豊臣秀吉の小田原攻めののち、徳川家康が関東に移封となる。
箕輪城は徳川四天王のひとり・井伊直政が預かり、改築にとりかかったが、1598年に高崎城に移り廃城となった。





16番、箕輪城!
登城前にあらかじめ箕郷支所でスタンプを得ておいた。



箕郷支所から歩いて20分くらいで、城の入口へ。



こちらは城の搦め手らしい。
ひさびさの山城なので身が引き締まります。



明らかに攻城の障害になりそうな空堀土橋
往時には城門が構えられていたのだろうか。



もう少し進むと、かなり規模の大きい空堀。
この大きな空堀こそ、箕輪城が難攻の要塞たるゆえんであった。
(画像は城の内部側から見たものです)
そして画像左側には郭馬出が備えられ、向かってくる侵入者に対し横槍を入れられるようになっていたという。



こちらは二の丸
それぞれの曲輪に連絡する出撃の拠点であった。




少し下って三の丸





三の丸付近には、往時の石垣が残っている。


箕輪城の守備の要であった大堀切に下りた。





ざっと10メートル以上は掘り下げたであろうと思われる。
当時の人夫の労苦は尋常なものではあるまい。



大堀切の石垣は、御前曲輪を防衛する。


堀を上って、いきなり城内の最奥部。



御前曲輪は本丸のさらに奥で、持仏堂や井戸があった。
いわば精神的な機能があったという。



持仏堂の跡には慰霊碑が立っている。


箕輪城主・長野業正は知勇兼備の名将であり、武田信玄の軍を何度も撃退していた。
信玄は「業正が生きているうちは上州には手が出せない」と嘆いていたという。

しかし1561年、業正病死。
嫡子・業盛への遺言が壮絶なものであった。

「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」

業正の死は隠されたが、武田方が察知してしまう。

1562年、箕輪城落城。
業盛は父の遺言に従い、持仏堂で自害して果てた。享年19。



御前曲輪から本丸へ。



「箕輪城跡」の碑は本丸の隅にひっそり立っている。




本丸から東を見やると、



澄み切った青空に赤城山がくっきり浮かんでいた。


春風に梅も桜も散り果てて
名のみぞ残る箕輪の山里


季節は春ではないが、年若くして討ち死にした長野業盛の辞世の句で、この旅を締めくくるとしよう。



日本100名城登城の旅・初段「雪中北陸縦断」 完

健康診断

2012-11-01 | 移動の旅

2 0 1 1 年 1 2 月 2 7 日 ( 火 )

午 前 6 時 3 0 分

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



旅は終わらない。
いつものとおり、18きっぷの残りである27日分の有効活用のため、たいていは東京に戻ってからさらに日帰りの旅をする。
今回もそのつもりである。

だが、自宅に戻る。

まず、手荷物の整理。
みやげ物や着替えを置きに戻る。

そして、シャワー。
26日の朝、金沢のホテルで入浴して以来、風呂に入っていない。

だが、これらの理由は我慢すればどうにかなる。
家にいちいち戻る方が煩わしい。

今回家に戻った理由は、健診の書類を取りに行ったためである。

健診の書類には当然検便のツールも含まれる。
さすがに旅先で検便の採取はやりたくない。

それに健診は午前10時から(だったと思う)。
いったん自宅に戻ってリフレッシュしたい。

だが肝心の便が水っぽいのしか出ない。
むかしの検便は1かけらくらいの便が必要だったが、今の検便は1滴?程度で十分らしい。
便利な世の中になったものよのぅ。



再び都内へ。
秋葉原で健診を受診。

健診終了後、御徒町まで歩いて、富士そばで食事。



そして今回のオマケ旅は、群馬県。
(発車時刻などをメモしたデータが見つかりましたので、反映いたします。 2013/6/23)


JR御徒町駅 4番線 10時01分発
  京浜東北線 各駅停車 大宮行き
  上野駅 1番線 10時03分着

JR上野駅5番線 10時30分発
  高崎線 普通 高崎行き
  3番線 12時17分着

ここから目的地までは、バスを使わなければならない。

群馬バス 高崎駅前2番のりば 12時25分発
  浜川経由 箕郷行き
  田町バス停 12時57分着  500円


目的地の最寄りのバス停よりもひとつ前のバス停で降車。

この旅最後の城攻めが始まる!




退却

2012-11-01 | 移動の旅

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 後 3 時 3 0 分

福 井 市 一 乗 谷







一乗谷で北陸の銀世界に完全に呑み込まれた私。

風にやられ、雪にやられ、そしてなにより1時間に1回轟く雷鳴にやられ、完全に気力を削がれてしまった。


さらに、一乗谷の入口付近で拾ったタクシーが、私を待っている。

「金がない」「貧乏旅行だ」「18きっぷユーザーだ」などと再三再四アピールしたものの、運転手氏は獲物(わたし)を逃さない。


そこに、一乗谷で気力を喪失した私が戻った。


運転手氏は、「福井駅まで送ってやる」と言ってきた。

福井駅から一乗谷までは10キロ程度あるから、ある程度の出費は覚悟しなければならない。
だが、一乗谷駅のあるJR九頭竜線(越美北線)は、2時間に1本というとんでもないローカルっぷりで、この時間で次の列車は午後5時になることはすでに調査済み。


私は、あっさり承諾した。

休めそうな施設のない一乗谷に午後5時まで時間をつぶすには、気力が足りない。
一乗谷城? あんな雪山にいまさら登れませんや。


資料館のコインロッカーから手荷物を回収し、タクシーで福井駅へ。

車中の運転手氏との会話で、この方はかつてわが本拠地・船橋に住んでいたと判明。
30年前の船橋の様子をいろいろ聞いた。



午後4時ごろ、JR福井駅に到着。
(時間の記録が散逸してしまい、正確な時刻は不明)

料金メーターは9,000円を超えていたが、運転手氏との交渉で6,000円ということになった。
おそらく待ち時間分を引いた格好であろうか。


福井駅の近くにあるドトールで休憩。
一乗谷で削がれた気力を回復しようとしたが、タクシーで予定外の金を使ったことへの後悔の念がふつふつと湧いてくる。

1時間程度休憩して、福井から名古屋へ向かった。


JR福井駅  17時46分発
  北陸線 普通 敦賀行き
  18時39分着

JR敦賀駅  18時49分発
  北陸線(琵琶湖線直通) 新快速 姫路行き
  米原駅 19時42分着

JR米原駅  19時48分発
  東海道線 普通 大垣行き
  20時30分着

JR大垣駅  20時39分発
  東海道線 新快速 豊橋行き
  名古屋駅 21時11分着

( ↑ 記録が散逸してしまったので、おぼろげな記憶と時刻表で推測したものです)


名古屋駅で降りると、なぜかマクドナルドに必ず寄る。
今回もマクドで、旅日記でも考案しようと思ったが、携帯もPCもバッテリーが切れていた。

マクドの閉店が午後11時なので、以降はコンコースやホームで列車を待った。


JR名古屋駅  23時20分発
  東海道線 快速 ムーンライトながら82号 東京行き
  12月27日 5時05分着


いつもながら横浜駅の発車メロディを聞いて、帰ってきた感を味わう。

そして東京駅の東海道線ホームに着いた後は、地下に下りて総武線で家に戻った。



・・・だが、ここで旅は終わらなかった。