鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

苗木城登城・最終章~木曽川を望む

2021-03-14 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 後 2 時 2 9 分

岐 阜 県 中 津 川 市

苗 木 城 本 丸





二の丸の終点・千石井戸、そして本丸の入口・本丸口門の跡地を経て、本丸に突入します。



本丸口門はのところ。
ここから天守台まで上り、東濃の山川がおりなす絶景を見ていきます。


 

本丸に入って最初の建物は、具足蔵武器蔵でした。
本丸口門から目と鼻の先の進行方向右側、つまりは崖っぷちに建っていたことになります。
具足蔵には城主の具足と旗が、武器蔵には弓矢や鉄砲が収納されていたそうです。
画像の礎石は武器蔵のもので、「八間蔵」と称されていたとおりに細長い建物でした。



武器蔵跡から見下ろす木曽川です。
濃緑の森を貫くエメラルドグリーンの一筋、赤い城山大橋
夏の蒼天はところどころに雲が浮かんでいますが、それがまたいいんです。

 

武器蔵の跡地は、ちょうど天守台の足元にあります。
巨岩に穴をあけ柱を立ててから建物を築く懸け造りの様子をうかがうことができます。


 

カーブのたびに門が構えられていた苗木城。
今度の門は玄関口門、文字どおり天守の玄関となっていた門です。
通常は鍵がかけられており、目付役の者が鍵を管理していたようです。

 

玄関口門付近から眺めた三の丸
大矢倉の櫓台も小さくなってきました。
櫓台が連立している複雑な構造が、ここからだとひと目でわかりますね。


玄関口門先のカーブを曲がり、

 

本丸の天守曲輪に入りました。
天守曲輪には本丸御殿?というべき建物が曲輪を取り囲むように建っており、上の画像は本丸玄関すなわち本丸御殿?の玄関跡です。
御殿というには少々狭いからなのか、案内看板には「御殿」という表記はないので、ここでは「本丸御殿?」と表記しておきますね。



本丸玄関から中に入ると、「清水の舞台」の如く岩の上に建つ千畳敷という部屋を通ります。
千畳敷は複数の建物が連なっていて、そこから曲輪内側の一段上にある次の間居間へと至ります。
天守台へは、御殿?内側の建物を経由することとなっていました。



現在は本丸御殿?は復元されておらず、本丸玄関跡から階段で直接に居間跡へと上ります。



博物館を出て、じっくり検分しながら登城すること30分。
天守台に到達しました。



天守台の傍らには、漢文で記載された苗木城址碑が立っています。
篆額(てんがく)(碑の表題)の「苗木城址碑」は、最後の苗木藩藩主・遠山友禄(ともよし)の書によるもので、また文章は依田百川の手によります。
依田百川は森鴎外に漢文を教授したことで知られ、鴎外の『ヰタ・セクスアリス』で登場する「文淵先生」のモデルとされています。
碑文の内容は・・・


鎌倉幕府創業の功臣・加藤景廉(かげかど)の長男・景朝が美濃国恵那郡の遠山荘を所領とし、「遠山」の姓を名乗りました。
これが遠山氏のルーツです。
遠山景朝は岩村城を築き、ここを拠点に明知苗木などに勢力を広げていきました。
こうして本家の岩村遠山氏から明知遠山氏苗木遠山氏などの分家が成立しました。
苗木城の歴史は、ほぼ苗木遠山氏の歴史とリンクしています。
ちなみに名奉行「遠山の金さん」こと遠山景元は、明知遠山氏を出自としています。

戦国時代に入ると、東美濃地方は西の斎藤氏、東の武田氏、そして南の織田信長との争奪の的となります。
苗木城が築城されたのは、そのさなかの1530年ごろと考えられています。
東美濃は次第に織田信長の勢力下に入っていきますが、東から侵攻してきた武田勝頼の軍勢に苗木城を攻め落とされてしまいます。
長篠の戦いで武田軍が敗退すると、信長軍は東美濃を奪還していきますが、一連の戦いで岩村遠山氏をはじめとする遠山一族はほとんどが滅亡していき、苗木遠山氏や明知遠山氏など分家の一部が存続できました。
苗木遠山氏の当主・遠山友忠も、このとき苗木城を奪還しています。

天正10年(1582年)本能寺の変が起きると、友忠は近隣の美濃金山城主・森長可を暗殺しようとしますが、失敗。
長可は羽柴秀吉の後ろ盾を得て東美濃を席巻し、天正11年(1583年)苗木城を攻略。
苗木遠山氏は、当時秀吉と対立していた徳川家康のもとへと逃れました。

慶長4年(1599年)森長可の後継である弟・忠政は信州川中島に移り、代わって河尻秀長が苗木を治めることとなりました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで河尻は西軍についたため、徳川家康は遠山友政に命じて苗木城を奪還させました。
戦後、遠山友政はそのまま苗木に所領を与えられて苗木藩が成立しました。
苗木遠山氏は明治維新に至るまでの260年間、苗木藩主として苗木城を拠点としたのです。



・・・碑文に刻まれている文章はこんな内容のものではありませんが、苗木城の歴史は苗木遠山氏の苦悩の歴史といえます。
そんなわけで、ここで改めて「城攻め」



遠山さんではなくて、河尻秀長さんが登用できました。
なお、苗木城はJR恵那駅で攻略済みです。




それでは、天守台に立ちます。



眼下に望む木曽川、こちらは上流。
蒼天には雲が覆い始め、東濃の秀峰・恵那山は雲の笠をかぶっています。
そのふもとには中津川の市街地が広がっていますね。
バスに乗って渡った玉蔵橋、その隣りの廃線・北恵那鉄道木曽川橋梁の2本の橋も、絶景にアクセントを加えています。



一方下流は、城山大橋、さらに下流の美恵橋が存在感を出していますね。
この日の中津川市の気温は体温超えだったようですが、エメラルドグリーンの木曽川のせせらぎを見て、少しばかり涼しい気持ちになれたような気がします。




 

天守台を検分。
天守は2つの巨石にまたがって造られ、2階3層となっていました。
巨石を礎としながら必要箇所を石垣で補う構造、せまい岩山に建物を据える構造は、たぶん苗木城だけではないでしょうか。


 

天守台を下り、その足元へ。
ひときわ大きい岩は、馬洗岩と名付けられています。
苗木城が攻められた際、水の手が断ち切られてしまった時、この岩の上に馬を乗せ米を馬にかけ、あたかも水が豊富にあるかのように敵を欺いたのだそうです。








武器蔵跡付近に戻りました。

 

スタンプの画角は、ここから天守台を見上げたものです。
今回の画角探しは簡単でした。



「兜岩」と私が名づけた岩。
本当の名は不明です。



最後に、スルーしていた二の丸へ。



大門跡から坂を上らず、右へ進みます。

 

二の丸から天守方向を見ると、石垣が幾重にも積み上がっている豪壮な画。

 

南側に進んでいくと、石垣とともに現れる巨岩。

 

ついには巨岩だけになってしまいました。
この先には八大龍王社という巨岩に鎮座する社があるのですが、私は途中で引き返してしまいました。



午後3時11分、苗木城を退城。
観光客もそれなりに多かったですが、それにふさわしい魅力的な城郭でした。



帰りもバスを利用するので、バス停までは徒歩で向かうこととなりますが・・・



これはいったい・・・と考えさせられる記念碑がありました。
とりあえず、苗木城の登城記はここまで。





苗木城登城・第2章~巨岩を抱いて

2021-03-14 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 後 2 時 0 8 分

岐 阜 県 中 津 川 市

苗 木 城 足 軽 長 屋 跡





苗木城【国指定史跡】の入口部分といえる、足軽長屋跡地



ここから見える、異形の本丸
目指すは、あの本丸の頂です。



おおぅ、この苗木城周辺にも困った御方がいらっしゃるようです。
とはいえこの日の苗木城はお盆休みまっただ中とあって人出は多く、森の困ったさんに出くわすことはなさそうに思えました。



登城路に面した石垣と巨岩。
苗木城が築かれていた城山には巨岩が多く、苗木一帯を治めていた苗木遠山氏はこの巨岩をそのまま利用して、城の一部となしたわけですね。
巨岩がごろごろ転がっているような山なので、石垣の材料となる石材には事欠くことはなかったようです。
しかし苗木藩の石高は1万石と、財政力は到底高いとは言えず、藩政が発足して以来ず~っと火の車。
ということで巨岩を動かすことに労力すなわち財力を費やすことはせず、巨岩を抱き込むようにして城を築いていったんですね。


 

風吹門の跡地にたどり着きました。
正規の登城路(大手道)にあったので「大手門」とも呼ばれていたそうです。
外部と三の丸を隔てていた櫓門で、2階には馬の飼葉が収納されていたそうです。





三の丸に入って左を振り返ると、巨岩を抱きかかえた石垣造りの構造物が構えられています。

 

苗木城最大の櫓・大矢倉の櫓台です。
大矢倉が築かれたのが17世紀中頃ということで、石垣の石積みは隙間のない切込接ぎとなっています。



大矢倉の北側(画像右側)では、小さめの石で隙間を埋め込む打込接ぎが用いられていますね。
切込接ぎの石垣の方は、長方形に近い石が規則正しく積まれている布積みです。



大矢倉の櫓台を登っています。
櫓台の頂となるこちらの石垣は、打込接ぎで構成されています。



櫓台の頂に立ちました。
三の丸は炎天下の下で絶賛工事中のようです。



大矢倉からの本丸
北側は巨岩があまり見えず、端整な石垣が造成されています。



苗木城の一大名物・大矢倉跡を下りました。


 

重機が作業している馳門跡で、こちらは裏口にあたります。
城の崖下を流れる木曽川の川原から始まる搦め手の登城路は、四十八曲りと呼ばれる山道を経て、この馳門に至ります。




三の丸を通過し、二の丸へと入ります。

 

両郭の境目といえる大門の跡地。
その名のとおり、苗木城で一番大きな城門でした。
2階建ての城門で、2階部分は物置として用いられていたようです。
城主の江戸参勤の出立など、大きな行事のときに限って門扉が開け放たれていたようで、普段は脇のくぐり戸が通行に用いられていました。



 

巨岩と石垣に囲まれている空間。
二の丸に入って最初の建物・御朱印蔵の跡地です。
ここには将軍家から与えられた領地目録や、朱印状などの重要な文書、また刀剣類なども納められていました。
御朱印蔵の収蔵品は、虫干しが年1回必ず行われていました。
蔵に上るための階段はなく、はしごをかけて出入りをしていたそうです。



別角度からの御朱印蔵跡。
巨岩が見事に一体となっていますね。


 

二の丸の散策は後回しにして、さらに上へ。
本丸への坂道にあった城門、最初は綿蔵門
こちらも2階建てで、中には年貢の真綿が納められていました。
この門は門限があり、夕刻七つ時(午後4時)以降は閉じられ、本丸への進入は禁じられていました。



綿蔵門跡の壁面。
先のヘアピンカーブからの上り坂は石垣で固められています。
そのむこうには巨岩がそびえています。

 

綿蔵門跡から二の丸を見下ろすと、崖っぷちに礎石が残っています。
苗木城の御殿はこちらにありました。



木曽川にかかる赤いトラス橋・城山大橋が見えてきました。
苗木城の登城はさらに上へ・・・眺望もまた愉しみです。


 

綿蔵門の先にあるヘアピンカーブを曲がったところに構えられていた坂下門
坂の下にあるから坂下門、まぁそのまんまですね。
3代藩主・遠山友貞の正室の実家・久世家の支援で改修されていることから「久世門」とも呼ばれているそうです。
門跡にある石段は、門が存在していた当時のものが現存しています。



本丸までの坂道は続き、

 

三の丸の大矢倉の石垣が望めるようになってきました。


 

第二のヘアピンカーブの直前にあった菱櫓門
本丸まではあと少し。


 

櫓台のような石垣と井戸が現れたら、二の丸の終点です。
本丸への入口・本丸口門が、通路に構えられていました。
(本丸口門の跡地は、撮影し忘れていしまいました)



その直前にあった井戸は千石井戸で、苗木城の井戸で最も高所にあります。
強烈な日照りのときにも水涸れしなかったといい、千人の飲み水となるということから「千石井戸」と名付けられています。



現在も水をたたえる千石井戸。
私も手持ちのお茶を飲んで、苗木城の本丸へと足を踏み入れます。





苗木城登城・第1章~異形の赤壁城

2021-02-28 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 後 1 2 時 4 1 分

岐 阜 県 中 津 川 市

J R 中 津 川 駅



JR中津川駅から出ました。



鬼のように暑い。

この日の中津川市の最高気温は、37℃。
それを知ってか知らずか、駅前を歩いている人はほとんどいませんでした。



駅に隣接するにぎわい特産館へ。
ここは、中津川駅を発着する路線バスの待合所にもなっています。


今回の目的地は、苗木城【国指定史跡】です。



苗木城へのアクセスは、北恵那バス付知峡(つけちきょう)または加子母(かしも)に乗車し、途中の苗木バス停で下車します。
付知峡・加子母線の本数は、通常時間帯は1時間に1本、通勤時間帯は1時間に2本ほどと、運行頻度はそれなりにあるようです。
今回は、13時15分発 付知峡線 付知峡倉屋温泉行きで向かうこととしました。

苗木城へは、中津川駅から直行するバスが1日4本ほど運行されているようです。
しかしこの年は災厄のため、運行は休止となっていました。


バスの発車時刻まで時間があるので・・・



青い中津川ソフト、うまい!かな。
青いクリームはソーダ味、想像の範囲内ですね。
それにしても、なぜ青いソフトなんでしょうか?



中津川市は、NHK連続テレビ小説「半分、青い。」の舞台となったそうです。
この朝ドラはとにかく脚本が特異的で、人によっては「半分、青い。」どころか「全部、酷い。」と酷評するほど。
それでも関東地区の平均視聴率は21.1%を挙げ、これは「ゲゲゲの女房」(平成22年・14.8%)やじぇじぇじぇの「あまちゃん」(平成25年・20.1%)を上回っています。
私はこのドラマを見たことがないので、これ以上言及することは差し控えましょう。

私がいただいたのは「半分、青い。」ソフトではなく「全部、青い。」ソフトでしたが・・・
「半分、青い。」ソフトは、青いソーダ味のクリームとともに、白い栗きんとん味のクリームがミックスされています。



そうそう、これから向かうのは山城。
手荷物を最小限にすべく、コインロッカーに預けます。
コインロッカーは改札を出て左、にぎわい特産館に行く途中の場所にひっそりとたたずんでいます。



発車時刻の2分前ごろ、バスがやってきました。
13時15分、バスは定刻どおりに発車。



バスは乗客10名ほどを乗せ、いったん駅南東の中津川の中心市街地へと向かいます。
そこから旋回して北西へと進路をとり、

 (画像は、帰りのバスからのものです)

木曽川に架かる玉蔵(ぎょくぞう)を渡ります。

玉蔵橋の1本下流に架かる橋は、旧北恵那鉄道木曽川橋梁
かつては中津川駅から北西方向に北恵那鉄道線が伸びており、これから向かう苗木地区にも苗木駅がありました。
現在は廃線となり、バスがその役割を担っていますが、橋梁だけは取り残されているようですね。




午 後 1 時 2 9 分

苗 木 バ ス 停




苗木バス停に到着し、降りたのは私ひとり。
これより炎天下の孤独な闘いが始まります。



【今回のバス乗車記録】

中津川駅前バスプール 1番のりば 13時15分発
北恵那交通 (T)付知峡線 付知峡倉屋温泉行き
苗木停留所 13時29分着

*所要時間 14分
*運賃 400円





まずは、バス停前方に見える信号交差点を左折。
このとおり要所要所に案内看板があるので、別段迷うことはないと思います。



苗木地区の住宅地に入ります。
このまままっすぐ進んでも、途中で右折しても、



旧苗木町道路元標の前に出ます。
道路元標から苗木城までは、約1km。



白壁の土蔵のところでは、左に進みます。



登城路の後半約600メートル、上り坂が始まります。



傾斜が徐々にきつくなり、前方に丁字路が見えてきたところ。
ここは上町御門跡で、ここから城内となります。
丁字路では右折します。



あじさいが生い茂っているこのあたりは、苗木藩重役の屋敷跡だそうです。



土止めが大きな石で形成されています・・・これも石垣なのでしょうか?



ほどなく現れる十字路、そしてその先の建物。
苗木城に登るまえに訪れておきたかった場所です。
表玄関に回り込んで・・・



苗木遠山史料館に到着しました。



【今回の徒歩移動記録】



苗木停留所 13時29分発
苗木遠山史料館 13時45分着

*移動距離 1.2km
*所要時間 14分




午 後 1 時 4 5 分

苗 木 遠 山 史 料 館




史料館の玄関にて、まずは無料で・・・



142番、苗木城!
絵柄は巌の上の天守台です。
今回の画角探しは、それほど難しくはなさそうですね。

さらに300円で・・・



国史跡続百名城、苗木城跡!
3つの家紋は、苗木城の城主を務めた遠山氏(苗木遠山氏)のものです。
中央は「丸の内に二つ引」、で、苗木遠山氏の主紋とされています。
左上は「上り藤」で、苗木遠山氏の祖である加藤氏(上野原加藤氏)以来用いられてきたものといわれています。
右上は「遠山九字直違(くじすじかい)で、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の九字の呪文と縦横の手刀による陰陽道の早九字を紋章としたものだそうです。


登城の証となるものを入手して、さらに史料館の中へ。
入館料は330円ですが、このご時世。
マスクの着用はもちろん、コロナが出ちゃったとき用の連絡先を記入することとなりました。


史料館は、その名のとおり苗木城と遠山氏関連のものが展示されています。



かつての苗木城の模型。
本丸・木曽川の方から俯瞰した画です。



同じ模型、角度を変えて城入口から本丸を眺めた画。
この模型を見て、「これは戦国時代の苗木城なんだなぁ」と思っていた私。
建物の色が茶色やら黄土色なので、土壁やら板塀やらで建てられている・・・中世の豪族の館が、このような岩山に建てられたんだろう。

そうではなかったのです。

この模型は、江戸時代の苗木城の模型だったのです。
しかも江戸時代の後期、幕末期の苗木城。

苗木遠山氏の石高は、わずか1万石。
一般的に石高3万石以下の大名は、陣屋という屋敷を藩の政庁としていました。
しかし苗木遠山氏は当初から苗木城を居城とし、「最小の城持ち大名」となったのです。
当然、藩財政は火の車
そのため苗木城の構造を質素なものとせざるを得ず、幕末までこのような姿をしていたのです。
苗木城は「赤壁城」という雅称をもちますが、それは苗木藩のひっ迫した財政状況の裏返しだったんですね。

とはいえ、日本唯一ともいえる異形の城。
登城を前に、早くも期待感が湧きあがっています。



風吹門と表示されている1枚の扉。
市内にある大泉寺で保管されていたものが、ここに展示されています。



風吹門の場所はこちら。
脇には大矢倉が構えられ、さながら大手門の役割を担っていました。
明治4年(1871年)苗木城が破却されると、文久2年(1862年)に焼失していた大泉寺の再建のために苗木城の構造物が転用されたのだそうです。



史料館を出て、脇から登城路に合流。



高森神社の鳥居が立っています。
もともとこの地には龍王権現が祀られており、苗木藩の祈祷所でもあった龍王院が管理していました。
しかし慶応4年(1868年)の神仏分離令廃仏毀釈によって龍王院は廃寺となってしまい、現在は高森神社とあらためられて祀られています。

苗木藩は薩摩藩と並んで廃仏毀釈が徹底してなされた地といわれています。
苗木遠山史料館には、その様子に係る史料も展示されていました。



巨石が顕わとなっている登城路を進み、



竹門跡へ。
近くには駐車場があり、車はここまで進入することができます。
そのすぐ裏手に、



足軽長屋が建っていました。
城に勤務する足軽(下級武士)たちはここに出仕し、それから各々の係り役所へと赴いていたそうです。
足軽長屋に隣接して、苗木藩の祈祷所・龍王院が鎮座していました。



足軽長屋の跡地から眺める、苗木城の本丸
「赤壁」の建物はなくなってしまった今もなお、異形の姿を見せてくれます。

苗木城の登城は、まだまだ始まったばかりです。





石垣山城登城・後編~総石垣の一夜城

2020-11-29 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 7 日 ( 金 )

午 後 3 時 1 7 分

神 奈 川 県 小 田 原 市

石 垣 山 一 夜 城 歴 史 公 園



約2キロ続いた急坂を上り、石垣山城【国指定史跡】へ。



続100名城スタンプを逆さまに押してしまうという大失態まで犯すほど、疲労困憊に陥ってしまいました。



石垣山城のお隣で甘いものをいただき、



呼吸を整えて石垣山一夜城歴史公園へ。




入口から、早くも豪快な石垣がお出迎え。
こちらは、南曲輪を取り囲む石垣です。
関東でこれだけごろごろと石を用いて普請された城郭は、それほど多くありません。
しかし、ここ石垣山城の築城主は、天下人・豊臣秀吉
秀吉の権威と財力により、東国では最初の総石垣の城郭が築かれたのですね。



石垣の石は、自然石をそのまま用いた野面(のづら)積みで構成されています。
石垣の隅は、長方体の石を交互に組んだ算木積みでしょうか。

秀吉軍が連れてきた石垣普請のプロ集団・穴太(あのう)による見事な仕事・・・という割には、石垣が崩れています。
これは城割りといって、城が不要となった時にその一部を壊した痕跡なのです。



それにしてもなかなかに大きな石です。
築城当時の豪奢な石垣が思い起こされます。
そんな石垣が全面的に備えられた城郭が、突如として近隣に現れる・・・小田原に籠城する者たちは、さぞや仰天したでしょう。




少し進んで、東曲輪へ。
石垣「山城」というくらいですから、ハイキングコースが続くものかと思っていたのですが、城内はゆったりとした?公園のような感じ。
朝に登ってきた滝山城よりも、空間に余裕のある公園のような趣きですね。



東曲輪から下っていくと、二の丸東側石垣が見えてきます。
こちらは割合小ぶりの石が用いられています・・・といっても十分に大きいのですが。





案内看板によると、ここの石垣は延長約67メートル、高低差約6メートル、傾斜は約60度だそうです。
二の丸東側石垣を見ながら上り坂を進んでいくと、



二の丸に到達。
山城とは思えないほどの広い空間で、この画像だけ見せられて「これは運動公園です」と言われたら納得してしまうほどです。



小田原攻めのための一時的な城のはずですが、この容量。
さすがは天下人の城、というべきでしょうか。



二の丸のはずれの方にある櫓台跡
ここは視界を樹木が遮っていますが、少し歩いたところから・・・



小田原の市街地を見下ろすことができます。



小田原城天守も見えます。
現在の小田原城は市街地の中に埋没していて、探すのがやっとといったところ。
しかし戦国時代の小田原城は、眼下の市街地をそのまま土塁と堀で囲んでいたという巨大な城で、総構え(惣構え)の城だったのです。



石垣で囲まれた空間が見えますが、後回しにして・・・



二の丸の突端にある展望台へ。



小田原の街は、ここからはよく見えませんね。
小田原城の天守も見えませんでした。



展望台は西を向いているので、箱根の山々がよく見えました。
秀吉が石垣山城を築く前は、箱根の早雲寺に本陣を構えていました。




それでは、先ほどの石垣で囲われた曲輪に戻ります。
石垣山城のメインディッシュといっても過言ではありません。

 

 

谷を石垣でぐるりと取り囲んでしまった井戸曲輪
その名のとおりここには井戸があり、秀吉の側室・茶々(淀殿)がこの水を用いたということから「淀君化粧の井戸」と呼ばれています。
ふつう井戸といえば穴を掘って、その周りを石で固めるものです。
しかし井戸曲輪は谷を丸ごと石垣で囲ってしまい、巨大な「井戸」としてしまったもの・・・天下人のぶっ飛んだ発想のたまものなのでしょうか。



続100名城スタンプの絵柄は、この井戸曲輪で間違いなさそうです。
では、画角は?

 

ここでしょうか???
絵柄の下半分の「凹」形の区画が、草地の部分?
「凹」左側の「XXX」が、柵になっている?
しかし、ここからだと左の木が視界を遮っていますし、石垣の背後にある樹木が映っていません。

 

もうひとつの候補と考えたのが、こちら。
井戸曲輪の底、井戸の前です。
石の大きさの比率が、スタンプのそれと合っているように思えます。
石垣中央に生えている草が、スタンプのそれと似たような位置に描かれている?
ただ、こちらは「凹」の角度が大きくズレています。

スタンプの画角は・・・今回はわからなかったです。



井戸曲輪の案内看板付近からなのか?



あの木の根元からなのか?



結論は出ないまま、井戸曲輪から出ました。




とても広い二の丸まで戻りました。

 

背後の石垣は、本丸石垣です。
このあたりの石垣は、20メートルを超える高低差を誇っていました。
小田原の北条軍に対面する方角なので、秀吉もこの石垣の普請には相当力を入れていたと思われます。


小田原の北条氏を攻める豊臣秀吉は、天正18年(1590年)3月1日に京都を出発。
4月3日、秀吉方の軍勢が小田原城の包囲を開始します。
秀吉自身は4月6日に箱根の早雲寺を本陣とし、その日のうちに笠懸山に登って小田原城を眺めました。
小田原の力攻めは難しいと判断した秀吉は、笠懸山に城を築くことと定めて長期戦の構えをとります。

普請は急いで進められ、5月14日には石垣ができました。
広間や天守が建築されている中、6月9日と10日には降伏した伊達政宗が秀吉に伺候しました。
このとき政宗は、前日にはなかった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉軍の諸将に賞賛されたのだそうです。

6月26日、石垣山城は完成し、秀吉は本陣を移しました。
そして小田原城との視界を遮る大木をことごとく切り倒し、北条方に城の完成を誇示したのだといいます。
このさまを見た北条軍は「関白(秀吉)は天狗か神か?! 一夜のうちにこんな城を造るとは!」と驚いたそうです。





本丸へと上りました。



天守台跡まで到達し、石垣山城の登城達成です!
「ニッポン城めぐり」を起動して、



続日本100名城・第126番、石垣山城攻略!
築城主のはずの秀吉さんには、ここではお会いできませんでした。





石垣山から小田原の街と相模湾を眺めて、石垣山城の登城は〆。




午 後 4 時 0 7 分

一 夜 城 ヨ ロ イ ヅ カ フ ァ ー ム


さて、帰り道は・・・・・・



「一夜城ヨロイヅカファーム」の中にあるタクシー会社直通電話の受話器を手に取りました。



帰りはあっさり、10分もかからずに早川駅に到着。
タクシー料金は、ジャスト1,000円でした。





石垣山城登城・前編~猛暑の中で

2020-11-29 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 7 日 ( 金 )

午 後 2 時 1 3 分

神 奈 川 県 小 田 原 市

J R 早 川 駅





小田原駅の隣駅・早川駅
ここは小田原城【国指定史跡】の最寄駅・・・
ではなく、小田原城を落とすために築城された石垣山城【国指定史跡】の最寄駅です。


豊臣秀吉の天下統一事業・・・これに最後に立ちはだかったのが、関東の雄・北条氏政・氏直父子です。
秀吉は、上州(群馬県)の名胡桃城奪取事件をきっかけに、北条征伐を決意。
諸大名の軍勢を総動員し、関東に進軍しました。

対する北条軍は、家臣の軍勢を巨城・小田原城に集結させます。
他の城は取られてもいいから、まずは小田原を守り抜く。
そして秀吉が撤退してから、取られた城を取り返す。
氏政の父・氏康が、永禄3年(1560年)の上杉謙信による関東進軍に対してとった戦略を踏襲しようとしたのです。

秀吉率いる軍勢は約20万ですが、北条軍が小田原に集結させている軍勢も約8万。
力攻めにしても甚大な被害が出てしまいます。

そこで秀吉は小田原からほど近い場所に城郭を築き、降伏しない限り軍勢を退かない姿勢を内外に示したのです。
この城こそ、石垣山城
石垣構築のプロ集団・穴太(あのう)を引き連れて築いた城は、東国では最初の総石垣の城郭だったのです。
はじめは木陰に隠れて秘密裏に築き、城郭がかたちとなったところで木を切り倒し、小田原の城兵たちに誇示してみせたといます。
そのさまを見た北条軍は、「秀吉は石垣の城を一夜で築いた」と思い込み、その士気が大きく削がれてしまいました。
さらに有力家臣の内応が発覚するなど北条軍の内部崩壊が始まり、北条氏政・氏直父子は降伏を決断したのです。

世に云う、「石垣山一夜城」のエピソードです。





スタート地点の早川駅。
ここから石垣山城へのバスはなく、またコインロッカーもありません。
周囲にはレンタサイクルもなさそう。

夏の暑さの中、手荷物すべてを抱えた地獄の行軍がここに始まります。



早川駅の前を走っている国道135号
駅を出たら、まずは左へ。



「一夜城歴史公園」に向かうべく、先にある信号交差点を左へ・・・



信号交差点までは行かずにその手前の丁字路を左折し、跨道橋をくぐります。
草木に覆われてしまいそうな、この看板が目印です。
石垣山城までは2,100メートルですか・・・ゆっくり進んでもだいたい40分くらいでしょうか。

 

ほどなく進むと、こんな看板。
公式の看板に従うならば、ここを左折なのですが・・・青いごみネットがかかっている看板によると、石垣山城は細い路地に入って進む模様。
どちらが正しいのか・・・Google Map さんに問えば、細い路地を進むのが最短距離のようなので、こちらを進むことにします。

ここから急坂が始まり、



5分も歩けば、もう絶景。



傾斜20%ほどの急な上り坂が、ほぼ終始続きます。



沿道に民家はなくなり、



振り返れば相模湾、そして大いなる太平洋
しかしこの日の小田原市内の気温は、36度。



文字がほとんど消えかかっていますが、「史跡 石垣山 あと一キロメートル」という案内表記。
使われているのか打ち棄てられているのかわからない小屋のそばに立っています。
体力の消耗甚だしい私は、小屋がちょうど日陰をなしていたので、ここで小休止。


数分後に再び歩き出し、



舗装された公道との十字路に到達。



案内看板によると、「石垣山一夜城歴史公園 1,720m」!!
720メートルも上積みされてんじゃねぇか!
ただしこれは、十字路を左に曲がった場合の道のり。
坂道を余計に720メートルも歩きたくない私は、そのまま直進してショートカットを狙います。


しかし・・・36℃の猛暑と、相変わらず続く20%の急坂には勝てず。
私は再び荷物を放り出して、人通りも車通りもない坂道に座り込んでしまいました。
このまま休まずに進めば熱中症にやられてしまい、小田原の山の中で野垂れ死にすることに・・・。

ここは多少の時間を費やしても休憩して、呼吸を整えてから上っていこう。
石垣山まではあと1キロもないんだから・・・多分。

腰を下ろして休んでいると、どこからともなくオオスズメバチが飛んできました。
これは・・・ここで休むのは危険だ。
私はみたび歩き出すことを余儀なくされたのでした。



そして・・・



舗装道に再会。
傾斜のきつい上り坂は、これにて終了です。
この後も上り坂は続きますが、傾斜は緩めなので、さしたる苦もなく進むことができました。



道沿いには、「石垣山に参陣した武将たち」の立看板が据えられています。
でもここには武将・・・ではない、淀殿が紹介されています。

難攻不落の小田原城を陥落させるには、持久戦で臨むしかない。
そう考えた秀吉は、参陣した諸大名の苦労を思いやり、その妻を参陣させることを許したといいます。
そして秀吉自身も、側室の淀殿を大坂から呼び寄せました。

淀殿の看板から石垣山までは、あと340メートル。




ラスボスともいうべき豊臣秀吉の看板です。
石垣山城の築城主が現れたということは、ゴールももうすぐですね。

ちなみに「石垣山に参陣した武将たち」は、8名が紹介されています。
残る6人は、坂の上から順番に千利休、豊臣秀次、徳川家康、宇喜多秀家、伊達政宗、堀秀政です。


秀吉の看板から50メートル。



石垣山一夜城歴史公園



道路を挟んで反対側の「一夜城ヨロイヅカファーム」に到達しました。




午 後 2 時 5 8 分

一 夜 城 ヨ ロ イ ヅ カ フ ァ ー ム


登城する前に立ち寄ったレストラン&パティスリー。
その理由は、



駐車場にある公衆トイレ。
用を足したかったのもありますが、ここにはパンフレット&続100名城スタンプがあるのです。
疲労困憊の中で、スタンプをゲット・・・



!!!!!

100名城登城から10年余、初めてやらかした痛恨の押印ミス・・・。
でも仕方ありません、改めまして・・・



126番、石垣山城!
絵柄は・・・「石垣山」らしく石垣に取り囲まれた郭のようですね。



そして「ヨロイヅカファーム」に立ち寄ったもう一つの理由。
ただ単に、疲れた! 甘いものが食いてぇ!
ということで・・・



店舗内のパティスリーで、ブルーベリーフロマージュソフト(税込380円)をオーダー。
どうやらソフトクリームは季節ごとにラインナップが変わるようで、夏場のこの時季はブルーベリーのソフトクリームが販売されていました。
それから喉が渇いたので、有機アップルジュース(税込120円)も購入。



ブルーベリーのソフトクリーム、うまい!
ブルーベリーの果実が5粒ほどトッピングされ、もとより色濃いベリーのソフトクリームに良いアクセントを加えています。
この画像をソフトクリーム好きの女王様に送り付けて・・・休憩はここまで。





豪快に石が横たわっている石垣山城へと、足を踏み入れることにします。





滝山城登城・最終章~多摩川を望む

2020-11-29 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 7 日 ( 金 )

午 前 1 0 時 3 1 分

東 京 都 八 王 子 市

滝 山 公 園 ・ 旧 滝 山 城 二 の 丸





再び二の丸へと戻ってきました。
こたびは城の中核部分へと足を踏み入れます。





このあたりは、それぞれの虎口から二の丸を突破した敵兵が合流する地点です。
往時には櫓門が設置されていたそうです。



右を見ると、二の丸と中の丸を隔てる空堀が見えます。


二の丸からの道をこのまま進むと、右手に中の丸の入口が見えます。
中の丸に入るのは後にして、このまま進むと・・・



道はまたしても堀底を進むことになります。



左が本丸、右が中の丸
ふたつの郭を隔てるように掘られた大堀切の規模は相当なものです。

郭をつなぐ引橋【復元】も、かなり高いところにかかっています。
当時の引橋は現在よりも下の方にかかっていたようで、さらに大堀切ももっと深かったと考えられています。

それにしても、この橋の地点は蚊が多い・・・。
ですが、この大堀切&引橋の画こそスタンプの画角です。

 

蚊の攻勢にひるまず、画角撮影に成功!
それにしても虫よけスプレーさん、ちょっと効いているんですか???


大堀切から後ずさりし、中の丸へと向かいます。



枡形虎口を突破し、



中の丸に到着。



中の丸にあるこの建物でも、続100名城スタンプが押印できます。





中の丸から、先ほどの引橋へ。
この先が本丸です。



引橋から見下ろした画。
こちらは二の丸側ですが、落ちたら生命の危機を感じるくらいの高さです。



反対側は大堀切
規模は尋常なものではありません。
こんな深さまでよく掘ったものだなぁ~と感嘆するばかり。




引橋を渡ると、



最後の枡形虎口を経て、



本丸に到着。



「史跡 滝山城跡」の石碑に到達したところで、「城攻め」!



続日本100名城・第123番、滝山城攻略!



滝山城の築城以前の拠点であった高月城も攻略できました。



本丸井戸は、本丸の南端、石碑の近くで口を開いています。
築城当時から存在する古井戸のようですが、水は涸れてしまっています。


本丸は南側と、一段高い北側の二部構成となっており、



本丸の中ほどに鎮座する霞神社の石段が、南北の分かれ目となっています。
こちらの社は、日露戦争に出征して戦死した英霊を祀っています。



本丸の北側に入っていくと、こちらで鎮座しているのは、水運の守り神とされる金毘羅神社





眼下に広がるのは、北から南東へと流れる多摩川
さらに西からは秋川が流れてきて、この地で合流します。
滝山城は2つの川の合流地点ににらみを利かせ、両川の水運を抑えるために築城されたことがわかります。
金毘羅様が祀られているのもうなずけますね。



政においては多摩川の水運を司り、戦においては武田の猛攻を防いだ名城・滝山城。
私にとって惜しむらくは、草木が生い茂る夏場に訪れたため、馬出などの遺構がよく見えなかった(というより、いい画を撮ることができなかった)ことです。
各地に宿題を残す私の登城記、ここ滝山城にも宿題を残したようです。





滝山城登城・第2章~絶対死守

2020-11-29 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 7 日 ( 金 )

午 前 1 0 時 0 3 分

東 京 都 八 王 子 市

都 立 滝 山 公 園 入 口



令和2年最初の城攻めは、滝山城
意気揚々と攻め上る私に、小さき北条軍が思わぬ反撃をしてきました。

私は一時撤退を余儀なくされ、



近場の青屋敷にて兵器を買う羽目になったのです。





いざ、滝山城へ!(本日2回目)



天野坂を上り、





左の小宮曲輪、右の三の丸に挟まれた危険ゾーンを進み、



二の丸への通路と山の神曲輪への通路との分岐点まできたところで、先ほどは一時撤退をしたのでした。
今回はそのまま城の中枢へと攻め込んでまいります。


山の神曲輪は城の中枢から離れた郭で、その名のとおり山の神を祀る社がありました。
また永禄12年(1569年)の武田信玄の侵攻に対して、城下の民衆たちをこの郭に避難させたと推定されています。
今回は行かなかったんですけどね。


城の中枢をめざすと、しばらくは右手の三の丸からの脅威にさらされますが、



三の丸の切れ目から次の郭に進む間に、コの字型土橋を通らなければなりません。



こちらは、土橋を通過して振り返ったときの画。
対岸から攻め手が押し寄せてくるのですが、攻め手側はコの字をたどるように4回方向を変えなければならず、勢いが削がれてしまいます。



こちらも、土橋通過後に振り返った画。
土橋なので、道の両脇は空堀になっています。
さらに当時は、通路がかなり狭く造られていたようです。
ここを通過する際には、後方の三の丸からの攻撃、前方の千畳敷からの攻撃にさらされることとなっていたのです。




コの字型土橋を通過して直進すると、二の丸へと続きます。
先にある右への分岐路も、迂回しつつ二の丸へと向かう道です。
手前にある左への分岐路は、





千畳敷と呼ばれる郭に続きます。



千畳敷の先は二の丸へと続く虎口となっており、角型の空堀が造られて角馬出が構成されています。



草木が生い茂って、空堀が見えづらいですねぇ・・・。



でも確かに、深い空堀があるんです。
緑がいっぱいすぎて、よく見えないですけど。

そして緑いっぱいということは、例の小さき北条軍がさかんに羽音を立てているってことです。
対策を講じて臨んでいる滝山城ですが、虫よけスプレーの効力にも疑問を感じてしまう・・・それくらいに小さな北条軍は私に肉薄しています。



角馬出の箇所で、二の丸を背にして立っています。
向こうの広場が千畳敷ですね。
ここからもよくは見えていませんが、ここと千畳敷は深い空堀で隔てられています。

この厳重な構えを突破しなければ、二の丸へは入れないのです。
滝山城を攻めた武田信玄の軍勢も、ここを攻め抜くことはできなかったといいます。




滝山城攻防戦から幾百年、私は悠々と二の丸に入ります。



本丸へ向かう前に、信濃曲輪方面へ寄り道します。



なんの変哲もない細い道ですが・・・

 

両側は深い空堀、



道の脇には、草木が生い茂って見づらくなっていますが、東馬出が構築されています。



こちらは外側から見た二の丸
内外の郭の高低差は歴然としていて、さらに空堀の深さも見事です。



滝山城の二の丸に至る虎口は、そのすべてに馬出が備わっています。
築城した北条氏照のねらいは、「二の丸絶対死守」
永禄12年(1569年)の武田信玄による滝山城攻めでは、2千の北条軍が2万の武田軍を二の丸で食い止めたのです。

二の丸への虎口は上記2ヶ所のほかにあと1ヶ所あるのですが・・・
猛暑と蚊にやられてスルーしてしまったようです。
滝山城も再訪が必要ですね・・・そのときは草木が枯れる冬にでも参りましょうか。





滝山城登城・第1章~小さき北条軍

2020-10-21 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 7 日 ( 金 )

午 前 7 時 4 3 分

東 京 都 八 王 子 市

J R 八 王 子 駅 北 口



100名城登城の旅も、今回で第23弾を迎えました。



これまでに30都道府県を旅し、



江戸城を皮切りに、訪れた100名城は55城。
19都道府県をコンプリートしています。
しかし・・・



続100名城までコンプリートできているのは、
 ・宮城県(仙台城多賀城と、白石城
 ・茨城県(水戸城と、土浦城笠間城
 ・栃木県(足利氏館唐沢山城
たったの3県にとどまるのです。


そこで今回も、続100名城を中心としたアラカルトの城攻め旅・・・GO TO 続100名城キャンペーンなのです!





やってきたのは、八王子駅
東京都内の続100名城・滝山城【国指定史跡】の最寄駅です。

滝山城へは、北口から出ているバスで向かうことになりますが・・・



バスを待つ人々の長蛇の列・・・。
「密」の空間を避けるため、混雑する時間帯の乗車を見送り、すなばじゃない方の珈琲店で休憩。



午前9時、人通りが落ち着いてきた頃合いを見て、出発。
八王子駅北口バスプール・12番のりばへ。



朝9時で、気温はすでに30度。
城攻め旅には堪えそうだなぁ。




9時05分発 西東京バス 戸吹行きに乗車。




9時22分、滝山城址下バス停で下車しました。
遅れなしの定時運行、素晴らしいです。



【今回の乗車記録】

八王子駅北口バスプール 12番のりば 9時05分発
(N)西東京バス ひよどり山トンネル経由 戸吹行き
滝山城址下バス停 9時22分着

*所要時間  17分
*移動距離  5.5km
*運賃  IC運賃 315円




午 前 9 時 2 3 分

滝 山 城 址 下 バ ス 停




最寄りのバス停からまっすぐ城へは向かわず、1ヶ所だけ寄り道をしていきます。



バス停の先に見える信号交差点を右に入ると、



八王子市 加住市民センターがあります。
ここで、滝山城のパンフレットを入手しておきます。さらに・・・





続日本100名城・123番、滝山城!
スタンプの絵柄は、大堀切にかかる引橋です。
今回の画角探しは簡単そうですね。


加住市民センターの更衣室にあるコインロッカーに荷物を預け、これより出陣!


バス停のある国道411号に戻り、



民家の脇道から、滝山城への進入を図ります。



現在は、滝山公園という都立公園になっている滝山城。


滝山城の築城時期は、2つの説があります。
大永元年(1521年)武蔵守護代の大石定重が、敵対する北条氏康の勢力拡大に備えて築城したとされています。
定重の子・定久河越夜戦をきっかけに北条氏に降伏し、氏康の二男・氏照を養子に迎えます。
そして氏照が城主になり、滝山城が改修、拡張されたと考えられてきました。
しかし近年の研究では、氏照が永禄10年(1567年)ごろに滝山城を築城したと考えられています。

永禄12年(1569年)甲斐の武田信玄が、北条氏との同盟を破棄して攻め込んできました。
北条氏照はこれを迎え撃ちますが苦戦し、滝山城の二の丸まで攻め込まれたとされています。
このときに氏照と武田勝頼がともに槍を交えたといわれていますが、この滝山合戦をきっかけに甲斐寄りの八王子城【国指定史跡】の築城に取り掛かったといいます。
天正15年(1587年)ごろに氏照は居城を八王子に移し、これと同時に滝山城は廃城となったと考えられています。





民家の並ぶ小道を進み、滝山公園の入口へ。
滝山城にとっては正規ルートの大手道にあたります。



なかなかの傾斜をほこる大手道。
最初の坂は、天野坂というそうです。
両側に土塁が並ぶのではなく、地盤を掘って造られた堀底道なので、両サイドからの攻撃の脅威につねに晒されている格好です。



坂をのぼると、左脇に一段深い空堀。
しかしその先を見やると・・・



小宮曲輪という家臣の小宮氏の居住した郭がそびえています。
その高低差は10メートルほどでしょうか。



大手道の右側にも三の丸がそびえ立ち、攻め手は高所からの側面射撃を受け続けることになります。



両サイドの側面攻撃ができるこの場に、さらに枡形虎口があったそうです。
現在は消失していますが、ここを突破したという武田軍の兵力は2万、対して北条軍は2千。
数の力がなければ、到底突破はできなかったでしょうね。

現代になって公園となった滝山城には、私の登城を遮る城兵はいませんが・・・なんだかいや~な音がします。




城の中枢からの分かれ道ですが・・・・・・不快な羽音が耳から離れません。



大手道の左から側面射撃を仕掛けてきた小宮曲輪
敵兵はもちろんいませんが・・・・・・現代によみがえった小さな北条軍が総攻撃を仕掛けてきました。




午 前 1 0 時 0 1 分

ロ ー ソ ン 滝 山 街 道 店




虫よけスプレー!
これで小さき北条軍からの攻撃を防ぐことができるでしょう。



それにしても滝山城・・・現代になってもなお難攻不落を誇るとは・・・。
気を引き締めて、城攻めをしなければなりませんな。





米子城登城・後編~山も海も

2020-07-26 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 後 四 時 五 十 分

鳥 取 県 米 子 市

米 子 城 本 丸





「続日本100名城 公式ガイドブック」の表紙を飾る、米子城本丸の石垣群。



天守台と、2段の控え積み郭の石垣は、石の表面を平らにして石同士の接合面の隙間を減らして積みあげた打込接ぎです。
なお控え積み郭の石垣は、下段が昭和、上段が平成になって積み直したものだそうです。



左に目を移すと、ひときわ端整ななりをしている四重櫓台の石垣。
こちらは、石を加工して隙間を徹底的になくして積み上げる切込接ぎです。



続100名城スタンプの絵柄に出てくる石垣も、切込接ぎのように見えます。
スタンプの画は、四重櫓台を題材にしているのでしょうか。


天守台へと足を運ぶべく、四重櫓台の下へ。



天守郭の入口とあって、石垣で厳重に構えられています。



積み方も端整で、石の色も際立っている四重櫓台
幕末に補修されたので、当時としては最新鋭の切込接ぎが用いられました。
右上にちょこんと載っている石は忘れ石といい、明治時代以降いつの頃からか、いつの間にか置かれてそのままになっているのだそうです。

 

ここがスタンプの画角かな~と思ったのですが、どうも違うような・・・。
四重櫓台の石垣は、角の長方体の石が長短交互に積み重なる算木積みですが、スタンプの石垣はそうでもなさそうです。
また左後方の石垣の遠近が異なっている――スタンプの画では、左後方の石垣はかなり後ろにありそうです。
植栽の有無も異なっていますね。




スタンプの画角を探しつつ、先へ。

 

(くろがね)御門跡
天守郭を守っていた城門には、鉄板が施されていたそうです。



鉄御門跡から振り返ると、こんな感じ。
このあたりには、石垣の材料として加工されたのに結局用いられなかった残念石が転がっているのですが・・・スルーしてしまいました。



天守郭に入りました。



さっそく天守台に立ちます。





まずは西、本邦5番目の広さを誇る中海が広がっています。
中海は、日本海に開いた湾の入口が砂州によって塞がれてできた潟湖(ラグーン)です。
時は夕刻、中海を照らす夕日を拝みたかったのですが、残念ながらこの日は曇り。
それでも、城郭から望む景色としては全国でも指折りのものだと断言できますね。



北には米子の城下町が広がっています。
その向こうには日本海島根半島
中海の出口である境水道は・・・見えないかな。

一方、足元には内膳丸が存在感を出しています。
現在は市街地になっている内膳丸付近は、かつては中海の一部でした。
内膳丸は中海からやってくる敵兵に備える出丸だったんですね。



東には、中国地方の最高峰・大山(だいせん)が横たわっています。
米子城は山、海、湖、それぞれの景色を堪能できる名城ですね。

さて、城の本丸に到達したということで・・・「城攻め」



続日本100名城・第169番、米子城攻略!



もう1箇所、鳥取藩台場【国指定史跡】も攻略できました。
ちなみに鳥取藩台場は県内各地に8箇所あるのですが、「ニッポン城めぐり」では境港市にある境台場【国指定史跡】を採用しています。




こちらは天守台のお隣、四重櫓台です。
隅にある巨石は忘れ石ですが・・・思いのほか崖っぷちにあって、危険な感じがしますなぁ。



振り返って、先ほどまで立っていた天守台
ここからの眺望はとても素晴らしかったです。





本丸の天守郭を出て、



水手御門へ。
ここから下ると、中海に面した御船出郭に通じます。




天守郭の石垣に沿って、時計回りで進んでいきます。
続100名城スタンプの画角も探していきます。



本丸から張り出た方形の郭。
ここには遠見櫓と呼ばれる櫓が建っていました。



遠見櫓跡から望む内膳丸
この2箇所を登り石垣が結んでいて、中海からの外敵を遮断する役割を担っていました。



下を覗くと、内膳丸までつながっている斜面が見えます。
登り石垣はこの斜面に造成されていたと考えられています。



遠見櫓からの天守郭。
なかなかの迫力ですが、スタンプの絵柄の石垣はなさそうです。






石垣を探し回りながら進み、本丸のスタート地点・番所跡に戻ってしまいました。



絵柄に見合った画角がどうも見つからない・・・。

 

画角を探した挙句、旅行当時に「ここだろう・・・」と定めた場所が、天守台脇からの四重櫓台。
しかしながら後で検討してみると、忘れ石も写っているし背後の石垣もないので、ここからではなさそうですね。


このときの時刻は午後5時18分。
雲もかかったままで夕日も見られないだろうと考え、登城路が暗くなってしまう前に米子城を後にしました。




午 後 五 時 三 十 六 分

米 子 市 内 移 動 中


米子城があった湊山を下り、米子の市街地を歩いていると・・・



夕空が赤く染まっています。



・・・・・・私は、米子城を早々に立ち去ったことをいたく後悔したのでした。





米子城登城・前編~ガイドブックの石垣

2020-07-12 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 後 三 時 五 十 七 分

鳥 取 県 米 子 市

J R 米 子 駅





米子駅を出て、時刻はそろそろ夕刻。
この日最後のお城訪問は、米子城【国指定史跡】です。

米子駅からのアクセスは、米子駅を背にして駅前通りをそのまま進み、国道9号線の十字路で左折。
距離は約1km、徒歩約15分ほどなので、今回はそのまま歩いていきます。



米子城に行く前に、9号線を城とは反対側に曲がり・・・

 

米子市立山陰歴史館に寄り道します。
いかにも文化財っぽいレトロな建物だな~と感じましたが、実際に米子市役所旧館【米子市指定文化財】という名称で文化財に指定されています。
昭和5年(1930年)建築、設計は早稲田大学大隈記念講堂【国指定重要文化財】を手がけた佐藤功一によります。

時刻は午後4時を回る中・・・



169番、米子城!・・・のスタンプを早々にもらいました。
それにしてもこの絵柄・・・いったいどこの石垣なんだよ?!
鳥取城に続き、画角探しに苦労しそうですね。
鳥取城のスタンプの画角は、結局見つけることができませんでしたけどね。

そしてこの米子城でも、



御城印! 国指定史跡・米子城!
こちらは300円で販売しておりました。
押印されている家紋は上から順に、吉川氏「丸に三つ引」中村氏「立ち沢瀉(おもだか)加藤氏「蛇の目」です。


応仁の乱の時期、山名宗之によって飯山(いいのやま)に砦が築かれました。
これが米子城のはじまりといわれています。

時は過ぎて天正19年(1591年)豊臣秀吉によって天下統一がなされ、西伯耆(鳥取県西部)、東出雲(島根県東部)などの領主となった吉川広家は、戦向きの山城・月山富田城【国指定史跡】(島根県安来市)から交通の要衝・米子への移転を図り、中海のほとり、飯山の隣りの湊山に築城を始めました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、広家は岩国(山口県)に移封となり、代わって中村一忠が駿府から18万石で伯耆に入り、慶長7年ごろに米子城が完成しました。

慶長14年(1609年)中村一忠が急死すると、翌年美濃黒野(岐阜市)より加藤貞泰が6万石で米子に入ります。
元和3年(1617年)貞泰が伊予国(愛媛県)大洲に移り、鳥取に池田光政が入ると、米子城は一国一城令の例外として認められ、その一族・池田由之の預り城となります。
寛永9年(1632年)池田光政と光仲が領地替えとなると、米子城は光仲の家老・荒尾成利の預り城となりました。
以後明治維新まで、鳥取池田家家老の荒尾氏の預り城となりました。



山陰歴史館では、吉川広家の父・吉川元春のものと伝わる兜が展示されているらしいのですが・・・
当時はそんなことは知らず、また夕刻とあって登城への影響を考え、スタンプと御城印をもらった後は早々に引き上げました。



そして国道9号線を反対方向へと歩き、



午後4時27分、米子城址・湊山公園の入口に到着しました。



【米子城までの行程記録】



JR米子駅 15時57分発
鳥取県道28号米子停車場線・国道9号線経由
米子市立山陰歴史館 16時08分着

米子市立山陰歴史館 16時18分発
国道9号線経由
米子城 16時27分着

*移動距離 1.7km
*所要時間 30分(移動時間 20分  歴史館滞在時間 10分)




午 後 四 時 廿 七 分

米 子 城 三 の 丸




むむっ、なんともお邪魔な車だなぁ。
よりによって入口のど真ん中に停めおって・・・。

米子城址・湊山公園の入口にあたる三の丸
ここから枡形虎口を経て、二の丸へと入ります。



なかなか広い空間の枡形。
この空間は城兵の集合場所でもあったようです。
狭い空間に攻め入る軍勢を閉じ込め四方八方から射撃するという、よくある枡形虎口とは違う感じがしますね。



ご立派な石垣です。
この先を歩いている紳士とお話しさせていただき、虎口の前に停めている車についてともに愚痴っていました。



見事な打込接ぎの石垣をしばし眺め、二の丸へ。



紳士とは別れ、二の丸散策。



目の前に現れる門は、城門ではありません。



城下にあった旧小原家長屋門【米子市指定文化財】を移築したものです。
小原氏は米子城主・荒尾氏の家臣で、大名の池田家からすれば陪臣(家臣の家臣)です。
禄高は120石ということで、陪臣の中では上級の武士だったと思われます。


長屋門のそばにひろがるテニスコートは、御殿跡です。



通路の傍らには、御殿御用井戸が残っています。




山上の曲輪へと続く道。
米子城は、山麓と山頂に建物を構える平山城です。
また上り坂か・・・でも鳥取城に比べたら、はるかにラクですね。



ちょっと脚に来てるなぁ・・・観音寺、竹田、鳥取と、3日連続の山登りのツケが、ここに出始めているようです。
通路から見下ろすと、御殿跡にあたるテニスコート、その向こうはかつての三の丸である野球場が見えます。



本丸に入る前に、







内膳丸に立ち寄ります。

本丸のある湊山に峰伝いで隣接する丸山に築かれた曲輪で、米子城の出丸のひとつでもあります。
関ヶ原後の城主・中村一忠の家老である横田内膳正(ないぜんのかみ)村詮(むらあき)が普請を担当したことから、その名がついています。
土地が埋め立てられる前の中海に面しており、海側からの外敵に備える役割をもっていました。



内膳丸から見た、本丸側。





近年発見されたという登り石垣



内膳丸から高さ約3メートルの石垣が、本丸まで約40メートルほど続いていたそうです。
内膳丸と登り石垣によって、中海からの外敵を防ぐ仕組みになっていたようですね。





内膳丸を離れ、いよいよ本丸へ。



本丸の入口にあった番所の跡地。
パンフレットによると、ここから公園入口の枡形虎口まで竪堀が伸びているというのですが・・・スルーしてしまいました。
というのも、



この見事な石垣を目の前にしたため、竪堀の存在を忘れてしまったのです。



この石垣こそ、「続日本100名城 公式ガイドブック」の表紙を飾る石垣。
番所跡からの画角だったんですね。


それにしても、これだけ多くの石垣の群れ・・・。



スタンプの画角になっているのは、どの石垣なのか・・・捜索に手間取りそうです。
鳥取城の画をスルーしてしまったので、米子城の画はなんとしても突き止めたい。
そう思って、腰を据えて本丸を散策していきます。