鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

忍城・後章~治部少輔の苦悩

2018-11-25 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 後 4 時 3 8 分

埼 玉 県 行 田 市

秩 父 鉄 道 行 田 市 駅 前



行田の郷土料理・フライを食べたあとは、ひとまず行田市駅前にやってきました。
Google Map先生によると、駅前のロータリーに「埼玉県名発祥の地行田の碑」なるものがあるとか。
ちょいとばかりに興味を惹かれた私は、ママチャリを走らせてみると・・・



これ??
この柱時計が「埼玉県名発祥の地行田の碑」なのでしょうか?
たしかに「埼玉~」とは記されていますが、これは碑(いしぶみ)ではありません。
こっちは「なんで埼玉県というネーミングがされたのか」という由来を知りたかったのですが、そういった内容が記されているものは付近に見当たりません。



「さきたま古墳 2.6Km」
さきたま古墳・・・埼玉県というネーミングに深い関係がありそうなところですね。
そういえばこの古墳のあたりに、忍城水攻めの際に石田三成が本陣を構えたそうです。




「浮き城の街 行田」
・・・・・・私はまだ浮き城らしい場面をまったく見ていませんが・・・・・・。




午 後 4 時 5 1 分

水 城 公 園


行田市駅から1km強、水城公園



忍城は、付近の利根川から水を引いた沼沢地にありました。



天然の水濠を擁した堅城であり、「関東七名城」のひとつに数えられています。
(残りの6つは、河越城(川越城)、厩橋城(前橋城)、金山城、唐沢山城、宇都宮城、太田城。太田城の代わりに多気城が挙げられることも)



その沼沢地は、廃城後に多くが埋め立てられてしまいました。



水城公園は、かつての忍城を取り囲んでいた沼沢地の残存部分を公園化したものだそうです。





忍城の登城は、これにて終了~!




午 後 5 時 1 0 分

さ き た ま 古 墳


これからは、忍城を攻略しようとした石田三成の事蹟を追っていきます。



やってきたのは、水城公園から約2.5km離れたさきたま古墳公園





入口から桜並木が続いていますが・・・



この並木が石田堤の跡なのだそうな。



桜並木の先にある丸墓山古墳【国指定史跡】。
円墳の中では日本最大規模のもので、頂上まで登ることのできる数少ない古墳なのだとか。
この丸墓山古墳の頂上に石田三成は陣を張り、忍城を望みつつ堤防工事の指揮をとったのでした。


豊臣秀吉が20万超の軍勢をもって起こした小田原征伐
秀吉率いる本隊は小田原城へと進軍。
対する北条氏政・氏直は、諸将を小田原城に召集して防御を固めます。
上杉景勝真田昌幸ら近隣の諸将率いる別働隊は、八王子城鉢形城などの周辺を各個撃破していきました。
忍城も、城主・成田氏長は小田原へ参陣してしまい、叔父の泰季やすすえといとこの長親ながちかが留守を預かることとなりました。

天正18年(1590年)6月4日、石田三成・大谷吉継・長束なつか正家らの軍勢が忍城へと着陣しました。
また常陸国の大名・佐竹義宣らも加わります。
しかし忍城は天然の水濠を擁する堅城、大軍勢をもってしても攻め落とすことができませんでした。

三成は忍城を望める丸墓山に陣を張り、付近の地形を研究します。
そして、秀吉が行った天正10年(1582年)の備中高松城の水攻めを参考に、忍城を水攻めにすることを考案しました。


備中高松城は周辺が盆地であったのに対し、忍城は辺り一面が平野。
忍城が水攻めに適さないのは明らかなのに、水攻めを選ぶあたり三成は戦下手・・・

・・・というのはフィクションであり、三成も水攻めにはきわめて消極的であったようです。
水攻めにこだわったのは、三成でなく秀吉であったようです。



三成は、ここ丸墓山を拠点に工事を始めました。
私は、丸墓山で「城攻め」



遠くの羽生城を攻略できました・・・が、石田治部どのはいらっしゃいませんねぇ。


さきたま古墳公園に隣接するさきたま史跡の博物館にて。



本物の埼玉県名発祥之碑です。
このあたりは律令制が成立した時代から、「前玉さきたま郡」が置かれていたようです。
明治4年(1872年)11月14日の太政官布告により、入間県と埼玉県が置かれました。
「埼玉」の名称が採用されたのは、当時の埼玉郡が領域内で最も広かったからだそうです。




午 後 5 時 3 5 分

埼 玉 県 鴻 巣 市

石 田 堤 跡


さきたま古墳から約3kmほど進み、いつの間にか行田から鴻巣へ。







石田堤がよく残っています。


豊臣秀吉の強い意向を受け、不本意ながら水攻めにとりかかる石田三成
しかしそこは秀吉配下随一のスーパー官僚というだけあって、28kmもの堤防をわずか一週間で築き上げたといいます。
堤防といっても、小高い地形を巧みにつなぎ合わせたものだったようです。





反対側からの画。
堤防の感じがよく出ています・・・?
このあたりの堤は、もとの地形に1~2メートルほどの盛り土を加えたものだそうです。


こうして完成した、長大な堤防。
あとは付近の利根川荒川から水を引くだけ。
しかし水を引いても、忍城の本丸は水没しません。
このことより、「忍の浮き城」の異名が出たといいます。





石田堤のそばを流れている忍川



かかっている橋は堀切橋です。
このあたりで石田堤が崩壊して水が流れ込み、豊臣方に多くの死者が出てしまったそうです。
一説では籠城方がひそかに仕掛けをし、堤防を破ったともいいます。


忍城の水攻めは開始されたものの、目覚ましい効果は上がりませんでした。
また、堤防の決壊で豊臣軍に死者が出る始末。
こうして水攻めは失敗に終わった・・・のではなく、豊臣軍はこの後も継続して堤防工事を行っていたようです。

忍城攻防戦の後半は、浅野長吉(長政)、上杉景勝、真田昌幸らの援軍も加わります。
指揮者は三成から長吉に代わり、一度力攻めを行い成果を上げます。
しかし秀吉はその成果を賞賛しつつもあくまで水攻めを厳命、大軍勢も引き続き堤防工事に従事しました。
秀吉は「武蔵一帯を視察に赴く。その際に水攻めの堤防も見に行くから、しっかり工事しとけよ」なんて文を送っています。



史跡として残っている石田堤の見学は、ひとまず終了。
この場にて「城攻め」してみると・・・・・・石田さんはいらっしゃいませんでした。




午 後 6 時 0 9 分

埼 玉 県 行 田 市

J R 行 田 駅




約5km弱移動し、JR行田駅に戻ってきました。
忍城の登城旅も、終焉に近づいてきています。


攻略開始から1ヶ月経過し、なおも陥落しなかった忍城。
その戦いにも、終焉の時が訪れます。
北条家の棟梁・北条氏直は、秀吉の軍師・黒田官兵衛の説得に応じ、小田原城を開城して降伏します。
忍城は、小田原に詰めていた当主・成田氏長の命により開城することとなりました。

小田原開城まで落城しなかった、唯一の城・忍城。
この戦いにより石田三成は、世間より「戦下手」の烙印を押されてしまいます。
しかし、忍城水攻めに協力した上杉景勝、真田昌幸、佐竹義宣ら多くの大名が、のちの関ヶ原の戦いでは石田方に味方しているのです。



石田治部の苦悩を偲びつつ、レンタサイクルを返却。



「返却時刻の午後4時を大幅に過ぎまして、どうもすみませんでした」
自転車を所定の場所に戻し、カギを案内所のポストに投函し、忍城の旅は終幕。





深町フライ店

2018-11-25 | グルメ


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 後 3 時 4 7 分

埼 玉 県 行 田 市

行 田 市 郷 土 博 物 館



行田の街をもうひと回りするつもりだった私は、朝の唐揚げそば以来の食事をとるべく、アイフォンさんに教えを乞います。
すると、

「ゼリーフライ」


というものがご当地のB級グルメとして食べられるそうな。
「ゼリーフライ」・・・某ケンミン番組かなんかでやってたなぁ・・・コロッケだかメンチカツだかわからないけど、とにかく揚げ物だったかと。
まかり間違っても、洋菓子のゼリーを揚げたやつではなかったかと。

きちっとした食事ではないにしても、ここで小腹でも満たしておきたいところ。
さらにアイフォンさんに教えを乞い、ゼリーフライを食べられそうなお店を当たることとしました。


郷土博物館から近い店から当たっていき、2軒目のお店が・・・



「深町フライ店」です。
幹線道路から外れた住宅街の中にあって、現代的なマンションの1階に構えているお店です。
こぢんまりしたお肉屋さんや総菜屋さんのような店構えなのかな~と勝手に思っていた私。
その予想に反し、中で食事のできるお店のようです。



店内に入ると、活気のある女将さんが切り盛りしているお店でした。
そしてメニューを拝見すると・・・

「ふらい」


この店ではゼリーフライを「ふらい」というんだろうか、あるいはゼリーフライを単に「ふらい」と略しているのだろう。
そう思い、迷うことなくふらい 大をオーダーします。

女将「しょうゆ味とソース味、どちらにしますか?」

ここのお店は、揚げ物に最初からソースやら醤油やらをつけてから提供するのか?
まあいいやと思い、ソース味をオーダーしました。


5分後。



??????
揚げ物ではありません!
これはゼリーフライではありません!

なんともいえないリアクションをしている私に対して、女将はこう言います。

女将「揚げ物が出て来ると思ったでしょ?
   『ふらい』と『ゼリーフライ』は別物なんですよ」

私のように、両者を同じものだとカン違いする観光客は多くいるのでしょう。
女将は言い慣れたセリフとともに、こう付け加えます。

女将「でも良いカン違いになると思いますよ」

味には自信ありといった感じの女将。
私も意を決して、ふらいを賞味。



ふらい、うまい!
中にある豚肉の旨味をお焼きが吸収して、そこにソースの風味が利いています。
女将のセリフも納得できるうまさです。


フライは、埼玉県北部の鉄板焼料理をいいます。
水で溶いた小麦粉を鉄板で焼いた料理で、お好み焼きとクレープの中間的な食べ物と表されます。
小麦粉を鉄板上で薄く延ばし、豚肉などの具材を載せて焼きます。
焼き上がりにウスターソースや醤油を表面に塗り、青のりをふりかけてできあがりです。

由来は大正時代、行田の足袋工場で働く労働者におやつとして供されたのがきっかけとされています。
当時はフライパンで焼いていたことから「フライ焼き」と呼ばれ、のち一般家庭に普及していくうちに「フライ」と略されるようになったそうです。



もとは労働者の小腹を満たす料理だったので、昼飯を抜いた私にとってはまだまだ不足といったところ。そこで・・・



ふらい 大、おかわり!
今度は味つけをしょう油味にしてみました。
2枚目のふらい登場と同時に、

女将「お酢をかけると劇的に変わりますよ~」

というアドバイスをいただきました。
しょう油味はソースとは違った香ばしさがありますが、なかなかに塩辛い印象です。
そこで女将の言にしたがい、私の苦手なお酢を敢えてかけてみます。
すると・・・変わる、変わる!
塩辛いふらいも美味しかったのですが、お酢をかけた後のふらいの、まぁ~まろやかなこと!
女将の言葉通りの劇的な変化です。
いうまでもなく美味しゅうございました。



大きなふらいを2枚食べ、さすがに満腹感を覚えた私は、このままお店を出ました。
ここのふらいを食べるためだけに行田に寄り道してもいい、そう思えるくらいの満足感でした。





忍城・前章~のぼう様の浮城

2018-11-25 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 後 2 時 5 0 分

埼 玉 県 行 田 市

J R 行 田 駅



この日ラストの続日本100名城は、第118番・忍城おしじょう

忍城の最寄駅は、秩父鉄道線行田です。
私が下り立ったJR行田駅は行田市の南西部のはずれにあって、忍城までの道のりは4kmほどあります。
しかし行田市駅までは、いったん行田駅をスルーして熊谷駅まで進み、そこから秩父鉄道線に乗り換えなければなりません。
スマホさんで時刻表検索をしてみても、行田市駅に向かうのは少なからぬ時間のロスを招いてしまいます。



そこで今回もレンタサイクルを利用します。
行田市の観光案内所がJR行田駅のそばにあって、そこで自転車を借りることができるのです。しかも無料!
ただ利用できる時間が夕方4時まで・・・なのですが、忍城に行ってとんぼ返りしてもギリギリの時刻。
観光案内所の淑女は言いました。

「万が一(←ここ重要)夕方4時を過ぎましたら、自転車はもとの場所に返して、カギはポストに入れてください」

というわけで、午後4時に自転車を返却できるよう努力することとして(←ここ重要)、忍城に向けて出発します。



まず、JR行田駅のロータリーからのびる道路をひたすら進んでいきます。
駅前の国道17号・中山道をスルー。
そのまま進むと、今度は道幅がとても広い国道17号バイパスに当たりますが、ここもスルー。
そして、バイパスの次の信号を左折します。
あまり目立たないのですが、忍城の方向を示す案内看板もあります。

駅から続く幹線道路から住宅街を通る生活道路に入ったら、あとはそのまま直進するだけ。
すると・・・



忍城のシンボル・模擬三階櫓が突如現れたのでした。




午 後 3 時 1 2 分

行 田 市 郷 土 博 物 館


模擬三階櫓がある行田市郷土博物館へ。



画になりますなぁ~。



こちらが郷土博物館の入口、三階櫓へはこちらから入ります。


その前に博物館前で「城攻め」を・・・



忍城の攻略、成れり!



成田氏館も攻略できました・・・おやおや、誰がいるのか?



「のぼうの城」御一行様、推参!
石田三成率いる豊臣軍2万に徹底抗戦した者たちだけあって、なかなかの能力値を誇りますね。


それでは館内へ。
展示は、江戸時代までの忍城にまつわる歴史と、明治以降のたび(足袋)生産地となった行田の2つのテーマが中心となっていました。
忍城の歴史では、忍城水攻めがクローズアップされていました。

・・・残念ながら撮影禁止のため、画像はありません。


忍城は、文明10年(1478年)ごろに山内上杉氏配下の豪族・成田正等しょうとう顕泰あきやす父子によって築城されました。

永禄2年(1559年)上杉謙信が関東に遠征してくると、成田氏の当主・長泰はこれに従いましたが、謙信によって鶴岡八幡宮で恥辱を受けたために北条氏康に鞍替えしました。
永禄6年(1563年)長泰は謙信の猛攻に屈し、家督を嫡男の氏長に譲ります。
氏長も当初は上杉方でしたが、やがて北条氏が関東に勢力を拡大してくると、北条氏に鞍替えしました。

天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に攻め込んでくると、城主であった氏長は小田原城にて籠城することとなります。
忍城は叔父の泰季やすすえといとこの長親ながちかが守ることとなり、石田三成率いる2万の大軍に対し2,000の兵で籠城。
三成は忍城を水攻めにすべく長大な堤防を造成しましたが、忍城は落城せず、小田原城の降伏の後に開城することとなりました。
このことが「忍の浮き城」という別名の由来になっています。
忍城攻防戦の後、成田氏は下野国(栃木県)烏山へと移ることとなり、忍城を含む関東一帯は徳川家康の領国となりました。

以後松平氏を経て阿部氏が城主となり、184年にわたり忍10万石を支配しました。

明治維新においても戦火を免れ、明治6年(1873年)の廃藩置県の後は忍県の庁舎がおかれました。
しかし同年競売にかけられて、忍城は解体されてしまったのです。



別棟の三階櫓へ。
「忍城鳥瞰図」という史料をもとに、鉄筋コンクリート造で外観復興されました。
しかし建てられた位置は史実とは異なっているため、お城業界では「模擬櫓」ということになります。



三階櫓の最上階から、北を眺めます。
遠くには群馬県の名山・赤城山がそびえています。



西には、秩父連峰
天気が良ければ富士山も見えるようですが、この日は雲が多かったため見えませんでした。



南側。一軒家の住宅がぎっしり。



東側。行田の中心街が見渡せます。
かつての忍城の面影は、このようにほとんど消えてしまっています。
行田の街が発展してきたために、三階櫓を史実とは異なる場所に復興せざるを得なかったのかもしれませんね。



残るは100名城スタンプ。
公式ガイドによると、この郷土博物館の中にあるとのことですが・・・



スタンプは入口にある2枚の自動ドアの間にありました。
意外と見落としがちな場所ですね。



118番、忍城!



絵柄はおそらくこちらでしょうか。
一番画になりそうな画角を、スタンプも採用しているようです。



忍城の登城はいちおう達成したし、スタンプも回収しましたが、はっきりいって消化不良。
「忍の浮き城」だって? ぜんぜん浮いてないじゃないか!
そういうわけで、行田の街をもうひと回りすることとしました。





唐沢山城へ行く予定でしたが・・・

2018-11-25 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 後 1 2 時 1 6 分

茨 城 県 笠 間 市

J R 笠 間 駅



続日本100名城・第112番、笠間城のスタンプをゲットし、



JR笠間駅に戻ってきました。



紆余曲折はありましたが、茨城県内のすべての100名城スタンプをゲットすることができました。
したがって今度乗車する電車は、西へ向かう12時27分発 水戸線 普通 小山行きです。



朝の大きなダイヤ乱れは収束に向かい、水戸線においては定刻どおりの運行となっていました。



中久喜城攻略!
ここで位置ゲーム「発見!ニッポン城めぐり」を起動。
水戸線沿線で昨年末に攻略し損ねた中久喜城を、小田林駅・小山駅間でゲットできました。




午 後 1 時 2 0 分

栃 木 県 小 山 市

J R 小 山 駅


水戸線に乗車すること1時間弱、定刻どおり13時20分、小山駅に到着しました。

小山から最も近い100名城・続100名城は、まず足利氏館【国指定史跡】です。
最寄駅の足利駅は、小山駅から両毛線で8駅です。
しかしここは、不完全な登城ながら一度訪れたことがあるので、除外させていただきます。

小山から近い城、お次は唐沢山城【国指定史跡】。
JR線の最寄駅である佐野駅は、やはり両毛線で5駅目。
「関東七名城」のひとつに挙げられ、軍神・上杉謙信も攻めあぐねた名城です。
この日の城めぐりでは、唐沢山城こそ真打ちと位置付けておりました。

小山駅から、いざ!

そのように意気込む私を、ふたつの問題点が絡んできました。

ひとつは、天気の問題
ここのところ北関東の山沿い地域はゲリラ豪雨が襲来することが多く、この日の天気もどうもあやしい模様。
豪雨に遭うのはイヤですが、それよりもカミナリ!!はもっとイヤです。

そしてもうひとつは、笠間城で思い知ったヤブ蚊
笠間城も山城でしたが、唐沢山城もまた、山城。
この日は虫よけスプレーの準備はしておりませんでした。

そこで・・・



フレキシブルな対応。
13時22分発 宇都宮線 普通電車 逗子行きに乗り換えることとしました。



宇都宮線沿線は、「関八州城攻め旅」のルートから除外されていましたので、この機会を逃さず「城攻め」を行います。


13時32分、野木駅小谷こや(栃木県小山市)と古河城(茨城県古河市)を攻略、この日最初の浪人・・・



小笠原爆弾 小笠原貞慶を登用!
彼は、「信長の野望・革新」でその能力に見合わない家宝をふたつも持っているので、プレイヤー君主に俸禄をMAXまで上げられてから家宝をボッシュートされることが多いのだとか。
そして「高給取りの凡将」となった彼をわざと相手国に引き抜きさせて、相手国の財政を破たんさせるのに用いられることから、「小笠原爆弾」の異名をもつのだそうです。
そんな彼は信濃国(長野県)出身ですが、武田信玄に領国を追われ、めぐりめぐって徳川家康の家臣となり、最後は古河の地で没したそうです。

そういえば、「村雨の人」足利義氏さんも古河公方の地位にあったお人。
家宝をボッシュートされる方々に縁のある、そんな古河の地へ進みます。

13時36分、古河駅古河公方館(茨城県古河市)を攻略、梁田晴助足利晴氏を登用。




利根川をふたたび渡り、埼玉県へ。


13時47分、東鷲宮駅幸手さって(埼玉県幸手市)を攻略。
13時50分、久喜駅足利政氏館(埼玉県久喜市)を攻略。
14時01分、蓮田駅伊奈城(埼玉県北足立郡伊奈町)と江ヶ崎城(埼玉県蓮田市)を攻略。
14時07分、土呂駅土呂陣屋(さいたま市北区)、大和田陣屋(さいたま市見沼区)と寿能城(さいたま市大宮区)を攻略。




午 後 2 時 1 1 分

さ い た ま 市 大 宮 区

J R 大 宮 駅


埼玉県最大のターミナル・大宮駅に到着しました。
ここからは、



高崎線 普通電車 高崎行きに乗り換えます。
発車予定時刻は14時11分でしたが、朝の人身事故の影響が残っていたのか、6分の遅れで発車しました。
本来ならば14時21分発の電車を利用する予定でしたので、少しだけ早く到着することができそうです。


高崎線沿線も「城攻め」空白地帯だったので、この機会に・・・

14時30分、北上尾駅三ツ木城(埼玉県桶川市)と石戸城(埼玉県北本市)を攻略。
14時34分、桶川駅菖蒲城(埼玉県久喜市)を攻略。
14時38分、北本駅源経基館(埼玉県鴻巣市)と箕田館(埼玉県鴻巣市)を攻略。



14時46分、吹上駅石田堤(埼玉県鴻巣市)を攻略・・・って、城じゃねぇよ!!
でもまぁいいか、浪人はもしかして佐和山城主のあの方かな・・・



あぁ、忍城おしじょうのあなたでしたか・・・ともかく、成田長忠さんを登用。
もう一度「城攻め」をすると・・・



忍城主のお歴々を登用。
成田長泰は一度上杉謙信に従うも、鶴岡八幡宮での関東管領叙任のさいに恥辱を受けたため北条氏康についたといいます。
その子・氏長のときに豊臣秀吉小田原攻めが勃発。
氏長は小田原城に籠城し、氏長のおじ・泰季やすすえ忍城防衛戦の指揮を執りました。
秀吉の天下統一が成ると、成田氏長とその子・長忠は蒲生氏郷の家臣、のち下野国(栃木県)烏山の領主として大名に復帰しました。
代わって、徳川家康の四男・松平忠吉が忍城10万石の領主となりました。


この日最後のお城を忍城と定め、



JR線の最寄駅・行田駅で下車しました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 笠間駅 2番線 12時27分発
水戸線 普通 小山行き 5両
小山駅 15番線 13時20分着

小山駅 12番線 13時22分発
宇都宮線(東北本線) 普通 湘南新宿ライン・横須賀線直通 逗子行き 15両
[JU07] OMY 大宮駅 4番線 14時11分着

[JU07] OMY 大宮駅 8番線 14時17分発(遅れ6分)
高崎線 普通 高崎行き 15両
行田駅 2番線 14時50分着(遅れ3分)

*所要時間 2時間23分 (移動時間 2時間15分 乗換時間 8分)
*移動距離 123.2km
*運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は、IC運賃2,268円)