鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

竹田城登城・第2章~出でよ!雲海

2020-03-15 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 六 時 四 十 二 分

兵 庫 県 朝 来 市

竹 田 城 跡 料 金 所



夜明け前の登山!・・・の予定でしたが、手持ちの懐中電灯さんが思いのほか貧弱だったため、日の出までしばし待機。
そして、通常40分ほどの登山道を20分強で踏破するという強行軍をなして、



竹田城址料金所に到達しました。

料金所は当然簡素な小屋・・・そう思っていたのですが、券売機が複数設置されています。
山の中にあるわりには、設備がなかなか充実しています。
入城料500円を支払って入城券を購入し、料金所のおじさまに提示します。
料金所では100名城スタンプも設置されているので・・・



56番、竹田城!
この絵柄はなんとなく見覚えがあるような・・・おそらく竹田城で一番有名な画角だと思います。
スタンプ帳によると設置場所はJR竹田駅とありますが・・・私は完全に見落としていたようですね。



スタンプ台紙もあったので、こちらにも押印しました。


料金所は山道のゴール地点でもあるので、ベンチも設置されています。
さらにベンチ前には、ご丁寧にも扇風機が据えられており、しっかり稼働中。
強行軍で山登りをしてきた私にとっては、まさに望外の幸運といえました。


10分ほど休憩して、体力が回復してきました。
料金所のおじさまといろいろとお話しさせていただき、

 

御城印・竹田城!・・・の図案を見せてもらいました。
令和に入ってからにわかに伝播していった御朱印ならぬ「御城印」。
竹田城さんもその流れに乗るべく、朝来市の観光協会さんが推進していったといいます。(おじさま談)
ちなみに料金所のおじさま方や、竹田城をガイドし、保守点検するおじさま方は観光協会の方ではなく、朝来市役所の方(おそらく観光交流課の方?)だそうです。
御城印を作るにあたっては、市と協会という2つの組織で様々な折衝があったんだそうです。(おじさま談)

紆余曲折を経て作られたという御城印の図案は、私の登城後の11月1日、正式なものとして販売が始まっています。
う~~~ん、少し早い時期に来てしまったのか???
いやいや、こういうお話を伺うことができたのですから、いい時期に来たんでしょうね。

御城印にある2つの家紋は、赤松氏の家紋「二つ引両に右三つ巴」山名氏の家紋「五七桐に七葉根笹」です。
室町時代の有力大名であった赤松・山名両家の争いが、竹田城の歴史の前半を占めているのです。


竹田城の築城時期は不明な点が多いのですが、室町時代中期に播磨(兵庫県南部)の赤松家攻略を目指す山名持豊(宗全)によって築城されたといいます。

嘉吉元年(1441年)室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)が播磨守護・赤松満祐に暗殺される事件が起きました。
これに対し但馬(兵庫北部)の守護・山名持豊は赤松の討伐を志願し、赤松満祐を滅ぼしました。
この嘉吉の乱で山名持豊は播磨に勢力を拡張し、播磨と但馬の国境を守る拠点として竹田城が築城されたといいます。
山名持豊は、重臣の太田垣光景を竹田城の城代として配置し、以後太田垣氏が竹田城を守ることとなります。
応仁元年(1467年)の応仁の乱で山名持豊(宗全)が西軍の総大将となると、東軍総大将の細川勝元は赤松氏を復権させると、播磨・但馬はふたたび山名・赤松両家の争いの場となっていきました。

時代は下り、戦国時代へ。
西からは中国の覇者・毛利元就・輝元、東からは織田信長の勢力が迫ってきました。
天正元年(1573年)城主・太田垣輝延は毛利氏に降伏、天正3年には主の山名祐豊も毛利と同盟を結びました。
これに対し、はじめ織田方であった「丹波の赤鬼」赤井直正が竹田城に攻め込んでくると、山名は信長に鞍替えし、信長は明智光秀軍を丹波(京都北部)に派遣したため、竹田城は落城を免れました。
ちなみに竹田城を撤退した赤井直正は、明智軍に徹底抗戦してこれを撃退しています。

天正5年(1577年)信長方の羽柴秀長が竹田城を攻略し、城代となりました。
竹田城は近隣にある生野銀山を管理下に置いていたため、その確保を狙っての攻略であると考えられています。
その後太田垣輝延が城主に復帰しますが、天正8年に秀長が再び軍勢を率いて但馬を攻略し、山名・太田垣氏の支配は終焉しました。
竹田城は秀長配下の桑山重晴に、桑山が転封になると赤松広秀(斎村政広)に与えられました。
斎村政広によって竹田城は総石垣に改修され、現在にも残る竹田城が形作られていきました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで政広は西軍についてしまい、その後東軍に寝返り鳥取城の攻略に参戦しますが、徳川家康に鳥取城下を焼き討ちした責任を問われて切腹させられてしまいます。
家康は生野銀山の確保を狙い、政広を切腹に追い込んだともいわれています。
主を失った竹田城はそのまま廃城となり、石垣だけが後世に残っていきました。



休憩中に、城攻めアプリ「ニッポン城めぐり」を起動して・・・「城攻め」!

 

日本100名城・第56番、竹田城攻略!
さらに近隣にある城郭で、生野銀山を管理していた生野城も攻略できました。



太閤殿下の弟、大和大納言羽柴秀長



「丹波の赤鬼」赤井直正
竹田城を攻略にやってきたふたりの名将を配下に加えることができました。




午 前 六 時 五 十 四 分

石 垣 の 城 郭 へ 向 か う


料金所からは、



もう少しだけ山登り。50メートルもなかったと思います。
最後のカーブを折り返すと、



ついに総石垣の竹田城が見えてきました!
石垣には雲ではなく霧がかかっています。



当時きっての石垣普請のプロ集団・穴太衆(あのうしゅう)による穴太積みです。
出角の部分は、長方体の石の長辺と短辺を交互に積み重ねていく算木積みで補強され、400年もの間雨風に耐えてきました。



中に入ります!




まずは大手虎口
かつてはここに大手門が構えられていました。
大手=正規の登城口とあって、石垣に使われている石もひときわ大きいものになっていますね。



東の空には、昇ったばかりの日輪が霧にかすんでいて、なんとも幻想的な光景です。



そう思っていたのも束の間、日輪を覆っていた霧は晴れ、向こうの山には雲海・・・とはいえませんが雲がかかっています。
山間部の天気はなんとも変わりやすいものですね。



日輪のやわらかい光が、大手虎口を照らしています。
この先は北千畳と呼ばれる曲輪ですが・・・



櫓台だったであろう石垣を仰ぎ見たり、



崖際の石垣を眺めたり・・・石垣フェチ?の私はなかなか先に進めません。



遠くのほうに、雲海が・・・・・・こっちに来ないかなぁ。



そうこうしているうちに、またも霧に覆われていった竹田城。



日本海に注ぐ円山川が潤す、竹田の城下町。



北千畳と呼ばれる広い空間に入りました。



この石垣の裏に、三の丸への虎口があるのですが・・・



その向こうには、石垣が連なっている見事な竹田城の姿。
虎が臥せている姿になぞらえ、「虎臥城」と呼ばれています。
魅力的な光景が多くて、なかなか先には進めませんねぇ。





石垣に囲まれた虎口を通って、三の丸へ。



三の丸から見た、本丸天守台
凄い、素晴らしいの一言です。



三の丸は細長く、それほど広さはありません。





二の丸や本丸へ向かう通路は、石垣によってかぎ状に曲げられています。
400年前には、これらの石垣の上に櫓などの建造物が建っていたのでしょうね。



石垣に上る犬走りの跡。
上ってみたいのですが、通路の柵を越えて芝生に入るのは禁じられているので、ここは眺めるだけ。



城下を眺めてみると・・・雲海がこちらに迫っている???





この先は、二の丸です。
二の丸に入ろうとした矢先、小雨が降ってきました。
山の天気は本当に目まぐるしく変わります。



二の丸から望む南側の曲輪です。
左から南千畳南二の丸と続いています。
石垣で覆われた曲輪が、階段のように連なっている姿・・・まさに「虎臥城」ですね。
向こうにはわずかながらに雲海・・・とは呼べなくなってしまいましたが、白い雲がいいアクセントになっています。




本丸天守台へ。
竹田城の登城は佳境を迎えます。





竹田城登城・第1章~夜明け前から山登り

2020-03-15 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 四 時 五 十 三 分

兵 庫 県 朝 来 市

J R 和 田 山 駅



「縁結び祈願のたび」・2日目も、夜明け前からスタート。



前日のお宿の最寄駅・JR和田山駅にやってきました。



なんと・・・真っ暗な駅舎に、不気味に光を発する発車標。



今回乗り込む列車は、5時20分発 播但(ばんたん)線 普通列車 寺前行きです。
播但線はこの和田山駅から姫路駅までを結ぶ地方交通線ですが、始発が5時台で和田山駅の一番列車になっているようですね。
山陰本線の始発が意外と遅いようですね・・・とくに下り線は始発が7時前の6時55分です。


兎にも角にも、この日最初の列車は5時20分発の寺前行きとなります。
駅にはまだ誰もいないようです。
改札は自由に通過できるようですが・・・・・・おや、誰かやってきたようです。
その男の方が、駅舎の電気を灯しています。
どうやら和田山駅の駅長さんのようです。



駅長さんによって、待合室が開放されました。
この中で・・・大変不本意なこの日の朝食をいただきます。
土地土地のものをいただくというテーマから大きく外れた、

 

ニチレイさんのハンバーガーセット、意外とうまい!
さすがは冷食の雄・ニチレイさん、ふつうにうまいハンバーガーです。
ここでどうしても食事をしなければならなかったのは・・・



今回の目的地が「天空の城」竹田城だからです。
「天空の城」というのならば山登りは必須であり、そのための栄養をなんとしても補給しておきたかったのです。
そして残念なことに、和田山駅周辺には早朝から開店しているチェーン店が皆無なので、食事はこのニチレイさん一択になってしまうのです。




明かりの灯った和田山駅。
待合室前のコインロッカーで手荷物を預け、播但線の列車へ。
竹田城登城後に和田山駅には戻る予定のため、山登りの妨げとなるものはここで手放しておきます。



「秋の乗り放題きっぷ」・2日目、和田山駅の駅長さんから入鉄済の検印を頂戴しました。
「これ、初日の検印があれば2日目はいらないなぁ」
と駅長さんは検印後におっしゃいましたが、こういう検印もいい記念になります。



私を竹田城へといざなう、キハ41形2004番車両
1両編成の運転に対応するため、前後双方に運転台が備え付けられているそうです。
あんまり詳しいことはわかりません。



播但線の列車が発着する5番のりばの駅名標。
左の「やぶ」養父と書きます、難しいですねぇ。
そして右の「たけだ」こそ、私が向かう竹田城の最寄駅。
播但線のたびはたったの1駅となります。



5時20分、播但線の列車は定刻どおり和田山駅を出発。



7分後の5時27分、竹田駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

JR西日本 和田山駅 5番のりば 5時20分発
[J]播但線 普通 寺前行き 2両ワンマン
竹田駅 1番のりば 5時27分着

*所要時間 7分
*移動距離 5.8km
*運賃   秋の乗り放題パス使用(使用しない場合、190円)




午 前 五 時 三 十 分

J R 竹 田 駅


駅を出て振り返ると・・・



おおぅ、なんという暗さ・・・。

この竹田駅で下車したのは、私だけ。
あたりは人っ子一人歩いておりません。
どうやら私一人で暗闇の山に突撃しなければならないようです・・・・・・やだなぁ。




駅前のロータリーから、竹田城へ歩き始めます。
竹田城を登るためには、駅裏登山道または表米(ひょうまい)神社登山道を踏破しなければなりません。
駅から出ると、このような案内看板が処々に設置されているので、これに従っていけば問題なくたどり着けます。

まずは駅前を右へ。
播但線の線路沿いに歩いていきます。



播但線の踏切が現れるので、これを渡ります。
踏切を渡った先には虎臥城(とらふすじょう)公園という広場があります。
「虎臥城」は竹田城の雅称ですが、ここで2つの登山道への道が分かれることとなります。
表米神社登山道へは虎臥城公園前で左折、駅裏登山道へは右折することとなります。



私は右折、駅裏登山道へと向かいます。
途上のこの道は竹田寺町通りで、竹田城にまつわる4つの寺院が建っています。
路傍を流れる水路の音が、なんとも心地よいですね。



虎臥城公園のすぐ近くにある善證寺
建武元年(1334年)に開創されましたが、寛永2年(1625年)に火災に遭い、慶安5年(1652年)にこの地に移転されました。
門前の石橋は「享保17年(1732年)」の年号が刻まれているそうです。



善證寺常光寺勝賢寺、そして法樹寺を左に眺めて進むと、いよいよ駅裏登山道が現れます。



入城料は、大人500円です。
そして登城時刻は、通常は日の出後から日の入り前となっています。
しかしこの時季は雲海シーズンということで、朝4時から登城できるのです。



時刻は5時44分。
竹田城へ、いざ参らん!



ここで重大な問題が。
夜明け前登山ということで、当然のことながら懐中電灯を持参してきました。
その懐中電灯さんが、思ったほど明るくないのです。
いや、山の中が私の想像以上に暗かったのです。
端的に言うと、

やっぱり夜明け前の登山は怖えぇよぉ・・・・・・。


そういうわけで、夜明けを待つか、懐中電灯を持っているほかの登山者が来るのを待つことにしました。
その間に、寺町通りを散策。



駅裏登山道のすぐ脇にある、法樹寺
境内には、竹田城の最後の城主を務めた赤松広秀の供養塔が立っています。


赤松広秀は、室町時代の有力守護大名・赤松氏の出で、播磨国(兵庫県南部)龍野城の城主でした。
織田信長が播磨国に勢力を伸ばすと、毛利氏について抵抗した後に羽柴秀吉に降伏したため、龍野城を追われてしまいます。
以後は龍野城主となった蜂須賀正勝のもとで勲功を重ね、天正13年(1585年)に竹田城を与えられました。

広秀は、最初広英と名乗り、広秀広通、そして斎村政広と名乗りを変えていきました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでははじめ西軍につきますが、旧交のある亀井茲矩(これのり)の説得で東軍に降伏します。
降伏の証として西軍の宮部長房が立て籠もる鳥取城を攻めることとなりますが、このときに城下を焼き討ちする手段に出たため、戦後徳川家康に咎められ、「寝返り組」ではただ一人切腹させられてしまいました。
その後竹田城は、ほどなくして廃城となりました。



関ヶ原の大戦で時流を読み誤って身を滅ぼした広秀ですが、竹田城主時代には居城を総石垣に改修し、また領内に養蚕や漆器業を奨励し、領民に慕われた名君であったといいます。
また、朝鮮の高官で当時捕虜となっていた姜沆(きょうこう)に、「加藤清正藤堂高虎とは仲違いしている」と語っていたとも。


ふと振り返ると、



雲海が立ち込めてきました!



登山道はまだ暗い・・・かな。
時刻は5時50分、駅裏登山道に人がやって来る気配は全くありません。


6時16分、



すっかり夜が明け、



寺町通りもよく見渡せるようになりました。




午 前 六 時 十 九 分

駅 裏 登 山 道 を 登 る




1時間近く夜明けを待ち、ようやく登山へ。







総石垣の城郭らしく、登山道のところどころで石垣が残っています。



登山道口のゲートは開き放たれています。



ゲートの目の前にある、石垣の名残り・・・でしょうか。



振り返ると、雲海・・・というよりも濃霧がかかってきました。



整備された階段で、とても登りやすいです。



そう思ったのも束の間、岩肌むき出しの道に変わってしまいました。



登山開始から約10分、料金所まではあと500メートル。長い・・・つらい・・・。



登山開始から約15分、休憩所だか見晴台だかわかりませんが構造物のある地点へ。
ここから料金所までは、あと200メートル。



あと100メートル。
先に登城していたであろう、男子高校生と思われる2人組が下りてきてすれ違いました。
あんたたち、まさか真っ暗な山の中を歩いて登ったっていうのか?!
そして「この上にはイノシシなどの危険生物はいない!」と察しがつくので、心持ちを強くしてラストスパート。



登山開始から20分強、料金所が見えてきました!
通常ならば40分ほどかかる道程を、心細いひとりの山登りのために早く早く登ってしまいたいと逸ったため、思いのほか早く到達できました。