やって参りました、松江城天守【国宝】!
江戸時代以前から現存している天守は、全国でも12棟しかありません。
そのうち国宝に指定されている天守は5棟で、東から順に松本城、犬山城、彦根城、姫路城、そしてこちら、松江城であります。
わが城攻め旅では、国宝4天守は制覇したのですが・・・
(姫路城の天守は、修復工事のために入れていませんが)
平成27年(2015年)7月8日に松江城が国宝に指定され、私にとってはぜひとも訪れなければならない城だったのです。
国宝たる天守にもう少し近づきましょう。
森永ハイソフト「日本の名城」カードの画角です。
松江城の天守もなかなかの迫力ですなぁ~、そしてなにより・・・美しい。
屋根が形作る三角形・
しばし足を止め、天守をじっくり眺めていました。
こんなに天守を見ていたのは、松本城以来かも。
それくらいに私は、この松江城天守に魅せられていたのでした。
天守の中へ。
天守に付属している南西附櫓【国宝】から入ります。
入城料は、大人680円。
松江城周辺の史跡である小泉八雲旧居【国指定史跡】や武家屋敷【松江市指定文化財】との共通券もありましたが、今回はその2ヶ所には訪れる時間がなかったので、松江城だけの入場券を購入しました。
そして天守入口の受付にて・・・
64番、松江城!・・・あっ・・・。
やってしまった・・・試押しを何度もやったのに、本番でミスをするとは・・・。
64番、松江城!
絵柄はもちろん、この天守。
画角は、森永さんのカードとほぼ同じですね。
附櫓から中に入ります。
靴を脱ぐ
附櫓に侵入してきた敵兵を射撃するための足場になっているそうですが・・・画の角度が悪すぎて、よくわかりませんなぁ。
次いで天守の地階へ。
地階は塩蔵として用いられていたようです。
昭和の解体修理で発見された塩札から、この塩蔵には有事に備えて塩俵25俵が納められていたと考えられています。
また、地階には井戸があります。
塩蔵とともに有事に備えたものといえます。
天守の中にある井戸といえば、浜松城の天守もこれに該当しますが、松江城、浜松城のどちらも堀尾吉晴の手がけた普請であるということが興味深いですね。
現存天守のなかで天守内に井戸があるのは、この松江城だけ。
ついつい覗いてしまう、井戸の底。
かつては24メートルもの深さがありましたが、現在は半分が埋められているのだそうです。
地階の柱に打ち付けられている、祈祷札・・・のレプリカ。
「奉讀誦如意珠洼長栄処」と筆記されているようですが・・・(ちょっと自信ありません)
それより重要な記述が、「慶長十六年 正月吉祥日」というもの。
平成24年(2012年)の調査で、この祈祷札が地階の柱に打ち付けられていたことが判明し、松江城天守の落成時期が慶長16年(1611年)の正月と特定されました。
築城を手がけた堀尾吉晴は、松江城の完成を見ることなく亡くなったと考えられてきましたが、この発見により、吉晴は松江城の完成を見た後で6月に亡くなったこともわかりました。
石垣があらわになっている地階から、上層階へ。
階段の角度チェック。
松江城の階段は、傾斜約50度ほど。
戦乱の火種が残っている江戸時代初期の城郭建築らしく、敵兵が上りづらい傾斜になっています。
松江城の柱には、番付と呼ばれる符号が残っています。
1階のこの柱には「十ノ九下」と彫り込まれており、建物を組み立てる際の整理番号として用いられたと考えらています。
彫込みの番付は、地階から2階までの柱で9か所確認されているそうです。
もっとよく見ればよかった・・・。
天守の2階は、武具や史料の展示スペースになっています。
こういうところの展示物はたいていはレプリカなので、軽く確認して通過かな~と考えていました。
なになに、後藤又兵衛所用?!
軍師・黒田官兵衛と、その子で福岡藩主となった黒田長政に仕えた猛将の武具が展示されています。
又兵衛は長政とそりが合わず、黒田家を出奔して豊臣秀頼に仕え、大坂の陣で戦死するのですが・・・又兵衛の武具がなんで松江にあるのでしょうか?
案内板の記述によると、又兵衛の弟が武具をもって脱出し、親戚の土岐氏に身を寄せたのだそうです。
土岐氏は松江藩士として仕え、又兵衛の武具を継承していったのだといいます。
2階から3階に上る階段。
ここの柱は、2フロアを貫いていて立っていることがわかります。
松江城の特徴のひとつに、通し柱というものがあります。
江戸時代の初期は、関ヶ原の戦いの戦功で新しい領地を得た多くの大名が、統治の本拠地となる城郭を改修、新築しました。
そしてこの時期に流行したのが、豪奢な天守閣。
長くて太い材木が不足したため、松江城の建造においては、短めの材木を使わなければならなかったのです。
松江城の天守では308本もの柱が利用されていますが、天守の上から下までを貫く心柱は1本もなく、2階分を貫く通し柱が96本配置され、天守を支えています。
建築時期の特定とともに、この通し柱の構造が解明されたことも、松江城天守が国宝に指定された要因となっています。
松江城の階段は、1階から4階までは桐を材料としています。
桐は防火や防腐に優れて軽いので、タンスの材料によく使われます。
平時においては長持ちするのと同時に、有事においては簡単に取り外しができるという利点があるようです。
階段下にある太鼓は、二之丸の太鼓櫓で使用されていたもので、レプリカではないそうな。
また、松平直政が大坂冬の陣・真田丸の戦いで真田信繁(幸村)からもたらされた軍扇も展示されているのだとか。
もっとしっかり見ておけばよかった・・・。
3階正面にある花頭窓。
この部分の窓です。
実用性重視の松江城天守ですが、この花頭窓にはその意味合いはなく、もっぱら装飾を目的としています。
西側の空間には箱便所が置かれていたのだといいます。
藩主用のものだったといいますが、このように天守内に便所があったのは珍しいものだそうです。
最上階への階段。
木材は、1階から4階までの階段に用いられた桐ではなく、栗の木が用いられているそうです。
途中に踊り場が設けられていて、これまでの階段とは趣を異にしていますね。
天守最上階は「天狗の間」とも呼ばれ、どの方向からも松江の城下町を見下ろすことができます。
最上階の柱は端整に製材され、太さも均一に揃えられているそうです。
文部科学大臣による国宝指定書も、最上階に掲げられています。
関ヶ原の戦いの後に出雲松江藩24万石の藩主となったのは、堀尾忠氏でした。
忠氏は当初月山富田城【国指定史跡】を本拠地としていましたが、狭い山地にある当地では城下町の形成に限界があったため、宍道湖を見下ろす亀田山に築城する計画を立てます。
しかし忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で急死、子の忠晴が後を継ぎますが幼年であったため、
隠居していた父の吉晴が後見人として藩政に当たることとなりました。
慶長12年(1607年)亀田山に築城が始まりました。
慶長16年(1611年)正月、松江城の落成を見届けた吉晴は、この年の6月に69歳で亡くなります。
その後寛永10年(1633年)堀尾忠晴が跡継ぎを残さずに死去したため、堀尾家は3代で改易となってしまいました。
寛永11年(1634年)京極忠高が若狭小浜藩(福井県)から26万石で加増、移封されました。
忠高により松江城の三之丸が造営され、松江城の全容が完成します。
しかし寛永14年(1637年)忠高は跡継ぎなく没したため、京極家は一時断絶してしまいます。
(のち忠高の甥・高和により再興され、丸亀藩(香川県)主として丸亀城の改築を手がけることとなります)
寛永15年(1638年)松平直政が信濃松本藩(長野県)より18万6千石で松江に入りました。
以降明治維新まで、松平家が松江藩主を務めました。
明治8年(1873年)の廃城令により、天守を除く建造物は払下げ、撤去されてしまいました。
天守も180円で払い下げられましたが、出雲の豪農・勝部
昭和10年(1935年)当時の国宝保存法に基づき、松江城天守が国宝に指定されました。
昭和25年(1950年)国宝保存法が廃止されて文化財保護法が施行されると、松江城天守は重要文化財に指定されます。
平成27年(2015年)天守は国宝に指定され、現在に至ります。
「天狗の間」と称される最上階から、松江の街を見下ろすとしましょう。
南側。
手前に見える洋館は、二之丸に建っている興雲閣【島根県指定有形文化財】。
明治36年(1903年)に完成した建物で、当初は明治天皇巡幸のおりの
その後明治天皇の巡幸は実現しませんでしたが、明治40年(1907年)皇太子・嘉仁親王(のちの大正天皇)が山陰を行啓されたときに、御旅館としてご滞在されました。
興雲閣の後方、旧三之丸には島根県庁舎。
その後方には松江の城下町、そして恵みの宍道湖が広がっています。
そうそう、「城攻め」も忘れずにしておきましょう。
日本100名城・第64番、松江城攻略!
松江城の南西にあった
引き続き、松江の城下を見下ろします。
北側は山がちな地形になっています。
中央の松江北高校より右後ろ側にある山が白鹿山で、ここに白鹿城が建っていました。
白鹿城は尼子氏に与する松田氏の居城で、日本海から島根半島を経て月山富田城へ至る補給路の中継地でもありました。
南西側。
宍道湖に西日が射していますね。
画像右側の小高い丘にあったのが、荒隈城です。
永禄5年(1562年)毛利元就が月山富田城攻略のための本拠地として築きます。
宍道湖の目の前ということで、宍道湖・中海の水運を監視できるとともに、白鹿城を経由する月山富田城の補給路にも影響を与えることができました。
月山富田城の攻略後、荒隈城は廃城となったようです。
松江城を建てる前、堀尾吉晴は荒隈の地に新たに城を築くべきと主張したといいますが、子の忠氏の「荒隈では城域が広すぎて、現状の石高では手に余る」という意見を容れたため、荒隈の地に再び城が築かれることはありませんでした。
なぜか気になる天井の棟札を確認し、天守から下りました。
西側からの天守&附櫓。
北西側からの天守。
やっぱり南西からの天守&附櫓が、一番画になりそうですね。
本丸を退去し二之丸に戻ってみると、興雲閣の前に鎮座する神社に、長蛇の列ができていました。
どうやら御朱印を頂戴するための行列のようです。
列に並ぶ前に、まずは参拝。
なんだか今にも朽ち果ててしまいそうな感じのする手水舎【移築現存】。
説明書きによると、寛永16年(1639年)に建築されたもので、明治32年(1899年)に松江城二之丸に移築されたもののようです。
・・・そうだったのですか、朽ち果ててしまいそうなんて失礼なことを考えちゃいましたね。
奉拝、松江神社!
松江神社・・・だったんですね、御朱印を頂戴して初めて社号がわかりました。
「松江」の名を冠しているわりには小規模な(失礼)神社ですが、松江城が国宝指定されるきっかけとなった祈祷札は、この神社で発見されたものです。
御朱印を求めるために30分近く行列に並び、
松江城を退去した時には、時刻は午後3時半を回っていました。