鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

【画廊】ハイソフト「日本の名城」コンプリート

2017-08-30 | 城郭【日本100名城】


ハイソフト「日本の名城」ギャラリーへようこそ。








ここでは、当サイトの管理人が自らハイソフトを購入し、賞味したうえで、収集した「日本の名城」カード全16枚を展示いたします。
どうぞ、ごゆっくりご観賞くださいませ。



No.1 五稜郭 【国指定特別史跡】(北海道函館市) 日本100名城・第2番



カードの絵柄は、五稜郭タワーから見下ろした五稜郭です。

幕末に欧米諸国がアジアに勢力を広げるにおよび、幕府が欧米の要塞建築を導入してできた星形要塞です。
大政奉還江戸開城で幕府が終焉を迎えると、これをよしとしない旧幕府軍は蝦夷地(北海道)に脱出。
五稜郭を本拠地として政権を樹立しますが(いわゆる「蝦夷共和国」)、総裁榎本武揚は降伏を決断し、戊辰戦争は終わりました。



No.2 横手城 (秋田県横手市)



カードの絵柄は、模擬天守です。

秋田県の南東部を支配した小野寺氏の居城でしたが、関ヶ原で西軍についたため、改易。
戦後に秋田に移封させられた佐竹義宣のものとなりました。
一国一城令の例外で横手城は存続し、明治維新まで佐竹氏の家臣・戸村氏の居城でした。



No.3 鶴ヶ城 【国指定史跡】(福島県会津若松市) 日本100名城・第12番



カードの絵柄は、復興天守です。

はじめは「黒川城」といいましたが、蒲生氏郷が城主の際に大改修をし、「若松城」と改称されました。
雅称の「鶴ヶ城」は、蒲生氏郷の幼名「鶴千代」から来ています。
城主が目まぐるしく変わりましたが、江戸時代中期から保科松平(会津松平)家の居城となり、幕末の会津戦争の戦地となりました。



No.4 小田原城 【国指定史跡】(神奈川県小田原市) 日本100名城・第23番



カードの絵柄は、復興天守です。

小田原城は最初大森氏の本拠地でしたが、15世紀末から16世紀初頭のあいだに北条早雲が奪い取り、以後北条氏5代の本拠地となりました。
3代目氏康の代に大幅に増築され、上杉謙信武田信玄も攻め落とせなかった「難攻不落の巨城」となりましたが、豊臣秀吉小田原征伐で、ついに北条氏は降伏。
関東は徳川家康に与えられ、譜代の大久保氏が明治維新まで城主を務めました。



No.5 越前大野城 【福井県指定史跡】(福井県大野市) 続日本100名城・第138番



カードの絵柄は、俯瞰した復興天守群です。

織田信長の家臣・金森長近が、越前の一向一揆平定の恩賞として大野郡が与えられた折に建てられました。
江戸幕府成立時には越前松平家(徳川家康の次男・松平秀康を祖とする家系)の支城となります。
天和2年(1682年)大老・土井利勝の四男・利房が入封されてからは、明治まで土井家が城主となりました。



No.6 上田城 【国指定史跡】(長野県上田市) 日本100名城・第27番



カードの絵柄は、本丸東虎口櫓門【復元】と本丸北櫓【長野県宝】です。

上田城は天正11年(1583年)に真田昌幸によって築城されました。
昌幸はこの城で徳川家康の軍勢を2度迎え撃ち2度大勝しましたが、関ヶ原の戦いで勝利した家康は真田昌幸・信繁(幸村)父子を追放し、上田城は徹底的に破壊されました。
後に仙石忠政が上田に移り、幕府の許可を得て築いた城が、現在に残る上田城です。



No.7 松本城 【国指定史跡】(長野県松本市) 日本100名城・第29番



カードの絵柄は、乾小天守・天守渡櫓・大天守・巽附櫓・月見櫓【国宝】による連結天守群です。

元を深志城といい、戦国時代には守護の小笠原氏の支配に属していましたが、甲斐の武田晴信(信玄)が攻め取りました。
武田信玄の死後、織田信長による侵略を受けますが、信長が本能寺で斃れ、そのどさくさで徳川家康がこの地を攻め取り、小笠原貞慶が城主に返り咲き、名を松本城に改めました。
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、もと家康の重臣・石川数正(かずます)が城主となり、現存する天守群が築かれたのです。



No.8 犬山城 (愛知県犬山市) 日本100名城・第43番



カードの絵柄は、現存天守【国宝】です。

織田信長の叔父・信康によって築城されました。
関ヶ原の戦い後は、尾張徳川家の付家老である成瀬正成が犬山城主となりました。
以後犬山城は、(あいだに明治政府の接収があったものの)平成16年まで成瀬家が城主を務めていました。



No.9 名古屋城 【国指定特別史跡】(名古屋市中区) 日本100名城・第44番



カードの絵柄は、大天守【外観復元】です。

徳川家康の命により、西国の諸大名による「天下普請」により築城されました。
家康は名古屋城を九男・義直に与え、尾張徳川家が江戸時代を通じて城主を務めました。
第2次大戦で米軍の空襲を受け、天守と御殿は炎上、現在の天守は、戦後に鉄筋コンクリート造で復元されたものです。



No.10 長浜城 【長浜市指定史跡】(滋賀県長浜市)



カードの絵柄は、模擬天守です。

長浜城【長浜市指定史跡】は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が一国一城の主となったときの最初の城です。
当時「今浜」と呼ばれていたこの地は、信長の「長」の字をいただき「長浜」と改まりました。
関ヶ原の戦い後、内藤氏が城主になりますが、大坂の陣後に廃城となり、資材の大半は彦根城【国指定特別史跡】の築城に流用されました。



No.11 大坂城 【国指定特別史跡】(大阪市中央区) 日本100名城・第54番



カードの絵柄は、外観復元天守【国登録有形文化財】です。

もとは、織田信長に頑強に抵抗した石山本願寺の跡地で、本願寺が退去した天正11年(1583年)、豊臣秀吉の本拠地として築城されました。
秀吉死後の大坂の陣で大坂城は炎上しますが、豊臣時代から姿を変えて新築されました。
現在の大坂城は、徳川時代の天守台に豊臣時代の天守が復興されたものとなっています。



No.12 姫路城 【世界遺産・国指定特別史跡】(兵庫県姫路市) 日本100名城・第59番



カードの絵柄は、連立天守群で、大天守・イの渡櫓・東小天守【国宝】が写っています。

播磨守護・赤松氏が有する城でしたが、黒田官兵衛孝高羽柴秀吉に帰順し、西国攻略の本拠地となりました。
関ヶ原の戦いの後は池田輝政が入り、8年の歳月を費やして改修、拡張し、現在の天守を築きました。
池田氏3代の後は、本多忠政が入封し、長男・忠刻とその室・千姫のために西の丸を整備し、現在の姫路城の姿となりました。



No.13 竹田城 【国指定史跡】(兵庫県朝来市) 日本100名城・第56番



カードの絵柄は、本丸から望む千畳敷です。

但馬(兵庫県北部)の守護・山名宗全が播磨への出撃拠点として築城し、山名氏の重臣・太田垣氏が代々城主を務めました。
時代は下り16世紀後半、織田信長は中国地方攻略の総司令官として羽柴秀吉を播磨に派遣、秀吉の弟・秀長が竹田城を落としました。
斎村正広があらたに城主となり、山頂に広がる総石垣の城に生まれ変わりましたが、正広は関ヶ原の戦いの不手際の責めを負い切腹、主を失った竹田城は廃城になりました。



No.14 松江城 【国指定史跡】(島根県松江市) 日本100名城・第64番



カードの絵柄は、現存天守【国宝】です。

関ヶ原の戦いでの功績により出雲国24万石を与えられた堀尾吉晴により築城されました。
堀尾氏が改易となると、次いで入封した京極忠高は松江城の造営を進め、完成させました。
忠高が没して嗣子がなく京極家も改易となると、その後は松平直政が受け、明治維新まで続きました。



No.15 岡山城 【国指定史跡】(岡山市北区) 日本100名城・第70番



カードの絵柄は、外観復元天守です。

豊臣五大老のひとり・宇喜多秀家が、慶長2年(1597年)に築城しました。
しかし関ヶ原の戦いで西軍の首脳となった秀家は八丈島へ流され、代わって西軍から寝返った小早川秀秋が岡山に入り、城下を開発しました。
秀秋は2年で死去、世継ぎがいなかったため改易となり、代わって池田家が入り、明治維新まで続きました。



No.16 首里城 【世界遺産・国指定史跡】(沖縄県那覇市) 日本100名城・第100番



カードの絵柄は、正殿【再建】と御庭(うなー)です。

創建は13世紀から14世紀と考えられていますが、15世紀初頭に琉球を統一した尚巴志によって琉球王国の王城として整備されました。
首里城は火災のために何度か焼失しており、現在の首里城は正徳5年(1715年)に再建されたときの姿をもとにしています。
昭和20年(1945年)、上陸した米軍の攻撃により全焼しましたが、戦後琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後の復元事業により首里城が復元されました。






ハイソフト「日本の名城」最後の名城

2017-08-24 | 日記


2 0 1 7 年 8 月 2 3 日 ( 水 )

千 葉 県 柏 市

新 し い 本 拠 地 に て



15枚目のカードをゲットしてからというものの、ほぼ毎日通っていたローソンには足を運ぶことはなくなりました。
ほぼ毎日口にしていたハイソフトは、2日に1箱、3日に1箱、と、食べる頻度が落ちていきました。

出てくるカードは、今まで出ていたカードの繰り返し・・・。

ハイソフトを口にする機会はさらに減少し、ここ最近は1週間に1箱というペースになっていました。


この状況下、私事ながら、10年住んだ北習志野から柏に拠点を移すこととなりました。


そして新たに通うこととなった近所のスーパーで、たまたま購入したハイソフトを開けると・・・



No.10 長浜城!
名城カード、ここに完全登城(コンプリート)!!



長浜城【長浜市指定史跡】は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が一国一城の主となったときの最初の城です。

近江国(滋賀県)北部を支配していた浅井長政を滅ぼした織田信長は、浅井攻めで戦功を挙げた秀吉に、浅井の旧領を与えました。
秀吉は、浅井長政の居城であった小谷城【国指定史跡】ではなく、琵琶湖の湖畔に新たに城を築きました。
当時「今浜」と呼ばれていたこの地は、信長の「長」の字をいただき「長浜」と改まりました。
長浜城の築城には、小谷城の資材が多く使用されたそうです。

信長の死後その重臣が集まった清洲会議で、長浜城は柴田勝家の甥・柴田勝豊の手に渡ります。
その後秀吉と勝家が対立すると、秀吉は柴田勝豊を調略し、城ごと寝返らせました。

関ヶ原の戦い後、内藤氏が城主になりますが、大坂の陣後に移封され、長浜城は廃城となりました。
資材の大半は彦根城【国指定特別史跡】の築城に流用されたそうです。



カードの写真は、長浜城模擬天守です。
模擬天守なので史実には基づきません。
犬山城天守【国宝】や伏見城小天守【模擬】をモデルにしているそうです。



「日本の名城」カードをコレクションしてから約8か月。

最後の名城は、私が予想した ◎二条城彦根城伊賀上野城 のいずれでもなく、長浜城でした。
じつはあまりにも最後のカードが出ないので、G先生に尋ねてしまったのですが・・・(^_^;)
とにかく、ついに16の名城がここに集結しました。





小樽運河散策・第1章~画になる倉庫群

2017-08-12 | 街並み


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 1 2 時 2 2 分

小 樽 運 河 プ ラ ザ



小樽運河の脇にある小樽運河プラザで、思わぬ時間ロス?をしてしまいました。



この建物は旧小樽倉庫【小樽市指定歴史的建造物・第13号】の一部です。
明治23年(1890年)に建造された石造りの倉庫で、明治27年までに増築され、現在に至ります。
現在は運河プラザと、小樽市総合博物館分館「運河館」となっています。
運河館は後章で訪れます。


運河プラザから運河沿いの大通りを渡れば、運河散策の出発地・中央橋です。
橋のわきには、運河クルーズの船着場がありますが、私はこれには乗らず、運河脇にある遊歩道を歩いていきます。



中央橋から見下ろした小樽運河
現在の幅は約20メートルですが、かつての幅は40メートルでした。
運河の本来の役割を終えてしまっていた昭和50年代後記、交通渋滞緩和のために運河沿いの道路・「小樽臨港線」の拡張のため、運河は埋め立てられました。
埋立てでできた用地のうち半分は道路、もう半分は遊歩道が造成され、小樽運河は観光地として生まれ変わりました。



最初の倉庫は、北日本倉庫港運の倉庫です。
運河沿いにある倉庫群は、現在倉庫としては使われていません。
ちなみに北日本倉庫港運は、現在も存在する株式会社です。



次は旧篠田倉庫【小樽市指定歴史的建造物・第63号】。
周りの倉庫と比べると頭ひとつ高い倉庫で、木骨煉瓦造りの壁が特徴的な、倉庫群の代表ともいえる存在です。
大正15年(1925年)に建築され、現在は海越という飲食店が営業しているようです。



扉に「大同倉庫」と大書してありますが、大同倉庫は運河よりもさらに海側に本社を構えています。



おとなりは旧小樽倉庫
小樽倉庫という会社は現在も存在していますが、こちらも倉庫としての役割は終えています。



現在は、運河から見て左半分が小樽ビール醸造所、右半分がびっくりドンキー 小樽運河店になっています。



ラストの2棟は、旧澁澤倉庫



望楼のある左の倉庫と、青緑の屋根が特徴的な右の倉庫。
いずれも現在は飲食店となっています。


遊歩道の終点・浅草橋までやってきました。



振り返ってみると、運河がやや屈曲していることがわかります。
この屈曲も、小樽運河の魅力のように思えます。

普通、運河は土地を掘り進んでできるものです。
しかし小樽運河は、海を埋め立てて用地を造成し、その結果水路となったのです。
そのため運河自体が曲がっているのは、もともとの海岸線の跡だからなのです。


晴天に映えるレトロな倉庫群。
これを映し出す運河の水鏡。

思わず「いい画だねぇ」「来て良かったねぇ」とつぶやく私・・・。



今度はきっと、ふたりで来よう。





小樽散歩へ出発

2017-08-08 | お散歩


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 前 1 1 時 5 2 分

小 樽 中 央 通 り





「若鶏時代 なると」本店で早めのランチをとり、



小樽駅から小樽港を結ぶ小樽中央通りに戻りました。
ここからは港方向へ下っていきます。




通りを貫く鉄道路線の跡。
廃線となった国鉄手宮線です。
現在はしゃれた遊歩道になっているようですね。


交差点にたたずむ、歴史のありそうな建物。



旧安田銀行小樽支店【小樽市指定歴史的建造物】です。
小樽にはこのような歴史ある建物が各所にあります。
小樽散策について特にプランのなかった私は、この「小樽市指定歴史的建造物コンプリート」的な散策をしてみようかな~なんて思いつきました。
のちのち実行に移して参りますが、これはまた、別の話。


小樽観光のメイン・小樽運河のほど近く。



小樽運河プラザという観光案内所のような施設がありました。
情報収集のため、中に入ります。

・・・・・・中に入りましたが、あまり情報は得られませんでした。
どちらかといえば、休憩所というべき喫茶店、そして土産物屋が入っていました。
そして小樽観光とはほとんど関係ないある商品が、私の目を釘付けにしてしまいます。それは・・・



全国鉄道路線図 昭和30年版(1,500円)です!



わが出身地のあたり。
Y字型に掘り込んだ鹿島港がありません!
香取駅鹿島神宮駅を結ぶJR鹿島線もありません。
当時は交通インフラがまったくなく、「陸の孤島」ともいうべき地域が、現在となっては一大工業地帯となりました。
感慨深いですねぇ。



私が学生時代を過ごした仙台。
現在と比べると、まず東北新幹線がありません。
それから東北本線岩切、利府、松島、品井沼と続いています。
現在でいう利府支線が当時は本線であって、しかも利府から先が続いていたのです。
この路線図の陸前山王駅からグニャリと曲がって品井沼駅へと続くルートが現在の東北本線で、このルートの上に塩釜駅、松島駅、愛宕駅があります。



青森県あたり。
現在の八戸駅は、当時は「尻内駅」で、現在の本八戸駅「八戸駅」でした。
あとJR津軽線が、青森駅から蟹田駅までしか開通していなかったんですね。
下北半島では、現在の本州最北の駅・下北駅からさらに北に進む路線があったようです。



北海道。
かつてはこんなにも鉄道網が張り巡られていたんですね。
現在はこの中の半数以上は廃線になってしまいました。



函館付近。
当時は松前線なんてのがあったんですね。
これがあったら松前城の登城は、少しはラクになったかもしれません。
近年廃線になった江差線も当時は健在。
ただ当時は青函トンネルが開通しておらず、当然ながら北海道新幹線もありません。



札幌周辺、いわゆる道央地域。
札幌の東側がなかなかいそがしい感じです。現在はほとんどが廃線になっています。
このあたりは日本有数の石炭産出地帯、鉄道は石炭の運び出しで活気がありました。
石炭を運び出す小樽港室蘭港へ続く鉄道が複線になっています。
室蘭本線苫小牧・岩見沢間が当時はメインルートだったことも、現在の寂れっぷりからすれば想像できません。
現在は新千歳空港ができて、千歳線がメインルートになっています。


昭和30年の鉄道路線図をひとり眺め、悦に浸っていました。
この場によね先生がいたら、この路線図で数時間語らい、小樽観光などそっちのけになっていたでしょう。



おっと、そろそろ小樽の街でも歩こうか。





手賀沼の花火 2017

2017-08-08 | 夜景


2 0 1 7 年 8 月 5 日 ( 土 )

午 後 7 時 0 0 分

千 葉 県 柏 市

柏 ふ る さ と 公 園



昨年末から、しばらくぶりのお出かけです。

あれ以来、互いにすれ違いの生活となってしまい、お出かけもぱったりなくなってしまいました。
年末には「初詣はどこに行こうかな~?」と口走っていましたが、気がつけば平成29年は半ばを過ぎてしまいました。
初詣は7月末、柏神社で簡単に済ませることとなりました・・・って、初詣と言えるのかな?

平成29年の後半に入ってからすれ違いの状態は解消していき、時間と予算があればまたお出かけできることとなりました。
とはいえ、現段階ではやや予算が心もとないので、ご近所の花火大会へお出かけします。



やってきた柏ふるさと公園は、JR柏駅から約2kmほど北東の所にある、手賀沼湖畔にある公園です。
昨年に続き今年も、この公園から花火を見ます。

この日行われる手賀沼花火大会は、手賀沼を挟む柏市と我孫子市の商工会が合同で主催する花火大会で、手賀沼で打ち上げられます。
花火は約13,500発打ち上げられ、人出は約40万人と推定され、千葉県内では一二を争う大きな花火大会です。

午後6時半ごろに公園に到着した私たち。
自転車を停める駐輪場には余裕があったものの、腰を下ろして花火を眺める場所はどうやら余裕なし。
しばし歩いたところにあった空きスペースに、ビニールシートを敷いて「ここを~キャンプ地とぉ~」したのでした。



午後7時ちょうど、花火大会開幕。
スタートしてからしばらくは、協賛企業の紹介が延々と続きます。約15分くらいだったでしょうか。


そして・・・



最初の一発目で失敗を悟る私たち。
頭上の木の枝が、花火にモロかぶりしています(>_<)
即刻、キャンプ地を放棄しました。



少し歩いたところで見物。
今年はカメラを置いてきたので、御前のスマホで撮影しています。

 

ううむ・・・花火の撮影は難しいのぉ。



私の腕前もさることながら・・・
この日の風向は、手賀沼からふるさと公園に向かって吹いています。すなわち風下
夜空に花開く大輪の菊の花が、花火の煙幕がモロかぶりしてしまいます。
見物客から聞こえるのは、歓声よりもむしろため息。



撮影もちっともうまくいかないので、持ち主にバトンタッチ。

 

(きれいに映ってる・・・なんか悔しい)

夜空にただよう花火の煙幕は如何ともし難く、私たちは花火の見物を早々に切り上げて帰路につきました。



完全私的旅「手賀沼の花火 2017」 完


若鶏時代なると

2017-08-05 | グルメ


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 前 1 1 時 1 6 分

J R 小 樽 駅 前



駅からまっすぐ見下ろせる小樽港



駅からのびる小樽中央通り



最初の信号からは、小樽都通りというアーケード街が続きますが、その逆方向へ曲がります。


港町のグルメといえば、やはり海のものを思い浮かべるでしょう。
しかし私が目をつけていたのは、



「若鶏時代 なると」本店。魚じゃなくて鶏肉です。


入店すると中は広いですが、お客さんも多かったです。
座席に案内され、注文を・・・するのではありません。
この店は注文方法が独特で、まず席に座ってメニューを見ます。
メニューが決まったら、座席にある注文カードをレジに持っていき、そこで注文します。
同時にお勘定も済ませることになります。

私は、このお店のメインともいうべき若鶏定食(大盛り)をオーダーし、1,100円を支払いました。


約10分後、



若鶏半身揚げ! うまいっ!!

まず括目すべきは、ごはんの量と比べての若鶏の大きさ。
朝食を抜いた私でも、しっかり満腹になるだけのボリュームを誇ります。
肉は柔らかく、あっさりとした塩味で、鶏肉の旨さを味わうことができます。
当然揚げたてで、さわるとやけどをしそうなくらい。


今回もお新香はお残ししてしまいましたが、大満足でお店を後にしました。





小樽へ行ってみる

2017-08-05 | 鉄道の旅


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 前 9 時 5 7 分

札 幌 市 豊 平 区

地 下 鉄 南 平 岸 駅



聖地巡礼を終え、市営地下鉄南平岸駅に戻ってきました。



駅前にチラリと見えるローソン(通称「青屋敷」)
このローソンは聖地のお膝元にあるため、藩士の中では特別視されているようです。
どうでしょうのDVDが出ると、わざわざここのローソンまで来て取り寄せる藩士もいるようです。

南平岸駅に入り、



駅のスタンプを見つけたので、回収しました。
うすくなってしまいましたが、絵柄はまさかの聖地・平岸高台公園です(*^_^*)



10時03分発 札幌市営地下鉄南北線 麻布行きに乗車し、札幌の中心街へ向かいます。

以前、「道民はかたくなに優先席に座らない」ということをこのサイトで記述しました。
地下鉄でも、道民は優先席に座らないんだな~と見ていました。
しかしよく見てみると、地下鉄には優先席ではなく専用席なるものがあるのです。
専用席ということで、健常者は基本的に座ることはできません。
この専用席の存在が、道民が優先席を敬遠することに関係があるのかもしれませんね。



10時14分、さっぽろ駅に到着しました。



このあとの予定は、まったくの白紙でした。
札幌市内を回るのもよかったのですが、札幌市内の観光地はかなり分散しているので、無計画にぐるぐる回るのは効率が悪くなってしまいます。
それよりは、札幌から約40分ほどで行ける小樽の街を散策するのもいいかな~と思いました。
そこで、まずは地上へ上がりJR札幌駅へ。



小樽への電車、10時28分発 函館本線 区間快速「いしかりライナー」小樽行きに乗車します。



私を小樽まで運んでいく731系電車
座席はロングシートなので、車窓はあまり楽しめそうにありません。




午 前 1 0 時 2 8 分

J R 札 幌 駅 を 出 発


区間快速いしかりライナーは、札幌以西のみを快速運転するものと、札幌以東を快速運転するものがあり、今回乗車したのは前者です。
停車駅は、琴似、手稲と、その先の各駅です。

発車してしばらくは、札幌の街中を走ります。
乗客も多く、あまり車窓は楽しめません。


小樽市に入り銭函駅を過ぎると、車窓は急展開。



石狩湾のそばを走っていきます。



遠くに小樽の港町が見えます。



銭函駅と朝里駅のちょうど中間にある、観光客の目を惹く、海に突き出た岩。
恵比寿島(恵比須岩)というそうです。
海と岩が織りなす車窓は、いつ見ても飽きないものです。



小樽の街が近づいてきました。


朝里駅を過ぎ小樽築港駅付近で、函館本線は石狩湾から離れていきます。




午 前 1 1 時 0 7 分

小 樽 駅 に 到 着




右から左に読むレトロな駅名標がお出迎え。



駅名標の近くにはむかい鐘のミニチュア



改札を出て駅の出入口に、本物のむかい鐘があります。
列車が小樽駅に到着する際、上り列車は鐘を2回、下り列車は鐘を3回鳴らし、利用客に報せたそうです。
むかい鐘のそばには、登録有形文化財のプレートがあります。



JR小樽駅本屋【国指定登録文化財】です。「ほんおく」じゃなくて「ほんや」と読むそうです。
小樽港に正面を向けて建っている昭和初期のRC造(鉄筋コンクリート造)駅舎の好事例というわけで、文化財に指定されているそうです。



駅からまっすぐ進めば、小樽港
駅のコインロッカーに手荷物を預け、この旅最後の街歩きに出かけます。



【今回の乗車記録】

ST札幌市営地下鉄 (N13)南平岸駅 2番線 10時03分発
(N)南北線 麻布行き 6両
(N06)さっぽろ駅 2番線 10時14分着

JR北海道 (01)札幌駅 1番線 10時28分発
[S]函館本線 区間快速 いしかりライナー 小樽行き 6両
(S15)小樽駅 1番線 11時07分着

*所要時間 1時間04分(乗車時間 50分)
*移動距離 39km  *運賃 890円(地下鉄 250円 JR 640円)





聖地巡礼・後枠~討入り!HTB

2017-08-02 | どうでしょうロケ地


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 前 9 時 2 0 分

札 幌 市 豊 平 区

平 岸 高 台 公 園



聖地巡礼、後枠は・・・



「本丸」HTB(北海道テレビ放送)へ討ち入ります!



「本丸」の屋上には、安田さんonちゃんの姿が。



正面に回ってきました。



HTBの正面玄関。やはりonだらけ。



入口にもon。足元のマットにもon
とりあえず中へ入ると玄関ロビーに、



水曜どうでしょうパビリオン、登場(^^♪
このパネルは、どうでしょう班を苦しめた深夜バスのお歴々ですねぇ~(*^_^*)



隣りには、「水曜どうでしょうおみくじ」だとぉ~?!
(多分)ヒゲめ、細かく銭稼ぎをしおるわい。


  ヒゲD?の思惑に乗り、私もおみくじを1枚。お賽銭ということで、100円を寄付しました。

運勢 小吉。

出ました。小吉。控えめだな。
だが控えめは美しい。
こぼれるほどの、匂い立つまでの美しさはないけれど、それでも秋に咲くコスモスは美しい。可憐な花だな。
そう、控えめは可憐なのだ。
野に咲く花の名も知らず、それでも野辺に花は咲く。
その花の一輪は控えめだけれど、ほら、あんなに風にそよいで気持ちよさげに揺れている。
他人に振り返られることがなくても気持ちよく生きることは出来る。
奥さん、それを人生と呼んでも良いですか。


・・・・・・だそうです。
この語り口、最初は藤村Dの感じがしますが、終わりの方の「奥さん」っていうところからして嬉野Dのもののようにも思えますねぇ。

願望(ねがいごと) 叶いませんよ
待人(まちびと) 来ませんさ
失物(うせもの) 出ませんもの
旅行(たびだち) 家にいましょうね
仕事(しごと) まずまず
金運(きんうん) そんな。あるわきゃないでしょう
学問(がくもん) ぼちぼち
恋愛(れんあい) 恋のキューピッド登場。愛の予感
出産(おさん) 安産にきまってますよ
病気(やまい) 治りますともさ


・・・・・・というわけで、恋愛運だけがやたらと良い、健康運がそこそこで、あとはダメという、いかにも小吉らしいおみくじでした。
まぁ、あんまり欲張っちゃいけませんよ~ということでしょうね。
おみくじの末尾にの印がありますねぇ、奥さん(^^♪

   「伝わってくるのは きみの熱気ばかり」
  (「リヤカーで喜界島一周」最終夜より)

  鹿児島の喜界島を歩いて1周するという企画。
  どうでしょう班は途中のムチャカナ公園近くのキャンプ場で、テントを張ることになりました。

  狭いテントの中で、大の男4人が横になって寝る。
  「狭い」「デブの隣りは嫌だ」「機材が邪魔だ」などと罵り合いながら一夜を過ごします。

  そして翌朝。

  藤村「おはようございます」
  大泉「んんーっ!」
  藤村「いかがでしたか?」
  鈴井「寒かったです」
  大泉「んー、寒かったぞぉ、やっぱり」
  藤村「おかしいじゃないですか。僕はそんな、全然・・・」
  大泉「なにぃ?この野郎。厳寒気用のやつを着てんだろぉ。おまえは・・・」
  藤村「寒かったってかい・・・?」
  大泉「寒かったっつってんだろぉ! 俺たちの毛布はねぇ。寒かったんだ!
  藤村「(僕は暑くて)どっちかというと半袖で・・・」
  大泉「わかったっつってんだろぉ。そらぁキミ暑いかもしんないよ。
     伝わってくるのはキミの熱気ばかりだよ。
     でもそんなんじゃやっぱりねぇ、ぼくたちがあったかくなるまでにはならないんだよぉ」

  寝具はDの所有する寝袋2枚と、ホテルから借りてきた毛布2枚
  出演陣のふたりは、それぞれ毛布1枚で寝させられ、起床後に「寒かった」と不満を口にしたというシーンです。





自販機には、



これまた金もうけのグッズ販売。



買ってしまった・・・・・・大泉洋氏による「水曜どうでしょうトランプ」



トランプは全部で54枚。ババならぬバカが藤村Dです。
この似顔絵、本人ととてもよく似ています。
大泉さんの多才ぶりを表すこの絵は、「どうでしょう」でもしばしば登場します。


水曜どうでしょう「北極圏突入 アラスカ半島620マイル」の最終夜の一幕。

ミスター・鈴井氏が「オーロラが見たい」ということで、北極圏まで連れてこられた大泉さん。
オーロラをよく見ることができるというコールドフットにやってきたどうでしょう班は、ここのトラックステーションに滞在し、オーロラが出るときを待ちました。
しかしこの日は、あいにくの雨。
待てど暮らせどオーロラが見える気配はありません。
暇を持て余した大泉さんは、手持ちの紙でトランプを作りはじめます。

ジャックがミスター
クィーンが嬉野D
キングが大泉さん

藤村「ボクは仲間外れかい?」
大泉「ババに決まってるでしょう、あんたは。いまここにババ描くから」



藤村「これババなんだよね?」
大泉「うん」
藤村「バカって書いちゃってんじゃないの
大泉「バカ・・・・・・ま、いいや、バカで」

結局オーロラは見えず、最後はこのトランプでババ抜きならぬバカ抜きをして、企画は終了したのでした。



自分へのちょっとしたおみやげを買い、

  

記念スタンプをもらって、HTBの社屋から出ました。





社屋の裏へと回り、HTB通用口
こちらはどうでしょうの企画発表が行われる場所です。
何も聞かされていない大泉さんが、企画をはじめて耳にしてリアクションをしてから、企画の地へと連れて行かれるのがお決まりになっています。

ここは正面玄関とは違い、本当の職場。
あまりうろうろするのもどうかな~と思っていたら、ガードマン氏が「入ってもいいけど、仕事の邪魔はしないように」というので、敷地中に入りました。



HTBの関係者が使う入口。



その対面にあるのは、倉庫かなにかでしょうか。
このあたりは、



クリスマスパーティー会場だったところです。



もっとじっくりと検分したかったのですが、ここはテレビマンが熱心に働いている職場。
物見遊山でやってきた者が、長居すべき場所ではありませんので、すぐに退出しました。



HTB本社は、平成29年(2018年)の春に平岸から移転することが決まっています。
どうでしょう藩士にとっての聖地が、現存しているこの時期に訪問できたのは、大変喜ばしいことでした。
それと同時に、社内見学の予約をしておくなど、しっかりとした計画を立案しておけばよかったな・・・とも思いました。



大いなる歓喜と、ちょっとした後悔を抱きつつ、「本丸」の討入り、ここに終了。