鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

ハイソフト「日本の美しい橋」第10橋

2021-03-14 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 3 月 1 日 ( 月 )

午 後 3 時 0 5 分

職 場 に て



3月最初のおやつタイム。



この日も森永ハイソフトを、同僚の皆様におすそ分け。


さあさあ、今日の「美しい日本の橋」カードは・・・



お! これはパッケージにも載っている橋ですね。
正確には橋「だった」構造物、というべきでしょうか。



1番、タウシュベツ川橋梁!




旧国鉄士幌線タウシュベツ川橋梁は、タウシュベツ川に架かっていた北海道河東郡上士幌町の鉄橋です。
橋の長さは130メートル、幅は3メートルのアーチ橋です。

昭和14年(1939年)に国鉄士幌線十勝三股駅まで開通した際に、音更(おとふけ)の支流であったタウシュベツ川に架けられました。
昭和30年(1955年)糠平ダムが建設され、橋梁はダム湖の糠平湖に沈むこととなりました。
士幌線も糠平湖を迂回するかたちで新線が敷設され、橋梁は湖の中に残されることとなりました。

昭和62年(1987年)国鉄民営化の直前で、士幌線が廃線となってしまいます。
その後も士幌線の橋梁は残され、第三音更川橋梁などのアーチ橋7本が国の登録有形文化財となっています。
ですがタウシュベツ川橋梁は文化財指定から外されており、橋梁保存の動きはありません。

季節によって湖底に沈んでいたり、湖上に姿を現したりすることから、「幻の橋」とも呼ばれています。
しかしそのことは橋梁自体の損傷を進行させることにもつながり、また糠平湖が冬季は凍結すること、さらには平成15年(2003年)の十勝沖地震などの大きな地震もあり、現在は中央部が大きく損傷しています。
橋梁自体の崩壊も時間の問題と考えられているそうです。



士幌線・・・場所は、



こちら。
昭和30年(1955年)版の「全国鉄道路線図」によると、この当時士幌線はまだ現役。
この「路線図」にある北海道の鉄道は、現在となってはほとんど廃線となってしまいました・・・。


さてタウシュベツ川橋梁はダム湖にあるということで、その場所はいうまでもなく山の中です。
糠平湖大雪山の東側にありますが、公共交通機関のみで行くなら、さあ大変。
まずは、かつての士幌線の分岐駅・JR帯広駅へ。
そこから1日4本の十勝バスぬかびら線に乗り込んで、2時間弱55kmの移動。
糠平湖近くの十勝バスぬかびら温泉営業所まで到達したところで、ようやくスタート地点といったところ。

糠平の温泉街からタウシュベツ川橋梁に向かうには、糠平三股林道を通らなければなりません。
その林道は普段は封鎖されており、十勝西部森林管理署 東大雪支署に赴いてゲートの鍵を借りる必要があります。
鍵の貸出は平日のみで、また鍵の数に限りがあるので鍵が出払っているときは借受できないこともあるようです。
鍵を借りられて林道に入ることができたとしても、ゲートから橋梁付近まで未舗装の道を進むこととなります。
橋梁付近の林道から湖畔までは徒歩となりますが、北海道の山の中ですから当然・・・



(ひぐま) に出くわすかもしれません。


タウシュベツ川橋梁にアクセスするもう一つの手段。
それは、糠平にあるNPO法人のひがし大雪自然ガイドセンターが主催しているガイドツアーに予約することです。
料金は4,500円から5,000円前後のようなので、クマが怖い私はこっちの方法を採るのがいいかもしれませんね。



タウシュベツ川橋梁に到達するのが先か、タウシュベツ川橋梁がなくなってしまうのが先か。
それはともかく、いまは「美しい日本の橋」カードのコンプリートを目指すのが先でしょうね。





ハイソフト「日本の美しい橋」第9橋

2021-03-14 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 2 月 2 2 日 ( 月 )

午 後 3 時 0 5 分

職 場 に て



2月22日、ある人は(ニャン)22(ニャンニャン)猫の日などと称するようですが・・・
この日のおやつタイムがキャットフードになるというわけでもなく、言うまでもなく森永ハイソフトです。



この日もキャラメル12個をおすそ分けして、「美しい日本の橋」を拝見・・・



これは・・・吊り橋ですね。
あとは、わからん!



4番、谷瀬の吊り橋! というんですね。
所在地は奈良県吉野郡の十津川っていうと、かなりの秘境じゃないですか?!




谷瀬の吊り橋は、十津川(熊野川)に架かる奈良県吉野郡十津川村の歩行者専用橋です。
橋の長さは297.7メートルで、生活用の吊り橋としては日本最長を誇ります。

昭和29年(1954年)当時800万円もの工費をかけて架橋されました。
この工費の8割は谷瀬の集落に住まう人々が負担したもので、当時の集落の人々にとっては悲願の吊り橋であったことが思い起こされます。
架橋当時は日本最長の歩道吊り橋でありましたが、平成6年(1994年)茨城県に竜神大吊橋が完成してからは、日本最長の座を譲りました。
その後に架橋された「日本最長の歩道吊り橋」はいずれも観光用のものであり、現地の生活に根付いているという点に絞れば、谷瀬の吊り橋はいまだ日本最長であり続けています。



十津川村は奈良県の南部にあって、紀伊半島の山あいに位置する村。
「十津川」の語源は「遠い津の川」(港(津)から遠い)といわれるくらいの山の中、秘境の地にも喩えられるくらいです。
ここに公共交通機関だけで行けるのか・・・?

なんと、路線バス1本で行けるんです!

北の出発駅は、奈良県橿原市にある近鉄大和八木駅
南の出発駅は、和歌山県新宮市のJR新宮駅
この間の約170kmを結ぶ日本一長い路線バス奈良交通八木新宮線「八木新宮特急バス」

偉大なり、路線バス!

この八木新宮特急バス、両方向とも1日に3本も運行されているようです。
谷瀬の吊り橋へは、八木からも新宮からも所要時間約3時間、運賃約2,500円でアクセスできるのです。
北からの路線バスは、途中で五條市のJR和歌山線五条駅にも立ち寄ります。

ちなみに、八木新宮特急バスを八木から新宮まで6時間ぶっ通しで乗り続けた猛者は、奈良交通さんから記念乗車証がいただけるのだそうです。

高速バス、乗車時間5時間。
深夜バス、乗車時間12時間。

「もう二度と乗るものか!」・・・バスとの闘いに敗れた私にとって、「八木新宮特急バス」はさらなる難敵に違いありません。
彼と闘う日はやってくるのでしょうか・・・?





ハイソフト「日本の美しい橋」第8橋

2021-03-14 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 2 月 1 9 日 ( 金 )

午 後 3 時 0 5 分

職 場 に て



職場のもぐもぐタイム。



私のおやつはもちろん、森永ハイソフトです。
キャラメル12個をひとりで食べるのはきついので、同僚におすそ分けします。

さて本日のカードは・・・



夜桜に彩られた、重厚なアーチ橋
山のふもとに明かりを灯す建物が、どことなく雅な感じがしますね。



9番、浅野川大橋!
おお、この橋は渡ったことがありますよ~。
そしてこの写真の画角も知ってますよ、1本川下側に架かっている歩行者用の橋からのものです。




浅野川大橋は、浅野川に架かる石川県金沢市の道路橋です。
橋の長さは55メートル、幅は17メートルあります。

文禄3年(1594年)加賀藩の藩祖・前田利家北国街道の橋として架けたのが最初といわれています。
現在の橋は大正11年(1922年)に架けられたもので、3径間連続固定アーチ構造という独特の構造をとるアーチ橋となっています。
昭和41年(1966年)までは北陸鉄道金沢市内線の路面電車が通行していました。
平成12年(2000年)12月、市街南部を流れる犀川(さいかわ)に架かる犀川大橋と時同じくして、歴史的建造物として登録有形文化財に登録されています。



浅野川大橋が架かっているところは、大橋を間に挟んで斜向かいに、ふたつの茶屋街があります。



浅野川の北東にそびえる卯辰山
そのふもとに、雅なる灯りを煌かすひがし茶屋街



私も、平成23年(2011年)12月に訪れています。
しんしんと静まり返る雪国の茶屋街に、優しい明かりが灯っていました。

浅野川大橋

カードと同じ撮影スポットと思われる場所からの浅野川大橋。
この画像の右側に建ち並ぶのが、

主計町茶屋街

もうひとつの茶屋街・主計町(かずえまち)茶屋街



主計町茶屋街の小径のひとつ・明かり坂
金沢で一番のお気に入りの場所です。



最後に金沢に行ってから、10年近くになります。
わが女王様第2王子が金沢を相当気に入っているらしく、やたらと「金沢推し」してくるのにはちょいと閉口していますが・・・
その「推し」に乗っかって、また金沢を訪れるのも悪くはないですね。

あの忌まわしきコロナ禍が、一刻も早く息災することを祈願して――。





ハイソフト「日本の美しい橋」第7橋

2021-03-14 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 2 月 1 4 日 ( 日 )

午 後 1 2 時 0 5 分

茨 城 県 守 谷 市

コ メ ダ 珈 琲 守 谷 高 野 店



一足早めの小春日和。
この日は天候に恵まれたので、ママチャリさんにまたがって12km離れたコメダ珈琲まで足を運んだわけです。



その途上で開封した森永ハイソフトから、取り出だしたる本日の一枚。



晴れ渡る秋の晴天に彩りを添える、朱塗りの太鼓橋。
しかしその傍らには、三途川とありますなぁ。

おそらくここは、人生の終着地
死者の魂が集まるという、北斗の霊場・・・。



3番、恐山太鼓橋!
どうでしょうマニアにとっては、闘痔の旅の終着地。
まさに「痔・エンド」の地ですね。




恐山太鼓橋は、三途川に架かる青森県むつ市の歩道橋です。
三途川は正式名を正津川といい、恐山にある宇曽利(ウソリ)山湖から流れ出る唯一の川です。
恐山は、カルデラ湖である宇曽利山湖とそれを取り囲む外輪山をあわせた総称で、単独で「恐山」という山があるわけではありません。

この太鼓橋の先に恐山菩提寺があり、その境内は三途の川向こうの「あの世」の景色が広がっています。
ただし恐山には開山期間が定められており、5月1日から10月中旬以外の時季には入山することができません。



恐山には4つの湯小屋があり、入山料を支払えば自由に入浴することができます。
どうでしょう班は大泉洋氏の痔の治療という名目で数々の湯治場(闘痔場?)を回り、最後に恐山にやってきたのですが・・・

「痔・エンド」。
恐山は閉山時季に入っていたため、どうでしょう班は菩提寺の山門で門前払いを食らってしまったのです。


わが傍らの女王様も、かつて恐山を訪れたことがあるそうです。
その山門前で売っていたソフトクリームが、殊の外、お気に召さなかったそうです。



そういえば、今回はあまり橋のことに触れていないような気がしますね。





苗木城登城・最終章~木曽川を望む

2021-03-14 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 後 2 時 2 9 分

岐 阜 県 中 津 川 市

苗 木 城 本 丸





二の丸の終点・千石井戸、そして本丸の入口・本丸口門の跡地を経て、本丸に突入します。



本丸口門はのところ。
ここから天守台まで上り、東濃の山川がおりなす絶景を見ていきます。


 

本丸に入って最初の建物は、具足蔵武器蔵でした。
本丸口門から目と鼻の先の進行方向右側、つまりは崖っぷちに建っていたことになります。
具足蔵には城主の具足と旗が、武器蔵には弓矢や鉄砲が収納されていたそうです。
画像の礎石は武器蔵のもので、「八間蔵」と称されていたとおりに細長い建物でした。



武器蔵跡から見下ろす木曽川です。
濃緑の森を貫くエメラルドグリーンの一筋、赤い城山大橋
夏の蒼天はところどころに雲が浮かんでいますが、それがまたいいんです。

 

武器蔵の跡地は、ちょうど天守台の足元にあります。
巨岩に穴をあけ柱を立ててから建物を築く懸け造りの様子をうかがうことができます。


 

カーブのたびに門が構えられていた苗木城。
今度の門は玄関口門、文字どおり天守の玄関となっていた門です。
通常は鍵がかけられており、目付役の者が鍵を管理していたようです。

 

玄関口門付近から眺めた三の丸
大矢倉の櫓台も小さくなってきました。
櫓台が連立している複雑な構造が、ここからだとひと目でわかりますね。


玄関口門先のカーブを曲がり、

 

本丸の天守曲輪に入りました。
天守曲輪には本丸御殿?というべき建物が曲輪を取り囲むように建っており、上の画像は本丸玄関すなわち本丸御殿?の玄関跡です。
御殿というには少々狭いからなのか、案内看板には「御殿」という表記はないので、ここでは「本丸御殿?」と表記しておきますね。



本丸玄関から中に入ると、「清水の舞台」の如く岩の上に建つ千畳敷という部屋を通ります。
千畳敷は複数の建物が連なっていて、そこから曲輪内側の一段上にある次の間居間へと至ります。
天守台へは、御殿?内側の建物を経由することとなっていました。



現在は本丸御殿?は復元されておらず、本丸玄関跡から階段で直接に居間跡へと上ります。



博物館を出て、じっくり検分しながら登城すること30分。
天守台に到達しました。



天守台の傍らには、漢文で記載された苗木城址碑が立っています。
篆額(てんがく)(碑の表題)の「苗木城址碑」は、最後の苗木藩藩主・遠山友禄(ともよし)の書によるもので、また文章は依田百川の手によります。
依田百川は森鴎外に漢文を教授したことで知られ、鴎外の『ヰタ・セクスアリス』で登場する「文淵先生」のモデルとされています。
碑文の内容は・・・


鎌倉幕府創業の功臣・加藤景廉(かげかど)の長男・景朝が美濃国恵那郡の遠山荘を所領とし、「遠山」の姓を名乗りました。
これが遠山氏のルーツです。
遠山景朝は岩村城を築き、ここを拠点に明知苗木などに勢力を広げていきました。
こうして本家の岩村遠山氏から明知遠山氏苗木遠山氏などの分家が成立しました。
苗木城の歴史は、ほぼ苗木遠山氏の歴史とリンクしています。
ちなみに名奉行「遠山の金さん」こと遠山景元は、明知遠山氏を出自としています。

戦国時代に入ると、東美濃地方は西の斎藤氏、東の武田氏、そして南の織田信長との争奪の的となります。
苗木城が築城されたのは、そのさなかの1530年ごろと考えられています。
東美濃は次第に織田信長の勢力下に入っていきますが、東から侵攻してきた武田勝頼の軍勢に苗木城を攻め落とされてしまいます。
長篠の戦いで武田軍が敗退すると、信長軍は東美濃を奪還していきますが、一連の戦いで岩村遠山氏をはじめとする遠山一族はほとんどが滅亡していき、苗木遠山氏や明知遠山氏など分家の一部が存続できました。
苗木遠山氏の当主・遠山友忠も、このとき苗木城を奪還しています。

天正10年(1582年)本能寺の変が起きると、友忠は近隣の美濃金山城主・森長可を暗殺しようとしますが、失敗。
長可は羽柴秀吉の後ろ盾を得て東美濃を席巻し、天正11年(1583年)苗木城を攻略。
苗木遠山氏は、当時秀吉と対立していた徳川家康のもとへと逃れました。

慶長4年(1599年)森長可の後継である弟・忠政は信州川中島に移り、代わって河尻秀長が苗木を治めることとなりました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで河尻は西軍についたため、徳川家康は遠山友政に命じて苗木城を奪還させました。
戦後、遠山友政はそのまま苗木に所領を与えられて苗木藩が成立しました。
苗木遠山氏は明治維新に至るまでの260年間、苗木藩主として苗木城を拠点としたのです。



・・・碑文に刻まれている文章はこんな内容のものではありませんが、苗木城の歴史は苗木遠山氏の苦悩の歴史といえます。
そんなわけで、ここで改めて「城攻め」



遠山さんではなくて、河尻秀長さんが登用できました。
なお、苗木城はJR恵那駅で攻略済みです。




それでは、天守台に立ちます。



眼下に望む木曽川、こちらは上流。
蒼天には雲が覆い始め、東濃の秀峰・恵那山は雲の笠をかぶっています。
そのふもとには中津川の市街地が広がっていますね。
バスに乗って渡った玉蔵橋、その隣りの廃線・北恵那鉄道木曽川橋梁の2本の橋も、絶景にアクセントを加えています。



一方下流は、城山大橋、さらに下流の美恵橋が存在感を出していますね。
この日の中津川市の気温は体温超えだったようですが、エメラルドグリーンの木曽川のせせらぎを見て、少しばかり涼しい気持ちになれたような気がします。




 

天守台を検分。
天守は2つの巨石にまたがって造られ、2階3層となっていました。
巨石を礎としながら必要箇所を石垣で補う構造、せまい岩山に建物を据える構造は、たぶん苗木城だけではないでしょうか。


 

天守台を下り、その足元へ。
ひときわ大きい岩は、馬洗岩と名付けられています。
苗木城が攻められた際、水の手が断ち切られてしまった時、この岩の上に馬を乗せ米を馬にかけ、あたかも水が豊富にあるかのように敵を欺いたのだそうです。








武器蔵跡付近に戻りました。

 

スタンプの画角は、ここから天守台を見上げたものです。
今回の画角探しは簡単でした。



「兜岩」と私が名づけた岩。
本当の名は不明です。



最後に、スルーしていた二の丸へ。



大門跡から坂を上らず、右へ進みます。

 

二の丸から天守方向を見ると、石垣が幾重にも積み上がっている豪壮な画。

 

南側に進んでいくと、石垣とともに現れる巨岩。

 

ついには巨岩だけになってしまいました。
この先には八大龍王社という巨岩に鎮座する社があるのですが、私は途中で引き返してしまいました。



午後3時11分、苗木城を退城。
観光客もそれなりに多かったですが、それにふさわしい魅力的な城郭でした。



帰りもバスを利用するので、バス停までは徒歩で向かうこととなりますが・・・



これはいったい・・・と考えさせられる記念碑がありました。
とりあえず、苗木城の登城記はここまで。





苗木城登城・第2章~巨岩を抱いて

2021-03-14 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 後 2 時 0 8 分

岐 阜 県 中 津 川 市

苗 木 城 足 軽 長 屋 跡





苗木城【国指定史跡】の入口部分といえる、足軽長屋跡地



ここから見える、異形の本丸
目指すは、あの本丸の頂です。



おおぅ、この苗木城周辺にも困った御方がいらっしゃるようです。
とはいえこの日の苗木城はお盆休みまっただ中とあって人出は多く、森の困ったさんに出くわすことはなさそうに思えました。



登城路に面した石垣と巨岩。
苗木城が築かれていた城山には巨岩が多く、苗木一帯を治めていた苗木遠山氏はこの巨岩をそのまま利用して、城の一部となしたわけですね。
巨岩がごろごろ転がっているような山なので、石垣の材料となる石材には事欠くことはなかったようです。
しかし苗木藩の石高は1万石と、財政力は到底高いとは言えず、藩政が発足して以来ず~っと火の車。
ということで巨岩を動かすことに労力すなわち財力を費やすことはせず、巨岩を抱き込むようにして城を築いていったんですね。


 

風吹門の跡地にたどり着きました。
正規の登城路(大手道)にあったので「大手門」とも呼ばれていたそうです。
外部と三の丸を隔てていた櫓門で、2階には馬の飼葉が収納されていたそうです。





三の丸に入って左を振り返ると、巨岩を抱きかかえた石垣造りの構造物が構えられています。

 

苗木城最大の櫓・大矢倉の櫓台です。
大矢倉が築かれたのが17世紀中頃ということで、石垣の石積みは隙間のない切込接ぎとなっています。



大矢倉の北側(画像右側)では、小さめの石で隙間を埋め込む打込接ぎが用いられていますね。
切込接ぎの石垣の方は、長方形に近い石が規則正しく積まれている布積みです。



大矢倉の櫓台を登っています。
櫓台の頂となるこちらの石垣は、打込接ぎで構成されています。



櫓台の頂に立ちました。
三の丸は炎天下の下で絶賛工事中のようです。



大矢倉からの本丸
北側は巨岩があまり見えず、端整な石垣が造成されています。



苗木城の一大名物・大矢倉跡を下りました。


 

重機が作業している馳門跡で、こちらは裏口にあたります。
城の崖下を流れる木曽川の川原から始まる搦め手の登城路は、四十八曲りと呼ばれる山道を経て、この馳門に至ります。




三の丸を通過し、二の丸へと入ります。

 

両郭の境目といえる大門の跡地。
その名のとおり、苗木城で一番大きな城門でした。
2階建ての城門で、2階部分は物置として用いられていたようです。
城主の江戸参勤の出立など、大きな行事のときに限って門扉が開け放たれていたようで、普段は脇のくぐり戸が通行に用いられていました。



 

巨岩と石垣に囲まれている空間。
二の丸に入って最初の建物・御朱印蔵の跡地です。
ここには将軍家から与えられた領地目録や、朱印状などの重要な文書、また刀剣類なども納められていました。
御朱印蔵の収蔵品は、虫干しが年1回必ず行われていました。
蔵に上るための階段はなく、はしごをかけて出入りをしていたそうです。



別角度からの御朱印蔵跡。
巨岩が見事に一体となっていますね。


 

二の丸の散策は後回しにして、さらに上へ。
本丸への坂道にあった城門、最初は綿蔵門
こちらも2階建てで、中には年貢の真綿が納められていました。
この門は門限があり、夕刻七つ時(午後4時)以降は閉じられ、本丸への進入は禁じられていました。



綿蔵門跡の壁面。
先のヘアピンカーブからの上り坂は石垣で固められています。
そのむこうには巨岩がそびえています。

 

綿蔵門跡から二の丸を見下ろすと、崖っぷちに礎石が残っています。
苗木城の御殿はこちらにありました。



木曽川にかかる赤いトラス橋・城山大橋が見えてきました。
苗木城の登城はさらに上へ・・・眺望もまた愉しみです。


 

綿蔵門の先にあるヘアピンカーブを曲がったところに構えられていた坂下門
坂の下にあるから坂下門、まぁそのまんまですね。
3代藩主・遠山友貞の正室の実家・久世家の支援で改修されていることから「久世門」とも呼ばれているそうです。
門跡にある石段は、門が存在していた当時のものが現存しています。



本丸までの坂道は続き、

 

三の丸の大矢倉の石垣が望めるようになってきました。


 

第二のヘアピンカーブの直前にあった菱櫓門
本丸まではあと少し。


 

櫓台のような石垣と井戸が現れたら、二の丸の終点です。
本丸への入口・本丸口門が、通路に構えられていました。
(本丸口門の跡地は、撮影し忘れていしまいました)



その直前にあった井戸は千石井戸で、苗木城の井戸で最も高所にあります。
強烈な日照りのときにも水涸れしなかったといい、千人の飲み水となるということから「千石井戸」と名付けられています。



現在も水をたたえる千石井戸。
私も手持ちのお茶を飲んで、苗木城の本丸へと足を踏み入れます。