行田の郷土料理・フライを食べたあとは、ひとまず行田市駅前にやってきました。
Google Map先生によると、駅前のロータリーに「埼玉県名発祥の地行田の碑」なるものがあるとか。
ちょいとばかりに興味を惹かれた私は、ママチャリを走らせてみると・・・
これ??
この柱時計が「埼玉県名発祥の地行田の碑」なのでしょうか?
たしかに「埼玉~」とは記されていますが、これは碑(いしぶみ)ではありません。
こっちは「なんで埼玉県というネーミングがされたのか」という由来を知りたかったのですが、そういった内容が記されているものは付近に見当たりません。
「さきたま古墳 2.6Km」
さきたま古墳・・・埼玉県というネーミングに深い関係がありそうなところですね。
そういえばこの古墳のあたりに、忍城水攻めの際に石田三成が本陣を構えたそうです。
「浮き城の街 行田」
・・・・・・私はまだ浮き城らしい場面をまったく見ていませんが・・・・・・。
行田市駅から1km強、水城公園。
忍城は、付近の利根川から水を引いた沼沢地にありました。
天然の水濠を擁した堅城であり、「関東七名城」のひとつに数えられています。
(残りの6つは、河越城(川越城)、厩橋城(前橋城)、金山城、唐沢山城、宇都宮城、太田城。太田城の代わりに多気城が挙げられることも)
その沼沢地は、廃城後に多くが埋め立てられてしまいました。
水城公園は、かつての忍城を取り囲んでいた沼沢地の残存部分を公園化したものだそうです。
忍城の登城は、これにて終了~!
これからは、忍城を攻略しようとした石田三成の事蹟を追っていきます。
やってきたのは、水城公園から約2.5km離れたさきたま古墳公園。
入口から桜並木が続いていますが・・・
この並木が石田堤の跡なのだそうな。
桜並木の先にある丸墓山古墳【国指定史跡】。
円墳の中では日本最大規模のもので、頂上まで登ることのできる数少ない古墳なのだとか。
この丸墓山古墳の頂上に石田三成は陣を張り、忍城を望みつつ堤防工事の指揮をとったのでした。
豊臣秀吉が20万超の軍勢をもって起こした小田原征伐。
秀吉率いる本隊は小田原城へと進軍。
対する北条氏政・氏直は、諸将を小田原城に召集して防御を固めます。
上杉景勝や真田昌幸ら近隣の諸将率いる別働隊は、八王子城、鉢形城などの周辺を各個撃破していきました。
忍城も、城主・成田氏長は小田原へ参陣してしまい、叔父の
天正18年(1590年)6月4日、石田三成・大谷吉継・
また常陸国の大名・佐竹義宣らも加わります。
しかし忍城は天然の水濠を擁する堅城、大軍勢をもってしても攻め落とすことができませんでした。
三成は忍城を望める丸墓山に陣を張り、付近の地形を研究します。
そして、秀吉が行った天正10年(1582年)の備中高松城の水攻めを参考に、忍城を水攻めにすることを考案しました。
忍城が水攻めに適さないのは明らかなのに、水攻めを選ぶあたり三成は戦下手・・・
・・・というのはフィクションであり、三成も水攻めにはきわめて消極的であったようです。
水攻めにこだわったのは、三成でなく秀吉であったようです。
三成は、ここ丸墓山を拠点に工事を始めました。
私は、丸墓山で「城攻め」。
遠くの羽生城を攻略できました・・・が、石田治部どのはいらっしゃいませんねぇ。
さきたま古墳公園に隣接するさきたま史跡の博物館にて。
本物の埼玉県名発祥之碑です。
このあたりは律令制が成立した時代から、「
明治4年(1872年)11月14日の太政官布告により、入間県と埼玉県が置かれました。
「埼玉」の名称が採用されたのは、当時の埼玉郡が領域内で最も広かったからだそうです。
さきたま古墳から約3kmほど進み、いつの間にか行田から鴻巣へ。
石田堤がよく残っています。
豊臣秀吉の強い意向を受け、不本意ながら水攻めにとりかかる石田三成。
しかしそこは秀吉配下随一のスーパー官僚というだけあって、28kmもの堤防をわずか一週間で築き上げたといいます。
堤防といっても、小高い地形を巧みにつなぎ合わせたものだったようです。
反対側からの画。
堤防の感じがよく出ています・・・?
このあたりの堤は、もとの地形に1~2メートルほどの盛り土を加えたものだそうです。
こうして完成した、長大な堤防。
あとは付近の利根川や荒川から水を引くだけ。
しかし水を引いても、忍城の本丸は水没しません。
このことより、「忍の浮き城」の異名が出たといいます。
石田堤のそばを流れている忍川。
かかっている橋は堀切橋です。
このあたりで石田堤が崩壊して水が流れ込み、豊臣方に多くの死者が出てしまったそうです。
一説では籠城方がひそかに仕掛けをし、堤防を破ったともいいます。
忍城の水攻めは開始されたものの、目覚ましい効果は上がりませんでした。
また、堤防の決壊で豊臣軍に死者が出る始末。
こうして水攻めは失敗に終わった・・・のではなく、豊臣軍はこの後も継続して堤防工事を行っていたようです。
忍城攻防戦の後半は、浅野長吉(長政)、上杉景勝、真田昌幸らの援軍も加わります。
指揮者は三成から長吉に代わり、一度力攻めを行い成果を上げます。
しかし秀吉はその成果を賞賛しつつもあくまで水攻めを厳命、大軍勢も引き続き堤防工事に従事しました。
秀吉は「武蔵一帯を視察に赴く。その際に水攻めの堤防も見に行くから、しっかり工事しとけよ」なんて文を送っています。
史跡として残っている石田堤の見学は、ひとまず終了。
この場にて「城攻め」してみると・・・・・・石田さんはいらっしゃいませんでした。
約5km弱移動し、JR行田駅に戻ってきました。
忍城の登城旅も、終焉に近づいてきています。
攻略開始から1ヶ月経過し、なおも陥落しなかった忍城。
その戦いにも、終焉の時が訪れます。
北条家の棟梁・北条氏直は、秀吉の軍師・黒田官兵衛の説得に応じ、小田原城を開城して降伏します。
忍城は、小田原に詰めていた当主・成田氏長の命により開城することとなりました。
小田原開城まで落城しなかった、唯一の城・忍城。
この戦いにより石田三成は、世間より「戦下手」の烙印を押されてしまいます。
しかし、忍城水攻めに協力した上杉景勝、真田昌幸、佐竹義宣ら多くの大名が、のちの関ヶ原の戦いでは石田方に味方しているのです。
石田治部の苦悩を偲びつつ、レンタサイクルを返却。
「返却時刻の午後4時を大幅に過ぎまして、どうもすみませんでした」
自転車を所定の場所に戻し、カギを案内所のポストに投函し、忍城の旅は終幕。