鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

讃岐高松城・前章~披雲閣

2016-02-26 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 後 2 時 0 7 分

香 川 県 高 松 市

玉 藻 公 園 東 入 口



栗林公園【国指定特別名勝】を回遊し、うどん屋3軒をハシゴした私は、かなり満腹のままこの日の城攻めに突入。



この3日間毎日横目で通り過ぎていた(うしとら)【国指定重要文化財】と中堀へ。



中堀にかかる旭橋から、高松城の登城はスタート。
入城料は、大人200円。

入口の管理所ではやくも100名城スタンプを発見。



77番、高松城!


高松城(讃岐高松城)は、またの名を「玉藻城」と呼ばれています。
その由来は「万葉集」で柿本人麻呂が讃岐国の枕言葉に「玉藻よし~」と詠んだことにちなみ、高松周辺の海が「玉藻の浦」と呼ばれていることに寄ります。

豊臣秀吉より讃岐一国を与えられた生駒親正は、この地を「高松」と改称して天正16年(1588年)から築城を始めました。
城の縄張りは瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだもので、「日本三大海城」に挙げられます。

生駒氏の治世は4代54年にわたり続きましたが、寛永17年(1640年)生駒騒動というお家騒動を起こした責めにより改易(領地没収)されてしまいます。
代わって寛永19年、徳川光圀の兄・松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。
以後明治まで松平氏の治めるところとなりました。



こうしてみると、讃岐にやってきた松平頼重は、弟の黄門さまに水戸を追い出されたようにも見えていささか不憫ですが・・・
これには続きがあります。


頼重と光圀の母である久昌院は、もともと水戸徳川家に仕える侍女でしたが、初代藩主・頼房に見初められ、時を分けて2人を身ごもりました。
久昌院はのちに側室となりますが当時は身分の低い侍女、ゆえに身ごもった子を堕胎するよう命じられます。
頼房の乳母夫婦であった家臣の三木之次(ゆきつぐ)は、2人とも隠匿して養育しました。
しかし光圀を懐胎したときには、頼重はその存在がバレないようにするため京都に移ることとなりました。

その後頼重は水戸に戻ることになりますが、その間に水戸徳川家の跡継ぎは光圀と決まってしまいました。
ときの将軍・家光がその名を分けたうえで決まった後継、「実は俺が長男だ」と主張して後継を争うことなどできるわけはありませんでした。

若き後継者・光圀もこのことを気に病み、江戸で吉原通いやら辻斬り!!やらの放蕩の限りを尽くしたといいます。
やがて「史記」を読んでこれまでの行いを改め、学問に励んでいきました。

そして光圀は、頼重の子・綱條(つなえだ)を養子として次代の藩主に指名し、頼重も光圀の子・頼常を養子に迎え、長幼の序を正しました。



それでは玉藻公園の中へ。



旭橋から入ったところは、旭門跡の枡形虎口。
もともとは旭橋も旭門もなかったのですが、藩主の住まいが造成されたことによりあらたに備わりました。



内側からの艮櫓
この櫓は元からここにあったわけではなく、旧東の丸(現在はない)の北東側に建っていたものを移築したものです。



公園の南側に広がる桜の馬場
文字どおり桜の名所で、この日は花見のイベントがありました。



「高松」というだけあって、小ぎれいな松が立ち並びます。
しかしなにやら工事中。
内堀にある仮設の通路を通るよう要求されてしまいます。



内堀の向こうは、豪快な野面積みの石垣が威容を示す三の丸
この日は工事のため、画像左端にチラッと見える仮設通路を歩きます。



内堀の水上を行く仮設通路。
向こう側は堅固な石垣が組まれた本丸
本丸の突端にあるより高い石垣が天守台です。



三の丸にまわってきました。
通行止めゾーンにあるのは、桜御門跡
三の丸の入口を守る櫓門でしたが、戦災により焼失してしまいました。







三の丸には、藩主の住まいであった披雲閣【国指定重要文化財】があります。
江戸時代には御殿で、藩の政庁と藩主の住まいを兼ねており、現在の2倍の大きさがあったといいます。
現在の披雲閣は、大正時代に松平家によってあらたに建てられたものです。



玄関の左右には格式の高い舞良戸、正面には「披雲閣」の扁額が掲げられています。



この日は貸切のため、中には入れませんでした。


仕方がないので先に進みます。



披雲閣の脇を抜ける門をくぐると・・・



三の丸にひろがっている披雲閣庭園【国指定名勝】です。

 

庭園内を歩き、披雲閣の裏手まで来ました。

 

ああ、あなたがたが貸切ってたんですねぇ。



松の向こうに櫓が見えてきたら、庭園内の散策はそろそろ終わり。



庭園の出口に「ど根性松」が立っています。
岩の裂け目に落ちた種子が生長したのだとか。
一時期はやった「ど根性」ナントカのひとつですな~。





披雲閣庭園を出たところで、高松城攻めは後半戦へ。





うどん巡礼・第3章~こんぴらや

2016-02-23 | グルメ


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 後 1 時 3 9 分

う ど ん 県 高 松 市

竹 清 本 店 で う ど ん を 食 す







うどん県庁近くにある「竹清」本店でうどんを食しました。
この日食したうどんはこれで4杯。
わたしの胃袋も満足してきたところで、そろそろこの旅本題の城めぐりに戻ろうというところ。


次の目的地は、高松城(讃岐高松城)【国指定史跡】です。
前日訪れた今治城【愛媛県指定史跡】とともに「日本三大海城」のひとつに挙げられています。
(ちなみにあとひとつは、豊前中津城です)

 



JR高松駅から、ベースキャンプとしているホテルまでの行程で何度もそばを通っているところを、この日ようやく登城することとします。



「竹清」本店から自転車を走らせること約5分ほど・・・

 

あ、うどん屋さんだ・・・


ここでうどん巡礼マイルール。
 ・注文するうどんは温かけうどん。せっかくなのでおなじかけうどんで食べ比べをします。
 ・うどんのサイズは小サイズ。何軒もハシコするため、胃袋に余裕を持たせます。
 ・天ぷらは頼まなくてもよしとしますが、食べるときはちくわ天とします。
 ・おでんは食べても食べなくてもよしとします。
 ・ネギはひとつまみ、天かすもひとつまみまで。あくまでメインはうどんとおつゆ。
 ・移動中にうどん屋を見つけたときは必ず立ち寄る。




午 後 1 時 4 8 分

こ ん ぴ ら や 兵 庫 町 店 に 入 店




おでん、 うまい!
このさつま揚げを棒状にしたようなこの蒲鉾は、関東ではあまり見かけないのですが、これがなかなかうまい。
そしてお味噌が甘くて私好み。



ぶっかけうどん!・・・ズルズル・・・うまい!
外をチャリで疾走し、体感が暑くなっているときは、やはり冷たいうどんに限りますなぁ~(#^.^#)



こうしてうどん巡礼マイルールを遵守しきっちりうどん店に立ち寄った私は、今度こそ高松城へ向かうのでした。





うどん巡礼・第2章~たも屋&竹清

2016-02-20 | グルメ


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 前 1 1 時 5 2 分

う ど ん 県 高 松 市

特 別 名 勝 ・ 栗 林 公 園



栗林公園【国指定特別名勝】の佳景を堪能し、ランチの時刻になりました。
この日のランチは、当然ながら饂飩です。


そういえば栗林公園の観光案内所で、うどんについての資料を2つ入手していました。



ひとつは「さぬきうどん百店満点」なるこの冊子。
もうひとつは「栗林公園周辺のうどん店」という1枚の紙切れ。

とりあえずこれらの資料をクリアファイルにしまおうか・・・しまおうか・・・

クリアファイルがない!!

どこかで手持ちの資料入りのクリアファイルを忘れてきたようです。
そんなに大切な資料は入っていなかったのですが、いちおう怪しいところを捜索します。




午 後 1 2 時 2 0 分

た も 屋 勅 使 店


途中、少しばかり道に迷いましたが・・・



2番目にうどんをいただいた「たも屋」勅使店です。
ここにクリアファイルを忘れていったような・・・

というわけでふたたび入店。
店員さんにクリアファイルの所在を問いました。

が、ここにはない模様。

まぁ、いいや、旅先でもらったパンフなどは含まれていないみたいだし。



ここでうどん巡礼マイルールをおさらい。
 ・注文するうどんは温かけうどん。せっかくなのでおなじかけうどんで食べ比べをします。
 ・うどんのサイズは小サイズ。何軒もハシコするため、胃袋に余裕を持たせます。
 ・天ぷらは頼まなくてもよしとしますが、食べるときはちくわ天とします。
 ・おでんは食べても食べなくてもよしとします。
 ・ネギはひとつまみ、天かすもひとつまみまで。あくまでメインはうどんとおつゆ。
 ・移動中にうどん屋を見つけたときは必ず立ち寄る。


忘れ物をしたとはいえ、「たも屋」さんに立ち寄った私。
巡礼ルール第6条により、ここでうどんを食べなければなりません。
でもここのうどんはおいしかったし、それは私の望むところ。

しかし巡礼ルール第1条では「注文するうどんは温かけうどん」とあります。
朝に立ち寄ったときにいただいたのは温かけうどん・・・同じのを2度食べるのはちょっと・・・。

いや待てよ、巡礼ルール第1条後段では「かけうどんで食べ比べをします」とあるではないか。
これは「ほかの店との味の違いを見るために、かけうどんにする」という趣旨だ。
だから、すでに「たも屋」さんのかけうどんの味がわかっている以上、その後にほかのうどんを食べたとしても巡礼ルール第1条の趣旨には反しない!



ぶっかけうどん!・・・ズルズルズル・・・うまい!!
かけもおいしかったのですが、ぶっかけもうまい!
ことごとく私の好みに合ったお店のようです。

こうして私は、うどん巡礼マイルールに反することなくぶっかけうどんを堪能し、次のお店に向かいます。




午 後 1 2 時 5 2 分

香 川 県 庁 付 近


みたび栗林公園付近に戻りました。
ここで入手した「栗林公園周辺のうどん店」なる紙を見ると・・・

セルフサービスの店U(上原屋本店)、休業日:日曜 ・・・ここは朝、最初に行ってみてきたのでわかるのですが、
手打うどんS、休業日:日曜祝日
手打ちうどんT、休業日:日曜祝日

手打うどんF、休業日:日曜祝日
M製麺所、休業日:日曜


・・・と、このような有様。その中、栗林公園近辺で数少ない営業中のお店が「竹清」さんだったのです。



うどん1杯でこの人だかり・・・
日曜なので観光客が多い、にもかかわらずほかのうどん屋さんが軒並み休日で、時刻はお昼時。
どうしても人が集まってしまいます。

とりあえず手ごろなところにチャリを停めて、最後尾に並びます。
前にいるのは・・・おそらくは関西から来たおっさんライダー4人衆ですな。

(おや、めずらしくをネタにしてないじゃない・・・というご意見もありそうですが)

列の前にいるのは、私の目測で50人ほどでしょうか。
これってもしかしたらうどんorだしがなくなったから終了~♪というリスクが多分にあるってこと・・・。
それでも自分の天運を信じて、人列に身を沈めます。


そして私は扉の直前まで到達。前のおっさんライダー4人衆のうち、2人は扉の向こうにいます。

するとその2人が、ゲンナリしながら扉から出てきました。

「ダシがなくなったから閉店だって」

なんだってぇ~~~~?!

しかしすぐに「冗談や」と言って否定。タチの悪いいたずらはやめろや!


私も無事に入店。うどんまでもう少しです。
それほど広くはない店内には、30席ほどの座席も、10席ほどの立ち食いスペースもすべて満席。
さらに20人弱の人の列が前に立っています。

さて「竹清」では、うどんと天ぷらはそれぞれ別個にオーダーするシステムになっています。
うどんをオーダーする前に人列までやってきたおばちゃん店員さんは、天ぷら担当の方。
まずはおばちゃん店員さんに天ぷらをオーダーします。


人の列は順調にうどんに向かっています。
列から見えるところで、店主のおっちゃんがうどんを打っています。



↑この左のおっちゃん。

するとここで問題児の4人衆、仕事しているおっちゃんに携帯を向けます。
なんたる無礼な連中・・・しかしおっちゃんはお構いなく笑顔でうどんを打っていらっしゃいました。

そんなおっちゃんが打ったうどんですから、期待は大きいです。



うどん巡礼マイルールに従って、ここではかけうどん1玉をオーダー。
完全セルフ方式なので、うどん玉の入ったどんぶりが渡されます。
湯がいて、薬味にねぎとわかめと揚げ玉を一つまみ、そしてかけだしを注いで・・・



かけうどん!・・・ズズズズ・・・うまい!!
ここのかけだしはいりこがまっすぐに旨味を出しています。(意味不明)
余計なものは一切入っていないような、剛直なおつゆのようです。

・・・天ぷらはまだかな・・・?



うどんを食べ終わって、少し経ったころに、ようやく天ぷらのお出まし。
注文をとってから揚げ始めるため、こういったタイムラグはやむを得ないところです。

さて、この「竹清」さんを一躍有名にしたのが、この天ぷら。
ちくわ天とともに鎮座する半熟玉子天は、この「竹清」さんが発祥ともいわれています。



ちくわ天&半熟玉子天! サクッ・・・うまいっ!
どこぞのお笑い食堂(内輪ネタ失礼)のような作り置きなどとはちがい、食感が軽やかで、衣の音だけでもおいしさがわかります。
ちくわ天はこれまた余計なものなどない剛直なうまさ、半熟玉子天は黄身のとろけ具合が絶妙でした。



こうしておなかは満足気味になり、高松城・玉藻公園に向かったのでした。





栗林公園・最終章~三名園勝り

2016-02-09 | 公園・庭園


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 5 1 分

香 川 県 高 松 市

特 別 名 勝 ・ 栗 林 公 園



栗林公園に入ってそろそろ2時間がたとうとしています。



園内最大の茶屋・掬月亭(きくげつてい)です。





手入れの行き届いた松に彩られています。



掬月亭は南湖という池に面しています。
栗林公園でも随一の景色が味わえるところに、これから足を運びます。



西端からの南湖。
カエデの植わった円い島・楓嶼(ふうしょ)が浮かんでいます。





南湖の南岸を歩いていきます。
苔むした緑の地面がとても美しいですが、ここは公園内でも随一の紅葉スポットである楓岸(ふうがん)です。
時季になるとより美しい光景が見られるのでしょうが、このときは地面の苔がきれいに感じられました。



カエデの木陰から脱した遊歩道。
そこから南湖を見渡すと、こんもりとした松の木が生い茂る天女嶋が見えます。



同じ場所から眺める楓嶼、掬水亭、そして紫雲山



南湖に張り出して生えている松。
池に向かって生えている松の木の風景は、個人的に好きだったりします。
松の木の先にある島・・・



杜鵑嶼というツツジに覆われた小島が浮かんでいます。
またまた読~め~ま~せ~ん~(T_T) 「ほととぎすしょ」かな??
ハートの形をしたツツジが植わっているのはここのようですが、この角度からは見えません。



南湖を挟んで彼岸には、小ぶりの松に覆われた築山・飛来峰がそびえます。
ここからの景色が栗林公園でも秀逸のものとされています。
飛来峰には後で上るとして、もう少し湖岸沿いを歩きます。


飛来峰のふもとから流れる小川。



園内の池のすべての水は、この吹上と呼ばれる水源から流れ出ています。
小川の流れから生えて花咲くハナショウブも乙なものですが、水がなんとも清らかで水底の水草も美しい。



ツバキの花が水流に揉まれゆく姿も美しい。
この小川で・・・なにやら撮影している外国人♂と日本人♀・・・女性はなかなかの美人ですな~♪・・・チッ、イチャイチャしおって。


さてと気を取り直して。



南湖にかかる偃月橋
飛来峰に上って偃月橋を見下ろします。



まずは飛来峰の中腹から。
松、泉水、偃月橋、そして借景の紫雲山が織りなす・・・くっ! 画像の右隅で写真など撮らせおって。



さらに飛来峰を上り・・・
橋の両端には緑繁れる松、ほのかな紅を彩る梅。
おっ、橋の中央に移動したか・・・ってまだいるのかい?!
まぁ、良き景色をいつまでも見ていたいという気持ちはわかりますので、無理からぬこと。



飛来峰の頂きへ。
南湖が一望でき、紫雲山も雄大に横たわります。

「我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」
(『高等小学読本』巻一)


日本三名園にも勝る、と教科書で詠われた栗林公園。
その中でも最高といわれているこの光景は、栗林公園のパンフレットのカバー写真にもなっています。
おぉぅ、まだいるのか・・・。



飛来峰を下りました。
偃月橋を彩るかのように花開く梅の花。
梅の後ろに・・・・・・まだいらっしゃいましたか・・・・・・もう4分も橋の上におられますね・・・・・・。


美女・・・とイケメン外人・・・がいなくなったので、偃月橋を渡ります。



先ほどの杜鵑嶼がよく見えます。
おお、あれに見えるが恋ツツジ(ハート形のツツジ)ですか・・・。



偃月橋を渡ったところにある石組みは飛猿巌です。
石垣を組む手法を取り入れ、大きな石組みを成すことができました。



飛猿巌から望む南湖。
対岸の松が林立する築山は、渚山といいます。

迎春橋という石橋を渡って、南湖の対岸へ。
渚山ぞいを歩きます。











松と泉水が織りなす光景が素晴らしい。



ふたたび掬水亭付近に戻りました。
松の大木・根上がり五葉松が立ちます。

11代将軍・徳川家斉から賜った五葉松の盆栽が大きく成長し、この地に植えたものだそうです。



ここからは南湖沿いを離れます。

ふたたび涵翠池を歩き、





小川沿いを歩き、





北湖へ戻り、







湖の東側にある芙蓉峰という築山に上ります。









最後の佳景を目に焼き付けて、栗林公園の散策は終了。





栗林公園・第3章~レッドクリフ?

2016-02-09 | 公園・庭園


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 2 3 分

香 川 県 高 松 市

特 別 名 勝 ・ 栗 林 公 園





会僊巌(かいせんがん)という築山まで歩いてきました。
ちょいと登ってみると・・・



日陰がかかる西湖と、その向こうに見える小さなほら穴。
この穴は爛柯石屋(らんかせきや)といいます。

代々の藩主が夏期に涼をとるため、この場所で碁を楽しんだところと伝えられている。
(園内の案内看板より)

だんだん定着しつつある園内看板を丸パクリするスタイル。
それにしても栗林公園の造形物の名称は難読な文字がよくでてきます。
この「爛柯石屋」もそう。
とくに2番目の「柯」の文字。沙摩柯くらいしか目にしたことがありませんね~。

 ※「沙摩柯(しゃまか)」・・・三国志に登場する異民族の王で、夷陵の戦い(223年)に参戦するが戦死する。物語上では呉の猛将・甘寧を弓で射て死に至らしめるが、敗走中に呉の周泰と20合ほど打ち合って討ち取られてしまう。



西湖のほとりを歩いていきます。



西湖と築山・会僊巌。
こんもり盛られた小さな丘といった趣ですね。



会僊巌からの対岸はほら穴が口開く鬱蒼とした林でしたが、しだいに崖の露頭があらわれてきます。
この石壁は赤壁ともよばれています。
う~ん、見事に三国志ネタが繋がりましたなぁ。

野趣に富んだ西湖の景を支えている石壁は、“赤壁”とも呼ばれ中国の揚子江左岸にある景勝地で、詩人蘇軾が「赤壁賦」を詠んだことで有名な赤壁に因んで名づけられたとも言われている。自然の岩盤を巧みに取り込んだスケールの大きい庭景を造り出している。
(園内の案内看板より)



こちらが景勝地の赤壁。
三国志のヤマ場・赤壁の戦い(208年)の戦場・・・ではないといわれており、通称「文赤壁」つまり詩文で詠われる赤壁なのです。
戦場であった「三国赤壁」は別の場所にあって、「赤壁賦」の作者である蘇軾自身もカン違いしています。


三国志と赤壁からは離れ、「松の庭園」にあっては異質にも見えるソテツの生えるところへ。





涵翠池という池に出ました。
たぶん読みは「カンスイチ」かと(?_?)



池のそばにある築山には背丈の立派なソテツが立っています。
ソテツの葉が開くさまを鳳凰の羽の広げるさまになぞらえて、鳳尾塢(ほうびう)という名称が与えられています。

ここのソテツは琉球産で、琉球を支配していた島津家より贈られたものだそうです。
樹齢は300年を超えていて、香川県より天然記念物に指定されています。


ふたたび赤壁へ戻ります。



赤壁からチロチロ流れる滝。



またまた読みのわかりづらい桶樋滝
何て読むんだ~? 「おけ」の音読みは何だ~? 「ようひだき」かな?



手持ちのパンフレットを見ると、「おけどいのたき」だというのです。
なんだ、訓読みじゃねぇか。
それにしても「ひぐち(樋口)」の「樋」の字は、訓読みでは「どい(とい)」と読むのか。
雨どいの「どい」は「樋」と書くのだろう。



梅の花からしたたる桶樋滝。
美しいだけでなく、漢字の勉強にもなる庭園、それが栗林公園です(*^_^*)



西湖を挟んで、桶樋滝とは向かいの此岸側にある茶室は旧日暮亭です。

旧日暮亭は考槃亭(こうはんてい)の別名をもちます。
そもそも「旧」ってなんでしょう?
園内の案内看板によると・・・

松平二代藩主頼常の頃、南庭の東南隅に「考槃亭」という官休庵流の茶亭があったが、その後、会僊巌の東方に移築、「日暮亭」と改称され、さらには園外の私人に移るなど、この建物は、様々な変遷を経てきた。
昭和20(1945)年、関係者の尽力により、再び園内に「新日暮亭」として甦った由緒ある茶室であるが、歴史的経緯を踏まえ、現在は「旧日暮亭」と呼ばれている。


かみくだいて説明するならば・・・
(1)最初この甲地に茶室A「考槃亭」がありました。
(2)茶室Aは別の場所乙地に移り、「日暮亭」と改名しました。
(3)茶室Aはさらに民間に払い下げられ、移築されてしまいました。
(4)更地であった乙地に茶室Bが建ち、「日暮亭」の名が付きました。
(5)民間に払い下げられていた茶室Aが買い戻され、甲地に移築されました。この茶室は「新日暮亭」となりました。
(6)でもでも、もともとこの茶室が「日暮亭」だったのに、「新」がつくのはおかしくねぇ?
 ということで、茶室Aは「旧日暮亭」となりました。
なかなかしちめんどくさい経緯をたどっている茶室です。
でも「日暮亭」の名にこだわらず、「考槃亭」に戻すこともできたような・・・まぁどうでもいいですが。



ここの松もなかなか。
ただ観光客がえらい多かったので、私はあまり深くは立ち入らずに進んでしまいました。



レッドクリフに別れを告げ、西湖の南端へ。



池の向こうにある小普陀(しょうふだ)という石組み。
園内の石組みで最も古いものとされ、栗林公園の発祥地といわれています。



名もなき立派な石橋を渡り、



いよいよ栗林公園のクライマックス・南湖を歩きます。





栗林公園・第2章~北湖

2016-02-02 | 公園・庭園


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 0 0 分

香 川 県 高 松 市

特 別 名 勝 ・ 栗 林 公 園





公園の北庭側を回り、入口付近のお手植松のもとに戻ってきました。



栗林公園は「松の庭園」と称されるほどに個性豊かで見事な松を多く観ることができます。



こちらは檜御殿跡の松。
檜御殿は、初代藩主・松平頼重水戸光圀の兄)が隠居するときに建てた御殿で、江戸時代の間は藩主の別邸となったところでした。
明治になって民間に払い下げられ、現在は残っていません。



紫雲山を借景にして、松。



紫雲山と、いろいろな松。
おそ松? カラ松? チョロ松? 一松? 十四松? トド松???

 

大きな岩と、松。

この松はただの松ではなく、鶴亀松という名がついています。
根元の岩は110個で、亀のような石組みとなっていて、その背中に鶴が舞うかのような配置になっているクロマツです。



松に導かれて、歩みを進めます。



全盛期のJ朗君(内輪ネタ失礼)の頭髪にも似たこの松は、箱松です。
その名のとおり、長い年月を経て手入れされてきた松が、箱のようないでたちになったというものです。



箱松のあたりにある池は、北湖といいます。



北湖には2つの島が浮かんでおり、画像に見えるのは前嶼(ぜんしょ)
「松の庭園」らしく、島にも手入れされた松が植わっています。



松が多く立ち並ぶ中、北湖の湖畔に立っている一本のカシ。
根上り樫【香川県指定天然記念物】です。

もともとは二股の老松が立っていて、その二股の幹の間に樫の木が生えていました。
樫の木は生長とともに老松の幹を突き抜けて根を下ろし、やがて老松は枯死。
樫の木だけが残り、樫の根が地上にむき出しになった・・・という恐ろしい由来をもっています。



枝がくねっくねに曲がっています。
そのために箱型に見えるのだといいます。



この曲がりっぷり。
箱根彫刻の森美術館で見たある作品のような・・・



↑コレを思い出しましたよ。



箱松の右側にチラッと見えている松は、屏風松といいます。



手前の箱松の後ろで立つ様が屏風のように見えることからその名があります。



北湖のほとりにて。



鳩が水遊びをしています。

少し歩いて、北湖をまたぐ梅林橋へ。



橋の上から北湖を見やると、松を冠にした2つの島がなせる佳景。



橋の下では鯉がたむろしています。
その上には鳩・・・



そばにいたお子様が引いちゃうくらいのお麩騒動が勃発。
栗林公園の鯉はなかなかがめついようです(^_^;)・・・が、その一枚上手を行く鳩。

世の中には、見えないほうが幸せってものもあるのだなぁ~。





戦場を越えて振り返ると、見事な箱松&屏風松。
戦場は画像の左側(^_^;)
そしてここのそばには・・・



夫婦松という松が立っています。
大きい松がダンナで、小さい松がワイフなんだな・・・そう思っていたのですが、

アカマツ(別名:雌松)の幹の下部から、クロマツ(別名:雄松)の枝が張り出しているように見えるこの松は、夫婦松の愛称で呼ばれ、仲のいいほのぼmのとした様子が好評です。
(園内の案内看板より引用。文字の色付けは筆者による)


ということで、1本の松に見える左の大きい松が夫婦になっているのだそうです。
私はこの記事を作成するまで気づきませんでした・・・(^_^;)
あと、メスのほうが大きいというのも意外な感じがしましたね。



夫婦松の足元から北湖を眺めます。



散策路は北湖から離れていきます。



北湖に注ぐ小川。
そこに突如現れる岩はぼたん石見返り獅子という名前がついています。



まったくの自然石であり、奥の石はぼたんの花、右手前の石は獅子が振り返ったような姿にていることから、このように名付けられている。
(園内の案内看板より引用。文字の色付けは筆者による。原文ママ


当時はあんまり案内看板を読まなかったので、この過ちを見過ごしていましたが・・・
そんなことよりどこがボタン獅子なんじゃい!?と思っていたこの岩。
どうも岩の左側がボタンの花に見えるというのです。

まぁ~言われてみれば確かに。

でも見返り獅子ってのはちょっと難しいなぁ~。



別の角度から見てみると・・・まぁ・・・獅子かな?(・・・と自分に言い聞かせてみる)



園内ガイドの爺さんが「ハート形のつつじがあるよ~」なんて言っていたので、たぶんこの辺かな~?
と適当に撮った小川。
ツツジは小川ぞいにはないようでしたが、広々とした芝生に映える松の木と小川もなかなかよろしいですなぁ~。



散策路は小川からも離れ、鬱蒼とした木々生い茂る「陰」の道へ。



園内の茶室・日暮亭【再建】、



築山・会僊巌(かいせんがん)まで到達しました。