鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

東海道線・復路~駿府城を攻略せよ

2019-07-31 | 鉄道の旅


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 4 時 3 2 分

愛 知 県 豊 橋 市

J R 豊 橋 駅





JR豊橋駅に戻ってきました。
時刻は午後4時半を回ったところ。
今季の18きっぷによる城攻め旅も、終幕を迎えつつあります。

往路は、柏から浜松まで約5時間半、浜松から豊橋まで約30分かかりました。
これを単純に復路に当てはめると、豊橋から柏まで約6時間かかる計算になります。
お名残惜しゅうございますが、このあたりが引き際といったところでしょう。



16時42分発 東海道線 普通電車 浜松行きに乗って、豊橋を発ちます。



夜の帳が下りる復路の東海道線。
車窓を眺めることもなく、なすことといえばニッポン城めぐり「城攻め」くらいでしょうか。
そういえば静岡駅付近で攻略できるはずの駿府城【日本100名城】を攻略し損ねていたので、帰りにきっちりと済ませたいところです。



17時16分、特に「城攻め」することもなく、あっさりと浜松駅に到着。




午 後 5 時 1 6 分

J R 浜 松 駅


次の電車は、



17時30分発 東海道線 普通電車 熱海行きです。
静岡県の西から東の端へ、一気に進める電車なので、無用な下車をしないためにも所用を確実に済ませます。
発車時刻まで幾分の時間があったので、ここで献上品を購入します。



浜松といえば、「夜のお菓子」うなぎパイ
定番中の定番ですが、今の世ではその進化版が出ているようです。
その名も、「真夜中のお菓子」うなぎパイ V.S.O.P.
お値段も、通常のうなぎパイ12本入りが891円(税込962円)に対し、V.S.O.P.は5本入りで909円(税込981円)と割高になっています。
本拠地に戻ったら、しっかり食べくらべしてみたいですね。



電車は定刻どおり発車。



18時32分、焼津駅を発車した後に「城攻め」して、花沢城(焼津市)を攻略できました。



今川義元配下、のちに武田信玄・勝頼配下となった岡部元信を登用できました。
元信は義元が桶狭間で戦死した際、今川軍の中で最後まで前線に残り、織田信長と交渉して義元の首を返還させた武将です。
武田家臣になってからも徳川家康との戦いで活躍し、長きにわたって家康を苦しめた名将でした。


そして18時42分、静岡駅に到着。



日本100名城・第41番、駿府城攻略!



怪僧・太原雪斎以心崇伝
「豊臣三中老」中村一氏と、家康の長男・松平信康もいますが・・・



「海道一の弓取り」今川義元登用!
そして・・・



称号・「たぬき親父」獲得!
たぬきって、家康ですよね?
「たぬき親父」の称号は、駿府城の攻略が獲得条件となっており、その駿府城は徳川家康の隠居城でした。




19時41分、沼津市内の原駅に停車。
ここは、続100名城に選定されている興国寺城の最寄駅です。
北条早雲が伊豆を制覇する足がかりとなった城で、関東北条氏勃興の地といっていいでしょう。
ここでは「城攻め」は敢えてせず、興国寺城を実際に訪れるときまで残しておきます。

原駅のように、漢字一文字の駅はいくつあるんでしょうか?
ひらがなでも一文字の(三重県)。
いかめしで有名な(北海道)。
五十音順ではラストの(埼玉県)・・・・・・挙げていくとキリがなさそう。

そういえば私は、これからに帰るのだった!



20時14分、



浜松から発車して3時間弱、熱海駅に到着しました。




午 後 8 時 1 4 分

静 岡 県 熱 海 市

J R 熱 海 駅


ここからはJR東日本の管轄内。
記述もよりあっさりとなります。



今度の電車は、20時17分発 東海道線 普通電車 高崎行きです。
東海道線の起点である東京駅を越え、高崎線まで進んでいく長距離電車です。
車両はここから15両なので、のんびり歩いても余裕で席を確保できました。



21時16分、大船駅到着前。



この日最後の鎌倉城を攻略。



ここにいたのか、「地黄八幡」北条綱成
戦国三大奇襲のひとつ・河越夜戦では河越城の守将として半年の籠城戦を耐え抜いた猛将は、川越駅では登用できませんでしたが、この鎌倉大船の地で見つけ出すことができました。





21時55分、東京のひとつ前の新橋駅で下車。



同じホームの次の電車、22時00分発 常磐線直通 快速 土浦行きにお乗り換えして、



22時38分、柏駅に到着。
平成30年の城攻め旅は、これにて閉幕となります。



【今回の乗車記録】

JR東海 [CA42]豊橋駅 7番線 16時42分発
[CA]東海道線 普通 浜松行き 5両
[CA34]浜松駅 2番線 17時16分着

[CA34]浜松駅 4番線 17時30分発
[CA]東海道線 普通 熱海行き 5両
[CA00]熱海駅 2番線 20時14分着

JR東日本 [JT21]熱海駅 4番線 20時17分発
[JT]東海道線 普通 上野東京ライン高崎線直通 高崎行き 15両
[JT02] SMB 新橋駅 2番線 21時55分着

[JT02] SMB 新橋駅 2番線 22時00分発
[JT]東海道線 快速 上野東京ライン常磐線直通 土浦行き 15両
[JJ07]柏駅 4番線 22時38分着

*所要時間 5時間56分 (移動時間 5時間34分 乗換時間 22分)
*移動距離 326.3km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、5,620円)



【今回の「城攻め」成果】

[CA]東海道線
17時30分 [CA34]浜松駅 出発
18時32分 [CA20]焼津駅 発車後 花沢城(焼津市)を攻略、岡部元信を登用
18時42分 [CA17]静岡駅 停車中 駿府城を攻略、太原雪斎、以心崇伝、今川義元、中村一氏、松平信康を登用
19時06分 [CA13]興津駅 到着前 庵原山城(静岡市清水区)を攻略
19時54分 [CA13]沼津駅 発車後 泉頭城(駿東郡清水町)を攻略
20時14分 [CA00]熱海駅 到着

[JT]東海道線
20時17分 [JT21]熱海駅 出発
21時16分 [JT07]大船駅 到着前 鎌倉城を攻略、北条綱成を登用
21時55分 [JT07]新橋駅 到着



日本100名城登城の旅・第19弾「家康公の出世城」 完

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豊橋カレーうどん

2019-07-27 | グルメ


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 3 時 4 4 分

愛 知 県 豊 橋 市

豊 橋 鉄 道 市 役 所 前 停 留 場





吉田城の訪問を終え、最寄りの市役所前停留場に戻ってきました。



路面電車の到着を待つ間、道路向かいの豊橋市公会堂【国登録有形文化財】を見ていました。
豊橋市公会堂は昭和6年(1931年)に完成。
昭和20年6月の豊橋空襲においても戦災を免れ、現在も公会堂として使用されています。



駅前停留場行きの電車が来ました。
今回も150円を支払って乗車します。




15時55分、駅前停留場に到着。
JR豊橋駅に戻ってきました。



【今回の乗車記録】

豊橋鉄道 ⑤市役所前停留場 15時49分発
市内線(東田本線) 駅前行き
①駅前停留場 15時55分着

*所要時間 6分
*移動距離 1.4km
*運賃 150円




午 後 3 時 5 8 分

J R 豊 橋 駅


時刻は午後4時前。
夕食にはまだまだ早い時間帯ですので、ここはおやつでも食べていきましょうか。


豊橋のご当地グルメを調べていくと、「豊橋カレーうどん」というものがあるようです。
さらにアイフォンさんでカレーうどんを食べられるお店を調べていくと、



駅から徒歩5分圏内に「玉川うどん」豊橋広小路本店がありましたので、ここでいただくこととしました。



メニューを拝見すると、「豊橋カレーうどん」について記述がありますなぁ。


豊橋は隠れたうどんの街で、その歴史は100年以上あり、うどんの消費量も全国的に多いといわれています。
そこで地域おこしのために開発されたのが、豊橋カレーうどんです。
器の底にとろろご飯を入れておくことで、残されがちなカレールーも賞味してもらおうという工夫がなされています。

「豊橋カレーうどん」を名乗るには、次の5つの要件が定められています。
 1.うどんは自家製麺であること。
 2.器の底からごはん、とろろ、カレーうどんの順に入れること。
 3.豊橋産のうずらの卵を具に使うこと。
 4.福神漬け、壺漬けまたは紅しょうがを添えること。
 5.愛情をもって作ること。



オーダーはもちろん豊橋カレーうどん
種類はさまざまあるようですが、はじめて賞味するのでノーマルタイプ(930円)を注文しました。


オーダーから3分ほどで、



いらっしゃいました!
かぼちゃとなすの素揚げ、チキンカツがそれぞれ1切れ。
要件3のうずらの玉子もしっかり入っています。
要件4の福神漬けもあるようですが・・・私は苦手なのでお残し。



カレーうどん、うまい!
味は濃いめですね・・・カレーよりもうどんつゆの味が強いように感じます。
そして、デザートの梨がことのほか美味しく感じますね。
器の底をさらわないように、注意しつついただきます。



うどんを完食したら、お次はとろろご飯。
とろろご飯はたっぷり入っているわけではなく、底にひっそりと隠れている感じ。



完食!・・・なんですけど、いつもよりキツい。
なぜだろう???





こいつが効いてるなぁ・・・。



もう1軒くらいカレーうどんのお店に行くつもりでしたが、あっさりと満腹になってしまったので、これにて終了。





吉田城・最終章~炎の祭典に背を向けて

2019-07-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 2 時 4 5 分

愛 知 県 豊 橋 市

豊 橋 公 園 ・ 吉 田 城 金 柑 丸





吉田城の本丸にある(くろがね)で城の歴史を学び、



続100名城スタンプをゲットできました。



本丸の東の出入口にあたる東御門跡から金柑丸へと退出し、引き続き城址を散策します。




本丸と金柑丸をつなぐ土橋

 

本丸と金柑丸を隔てる、見事な空堀です。
見づらいですが、本丸側には空堀の下部分にのみ腹巻石垣が施されています。
北向きの画では、豊川がわずかに見えていますね。
ここは現在でこそ空堀なのですが、往時は水濠であったそうです。


金柑丸へ。



現在は豊城神社の境内となっているようです。



社号標の横には、おそらく土塁でしょうか。



その土塁の隣りにはかつて堀があり、金柑丸と三の丸を隔てていたそうです。


・・・このあたりから耳に入ってくる、イベントの音響。


何のイベントを催しているのか突き止めるべく、この道をたどってそのまま吉田城址を出ました。




午 後 2 時 4 9 分

「 炎 の 祭 典 」 イ ベ ン ト 会 場




マイクの音声が響き渡る、豊橋公園の緑地。



地元のFM局のブースが立っています。



こちらのFM局は、公開生放送中?
ご当地アイドルも出演中。


この日は9月の第2土曜日。
「炎の祭典」の開催日だったのです!!!



「炎の祭典」は、豊橋の花火大会です。
豊橋は手筒花火の発祥の地で、花火師たちが花火の入った竹筒を抱えながら演舞する「炎の舞」が見どころとなっています。
昼間は模擬店などのブースが並び、また様々なイベントが開催されます。
平成8年(1996年)豊橋市の市制施行90周年を記念して始まり、以後は毎年9月の第2土曜日に開催されています。



残暑厳しいこの時節に、また熱そうな祭りとあっては、私もまいってしまいます。



ついつい出店のかき氷(500円)に手を伸ばしてしまいました。



かき氷、うまい!
かき氷を味わっているときに、隣り合わせた地元民から「炎の祭典」について耳にしたのでした。
炎舞の開始は午後5時すぎとのことでしたが・・・帰りの電車の都合上、祭りを見ることはできません。


かき氷を食べ終わると、「炎の祭典」を尻目に、豊橋公園を後にしました。




午 後 3 時 2 3 分

国 道 1 号 ・ 吉 田 大 橋


吉田城の登城、残るは・・・



恒例となってきた、スタンプの画角探しです。
絵柄は豊川越しの鉄櫓なので・・・



ここに行かなきゃいけないようですね。



豊川にかかる吉田大橋



吉田大橋の下流には、豊橋



吉田大橋のたもとには、吉田大橋記という碑文が置かれています。


東海道五十三次のひとつ・吉田宿
この地を流れる豊川に、人馬の往来にために1本の橋が架けられました。

戦国時代末期の元亀元年(1570年)吉田城主・酒井忠次は、現在の吉田大橋がある地点に土橋を架けました。
これが初代の吉田大橋です。

吉田城主が池田照政(輝政)に代わると、吉田城を拡張するために初代の吉田大橋を取り壊し、現在の豊橋のあるところに木橋を架けました。
これが2代目の吉田大橋です。
江戸幕府が成立すると、吉田大橋は幕府の管理下に置かれました。
吉田大橋は、吉田城の鉄櫓とともに浮世絵にもその姿が描かれています。
2代目の吉田大橋は明治期に架け替えられ、その名を豊橋(とよばし)に変わりました。

そして昭和34年(1959年)初代の吉田大橋のあった場所に新たに橋が架けられました。
これが現在の吉田大橋です。





豊川に臨む吉田城鉄櫓
イイ画ですなぁ。



その対岸は湿地帯・・・どこまで足を踏み入れることができるのか?!


橋詰脇の小道を進んでいくと、



小舟の船着場のような場所に出ました。

 

う~ん、角度にかなりズレがあるようですが・・・船着場の先からは道がないので、ここからってことにしよう、うん。





吉田城・第2章~浮世絵の櫓

2019-07-25 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 2 時 1 8 分

愛 知 県 豊 橋 市

豊 橋 公 園 ・ 吉 田 城 本 丸



すっかり公園化してしまった、かつての吉田城



城郭があったことをあらわすものもほとんどなく、こりゃあガッカリな城かな・・・そう思い始めていた時、





本丸を取り囲むように造成された石垣を見た刹那、俄然気分が昂ぶってきました。



本丸入口、千貫櫓跡付近に立っている看板。
かつての吉田城を描いた絵図面が掲載されています。

二の丸から本丸に向かうところには、冠木門と呼ばれていた薬医門?と、南御多門と呼ばれていた櫓門が構えられていました。
そして門の左右を千貫櫓辰巳櫓がにらみをきかせていました。
いっぽう豊川に面する北側にも北御多門が構えられており、その左右を(くろがね)【模擬】と入道櫓が脇を固めていました。
とくに鉄櫓は最大の櫓で、天守の役割も担っていたようです。



看板の右下に記載されている、石垣の刻印についての案内。
なるほど、本丸の石垣にはこれだけ刻印が隠れているのだな・・・これは全部見つけてやろうではないか。
しかし・・・

むむむ、まったくわからん・・・。



かろうじて見つけた刻印。
先ほどの案内の②だと思います。
見つかりましたか~?

正解はこちら。





本丸南東、辰巳櫓跡の石垣。
本丸側には櫓へと上がる石段が設けられていました。
入口側と石の形が異なるように見えます・・・造成の時期が異なるのかな?



こちらは本丸南西の千貫櫓跡の石垣。





日当たりがよくないためか、石の表面に苔が生えていますね。



東側の石垣。
ここにも石段がこしらえられていますね。



すぐそばで石垣が途切れています。
ここは東御門跡
先ほどの石段は、この櫓門に入るためのものだったんですね。



ひっそりと「東御門跡」の石標が立っています。



東御門跡付近にたたずむベンチ。
ここは本丸井戸があったそうです。





本丸北東、入道櫓跡の石垣。



入道櫓跡から・・・



北御多門跡へ。
こちらは吉田城の裏手で、豊川を渡ってくる者に備えていました。
豊川はなかなかに幅広の川ではありますが、本丸の背後は急峻ながけではありませんので、敵兵の襲来に備える必要があったのです。



吉田城本丸のもうひとつの玄関だからなのか、ここの石垣も比較的大きな石が用いられているようですね。



ここから、豊川へ下りられます。



本丸から、川手の腰曲輪へ下る石段。
この石垣はなかなかに急峻ですね。


本丸に戻って、



鉄櫓【模擬】へ。



続100名城スタンプは、この鉄櫓の中でもらえます。
開場時刻は午前10時から午後3時までと、意外と早くに閉まってしまうようです。
また月曜日が休業日となっていることにも注意をしなければなりません。
当時私はあまり時刻を意識しておらず、鉄櫓に入ったのが午後2時半ごろと、一歩間違えばスタンプをもらい損ねていたようです。

浜松で餃子屋の列に並ばなかったのは正解でしたね。

鉄櫓の入場料は無料です。
ここのスタンプはタダでもらえますね。



151番、吉田城!
絵柄は鉄櫓本丸腰曲輪です。
画角は間違いなく北から、すなわち豊川越しの画ですね。
後で探してみましょう。

そして「城攻め」も・・・



続日本100名城・第151番、吉田城!
さらに伊奈城(豊川市)も攻略。



武将は池田輝政さんを登用。
彼の事蹟に比べて、能力値はいまひとつですねぇ。
酒井忠次さんは・・・おそらくここで登用できそうなのですが、吉田城を登城する前に登用してしまったのでした。


鉄櫓内は、吉田城関連の資料が展示されています・・・って、どこの城もそうなんですけどね。
しかしここの展示は、入場料を取らない割にはかなりの力の入れようです。



吉田城ははじめ今橋城といい、永正2年(1505年)在地の武将・牧野古白が駿河守護・今川氏親義元の父)の命で築城されました。
しかし古白は、その翌年に敵対する戸田氏によって戦死、今橋城は以後牧野氏と戸田氏の争奪戦の舞台となります。
大永2年(1522年)ごろ、今橋城は吉田城と改称されたようです。



天文15年(1546年)今川義元が吉田城を攻め、城主・戸田宣成を討ちました。
義元は吉田城を直轄とし、東三河の統治や西三河の松平、尾張の織田攻略の拠点としました。
しかし義元が桶狭間の戦いで戦死すると、徳川家康が西三河で独立し、今川領へと進出していきます。
永禄7年(1564年)家康は吉田城を攻め取り、「徳川四天王」筆頭の酒井忠次を城主としました。
元亀2年(1571年)武田信玄が西上作戦前の示威のために吉田城を襲撃しましたが、忠次が堅守して武田軍を退けました。



豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、徳川家康は関東へ移りこととなりました。
代わって吉田城主となったのが、池田照政(輝政)です。



照政は吉田城を大改修しました。
本丸を取り巻く石垣は、照政が城主のときに普請されたものです。
照政は関ヶ原の戦いの戦功により姫路へと移封加増され、姫路城を大改修しています。

その後の吉田は、豊川にかかる吉田大橋もあることから、江戸幕府はここを西国に対する防衛拠点と位置付けていました。
そのため吉田を治める大名は有能な譜代大名が多く置かれ、老中や京都所司代などの幕閣に就く者も輩出し、「出世城」とも呼ばれていたそうです。
浮世絵師・歌川広重「東海道五十三次」では、「吉田」の一枚に、豊川にかかる吉田大橋とほとりにそびえ立つ鉄櫓が描かれています。



 

吉田城本丸の模型。
往時の姿がとてもよくわかります。
入場料無料でありながら、この充実した展示・・・吉田城について不勉強だった私にはありがたかったです。



最上層からの眺め。
豊川がすぐ下を流れています。
吉田城の近くで、川がしゅう曲しているんですね。



すぐ下流には、吉田大橋がかかっています。
浮世絵に描かれた橋はあれなのかというと、実は違います。
浮世絵の橋は、吉田大橋の1本先にある豊橋という橋です。





鉄櫓を出ました。



東御門跡から本丸を退出。
ですがもう少し吉田城の散策をしていきます。





吉田城・第1章~路面電車に乗って

2019-07-21 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 1 時 1 5 分

浜 松 市 中 区

J R 浜 松 駅



浜松城【浜松市指定史跡】の訪問を終え、浜松餃子をたっぷり胃袋に送り込んだ私は、次の城へと動きます。



めざす先は、西。
13時20分発 東海道線 普通電車 岐阜行きに乗車します。
岐阜行きの電車に乗るとはいっても、岐阜はおろか名古屋までは行きません。



13時20分、電車は定刻どおり発車。
浜松から先は車両が8両なので、悠々と座席を確保できます。



そうそう、キオスクで飲み物を買うついでに、食後のお菓子を買ってみました。
玉華堂みそまんじゅう(105円)です。



直径は約6センチ、高さは約1.5センチと、小ぶりなおまんじゅうですが・・・



みそまんじゅう、うまい!
味噌は前面に出てくるのではなく、あくまで風味として登場する程度です。
かわは味噌風味、その後に黒糖や蜂蜜の風味が追いかけてくる、といった具合。
中のあんこは、言うに及ばず甘いですねぇ。




浜松駅から2駅目の舞阪駅を過ぎると、電車は浜名湖を渡っていきます。
浜名湖に浮かぶ埋立地にある弁天島駅を過ぎ、



さらに浜名湖を渡ります。
進行方向右手に浜名湖競艇が見えてきたら、浜名湖の景色はおしまい。
電車は新居町駅へ。


う~む、今回も天気の良くない浜名湖の画でしたね・・・。



そして13時55分、



豊橋駅で下車しました。



【今回の乗車記録・其之壱】

JR東海 [CA34]浜松駅 3番線 13時20分発
[CA]東海道線 普通 岐阜行き 8両
[CA42]豊橋駅 7番線 13時55分着

*所要時間 35分
*移動距離 36.5km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、670円)



「城攻め」は? もちろんやっていきましたよ~。


【今回の「城攻め」成果】

[CA]東海道線
13時20分 [CA34]浜松駅  出発
13時30分 [CA36]舞阪駅  宇津山城(湖西市)を攻略
13時55分 [CA42]豊橋駅  到着




午 後 1 時 5 8 分

愛 知 県 豊 橋 市

J R 豊 橋 駅 東 口


豊橋駅といえば、乗り鉄の世界では「秘境駅の宝庫」として知られるJR飯田線の起点ですが・・・
お城業界でも、続日本100名城のひとつである吉田城の最寄駅であります。



最寄駅・・・とはいいましたが、この豊橋駅から吉田城へは別の電車で向かうこととします。

 

豊橋駅東口のペデストリアンデッキから下ると、豊橋鉄道市内線駅前停留場へ。
城攻め旅では函館以来の路面電車です。



今度の電車は、14時03分発 市内線 赤岩口行きです。
ちなみに「市内線」「豊橋市電」は通称で、本名は東田(あずまだ)本線というそうです。



こちらが市内線の時刻表。
市内線に限れば、運賃はどこまで行っても大人150円、子供は80円。
料金は均一なので、前から乗って、運賃を先に払うことになります。
降りるときは、中ほどの扉から。

それより気になるのが、「炎の祭典」という案内文。
平成30年9月8日(土)、まさに私が豊橋を訪れたこの日に、「炎の祭典」なる催しが執り行われるのです!!!
某氏は烈火のごとく憤慨し、鬼ヅモ会員は狂喜乱舞しそうな、なんというドンピシャ!なネーミングの催し物。

「炎の祭典」の登場に、逸る気持ちをおさえて市電に乗車。



駅前停留場から4つ目、



市役所前停留場で下ります。



「役」の字に少しばかりの違和感を感じる、市役所前停留場。
そのそばにある信号を渡り、



豊橋市公会堂【国登録有形文化財】の脇の道へ入り、



豊橋市役所庁舎が見える方へ歩いていきますと、



吉田城があった豊橋公園に到着しました。



【今回の乗車記録・其之弐】

豊橋鉄道 ①駅前停留場 14時03分発
市内線(東田本線) 赤岩口行き
⑤市役所前停留場 14時09分着

*所要時間 6分
*移動距離 1.4km
*運賃 150円




午 後 2 時 1 3 分

豊 橋 公 園 ・ 吉 田 城 址


豊橋公園の門から入ると、早速吉田城の案内板があります。



吉田城の縄張りは輪郭式と呼ばれるもので、中心に本丸があり、二の丸、三の丸が取り囲むように配置しています。
本丸の背後は豊川が流れており、見方によっては「背水の陣」とも考えられます。
岡崎城今川氏真から独立した徳川家康はまず吉田城を攻め取りましたが、「背水の陣」となっている縄張りを嫌ったため、吉田城に本拠地を移すことはありませんでした。



公園を取り囲んでいる三の丸土塁
三の丸と城外を隔てる空堀を造成した際に、掘り起こされた土砂で造られたものです。
現在は豊橋公園を取り囲む外壁の役割を果たしています。



芝生の真ん中に立っているのは、戦災復興碑だそうです。
「○○の像」というタイトルはとくにないのだとか。
このあたりは二の丸口門という二の丸へと通じる門が構えていたそうです。


公園化によって、吉田城の空堀はあらかた埋め立てられてしまいました。
入口付近の三の丸、復興碑付近の二の丸の境界は、今となってははっきりと区別できませんでした。
いつの間にか二の丸に入っていた、そんな印象を受けました。
しかし・・・



二の丸と本丸を隔てる内堀は健在です。
そして、本丸を取り囲むように造成された石垣もまた、健在。



二の丸から本丸に向かって左側は、千貫櫓跡の石垣。



右側は辰巳櫓跡の石垣です。


石垣の登場で一気に盛り上がってきた感のある、吉田城の訪問。
これより、石垣豊かな本丸へと足を踏み入れます。





浜松餃子を求めて

2019-07-14 | グルメ


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 1 5 分

浜 松 市 中 区

J R 浜 松 駅 付 近



浜松城【浜松市指定史跡】からJR浜松駅の方へ戻ると、時刻はお昼時となっていました。

浜松のグルメといえば、まずはうなぎ
あるいは、「さわやか」げんこつハンバーグ
最近では、遠州焼きなる粉もののB級グルメもあるようですが・・・・・・

今回いただくのは、浜松餃子です。


浜松餃子のお店をアイフォンさんで確認すると、浜松駅から離れている店が多いのです。
そんな中で目を付けたお店が、



こちらの南口から徒歩3分といわれる「餃子むつぎく」
細い路地裏にあるお店ですが・・・



この行列は・・・!



やはり「むつぎく」からの行列でした。
推定20組の待ち人の行列、時間にすると1時間超でしょうか。
時間に限りのある旅なので、「むつぎく」の餃子は断念します。


さて浜松には、もうひとつ「餃子 むつ菊」というお店があります。
こちらは浜松駅から離れており、また予約をしないとまず食べられらないといわれるほどの人気店だそうです。
こちらの「むつ菊」も、断念。





カラフルなママチャリを借りた「はままつペダル」に戻り、自転車を返却しました。



歩いて北口に戻ってきました。
移動手段を失った今、たよりにすべきは駅ビルのMAY ONE(メイワン)のみ。

メイワンの1階にも「石松餃子」というお店がありましたが・・・ここも待ち人が凄い。
メイワン7階のレストラン街に向かい、



待ち人が少なそうなこちらでいただくことにしました。
「五味八珍」・・・アイフォンさんで検索した餃子の名店には挙げられていないようですが、そのような贅沢は言ってられません。

とりあえず、入口のボードに掲載されている浜松餃子セット(税込1,069円)をオーダー。
さらに、単品で浜松餃子(12個)(税込529円)もオーダーしました。



まず単品の方の餃子がやってきました。
餃子を円形に並べて、中心につけあわせのもやしを添える、浜松餃子のベーシックなスタイルですね。



次いで、浜松餃子セットがやってきました。
セットは、つけめん、つけタンタンめん、チャーハン、らーめん&半ライスとの組合せとなっていますが、今回は無難にらーめん&半ライスをチョイス。
さらにらーめんは、しょうゆ、みそ、とんこつから選べますが、今回は餃子をメインとしているので、味の濃淡が控えめなしょうゆらーめんを選びました。



いざ、食らわん!



浜松餃子、うまい!
中のあんは野菜8に対し豚肉2くらいです。
肉の旨味よりも野菜、とりわけキャベツの味が前に出てくるので、醤油は加えたほうがおいしいです。
全体的に脂っぽい献立なので、つけあわせのもやしがなかなかにイイ仕事をしてくれます。




完食! でも餃子2皿はさすがにきびしいですね。


後で知ったのですが、今回餃子をいただいた「五味八珍」は中華料理のファミレスなんだそうです。
ハンバーグの「さわやか」のようなご当地ファミレスで、愛知県、静岡県から神奈川県の一部でチェーン展開しているようです。
道理でメニューの冊子がしっかりできてるし、記載がちょっとやかましい感じもしました。





腹に十分すぎるほどの栄養を補給した私は、さらに西へ。





浜松城・最終章~出世して太閤殿下へ

2019-07-14 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 5 6 分

浜 松 市 中 区

浜 松 城 公 園



浜松城【浜松市指定史跡】の本丸を退出し、



浜松城公園の駐輪場へと戻りました。
これにて浜松城の攻略は完了・・・?


否。
浜松城を語る上ではもう1箇所訪れなければならない所があります。


徳川家康が浜松城を築く前、この地には曳馬(ひきうま)がありました。

曳馬城の築城は諸説ありますが、室町時代初期に遠江今川家4代当主・今川貞相(さだすけ)によるものとされています。
その後、遠江今川氏は遠江国(静岡県西部)の支配権を失い、応仁の乱で室町幕府の権威が揺らぎ始めると、駿河今川家の今川義忠が侵攻を始めます。
そして義忠の子の今川氏親の代で曳馬城を制圧し、遠江の支配が確立しました。
氏親は家臣の飯尾乗連(のりつら)を城主としました。

氏親の子の義元桶狭間の戦いで戦死すると、今川家の衰退が始まります。
曳馬城の城主はこの時期に、乗連の子の連竜(つらたつ)に代わりますが、今川家を継いだ氏真(うじざね)に疑惑をもたれ、謀殺されてしまいます。
以後の曳馬城は飯尾家の家臣によって守られるものの、内紛を抱えたまま徳川軍の侵攻を受け、あっさりと陥落してしまいます。

この地を得た家康は、曳馬城を西南方向へと拡張し、本拠を構えました。
その際、「馬を曳く」という名は敗北を意味しており縁起が悪いということで、地名を「浜松」に改めたのでした。





やってきたのは、元城町東照宮



小さく「曳馬城跡」とあります。
こちらがかつての曳馬城本丸だったのです。



拝殿でいつもどおりの祈願。



拝殿の傍らに立っているのは、近年できたであろう二公像
家康はわかるけど、なんで豊臣秀吉が?!


曳馬城主・飯尾乗連の寄騎のひとりに、頭陀寺(ずだじ)(浜松市南区)松下加兵衛という武将がいました。
加兵衛の家来に、「木下藤吉郎」と名乗る若者がいました。
この藤吉郎が、のちの豊臣秀吉です。
加兵衛は、若き日の藤吉郎に武芸、学問や兵法を教えたといわれています。
藤吉郎は同僚からいじめを受け、それを哀れに思った加兵衛が路銀を与えて送り出し、その後織田信長に仕えたといいます。
(藤吉郎が使いの金子を持ち逃げした、という説もあります)

今川家が凋落すると、加兵衛は徳川家康に仕えますが、天正2年(1574年)の第1次高天神城の戦い武田勝頼に破られます。
勝頼に赦されて解き放たれると、織田家で頭角を現していた羽柴秀吉に招かれ、その家臣となりました。
秀吉は加兵衛を優遇し、若年時の恩に報いたそうです。



藤吉郎が浜松にいた時は、年齢は16歳から18歳ごろとされています。
銅像の秀吉公はちょっと若すぎるのではないでしょうか・・・?



さて、ここは秀吉にもゆかりがあるという場所。
ここで「城攻め」をしたら、秀吉公が発見できるかもしれませんねぇ・・・

・・・・・・武将、誰もいねぇ。

しかし、



「海道一の弓取り」の称号を獲得!
はじめは今川義元がこの称号で呼ばれていましたが、桶狭間の戦いで戦死。
その後小牧長久手の戦いで勝利した徳川家康が、この称号で呼ばれるようになったそうです。
ゲーム上では、浜松城を攻略するとゲットできるようですね。





さてこの二公像、浜松屈指のパワースポットとされています。



両英傑の間に立って撮影すると、出世運がうなぎのぼりなのだとか。
そしてその画をSNSにアップすると、運気を広く周囲に振りまくことができるのだとか。

・・・境内に誰もいない。
三脚のようなものもない・・・。


ひとり旅の私は、こうして出世を棒に振ったのでした。





浜松城・第2章~出世する大名達

2019-07-13 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 4 分

浜 松 市 中 区

浜 松 城 本 丸



浜松城【浜松市指定史跡】の本丸まで到達しました。



本丸の高台に構える天守門【再建】をくぐります。



模擬天守がそびえ立つ天守曲輪に入りました。



天守曲輪から振り返ってみる天守門
櫓門ということで、脇から中に入ることができるようです。
後ほど入ってみることとしましょう。



天守曲輪から仰ぎ見る模擬天守
「模擬」ということで、残念ながら浜松城の天守は史実に基づいていないのです。



しかしながら、天守台は400年前から残っているものだといいます。
400年前というと、初代城主・徳川家康の頃よりもだいぶ時が流れています。
家康が浜松城を築城した頃は、石垣の技術はまだ浜松に伝わってきておらず、浜松城は土造りの城だったといいます。


徳川家康江戸城へ移った後、浜松城主となったのは堀尾吉晴でした。
吉晴は豊臣秀吉に古くから仕え、のちに「三中老」に列せられたといわれています。
浜松城は堀尾吉晴の手によって、石垣が造成されるなどして生まれ変わりました。
堀尾家は関ヶ原の戦いで家康方につき、戦後、出雲松江24万石に加増されました。
堀尾吉晴もまた、浜松城から出世していったのですね。

その後浜松城は「東照公(家康)ゆかりの城」として特別視され、有望な譜代大名が浜松城主となる例が多かったようです。
彼らは老中など、幕府の要職に就任することが多かったことから、「出世城」と称されたといいます。
幕末に天保の改革を指揮した水野忠邦も、浜松城主を歴任しています。



石垣、天守などの築城技術は近畿地方で発展を遂げていき、そこを治めていた織田信長・豊臣秀吉の家臣が、自らの居城を普請するすることによって伝播していきました。
そして、本丸を区分して天守のための曲輪を形成する手法は、豊臣系の大名によく見られるものだといいます。
現在にも残っている浜松城が、徳川方ではなく豊臣方の影響を色濃く残しているのは、なんとも興味深いところです。



天守曲輪の西側は、埋門(うずみもん)があったそうです。





天守の中へ入りましょう・・・なにやら老人の群れが入口で渋滞をなしていますなぁ。
さっさと・・・(自主規制)

入場料は、大人200円。
団体割引は、30名以上で1割引き、100名以上で2割引きとなっています。
一人旅を愛する私に「団体割引」というのは無縁なものですけどね。



まずは地階。
天守台に設けられていた地下構造で、穴蔵と呼ばれていました。
そこには井戸があり、籠城戦では最後の拠点となるであろう天守や本丸に、飲み水が確保されている構造だったのですね。

同じような構造は、ほかに名古屋城松江城でも見られるのだそうです。
松江城は、出世していった堀尾吉晴が築いた城郭。
ここにも堀尾=豊臣系のカラーが残っているのかもしれませんね。


地上1階は、浜松城関連の資料が展示されています。
なかでも、浜松一の出世頭というべき徳川家康のものが多いです。



家康が身に付けていた甲冑のレプリカ。



左の金ぴかな甲冑は、金溜塗(きんためぬり)具足

家康の初陣となる大高城攻防戦で身に付けていたとされています。
大高城攻防戦は桶狭間の戦いの前哨戦。
織田軍によって包囲された大高城(名古屋市緑区)を救援するため、出陣した今川義元の軍勢。
今川軍に加わっていた家康(当時は松平元康)は、義元より大高城に兵糧を運び入れる使命を受け、これを成功させたのでした。

本物は久能山東照宮に保管され、国の重要文化財に指定されています。



右のシブめの甲冑は、正式名を伊予札黒糸威胴丸(いよざねくろいとおどしどうまる)具足といいます。
兜の前立てから歯朶(しだ)具足」とも呼ばれ、こちらの方がメジャーな呼び方でしょうか。

こちらは関ヶ原の戦いで着用され、大坂の陣でも携行された甲冑です。
徳川家の天下を定めた2つの戦役で用いられたため、吉祥の鎧として尊ばれたそうです。

こちらも本物は久能山に保管され、また国の重要文化財に指定されています。



有名な徳川家康の肖像画です。
正式名は徳川家康三方ヶ原戦役画像というそうですが、通称の顰像(しかみぞう)方が有名でしょう。
本物は名古屋の徳川美術館に保管されており、浜松城のものはレプリカです。

三方ヶ原の戦い武田信玄に大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰った家康。
恐怖のあまりにう●こを 家康は自己の短慮から多くの将兵を失ったことを反省し、絵師に己のみじめな姿を描かせて、後の教訓としたといわれていますが・・・・・・
どうもこの話はマユツバのようです、ここでは詳しくは触れませんが。


最上階に上がりました。



東側を見下ろし、本丸富士見櫓跡
ここから天守曲輪を眺めると、なかなか画になりますよ。



西側を見下ろすと、天守台より一段高い区画があります。
ここは八幡台と呼ばれ、武家の守護神とされる八幡大菩薩をお祀りする神社が鎮座していたといいます。


再び1階へ。



続100名城スタンプは、天守の1階に設置されています。



148番、浜松城!
絵柄は模擬天守天守門ですね。
どのアングルからの画なのか、後で探してみましょう。



天守を出ました。



今度は天守門の中に入ります。



骨組みはシンプルで、装飾性はまったくありません。
戦争に備えるための施設なので、短期間に建築できる構造となっているのです。敵はできあがりを待ってはくれませんから。
それでいて、戦闘に耐えうる堅固さをも備えています。

・・・どこの城でも同じような画じゃないかと思われますが、仕方ないことです。



棟束にかけられている棟札
「浜松市長 鈴木康友」とあるので、天守門再建工事の施主は浜松市のようです。



天守門からの模擬天守
なかなか画になりますね~。
「おんな城主」の顔出しパネルがありますが・・・そういえば平成30年の大河は「おんな城主 直虎」だったか・・・見てないなぁ。
平成30年の大河ドラマは「西郷どん」でした。見てませんでしたねぇ。



天守門から、天守曲輪を出ました。
この後は、100名城スタンプの画角を探します。



天守門の真下。ここじゃないですね。



横を向くと、「若き日の徳川家康公」像
正面から、はじめて拝謁します。



やっぱりあまり若くなさそう・・・。
手に持つのは・・・歯朶の前立て?!
家康が歯朶具足を作らせたのは、関ヶ原に赴く前の頃なので・・・やっぱり若き日の家康ではなさそう。


少し離れて、富士見櫓跡からの画。

 

たしかにいい画ですが、天守と天守門の位置関係が逆です。


「若き日の・・・」付近に戻ってきました。



浜松市役所が見渡せる、このあたりからだと・・・



ううむ・・・位置関係は正しいのですが、ここからだと天守がよく見えません。
視界を桜の木々に阻まれてしまいます。


二の丸に下り、



浜松市役所本館入口へ。

 

ううむ、もう少し高さが必要ですね。



もしかして、市役所の中から撮ったのか?!
とはいえこの日は土曜日、役所は当然閉まっております。


そうそう、忘れずに「城攻め」



続日本100名城・第148番、浜松城



発見できたのは堀尾吉晴さんだけ。
徳川家の武将は、江戸城付近であらかた登用してしまいましたからね・・・。



スタンプの画角探しはここで断念し、自転車を停めた場所へと戻りました。





浜松城・第1章~出世大名家康くん

2019-07-09 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 2 8 分

浜 松 市 中 区

J R 浜 松 駅



わが本拠を発って約6時間、JR浜松駅までやってきました。
う~~~ん、静岡は長かったですねぇ。

浜松駅の北口から、今回の登城旅が始まります。
目的地は言うまでもありませんね・・・浜松にある浜松城【浜松市指定史跡】です。


駅の北口にあったのは徳川家康公の銅像ではなく、



何だ、このかぼちゃのお化けみたいなのは・・・出世大名家康くん!?



北口から、高架沿いに東へ・・・どうやらこの御仁が家康くんのようですね。
ちょんまげは浜名湖のうなぎ、袴にはYAMAHAのピアノ
そしてこの画では隠れていますが、紋付の家紋は葵ではなく静岡温州みかんがあしらわれています。


出世大名家康くんは、浜松市の公式マスコットキャラクターで、徳川家康の生まれ変わりを称しています。
平成23年(2011年)に浜松市長によって公式のマスコットに指定され、赤塚不二夫のキャラクターであるうなぎイヌに代わって「はままつ福市長」に就任したのでした。

平成25年のゆるきゃらグランプリでは、「天下統一宣言」を行い、さらに浜松市を挙げてのバックアップにより選挙戦を優勢に戦いますが、終盤で栃木県佐野市のさのまるに逆転を許して敗北。
家康くんは「宣言」時に公約したとおりにうなぎのまげを落とし、「出家大名」となってしまったのでした。

この「出家」は、「ピアノとみかんはそのままで、なぜうなぎだけ?」という漁業関係者の声もあったようで、翌年に「復活の儀」を行って見事に蘇生。
そして平成27年(2015年)ついにゆるきゃらグランプリを獲得したのでした。



「はままつ福市長」もいらっしゃるかもしれない浜松城へは、浜松駅から約2キロほどの行程になりそうです。
そこで今回も、



レンタサイクルの力を借ります。
今回の自転車はえらいカラフルですね~、さらにハンドルにはスマホさんを据え付けるポケットが備えられています。
城攻め旅史上最高にヤル気のあるレンタサイクルです。



自転車を借りられる場所は駅北口から東へ、新幹線の高架沿いに進んだところにあるはままつペダルというお店です。
電チャリ、折り畳み自転車、ロードレーサーなどあらゆる種類の自転車を借りられ、ロッカーなどのスペースもあるそうです。
私はシティサイクル・・・要するにママチャリを4時間500円で借りることとしました。


※はままつペダルは、平成31年1月に新幹線の高架下から遠州鉄道の高架下に移転しました。
 浜松駅からは少しだけ遠くなってしまいました。



スマホさんの地図で確認しつつ、



国道152号沿いの浜松市役所へ。
市役所と、その隣りの元城小学校との間から脇道を進み、



浜松城公園へと到着しました。




午 前 1 0 時 4 8 分

浜 松 城 公 園


さて浜松城公園入口のあたりは、浜松城の二の丸だったところです。
二の丸は江戸時代に政庁が置かれた場所で、藩政を行っていた表御殿と藩主の私的場所であった奥御殿が建っていました。
現在は浜松市役所元城小学校が建っています。



さて、自転車をどこに停めよう?
城内に自転車を停められるような場所はなさそうですし、市役所の駐輪場はやや遠い場所にあるようです。
天守とは逆方向ですが、浜松城公園の駐車場に向かい、そこの駐輪スペースに停めることにしました。



ここにも出世大名家康くんがいらっしゃいますなぁ。
おやおや、出世法師直虎ちゃん???
直虎ちゃんは本当に出家していますが、「出家法師」じゃないんですね。


公園の駐車場から進み、



本丸に到達。
桜の木に覆われている模擬天守、天守の前に立ちはだかる櫓門は天守門【再建】。
曲輪をとりかこむ石垣は、組成する石がとても粗々しいですね。



天守門付近から見下ろすと、あのお方は・・・



若き日の徳川家康公の像のようです。
私の目が良くないせいか、あまり若々しくは見えませんねぇ。
たぬきに喩えられた晩年と比べれば体躯がスリムなので、壮年期の家康公なのでしょうか。


徳川家康は、はじめ三河(愛知県東部)の岡崎城に拠っていました。
織田信長と同盟を組むと東へ勢力を伸ばし、さらに甲斐(山梨県)の武田信玄とも同盟して今川氏真を攻め、遠江(静岡県西部)を獲得しました。
元亀元年(1570年)、居城を曳馬(ひきうま)に移し、さらに名を「浜松」と改めたのでした。

浜松城に移った家康を待っていたのは、強敵である武田との闘争でした。
隣国の駿河(静岡県中部)を攻め取った信玄は信長包囲網に加わり、西進作戦を開始します。
家康は武田軍の侵攻を受けますが、盟友の信長も余力はなく、ほとんど独力での対応を迫られます。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いで信玄の兵力と用兵の前に惨敗を喫し、家康の生涯最大の危機を迎えますが、直後に信玄が病死して難を逃れました。

信玄の死後に当主となった武田勝頼との闘いも、はじめは劣勢のまま推移しますが、天正3年(1575年)長篠の戦いでの大勝を機に勢力を盛り返していきます。
しかしこれ以降、信長との関係は対等なものから従属的なものとなっていき、信長の指示により嫡子の信康と正妻の瀬名姫(築山殿)を処断しなければなりませんでした。
(信長の指示ではなく、父子関係が悪化したため家康の判断で処断したともいわれています)

天正10年(1582年)信長とともに甲州征伐に加わり、武田勝頼を滅亡させます。
その功績で信長より駿河を与えられますが、こののち信長は本能寺の変で死亡。
本能寺の変後のどさくさで武田の旧領であった甲斐と信濃(長野県)を攻め取り大大名となりますが、そのころには豊臣秀吉が信長の後継者として台頭していました。

天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで豊臣軍を破りましたが、外交戦では後れを取り、また近畿を領有する秀吉とは国力で大きな差があったのでした。
家臣間にも親豊臣と反豊臣とで亀裂が生じ、三河時代以来の重臣・石川数正(かずます)が出奔してしまいます。
ここに及んで家康は秀吉のもとに上洛し、秀吉に臣従することとなります。

天正14年(1586年)家康は居城を駿府城に移します。
石川数正の出奔により、浜松城の機密が漏れてしまうことを恐れたためともいいます。



秀吉が天下統一を果たすと、家康は江戸城へと移封されてしまいます。
当時は未開の地であった関東が、家康雄飛の地となっていくわけですが、これはまた別の話ですね。
ともあれ、浜松時代の困難に打ち克ったことが、家康の出世へとつながっていることは間違いないでしょう。





さて私は天守門【再建】をくぐり、浜松城の中心部・天守曲輪へと入っていきます。





長い長い静岡を城攻め

2019-07-05 | 鉄道の旅


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 4 時 3 9 分

千 葉 県 柏 市

J R 柏 駅



「はじめての四国」の旅以来、約3年半ぶりに購入した青春18きっぷ
18きっぷの5回目、すなわち平成30年夏最後の旅も、関東地方を抜け出してしまいます!



この日も旅の出発地は、わが本拠地の柏駅です。
今回は南口改札から入場します。



発車標横の時計は、5時40分を指しています。
この日最初の電車は、4時47分発 常磐線 快速電車 上野行きです。
前回の旅よりも30分早い旅立ち、改札前のNEW DAYSも開店しておらず、飲まず食わずのまま電車に乗り込みました。



上野東京ラインの開通以来、常磐線は品川駅まで直通するようになりましたが、早朝の時間帯はやっぱり上野駅どまり。



上野駅は乗換に不便なので、ひとつ手前の日暮里駅で下車。



先にやってきた5時16分発 京浜東北線 各駅停車 大船行きで、



まずは東京駅に到着しました。




午 前 5 時 2 9 分

J R 東 京 駅


旅立ちの駅・東京駅
西の大動脈・東海道線と、北の大動脈・東北本線の起点です。



今回は東海道線に乗り、進路を西へ。
今度の電車は、5時46分発 普通電車 沼津行きです。
出発時刻まで10分以上あるので、簡単な朝食をとってしまいましょう。

 

牛肉どまんなか、うまい!
これから行く静岡とはまったく正反対の方向、山形県は米沢駅で販売されている駅弁です。
メインは牛丼風ごはん&牛そぼろごはん、お肉はもちろん米沢牛で、お値段は税込1,250円。
味付けは甘辛く、やや濃いめではありますが、さすがに有名駅弁とあってうまいです。

いつもは駅構内のそば屋で食事を済ますのですが、この時間はそば屋が開いておりません。
全国の有名駅弁を扱う「駅弁屋 祭」は、早朝5時30分から開いているので、今回は久しぶりに駅弁を賞味しました。
ちなみにこの駅弁屋さんは、夜の23時まで開いています。


牛肉どまんなかで旅の腹ごしらえを済ませ、沼津行きの電車で東京を発ちました。



横浜駅を過ぎたあたりで、今回も「ニッポン城めぐり」を起動して「城攻め」をこなしてまいります。
今回の旅は名城多き東海道、「城攻め」が一気にはかどりそうです。



この日最初の「城攻め」は6時16分、保土ヶ谷駅(横須賀線)付近で中田加賀守屋敷(横浜市保土ヶ谷区)。
東海道線の電車は、保土ヶ谷駅には停まらないのでご注意を。

6時22分、戸塚駅畠山重保館(横浜市戸塚区)と岡津城(横浜市泉区)を攻略、



この日最初の浪人・石巻康敬(やすまさ)を発見し、登用しました。
石巻さんは北条家臣で豊臣家との外交を担当していましたが、名胡桃城乗っ取り事件の弁明を達することはできませんでした。

6時28分、大船駅玉縄城(鎌倉市)を攻略、石巻康保(やすもり)と、



本多正信を登用しました。
正信は徳川家康の懐刀で、豊臣秀吉の死後に外交と謀略を駆使して、家康の天下取りに大きく貢献しました。
「汚れ仕事」を一手に請け負ったためか、顔グラはなかなかの悪人顔ですね。

6時34分、藤沢駅藤沢御殿(藤沢市)を攻略。
6時39分、辻堂駅大庭城(藤沢市)を攻略。
6時49分、平塚駅梶原景時城(高座郡寒川町)を攻略。
6時53分、大磯駅高麗山城(中郡大磯町)を攻略。
6時58分、二宮駅中村館(中郡二宮町)を攻略。
7時08分、鴨宮駅今井陣城(小田原市)を攻略、



北条氏規(うじのり)、太田氏房、板部岡江雪斎、松田憲秀、北条氏直、安藤良整(よしなり)、上杉景虎、北条氏政を登用。
北条氏政は北条氏4代、氏直は5代当主ですが・・・秀吉に腹を切らされた氏政さんだけモブ顔ですね。
ひとりだけ上杉さんがいて場違いな感じがしますが、この上杉さんは氏政さんの弟で、謙信公の養子に出されて数奇な運命をたどります。


7時13分、小田原駅にて。



日本100名城・第23番、小田原城
さらに岩原城(南足柄市)も攻略、



北条家初代・北条早雲
北条家2代・北条氏綱
北条家3代・北条氏康

さらに大久保忠隣、大久保忠世、朝比奈泰朝を登用。
2代目の氏綱さんはかなりの名君なんですが・・・モブ顔。



小田原城を攻略したため、小田原城主・北条氏康の異名でもある「相模の獅子」の称号をゲットしました。


小田原駅から2駅先の根府川(ねぶかわ)にて。



駅のホーム越しに、相模湾が見渡せます。
この日は、天気予報によるとすっきりしない空模様とのことでしたが、いやいや、なかなかに晴れ渡っているじゃないですか~。

7時26分、爽快な相模湾を見渡しながら、根府川駅土肥城(足柄下郡湯河原町)を攻略。
さらにその先、7時41分、熱海駅網代城(熱海市)を攻略しました。


7時52分、函南(かんなみ)で・・・



日本100名城・第40番、山中城攻略!
ここで「廻国異能の者」に遭遇しました。
通常の武将は特定の城にいけば必ず発見できるのに対し、「廻国異能の者」は発見できる時間がランダムで設定されている者たちです。



今回遭遇できた「廻国異能の者」は、山上宗二
千利休の高弟で、豊臣秀吉の茶匠を務めていましたが、秀吉の怒りを買って逐電、小田原の北条幻庵に仕えます。
幻庵死後におきた小田原征伐により再び秀吉に面会するのですが、秀吉に仕えることを拒んだために殺されてしまいました。



山上宗二を登用しました。
「一期ニ一度の会のように、亭主を敬いかしこまるべし」は、著書『山上宗二記』の中で利休の言葉を引用して記されています。


7時58分、三島駅長久保城(駿東郡長泉町)を攻略。




そして8時04分、沼津駅に到着しました。




午 前 8 時 0 4 分

静 岡 県 沼 津 市

J R 沼 津 駅


今度の電車は、



8時09分発 東海道線 普通電車 静岡行きです。
車両は半減の5両、長い長い静岡との闘いが始まります。

発車前に「城攻め」
8時08分、沼津城を攻略し、大久保忠佐を登用しました。



8時09分、電車は沼津駅を発車。



富士川を渡ります。
読みは「ふじがわ」ではなくて、「ふじわ」が正しいらしいです。



進行方向左手に見えるのは、由比(ゆい)海岸です。
鎌倉じゃありませんよぉ~、あちらは由比ヶ浜ですよ~。


この間の「城攻め」・・・

8時23分、吉原駅善得寺城間門城(いずれも富士市)を攻略。
8時31分、富士川駅蒲原城(静岡市清水区)と真篠城(山梨県南巨摩郡南部町)を攻略。
8時46分、興津駅小島陣屋(静岡市清水区)を攻略、穴山信君、朝比奈信置、本多重次を登用。

8時51分、清水駅江尻城(静岡市清水区)を攻略、



またも「廻国異能の者」を発見!



今度はウィリアム・アダムズ(三浦按針)さんです。
なかなかの能力値ですなぁ~。



英国への帰国は諦めていただき、按針先生を登用しました。

8時55分、草薙駅瀬名館(静岡市葵区)と久能山城(静岡市駿河区)を攻略。
8時59分、東静岡駅で・・・



安倍元真、今川氏真を登用しました。
氏真さんは・・・さすがの能力値ですな、行動力10は全武将の中で最低なのでは・・・と思いましたが、南光坊天海僧正が行動力5でした。
でも僧正は能力95ですから・・・。



9時03分、定刻どおりに静岡駅に到着しました。




午 前 9 時 0 3 分

J R 静 岡 駅


静岡駅からの電車は、



9時06分発 東海道線 普通電車 浜松行きです。
静岡県内の東海道線は、相変わらず普通電車しかありません。なが~いですねぇ。

さて静岡駅は、徳川家康公の隠居城であった駿府城【国指定史跡】への最寄駅。
短い3分の乗換時間の中で「城攻め」を試みましたが・・・不発。
そのまま電車は西へと出発・・・。



9時08分、安倍川駅持船城(静岡市駿河区)を攻略、向井正綱、関口親永を登用。
9時17分、焼津駅田中城(藤枝市)を攻略。
9時21分、西焼津駅花倉城(藤枝市)を攻略、岡部正綱を登用。
9時24分、藤枝駅小山城(榛原郡吉田町)を攻略、牧野康成を登用。
9時29分、六合駅で・・・



続日本100名城・第146番、諏訪原城攻略・・・。
諏訪原城の最寄駅は、六合駅から2駅先の金谷駅だったはずですが、予想外に攻略できてしまいました。

続100名城の「城攻め」は、実際にその城を訪れた時に行おうと考えていました。
小田原市内にある石垣山城、沼津市内にある興国寺城の攻略を避けるため、それらの最寄駅である早川駅原駅では「城攻め」をしなかったのです。

・・・諏訪原城が続100名城に選定されていることを、すっかり忘れていたんですけどね。


一部の読者には因縁深い島田駅を過ぎ、

 

東海道の難所であった大井川を渡ります。
駿河国と遠江(とおとうみの)国との境でもあります。
上流に横たわるねずみ色の雲に、増水して茶色に濁っている水・・・雨が降りそうな気配ですね。

なお、くだんの諏訪原城は大井川を渡った先にあります。


東海道線の電車は、遠江国の丘陵地帯・牧之原台地へ。

 

お茶が飲みたくなりますねぇ~。


9時51分、掛川駅に到着、



日本100名城・第42番、掛川城攻略!
掛川城は最初の城攻め旅で訪れたお城で、木造で再建された天守、現存する御殿が印象的でした。



山内一豊、朝比奈泰能、石川家成を登用。
関ヶ原のときは掛川城を家康公に差し出した一豊さんも、この機会にしっかり登用しました。


9時59分、袋井駅久野城馬伏塚城(袋井市)を攻略。
10時05分、磐田駅中泉陣屋匂坂城(磐田市)を攻略。
10時12分、天竜川駅頭陀寺ずだじ米津台場(浜松市南区)を攻略、飯尾連竜を登用。


天竜川駅の到達前に、

 

「暴れ天竜」の異名をもつ天竜川を渡りました。
川の水の色からして、その名に恥じない暴れっぷりを予感させます。


天候のほうは、途中の静岡駅あたりでどしゃ降りに遭ったものの、その後はなんとか雨は降らず、



10時17分、浜松駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 [JJ07]柏駅 3番線 4時47分発
[JJ]常磐線 快速 上野行き 15両
[JJ02]日暮里駅 3番線 5時13分着

[JK32]日暮里駅 9番線 5時16分発
[JK]京浜東北線 各駅停車 大船行き 10両
[JK26]東京駅 5番線 5時28分着

[JT01]東京駅 9番線 5時46分発
[JT]東海道線 普通 沼津行き 10両
JR東海 [CA03]沼津駅 3番線 8時04分着

[CA03]沼津駅 2番線 8時09分発
[CA]東海道線 普通 静岡行き 5両
[CA17]静岡駅 3番線 9時03分着

[CA17]静岡駅 4番線 9時06分発
[CA]東海道線 普通 浜松行き 3両
[CA34]浜松駅 4番線 10時17分着

*所要時間 5時間30分 (移動時間 5時間01分 乗換時間 29分)
*移動距離 289.8km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、5,080円)