鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

松江城登城・最終章~松江水燈路

2021-10-31 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 参 時 四 拾 伍 分

島 根 県 松 江 市

居 酒 屋 「 や ま い ち 」 前



松江の郷土料理と地酒を堪能し、居酒屋やまいちを出ました。



空は暗闇に覆われ、街灯が照らす大橋川
やまいちさんで酒を飲んでしまったので、ここからはママチャリを手押しして徒歩移動となります。
自転車とはいえ酒酔い運転をするわけにはいきませんからね。




大橋川の北を流れている京橋川は、松江城の外濠でもあります。
夜の川は街灯に照らされ、格別の美しさがありますね。
水の都・松江を、夜風に当たりながらそぞろ歩いていきましょう。





島根県庁前の広場。
松江城天守【国宝】を向いている松平直政公騎馬像



ライトアップされている松江城二之丸
この日は風もなく水濠が鏡のように実像を反射し、見事な「逆さ石垣」を見ることができました。



沿道には提灯が吊り下げられ、そぞろ歩く観光客の目を愉しませてくれます。



直政公に加え、堀尾吉晴公像もライトアップされています。
老齢の吉晴公にこのライトアップは、ちょっとお体に堪えるかな・・・と妄想。
それにしてもこの画は・・・私のスキルのなさが顕わになってしまいますなぁ。




黄色のネコ2匹が気になるところですが・・・

この日は、松江水燈路すいとうろが開催中。
松江城とその周辺が、秋の夜長に幻想的な燈火で彩られるイベントで、「神在月」の10月に行われます。
辺のに行を並べる光のイベントということで「水燈路」というのだそうです。




手作りの行燈に導かれ、松江城に入っていきます。



ライトアップされている石垣もまた、魅力。



大きめの行燈は、プロのアーティストさんの作品。
松江城の建造を指揮した「仏の茂助」堀尾吉晴さん。
吉晴さんの来歴は、こちらをどうぞ。



同じアーティストさんの作品、「山陰の麒麟児」山中鹿介さん。
松江城とは関係がない鹿介さんの来歴は、こちらをご覧ください。



こちらも同じ方の作品、堀尾忠氏さん。
お父様の吉晴公ばかりが表に立っていますが、松江藩の初代藩主はこの御方。
忠氏さんの来歴はこちらをどうぞ・・・って、当ブログでも取り上げてなかったですね。


堀尾忠氏は、天正6年(1578年)堀尾吉晴の次男として生まれました。
天正18年(1590年)兄が早世したことから、吉晴の嫡男となりました。
(異説として、忠氏は次男ではなく長男だったともいいます)
元服に際しては、徳川秀忠から一字を受けて「忠氏」と名乗りました。

慶長4年(1599年)父が隠居し、遠江浜松12万石を相続。
翌年の関ヶ原の戦いでは、父が加賀井重望の刃傷沙汰に巻き込まれて負傷したため、代わりに出陣。
徳川家康の東軍につき、前哨戦で武功を挙げて、戦後に出雲24万石を与えられ、月山富田城に入りました。

関ヶ原前の小山評定にて、忠氏は親交のある山内一豊居城の浜松城を家康に献上して家康の歓心を買う策を話したといいます。
評定の場に臨むと、一豊は忠氏の策をパクり、忠氏に先んじて居城の掛川城を献上すると宣言してしまいました。
この一豊の宣言で、去就に迷っていた諸将はこぞって家康に味方し、一豊は大きな武功を立てずして、土佐20万石を与えられたといいます。

月山富田城に入った忠氏は父と共同で藩政を運営し、また新しい城下町の形成を図って新たな城の建造を考えます。
築城の地をめぐっては父と意見を異にしましたが、忠氏の案が採用されました。
しかし慶長9年(1604年)に27歳の若さで急逝してしまいます。
子の忠晴は幼かったため、隠居の父・吉晴が復帰して藩政を主導することとなりました。
慶長12年(1607年)松江城の築城が始まり、慶長16年(1611年)正月に落成。
松江城の完成を見届け、吉晴は6月に亡くなりました。





小さな行燈を伝いながら、二之丸上の段へ。
これらの行燈は、松江市民のみなさんの手作りなのだそうです。




昼間は行燈の倉庫となっていた太鼓櫓【復元】。



櫓から出た行燈は、ほのかな光を放っています。



松江市民のみなさんによる小さな行燈。
プロのアーティストさんによる大きな行燈。
ライトアップされている明治後期の洋館・興雲閣【島根県指定文化財】。
各々がはなつ光と、見物客の影による競演。





昼間は立ち寄らなかった興雲閣を、じっくりと拝見。



夜の松江神社を詣でて、



夜の松江城本丸へ!





再びまみえた松江城天守【国宝】!
当然中には入れませんが、眺めるだけでもいいですねぇ。





夜の天守、水燈路バージョン!
出雲国の神在月、良い時季に登城できたものです。




催し物を見ながら、松江城を散策していました。





松江城のお濠の外へ。
遊覧船でめぐるお濠沿いを、ママチャリ・・・だと酒酔い運転になってしまうので、チャリを手押ししながら散策していきます。




堀尾さんがいらっしゃる広場からお濠沿いを北に歩くと、見えてくる最初の橋が北惣門橋
松江護国神社の参道にもなっています。




松江城の北側に走る通り・塩見縄手
昼間は観光客でにぎわう通りも、静寂とともにほのかな光で照らされています。

「縄手」というのは「縄のように一筋にのびた道」のことで、かつては大八車(リヤカーのことですね)1台がようやく通れるくらいだったといいます。
このあたりには、家禄50石から1000石の「中老」クラスの武家屋敷が築かれました。
50から1000って、随分と幅が広いような気もしますが。

「塩見」は塩見小兵衛さんのことだそうです。
小兵衛さんのご先祖さまは、松江松平家初代・直政公が信州松本藩主を務めていたころからの家臣で、直政公といっしょに松江に移転しました。
そしてここの武家屋敷街のほぼ中央に小兵衛さんが住んでいましたが、あるとき異例の昇進を果たしました。
その栄誉を称え、この小道は「塩見縄手」と呼ばれるようになったそうです。



夜のために閉門されている武家屋敷【松江市指定文化財】。
小兵衛さんが住んでたかどうかはわかりませんが、江戸時代当時のまま残っている唯一のお屋敷です。



塩見縄手ぞいの蕎麦屋「八雲庵」
ここには寄りませんでしたが、翌日店名が似ている出雲市内の蕎麦屋さんに行く予定。



小泉八雲旧居(ヘルン旧居)【国指定史跡】。
ギリシア生まれの明治の文豪・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が5ヶ月の間住んでいました。




松江城のお濠回りを散策し、



翌日お世話になる一畑電車さんの松江しんじ湖温泉駅に立ち寄りました。
あらかじめ一日乗車券を購入しておこうと思いましたが、当日でないと購入できないとのことでした。
この日は駅の場所を確認するだけにとどめました。




宍道湖沿いを歩きます。









翌日帰路に就くので、今宵は松江の最後の夜。
心地よい涼風に酔いも醒めていき、水と光に彩られた美しい松江の夜を愉しむのでした。



否、今宵が松江の最終夜ではなかったのです。





松江の郷土料理「やまいち」

2021-10-29 | グルメ


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 伍 時 廿 伍 分

島 根 県 松 江 市

宍 道 湖 夕 日 ス ポ ッ ト





宍道湖に沈みゆく日輪を仰ぎ、松江の市街地に戻りました。



宍道湖の湖畔からママチャリで約10分ほど。
宍道湖から中海へと流れる大橋川のほとり、松江新大橋の北詰・・・



「やまいち」さん。
店構えからもわかる老舗の居酒屋で、吉田類氏の「酒場放浪記」にも登場しています。
松江でも指折りの有名店であり、かつ人気店で、今宵は松江の郷土料理をいただきます。

店の1階は5、6席ほどのカウンターと、3組程度の座敷席。
比較的早い時刻で入店したので、客はほとんどいない様子でしたが、
「予約でいっぱいなのですが、7時までならいいですよ」
ということだったので、その条件で食事をすることとなりました。
さすがは人気店です。


カウンター席の入口側から2席目に着座しました。
何をオーダーしようかな・・・

宍道湖七珍 しじみ」「煮魚 めばる」「宍道湖七珍 もろげ」 etc...

カウンターの中に、本日のお料理が掲示されています。
ちょっと気になるのが、値段表示が一切ないこと。
事前に確認したところ「ぼったくり」といった口コミもなく、むしろ「安い」という言葉が多く出ていたので、まぁ問題ないだろう。
そう思いながらも、何を注文しようか迷っていました。



まず、やってきたのはお酒。



冷酒をオーダー。
米田酒造「純米吟醸 豊の秋」です。
松江の地酒でしたたかに酔いつつ、郷土料理で舌鼓といきましょうか。




最初のお食事は、おでん
お出汁をたっぷり吸いこんだ大根さんに、おでんにはあまり見られない春菊さん。
春菊さんは常時お出汁に浸かっているのではなく、食べる直前に出汁にくぐらせ、湯がく程度に煮てから供されます。
普段は好んで食べない春菊・・・あの苦味があまり得意ではないのですが、お出汁の旨味との相性が思いのほか良く、ちょっと苦味が残っているのが却って美味しくいただけました。




汁物はやっぱりしじみ汁
松江に来たら、これは絶対に欠かせませんね。
「宍道湖七珍しっちんの筆頭ともいうべきしじみは、宍道湖が日本一の水揚量を誇ります。
普段食べるしじみ汁とは明らかに違い、しじみの旨味がなんとも柔らかく、何杯でも食べられそうです。
しじみの身もぷっくりとしていて、食べごたえがありました。


宍道湖大橋川中海から境水道を経て日本海へと至る斐伊ひい川水系
宍道湖から日本海までの高低差はほとんどなく、そのため海水が宍道湖まで流入し、宍道湖は淡水と海水が混ざり合う汽水湖となっています。
また季節ごとに海水の混じり方が異なるため、宍道湖では多彩な魚介類が獲れます。
昭和5年(1930年)新聞記者の松井柏軒は、松陽新聞(現在の山陰中央新報)に「宍道湖十景八珍」を寄稿しました。
これが「宍道湖七珍」の始まりとされています。
「珍」にあたる魚介類は議論が重ねられ、現在はスズキモロゲエビウナギアマサギシラウオコイ、そしてシジミが「七珍」とされています。
覚え方は、それぞれの頭文字を取って、「相撲、足腰(すもうあしこし)」





「宍道湖七珍」のひとつ、もろげえび
吊り下がっていたメニューの「もろげ」という文字にいたく興味を抱いてしまい、オーダー。
もろげえびさんは塩焼きで登場。
背ワタが少なく殻が薄いので、まるごといただきました。

もろげえびは、標準名をヨシエビといい、ヨシ(葦)の生えている浅い内海に暮らしています。
旬は秋で、まさに私が訪れているころだったんですね。



さて、お店は齢六十代と思われる女将さん、齢四十前後のオーナーさん、そして女将さんの友人という淑女殿の3人が切り盛りしているようです。
オーナーさんは女将さんの息子さんのようで、先代のオーナーさんであるご尊父の後を継いだのだとか。
厨房はオーナーさんが主に担当し、接客は淑女殿が主に担当しています。
女将さんは両者の中間、といったポジションのようです。

女将さんの友人だというこの淑女殿、とっっってもお元気な方です。
春菊のおでんをおすすめしてくださったのも淑女殿ですし、お店の内情?をいろいろとお話ししてくださったのも淑女殿
隣席に着いた50代と思われる紳士殿ともども、淑女殿の賑やかな応対にタジタジです。

紳士殿は都内で勤務されているようですが、このときは帰省されていたとのこと。
地元民でありながら「やまいち」さんに来店したことはなかったようですが、なるほどここは名店だとおっしゃっていました。
こうして紳士殿と会話を弾ませながら、お食事は続きます。





地の物ではありませんが、肉もやし炒めもいただきます。
ランチが質素なものだったので、かなりの空腹状態であった私は、ガッツリ系のメニューもオーダーしました。
うんうん、ここは何を食べてもうまいですなぁ。



「明日は出雲大社を詣でます」
紳士殿に言ったところ、
「出雲に行かれるのなら、市内の古墳群に寄られてはいかがですか。なかなかすごいものですよ!」
とおすすめされました。
翌日は出雲大社と日御碕ひのみさきを訪れる計画でしたが、時間に余裕があったら行ってみようと思っていると・・・

「ほら、お兄ちゃん、机拭いて!」

冗談なのか本気なのか、元気の良すぎる淑女殿の小気味良いキンキン声。
まぁ客に机拭けなんて冗談に決まってるでしょうが、初対面の男たちに対してのこのようなセリフ回し。
恐るべき淑女殿です。

時とともに予約客が来店し、店内は賑わいを増していきます。
そして淑女殿も然り。
紳士殿に私の食欲も増進していきました。



カウンター内に吊り下げられていたお品書きに、デカデカと「メバル」とあったので・・・



メバルの煮付けをオーダー。
これもまた、良し!
しかしメバルが高級魚であることを、当時は認識していませんでした。


メバルを丁寧に食べ尽くし、



おでんをおかわり。
先ほどの春菊に加え、あつあつふっくらの揚げ豆腐
あと、関東のおでんには見られない里芋もいただきましたが、これまたうまい。
自分でおでんを作るときは、春菊とともに里芋も入れてみようと思いました。



6時45分ごろ、酒瓶も空いたのでお勘定としました。
お食事代は、5,500円ほど。
(レシートをもらわなかったので正確な金額は覚えていませんが、それくらいだったかと)
メバルの煮魚がお代を押し上げたようですね。
それでも、松江の郷土料理を堪能できて、大満足で店を後にしました。



後日、吉田類氏の「酒場放浪記」で、「やまいち」さんを拝見しました。
覚えのある淑女殿のキンキン声を聞いて、また松江に行きたくなっちゃいました。





日輪、宍道湖に沈む

2021-10-29 | 公園・庭園


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 四 時 伍 拾 参 分

島 根 県 松 江 市

宍 道 湖 大 橋 付 近



月照寺【国指定史跡】で、歴代藩主ほぼ全員のお墓参りをしてきました。



松江の市街地に戻るべく、宍道湖の湖畔に出ました。
時は夕刻、宍道湖大橋山陰合同銀行本社ビルが、朱に染まり始めています。



西の方、宍道湖に目をやれば、日輪が湖面を照らしています。
宍道湖は夕陽の名所で、湖畔にある島根県立美術館「日本の夕陽百選」に選ばれています。

この日は天気も良かったので、素晴らしい夕陽が見られるのではないか・・・?
そう期待して、宍道湖沿いを歩くこととしました。




宍道湖大橋を渡り、





白潟公園へ。




さらに湖岸を歩き、



島根県立美術館へ。
そこからもう少し歩くと、



Google Mapさんに表示されている「宍道湖夕日スポット」にたどり着きました。
湖に浮かんでいるのは嫁ヶ島で、宍道湖で唯一の島です。



松江城を築城した堀尾吉晴は、天守から眺めた景色に感動し、嫁ヶ島を「湖中の一勝地」と評したといいます。



日輪が朱に染まり始めています。



水平線の上に雲が・・・!



日輪が雲の後ろに隠れようとしている・・・!



日輪が、分厚い雲に沈んでいく・・・!







17時25分、残念ながら日輪が完全に雲に隠れてしまいました。
国立天文台のサイトによれば、この日の松江の日没時刻は17時28分でしたが、この3分間で分厚い雲が晴れるとは思えなかったので、このまま食事へと赴いていきました。





ハイソフト「日本の美しい橋」やっと最後の橋

2021-10-16 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 1 0 月 5 日 ( 火 )

午 後 3 時 0 5 分

職 場 に て





出ねぇぞ!



森永製菓「ハイソフトキャラメル」を開函するたびに、幾たび心中でつぶやいたでしょうか。
「日本の美しい橋」カード、16枚目の鶴の舞橋
職場の面々にキャラメルを振る舞うこと、数十箱。

「このカードはレアカードだから、出る確率が低いんだよ、きっと」
「このカードだけ、じつは印刷されてないんじゃないか」

「森永のお客様相談室に連絡しちゃえば」
「もう、『メルカリ』で買っちゃいなよ」


面々の心ある言葉に支えられ、この日もハイソフトの封を開いたのでした。





ついに出ました! カード番号2番、鶴の舞橋!



鶴の舞橋は、青森県北津軽郡鶴田町にある富士見湖パークの園内にて廻堰大溜池(津軽富士見湖)に架かる木造の橋です。
長さは300メートル、幅は3メートルで、日本一長い木造三連太鼓橋となっています。

鶴の舞橋が架かる廻堰まわりぜき大溜池は、万治3年(1660年)弘前藩4代藩主・津軽信政によって新田開発の灌漑用水源として築造されました。
水をためるための堤防(堤体)は4.2キロもあり、日本最長を誇ります。
「津軽富士」と称される岩木山の見晴らしは美しく、そのために「津軽富士見湖」とも呼ばれています。



パッケージにも載っている鶴の舞橋ですが、公共交通機関だけで行くのはけっこう大変。

最寄駅は、JR五能線 陸奥鶴田駅
青森からアクセスする場合は、奥羽本線弘前方面へ向かい、弘前の2駅前の川部駅で五能線に乗り換えます。
川部から4駅進み、陸奥鶴田駅に到着します。
ちなみに青森駅から出ている臨時快速「リゾートしらかみ」も、陸奥鶴田駅に停車します。

陸奥鶴田駅に到着しても、ここからが難儀。
鶴の舞橋がある富士見湖パークや丹頂鶴自然公園は、駅から約6キロの道のりがあります。
鶴田町で一番の観光名所であるはずなのですが、そこへアクセスできるバスは一切なし。
推奨されている交通手段はタクシーで、片道2,000円以上かかってしまいます。
期間限定で特別料金タクシーが運行されているようですが、それでも片道1,000円かかります。
陸奥鶴田駅の観光案内所ではレンタサイクルも取り扱っているようなので、タクシーに身銭を切りたくない私はこちらの手段をとることになりそうですね。



それにしても、長い闘いでした。
しばらくはハイソフトを口にすることはないでしょうね・・・・・・。



「森永ハイソフト・16名橋コンプリート」 完

【画廊】ハイソフト「日本の美しい橋」へ。


松江藩主菩提寺・月照寺~藩主全員墓参り

2021-10-16 | 寺院仏閣


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 参 時 四 拾 伍 分

松 江 藩 主 菩 提 寺 ・ 月 照 寺



松江城【国指定史跡】をいったん退去して、



ほど近くにある寺院に立ち寄りました。



入口前で湧き出でる清水。
不昧公愛用の名水とされている水で、現在もこの水でお茶を立てているそうです。


今回立ち寄ったお寺は、歓喜山月照寺【国指定史跡】。



月照寺は、もともとは禅宗の寺院で「洞雲寺」という寺号でした。
松江藩主として松江城に入った松平直政は、寛文4年(1664年)その生母・月照院の霊牌を安置するため、浄土宗の長誉ちょうよ上人を招聘して寺院を復興し、「蒙光山月照寺」と改めました。
次代・綱隆はここを廟所とし、山号を「歓喜山」と改めました。
以来、松江藩松平家の菩提寺となり、松江藩主9代がこの地で眠っています。





境内に入る前に立っている碑は、雷電為右衛門の碑
雷電は松江藩お抱えの力士で254勝10敗!!の戦績を残しており、史上最強の力士ともいわれています。
碑には雷電の手形が刻まれています。



境内の正面入口にあたる唐門
その先直進すると7代治郷はるさと公御廟に続くのですが、ここからは入れないようです。

宝物殿横の通用門から、境内へ。




午 後 参 時 伍 拾 弐 分

月 照 寺 境 内


通用門から境内に入ったところにある書院が、拝観の受付となっています。
こちらで拝観料500円を支払います。
さらにお抹茶をいただくために450円を支払いました。
境内を散策の後に、お抹茶をいただくことにしましょう。



四季折々の花が咲き誇る寺院だそうですが、時季は晩秋。
花はなく、紅葉も始まっていないという“谷”の時季だったんですね。



そんな中で、ただ一輪で咲く花。
茶の湯でいうところの「寂び」の美しさというものでしょうか。





月照寺・最初の廟門が見えてきました。
高真院廟門【島根県指定有形文化財】です。



桃山文化の影響が色濃く残るらしいのですが、よく見てきませんでした・・・。
蟇股かえるまたの彫刻は、笹と、眠る獅子でしょうか?





高真院御廟
松江藩松平家初代・直政公の墓所です。
初代藩主ともあって、境内で最大の墓所となっています。





続いて、造りがひときわ豪華?な廟所。
大圓庵御廟で、7代藩主・治郷はるさと公の墓所です。


松平治郷は松江藩松平家7代当主で、江戸時代を代表する茶人でもあり、号の不昧ふまいで知られています。
破たん寸前の松江藩の財政を藩政改革で立て直し、「松江藩中興の祖」とされます。
茶人としても一流で、名物とよばれる茶器の散逸を防ぐため、大金を投じて収集に努め、また数多くの名工を保護、育成していきました。
ただしこのことは、持ち直した財政を傾けていくことにもつながってしまいます。
茶人としての活躍とともに松江城下に銘品とされる和菓子が多く生まれていき、現在も「不昧公御好み」の銘菓が作られています。
松江が文化の街として評される礎を築き、当地では現在も「不昧公」として敬われています。





大圓庵廟門【島根県指定有形文化財】。
この廟門も、ほかのものに比べてひときわ豪華。
不昧公お抱えの名工・小林如泥じょでいの手によるものといいます。



蟇股に悠然と舞う雲龍の彫刻、そして脇柱に施された葡萄の透かし彫りが見事。
この画だと葡萄がよく見えないのですが・・・。



合掌、不昧公。



廟門を出ると、向こうに見える松江城天守【国宝】。
生前不昧公は、城がよく見えるこの場所を選んで、廟所を造らせたといいます。





続いては、善隆院御廟
5代当主・松平宣維のぶずみ公の墓所です。



彫刻は、梅の木に止まっている鳥ですね。
尾が長いから、ウグイスではないでしょう、多分。



松平宣維は、宝永2年(1705年)7歳で家督を継ぎましたが、当初から財政難に悩まされました。
あまりの財政難のため、継室との婚礼費用が捻出できずに婚礼を延期するほどだったといいます。
税制の改定、商品作物の開発などに取り組み、藩札の発行にも着手しました。
享保5年(1720年)からは、幕府より隠岐国の治政を委ねられ、以後松江藩が隠岐を治めることとなりました。
享保16年(1731年)34歳で死去しました。




5代宣維公の隣りに、



月照院墓所がひっそりと立っています。

月照院徳川家康の二男・松平(結城)秀康の側室で、松江藩松平家初代・直政の生母です。
月照院は身分の低い階級からの出身だったため、直政が大坂の陣に出陣するため軍資金を工面するのに苦慮したのだそうです。
家臣の尽力によって出陣できることとなった直政に対し、「祖父(家康)の目にかなうよう、卑しい母の子として後ろ指を指されることのないように」と励ます言葉をかけて送り出したそうです。
直政は真田丸の戦いで奮戦し、敵将の真田幸村に軍扇を贈られて賞賛されたといいます。




月照院墓所の隣り、



隆元院御廟へ。
3代目・綱近公の墓所です。



「隆元院」の扁額の横には、何らかの花の意匠が施されています。
花? いや、歯車かな?



門扉には桐の紋と、葵の紋でしょうか。
葵といえば、水戸黄門の印籠に施されている「三つ葉葵」が有名ですが、これは徳川家の定紋すなわちメインの家紋です。
家紋には替紋とよばれるサブの家紋があり、松江松平家ではこの「六つ葉葵」を用いていたようです。



廟門の天井にも、植物の透かし彫りが施されています。



松平綱近は、延宝3年(1675年)数え年16歳で家督を継ぎ、藩主となりました。
極度に悪化していた財政の改善に取り組み、製鉄や産馬の奨励などの政策を進めていきました。
また大梶七兵衛を招聘して治水や植林などの開発を進めました。
しかし財政を改善するには至らず、晩年には眼病を患ってしまいます。
ただ家臣からの信頼は篤かったようで、綱近を慕っていた小姓が自らの目をえぐり出して献上した!!という話も残っています。
宝永元年(1704年)に隠居し、宝永6年(1709年)に51歳で死去しました。






夕刻を迎えつつある月照寺。
境内の奥地へと続く紫陽花の小径も、このときは物寂しさを覚えます。





直指庵御廟
9代当主・斉斎なりとき公の墓所。「さいさい」さんじゃありませんよぉ。



「鷹殿様」の異名をとった斉斎公。
扁額の左上に施されている彫刻も鷹ですが、暗くて少々見づらいですね。



松平斉斎は、文政5年(1822年)家督を継いで9代目の当主となりました。
なお最初の名は直貴でしたが、文政9年(1826年)に11代将軍・徳川家斉から一字授かって斉貴に、隠居後に斉斎に改名しています。
斉斎の治世は天保の大飢饉などの天災が相次いだにもかかわらず、幕府に多額の献金をし、さらに鷹狩などの趣味に興じて財政を極度に悪化させてしまいました。
このため嘉永6年(1853年)家臣団によって主君押込め、つまり強制的に隠居させられてしまいます。
松江藩は婿養子の定安が継ぎ、明治維新を迎えることになります。






境内で最も奥にある宝山院御廟
2代当主・綱隆公の墓所です。



廟門は蟇股に3枚の葉の彫刻があるだけで、いたって質素な造りです。
歴代当主で最も飾り気のない廟門のような気がします。



松平綱隆は、初代当主・直政の長男で、寛文6年(1666年)に父の死をうけて家督を継ぎました。
父・直政の御廟を月照寺に築き、以降、同寺は松江藩松平家の菩提寺と定めりました。
松江藩成立時からの問題であった財政難に対し、藩札を発行するなどしましたが、改善には至りませんでした。
延宝元年(1673年)日御碕ひのみさき神社の宮司であった小野隆俊の妻に横恋慕し、隆俊に無実の罪を着せて隠岐に島流しにしてしまいます。
隆俊は隠岐島で失意のうちに亡くなりますが、延宝3年(1675年)綱隆も急死してしまいました。
人々は、綱隆は隆俊の怨霊に殺されたのだと噂したのだそうです。






8代当主・斉恒公の墓所、月潭院御廟



廟門には、ひょうたんの彫刻が施されています。
手持ちのパンフレットには「お酒の大好きだった殿様」と表記されています。



松平斉恒は、「不昧公」治郷の長男で、文化3年(1806年)に父より藩主の座を譲られました。
父同様に文化の面で活躍した人物で、茶道や俳諧、書道に通じていました。
また、盲目の大学者・保己一ほきいちを招聘して、平安時代中期の法令である延喜式の校訂を行いました。
この「雲州本『延喜式』」の事業の途上、文化4年(1821年)に保己一が死去、その翌年に斉恒が32歳の若さで急逝してしまいます。
それでもその事業は絶えず、松江藩士・藍川慎らがその遺志を継承し、文化11年(1828年)に完成しました。






4代当主・吉透よしとお公の墓所・源林院御廟



松平吉透は、2代綱隆の五男で、3代綱近の弟です。
元禄14年(1701年)兄の藩主・綱近より新田開発によって増加した1万石を分与され、松江新田藩の主となりました。
しかし綱近が眼病に罹り、また世継ぎとなる子が夭折してしまったため、元禄17年(1704年)吉透は綱近の養子となります。
同年家督を譲られ、松江新田藩は廃止となりましたが、翌年の宝永2年(1705年)江戸で急逝してしまいました。






歴代藩主のお墓参り、ラストは天隆院御廟

 

門扉の金剛力士像が印象的な、天隆院廟門をくぐると・・・



亀が碑を背負っているという、奇妙な石像?が立っています。
これは寿蔵碑といい、7代治郷公が父の6代宗衍むねのぶ公の徳を讃え、寿命長久を祈願するために建立したものといいます。
碑は天明2年(1782年)に完成しましたが、宗衍公は同じ年の10月に亡くなってしまいました。

この大亀、明治の文豪・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)の怪談にも登場します。



7代当主となった不昧公は、亀を可愛がっていた亡き父を偲んで、大きな亀の石像を造りました。
ところが、その大亀は夜な夜な動きだし、蓮池の水を飲み、城下で人を食らうようになったのです。

月照寺の住職が大亀に説法をすると、
「私にもこの奇行を止めることはできないのです。何とかしてもらえないでしょうか」
と大亀は涙ながらに懇願してきたといいます。

そこで、亡き藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀に背負わせたのでした。
これよりは、大亀が夜な夜な暴れまわることはなくなったそうです。





松平宗衍は松江松平家6代当主で、享保16年(1731年)に父・宣維の死により数え年3歳で藩主となりました。
延享4年(1747年)成長した宗衍は自ら政治を執るようになり、「御趣向の改革」と呼ばれる積極的な財政振興策を推進していきます。
はじめのうちは改革の成果が出たものの、のちに反対派が盛り返したために改革は頓挫してしまいます。
明和4年(1767年)財政窮乏の責任を取って隠退、次男の治郷に家督を譲りました。



隠居してからの宗衍公は、数々の奇行で評判となったそうです。
江戸の藩邸に、天井からふすままで妖怪や化け物を描いた部屋を造らせ、夏の暑い日は一日中この妖怪部屋にこもっていたといいます。
あるいは、参加者が全員素っ裸という茶会を開催したといいます。
寿蔵碑の怪談も、奇天烈な宗衍公の言動から尾ひれがついてできたのかもしれませんね。




午 後 四 時 参 拾 分

藩 主 全 員 の 墓 参 り 完 了


歴代藩主全員の霊廟にお参りし、書院に戻りました。

 

 

枯山水の庭園を眺めつつ、お抹茶(450円)を一服。



不昧公以来のお茶の文化が花開き、これに伴ってお茶菓子の生産が盛んになった松江。
京都、金沢に並ぶ「日本三大菓子処」に挙げられる松江にていただくお茶菓子は、「風流堂」さんの「路芝」
ほのかな甘みとごま風味が、奥行きの深い味わいとなって口の中に広がっていきます。
しかしながらその味わいは、お抹茶という主の前面にでしゃばることなく、そばに侍っているかのよう。
さらにお抹茶をいただけば、よりまろやかな味わいを楽しむことができました。

良きお点前にございました。


最後に本堂へ。



ご本尊の阿弥陀如来像を拝して、外へ出ました。



時刻は午後4時50分、松江の街に日没の時が迫っていました。