鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

松江城登城・第2章~登閣!国宝天守

2021-09-28 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 弐 時 廿 弐 分

松 江 城 天 守





やって参りました、松江城天守【国宝】!

江戸時代以前から現存している天守は、全国でも12棟しかありません。
そのうち国宝に指定されている天守は5棟で、東から順に松本城、犬山城、彦根城、姫路城、そしてこちら、松江城であります。

わが城攻め旅では、国宝4天守は制覇したのですが・・・
(姫路城の天守は、修復工事のために入れていませんが)



平成27年(2015年)7月8日に松江城が国宝に指定され、私にとってはぜひとも訪れなければならない城だったのです。


国宝たる天守にもう少し近づきましょう。

 

森永ハイソフト「日本の名城」カードの画角です。
松江城の天守もなかなかの迫力ですなぁ~、そしてなにより・・・美しい。
屋根が形作る三角形・入母屋破風いりもやはふが、どっしり構える望楼型天守に優美さを加えていますね。

しばし足を止め、天守をじっくり眺めていました。
こんなに天守を見ていたのは、松本城以来かも。
それくらいに私は、この松江城天守に魅せられていたのでした。





天守の中へ。
天守に付属している南西附櫓【国宝】から入ります。



入城料は、大人680円。
松江城周辺の史跡である小泉八雲旧居【国指定史跡】や武家屋敷【松江市指定文化財】との共通券もありましたが、今回はその2ヶ所には訪れる時間がなかったので、松江城だけの入場券を購入しました。
そして天守入口の受付にて・・・



64番、松江城!・・・あっ・・・。
やってしまった・・・試押しを何度もやったのに、本番でミスをするとは・・・。



64番、松江城!
絵柄はもちろん、この天守。
画角は、森永さんのカードとほぼ同じですね。




午 後 弐 時 廿 七 分

天 守 の 中 へ




附櫓から中に入ります。
靴を脱ぐ三和土たたきの場所に、石打棚が据えられています。
附櫓に侵入してきた敵兵を射撃するための足場になっているそうですが・・・画の角度が悪すぎて、よくわかりませんなぁ。





次いで天守の地階へ。
地階は塩蔵として用いられていたようです。
昭和の解体修理で発見された塩札から、この塩蔵には有事に備えて塩俵25俵が納められていたと考えられています。

また、地階には井戸があります。
塩蔵とともに有事に備えたものといえます。
天守の中にある井戸といえば、浜松城の天守もこれに該当しますが、松江城、浜松城のどちらも堀尾吉晴の手がけた普請であるということが興味深いですね。
現存天守のなかで天守内に井戸があるのは、この松江城だけ。



ついつい覗いてしまう、井戸の底。
かつては24メートルもの深さがありましたが、現在は半分が埋められているのだそうです。



地階の柱に打ち付けられている、祈祷札・・・のレプリカ。
「奉讀誦如意珠洼長栄処」と筆記されているようですが・・・(ちょっと自信ありません)
それより重要な記述が、「慶長十六年 正月吉祥日」というもの。
平成24年(2012年)の調査で、この祈祷札が地階の柱に打ち付けられていたことが判明し、松江城天守の落成時期が慶長16年(1611年)の正月と特定されました。
築城を手がけた堀尾吉晴は、松江城の完成を見ることなく亡くなったと考えられてきましたが、この発見により、吉晴は松江城の完成を見た後で6月に亡くなったこともわかりました。




石垣があらわになっている地階から、上層階へ。



階段の角度チェック。
松江城の階段は、傾斜約50度ほど。
戦乱の火種が残っている江戸時代初期の城郭建築らしく、敵兵が上りづらい傾斜になっています。

 

松江城の柱には、番付と呼ばれる符号が残っています。
1階のこの柱には「十ノ九下」と彫り込まれており、建物を組み立てる際の整理番号として用いられたと考えらています。
彫込みの番付は、地階から2階までの柱で9か所確認されているそうです。
もっとよく見ればよかった・・・。




午 後 弐 時 参 拾 八 分

天 守 弐 階


天守の2階は、武具や史料の展示スペースになっています。
こういうところの展示物はたいていはレプリカなので、軽く確認して通過かな~と考えていました。



紺糸威こんいとおどし具足大身槍が展示されていますね~。
なになに、後藤又兵衛所用?!
軍師・黒田官兵衛と、その子で福岡藩主となった黒田長政に仕えた猛将の武具が展示されています。
又兵衛は長政とそりが合わず、黒田家を出奔して豊臣秀頼に仕え、大坂の陣で戦死するのですが・・・又兵衛の武具がなんで松江にあるのでしょうか?

案内板の記述によると、又兵衛の弟が武具をもって脱出し、親戚の土岐氏に身を寄せたのだそうです。
土岐氏は松江藩士として仕え、又兵衛の武具を継承していったのだといいます。




午 後 弐 時 四 拾 参 分

天 守 参 階




2階から3階に上る階段。
ここの柱は、2フロアを貫いていて立っていることがわかります。

松江城の特徴のひとつに、通し柱というものがあります。

江戸時代の初期は、関ヶ原の戦いの戦功で新しい領地を得た多くの大名が、統治の本拠地となる城郭を改修、新築しました。
そしてこの時期に流行したのが、豪奢な天守閣。
長くて太い材木が不足したため、松江城の建造においては、短めの材木を使わなければならなかったのです。
松江城の天守では308本もの柱が利用されていますが、天守の上から下までを貫く心柱は1本もなく、2階分を貫く通し柱が96本配置され、天守を支えています。

建築時期の特定とともに、この通し柱の構造が解明されたことも、松江城天守が国宝に指定された要因となっています。



松江城の階段は、1階から4階まではを材料としています。
桐は防火や防腐に優れて軽いので、タンスの材料によく使われます。
平時においては長持ちするのと同時に、有事においては簡単に取り外しができるという利点があるようです。

階段下にある太鼓は、二之丸の太鼓櫓で使用されていたもので、レプリカではないそうな。
また、松平直政大坂冬の陣・真田丸の戦い真田信繁(幸村)からもたらされた軍扇も展示されているのだとか。
もっとしっかり見ておけばよかった・・・。




3階正面にある花頭窓



この部分の窓です。
実用性重視の松江城天守ですが、この花頭窓にはその意味合いはなく、もっぱら装飾を目的としています。




午 後 弐 時 四 拾 八 分

天 守 四 階




西側の空間には箱便所が置かれていたのだといいます。
藩主用のものだったといいますが、このように天守内に便所があったのは珍しいものだそうです。




最上階への階段。
木材は、1階から4階までの階段に用いられた桐ではなく、栗の木が用いられているそうです。
途中に踊り場が設けられていて、これまでの階段とは趣を異にしていますね。




午 後 弐 時 伍 拾 分

天 守 最 上 階


天守最上階は「天狗の間」とも呼ばれ、どの方向からも松江の城下町を見下ろすことができます。
最上階の柱は端整に製材され、太さも均一に揃えられているそうです。



文部科学大臣による国宝指定書も、最上階に掲げられています。


関ヶ原の戦いの後に出雲松江藩24万石の藩主となったのは、堀尾忠氏でした。
忠氏は当初月山富田城【国指定史跡】を本拠地としていましたが、狭い山地にある当地では城下町の形成に限界があったため、宍道湖を見下ろす亀田山に築城する計画を立てます。
しかし忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で急死、子の忠晴が後を継ぎますが幼年であったため、



隠居していた父の吉晴が後見人として藩政に当たることとなりました。
慶長12年(1607年)亀田山に築城が始まりました。
慶長16年(1611年)正月、松江城の落成を見届けた吉晴は、この年の6月に69歳で亡くなります。
その後寛永10年(1633年)堀尾忠晴が跡継ぎを残さずに死去したため、堀尾家は3代で改易となってしまいました。

寛永11年(1634年)京極忠高が若狭小浜藩(福井県)から26万石で加増、移封されました。
忠高により松江城の三之丸が造営され、松江城の全容が完成します。
しかし寛永14年(1637年)忠高は跡継ぎなく没したため、京極家は一時断絶してしまいます。
(のち忠高の甥・高和により再興され、丸亀藩(香川県)主として丸亀城の改築を手がけることとなります)



寛永15年(1638年)松平直政が信濃松本藩(長野県)より18万6千石で松江に入りました。
以降明治維新まで、松平家が松江藩主を務めました。

明治8年(1873年)の廃城令により、天守を除く建造物は払下げ、撤去されてしまいました。
天守も180円で払い下げられましたが、出雲の豪農・勝部栄忠しげただ・景浜父子や元藩士・高城たかぎ権八らが買い戻したために、解体を免れることができました。

昭和10年(1935年)当時の国宝保存法に基づき、松江城天守が国宝に指定されました。
昭和25年(1950年)国宝保存法が廃止されて文化財保護法が施行されると、松江城天守は重要文化財に指定されます。



平成27年(2015年)天守は国宝に指定され、現在に至ります。



「天狗の間」と称される最上階から、松江の街を見下ろすとしましょう。



南側。

手前に見える洋館は、二之丸に建っている興雲閣【島根県指定有形文化財】。
明治36年(1903年)に完成した建物で、当初は明治天皇巡幸のおりの行在所あんざいしょとなる予定でした。
その後明治天皇の巡幸は実現しませんでしたが、明治40年(1907年)皇太子・嘉仁親王(のちの大正天皇)が山陰を行啓されたときに、御旅館としてご滞在されました。

興雲閣の後方、旧三之丸には島根県庁舎
その後方には松江の城下町、そして恵みの宍道湖が広がっています。


そうそう、「城攻め」も忘れずにしておきましょう。



日本100名城・第64番、松江城攻略!



松江城の南西にあった荒隈あらわい、同じく北にあった白鹿しらがも攻略できました。


引き続き、松江の城下を見下ろします。



北側は山がちな地形になっています。
中央の松江北高校より右後ろ側にある山が白鹿山で、ここに白鹿城が建っていました。
白鹿城は尼子氏に与する松田氏の居城で、日本海から島根半島を経て月山富田城へ至る補給路の中継地でもありました。



南西側。
宍道湖に西日が射していますね。
画像右側の小高い丘にあったのが、荒隈城です。
永禄5年(1562年)毛利元就月山富田城攻略のための本拠地として築きます。
宍道湖の目の前ということで、宍道湖・中海の水運を監視できるとともに、白鹿城を経由する月山富田城の補給路にも影響を与えることができました。
月山富田城の攻略後、荒隈城は廃城となったようです。
松江城を建てる前、堀尾吉晴は荒隈の地に新たに城を築くべきと主張したといいますが、子の忠氏の「荒隈では城域が広すぎて、現状の石高では手に余る」という意見を容れたため、荒隈の地に再び城が築かれることはありませんでした。




なぜか気になる天井の棟札を確認し、天守から下りました。




午 後 参 時 弐 分

松 江 城 本 丸




西側からの天守&附櫓。



北西側からの天守。



やっぱり南西からの天守&附櫓が、一番画になりそうですね。




午 後 参 時 七 分

松 江 城 二 之 丸

松 江 神 社


本丸を退去し二之丸に戻ってみると、興雲閣の前に鎮座する神社に、長蛇の列ができていました。
どうやら御朱印を頂戴するための行列のようです。



列に並ぶ前に、まずは参拝。



なんだか今にも朽ち果ててしまいそうな感じのする手水舎【移築現存】。
説明書きによると、寛永16年(1639年)に建築されたもので、明治32年(1899年)に松江城二之丸に移築されたもののようです。

・・・そうだったのですか、朽ち果ててしまいそうなんて失礼なことを考えちゃいましたね。



奉拝、松江神社!
松江神社・・・だったんですね、御朱印を頂戴して初めて社号がわかりました。
「松江」の名を冠しているわりには小規模な(失礼)神社ですが、松江城が国宝指定されるきっかけとなった祈祷札は、この神社で発見されたものです。



御朱印を求めるために30分近く行列に並び、





松江城を退去した時には、時刻は午後3時半を回っていました。





松江城登城・第1章~うんぱく3城制覇?

2021-09-28 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 壱 時 参 拾 参 分

島 根 県 庁



日本100名城登城の旅・第22弾「縁結び祈願のたび」の最大の目的地・・・



松江城【国指定史跡】にやって参りました。
早くも、平成27年(2015年)に国宝に指定された天守にお目見えしております。


さて、私をここまで運んでくれたママチャリさんを、どこに停めたらいいのか・・・?
水濠を挟んで松江城の対面にある島根県庁のあたりで、駐輪場を探していると・・・



一体の騎馬像を発見。





天守を仰ぎ見る騎馬像は、松平直政公騎馬像(初陣像)です。


松平直政は、慶長6年(1601年)松平秀康の三男として誕生しました。
松平秀康は徳川家康の二男なので、直政は家康の孫、2代将軍秀忠の甥にあたります。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に出陣し、真田幸村が守る真田丸の攻略を担当しました。
このときの戦いぶりを見た敵将の幸村は、大いに感心して自らの軍扇を投げ渡したといいます。
翌20年(1615年)の大坂夏の陣にも参戦、兄の忠直の指揮下で活躍しました。

戦後の元和2年(1616年)上総姉ヶ崎藩(現在の千葉県市原市)に1万石の所領を与えられ、大名となります。
寛永10年(1633年)には信州松本藩7万石に移封されます。
国宝に指定されている松本城の天守に月見櫓が増築されますが、これは直政の手によるものです。

寛永15年(1638年)出雲松江藩18万6千石に加増、移封されます。
以後松江藩は、明治維新まで松平家が治めることとなりました。





軍馬にまたがる直政公の視線の先、松江城の本丸へと向かいます。



ママチャリにまたがって、大手門跡へ。
その手前の広場には、もう1体の銅像が立っています。



本丸を指し示す堀尾吉晴公像


堀尾吉晴織田信長に仕えて、上官となった木下秀吉(豊臣秀吉)とともに立身出世を遂げた武将です。
永禄10年(1567年)の稲葉山城攻略戦では裏道の案内役を務め、秀吉の軍勢を城内に導いたといいます。

吉晴は「仏の茂助」と称されるほど穏やかな人柄であったといい、そのためか敵軍との交渉役や味方内のの調整役を務めることもありました。
天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の切腹を見届け、秀吉死後は「三中老」のひとりとして徳川家康石田三成・前田利家らの対立を調整しました。
(なお「三中老」は実在しなかったというのが、現在では有力な説となっています)

慶長4年(1599年)老齢を理由に隠居し、家督を嫡子・忠氏に譲りました。
翌年の関ヶ原の戦いでは親子ともに徳川方につき、戦後忠氏は出雲24万石が与えられました。
当初の本拠地は月山富田城でしたが、城下町の形成に有利な亀田山に築城する計画を策定します。
慶長9年(1604年)忠氏が急逝し、吉晴の孫・忠晴が後を継ぎますが、幼年のため吉晴が後見することになります。
慶長16年(1611年)正月、亀田山に築城された松江城が落成し、その年の6月に亡くなりました。




銅像の吉晴公は、松江城の築城を指図しているところでしょうか。
築城が始まった慶長12年(1607年)で、吉晴公は御年65。
彼が精励するこの銅像は、老将の力強さとともに、嫡子の急死で楽隠居できなくなったという、ある種の悲壮感をも表現しているかのようですね。




戦国の世を生き抜いた堀尾吉晴の城・松江城に入りましょう。
こちらの大手門跡から、ママチャリに乗ったまま入城することができます。



路傍には、広告のような立て看板が並んでいます。
そういえば宿屋でぼんやりニュースを見ていたら、松江水燈路とかいうお祭りをやっているとか言ってたな・・・それかな?




二之丸下段の空間。
最初は2棟の米蔵があっただけでしたが、備蓄の必要から米蔵は増築されていきました。



二之丸下の段の脇に駐車場があり・・・ってことは、自転車どころか自動車まで城内に入ることができるようですね。
駐輪場はぶらっと松江観光案内所の脇にあるということで、ママチャリさんとはしばしのお別れ。
案内所に立ち寄って、パンフレットを入手するとともに・・・



登閣記念 国宝天守・松江城!・・・の御城印(300円)を、また登閣してもいないのにゲット。
3つの家紋は松江藩主を務めた3家のもので、最初に藩主を務めた堀尾家「分銅紋」、次いで藩主を務めた京極家「平四つ目ゆい、その後を受け明治維新まで藩主を務めた松平家「三つ葉葵」です。



うんぱく3城制覇!
(いずも)国の月山富田城【国指定史跡】に松江城【国指定史跡】。
耆(ほうき)国の米子城【国指定史跡】。
3つの御城印がそろったことで、「うんぱく3城御城印めぐりキャンペーン」への応募権を獲得!
さっそくこの場で応募しましたが、その結果はまた、別の話ということで。





大手道にそびえ立つ、二之丸の石垣。
いい画ですねぇ~、圧巻です。
2棟の櫓は、右が太鼓櫓【再建】、左が中櫓【再建】。



太鼓櫓下の石垣。
端整な算木積み、そして美しい扇の勾配ですねぇ。



二之丸上段へと続く三ノ門跡の石垣。
くさびを打ち込むために穿った矢穴がくっきり。



石をよく見ると、堀尾家の家紋「分銅紋」が描かれているものもありますね。





三ノ門跡を経由して、二之丸上段へ。



時を知らせる太鼓が置かれていたという太鼓櫓【再建】。
他の櫓とは異なってひさしが据え付けられているのは、人の出入りが比較的多かったからでしょうか。



こちらは中櫓【再建】。
幕末の図面では「御具足蔵」と記されているので、武具の保管庫であったものと考えられています。



二階建ての南櫓【再建】。
幕末の図面では「御召し蔵」とあったようです。
二階建てで城下町の方向を向いていたため、その監視をする役割があったものと考えられています。



この日の櫓の役割は、燈籠の保管庫といったところでしょうか。



南櫓付近からの眺め。
島根県庁のあるところは、松江城の三之丸にあたります。


本丸に上る前に・・・



石垣を見て回ります。



メインディッシュの天守【国宝】は次回で・・・。



荒々しい野面積みの石垣です。



こういう天守の画も、悪くありませんねぇ~。

 

松江城にも人柱伝説があるようです。
難工事だったことを物語るような石垣ですね。





二ノ門跡





一ノ門【再建】を経て、



ついに天守とご面会へ・・・!





意宇六社めぐり・最終章~熊野神社参拝?

2021-09-20 | チャリ旅


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 後 拾 弐 時 参 分

松 江 市 東 出 雲 町

平 賀 公 会 堂 ・ 黄 泉 比 良 坂 伝 説 地 付 近



死の淵から蘇った私を待ち受けていた、公会堂の媼。

 

もしや・・・媼は伊弉諾尊イザナギノミコトを捕捉せんとした伊弉冉尊イザナミノミコトの化身だったのか?!
「黄泉帰り」の証として御朱印を賜ったものの、30分ほど公会堂にとどまることになりました。



意宇おう六社めぐり」最後の神社は、熊野神社【出雲國一宮】。
地図を見ると・・・これはかなり頑張らなきゃいけませんなぁ。
わき目も振らずひたすらママチャリで進み、12時11分。



熊野神社に到着しました。


この日はさらに巡る場所があったため、残念ながら熊野神社の画像は撮れずじまいになってしまいました。
御朱印もいただくことはできなかったのですが、とりあえず六社めぐりはこれにて完了!ということにしましょう。



【熊野神社までのルート】



*移動距離 10.4km


いや~、熊野神社は遠かったですなぁ。
上り坂もなかなかにきつかったです、うんうん。




それでは、先を急ぎますかな。



国道9号を西へと進み、松江市内をめざします。
進行方向右側には、宍道しんじ中海をつなぐ大橋川が見えてきます。



山陰本線の車窓からも見えた、大橋川に浮かぶ塩楯島に鎮座する手間天神社


『古事記』によると、造化三神の一柱・神産巣日神カミムズビノカミ神皇産霊尊カミムスビノミコトが産んだ神で、体がとても小さい少名毘古那神スクナビコナノカミ少彦名命スクナヒコナノミコトがいらっしゃいました。
少名毘古那神は、神産巣日神の指の間から落ちてしまい、地上に降臨することになります。
そのおりに海水が凝固して島になったと伝わり、後世「塩楯島」と呼ばれるようになったそうです。
また少名毘古那神は、手の間から落ちたということで「手間天神」とも呼ばれることになったそうです。

地上に降臨した少名毘古那神は、出雲の神・大国主神オオクニヌシノカミ大己貴命オオアナムチノミコトと兄弟の契りを交わし、ともに国づくりに精を出したといいます。
そして人民や家畜の病を治すための方法を定め、また害鳥や害虫から穀物を守るためのまじないの方法も定めたといい、現在は国土経営の神、農耕の神、医療の神として信仰されています。



この塩楯島も「神蹟地」とされているので、祭礼の日を除いて入島は禁じられています。
また祭礼の日であっても、入島できるのは一部の者に限られているそうです。
私も、国道9号の路上から手を合わせ、先へと進みます。




午 後 拾 弐 時 四 拾 四 分

J R 松 江 駅 北 口


松江の市街地に戻ってきました。



思っていたよりも質素な面持ちのJR松江駅
ママチャリはさらに進み、宍道湖に面する松江の中心街へ。
駅通りから新大橋通りへと曲がったところで、とあるカフェに立ち寄ります。



この日のランチはこちら、「IMAGIN. COFFEE(イマジン. コーヒー)」でいただきます。

こちらは旅立ち前、当時同僚だった女性にお勧めされたカフェ。
彼女は一時期松江に住んでいて、こちらのオーナーさんとは知り合いのようで、「私の名前を出してもいい」と言っていました。

初見の旅人ならばまず素通りするであろう、それほど大きくなく目立たない感じのカフェ。
中に入ると、オーナーさんと思われる女性に客がひとりと、静かな感じの店内。
こりゃあ「Iさん(元同僚)にお勧めされて、はるばる千葉の柏からやってきましたよぉ~」なんて厚かましいことを言える雰囲気ではないですなぁ。
ここは普通の客として、普通にランチをいただいて、普通にコーヒー飲んで、普通に出るとしましょうか。

朝から神社を6社くらい?参拝し、20kmほどの自転車移動を敢行したので、



砂の国の珈琲店でいただいたような、しっかりとしたランチをいただきたいな~と思って、メニューを拝見しました。
すると・・・FOOD(食事)の欄が「トースト」と「チョコレート」しかない模様。
よく見ると、トースト・セット(税抜600円)があったので、これをオーダーすることにしました。
コーヒーは、喉が渇いていたのでアイスコーヒーにしました。


まず、アイスコーヒーがやってきました。



アイスコーヒー、後味酸っぱい???
私は喫茶店をよく利用はしますが、はっきりいってコーヒーの味なんてよくわかりません。
そんななんちゃって珈琲愛好家が飲んだもんだから、後味が酸っぺぇなぁ~ぐらいのうっすーい感想しか出てきません。
そばにあった「本日のコーヒー」の説明書きを読んでみると・・・なるほど、なるほど。
コーヒーチェリーという果実の種子がコーヒー豆であって、云々。
説明書きの内容は詳しくは忘れてしまいましたが、それを読んだ後で再び飲んでみると・・・



アイスコーヒー、後味がフルーティでさわやかです!
・・・ああ、惜しむらくは私の喉が渇いていたため、よく味わうことなく飲み込んでしまったことでしょうか。

そうこうしているうちに、トーストがやってきました。



トースト・バター、うまい!
おいしいですが、やっぱり物足りない?
これは、来店するタイミングを間違えたのでしょうか。

ここは、1時間以上ゆったりし、コーヒーを味わい、ついでに軽食をつまむところ。
ちゃりんこでダーっと来て、ぐいっと飲んでガッツリ食らって、さっと出ていくようなところじゃないのです。

残念なことに、この後私が訪れるべき場所は多く、こちらで長居をすることはできませんでした。




午 後 壱 時 廿 六 分

松 江 新 大 橋


島根県のふたつの湖をつなぐ大橋川



松江新大橋を渡り、北岸へ。
西に見える松江大橋のほうへ進みます。
ひときわ高いビルは山陰合同銀行本社ビルで、島根県で最も高い建築物です。



大橋川の北を流れる京橋川
松江の市街地を東西に走る水路で、慶長16年(1611年)の堀尾吉晴による築城に際して造られたものです。
築城とセットで造られた水路なので、水濠の役割を担っていたわけですね。



午後1時33分。



やっと、この旅最大の目的地・松江城【国指定史跡】にたどり着きました。





意宇六社めぐり・第6章~あの世の境目・黄泉比良坂

2021-09-20 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 拾 時 五 拾 八 分

松 江 市 東 出 雲 町

揖 夜 神 社





揖夜神社を参拝し、意宇おう六社めぐり」は残る1社となりました。
最後の神社・熊野神社に向かう前に、1箇所だけ寄り道します。



前日の山陰本線からの車窓から見えた、気になる看板。



黄泉比良坂 Yomotsu-hirasaka 0.4km ⇒
黄泉比良坂って、たしかあの世との境目だったよな・・・・・・あの世の入口って、島根県にあったのか?


そしてこの日、「意宇六社めぐり」で揖夜神社を参拝するにあたり、この不可思議な黄泉比良坂なる場所にも行ってみようと考えたわけです。
看板にあるとおり、山陰本線の踏切をわたったら400メートルほど進みます。



要所要所に看板があるので、迷わずに行けます。



道中には、黄泉比良坂の御朱印所もあるそうな。


このまま道を進み、黄泉比良坂の伝説地・伊賦夜いふやに到着。

ちょっとした駐車場もあり、車が数台停まっていました。
神話の伝承地というだけあって、観光客もそこそこいるようだな・・・そう思っていたら、一台の車から釣竿を持ったおじさまが下りました。
どうやら黄泉比良坂に来たのではなく、すぐそばのため池で釣りをしに来たようでした。



【揖夜神社 → 黄泉比良坂伝説地 のルート】



揖夜神社 10時58分発
島根県道191号揖屋停車場線経由
黄泉比良坂伝説地 11時08分着

*移動距離 1.2km
*所要時間 10分  (平均の速さ 7.2km/h)




午 前 拾 壱 時 八 分

黄 泉 比 良 坂 伝 説 地 ・ 伊 賦 夜 坂


ママチャリさんを停め、伝説地に足を踏み入れます。



石柱2本にしめ縄が拵えられています。
神社の鳥居の原型のようなものでしょうか。
鳥居と同じく結界を示すものだと思われますが、ここのものはなんとも雰囲気がおどろおどろしいです。



「神蹟 黄泉平坂・伊賦夜坂伝説地」の石碑


国父の神・伊弉諾尊イザナギノミコトと国母・伊弉冉尊イザナミノミコトは森羅万象の神々を産みましたが、火の神・軻遇突智かぐつちを産んだ際に陰部を火傷したために、伊弉冉尊は死んでしまいました。
伊弉諾尊は激怒して軻遇突智を殺すと、伊弉冉尊の遺体を比婆山(現在の島根県安来市とされています)に埋葬しました。
しかし、伊弉諾尊が伊弉冉尊に逢いたい気持ちは日増しに募っていき、ついに伊弉諾尊は死者の世界・黄泉よみに向かったのです。

黄泉国で再会した二柱ですが、伊弉冉尊は「黄泉国の食事をとった」という理由で、伊弉諾尊のもとに戻ることをためらいます。
伊弉諾尊がなおも願うと、伊弉冉尊は了承して、
「黄泉国の神の許しを得るので、しばらく待ってほしい。その間、決して私の姿を見てはいけない
と告げました。
伊弉諾尊がしばし待っても、伊弉冉尊はその姿を現しませんでした。
待ちきれなくなった伊弉諾尊はついに伊弉冉尊のところへ向かうと、そこには最愛の妻が腐敗した姿があったのです。
驚いた伊弉諾尊は、あまりのことにその場から逃走しました。

変わり果てた姿を見られてしまった伊弉冉尊は、夫に恥をかかされたと激怒。
一飛びで千里を走るという泉津醜女よもつしこめ(黄泉醜女)や、黄泉国の軍勢に夫を追わせました。

伊弉諾尊が自らの髪飾りを投げると、ブドウが生えてきました。
泉津醜女はブドウの果実を食べるのに夢中になりましたが、やがて我に返り、再び伊弉諾尊を追い始めました。
伊弉諾尊が自らのくしを投げると、タケノコが生えてきました。
泉津醜女はタケノコを食べるのに夢中になり、その間に伊弉諾尊は逃げおおせました。
しかし黄泉国の軍が伊弉諾尊を追いかけてきます。
伊弉諾尊はその場に生えていた桃の実を投げると、その霊力により黄泉国の軍勢は撤退していきました。

しかしついには、伊弉冉尊自身が伊弉諾尊を追いつめていきます。
伊弉諾尊は辛くも黄泉比良坂まで逃れると、地上の出口を千引きの岩という巨岩で塞いでしまい、伊弉冉尊との離縁を宣言しました。
千引きの岩の向こうから伊弉冉尊は呪詛し、
「わたしはおまえの国の人間を1日1000人殺してやる」
というと、伊弉諾尊は、
「だったらわたしは、1日に1500の産屋を建ててやろう(人間を1日1500人産ませてやろう)」
と答えたのでした。



この世とあの世の境界・黄泉比良坂
『古事記』によれば、その黄泉比良坂は出雲国にある伊賦夜坂を指すのだといいます。



その伊賦夜坂があるのが、この地だというのです。



石碑の近くに横たわっている岩が、千引きの岩なのだそうです。
こんなところに千引きの岩が転がっているってことは、黄泉国との境界が塞がっていないということ・・・?



黄泉軍を追い払う?ためのヤマモモの木が植えてありました。



おどろおどろしいしめ縄の結界を出ました。



こちらにも桃の木が植わっているようです。


なれあれを助けしが如く、葦原中国あしはらのなかつくにに有らゆるうつしき青人草あおひとくさの、苦しき瀬に落ちて、うれなやむときに助くべし。
(桃の実よ、私を助けたように、この世の人々が苦しみに流されて、悩み事に呆然となっていたら助けてやってくれ)


虎口を脱した伊弉諾尊はこのように仰せになり、桃の実に意富加牟豆美命オオカムヅミノミコトの神名を与えられたのでした。




そしてこちらが、伊賦夜坂の入口。



いざ、黄泉国へ!



これは・・・水準点でしょうか?
国土地理院の職員さんは、黄泉国にまで測量のためにやってきているのでしょうか。



どこまでも続きそうな下り坂です。



大小の石がまとまっている箇所がありました。



こちらがさえの神なのだそうです。
「さえ」の神とはすなわち「遮る」神ということで、地域の境界にあって外界の悪霊や疫病を遮るものとされています。

・・・ん? ここでいう「境界」って?!





午 前 拾 壱 時 廿 弐 分

黄 泉 帰 り




無事に蘇った私は・・・・・・



黄泉比良坂の御朱印をいただくことのできる平賀公会堂へ。

まさか黄泉比良坂の御朱印があるとは思いませんでした。
伊弉諾尊と伊弉冉尊に関係するから、神社の御朱印帳に書き入れてもらうのかな?
そう考え、公会所におわす齢70ばかりと思われる媼に、300円を支払って御朱印帳を手渡しました。

私は媼の言うまま公会所の中に入り、御朱印帳の書入れを待っていました。

「どちらからいらっしゃったんですか?」『千葉県の柏です』
旅人の出身地の話を皮切りに、媼との会話が盛り上がっていきます。



神跡地、黄泉比良坂!
主祭神?の黄泉津大神ヨモツオオカミを中央に記してあります。
ご本尊を中央に筆記するお寺さんの御朱印に倣っているかのようですね。
桃の実の朱印も、また面白いですね。

こちらの御朱印だけ、なんと金墨汁で筆記してくださいました。
達筆なる媼曰く、「今日は即位の礼だから、特別ですよ」。



有難い金色の御朱印を頂戴したところで、公会堂を退出・・・・・・。

「映画のロケ地にもなりましてねぇ」「北川景子さんもいらっしゃったんですよ」

有難い金色の御朱印を頂戴したところで、公会堂を退出・・・・・・・・・・・・。

「私も80歳を超えましてねぇ」「もうそろそろ坂の向こうに行くかもしれませんけど」

話好きなる媼の口は止まず、私は40分ほど、公会堂で腰を下ろすこととなったのでした。