鬼ヅモ同好会GW大会が終わって後日――。
私は週末に実家に帰り、亡父の墓参りを済ませました。
そして本拠地の柏へ戻る途上、私は鹿島神宮に立ち寄りました。
本来ならば正月三が日に初詣をするところでしたが諸般の事情でかなわず、後れること5月下旬に詣でることにしたのです。

まずは大鳥居と社号標。
以前の大鳥居は御影石でできていましたが、東日本大震災で倒壊してしまいました。
境内にあった杉の巨木で製作され、平成26年に再建されました。

手水舎でみそぎをなし、

楼門【国指定重要文化財】へ。
鹿島神宮の楼門は、水戸藩初代藩主・徳川頼房によって奉納されました。
頼房は三代将軍・徳川家光の病気平癒の祈祷を鹿島神宮に依頼し、家光が快方に向かったことから、頼房が楼門を奉納したそうです。
「鹿島神宮」の扁額は大きさ畳1枚分で、筆蹟は東郷平八郎の直筆によるものだそうです。
その迫力から、「日本三大楼門」にあげられています。
(ほか2つは、阿蘇神社の楼門と
楼門をくぐると、参道の右手側に

拝殿【国指定重要文化財】が建ちます。
拝殿を仰ぎ見るこの場所は・・・・・・

宝物館です。
おおぅ、なんと宝物館は長期のお休みとなってしまいました・・・。

あらためまして、拝殿です。
こちらでいつもどおり、さる御方の健康を祈願。
鹿島神宮の御祭神は、
『日本書紀』では「武甕槌」、『古事記』では「建御雷」と表記されていますが、ここでは日本書紀における事蹟に従うこととします。
父神・
しかし火神・
これに怒った伊弉諾は、軻遇突智を斬り殺してしまいます。
このときの軻遇突智の血から、武甕槌が生まれたといいます。
のちに
大己貴神は広矛を献上して国を譲る意思を示しましたが、ふたたび猜疑心を示したため、高天原の神々は国譲りの見返りに巨大な宮殿を建てるとして大己貴神を説得しました。
これが現在の出雲大社なのだといいます。
また『古事記』では大国主の子神・
建御雷は建御名方をぶん投げて追いつめ、建御名方は現在の諏訪で降伏をしました。
建御名方は以後信濃国の開拓に努め、諏訪大社の御祭神とされています。
またこのときの力比べが、相撲の起源とされています。
さらに後世、神武天皇の東征では、熊野で苦戦する神武天皇に
現在では雷神、武神、軍神として信仰されています。
古くは九州地方の守備にあたる
このことから、旅立ち、門出のことを「鹿島立ち」と呼ぶようになったそうです。
そこで今回は、とある闘いの勝利祈願をいたします。

拝殿の向こうにそびえ立つ御神木。

拝殿の横から失礼して・・・
幣殿・石の間・本殿【国指定重要文化財】と御神木。
幣殿と石の間はよく見えないですね・・・。
拝殿・幣殿・石の間・本殿の4棟からなる社殿は、元和5年(1619年)に2代将軍・徳川秀忠によって寄進されたものです。
奥の本殿にて、御祭神の武甕槌大神をお祀りしています。
御神木は鹿島の杜では最古かつ最大の杉の木で、樹齢は約1,300年を数えるのだとか。
拝殿の脇には、2番目に大きい「二郎杉」なる木もあるのですが・・・私はスルーしてしまいました。

拝殿の向かいに建つのは、仮殿【国指定重要文化財】です。
将軍秀忠が社殿を寄進するさい、ひとまずすでにあった社殿から御祭神をお遷しする必要がありました。
社殿の寄進に先だって元和4年(1618年)に奉納されたのが、仮殿です。

神宮の杜をさらに進んでいきます。

ちょいと獣臭い鹿園。
以前は金網1枚で隔てられていたのですが、現在はその外側に囲いができてしまい、売店でエサを買わないと鹿さんに近寄れません。
鹿は神の使いとされています。
国譲りの際に下界に下った武甕槌大神を先導したのが、鹿であったそうです。
奈良の春日大社が創建された際は、鹿島の御祭神を鹿が担い手となってお遷ししたそうです。
このときの鹿が、現在の奈良公園の鹿の祖先になったとか。

さらに進むんで、奥宮【国指定重要文化財】へ。
慶長10年(1605年)徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した御礼として寄進されたものです。
はじめはこの社殿が本殿であり、場所も本殿と同じ位置にありましたが、子の秀忠があらたな社殿を寄進するにあたり、奥に曳いてお遷ししたものです。
こちらの御祭神は、武甕槌大神 荒魂となっています。

奥宮から続く急坂を下り、

いまもなおこんこんと湧き出る清水。
この池に身を沈め、みそぎを行うのが本来の作法なのだそうです。
うんうん、鹿島の鯉は悠然としていてお上品ですねぇ。
エサをねだってワラワラとやってくるようなことはありませんでした。

震災以来石鳥居のない裏参道から、鹿島神宮の境内を出ました。

JR鹿島神宮駅に到着、帰路に就きます。