鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

夜行の果てに

2014-07-25 | 移動の旅

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 後 9 時 1 3 分

千 葉 県 船 橋 市

京 成 船 橋 駅 付 近



国道357号・湾岸道路を曲がり、国道14号・千葉街道を越えて、船橋の中心部まで来ました。


川崎大師で食事をして以来、ちゃんとした食事をとっていませんでした。
仲見世で買ったさらし飴は、道中でその都度つまみ食いし、気づいたら東京ゲートブリッジにたどり着く前に食べきってしまいました。

拙宅のある船橋に入ったので、ここでお夜食。
お夜食はなにかガッツリとしたものを食べようと思い、行きつけのラーメン屋に入ります。

船橋駅南口側の狭い路地にある「ラーメン無限大」船橋店。
最後の最後で、二郎系ラーメンを己の胃袋にお見舞いします。



味噌ラーメン中盛り野菜増しバカ豚乗せ! こたえるねぇ!
野菜増しをオーダーしたので、いきなりズルズル~というわけにはいかず、野菜を卓にこぼさないように慎重に食べます。
そして、麺が過度に汁を吸わないように、野菜をかき分け麺をほじくり出して、ゆっくり食べました。


ラーメンを食べて腹は満たされ、体も温まりました。
そなえつけのティシューで鼻をかみ、外に出ます。


寒い。
ラーメン食べて、鼻水が出るほど体を温めたのも束の間、度を過ぎて涼しい空気が体を襲います。
夜の気温は15℃ほどでしたが、私は荷物を減らしたため長袖を1枚も持っていませんでした。


そこで船橋駅周辺の銭湯に駆け込むことにしたのです。



分け入った路地の中にたたずむ「松の湯」



男湯の脱衣所にはなぜかキリンが立っていらっしゃいます。

松の湯! うえええええい!
・・・と大泉さんのように大声を発することなく、銭湯で温まりました。



風呂上がりの一杯! うぇぇぇ~・・・うまい!
何かドラマを放映しているテレビの前にどっかり座り込んで、牛乳を飲み干しました。

それから・・・なんだか動きたくない。

銭湯で湯船にゆっくり浸かった私は、体から力が抜けてしまい、家に帰る気力がなくなっていきました。

それでも家に帰らなければならない。

帰り道は暗闇の中をなんとか進んでいきました。
その速さは明らかに遅く、その間に涼風は確実に私の体を冷やしていきました。



午 後 1 1 時 2 6 分

よ う や く 帰 宅


帰宅した私は、シャワーで汗を落とし、早々に床に就きました。
体はだるく、熱っぽく、とうとう風邪をひいてしまったのです。



その後数日間、風邪と喘息に苦しめられながら日々を過ごすこととなりました。



・・・今度は、1枚くらいは長袖を持っていこう。



「第62回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記」完

夜の東京ベイサイド

2014-07-25 | 移動の旅

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 後 7 時 1 0 分

東 京 都 江 東 区

東 京 ゲ ー ト ブ リ ッ ジ





日は沈み、夜の東京ベイサイド。
帰りは国道357号・東京湾岸道路を通ります。
せっかくなので東京湾の夜景を見ながら帰ろう、そう思っていました。


まずは東京ゲートブリッジから新木場方面へ戻ります。



ゲートブリッジのある若洲から夢の島へと渡る橋からは、葛西臨海公園ひまわりの大観覧車が見えます。



湾岸道路に戻る前にちょっとばかり寄り道。
新木場にかかる橋からゲートブリッジをチラ見。
う~ん、ゲートブリッジはそばで見たほうがいいですねぇ。



国道357号に入っても、私の夜景熱はおさまらず、進んでは止まりを繰り返しました。



遠くで光る東京スカイツリーと、その手前の工場夜景。

夜景の撮影がへたくそな私は、何度も撮影をやり直します。
そのために帰る時間は遅くなっていき、冷たい夜風は私の体を着実に冷やしていきました。


陸橋のやたらと多い国道357号をアップダウンしながら、荒川を渡って葛西へ。
葛西臨海公園がそばにあり、遠くから望んでいたひまわりの大観覧車が間近に見える・・・はずでした。



観覧車の間に横たわる太いガード。
東行きのほうの歩道(北側の歩道)にいたので、間を通る首都高速湾岸線が観覧車の下部分を隠してしまっています。

だったら反対車線(南側の歩道)へ行けと? もちろん行きました。
そうすると湾岸線以上の強敵がいたのです。

 

こいつが。風がちょっと吹けば停まってしまうこいつ。
JR京葉線がドカっと立ちふさがり、夜景が全く見えなかったのでした。

チャリは東京都を離れ、浦安に入っていたのですが、東京ディズニーリゾートの前には常にJR京葉線が立ちふさがっていました。
私は夜景の撮影をあきらめ、早いとこ自宅に戻ろうと思っていました。



舞浜の駅前を通過し、ふと右側を見てみると、JR京葉線のガードがなくなっています。

・・・あれ? 京葉線って、湾岸道路をまたいで北側に出たか?
・・・でもこれで夜景の前にふさがる障害はなくなったな。


そう楽観的に考え、チャリを進めていましたが、



お、東京ディズニーリゾートかな?



ホテルユーラシア舞浜?! こんなホテルあったか?
何度も湾岸道路をチャリで走っているけど、こんなホテルは記憶にない! これはおかしい!!

これまでの疲れが注意力を奪っていたので気づかなかったが、この道路、片側2車線道路だけど対面交通の道路だ!
湾岸道路は西行きと東行きが首都高速&東関東自動車道をはさんで完全に分離しているので、対面交通はありえません。
そういえば高速道路のガードがない!

こうして別の道に迷い込んでいたことが発覚。
どっと疲れが出てきます。
今まで通ったことがない道路ならまだしも、湾岸道路は何度も通っている道路。
こういうところでの走行ミスが一番堪えます。


元来た道を戻ること、だいたい7分。距離にすると2Kmほどでしょうか。

  

道を間違えたの原因は、舞浜駅前のこのポイントでした。
左画像の手前は新木場側、右手側にJR舞浜駅や東京ディズニーリゾートがあります。

このあたりは首都高へ接続する立体交差(舞浜インター)やら、湾岸道路へ接続する平面交差やらが絡む複雑なポイントで、湾岸道路を進む歩行者・自転車は、右の陸橋へ続くスロープを上らなければならないのです。
そしてそのスロープへ続く道は細く、夜ともなれば目立たない。
そして案内看板も見当たらないという不親切設計です。

スロープへの道を見逃してそのまま進むと、いつの間にか浦安の海に向かってしまうのです。



こうして紆余曲折の末に舞浜を通過し、これを機に西行き歩道から東行き歩道へ鞍替え。



「船橋 10Km」です。
おそらく船橋市役所の入口がある日の出町までの距離と思われます。
私も日の出町の交差点を曲がる予定でしたので、もうひとふんばりといったところ。




午 後 9 時 0 5 分

つ い に 船 橋 へ




ようやく船橋へ戻ってきました。
しかし心はすさみきり、体は冷え切っていました。

河川や立体交差のためにアップダウンがやたらと多い国道357号。
疲労は着実に蓄積し、私は357も嫌いになっていきました。
道は狭いしゴミゴミしてるけど、やっぱり国道14号のほうがいいや。





東京ゲートブリッジ

2014-07-21 | 公園・庭園

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 後 5 時 2 2 分

東 京 都 中 央 区 銀 座





羽田から産業道路、そして第一京浜を進んで銀座までやってきました。
この日の銀座は、中央通りが歩行者天国となっていました。
(※新橋駅前から先、国道15号は第一京浜から中央通りと名称を変えます)



銀座4丁目交差点で、ホコ天になっていない晴海通りへと曲がります。
左手には歌舞伎座、右手には築地市場を見つつママチャリは快調に東京湾のほうへ。



隅田川にかかる橋で最下流の勝鬨橋【国指定重要文化財】、



豊洲にある晴海大橋をわたり、国道357号・湾岸道路に出ました。




午 後 6 時 2 0 分

東 京 都 江 東 区

若 洲 海 浜 公 園


湾岸道路を東へ走り夢の島へ。
新木場の交差点で湾岸道路から曲がり、進むことだいたい2Km強で、若洲海浜公園に到着しました。

若洲からは羽田方面への道路が通っており、



若洲とその対岸・中央防波堤埋立地をわたすのが東京ゲートブリッジです。





また別方向を見渡すと、海をはさんでお台場が、遠くのほうに東京タワーが見えます。


時刻は日の入前だったので、早々に帰る・・・のではなく、夜景を見ておかなければと思い立ち、そのまま公園のベンチで時を待つことにしました。

海とのフェンス際では、大勢の人が釣りをしていました。
そんな中、ひとりスマホをいじくって時間が過ぎるのを待ちます。
曇り空の海風はなんとも冷ややか。
そして妙に蚊が多い。



ベンチでスマホをいじって15分。
いつの間にか空は暗くなり始めていました。



ゲートブリッジの主橋梁部分に照明が灯っていました。



都心のほうを見やると、ビルの明かりが灯り、東京タワーがライトアップしていました。



それから5分。
空は時を追うごとに暗やみを増していきます。





ゲートブリッジの橋梁全体に水色のライトアップが灯りました。
このライトアップは、季節ごとに色が変わるそうです。


東京ゲートブリッジは、東京湾臨港道路の一部をなす橋です。
その全長は2,618m、そのうち海上部分は1,618m、その中でゲート部分というべき主橋梁は760mあります。

ゲートブリッジを渡るには、自動車で通らなければなりません。
橋には歩道もついているのですが、あくまで観光用。対岸の中央防波堤埋立地までは続いていません
そして自転車は乗入れすらできません



都心のほうは・・・





東京って・・・いいなぁ。



そしてあたりはすっかり暗くなりました。





何も建っていない中央防波堤埋立地の暗闇の中で、東京ゲートブリッジだけが妖しく煌めいていました。





古戦場・羽田東急ホテル跡地

2014-07-21 | どうでしょうロケ地

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 後 3 時 2 9 分

川 崎 市 川 崎 区



川崎大師を出て、東京方面へママチャリを走らせます。

川崎大師は第一京浜から東京湾寄りに進んだところにあるので、このまま第一京浜に戻るのはかえって遠回りです。
近くには産業道路という、羽田から横浜の大黒までを結ぶ幹線道路が走っているので、このルートをとることとしました。


東京都道・神奈川県道6号線は、通称「産業道路」と呼ばれています。
第一京浜、第二京浜とともに、東京横浜間を結ぶ第三の道路という位置づけです。(私だけはこう位置付けています)
港区・品川区内の海岸通りとともに、東京湾寄りのルートです。

このルートの利点がもっとも発揮されるのは、真夏。
産業道路と海岸通りはそれぞれ首都高速のガード下を通っているので、直射日光を避けながら快適に走行することができるのです。



産業道路は首都高速横羽線のガード下を通っていくのですが、彼らに突如別れがやってきます。



多摩川大師橋です。
多摩川を渡る直前で、横羽線は東京湾のほうに去ってしまいます。
残された産業道路さんはどうなるのかというと・・・羽田で国道131号線に合流し、ついには第一京浜に吸収されてしまうのです・・・。




午 後 3 時 4 6 分

東 京 都 大 田 区 羽 田

4 日 ぶ り に 都 内 へ




大師橋を渡り、東京都に入りました。
都内最初の交差点、羽田2丁目交差点です。

このあたりは、水曜どうでしょう「原付日本列島制覇」のスタート地点が近くにあります。というより大師橋の真下がスタート地点ですね。
この交差点を左折すればそのスタート地点に行けるのですが、この日は逆に、右折することとしました。

しばらくは商店街の中を進んでいきますが、突如前方が開けて見えてきます。
弁天橋という小さな橋を渡ると、その先は羽田空港です。



なんだかいろいろ書いてある青看。
その割には記載されていないのですが、この丁字路の左右の道は環八通りになります。

環八通りを横断せずに右折して、羽田空港に近づいていきます。
片側3車線の空港道路、対向車を左に見ながら道路の右側を走ります。



東京モノレールが地上に現れる地点。そこは・・・





水曜どうでしょう屈指の古戦場・羽田東京ホテル跡地です。


「ツイン? バカ言うな。シングル? とんでもない。四人部屋で」

もともとはツインルームだったであろう部屋に、無理やりベッドをふたつ入れ込んだ部屋。
これぞ、羽田東急ホテルの四人部屋でした。
そして、元からあったツインベッドに、とりあえず入れてみましたと言わんばかりのふたつのベッド。
実は後から入れたふたつのベッドに大きな問題があったのです。

最初のベッド割りは、四人部屋を予約した張本人のD陣(嬉野Dと藤村D)が詰め込んだふたつのベッドで寝るはずでした。

嬉野「おかしぃなぁ、おかしいなぁこのベッド。おかしいよ大泉くん、このベッドおかしいよぉ。
   スプリングがおかしいよぉ。腰にスプリングが当たるんだよ。おかしいなぁ。
   藤やんのはどうなのかなぁ? あぁ藤やんのはいいなぁー、藤やんのベッドはまだいいなぁこれ。
   ちょっとこっち(藤村Dベッド)寝てみようかなぁ。ああ、こっちはいいやぁ。こっちはまだ寝れるなぁ」

嬉野「大泉くん、ちょっとこっちのベッド(嬉野Dベッド)寝てごらん。こっちのベッド寝てごらんよ」

嬉野Dがぶつぶつつぶやき、あんまりおかしいおかしい言うんで、誘われるまま大泉さんがベッドに興味をもって寝てみたところ、

大泉「このベッドおかしいんだよ。もうね直接、スプリングが体に、当たるんだよねぇ、うれしー、ねぇ」

大泉さんがスプリングの当たるベッドで寝そべっているところに、藤村Dが歯みがきから戻ってくると・・・

大泉「それでぼくがここ(嬉野Dベッド)に寝てだ、嬉野君がここ(藤村Dベッド)に寝てる、ところに君が戻ってきたじゃないか。
   君はそこ(大泉さんのベッド)に寝たね」

大泉さんが寝るはずのベッドを占拠してしまいます。

藤村「そらそうだよ、ここ空いたもん」
大泉「君なんてぇのは、(藤村Dの元のベッドに)移る気がない感じじゃないか」

大泉さんは、最初に嬉野Dがいたベッドで寝るはめになってしまいますが、さらにひと悶着。

嬉野「このベッドはおかしいなぁ」

嬉野Dは、最初に藤村Dがいたベッドで寝ようとしましたが、またもベッドの不具合を感じ、つぶやきます。

大泉「そうなんだよ。このベッド、おかしいんだよ。このベッドはねぇ、沈みすぎるんだよ。ね、傾くでしょ、あなた。
   このベッドじつは落ち着かないベッドだったってわけよ」
藤村「こっちのベッド(スプリングが当たるベッド)のほうがまだ硬くてねぇ、いいベッドだったってことですよ」

そして嬉野D、ついに・・・

嬉野「大泉くん、代わってくれないかい?」

大泉「さらに代われっていうんだよ、彼は。驚いたよ、ぼくは」
藤村「ただただ大泉さん、もうね、この・・・どうでしょう班の中では若手」
   (あなたは若手なんだから、年長者に悪いベッドで寝させちゃいけませんよ、とたしなめます)
大泉「それも言ったねぇ、君たちに対して。ぼくはいつまで、若手なんだと。君たちといる限りねぇ、ぼくはいつまでたっても若手だよ。
   ぼくはもう23の大学生じゃないって言ったろ。ぼくはもうね、27のね、大人だよ。そうだろう? もうすぐ30になろうかっていう・・・。
   でも君たちもどんどんもうすぐ40になろうかっていう、大人になっていくじゃないか」

そしてあの名言が出ます。

大泉「言いたかぁないけどさぁ、僕はねー藤村君、僕はこう見えてもねぇ、藤村君。全国放送にだってねぇ、僕は何度ともなく出てるんだ。
   君は知ってるかい、テレビ朝日っていう・・・。その僕がだ、いまだにこのベッドとはどういうことだい」
大泉「僕は東京に行けばだ藤村君、六本木プリンスホテルのツインルームをシングル使用してる男だよ。
藤村「おや!? いつもそうなんですか?」
大泉「当たり前だろう、いつもそうしてくれるよ、テレビ朝日さん。
   しかしこのHTBではだ、おそらく僕がテレビ朝日よりも貢献してるであろうHTBではだ、ツインルームの4人使用かい。
   しかもそのなかのベッドに、ランクの差を設けて、その中でも時間をかけて調べたところ一番ダメだと思われるベッドに結果的に僕を寝せる始末。
   おかしいぞ、君たちは」
大泉「僕はね、まだ企画も始まる前からぼやきたかぁないよ。藤村君。
   始まってないんだもん企画が。何もしてないんだもん。前乗りしただけなんだもん。それでね、このやられ様」

ついにキレる大泉さん。

藤村「よし、喜界島に行くぞぉ! って(言ってください)」
大泉「うるせぇよ! なんで毎回毎回喜界島に行くぞって言わなきゃいけねぇんだよ。わかってんだろ、喜界島に行くって。
   寝てみろよ一日ここで。バカじゃないの!?」



「一致団結!喜界島で輪を描こう」でのベッド争奪戦の一幕です。
企画が始まる前から最悪のベッドに寝せられてぼやく大泉さん。
これ以外にも羽田東急ホテルは、どうでしょう国内ロケでたびたび利用されていたようです。


羽田空港は国内線専用、成田空港は国際線専用。
この棲み分けが完全になされていましたが、羽田空港が国際線の運用を始めることとなりました。
国際線運用に必要な整備をすべく、その敷地内にあった羽田東急ホテルは取り壊されることとなりました。
現在は、国内線ターミナル付近(空港中央)に羽田エクセルホテル東急が新たに建っています。

そうして、どうでしょう屈指の名場面を生んだ戦場は、松尾芭蕉流にいえば「さても軍団この旅籠にこもり、功名一時の叢」となり、



立入禁止の看板が立つだけとなったのでした。





川崎大師と飴

2014-07-20 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 後 2 時 0 7 分

川 崎 市 川 崎 区

真 言 宗 智 山 派 大 本 山 ・ 平 間 寺 ( 川 崎 大 師 )



鶴見から、川崎市内で少しばかり道を間違えながらも、川崎大師に着きました。



大師前の仲見世です。さらし飴のお店がトントントントン小気味よい音で惹きつけてきます。
さらし飴は「森永ハイチュウ」のようなソフトキャンディで、味はただただ甘味のみなのですが、甘さはどちらかといえば控えめです。
飴の試食を3個4個としていくうちに、ついつい買っちゃいました。



左がスタンダードなさらし飴
そして右はせき止め飴だそうです。
4月から、喘息なのかなんなのかわかりませんが、咳が止まらない私は二もなく買っちゃいました。

そういえば鶴見でおでんを食べて以来、水以外のものは口にしていませんでした。
せっかくなので仲見世の飲食店で昼食をとることとしました。



いつもは冷たいもりそばあたりを食べるのですが、この日は曇りがちで気温が低かったので、めずらしく鍋焼きうどんを食べてしまいました。



それでは、ゴールデンウィークでにぎわう川崎大師へ。



正面入口の大山門です。
昭和52年に建てられた比較的新しい建造物です。
四方には京都・東寺の四天王像を模した像を安置しています・・・が、私はこのことを知らずにスルーしてしまいました。


この日は大開帳奉修の年に当たり、赤札というものを授与していました。
そのためなのか、普段は公開していない寺宝を公開し、開扉していない堂宇を開いていました。

そのひとつが経蔵です。





 

経蔵に鎮座する釈迦如来像、そしてそれをとりまく7000巻以上の納経と天井画。
これらすべてが撮影OKとなっていました。
経蔵は平成16年に落成した新しい建物なので、とくに撮影禁止にしなくとも問題ないのでしょう。

ほかにも大開帳奉修に合わせて公開された寺宝も見てきましたが、こちらは撮影NGでしたので、画像はありません。



スタンプだけはもらってました。


それでは大本堂へ。いつもどおり旅の無事を祈願します。



その後は境内散策です。


川崎大師の境内は、總持寺ほどではありませんが広いです。
そして海に近いところにあるので、地形の起伏はなく、広く天を見上げることができます。
村の鎮守の小さな社のような、樹木の植わっているところがぽつぽつとあります。



そのなかのひとつ、巌に安置されている観音銅像
この像が奉納されたのは明治36年なので、川崎大師のほとんどの建造物よりも古いものだそうです。

 

別のところには、遍路大師尊像が立っています。
昭和48年(1973年)、弘法大師が生まれて1200年を記念して造られたものだそうです。
ここでは、お賽銭をして、健康健脚を祈って大師像の足に献水することになっています。

・・・が、財布の中を見ると500円玉しかありません。

私はお賽銭をケチって、献水だけをして旅の無事を祈願しました。
この暴挙のバチがあたったのか、私はのちのちひどい目にあうことになります・・・。


境内散策をしていくうちに、長蛇の列に当たりました。
最初は何のための行列なのかわかりませんでしたが、列を整理している係員の話を聞くに、赤札授与のための行列だということでした。

そして赤札授与の行列は、だいたい1時間半待ちであろうという係員の見解も聞きました。

私は最初こそ赤札授与の列に並んだものの、1時間半待ちということを聞いて翻意。
「私は船橋に帰らなきゃいけないんだ」そう言い聞かせて赤札をあきらめました。


川崎大師の赤札は、10年ごとの吉例大開帳奉修期間中に限り授与されます。
弘法大師の直筆と伝わる「南無阿弥陀佛」の六文字が版なっていて、川崎大師の貫首が祈願をこめて一枚ずつ手刷りにしてできる護符です。

この赤札は「最強の護符」と畏怖されているのだとか。

そのご利益というのは、まず無量の功徳を授かる、つまり計り知れないほどの善行をしたことととなって死後極楽浄土へ行けるようになることです。
また、罪障消滅してあまねく利益が得られる、つまり身の回りの障害がなくなり願い事がことごとくかなうそうです。
さらに、一旦危急に面した場合にあらたかな霊験の不思議があらわれる、つまりは大きな厄災からも(一度だけですが)逃れることができるそうです。



赤札授与の列を抜けた私。
「最強の護符」をみすみす逃すあたり、もはや「持っていない」ことが明らかですねぇ(^_^;)
でも「南無阿弥陀佛」って、真言宗じゃなくて浄土宗じゃなかったか!? という野暮なことを言っちゃあいけないですよぉ。

もうしばらく境内散策を続けます。



八角五重塔、別名「中興の塔」です。
昭和59年に完成した建造物で、その名のとおり珍しい八角形の造りになっています。
八角形は円に近いので、「包容力」「完全性」を象徴しているそうです。



別のところからの八角五重塔。
手前にあるのは「祈りと平和」の像です。



境内にあるつるの池からの八角五重塔。



巌に据え置かれた鶴の像から、つるの池の名があります。
像が置かれた巌はなにやら亀をかたどったものになっているようです。


最後に不動堂



細かい小銭がなかったので、ちらっと見ただけ。



かつての山門であった不動門から境内を出ました。



仲見世で買ったさらし飴を噛みながら、チャリにまたがって東京へと向かいました。




2 0 1 4 年 7 月

後 日 談 ・・・


ひどいときは、何かセリフを吐くたびにゲホゲホ云っていた私の咳。
一過性の喘息だったのか、ハウスダスト症候群だったのか、はたまた自律神経失調症だったのか。

あれだけひどかった咳は、6月に入ったころに全く出なくなりました。
きっと川崎大師で買ったせきどめ飴が効いたのでしょう。



そう思っていたのですが、7月に入りカバンの整理をしていると・・・
溶けかかったせきどめ飴が発見されたのでした・・・。



◆参考文献
 ・川崎大師Webサイト http://www.kawasakidaishi.com/





總持寺・後編~スタンプラリー

2014-07-16 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 後 1 2 時 3 3 分

横 浜 市 鶴 見 区

曹 洞 宗 大 本 山 ・ 總 持 寺



總持寺を歩き回って45分、境内の半分を見たに過ぎません。
それだけ總持寺が宏大で、ひとつひとつの堂宇が巨大なのです。
おそらくは関東最大の寺院なのではないかと。



境内に置かれている灯篭は大きいものばかりです。
これだけ大きい灯篭は、靖国神社クラスのメジャーな寺社でしか見られないでしょう。



總持寺最大の建造物である大祖堂です。
これだけ大きな建物は、さすがに木造ではなさそうです。
ここでは、曹洞宗の太祖大師である瑩山禅師をお祀りしています。


瑩山紹瑾禅師は、文永5年(1268)に越前国で生まれました。
その母は観音信仰にとても熱心な人で、子供であった禅師も多分に影響を受け、子供の時分から経を読み、土で仏像を作っていたのだそうです。
禅師8歳にして、母に連れられ永平寺へ入り、13歳で出家、僧列に加えられました。
以降は諸国行脚の旅に出、寺門興隆と民衆布教に専念。28歳で徳島の城満寺を開いたのをはじめ数か寺を創立。
禅修行道場の体制を固め、曹洞宗を日本全土に広めていきました。



大祖堂の中は薄暗く、まじめに祈願するにはこの上ない雰囲気でした。
私も例のごとく、旅の無事を祈願します。

「チャリにトラブルが起こりませんように」
「ちょっと肌寒いんで、少しばかり気温が上がりますように」


そうして堂を出ようとしましたが、賽銭箱の横にこのようなものが置かれているのを見つけてしまいました。



「大本山總持寺スタンプラリー」です。
こんなものを見つけてしまったために、私のスタンプラリー熱?が上昇していきます。

そしてここからは、總持寺の境内をめぐる・・・というよりも、總持寺スタンプラリーが主題となっていきました。
スタンプをすべて集める! スタンプがそろわなきゃ帰らねぇぞ!! という、なぜか妙に固い決心をして、宏大な總持寺の境内をぐるぐる回ることになりました。

そして最初のスタンプ・・・



1番、大祖堂!
絵柄は瑩山禅師・峨山禅師の御両尊です。お寺のスタンプにしてはなかなかにコミカルな感じがします。


次は大祖堂の近くにある仏殿【国指定登録文化財】です。
最初に見たときは「総爺い」ご長寿ご一行様が記念撮影をしていたところです。



そして祈願そっちのけでスタンプのもとへ直行しました。
スタンプは意外にも外に置いてあります。そもそも仏殿は基本的に中に入れないようです。
スタンプを押したところ・・・



2番、仏殿????
1回目の押しが甘く一部写ってない部分があったので、重ねて押そうとしたところ大失敗!

・・・まっ、ひとつぐらいこういうスタンプがあってもいいかな。
そう思って先へ進みます。


3つ目のスタンプは放光堂【国指定登録文化財】です。こちらも裕次郎の墓参りの前に訪れています。



放光堂のスタンプも、賽銭箱の横に置いてありました。
ここにはスタンプの台紙も置いてあります。


3番、放光堂?!?!
ああ、二度も同じ失敗をしてしまった・・・。

失敗したスタンプが3分の1以上を占めるようでは話にならないよ・・・。
ということで、放光堂にあったスタンプ台紙を手に取り、リベンジへ。



今度は成功、3番・放光堂!
絵柄は阿弥陀様です。


放光堂でスタンプラリーをリセットしたので、再び仏殿と大祖堂へ。



2番、仏殿!
絵柄はお釈迦様です。



再び1番、大祖堂!
絵柄はやっぱり瑩山禅師と峨山禅師です。


残りのスタンプを探して、境内の外側へ出ました。



境内の内外を隔てる長廊下、その脇に建っている香積台【国指定登録文化財】です。
總持寺の総合受付的な位置づけなのか、中にはお土産物屋もあります。ご朱印もこちらでもらえるようです。

中は土足厳禁のため、ここで靴を脱ぎます。
この日の靴はキツキツで、履くのに3分ほどかかるから、あまり脱ぎたくないのですが・・・仕方ありません。



中にトイレがあったので、用を足します。
パワースポットという観点からは、日本でも指折りのトイレでしょう。
なんとも運をつかめそうな・・・(^_^;)



香積台の奥に鎮座する大黒尊天の木像です。
高さは180センチもあり、木彫りの大黒天では日本一の大きさを誇るそうです。
スタンプは、大黒様の御前に置いてありました。



4番、大黒尊天@香積台!



香積台を出て、三門付近まで戻ってきました。



三門前にあるロータリーの灯篭も見事なものです。

ですが、スタンプの場所がわかりません。
スタンプの台紙とともに、スタンプの場所が書いてある地図もあるのですが、その地図に書いてあるのはこれまでの4か所だけ。
残るスタンプは三宝殿と平成救世観音のふたつですが、これらについては「自分で探してみましょう」というようなメッセージが書いてあるだけという、不親切な作りです。

總持寺から与えられたふたつの試練を克服すべく、三門付近にあった境内図を見てみると、盲点的なところに三宝殿があるようです。



三宝殿へは、三門の脇にある階段を上っていけるようです。
境内のメインゾーン?とはちょうど反対側で、木々の影に隠れた目立たないところにあります。



三門と三松閣が高いところから見下ろせます、と思ったら二つの建物はまだ上のほうに。
規模の大きさをうかがい知ることができます。



白銀色に輝く?大きな仏像が目に入りました。
台座には平成救世観音とあります。
ですがこのあたりにはスタンプはありませんでした。



別の道を進むと、奥に三宝殿【国指定登録文化財】が建っていました。
ここで残りのふたつのスタンプを手に入れることができました。



5番、荒神様@三宝殿!



6番! 平成救世観音!




スタンプラリーは貫徹できましたが、思いのほか時間がかかってしまいました。
鶴見でお昼を食べるという計画は崩れ去り、そのまま川崎大師へと向かっていきました。



◆参考文献
 ・曹洞宗大本山總持寺 http://www.sojiji.jp/





總持寺・前編~裕ちゃんの墓

2014-07-15 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 前 1 1 時 5 5 分

横 浜 市 鶴 見 区

曹 洞 宗 大 本 山 ・ 總 持 寺



東福寺から、Google Mapを見つつ進み、JR京浜東北線の沿線にある總持寺まで来ました。



總持寺、でかいです。
入口では、寺務所の職員さんか修行僧かわかりませんが、芝生の草むしりをしていました。

さてチャリですが、總持寺のところにある鶴見大学の駐輪場に停めておきました。
鶴見大学は總持寺の一部みたいなものなんですねぇ。
私は鶴見大学の存在自体知らなかったのですが(^_^;)

入口から50メートルほどでしょうか、



「大本山総持寺」の寺号標が立っています。
なかなかご立派な寺号標ですが、これまたなかなかご立派な並木の影に隠れて目立たないところにあります。



寺号標からさらに進むと、三松関【国指定登録文化財】という総門にあたる門へ。

新緑の並木は続き、



でっかい三門に到達したところで並木道は終わります。
その先は、宏大な總持寺の境内です。


能登国に諸嶽観音堂というお堂がありました。總持寺の由来はここから始まります。
元亨元年(1321年)、住職の定賢権律師が、永平寺(越前国)の瑩山禅師に入山を要請し、寺院を禅師に譲りました。寺伝によると、二人の夢枕に観音様が現れてお告げをしたとあります。
禅師と律師は、夢のお告げがぴったり合ったことを慶び、寺号を「仏法(真言)が満ち保たれている総府」という意味の「總持寺」と改め、山号は諸嶽観音堂にちなんで「諸嶽山」と定めました。
瑩山禅師は、後醍醐天皇の公認を得るなど、曹洞宗を日本仏教の一大宗派にした名僧でもあります。

しかし、明治31年(1898年)4月13日夜火災がおこり、伽藍の大部分を焼失してしまいました。
明治40年、貫首の石川素童禅師は、新興の港湾都市として成長していた横浜にてあらたに總持寺を創建することを決断しました。
こうして總持寺は鶴見に大いなる境内を有し、能登でも諸嶽寺として続き、現在に至っています。



ただただでかい堂宇を誇る總持寺。



三門をくぐったところにある三松閣です。
この中には総受付があるようですが、こちらに寄る必要はありません。
總持寺は無料で境内に入ることができます。



扉には菊の御紋、京都の二条城で見たような感じの門は向唐門【国指定登録文化財】といいます。
この門は普段は閉められており、通常は金鶏門という別の門を通ることになります。



向唐門の延長線上、金鶏門をくぐった先にあるのは仏殿【国指定登録文化財】です。
外見からは2層の建物に見えますが、下の屋根はもこし(見せかけの屋根)であり、実際は巨大な1階建ての建造物です。

このときは老人ご一行が仏殿で記念撮影をしていました。

「このお寺は何ですか?」「總持寺ぃ~~」

どうやら總持寺では「ハイ、チーズ」ではなく、「1+1は2ぃ~」の代わりに「總持寺ぃ~」という掛け声が使われているようです。
「総爺ぃ~」と思ったのは私だけでしょうか?
でもじじいだけでなくばばあもいたので「総爺ぃ」には該当しませんね。おっとこれは失礼。



仏殿を右に見つつさらに歩くと、放光堂【国指定登録文化財】があります。
横幅が約30メートルもあり、安政年間に建てられたものが明治44年に移築されたものだそうです。



總持寺は宏大な寺院とあって、著名な人物も多く眠っています。

大正時代に内閣総理大臣を拝命し、超然内閣(非政党内閣)を組織して大正デモクラシーを招くことになる清浦圭吾
戦後間もない時期に内閣総理大臣を務めた芦田均
そして、昭和を代表する俳優にして、石原軍団の総帥・石原裕次郎


石原裕次郎の墓は、広大な墓地の一画にあります。
後醍醐天皇の御廟、むちゃくちゃでっかい大祖堂を通った先に墓地があります。



案内看板にしたがって、石原裕次郎の墓へ歩きます。



「天下無敵日比野雷風居士墓」とあります。「天下無敵」とは大きくでたなぁ~(^_^;) この墓の主は何者なのか!?

彼のお弟子さんと思われる人々が立てた碑文が脇に立っていました。
それによると、どうも明治時代の剣豪と思われます。
興味がわいたので調べてみました。


日比野雷風は明治の剣豪で、神道流居合の開祖です。
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が結ばれたときに、その内容に不満をもった民衆の一部が暴動を起こしました。いわゆる日比谷焼打事件です。
暴徒はポーツマス条約に賛同する記事を出した国民新聞社を襲撃しました。
そのとき雷風は親交のある徳富蘇峰社長のもとを訪ねていましたが、暴徒から蘇峰を身を挺して守り抜いたそうです。



一般の市井の人々の墓の中に、ひときわ目立つ大きな墓が現れます。



これが石原裕次郎の墓です。
石柱には「裕次郎」の名が刻まれ、献花と線香の煙が絶えません。
この日は「石原家」の水桶に花が活けられていました。軍団関係者がお参りに来たのでしょうか。

墓前に立つと、なんだか神妙な心持ちになる、そんな気がします・・・。



石原裕次郎の墓を参観して、ふたたび總持寺の境内へ戻りました。



◆参考文献
 ・曹洞宗大本山總持寺 http://www.sojiji.jp
 ・神道流ホームページ http://www.shintoryu.jp/index.php





鶴見・東福寺

2014-07-11 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 前 1 1 時 3 5 分

横 浜 市 鶴 見 区

京 急 花 月 園 駅 付 近



花月園駅わきの開かずの踏切を超えた私は、そのまま坂道を上っていきました。
すると小さな駐車場とともに、由緒ありそうな山門が建っています。

ここは總持寺・・・ではなく、東福寺というお寺でした。
静かなたたずまいに魅かれた私は、このお寺に立ち寄ってみることとしました。


東福寺は、真言宗智山派の寺院で、山号は子生山といいます。

・・・終わり。
鶴見の東福寺の解説文はこれだけです!・・・なにぶん信頼に足りる情報が少ないのです。東福寺の公式サイトはないですし。
あのWikipediaですら、鶴見の東福寺の記事はありません。あるのは紅葉で名高い京都の東福寺と、同じ横浜でも西区にある東福寺です。
でもこれだけだとちょっと・・・と思ってもう少し調べたところ、

東福寺は寛治元年(1087年)醍醐寺の勝覚僧正により開かれました。
堀河天皇の治世、天皇は皇子の誕生をご祈念し、東福寺の子育観音に願かけをなさいました。
その3年後、堀河天皇の皇子(のちの鳥羽天皇)がお生まれになったので、「子生山」の号と宸筆の額を賜ったといいます。





まずは入口に建つ山門です。
しっかりと「東福寺」と書いてあります。





石段を上がると、正面には本堂と思われるお堂が建っております。
こちらで旅の無事を祈願します。

「チャリにトラブルなく、無事に着きますように」
「少し寒いので、気温がちょっとでも上がりますように」


あまり広くない境内には、像やらお堂やらが所狭しと配置されていました。



堀河天皇のくだりで登場する子育観世音像は、ここ数年で新調されたものなのでしょうか。
ただ、ご本尊の如意輪観音は、子年ごとのご開帳となっているようです。



真言宗の寺院とあって、空海が諸国を行脚しているさまを像にした修行大師像もあります。



写経を収めている心経塔が立っています。
そしてこれらを覆っているかのように生い茂る緑がなかなかよかったです。



子育観世音像の周囲にある庭園には入れなかったのが少しばかり残念でしたが、静かな寺のたたずまいは心持ちを癒してくれました。



◆参考文献
 ・鶴見の歴史(横浜市公式サイト)  http://www.city.yokohama.lg.jp/tsurumi/information/introduction/sasshi/rekishi.html
 ・鶴見みどころ(横浜市公式サイト) http://www.city.yokohama.lg.jp/tsurumi/kanko/midokoro/midokoro80.html#44





第一京浜で北上

2014-07-06 | 移動の旅

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 前 1 0 時 0 5 分

横 浜 市 南 区

坂 東 三 十 三 箇 所 第 1 4 番 霊 場 ・ 弘 明 寺



弘明寺でたか氏と別れ、この日は自宅に戻るべくママチャリをこいで北上を開始します。



弘明寺からは鎌倉街道をまっすぐ進みます。
30分後、みなとみらいへ。意外と時間がかかりました。

 

せっかくのみなとみらいも曇天では少しばかり寂しいものです。



そしてこの日は、前日までの暑さとは打って変わって、半そででは肌寒いくらいでした。

チャリ旅の場合、荷物は最小限にとどめる必要が出てきます。
そうすると削ることになるのは衣類、とくに長袖です。この日は長袖、長ズボンを1枚も持っていませんでした

↑前フリっぽい記述ですねぇ。
そうです前フリです。



艦船「日本丸」が泊まっているところ。
それには似つかわしくない、なんだかポップな音楽が聞こえてきたので、様子を探ってみました。
小学生の女子がダンスをしています。
そして30歳近い女性がひとり、中心で踊って掛け声をかけています。
おそらくは横浜市内のダンススクールのイベントだったのでしょう。

これこれ、「ババアはいらねえ」なんて言うのはどこの同好会員ですかな?



みなとみらいからそのまままっすぐ進み、国道15号・第一京浜へ入ります。
横浜・東京間のルート、こたびは第一京浜を使うことにしました。
アップダウンのない平坦なルート、長距離移動をするのにこれほどよい条件はありません



1Kmも進まないところに最初の青看は、「東京 29Km」とあります。
つまり横浜の第一・第二京浜の分岐点から日本橋までは、約30Kmです。



ちなみにこちらは、日本橋から3Km進んだ霞ヶ関にある国道1号の青看、「横浜 32Km」。
この場合の「横浜」は横浜市役所と考えられますが、そこは京浜国道の分岐点から1Kmほど南側にあります。
そこから考えると、京浜国道の分岐点から第二京浜を通って日本橋までは、約34Kmということになります。

やっぱ第一京浜がいいね!


さてさて私は、その青看から7Km先の鶴見で最初の寄り道をするつもりでおりました。

鶴見といえば・・・

花月園の競輪場。これはもう廃止になっています。
箱根駅伝の最初・最後の中継所。いまは正月ではありません。
テツ分色濃いJR鶴見線。しかしこの日はチャリ旅です。

總持寺。そう、總持寺です。
鶴見で広大な境内を有する・・・というより石原裕次郎の墓があることで有名な曹洞宗の寺院です。




午 前 1 1 時 1 2 分

横 浜 市 鶴 見 区

京 急 ・ 花 月 園 駅 付 近


花月園駅のあたりで、「總持寺 左」の案内表示が出たので、ここで第一京浜を外れて商店街へ入っていきます。
おでんやさんでは、すべての具が1本60円で売っていました。おおいに惹かれます。
しかしながら、まずは總持寺に行こう、おでんはお昼に食べよう、ということで通過。

すぐ先のJR、京急の2段構えの踏切へ。





いつまでたっても踏切が開きません。とくにJRの踏切はひどい。
私は京急線とJR線の間に取り残されてしまいます。



「この踏切道をご利用の皆様でお急ぎの方は、横浜方にある花月園跨線橋をご利用ください」
京急の踏切前にある、この勧告を無視して待つこと15分





遮断機は下りたままです。


いったん引き返し、商店街のおでん屋さんに行っちゃいます。



この日最初の朝食は、おでん6本(360円)です。
具はなんだったかおぼえていませんが、踏切を待つ間、あつあつおでんに食いつきます。

おでんを食べるのが先か。
遮断機が上がるのが先か。

むちゃくちゃ行儀が悪いですが、チャリにまたがっておでんをはふはふ。
あつあつおでんをムリヤリ急いで食べた結果、遮断機は上がらず。



それから5分後、ようやく遮断機が上がり、私はJR京浜東北線&JR東海道線&JR横須賀線を越えていくことができました。





朝の弘明寺

2014-07-06 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 前 9 時 4 0 分

横 浜 市 南 区

坂 東 三 十 三 箇 所 第 1 4 番 霊 場 ・ 弘 明 寺



GW最終日の朝、よね氏宅を出た私は、たか氏とともに近所をぶらりと歩いていました。
そして近辺にある弘明寺に行ってみようということになりました。


弘明寺は「坂東三十三箇所巡拝」で一度参拝したことがありますが、それから5年ぶりとなります。


弘明寺は真言宗の寺院で、横浜市内では最古の寺院です。
養老5年(721年)にインドの僧・善無畏が来訪し、この地に結界を設けたといいます。
天平9年(737年)疫病が流行した際、河内国(大阪)の僧・行基が勅命により天下安泰を祈願するために全国を回ったとき、この地に寄って観音像を刻んで一宇を建立したといいます。
もとは「求明寺」と称されていましたが、観音経偈文の中の「弘誓深如海」の「弘」の字をとって、鎌倉時代以降は「弘明寺」となりました。



弘明寺に到着しましたが、妥当な駐輪場がありません。
近くの7に停めちゃいました。あとでコーシー買ったんで許してくださいね(^_^;)




山門をくぐって石段を上ると、すぐに本堂です。
駅名にもなっていてわりと有名な割には、とてもこぢんまりしたお寺です。



石段の途中に、京急が奉納した身代地蔵があります。

 

本堂です。
こちらにご本尊・木造十一面観音立像【国指定重要文化財】(通称・弘明寺観音)が安置されています。秘仏なので拝見することはできません。
ご朱印がもらえるのもこちらです。

ここで自転車旅の無事を祈願します。
なにぶん当方は横浜から船橋までチャリを走らせなきゃいけないのでねぇ。


 

鐘楼は境内の隅に立ちます。
釣ってある梵鐘【横浜市指定文化財】は、江戸時代中期のもので、西村政平という鋳物師が造ったものです。
文化財に指定されているからなのか、突き棒が天井に固定されて鐘を突けなくなっています。



本堂の向かいに位置する七つ石
インドの僧・善無畏はこの七つの石を地面に据えて結界を設けたそうです。



緑に囲まれてちょっと落ち着いた雰囲気のお堂。
ここでも旅の無事を祈り、弘明寺を出ました。



弘明寺の商店街を歩いて戻り、ここでたか先生とはお別れです。
たか先生、次の白熊対決麻雀大会では、後れをとりませんぞ~。



◆参考文献
 ・瑞應山蓮華院弘明寺 http://www.gumyoji.jp/