鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

沼田城・前編~河岸段丘を登って

2019-02-17 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 8 時 3 8 分

群 馬 県 沼 田 市

J R 沼 田 駅





JR沼田駅を出て、



駅からのびる道を歩いていきます。
駅前は閑散としていて、とても沼田市の中心駅とは思えません。

そして、信号機のある交差点を過ぎた先にある坂・・・



この傾斜!



あっという間に、振り返ると絶景。



沼田駅から上る坂は、瀧坂というようです。



この曲がりっぷりもなかなかの「名坂」ですねぇ。
私はこの時すでに汗ダックダクだったのですが・・・。
左の階段が、沼田城へのショートカットとなっていますが、この階段もなかなか手ごわかったです・・・。

階段を抜けるとそこは・・・



さらなる急坂!
この坂は瀧坂の小径というそうです。



上り坂の左側には、滝のように流れ落ちるであろう水路がありました。
このときは水がかれていましたが、これがゆえに「瀧坂」という名がついているのでしょうか。



この傾斜!!


瀧坂の長さは約900メートル、標高差は約75メートルといわれているようです。
ということで、斜度は平均8.3%らしいのですが・・・実際はもっとキツイです。
ま、あくまで平均が8.3%ですからね。



ほうほうの体で、坂の上に到達。
ここでようやく沼田の市街地に入ります。



真っ赤な真田の自販機。
「戦国無双」真田信繁さんが描かれておりますなぁ。
沼田城さんは「真田の城」ってことで売り込んでいるようですね。


坂の上の道をそのまま進んでいくと、



沼田城址である沼田公園入口に着きました。



【今回の移動記録】



JR沼田駅 8時38分発
沼田公園入口(沼田観光案内所) 8時58分着

*所要時間 20分
*移動距離 1.1km(地図中の○2つの間に屋根つきの階段があります)




午 前 8 時 5 9 分

沼 田 公 園


沼田公園に入ってそのまま100メートルほど進み、



左手に沼田観光案内所が現れます。
100名城スタンプもこちらでもらえます。
沼田城の資料を入手するためにも、ここはぜひとも立ち寄ってきます。



116番、沼田城!
絵柄はどこなんでしょう・・・これは登城してからのお楽しみですね。



「真田の殿に大変身!」のコーナー・・・私はスルーしましたけどね。
左は、真田昌幸割天衝(わりてんつき)之兜皺革包昇梯子文仏(しぼかわづつみのぼりはしごもんぼとけ)二枚胴具足
次は、真田信繁鹿角脇立之兜赤備之具足
右ふたつは、真田信幸唐冠形(とうかんなり)&・・・何らかの具足。

さすがに沼田は信幸兄さんの居城だっただけあって、信幸の甲冑セットだけ2着ありましたが、具足が雑な気が・・・。



案内所に展示されている、往時の沼田城のジオラマ。
沼田城の遺構は、現在ほとんど残っていないのです。

 

 

このジオラマでも、河岸段丘のへりに築城されていることがよくわかります。




外に出ました。
ロータリーに立っているのは、どの真田さんだろう?
そしてひっそりと立っている胸像は、誰だろう???



近くに立っている碑文。
寿楽園碑というそうで、廃城となっていた沼田城が公園に整備された経緯が刻まれているそうです。
そしてこの公園を私費を投じて整備したのが、胸像にもなっている久米民之助です。
彼自身はこの公園を「寿楽園」と名付けたようですが、市民は「久米公園」と呼んでいたそうです。
その後この公園は「沼田公園」となり、現在に至ります。


荒廃していた沼田城は、久米の尽力で整備されたものの、遺構が保存されることとなったのですね。
先人の努力に感謝しつつ、沼田城へと参ります。





鶴舞う形の群馬県へ

2019-02-17 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 4 時 5 3 分

千 葉 県 柏 市

J R 柏 駅 ・ 常 磐 線 各 駅 停 車 ホ ー ム



信州の高島城松代城を登城してから、まだ1週間とたたないこの日。
朝早くやってきたのはわが本拠地の最寄りである柏駅



18きっぷに、「柏駅」の検印が押されます。
そして私は、普段あまり利用しない常磐線各駅停車の発着する1・2番線ホームへ。



群馬へと向かう最初の電車は、4時59分発 常磐線 各駅停車 代々木上原行きです。
この時間、上野駅へと向かう快速電車は動いていないのです。



7分後の5時06分、3駅目の新松戸へ。




新松戸からは、武蔵野線に乗り換えます。
今度の電車は、5時14分発 武蔵野線 各駅停車 府中本町行きです。


この日も、朝から「城攻め」をして参ります。



この日最初の「城攻め」は5時21分、新三郷駅西袋陣屋(八潮市)を攻略。

5時27分、越谷レイクタウン駅宇田家屋敷(越谷市)を攻略。
5時31分、南越谷駅越ヶ谷御殿(越谷市)を攻略。
5時35分、東川口駅赤山城(川口市)と代山城(さいたま市緑区)を攻略。




新松戸から10駅目、南浦和駅で下車。



南浦和からは、京浜東北線にお乗り換え。
今度の電車は、5時54分発 京浜東北線 各駅停車 大宮行きです。
電車を3本乗り継いで、ようやく大宮駅にたどり着きます。
柏から大宮は、意外と遠いのかもしれませんね。


柏・大宮間は、東武野田線で一本なのですが・・・
これだと始発は5時13分とやや後れます。
そして所要時間は62分かかって、大宮駅到着は6時15分となってしまうのです。


JR線を乗り継いできた私は、6時05分に・・・



高崎線が発着する大宮駅に到着しました。



今度の電車は、10両編成6時10分発 高崎線 普通電車 高崎行きです。
野田線経由ならば、この6時10分発の電車には乗れず、次発15両編成の電車に乗ることになります。


高崎線では「城攻め」も済んでいるので、寝ます。


電車は北西へと進み、私が惰眠をむさぼっている中、上毛かるたのいう「鶴舞う形の群馬県」に入りました。




午 前 7 時 2 9 分

群 馬 県 高 崎 市

J R 高 崎 駅


大宮から1時間19分



群馬県最大のターミナル・高崎駅に到着しました。

この日は高崎駅で朝食。



山菜そば!ズズズズ・・・うまい!


今回登城しようというお城は、「鶴舞う形の群馬県」に3つ。

続100名城第115番・名胡桃(なぐるみ)【群馬県指定史跡】。
続100名城第116番・沼田城【沼田市指定史跡】。
続100名城第117番・岩櫃城【東吾妻町指定史跡】。

この3つは、すべて真田氏の支配下にあったお城なのです。
今回は、真田の六文銭の旗印が翻っていたであろうお城の姿を、時間と気力の許す限りお送りいたします。


最初に登城するのは、沼田城



沼田城の最寄駅は沼田駅なので、今度の電車は7時45分発 上越線 普通電車 水上行きとなります。
この電車に間に合わせるために、柏から常磐線、武蔵野線、京浜東北線と電車を乗り継いできたのです。


東武野田線で大宮に到達した場合、大宮6時26分発の電車に乗ることになります。
所要時間が同じく1時間19分と考えるなら、6時26分に大宮を発った電車は7時45分に高崎に着き、ギリギリで乗り継ぎができると思われます。
しかし実際には7時45分の上越線に乗り継ぐことは不可能で、大宮を発ってから1時間22分後の7時48分に高崎に到着するのです。
それは、15両編成の高崎線は、必ず籠原駅で車両切り離しを行うから。
籠原以北はホームの長さが15両編成に対応していない駅が多いので、籠原での切り離しが欠かせないのです。
東武野田線の始発で大宮に行ったならば、高崎駅でかなりの足止めを食らうこととなります。

東武野田線を利用しなかったのは、このような理由があるのです。

・・・ホントの理由は、単に野田線の運賃(590円)を出し渋っただけなんですけどね。


それはさておき、水上行きの電車は、定刻どおり高崎駅を発ちました。



高崎の市街地、前橋の住宅地を抜けて、





電車右側の車窓には、赤城山が大きく見えます。
「裾野は長し 赤城山」、上毛かるたに謳われるとおりの姿ですね。


吾妻(あがつま)の分岐点である渋川駅を過ぎると、



利根川を渡ります。上越線利根川第一橋梁というそうです。
そういえば、柏からここまでに利根川は渡っていませんでしたね。支流の江戸川は武蔵野線で渡りましたが。
「利根は坂東一の川」、私の実家がある下流域のように広々とゆっくりと流れて大海に注ぐという印象が強い私にとって、上流域の渓流のような利根川の姿は、かなり新鮮なものに見えますね。


この間の「城攻め」は・・・

8時06分、八木原駅剣城渋川城白井城(いずれも渋川市)を攻略。
8時17分、敷島駅長井坂城(渋川市)を攻略、



この日最初の浪人、長尾憲景を登用しました。


ふと車内を見ると、群馬県が生んだ元祖バラエティーアイドル・井森美幸女史が語りかけます。



なんで来ないのよ。
早く来なさいよ。


・・・もうすでに群馬県にいますけど。
群馬県真っ只中の上越線ではなく、埼玉県以南へ向かう高崎線で掲示したほうがいいんじゃないんですかねぇ。


なおも電車は北上し、



渋川から2駅目の津久田駅を発車したところで、2回目の利根川を渡河。
上越線第二利根川橋梁です。



その2分後、上越線第三利根川橋梁



さらに1分後、上越線第四・・・以下省略。
利根川は進行方向右側に移ります。



少し見えづらいですが、綾戸ダムの堰堤が見えます。



あまり大きくはないですが、綾戸ダムのダム湖です。
利根川とともに、上越線の電車はなおも北へ。




岩本駅。沼田まではあと1駅。



到着目前にして上越線第五・・・を渡り、



8時33分、沼田駅に到着しました。



この日最初の登城は、沼田駅より始まります。



【今回の乗車記録】

JR東日本 [JL28]柏駅 1番線 4時59分発
[JL]常磐線 各駅停車 東京メトロ千代田線直通 代々木上原行き 10両
[JL25]新松戸駅 2番線 5時06分着

[JM15]新松戸駅 3番線 5時14分発
[JM]武蔵野線 各駅停車 府中本町行き 8両
[JM25]南浦和駅 5番線 5時42分着

[JK42]南浦和駅 4番線 5時54分発
[JK]京浜東北線 各駅停車 大宮行き 10両
[JK47] OMY 大宮駅 1番線 6時05分着

[JU07] OMY 大宮駅 8番線 6時10分発
高崎線 普通 高崎行き 10両
高崎駅 2番線 7時29分着

高崎線 5番線 7時45分発
上越線 普通 水上行き 4両
沼田駅 3番線 8時33分着

*所要時間 3時間34分 (移動時間 2時間53分 乗換時間等 41分)
*移動距離 155.9km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、2,590円)





嗚呼、軽井沢

2019-02-06 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 5 時 5 7 分

長 野 県 北 佐 久 郡 軽 井 沢 町

軽 井 沢 駅 前





避暑地・軽井沢にやってきました。



駅前にあるバスプール。
これに乗って、ペンションにでも赴きましょうか・・・・・・。


むなしい・・・・・・。


停車中のバスは、JRバス関東 碓氷線 横川駅行き
軽井沢の東にそびえる碓氷峠を越え、群馬県の横川へと向かいます。
JRグループではありますが、18きっぷは利用できません。
運賃の510円を乗車前に支払うこととなります。


バスに乗車すると、空席はすでに五指に数える程度。
発車時刻は18時05分だそうですが・・・横川へ向かう人々をすべて収容しきることができるのでしょうか?

予想どおり、発車時刻を待たずに空席は埋まってしまいました。
すると運転手氏、後れてやってきた乗客には補助席を使うように指示します。

通路の最後尾から順番に補助席が埋まっていき、最前列まで達しようかというところで、発車時刻を迎えました。

軽井沢での滞在時間、わずか10分。


発車直前の18時04分に「城攻め」をし、峠の向こうの群馬県にある坂本城(安中市)を攻略できました。



路線バスは軽井沢の駅周辺をうろうろ進んだのち、国道18号・碓氷バイパスへ。
バイパスに入ってからは、最初やや上り、峠を越えてからはただひたすら下ります。

制限速度50km/hの碓氷バイパスを、その速さで下っているであろうバス。
傾斜はかなり急なようで、バスのエンジンブレーキの音がいやでも耳に入ってきます。
なかなかに怖いバスですねぇ。


傾斜が落ち着くと、ほどなくJR横川駅へ。
所要時間35分のところ、4分ほど早く到着しました。




【今回のバス乗車記録】

JRバス関東 軽井沢駅バスターミナル 5番のりば 18時05分発
碓氷線 直通 横川駅行き
横川駅バス停 18時36分着(早着4分)

*所要時間 31分
*移動距離 20.3km
*運賃  510円




午 後 6 時 3 7 分

群 馬 県 安 中 市

J R 横 川 駅


横川といえば、「峠の釜めし」



釜めしを提供する荻野屋は、現在もなお横川に本社をおいているようです。



横川駅
かつてはJR信越本線の途中駅でしたが、現在は終着駅になってしまいました。



残念ながら、お弁当屋さんは閉まっていました。


 

横川駅の構内へ。
白い駅名標の脚には、「海抜 三八六、五六М」とあります。
峠を越えて長い長い下り坂を駆け抜けてきたのですが(JRバス関東さんが)、横川もまだまだ高地なんですね。



山の中にある、横川駅のプラットホーム。



レールの先にはどんづまり。
かつては軽井沢駅までレールが繋がっていましたが、長野新幹線(現在は北陸新幹線)の開業と同時に廃線となってしまいます。



1番線ホームに展示されているアプト式レールの模型
横川・軽井沢間は碓氷峠がそびえ立つ難所中の難所。
この難所を乗り切るために、昭和38年までこのアプト式で運行されていました。
アプト式鉄道が廃止されてからは、横川駅で電気機関車を接続することで、碓氷峠を乗り越えていました。
電気機関車接続のための停車時間を利用して売り出されたのが、「峠の釜めし」なのです。
平成9年(1997年)の新幹線開通により、信越本線は第3セクターに移管することとなりましたが、横川・軽井沢間は維持費と採算性の関係で廃線となってしまったのです。

なお、現存する国内のアプト式鉄道は、静岡県の大井川鐡道井川線のみとなっています。



18時50分、信越本線 普通電車 高崎行きが出発しました。




19時03分、磯部駅
窓ガラスにある温泉マーク♨からわかるように、周辺には磯部温泉があります。
そしてこの磯部温泉こそ、温泉マーク♨の発祥の地だといわれています。
寛文元年(1661年)土地境界の裁定を行った幕府の文書に♨のマークが記載されているのが、現存する文書における最古の♨使用例なのだとか。


信越本線内での「城攻め」・・・

18時55分、西松井田駅松井田城(群馬県安中市)を攻略。
19時08分、安中駅安中城(群馬県安中市)と里見城(群馬県高崎市)を攻略。


19時21分、定刻どおり高崎駅に到着。




午 後 7 時 2 3 分

群 馬 県 高 崎 市

J R 高 崎 駅




今度の電車は、19時33分発 高崎線 快速「アーバン」 上野行きです。
発車時刻まで10分弱ありそうなので、夕食として駅そばをいただきました。


19時33分、快速電車が発車。
停車駅は、熊谷までの各駅と、鴻巣、桶川、上尾、大宮、浦和、赤羽、上野です。
地味にさいたま新都心尾久を通過してくれます。


高崎から1駅の倉賀野から、忍城で立ち寄った行田の間は、「城攻め」空白路線なので、この機会にこなしていきます。

19時52分、本庄駅本庄城(埼玉県本庄市)を攻略。
19時57分、岡部駅岡部陣屋(埼玉県深谷市)を攻略。
20時01分、深谷駅深谷城(埼玉県深谷市)、庁鼻和城(埼玉県深谷市)と人見館(埼玉県深谷市)を攻略。



20時07分、籠原駅別府城(埼玉県熊谷市)を攻略。

この日の「城攻め」は、熊谷の別府城で〆となりました。





21時07分、上野駅に到着。



あとはいつもの帰り道。
この日最後の電車は、21時17分発 常磐線 快速電車 取手行き



21時45分、柏駅に到着。



【今回の鉄道乗車記録】

JR東日本 横川駅 1番線 18時50分発
信越本線 普通 高崎行き 6両
高崎駅 5番線 19時21分着

高崎駅 7番線 19時33分発
高崎線 快速 アーバン 上野行き 10両
籠原駅 1番線 20時05分着 5両増結
[JU02] UEN 上野駅 14番線 21時07分着

[JJ01] UEN 上野駅 6番線 21時17分発
[JJ]常磐線 快速 取手行き 15両
[JJ07]柏駅 4番線 21時45分着

*所要時間 2時間55分 (乗車時間 2時間33分 待機時間 22分)
*移動距離&運賃 160.2km
*運賃  18きっぷ使用(不使用の場合、2,590円)



この日の旅は、これにておしまい。
ですが18きっぷは残り3日分もあります。

平成30年の夏、その3日分を使って各所の城へ行ってまいりましたが・・・調子に乗って関東地方を脱出してしまいました
なので「関東・甲信地方続100名城・ア・ラ・カルト」の旅は、いったんここで締めといたします。



日本100名城・続100名城登城の旅・第16弾「関東・甲信地方続100名城・ア・ラ・カルト」 完

ホーム画面に戻る。


行くぞ!軽井沢

2019-02-06 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 3 時 4 5 分

長 野 県 長 野 市

国 道 4 0 3 号 ・ 松 代 城 付 近





松代城&真田邸【国指定史跡】を辞し、付近にある国道403号を千曲市方向へ走っていました。

この先にある高架は、上信越自動車道
これをくぐって、



赤坂橋南交差点から県道385号に入ります。



赤坂橋を渡ります。



流れる川は、日本一の長さを誇る千曲川(信濃川)



渡った先の交差点を左に曲がり、そのまま県道を進みます。
道なりに進んでいくと・・・



JR篠ノ井駅に着くことができます。


そうそう、私はレンタサイクルを使っていましたので、





自転車を駐車場に返し、鍵はセブンイレブンに返します。



【松代→篠ノ井駅の行程】



松代城付近 15時45分発
国道403号・長野県道385号経由
セブンイレブン篠ノ井布施高田店 16時03分着

*所要時間 18分(かなり飛ばしました)
*移動距離 5.7km




午 後 4 時 0 8 分

J R 篠 ノ 井 駅


これより帰路ですが・・・なるべく同じルートを使わないという私の困った性格上、篠ノ井線&中央本線は使いません。だったら・・・

行くぞ! 軽井沢!
どうせ柏に帰っても暑いし、せっかくなので軽井沢に滞在してゆっくり過ごしたいところです。



しなの鉄道は18きっぷが使えないため、あらたに乗車券を購入しなければなりません。



今度乗車するのは、16時25分発 しなの鉄道線 普通電車 小諸行きです。
おおぅ、小諸に行くのも約8年ぶりですねぇ。
残念ながら今回は通過とさせていただきますが。


16時25分、定刻どおりにやってきた電車に乗ります。
篠ノ井駅は乗降客が多いため、扉は自動で開きましたが・・・



なんとこの電車、通常は扉が自動で開かないのです。
そういうことは、仙台暮らしの経験がある私からすれば驚くことはありません。
しかしこの電車は、押ボタンじゃなくて手で開けろというのです。
なかなかレトロな扉です。


帰りは、日没までは車窓を楽しみつつ、「城攻め」を怠りなくこなします。

16時31分、屋代駅屋代城(千曲市)を攻略。
16時37分、戸倉駅到着前で荒砥城(千曲市)と葛尾城(埴科郡坂城町)を攻略、村上国清を登用。



荒砥城の攻略をもって、通算300城攻略を達成しました。
次は500城を目指しましょうっていうからには、500城を達成した時もこんなメッセージが出るのでしょうね。
それでも300城で、まだ10分の1・・・道は果てしなく長いですね。


16時47分、



100名城の旅・第3弾でも取り上げたテクノさかき駅です。
カタカナとひらがなで構成された駅名ってのも珍しいですね~って記述したんだっけかな。
せっかくなので、ひらがな&カタカナで構成される駅名を挙げてみましょう。
 ・アプトいちしろ駅(大井川鐡道井川線)
 ・ささしまライブ駅(名古屋高速臨海鉄道西名古屋港線)
 ・たまプラーザ駅(東急田園都市線)
 ・テクノさかき駅(しなの鉄道)
 ・バルーンさが駅(JR九州長崎本線)
 ・りんくうタウン駅(南海空港線・JR西日本関西空港線)
2010年当時はこれら6駅だったのですが、
 ・とうきょうスカイツリー駅(東武伊勢崎線。「スカイツリーライン」? そんなものは知らん!)
 ・あしかがフラワーパーク駅(JR東日本両毛線)
こいつらが新たに加わり、現在は8駅となっています。


16時52分、西上田駅発車後に岡城(上田市)を攻略。



堀田作兵衛、高梨内記を登用。
大河ドラマ「真田丸」で注目された武将たちですね。
そろそろ真田の本拠地・上田に近づいてきたので、絶え間なく「城攻め」・・・



日本100名城第27番・上田城攻略!



「表裏比興の者」真田昌幸
「日の本一の兵」真田信繁

父は家康に次ぐ能力値99、弟は行動力最高の99です。
ふたりとも超一流の能力値を有するため、要求される石高も合わせて25万石です。

とりあえず無事に上田城を「城攻め」できました。
あとは実物を目に入れておきたいところですが・・・



よ~し!
これはたしか・・・東虎口櫓門【再建】と南櫓【長野県宝】です!
北櫓【長野県宝】もちょっと見えていました。




16時54分、上田駅に到着。




このまま電車に乗り続け、終着駅のひとつ前の滋野駅
ここに立っているのが「雷電為右衛門生誕の地」という看板。
気になったので調べてみると、雷電為右衛門はこの地で生まれた江戸時代後期の力士で、254勝10敗、勝率 .962というとんでもない成績を残しているのだとか。
それにもかかわらず、番付の最高位は大関どまりだったそうです。
雷電為右衛門が横綱にならなかったorなれなかった理由は諸説ありますが、この当時は横綱という位がまだ確立していなかったともいわれています。


小諸駅にそろそろ着こうかという17時14分、



日本100名城第28番、小諸城攻略!
ついでに長窪城(長野県小県郡長和町)も攻略し、



仙石秀久、依田信蕃のぶしげを登用できました。
現在残る小諸城は、センゴクさんの普請によるものなのですが・・・九州で大ポカをやらかした御仁なので、能力値は低めですね。



上田城に続いて、小諸城も撮影成功!
小諸城跡の公園・懐古園の入口にあたる、小諸城三ノ門【国指定重要文化財】です。
小諸城はしなの鉄道によって分断されており、線路よりも低位置にある三ノ門の先に二の丸や本丸があります。
城の奥に行くにしたがって土地が低くなるという穴城の構造を、ここからも感じ取ることができます。


電車は定刻どおり、17時17分に小諸駅に到着しました。




午 後 5 時 1 9 分

長 野 県 小 諸 市

し な の 鉄 道 小 諸 駅




小諸駅
しなの鉄道とJR小海線が発着するターミナル駅です。
めざすは避暑地・軽井沢ですので・・・



今度の電車は、17時30分発 しなの鉄道線 普通電車 軽井沢行きです。




小諸駅からしばらくの間は、JR小海線と並走します。
右奥の単線が小海線。



小諸駅を出て最初に見えるJR東小諸駅は小海線のみの駅で、しなの鉄道線は通過します。



東小諸駅の次、JR乙女駅を通過すると、小海線は南へと進路を変えていきます。
しなの鉄道線はこのまま東へ進み、一路軽井沢へ。


沿線風景に別荘やらペンションやらが見えてきたら、軽井沢駅はあとわずか。




午 後 5 時 5 5 分

長 野 県 北 佐 久 郡 軽 井 沢 町

し な の 鉄 道 軽 井 沢 駅




ついに避暑地・軽井沢へ!





レトロ調に装う駅舎を出て、旅は最終章へ・・・・・・。



【今回の乗車記録】

Sしなの鉄道 篠ノ井駅 1番線 16時25分発
しなの鉄道線 普通 小諸行き 3両
小諸駅 2番線 17時17分着

小諸駅 3番線 17時30分発
しなの鉄道線 普通 軽井沢行き 2両
軽井沢駅 1番線 17時55分着



*所要時間 1時間30分 (乗車時間 1時間17分 待機時間 13分)
*移動距離 65.1km
*運賃  1,440円





松代城・終章~真田邸にて

2019-02-06 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 3 時 1 6 分

長 野 県 長 野 市

真 田 邸



松代城の100名城スタンプが置いてある、真田邸【国指定史跡】の表門前。



せっかくここまで来たので、真田邸の中に入ることとしました。


文久2年(1862年)薩摩藩国父・島津久光によって推進された文久の改革により参勤交代の制度が緩和され、藩主の妻子が国元に帰ることが許されました。
松代藩9代藩主・真田幸教(ゆきのり)は、松代に入った義母・貞松院のため、元治元年(1864年)新たな御殿を松代城の南側に建てることとしました。
貞松院はその年の10月に新御殿に移り住みますが、翌年に参勤交代が旧に復すると、また江戸に戻ることとなりました。

その後新御殿は、藩主の座を退いた幸教の隠居所として用いられました。
明治以降は、真田家の別邸として使われていましたが、昭和41年(1966年)に松代町(現在は長野市)に譲られました。

昭和56年(1981年)4月、松代城の「(つけたり)」として、国の史跡指定を受けました。



入場料は、大人200円。
ちなみに、真田邸と文武学校との共通券は300円で、100円割引。
さらに、真田邸、文武学校と真田宝物館との共通券は500円で、こちらは200円も割引となります。

しかしながら、私が松代にいられる時間はあまりなさそうなので、今回は真田邸のみに入ることとし、200円を支払いました。



いざ、参らん!



「真田六文銭」の垂れ幕が掲げられている玄関
扉は格式高い舞良戸です。
玄関は訪問客や主人の見送り、出迎えの場所として利用され、普段はあまり用いられなかったようです。



通常の出入りに用いられたのは、玄関の脇にある勝手口
ですが現在は玄関がメインゲートとなっているようで、観光客も玄関から靴を脱いで上がることになります。


御殿建築の中は、大きく2つのゾーンに分かれています。
ひとつは、「公」



玄関から入ってまず目に入るのが、御役所の間です。
御殿お付きの藩士が事務を行う、公的な空間でした。
内装も、ふすまに模様が描かれてはいますがいたって質素。



「真田伊豆守 信之」の書が展示されています。
大河ドラマ「真田丸」において実際に使われた小道具だそうです。
作中では、父の真田昌幸、弟の真田信繁(幸村)に比べ、真田信幸(信之)は決して無能ではないんですが平凡。
だが温厚な人柄で、「乱世よりも泰平の世で活躍する」という描かれ方をしていますね。
信幸役の大泉洋先生が、水曜どうでしょうでもないのにボヤいているシーンが多くておもしろかったです。



手前が御次の間
読んで字のごとく、次に入る人が控えている部屋です。

その先は書院



藩主が執務を行う部屋です。
壁紙に紋様が入ったり、違い棚上のふすまに松が描かれたりと、他の部屋よりは華やかな造りになっています。
それでも公的な間なので、装飾は控えめな感じです。



回廊に現れる杉戸
御殿は4ヶ所の杉戸により、公的な空間と私的な空間とが仕切られているのです。

これより、御殿の私的空間へ。




こういう小さな庭が、案外好きだったりします。




まずは御寝所
藩主の寝室であり、床の間などの意匠はありません。
壁紙やふすまの模様が、松に変わっています。



御持仏の間
正面の扉の中に位牌が置かれていたと考えられています。



御化粧の間
藩主夫人など女性のための私的な部屋で、御殿のもっとも奥にありました。
小ぶりな床の間が据えられ、部屋から望める小さな庭もあります。

御居間・・・藩主の私的な部屋・・・は撮影し忘れてしまいました。



そのかわり高度に私的な空間の撮影に成功。
トイレの壁紙も、松です。





御殿からながめた「水心秋月亭」と名付けられたという庭園。




杉戸を経て公的な空間に戻り、玄関へ。






最後に外から真田邸を眺めて、松代城の登城はこれにて終了。





松代城・第2章~本丸

2019-02-06 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 2 時 5 0 分

長 野 県 長 野 市

松 代 城 跡



海津城に到着しました。



復元整備された太鼓門が見えます。
ママチャリは入口向かいの駐輪スペースに停めまして・・・



本丸の南側を守る太鼓門【復元】です。
前方に高麗門、後方に櫓門がひかえています。



前後の門と城壁で囲われた長方形の空間。
お城業界おなじみの枡形虎口でございますね。

そして通常では、枡形虎口の外側にある門を一の門、内側の櫓門を二の門と呼びます。
逆の場合もありますし、この太鼓門のように決まっていない場合もあるようです。



太鼓門を南東方向から見ました。画になりますねぇ~
松代城を紹介する書籍がよく採用する画が、本丸入口の太鼓門の画なのです。



太鼓門の正面に戻ります。
外の高麗門と内の櫓門は、それぞれの位置が互いにずれています。
侵入してきた敵軍の進路を曲げることによって、敵軍の勢いを削ぐねらいがあります。
枡形虎口の門は互いに直角の位置にあることが多く、ここ松代城の太鼓門はこのようにずれているだけのケースはあまり見たことがないように思えます。






本丸に入る前に、太鼓門の東側から。



太鼓門の南西側。
書籍での写真は、この画角がよく採用されるのだとか。
この画像は少し左に寄り過ぎていますけどね。



太鼓門をくぐり、本丸へ。



本丸の北西に立つ海津城址之碑
松代城は、はじめ海津城と呼ばれていました。


甲斐を制し信濃に勢力を伸ばした武田信玄は、その後の来たるべき上杉謙信との闘いに備え、この地に拠点となる城を築くこととしました。
『甲陽軍鑑』によると天文22年(1553年)、軍師・山本勘助によって築かれた城が海津城です。
信玄は、海津城を腹心・春日虎綱(高坂昌信)に守らせました。
以後、海津城は対上杉の重要拠点となっていきます。

信玄の子・武田勝頼甲州征伐によって滅亡すると、海津城は織田家臣・長可(ながよし)に与えられました。
しかしほどなく本能寺の変が起こると、旧武田領は無秩序状態に陥ります。
長可は武田の旧臣に裏切られ、自らの所領がある美濃へと逃げ帰ってしまいます。
本能寺の変で織田の脅威がなくなった上杉景勝は、空城となった海津城を占拠しています。

慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移ると田丸直昌、慶長5年(1600年)2月には森忠政が城主となりました。
忠政は、兄の長可が苦汁をなめさせられた信濃の所領を自ら望んだといい、「待ち望んでいた」ということで待城(まつしろ)と改名します。
そして兄を裏切った旧臣一族を探し出して皆殺しにする、重税を課したために勃発した一揆を皆殺しにするなどの暴政を行ったそうです。

慶長8年(1603年)森忠政は美作津山へと移り、松平忠輝が入ります。
忠輝は加増されて越後高田に移りますが、その家老・花井良成が城代となり、領内の整備を行いました。
元和2年(1616年)忠輝が改易され、松平忠昌が城主となり、このとき「待城」から「松城」に改名されました。
元和5年(1619年)忠昌が越後高田に移り、酒井忠勝が入ります。

そして元和8年(1622年)酒井が庄内藩に移ると、上田より真田信之が13万石で入りました。
以後明治維新まで、真田家の居城となりました。
正徳元年(1711年)幕命により松代城と名を改められました。

明治5年(1872年)に廃城。





石碑のそばにある石垣は、築城当時のものだそうです。
往時にはその上に戌亥(いぬい)隅櫓【現在はない】が立っていました。



戌亥隅櫓の櫓台に上がってみました。
西を望むと、本丸から土塁がのびています。
この土塁には、かつては漆喰塀がこしらえられていて、二の丸を取り囲んでいたそうです。
画像中央やや上に見えるくぼみは埋門で、土塁を掘って造ったトンネルがありました。

そして向こうに見える山こそ、上杉謙信が本陣を構えた妻女山です。



本丸を見てみると・・・樹木が茂っていてあまりよく見渡すことができませんでした。
かつては本丸に本丸御殿【現在はない】があったようです。
ですが度重なる水害を受け、江戸時代中期にはここを放棄。
南西の花の丸という曲輪に花の丸御殿【現在はない】が建築されたようです。



地上に下りました。
本丸には樹木が多く植わっていますね。


本丸の北側、



北不明門櫓門【復元】。内側からの画です。



北不明門高麗門【復元】。やはり内側。



北不明門櫓門、今度は表側から。



搦め手を守る北不明門の枡形虎口。
こちらは、門の位置関係が互いに直角になっていますね。



それでは松代城の本丸に戻って・・・「城攻め」



松代城、攻略! そして・・・



真田信之高坂昌信、登用!
海津城時代の名将と、松代城の名君をゲットできました。



さて、100名城スタンプはどこにあるのでしょう???



そういえば入口にこのような看板がありました。
これにしたがい、真田邸に向かうとしましょう。

  

路傍の掲示にしたがって、真田邸へ。



真田邸の表門に到着。その向かいに・・・



こんなところにありました。



日本100名城・第26番、松代城!
この旅唯一の100名城のスタンプをゲットできました。
絵柄は、本丸太鼓門本丸戌亥隅櫓石垣ですね。



真田邸の目と鼻の先まで来ましたので、せっかくだからと入場することとしました。





松代城・第1章~啄木鳥の逆

2019-02-03 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 2 時 2 2 分

長 野 県 長 野 市

川 中 島 古 戦 場



川中島の激戦が繰り広げられた八幡原古戦場を後にしました。

次に向かうは、武田軍の出陣元でもあった海津城です。
海津城は幾たびも名を変え、現在では松代城【国指定史跡】と呼ばれています。

松代の地に向かうには・・・
平成24年(2012年)までは長野鉄道屋代線というアクセス手段がありました。
しかしそれも廃線になってしまったため、今回はJR篠ノ井駅からレンタサイクルという手段を用いたわけです。


戦場の八幡原から、出陣元の海津城へ。
武田信玄山本勘助が、上杉政虎(謙信)と雌雄を決すべく進んだであろう道・・・
まさに啄木鳥戦法の本隊が進軍したであろうルートを、私はママチャリで逆に進むわけですね。



まずは古戦場が面する県道35号・長野真田線に出ましょう。



上信越自動車道・長野インター方向へと進みます。



「峠の釜めし」で有名なおぎのやさん。
碓氷峠を越えて、信濃国にも進出しています・・・って、JR上諏訪駅でも見かけましたけどね。



かなりの権勢を誇る?おぎのや長野店
群馬の片田舎にある本店よりも大きいんじゃないかと・・・。




そのまま進んでいくと、松代大橋へ。



流れる川は、日本一の川・千曲川
河口の日本海までは、225km。
千曲川は、下流の新潟県に入ると信濃川と名称を変えます。



橋詰には、橋名板とともに真田の六文銭、それに兜の前立てをかたどったであろうオブジェが据えられています。
松代の地は真田信之を藩祖とする松代藩の城下町、なので六文銭の装飾はわかります。

ですがこの兜の前立ては・・・???
私は最初、幸村の兜をモチーフとしているのかとも思いましたが・・・松代の地と幸村はまったく繋がりがないので、オブジェに採用されるのもヘンな話です。
調べてみると、信之&幸村の父・真田昌幸の兜をモチーフとしているようです。
昌幸さんも松代とはあまり繋がりはありませんが・・・藩祖の父ですから、まぁいいんじゃないでしょうかねぇ。



松代大橋から、千曲川の下流を眺めます。



こちらは上流側、橋の幅が広いため千曲川は見えません。
Google Map先生を参照しながら仰ぎ見ていた、おそらく妻女山
上杉政虎(謙信)が本陣を構え、海津城の様子を窺っていたのが、あの山なんですね。おそらく。


橋を渡って、



長野インターはスルーします。



上信越自動車道の高架をくぐって、長野インター南交差点に差しかかります。



交差点脇にある高札のとおり、右に曲がって国道403号に入ります。


国道403号を200メートルほど進み、



左折して県道35号真田方面へ進みます。


県道を進んでいくと、



長野鉄道屋代線の踏切の跡がありました。
もちろん、一時停止をする必要はありません。



逆Y字型の荒神町三叉路は、ヘアピンカーブせずにそのまま道なりに進みます。



セブンイレブン近くの中町交差点を右に曲がります。
「市営無料駐車場」と同じ方向ですね。

少し進むと、



旧松代駅駅舎へ。
駅舎は、現在観光案内所になっているようです。
そして敷設されていた線路ははがされて、市営駐車場になっているのだそうです。


そのまま進み、松代城下町のメインストリートに入ります。



いかにも由緒ありそうな、小山田さんのお宅。



小山田さん家、なんと小山田家住宅【登録有形文化財】という文化財になっているのです。
そしてこういう古民家にありがちな「旧」の文字がないのは、現在も小山田さんがこちらで暮らしておられるのだそうな。
そのため、小山田家住宅は一般公開はされていないのです。

小山田さんといえば、武田家臣の小山田信茂が有名ですが、こちらの小山田さんもその一族なのだとか。
しかしこちらの小山田さん、小山田茂誠(しげまさ)はなんとか生き延び、真田昌幸の長女を娶り、家老に列せられたそうです。
以後も松代藩の家老職を代々務めた、名門のお家柄だそうです。




左手に真田宝物館&松代観光案内所が見えたら、あと少し。




右手に石垣と櫓門が見えたら、海津城に到着です。



【今回の行程記録】



川中島古戦場史跡公園 14時22分発
県道35号・国道403号・県道388号経由
松代城跡 14時50分着

*所要時間 37分
*移動距離 4.2km





決戦!川中島

2019-02-03 | 公園・庭園


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 1 時 2 2 分

長 野 県 長 野 市

J R 篠 ノ 井 駅



JR篠ノ井駅の外に出ました。



長野駅松本駅に次いで利用者の多い篠ノ井駅。
この駅を出発地として、川中島の戦いへと赴きます。

戦場に向かうのに徒歩ではいささか厳しいので、篠ノ井駅周辺で馬を手配しなければなりませんなぁ。



駅からまっすぐのびる道にある、なんの変哲もない
このセブンイレブン篠ノ井布施高田店こそ、馬を貸してはくれませんが、レンタサイクルの窓口になっているのです。

料金は・・・
・8時から13時「午前の部」の5時間で、300円。
・12時から17時「午後の部」の5時間も、300円。
・2つの部は、1時間延長するごとに100円。
・8時から20時の「一日コース」は、600円。
となっています。同じ県でも料金はかなり違うものですねぇ・・・いやいや、これはとんだ失言でしたかな。



では、自転車の鍵だけを受け取ります。
自転車本体は、斜め向かいにある有料駐車場に停めてあり、鍵の番号と同じ番号の自転車を自分で出すシステムとなっています。



今回の私の相棒。
彼とともに、激戦の地・川中島を駆け抜けます!


川中島へのアクセスは、まず篠ノ井駅からの駅前道路である長野県道387号・清野篠ノ井停車場線を進みます。
そして最初の県道交差点で、県道77号・長野上田線を長野市街方向へ左折。



600メートルほどでこのような青看が現れるので、県道86号・戸隠篠ノ井線を松代方向に右折します。
この交差点・茶臼山公園入口交差点の「茶臼山」は、川中島合戦のおりに武田信玄が最初に布陣していた山だそうです。



しばらく進むと、国道18号との交差点に当たります。
青看でいうところの上越方向へ左折しましょう。



国道18号のオニギリ。
いよいよ戦場に入ったという感覚が・・・。



しばらく進み、この青看が現れたら・・・言うまでもなく右折です!



交差点名も古戦場入口 Kosenjo、そのまんまです。



県道35号・長野真田線に入って400メートル進むと・・・



八幡原古戦場に到着しました。



【今回の行程記録】



セブンイレブン篠ノ井布施高田店 13時30分発
県道387号・77号・86号、国道18号、県道35号経由
川中島史跡公園 14時01分着

*所要時間 31分
*移動距離 5.2km




永 禄 4 年 ( 1 5 6 1 年 ) 9 月 1 0 日

卯 の 刻 ( 午 前 8 時 ) ご ろ

信 濃 国 更 級 郡

決 戦 ! 川 中 島


南信濃を平定し北信濃の制圧を図る、「甲斐の虎」武田信玄
北信濃の諸豪族を支援し信玄を阻む、「越後の龍」上杉謙信

元禄3年(1560年)信玄は海津城を築城して最前線とし、城将に「逃げ弾正」の異名をもつ用兵の名手・高坂昌信を配しました。

翌4年8月、上杉政虎、兵13,000を率いて南下。
(※謙信さんは名乗りをたびたび変えていて、この当時は「政虎」だったんです)
そして8月16日、千曲川を渡り、海津城を見下ろす妻女山に本陣を構えます。
8月24日、武田信玄は高坂の注進を受け、兵22,000を率いて茶臼山に布陣します。
8月29日、上杉軍が動かないとみた武田信玄は、全軍を茶臼山から海津城に動かします。

・・・両軍は、妻女山海津城でにらみ合いを続けていました・・・

兵の数で優位にある武田信玄は上杉軍を殲滅すべく、軍師・山本勘助と重臣・馬場信房(信春)に作戦の立案を命じました。
そして献じられた作戦が、啄木鳥(きつつき)の戦法」でした。

海津城にある全軍を二分し、その一隊で妻女山を奇襲する。
妻女山の上杉軍は、奇襲に敗れて山を下りる、または奇襲を撃退しても戦力が落ちているので退却する。
疲弊している上杉軍を、あらかじめ平野に布陣していたもう一隊で迎撃する。


9月9日、作戦は実行に移されたのでした。

そして翌朝・・・武田信玄率いる8,000が本陣を構える八幡原
午前8時ごろ、あたりを包む霧が晴れると・・・



八幡原にいるはずのない、無傷の上杉軍13,000。
軍神ともいうべき上杉政虎は、前日の海津城から上がる炊煙の多さから、異変を察知したのです。
そして武田軍の裏をかき、夜明け前からひそかに千曲川を渡ってきたのでした。

武田軍は、鶴翼の陣
上杉軍は、車懸の陣

兵の数で劣勢に立たされた武田軍は大苦戦に陥ります。
信玄の弟・武田信繁、戦死。
軍師・山本勘助、戦死。
他にも名のある武将が次々と戦死していき、信玄その人にも危機が迫ります。

一方の奇襲部隊・12,000はもぬけの殻の妻女山に到達し、上杉政虎に出しぬかれたことを悟り、八幡原に急行します。

武田信玄の軍勢は、奇襲部隊の到達まで辛くも耐え抜きました。
今度は上杉軍が武田軍に挟まれるかたちとなり、劣勢に立たされます。


両軍入り乱れての大激戦の結果、上杉軍は死者3,000を出し、北へと退却。
武田軍は北信濃の覇権を確固としたものとしましたが、兵4,000と多くの将を失うなど、大きな犠牲を払ったのでした。





2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 2 時 0 1 分

川 中 島 史 跡 公 園




激戦から457年後、私はその跡地に足を踏み入れました。



古戦場に鎮座する八幡社
戦前・・・といっても川中島の戦い前ですが・・・そのころから鎮座していたようです。
八幡社が鎮座していたことから、このあたり一帯は八幡原と呼ばれていたそうです。
激戦に巻き込まれ神殿が破壊されてしまうのですが、戦後に武田信玄高坂昌信に命じて再建させました。
江戸時代を通じてこの地を治めた真田家も、この八幡社を手厚く保護したそうです。



八幡さまに、従来どおりのごあいさつをいたしました。


八幡社の社殿そばに立つ、ご神木とも見える大木。



この木は逆槐(さかさえんじゅ)と呼ばれています。
啄木鳥戦法によりこの地に進出した武田軍は、本陣を構えるに際して土塁を造成し、その土止めに(えんじゅ)の木を逆さに立てたそうです。
土止めの槐は、驚くべきことに芽吹いて根付き、大木に成長したのだといいます。







この地に残っている凹凸の地形。
案内看板によると、これらは決戦のおりに構えられた土塁の跡なのだといいます。


そして川中島といえば・・・



謙信・信玄一騎打ちの像!!
川中島に行くのは、半ばこの銅像を見に行くためといっても過言ではありません!

武田軍の啄木鳥戦法を看破し、猛烈に攻め立てる上杉軍。
防戦一方となりながらも、なんとか耐え忍ぶ武田軍。



上杉政虎は、愛馬・放生月毛を刈って旗本数騎とともに武田本陣へと乱入。
総大将の武田信玄に自ら3度斬りかかったといいます。



頭に鬼の前立てを擁する諏訪法性兜をかぶる武田信玄
床几(イス)に腰を据え、手に持つ軍配で3度の斬撃を払ったといいます。

そのうち武田の旗本が駆けつけたため、政虎は本陣を駆け抜けていったそうです。



「三太刀七太刀之跡」の碑が立っています。
一騎打ちの際に信玄は「山のごとく」動かずに政虎の太刀を受け止めたのですが、信玄は二太刀目で腕を、三太刀目で肩を負傷したといいます。
戦後に太刀を受け止めた軍配を見ると、なぜか太刀の痕が7筋あったのです。
軍神・政虎の神業を、後世は「三太刀七太刀」というようになりました。


川中島の決戦における信玄と謙信の一騎打ちは、残念ながら歴史上の記録には残っていません。
しかし信玄がこの戦いで負傷したこと、謙信がこの戦いで自ら太刀を振るって戦ったことは記録に残っているようです。
それだけこの戦いが、歴史上稀に見る激戦だったことを物語っています。


多数の死者を出した戦場なので、



首塚もありました。
海津城高坂昌信は、敵味方を問わず戦死した者をねんごろに葬ったそうです。
敵将であった上杉謙信はこの計らいに感激し、のちに塩止めをされた武田に対し「敵に塩を送る」ことで報いたそうです。



さてと、ここからは「ニッポン城めぐり」のお話。

このゲームに、武将をコレクションできるという機能があって、その武将にまつわる城を攻略する(城の近くで位置登録する)と登用できるのですが・・・
「古戦場では、参戦していた武将に会えるかもしれませんぞ」
というのがあるのです。

場所は、まさに戦場。

ということで、まだ家臣に加えていない武田信玄上杉謙信との出会いを祈願して・・・「城攻め」!!



・・・誰だよ?

残念ながら両雄には会えませんでしたが、その時の出会いを大事に想うこととして、佐久間安政さんを家臣に加えました。


八幡社に隣接する公園にて。

 

松代が生んだ幕末の傑物・佐久間象山の銅像が立っていました。
だから佐久間さんが登用できたのだろうか?
安政さんと象山さんの家系は関係があるらしいのですが、真偽は不明だそうです。



八幡原を後にして、こんどは松代へ。
信玄軍の進路をいわば逆にたどって、私は戦場を駆け抜けます。