鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

夜の水木しげるロード・復路~妖怪神社参拝

2020-08-23 | 街並み


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 後 八 時 三 十 四 分

鳥 取 県 境 港 市

水 木 し げ る ロ ー ド 最 東 端



夜の妖怪の国・・・



水木しげるロードを散策し、駅から650メートルほど離れた最東端までやってきました。
これより復路、JR境港駅へと戻ります。





復路最初の妖怪は、白うねり
放置された古雑巾が、湿気やほこりによって妖気を帯びたものだそうです。
夜な夜な飛行して人の首や口にまとわりつき、不潔なにおいで気を失わせるのだそうです。



ばく(獏)
人の夢を餌にしているといわれる、中国の妖怪・・・というより霊獣ですね。



猫又
古来より人に飼われている猫は、年をとると猫又という化け猫になると考えられていたそうです。



針女
読みは「はりおなご」で、髪の先がかぎ針(耳かきのような形の編み棒)になっているのだそうです。
これで男どもを引っかけ、どこかへと連れて行ってしまうのだそうです。



はりおなごさんに似ていらっしゃいますが、こちらは雪女
雪女にまつわる伝説は各所に存在し、気立てのいい女性として現れる雪女さんもいれば、言葉を交わしただけで食い殺してくるという恐ろしい雪女さんもいるそうです。




鬼太郎軍団の好々爺・こなきじじいさんです。
髪の薄い頭の宿命なのか、多くの観光客になでなでされているようです。




木の葉天狗
鼻の高い天狗とは違って、手足は人間で、翼や顔は鳥のような姿をしています。
江戸時代、大井川で目撃情報があったといいます。



そろばんを持っているから、そのまんま算盤小僧
坊主の姿で現れて、ひたすらそろばんを弾く・・・なんのこっちゃというような妖怪。
かつて計算を誤って和尚に叱責された小坊主が、これを苦に自殺し、その坊主の霊が算盤小僧となって現れたともいいます。





ねこ娘?



猫又???



妖怪ではない、かわいいかわいいネコさんが夜の街を闊歩していました。
そういえばここは境港、漁師町らしい光景ですね。

ふたたびねずみ男氏。



ここでは寝そべっていますね・・・何か悪巧みでもしているのでしょうか。



「ゲゲゲ」のご夫妻がいらっしゃいました。



ネコさんは、このまま夜の街へと消えていきました。



さらに妖怪たちと会見。



ブロンズ像、影絵、どちらも土用坊主さん。
立春、立夏、立秋、立冬の前のそれぞれ18日間を土用といいますが、その土用の期間に現れる土地神が土用坊主さんです。
土用坊主の頭を引っ掻くことになるので、草むしりや土いじりは土用の時季には行わないのだそうです。



夜の街を歩いて出会った、夜行さん
「夜行さん」までがお名前で、敬称を付ければ「夜行さん さん」となってしまいますね。
夜行さんは節分の夜に現れる一つ目鬼で、首なし馬に乗って道路を徘徊するといいます。
夜行さんに出会うと首なし馬に蹴り殺されるといわれていたので、人々は節分の夜に出歩くことを控えたのだといいます。



影絵のこなきじじい、ちょっと怖いですね。




亡き者たちを裁く冥府の王・閻魔大王
「ゲゲゲの鬼太郎」の作中では鬼太郎や目玉の親父と古くからの付き合いがあり、鬼太郎一味を影ながら助けてくれる存在だそうです。



そして閻魔様の前に、



妖怪神社が鎮座しています。



手水鉢の中で、目玉がく~るぐ~る回っています。
その名も、目玉おやじ清め水
おやじさんが気持ちよく回っているのはいいのですが、肝心の御手洗はどのようにすればいいんだろう???
ひしゃくもなさそうだったので・・・御手洗いもできないまま、妖怪神社を詣でることとしました。





オヤジ水を買った「三平茶屋」の軒先で、

 

親子そろい踏みです。



道を挟んだ対面には、河童の泉という公園がたたずんでいます。
中には「カッパの三平」のキャラクターを中心としたブロンズ像が立っています。
「三平茶屋」という屋号?はこのあたりから来ているのでしょうか。

河童の泉のあたりまで来ると、水木しげるロードはそろそろスタート地点に戻ります。



私がカメラに収めた最後のブロンズ像・・・



妖怪ではなくサラリーマン。
お名前は山田さんというそうです。
水木作品に登場する眼鏡で出っ歯のしがないサラリーマンで、たいていは妖怪たちによってひどい目に遭うというう役回りを演じています。





午後9時前、JR境港駅に戻ってきました。
妖怪の国から、現世へと帰ることとしましょう。





夜の水木しげるロード・往路~親父を呑む!

2020-08-03 | 街並み


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 後 七 時 五 十 八 分

鳥 取 県 境 港 市

J R 境 港 駅



漁師町・境港で海の幸を堪能し、



いったんJR境港駅に戻ってきました。

境港駅は、水木しげるロードのスタート地点。
すなわち、妖怪の国の玄関口。
人間どもは鳴りを潜め、妖怪どもが動き出す夜に、水木ロードの「真の姿」を見て回ろうではありませんか。




駅出入口のすぐ脇に、最初のブロンズ像があります。
「水木しげる先生 執筆中」というこの像では、水木しげる先生の執筆姿を、左右で鬼太郎さんとねずみ男さんが見守っている、なかなか微笑ましい画です。
ちなみに、ねずみ男さんのいる左側が米子方面。
ねずみ男=米子駅、鬼太郎=境港駅という配置になっているのもおもしろいですね。



そのお隣には、鬼太郎ポストが立っています。
ここでは、鬼太郎さんは一反木綿ではなくハガキにまたがっていますね。
「ゲゲゲの鬼太郎」では、「霊界ポスト」に投函して鬼太郎宛てに手紙を送ることになっていますが、こちらは日本郵政のいたって普通のポスト。
これに投函しても、普通に信書が届きます。



境線の線路に沿って置かれている、妖怪の暮らしぶりを描いたレリーフ。



その中の1枚、「妖怪学校」
「妖怪のかきかた」・・・つまりは読み書きを講義しているのでしょうか。
「世わたりの講義」・・・妖怪さんだけでなく、私にもぜひ教えていただきたいですなぁ。



駅前広場は、世界妖怪会議の議場となっています。
妖怪会議の石碑から時計回りに、日本代表、ヨーロッパ代表、南方代表、アメリカ代表、そして中国代表が着席しております。
わが国代表は、ご存知鬼太郎氏と目玉の親父氏。
ヨーロッパ代表は吸血鬼エリート氏、おそらくはドラキュラ伯爵と同じくルーマニア出身でしょうか。
南方代表はアササボンサン氏、西アフリカの吸血鬼です。
アメリカ代表はバックベアード氏、目玉の親父氏と同じく眼球の妖怪です。
中国代表は女夜叉氏、男をだまし鬼より怖いといわれています。



おやおや、会議が紛糾しているのでしょうか。
日本代表がいたくエキサイトしておられます。



・・・おかげで、会議は静粛と取り戻したようです。



駅前広場の街灯は、もちろんあのお方。
こちらの画像を柏にいる女王様に送ったら、「夢に出そう」とおっしゃっていました。



トイレの標識も鬼太郎仕様です。
でも夜の公衆トイレって、入るのに勇気が要りますよね。
ましてや、ここは妖怪の国ですから・・・。



駅ロータリーから、水木しげるロードはスタート。



河童の三平と、河童のカン平タヌキ
水木先生の第3作・「河童の三平」のキャラクターが続きます。



ひょうきんな顔をしていますが、この方はなんと死神
「河童の三平」で登場し、「ゲゲゲの鬼太郎」にもゲスト出演しています。
人間の魂を運ぶのがお仕事なのですが、成績はよろしくなくリストラ寸前なのだとか。



ホウキを持ったねこ娘にも見えますが、こちらは魔女の花子さん。
河童の三平たちを助けてくれる、頼れるお姉さんみたいな存在だそうです。




水木ロードを進んでいきますよぉ。
「道路は右側を歩きましょう」という道路交通法に従い、水木ロードの右側を歩いていきます。
ということで往路は、水木ロードの南側を歩くことになりますね。
ちなみに「右側を歩く」必要があるのは、歩道のない道路を歩く場合に限られます。(道路交通法第10条)



街路樹は異形の姿・・・さすがは妖怪の国です。



丸っこい妖怪・丸毛さんです。
真ん中の丸毛さんに刺さっているのは、オノ? クワ?
なんかエグイ構図だなぁと旅行当時は思いましたが、そうではなく小銭なのだとか。
そして口は真上にあり、中央の丸毛は小銭を口に入れています。
普段は貯金箱に化けて小銭を貯めこみ、いっぱいになるととんずらしていくのだそうです。
また人間が貯めた小銭を取り出そうとすると、丸毛は小銭を取られまいと人間の指に噛みつくのだとか。



見た目のまんま、ダルマさん。
「ゲゲゲの鬼太郎」では妖怪として登場し、お腹から子ダルマを出して戦います。
この子ダルマ、じつは本体の内臓が変化したものなのだそうです。
そのため、心臓を変化させた子ダルマが攻撃を受けてしまうと、ダルマさんは全体が弱体化してしまうのだとか。



水木ロードを歩き、最初の信号交差点にて。



米子駅 ねずみ男さんが握手を求めてきました。
こちらのねずみ男さん、なんと等身大のものだそうな。
・・・顔、でけぇな~。

ねずみ男さんと信号を挟んで向かいにあるお店は、「三平茶屋」
ここは夜も開いていたので・・・



オヤジ水! 普通の水。
ペットボトルがとっても印象的なオヤジ水は、410円。
当時40手前のオヤジが、オヤジの水をガブ呑みして、妖怪の国探検を続けていきます。



ねずみ男さんの隣りに設置されている水木しげるロードガイドマップ
この地図にずら~っと表記されている、妖怪さんのお歴々。
長さ約650メートルの通りに、約180体の妖怪さんがいらっしゃるということです。
こちらのお歴々の全員をカメラに収めることは、時間の関係で叶いませんでした。
ここでは、私の興味を惹いた妖怪さんのみご紹介していきますね。

最低でも、鬼太郎、ねずみ男、目玉の親父、ねこ娘、砂かけ婆、こなき爺、一反木綿、ぬりかべ「鬼太郎軍団」くらいは収めたいですね。





水木ロードを照らす街灯。
妖怪の影絵になっていて、電灯は一定間隔で強弱を繰り返します。
この影絵は、当然のことながら夜しか見ることができません。

こちらの幽霊のようなお方は、後神(うしろがみ)さんです。
女の束ねた髪をくしゃくしゃに乱すなど、臆病な人間にいたずらを仕掛けるのだそうです。
「後ろ髪を引かれる」という言葉がありますが、この言葉に引っかけた創作の妖怪ともいわれています。



下駄1足がぽつんと置かれているブロンズ像。
鬼太郎さんが履いているリモコン下駄です。



日本神話にもドラクエⅢにも登場する八俣大蛇(やまたのおろち)
このとき私は妖怪の国にいますが、翌日には神話の国にいるのだなぁと思うと感慨深くて・・・撮っちゃいました。





通りの向かい側に鎮座しているのは、妖怪神社です。
後ほど参拝することとしましょう。





台座の陰に隠れるようにたたずんでいる田の神さん。
妖怪のブロンズ像は、ねずみ男のように大きなものもあれば、田の神のように小さなものもあります。

田の神さんは、文字通り田んぼの神様。
稲を司り、豊かな実りをもたらすのだそうです。



こちらもかわいい川赤子
九州地方の妖怪で、池や沼で赤子のように泣くのだそうです。
赤子がおぼれていると思って泣き声の方へ行くと、また別の場所から赤子の泣き声・・・こうして探し回るうちに慌てて足を滑らせて水中に落ちてしまうと、赤子の泣き声は止むのだそうです。




おお、鬼太郎さんと目玉の親父さんではありませんか。




蟹坊主さん。
エンディングに出てくる不気味な蟹と云えば、思い出す方は多いのではないでしょうか。
アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」(第3期)のエンディングで最初に登場し、この後に流れる吉幾三御大の歌うエンディングテーマもあいまって、子供の時分の私に軽いトラウマを植え付けた妖怪です。



鬼太郎軍団の一員でもある一反木綿さんにお会いしました。
一反木綿さんは鹿児島県大隅半島の妖怪だそうで、「ゲゲゲの鬼太郎」の作中でも九州弁をしゃべります。



豆腐を運んでいる豆腐小僧さん。
道すがら豆腐を食べさせてくれるありがたい妖怪・・・と思いきや、その豆腐を食べてしまうと体にカビが生えてしまうのだそうです。



やまびこさん。
山から「ヤッホー」と叫ぶと「ヤッホー」と返ってくる山彦現象は、この妖怪が引き起こしているのだそうです。
なんとなく可愛らしいたたずまいをしていますが、彼にまつわるエピソードはなかなかにエグいです。
ここでは割愛しますね。




ねこ娘さんです。
昨今の彼女はだいぶ美形に描かれているようですが、ねこ娘といえばやっぱりこのお姿ですよね。




ぬりかべさん。
鬼太郎軍団で随一の巨体を誇る彼ですが、ブロンズ像はなかなかにかわいらしい大きさです。




台座にちょこんと腰を下ろすぬらりひょんさん。
一見するとただのお爺さんですが、夕方の忙しい時に、どこからともなくやって来て勝手に家に上がり込み、お茶を飲んだりキセルでたばこをふかしてくつろぐのだそうです。
家人は忙しいため、ぬらりひょんの存在に気が付かないのだそうです。

・・・と、気のいい近所のじいさんのような妖怪ですが、「ゲゲゲ」では鬼太郎軍団に敵対する「妖怪の総大将」として描かれています。
近年では孫までいるのだそうな。



ぬらりひょんさんが座っている場所まで到達したので、水木ロードはそろそろ終点です。



「目玉おやじまんじゅう」は、すでに店じまい。



「あたし・・・きれい?」



「ほんとうに?」



以上、口裂け女さんでした。



境港駅から約600メートル。



この日は日曜日の夜ということもあり、観光客はまったく歩いていませんでした。
ここは妖怪の国ですから、人間の姿は少ないほうが様になっていますよね。





お歯黒べったりさん。
顔には口だけしかなく、お歯黒を塗っています。
ニタっと笑ってその顔と黒い歯を見せ、声をかけた人間を驚かせるのだそうです。



二口女さん。
口が顔と後頭部にあり、食べるときは長い髪が蛇となって後ろの口に物を運ぶのだそうです。
私が住む千葉県に伝わる妖怪話だそうです。





水木しげる記念館が見えてきました。
水木ロードはもうすぐ終点です。





なんだか首が簡単に折れてしまいそうな、ろくろ首さん。



ゲームの始めの方で出てくる虫のモンスターのような、毛羽毛現(けうけげん)さん。
ジメジメした日当たりの悪い場所に出没するそうです。
彼が家に棲みつくと、家の人が病気がちになるのだそうです。

毛羽毛現が、往路最後の妖怪となります。





水木ロードの終点。
時刻は夜の8時34分。
妖怪さんは盛り上げってくる時間ですが、観光客はほとんどいません。
日曜の夜で、駅から離れたこの場所まで、観光客は足を運ばないのかもしれませんが、おかげでゆったりと妖怪の国を探検することができました。



なお今宵の宿泊地は、境港ではなく松江。
いつまでも水木ロードを歩いているわけにはいかないので、これより駅に向かって戻っていくことにします。





小樽運河散策・第2章~北運河

2017-09-28 | 街並み


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 2 時 4 8 分

ふ た た び 小 樽 運 河 へ



小樽の街ブラを中断して、



「柳川湯」でひとっ風呂浴びた後は、再び小樽運河を散策します。



太陽が傾いてくる時刻を迎え、小樽の青空はより澄み切っていました。
レトロな倉庫群が水面に映る運河は小樽を代表する風景ですが・・・



あえてその反対側の遊歩道を歩いていきます。
こちらはレトロな倉庫が運河沿いにはなく、現役感のある建物が建ち並んでいるようです。
運河沿いを走る小樽臨港道路に、レトロな建築物が並びます。



最初の建築物は、旧小樽倉庫【小樽市指定歴史的建築物・第13号】。
小樽散策前に観光案内所だと思って入った運河プラザも、旧小樽倉庫の一部分だったのです。

明治23年(1890年)から明治27年建築、倉庫は木骨石造りで事務所は木骨煉瓦造りとなっています。
色内地先の埋め立て直後に建てられた営業用倉庫のひとつ。
正面右手の倉庫が最初の建設で、増築を重ね2つの中庭を囲む大倉庫となりました。
寄棟の瓦屋根にしゃちほこをのせた和洋折衷のデザインで煉瓦造りの事務所を中心に左右対称に展開し、全体として優雅な美しさをみせています。
北側を市博物館、南側を運河プラザに活用、公開されています。
(小樽市の案内看板より)




運河プラザから離れたところにある入口は、小樽市総合博物館別館「運河館」に続きます。
せっかくなので中に入ってみます。
そういえばこれまで何軒も歴史的建造物をめぐってきましたが、中に入ったのはこの旧小樽倉庫と、後述の1軒だけになってしまいました。



館内にあった人口の棒グラフ。
大正時代までは、小樽市の人口が札幌のそれを上回っていたのです。現在はというと・・・・・・(T_T)
札幌は明治4年でわずか13人の集落だったのが、現在は人口190万超となりました。
一方小樽は平成に入って人口が減り始め、現在は約12万人ほどとなっています。



活気があったかつての商都・小樽の街並みの再現。



小樽の自然、小樽周辺にはこんな動物がいますよ~的な展示だったでしょうか。



なぜか火をおこしてみようというコーナーがありました。
やってみましたが、火がおこる前にリタイア・・・。
ライターやマッチがいかに便利なものなのか、思い知らされました。
そして平素の体力不足も・・・(T_T)



旧小樽倉庫の中庭。
秋の晴天に向け、しゃちほこがのびのびと背伸びしているかのようです。


旧小樽倉庫の次に現れたのは、旧大家倉庫【小樽市指定歴史的建築物・第1号】です。



明治24年(1891年)建築、木骨石造り。
石川県出身の海産商・大家七平によって建てられ、建物の妻壁に「山七」の印があります。
外壁に札幌軟石を使用し、越屋根と入口部分の二重アーチが特徴です。
その雄大さと独特の姿は運河地区の石造倉庫を代表するもののひとつです。
(小樽市の案内看板より)



いっぽう運河は、









あまりレトロな雰囲気はありません。
歩いている観光客も少なかったです。



古いアパートのような社宅のような建物の先で、運河の幅が広がります。
このあたりは通称北運河と呼ばれるそうですが、この広い幅が元来の小樽運河だったのでした。
現在の小樽運河の姿は、道路拡張工事のため半分を埋め立てられたことに由来するのですが、このあたりは埋立てが行われず元の姿が残っています。


北運河のところにある歴史的建築物、

 

旧澁澤倉庫【小樽市指定歴史的建築物・第20号】。

明治28年(1895年)建築、木骨石造り。
運河北部寄りの倉庫群のひとつ。
大きな切妻屋根を架けた本体の前面に、2棟の角屋が突き出る変わった形をしています。
向かって右手が一番古く、明治28年に建てられた棟。
その後左棟を並べて建て、次いで2棟をあわせた大屋根を架けて、今の姿になったといわれます。
(小樽市の案内看板より)


現在は「GOLD STONE」というカフェになっているようですね。
当時は店名を見て、「ああ、歌いながら作っていくアイスクリーム屋か」と思いました。
でもあちらは"GOLD"じゃなくて"COLD"でしたね。




現役感あふれる運河沿いの建物。



北運河に停泊する船舶。
こちらの運河はいちおう現役のようですね。



北運河を離れ、近くにある運河公園へ。





西日に照らされる噴水が、なんとも美しいです。
そして、この公園内にも建築物が。



旧日本石油倉庫【小樽市指定歴史的建築物・第53号】です。

大正9年(1920年)建築、木骨石造り。
小樽運河周辺には、明治から大正期にかけて、木骨石造の倉庫が軒を連ねていましたが、本倉庫は、その典型的な建物です。
小屋組は、クイーンポストトラス(対束小屋組)と呼ばれる洋風の構造です。
2本の束が、陸梁の中央付近で左右対称に建てられています。
平成10年の運河公園オープンに先立ち、新しい石を用いて建て直されています。




そしてこの後、噴水の後ろに構える建物に、私は入っていきました。





北のウォール街・最終章~色内通り

2017-09-13 | 街並み


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 1 時 3 9 分

北 海 道 小 樽 市

引 き 続 き 北 の ウ ォ ー ル 街 を 歩 く





堺町通りを引き返し、「北のウォール街」中心の交差点に戻りました。
このまま交差点を直進し、色内通りを歩いていきます。


交差点の一角を占める小樽郵便局の隣りに建つのは、



旧越中屋ホテル【小樽市指定歴史的建造物・第16号】です。

昭和6年(1931年)建築、鉄筋コンクリート造り。
越中屋は、明治30年代以降のイギリスの旅行案内書にも載っていた旅館で、この建物は外国人利用客のための別館でした。
正面から見る姿は、中央にある縦2列のベイウィンドウや両脇の丸窓と垂直の窓割りなどが特徴です。
また内部にちりばめられているステンドグラスに第一次大戦後のアール・デコ様式の影響が見られます。
(小樽市の案内看板より)


旧越中屋の向かいに建つのは、



旧三井銀行小樽支店【小樽市指定文化財】です。

昭和2年(1927年)建築、鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造り。
正面の外壁に石積みの5つのアーチを連ね、軒に彫刻を施したルネサンス様式の建物です。
大正12年(1923年)の関東大震災後に耐震構造の指針となった当時最先端のSRC構造が用いられています。
平成13年に合併して三井住友銀行となり、翌年支店統合のため営業を終えました。
(小樽市の案内看板より)


銀行が撤退してからは、「白い恋人」石屋製菓、次いで「お、ねだん以上」のニトリが所有しています。
旅行当時は文化財指定がなされていませんでしたが、平成29年2月に文化財指定がなされました。


交差点をひとつ跨いで、

 

旧小樽商工会議所【小樽市指定歴史的建造物・第10号】。

昭和8年(1933年)建築、鉄筋コンクリート造り。
設計は土肥秀二、施工は萬組で、いずれも地元の手によるものです。
外装は石川県産千歳石で彫刻が施され、正面玄関には、土佐産の大理石が用いられています。
(小樽市の案内看板より)


現在商工会議所は小樽駅前に移転し、建物のみが残されています。


商工会議所から少々歩いたところ、



マンションの足元で存在感を示しているのは、旧塚本商店【小樽市指定歴史的建造物・第68号】です。

大正9年(1920年)建築、木骨鉄網コンクリート造り。
近江(滋賀県)出身の呉服太物商の店舗として建てられました。
小樽では、明治37年5月8日の大火で市街地を焼き尽くしたことから、防火構造の建物が普及しました。
この建物も防火のために外壁をコンクリートで塗り固め、出入口や窓を防火戸で覆う工夫を施しています。
(小樽市の案内看板より)


現在掲げられている看板は、「総合食品卸問屋 株式会社(市)後藤商店」というもの。
看板のとおり物産問屋の事務所なのかな~と当時は思っていましたが、中は小粋なカフェになっているそうです。
その隣りには、



旧梅屋商店が建ち並びます。
現在はアリババ・コレクションという会社が運営する「小樽硝子屋本舗」となっています。

明治39年(1906年)建築、木骨石造り。
梅屋は洋服の卸問屋で、呉服を扱う隣の塚本商店とは対抗関係にありました。
小樽の大火の2年後に完成し、防火に重きを置いた建物となっています。

(筆者が編集)

小樽駅小樽港を結ぶ中央通りまでもうすぐの所。



中央通りと色内通りの角に建つ旧第四十七銀行小樽支店【小樽市指定歴史的建造物・第25号】。
堂々とした姿とは裏腹に、この建物は木造なのだそうです。
また建築年も不明で、昭和初期の建物とだけわかっています。

2階建の小規模な銀行舎ですが、建築当初は、内部を吹き抜けとし、周囲に回廊が設けられていました。
正面に4本の大オーダー(円柱)を立て、壁面をタイル張りとする昭和初期の典型的な銀行スタイルで、創建時の姿をよく残しています。
(小樽市の案内看板より)



「北のウォール街」散策のラストは、中央通りを挟んで向こう側にある・・・



旧安田銀行小樽支店【小樽市指定歴史的建造物・第19号】です。

昭和5年(1930年)建築、鉄筋コンクリート造り。
ギリシアの建築様式をもった昭和初期の典型的な銀行建築であり、重量感あふれる円柱が特徴です。
中央通りの道路拡幅に伴い、平成13年に建物が斜め後方に曳き家され、同時に外観も修復されています。
(小樽市の案内看板より)




中央通りに戻ってきたところで、小樽散策はいったん中断します。



この日の朝は、



内風呂のないビジネスホテルからの出立となったために、寝汗ベトベト、ひげザラザラのまま街歩きをしていたのです。
当然ながら私もリサーチをしていて、



小樽駅に近いところにある「柳川湯」で、この旅最後の入浴をいたしました。

風呂上りに「オロナミンC」を飲み、小樽の街ブラを再開します。





北のウォール街・第2章~堺町通り

2017-09-10 | 街並み


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 1 2 時 3 9 分

北 海 道 小 樽 市

北 の ウ ォ ー ル 街 を 歩 く





日本銀行旧小樽支店【小樽市指定文化財】から坂を下り、「北のウォール街」の中心ともいうべき交差点に戻ります。
交差点を曲がり、色内通りを堺町方向へ。



レトロな建物が建ち並び、観光客も多く行き交います。
最初に見えてきたのは、



旧名取高三郎商店【小樽市指定歴史的建造物・第7号】です。

明治39年(1906年)建築、木骨石造り。
山梨県出身の交差点を鋼鉄金物商・名取高三郎が明治37年の大火後に建てた店舗で、裏手に住宅や倉庫を連ねていました。
角地に建ち、西側と南側に開いた形で防火のための袖壁(うだつ)を設けています。
外壁には札幌軟石が使用されており、上部壁体を鉄柱で支える構造となっております。
(小樽市の案内看板より)




その次の建物は、旧百十三銀行小樽支店【小樽市指定歴史的建造物・第5号】。

明治41年(1908年)建築、木骨石造り。
旧百十三銀行の小樽支店は明治26年(1893年)に設置されましたが、業務拡大に応じて移転、建築されたのがこの建物です。
寄棟、瓦屋根で、角地に玄関を設け、上部にギリシア建築を連想させる装飾を配しているのが特徴です。
設計は池田増次郎で、外壁は石張りでしたが、その後煉瓦タイルを貼り、現在の姿となりました。


現在、旧名取商店は「大正硝子館」というガラス工芸の店舗に、旧百十三銀行は「小樽浪漫館」というアクセサリー店になっています。
そして2つの建物は、於古発(おこばち)という小さな川に隔てられています。



この日川を見下ろすと、産卵を迎えたサケが於古発川を遡上していました。
サケの遡上を見たのは初めてでしたが、まさか小樽の市街地の小川で見られるとは思いませんでした。


川を渡った先は、色内通りから堺町通りとなります。
堺町通り最初の建物・旧百十三銀行の先には、



旧金子元三郎商店【小樽市指定歴史的建造物・第34号】が建ちます。

明治20年(1887年)建築、木骨石造り。
明治・大正期に陸海物産、肥料販売及び海運業を営んでいました。
店主の金子元三郎は、明治32年(1899年)に初代小樽区長に就任し、その後衆議院議員に数回選出されるなど、小樽を代表する政財界人でした。
両袖にうだつを立て、2階正面の窓には漆喰塗りの開き窓が収まり、創建時の形態をよくとどめています。
(小樽市の案内看板より)


現在は「おたる瑠璃工房」というガラス工芸のお店になっています。
その隣り、「小樽オルゴール堂」の看板がかかっている建物、



岩永時計店【小樽市指定歴史的建造物・第8号】です。
この建物だけ「旧」の文字がついていませんね。

明治29年(1896年)建築、木骨石造り。
時計卸商・岩永新太郎の店舗として建てられ、店員で編成された楽団をもつハイカラな商店でした。
平成3年(1991年)の改修により正面2階のバルコニー、半円アーチ扉、手すりなどが修復され、ほぼ創建時の姿になりました。
瓦葺の屋根を飾る一対のしゃちほこは、商店では珍しい装飾です。
(小樽市の案内看板より)


この建物は、現在も続く岩永時計店が所有していて、「小樽オルゴール堂」を経営する株式会社オルゴール堂に貸し出されているそうです。



お隣り、「不老館」とあるいかにも歴史のありそうな建物・・・ですが、こちらは平成15年建築。
利尻昆布のお店のようで、こちらは歴史的建造物ではありません。



隣りはれっきとした歴史的建物、旧第百十三国立銀行小樽支店【小樽市指定歴史的建造物・第9号】です。
あれ? さっきの百十三銀行は何でしょう??

明治26年(1893年)建築、木骨石造り。
もとは百十三銀行小樽支店として建てられましたが、業務拡大に応じ明治41年(1908年)に移転しました。
その後木材貿易商の事務所や製茶会社の建物としても使用されました。
平屋建ての小規模な建物ですが、寄棟の瓦屋根に尖鋭の装飾をつけた和洋折衷の構成で、軒下に刻まれた分銅模様のレリーフが百十三銀行のシンボルです。
(小樽市の案内看板より)


現在は「海鳴楼」というオルゴールのお店になっています。
このあたりはハイカラな物を売っているお店が多いですねぇ。


通りを挟んだこちらの建物。



いかにも歴史のありそうな建物。
旧北海雑穀株式会社【小樽市指定歴史的建造物・第85号】の建物は、2000年代に復元工事がなされたもので、歴史的建造物には指定されていません。平成29年4月歴史的建造物に指定されました。
ちなみにこちらは「小樽硝子の灯・彩や」というお店になっています。



「彩や」に隣接するソフトクリームのお店。
「イタリアンカフェ 欧璃葡(オリーブ)」というそうです。
修学旅行のJKのみなさんもいらっしゃいますなぁ。
ここいらで私も一服しましょうかねぇ。



ソフトクリーム! うまい。

このときの時刻は午後1時半。
今朝札幌で果たせなかったことをすべく、これ以上堺町通りには進まずに引き返します。
JKのみなさんとはここでお別れ。



その途中、



「大正硝子館」にて、



わが御前への誕生日プレゼントを購入いたしました。





北のウォール街・第1章~日銀通り

2017-09-06 | 街並み


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 1 2 時 3 9 分

小 樽 運 河 ・ 浅 草 橋



レトロな倉庫が並び立つ小樽運河を散策しました。
運河の終点にある浅草橋から、そのままゆるやかな坂を上っていくと、



またもや、レトロな建物が並ぶ大通り。
運河から上って最初の交差点には、その四隅にレトロな建物があります。



交差点の東は、旧三菱銀行小樽支店【小樽市指定歴史的建造物・第18号】。

大正11年(1922年)建築、鉄筋コンクリート造り。
かつて北のウォール街といわれた地区の中心に位置しています。
建築当初は、外壁に煉瓦色のタイルが張られていましたが、昭和12年(1937年)に現在の色調に変更されました。
1階正面には、ギリシア・ローマ建築様式を表すように6本の半円柱が並んでおり、この建築を特徴づけています。
(小樽市の案内看板より)


現在は北海道中央バス第2ビルとなり、「小樽運河ターミナル」の名称でバス乗り場と商業施設を兼ね備えた複合施設となっています。



南は、旧第一銀行小樽支店【小樽市指定歴史的建造物・第24号】。

大正13年(1924年)建築、鉄筋コンクリート造り。
外壁デザインは飾り気のない壁面に改変されていますが、当初は道路側2面に3階通しの大オーダーが立てられていました。
現在は洋服工場として活用されていますが、内部の2階吹き抜けの営業室は、もとのまま残されています。
(小樽市の案内看板より)


案内看板のとおり、現在はトップジェント・ファション・コアという会社が入っていて、ここでオーダーメイドのスーツを製作しているようです。

西は小樽郵便局、見てくれはレトロですが、平成になって新築したものなので歴史的建物ではありません(^_^;)



北は、旧北海道拓殖銀行小樽支店【小樽市指定歴史的建造物・第31号】。

大正12年(1923年)建築、鉄筋コンクリート造り。
小樽経済の絶頂期に建設され、三菱、第一の各銀行と共に「北のウォール街」の交差点を飾っています。
銀行に貸事務所を併設する当時の道内を代表する大ビル建設で、銀行ホールは2階までの吹抜けで、6本の古典的円柱がカウンターに沿って立っています。
(小樽市の案内看板より)



大正末期には、銀行が札幌に10箇所、函館に16箇所、小樽は道内最大で20箇所ほどあったそうです。
銀行建築に加え、大手商社、大手運輸会社の支店などが軒を連ね、小樽は北海道一の経済繁栄を誇っていました。
銀行の支店が建ち並んでいたこの色内地区は、世界の金融地区ニューヨークのウォール街になぞらえ、いつしか「北のウォール街」と呼ばれるようになったそうです。

その後、青函連絡船の台頭、札幌への一極集中政策、石炭産業の縮小、苫小牧港の開港、戦後の樺太間や大陸間の貿易ルート喪失といった要因で、小樽経済は急速に衰えていきました。
かつての栄華を偲ばせる会社建築は歴史的建造物となり、転用し保存されています。


「北のウォール街」の中心となる交差点を直進し、日銀通りの坂道を歩きます。



小樽郵便局のすぐ隣に、旧北海道銀行本店【小樽市指定歴史的建造物・第6号】。

明治45年(1912年)建築、石造り。
設計は長野宇平治で、請け負ったのは地元の加藤忠五郎です。
銀行建築の重厚さをもち、玄関や窓回りの石組みデザイン、コーナー部分や窓の間隔の変化などに特徴があります。
(小樽市の案内看板より)


現在は北海道中央バスの本社ビルと、「小樽バイン」というワインバーとして使用されています。
さらにその坂上には、



旧三井物産小樽支店【小樽市指定歴史的建造物・第30号】です。
これまでの建造物とは一線を画す、きわめて単純な造形です。

昭和12年(1937年)建築、鉄筋コンクリート造り。
戦前の道内事務所建築の代表作で、当時の建築思想を示す国際建築様式の単純明快な意匠です。
黒御影石の貼られた玄関や1階は、2階以上の白色タイル壁と鮮やかなコントラストを見せ、新鮮な印象を与えます。
(小樽市の案内看板より)


現在も松田ビルと名称を変えて、事務所ビルとして活用されています。
その対面には、

 

日本銀行旧小樽支店【小樽市指定文化財】です。

明治45年(1912年)建築、レンガ造り。
設計者は日銀本店や東京駅を手がけた辰野金吾やその弟子の長野宇平治ら。
レンガ造りですが、外装を石造風の装いにまとめています。
ドームの曲線と重厚な外観が融和してひときわ荘重な姿を誇り、小樽を代表する建造物であります。
(小樽市の案内看板より)


そして現在も日銀が保有し、日銀旧小樽支店金融資料館となっています。





日銀から坂を下り、「北のウォール街」の中心ともいうべき交差点に戻ります。
今度は日銀通りと交差する色内通りを歩きます・・・が、こちらは次話へ。





小樽運河散策・第1章~画になる倉庫群

2017-08-12 | 街並み


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 1 2 時 2 2 分

小 樽 運 河 プ ラ ザ



小樽運河の脇にある小樽運河プラザで、思わぬ時間ロス?をしてしまいました。



この建物は旧小樽倉庫【小樽市指定歴史的建造物・第13号】の一部です。
明治23年(1890年)に建造された石造りの倉庫で、明治27年までに増築され、現在に至ります。
現在は運河プラザと、小樽市総合博物館分館「運河館」となっています。
運河館は後章で訪れます。


運河プラザから運河沿いの大通りを渡れば、運河散策の出発地・中央橋です。
橋のわきには、運河クルーズの船着場がありますが、私はこれには乗らず、運河脇にある遊歩道を歩いていきます。



中央橋から見下ろした小樽運河
現在の幅は約20メートルですが、かつての幅は40メートルでした。
運河の本来の役割を終えてしまっていた昭和50年代後記、交通渋滞緩和のために運河沿いの道路・「小樽臨港線」の拡張のため、運河は埋め立てられました。
埋立てでできた用地のうち半分は道路、もう半分は遊歩道が造成され、小樽運河は観光地として生まれ変わりました。



最初の倉庫は、北日本倉庫港運の倉庫です。
運河沿いにある倉庫群は、現在倉庫としては使われていません。
ちなみに北日本倉庫港運は、現在も存在する株式会社です。



次は旧篠田倉庫【小樽市指定歴史的建造物・第63号】。
周りの倉庫と比べると頭ひとつ高い倉庫で、木骨煉瓦造りの壁が特徴的な、倉庫群の代表ともいえる存在です。
大正15年(1925年)に建築され、現在は海越という飲食店が営業しているようです。



扉に「大同倉庫」と大書してありますが、大同倉庫は運河よりもさらに海側に本社を構えています。



おとなりは旧小樽倉庫
小樽倉庫という会社は現在も存在していますが、こちらも倉庫としての役割は終えています。



現在は、運河から見て左半分が小樽ビール醸造所、右半分がびっくりドンキー 小樽運河店になっています。



ラストの2棟は、旧澁澤倉庫



望楼のある左の倉庫と、青緑の屋根が特徴的な右の倉庫。
いずれも現在は飲食店となっています。


遊歩道の終点・浅草橋までやってきました。



振り返ってみると、運河がやや屈曲していることがわかります。
この屈曲も、小樽運河の魅力のように思えます。

普通、運河は土地を掘り進んでできるものです。
しかし小樽運河は、海を埋め立てて用地を造成し、その結果水路となったのです。
そのため運河自体が曲がっているのは、もともとの海岸線の跡だからなのです。


晴天に映えるレトロな倉庫群。
これを映し出す運河の水鏡。

思わず「いい画だねぇ」「来て良かったねぇ」とつぶやく私・・・。



今度はきっと、ふたりで来よう。





官庁訪問?

2014-02-06 | 街並み

2 0 1 4 年 元 日

午 前 1 1 時 2 0 分

東 京 都 千 代 田 区

霞 が 関 中 央 官 庁 街



私と「飛電」は、ママチャリの最もふさわしくない霞が関を進む。


某国立大学の法学部にあっさり入学したが、公務員になろう!とはあまり考えたことがなかった。
私が宮仕えに向かない人間であることは十分わかっていたためだ。
というわけで、霞が関はママチャリ「飛電」はもちろんのこと、私にとっても初めての地であった。

こうなると私はただの観光客と化す。



まずは文部科学省文化庁
こちらは旧文部省庁舎【国指定登録文化財】で、昭和9年(1933年)に建てられたもの。
現在は文化庁がこの庁舎に入っており、文科省はこの奥にある合同庁舎に移っている。



次は財務省、そして財務省・国税庁庁舎
霞が関の省庁の中では庁舎が複数に分かれていることが多いが、財務省はこの1棟のみ。
意外なほど警備があっさりしているような。



財務省の向かい、経済産業省
こちらの建物は経済産業省本館
前2省と比べるとガードが堅い印象。というのも・・・



わけのわからん輩が付近に陣取っているからなぁ。



日陰のソーラーパネルが失笑を誘う。


もう少し皇居方向に進み・・・



お次は外務省
通りから玄関までの距離が遠い外務本省庁舎
他国の外交官の安全を配慮して、玄関口まで公用車でドアツードアができるようになっているのか。



省庁再編でできた大きな官署・総務省
(総務省=旧総務庁(旧総理府)+旧自治省+旧郵政省+消防庁など)
こちらは中央合同庁舎第2号館で、中に総務省と国家公安委員会(内閣府)が入っている。


公安当局は「脱」の輩を公道不法占拠で排除できないのだろうか?
届出かなんかがあってデモ扱いになっているのだろうか?


桜田通りを進んでもうすぐ皇居というところ。



皇居にいちばん近いところに構えるのは、通称「桜田門」と呼ばれる警視庁、そして法の執行を担当する法務省
ひときわレトロな建物は旧法務省本館(赤れんが棟)【国指定重要文化財】で、明治28年に完成したもの。
現在は法務資料館となっており、法務省は赤れんが棟の裏手にあるビルに入っている。





桜田門【国指定重要文化財】が見えてきたところで、桜田通りは内堀通りに合流。


ちいさな官庁訪問はこれにて終了。




沈黙の陣容?旧滝沢本陣

2013-02-20 | 街並み

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 3 時 0 8 分

福 島 県 会 津 若 松 市

飯 盛 山 付 近



飯盛山を出て時計代わりに携帯を見ると、まだ終電まで時間がある様子。
そこで地図を見てみると、飯盛山から歩いていけるところに旧滝沢本陣【国指定史跡】があるようだ。

旧滝沢本陣は、会津戦争の際に藩主・松平容保が腰を据え、戦争の采配を執った所であった。
白虎隊はここで戦支度を整え、戦地へと赴いた。
戦線は徐々に悪化。
新政府軍が会津に攻め入ると、本陣を会津若松城北の丸に移すこととなる。





旧滝沢本陣に着いた・・・が、人が全く見当たらない。
どこから入ればいいのか?
受付はどこだ??



本陣に隣接する駐車場と民家。
どうやらここが受付らしい。
どうみても普通の民家だが、とりあえず呼び鈴を鳴らす。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・出ない。

何度呼び鈴を鳴らしても出ない。
なんだか居留守使ってんじゃねぇのか?
そう思ったが、出ないならば仕方がない。

黙って入ってしまえ。



旧滝沢本陣は、またの名を横山家住宅という。
横山家住宅母屋【国指定重要文化財】は、会津戦争前から現存していて、家屋内には当時の刀傷や弾痕が残っている・・・というんだけど、



残念な貼り紙。
これで一気に疲れが出てしまった。



旧本陣の正面に回って、ここもおしまい。



まだ時間はあったのだが、会津若松の周遊はこれにて終了。
バスの到着を待って、JR会津若松駅まで戻っていった。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第37話へ続く。

茶屋街めぐり・第3章~宵闇

2012-10-29 | 街並み

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 後 4 時 4 4 分

石 川 県 金 沢 市

ふ た た び ひ が し 茶 屋 街 へ



夜の茶屋街の雰囲気を味わいたいがため、私は寒空の下、建物の中には入らず、雪道を歩き回っていました。

そしてついに・・・日は暮れ始め、ひがし茶屋街にぽつぽつと明かりが灯ります。





対岸の主計町茶屋街にも。





暗がり坂はその名のとおり、暗がりに染まり始め、



明かり坂はその名のとおり、明かりが灯ってその姿を変えていきます。



そして、あたりはすっかり宵闇に覆われていきました。







身体はすっかり冷え切ってしまっていたが、茶屋を灯す明かりは心持ちを温めてくれます。



心温まる茶屋を見届け、私は宿に戻る・・・はずでした。



金沢駅へ戻るバスに乗り込んだ私を、闇に浮かぶ城門が引き止めます。
兼六園と金沢城を隔てるお堀通りでバスを下ります。



ライトアップされた金沢城石川門【国指定重要文化財】。
積もっている雪が、あたりの雑音をかき消すかのようで、なかなか幻想的です。

そして石川門の足下にある目立たない位置に、なんと!



明らかに人通りの少なそうな場所に、加賀藩祖・前田利家の像が立っていたのです。
なんでまたこんなところに・・・雪は積もり、像のもとに着くまで一苦労。

そして、この日も靴がびしょ濡れになってしまったのでした(-_-;)



同じバス停から再び金沢駅行きのバスに乗り、ホテルに戻っていきました。
途中、金沢駅のエキナカで吉牛。
これが金沢最後の夕食となりました。