鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

出雲さんぽ・第1章~お国さんの足跡

2023-04-09 | 公園・庭園


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 前 拾 壱 時 伍 拾 八 分

島 根 県 出 雲 市

出 雲 そ ば 「 八 雲 」



出雲大社縁結びを祈願した私は、このまま境内を出て・・・



早めのお昼をいただいた「八雲」さんの前に来ていました。
もう一度そばをいただきたかったのですが、さすがにお昼どきとあって中は混みあっているようでした。
おそばは諦め、「八雲」さんの面する国道431号線を西に進み、海へと向かいます。




午 後 拾 弐 時 参 分

出 雲 阿 国 墓 所


「八雲」さんから300メートルほど、ゆっくり歩いて5分ほどで・・・



出雲阿国墓所に着きました。

 (この像は別のところにありますよ~)

出雲阿国(いずものおくに)は、歌舞伎踊りの創始者とされています。
その素性や生涯は伝説に彩られていて定説を見ませんが、出雲国杵築(きつき)(出雲大社のあたり)の鍛冶・中村三右衛門の娘として生まれたと考えられています。
阿国は成長して出雲大社の巫女となり、勧進のため諸国を回り評判となったといいます。

記録では、慶長5年(1600年)京の都にて「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったと記されています。
この「クニ」が阿国と考えられ、さらに3年後の慶長8年に「かふきおとり」を踊ったとあることから、歌舞伎踊りを創始したのはこのころと考えられています。

慶長12年(1607年)江戸城で勧進歌舞伎を上演し、これを最後に阿国は歴史の表舞台から消えてしまいます。
その後阿国は出雲に戻って尼となり、87歳で生涯を閉じたという伝承があるそうです。



伝説の女性・出雲阿国が眠るという墓。



墓碑には「歌舞伎元祖 出雲お国墓」とあります。
平成14年(2002年)に修繕されたものです。
阿国の墓の後ろには、阿国の生家とされる中村家の墓があります。


・・・・・・合掌して、次の場所へ。




午 後 拾 弐 時 拾 参 分

奉 納 山 公 園


出雲阿国墓所から約300メートル、ゆっくり歩いて5分ほどで・・・



大きなイチョウの木が前面に立つ奉納山公園の入口へ。
このイチョウは「乳房イチョウ」と呼ばれているそうです。



高台へのぼってみる前に・・・



出雲阿国終焉地の碑
人間国宝であった歌舞伎役者・二代目中村鴈治郎の書によるものです。
ちなみに二代目鴈治郎の長女は中村玉緒でございますぅ~おぼぼぼぼ。



高台の中腹には於国塔が安置されています。
歌舞伎の中村家や市川家をはじめとした役者たちの寄進により、昭和11年(1936年)にはじめて建てられました。
現在の於国塔は、昭和43年(1968年)に再建されたものです。



塔の土台となっている石段には、再建当時に寄進した名優の名を見て取ることができます。




奉納山公園の展望台に上がってみました。
眼下には稲佐の浜、そして日本海



南西の方を見やると、稲佐の浜から続く(その)の長浜、そしてその先にはおぼろげながら三瓶山(さんべさん)も見えますね。
薗の長浜、そして彼方の三瓶山については、「国引き神話」という物語があります。


「国引き神話」は、わが国の正史ともいうべき「古事記」「日本書紀」に記述はなく、「出雲国風土記」にのみ記述がある物語です。
そこでは、八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)という神によって国引きがなされたとされています。

最初に造られた出雲国は、「細長い布のように東西に長い、失敗作だ」と八束水臣津野命は考えていました。
そこで志羅紀(しらぎ)高志(こし)都都(つつ)などにあった余った土地を裂いて、綱で引っ張って出雲国に縫い合わせたといいます。
この国引きでできたのが、現在の島根半島だといいます。
志羅紀は朝鮮半島の新羅、高志の都都は「越」の国(越前・越中・越後)・・・ではなく能登国の珠洲(すず)であると考えられています。

八束水臣津野命は、引き寄せた土地が再び離れていかないように、大きな杭を立てて縄で結びました。
のちに、志羅紀からの土地を結んだ綱は薗の長浜稲佐の浜となり、大きな杭は三瓶山となりました。
また、高志の都都からの土地を結んだ綱は弓ヶ浜となり、大きな杭は大山(だいせん)となったといいます。



「国引き神話」の地に想いを馳せ「国引き神話」など知らない当時の私は、ただただ「境港以来の日本海だぁ~」なんて思いながら、ぼんやりと景色を眺めていたのでした。





参拝!出雲大社・後編~おみくじ引くのはどうでしょう

2023-04-09 | どうでしょうロケ地


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 前 拾 壱 時 四 拾 七 分

島 根 県 出 雲 市

出 雲 大 社 ・ 西 十 九 社 前



縁結び祈願をすべく、出雲大社へ。

 

松の参道にて。
こちらは縁結び祈願ではなく、島根県に来たことがないという理由だけで来てしまった四人組のスタート地点。
水曜どうでしょう「サイコロの旅・第4弾」、スタート地点はいつもの東京ではなく、ここ出雲大社でした。

 

「何が出るかな~、何が出るかな~、それはサイコロ任せよ」
大泉さんがはり切って投じたサイコロは3の目を出し、一行は広島に向かうこととなります。

大泉さんがサイコロを投じたのは、なんと22年前!のこと。
令和の御代となり、出雲大社の松の参道には石畳が整備され、松の木が何本か伐採されたようですね。



 

八足門【国指定重要文化財】の前で、二拝四拍一拝



参拝後、どうでしょう班の皆様はここでおみくじを引きます。



大「旅行 よろし!」
鈴「旅行 同じくよろし!!」


・・・と、素晴らしいサイコロの旅ができそうですが、

鈴「方位 南、吉!!!」

・・・と、北の札幌に帰るのが目的の彼らに、なんともキツいご神託。
作中で「ダメ人間」と罵倒されるミスター、さすがです。



どうでしょう班に倣って、私もおみくじを引きます。



結婚  よい。

出雲大社のおみくじは「大吉」「凶」といったものはありません。
メッセージを読むことが重要であるといいます。
しかし縁結び祈願の出雲大社で「結婚 よい」といわれると、なんだか舞い上がってしまいますね。

失物  見つからず。

・・・と、一部マイナスのメッセージも。
運勢は「大吉」ではなく、「中吉」くらいでしょうか。
そして私は、この日千葉へと戻るのですが・・・

旅行  よい。
方位  東よい。


・・・というわけで、この上ない旅立ちを迎えられそうですね。

 

どうでしょう班がおみくじを確認していたのは、西十九社【国指定重要文化財】脇の「おみくじの木」の前です。
当時は木の枝にもおみくじが結ばれていましたが、この日は木の幹のみにおみくじがありました。
とはいえあの太い木の幹が、おみくじの「衣」をまとっているかのような姿は、なかなかの迫力です。



「神様サミット」において、神様がお泊りになるのがこの十九社。



大泉さんのうんちくでは、「ロイトン出雲大社」と呼ばれていましたね。



おみくじの結果に満足した私は、このまま出雲大社の境内を出ました。



西十九社の脇の出口は、神楽殿へと通じています。



神楽殿に掛る大しめ縄
全長約13.6メートル、太さは最大で約8メートル、重さは約5.2トンで、日本最大級。

日本最大「級」ということは、ほかにも大きなしめ縄が掛かっている神社があるのです。
それは、茨城県笠間市にある常陸國出雲大社
こちらのしめ縄は全長約16メートル、重さは約6トンで、いずれも日本最大。
太さは約2メートルで、こちらは本家?の出雲大社に軍配が上がります。

そしてこの神楽殿付近には、もうひとつの日本一が存在します。
私はすっかりスルーしてしまったのですが、神楽殿付近に掲げられている日章旗(日の丸)です。
縦9メートル、横13.6メートルで、畳75枚分の大きさを誇り、重さも約50kgあるそうです。



神楽殿から西へ。
早めのお昼をいただいた「八雲」さんの方へと歩いていきます。



神楽殿のお隣にある、千家(せんげ)国造(こくそう)
こちらは、出雲大社の宮司を代々務める出雲国造家の住まいです。
「国造(くにのみやつこ)」なんて古代の日本史で出てくるような単語を、令和の御代になって目にするとは思わなかったですね。

出雲国造家では、室町時代初頭に内部紛争が起き、千家北島家の2家に分かれてしまいます。
出雲大社の祭祀は2家で分担されるようになり、偶数月は北島家、奇数月は千家が執り行っていました。
明治になると出雲大社は神社本庁の傘下に置かれ、出雲大社の宮司は千家が継承することとなりました。



門から中をうかがいました。
落ち着いたたたずまいの書院でしょうか。
大正天皇が歴代天皇として初めて出雲大社を行幸されたおりに、滞在されたのがこの書院です。





ふたたび「八雲」さんに到着しました。





出雲そばはどうでしょう・前編~出雲大社前「八雲」

2023-04-09 | どうでしょうロケ地


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 前 拾 時 参 拾 九 分

島 根 県 出 雲 市

出 雲 大 社 神 楽 殿



出雲大社縁結び祈願
その前に早い時刻ではありますが、お昼を済ませてしまいます。



境内からいったん退出し、巨大なしめ縄がかかる神楽殿を見やりつつ、旅に出る前からあらかじめ目をつけておいたおそば屋さんへ。


神楽殿から300メートルほどで、目的のおそば屋さん・・・



「八雲」本店に到着しました。





中に入るとまずテーブル席があり、奥に座敷席があります。
私が着座したのはもちろん座敷席
ですがこの席ではないところがいいなぁ・・・。

私が座りたかった席には御婦人の方々がいらっしゃったので、「八雲そば」の提灯の正面にあるこの席でおそばをいただくことにしました、



注文してから約10分後。



出雲そば、割子三段!・・・・・・うまいっ!!
お出汁は旨味、塩味、そしてほのかな甘みがじつにバランス良く、最も私好みの味でした。
そばも風味が立っていて美味しかったです。

出雲そばは、割子と呼ばれる丸みを帯びた小さめの漆器に、そばと海苔やねぎなどの薬味が一緒になって供されます。
お出汁は別の器に入っており、それを直接割子のそばにかけて食べます。
上段の割子そばを食べたら、残っているお出汁や薬味などを次の段の割子にかけ、さらに必要に応じてお出汁を足します。
そして下段の割子そばを食べ終えて残ったお出汁などは、空いている器に移してから、これにそば湯をついで飲みます。

お値段は、割子三段が750円、割子五段が1,250円、つまりは割子1段につき250円のようです。
しかし、こんなに美味いのなら三段じゃなくて五段にすればよかった!



そばを食べ始めてから数分、くだんの御婦人方がお帰りになりました。
この機を逃さず、店員さんに尋ねます。

「とても厚かましいお願いなのですが、お膳ごと席を移動してよろしいでしょうか」

店員さんは「変わった客だな」と思ったか思わなかったかはともかく、移動を承諾してくださいました。
というわけで・・・

 

入口から見て一番奥の座敷席、床の間脇のこの席こそ、水曜どうでしょう「サイコロの旅・第4弾」にてどうでしょう軍団が出雲そばを食べていた席なのです。
五段割子を召し上がる大泉さん、隣りには三段割子?を召し上がるミスター
画角は大泉さんをまっすぐに捉えているので、私が座った席はカメラマンの嬉野ディレクターが座ったのでしょう。



私は嬉野Dの座った席で、残りのそばとそば湯を愉しみます。



そば湯・・・うまい!



出雲そば、おいしゅうございました。

八雲さんのおそばは、ヒゲこと藤村ディレクターを唸らせ、

「その時食った『出雲そば』が美味くて美味くて忘れられなかった。
 それ以来、そば日本一の座は『出雲』がどっかり腰をおろしていた」

 (水曜どうでしょう「ウラ話 番組スタッフからのメッセージ」より)

と云わしめた逸品。
その記述に違わぬ美味さを、私も味わうことができて感無量でした。





参拝!出雲大社・前編~縁結び祈願!!!

2023-04-09 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 前 拾 時 拾 壱 分

島 根 県 出 雲 市

神 門 通 り ・ 宇 迦 橋 大 鳥 居



松江からばたでん(一畑電車)出雲大社参拝へ。



ばたでんの出雲大社前駅に到着した私は参拝前に、



旧大社駅に立ち寄りました。
かつての参拝客に思いを馳せつつ、これより大社詣でに参じます。



宇迦橋(うがばし)大鳥居【国登録有形文化財】を再びくぐります。



神門通りをひたすら北上。
通りの左右にあるお店や途中にある出雲大社前駅は通過し、



ついに神々の集う出雲大社にやってきました!



石製の「出雲大社」の社号標、そして二の鳥居にあたる勢溜(せいだまり)の大鳥居です。

鳥居の前にある広場は勢溜と呼ばれています。
「勢溜」の「勢」は軍勢のこと、つまり勢溜は本来兵士たちが集合する広場を指します。
かつてこの勢溜の鳥居の周辺には大きな芝居小屋があったといい、多くの人々が集まる場所であったといいます。
そのため「勢溜」という言葉が当てられたのだそうです。

また勢溜の鳥居は、平成30年(2018年)に新しく建てられたばかり。
先代の鳥居は昭和43年(1968年)に寄進された木製のものでしたが、老朽化のため、対候性鋼というさびに強い鋼材で建て替えられました。

そういえば「出雲大社」は「いずもたいしゃ」ではなく、「いづもおほやしろ」と読むのが正しいのだそうです。
「おほやしろ」の「ほ」は歴史的仮名遣いというやつだから、口語で読むと「いづもおおやしろ」ですね。
近年ぽっと出てきた感じのする「おおやしろ」という読み方・・・・・・かつての大社駅(たいしゃえき)大社町(たいしゃまち)って何だったのでしょう。
(出雲大社が鎮座する地域は、出雲市に組み込まれる前は大社町でした)

私自身少しばかりの違和感を覚える「おおやしろ」ですが、「大社」を「おおやしろ」と読むのは出雲大社だけなのだそうです。



同じ出雲国(島根県)にあるこちらの神社は「くまのたいしゃ」
紀伊国(和歌山県)の山奥にある本宮も「くまのたいしゃ」
石川県にあるのは、気比大社「けひたいしゃ」)です。
また同じ出雲大社でも、各地にある分社についてはやっぱり「いずもたいしゃ」と読むのだそうです。



それでは、出雲大社の境内へ。



勢溜の大鳥居をくぐると、木々に挟まれた下り参道へ。
右手には祓社(はらえのやしろ)があります。
この画だと木々の陰に隠れ、少し見えにくいですね。
こちらで祈りをささげ、心の穢れを祓い清めるのがよいとされていますが・・・当時の私はこの祓社を見逃してしまったのです。



心のみそぎをしないまま、祓橋(はらえのはし)を渡って神域へ。
橋の下には素鵞(そが)という川が流れています。
出雲大社の西を囲むように流れ、神聖な川とされています。



三の鳥居である松の参道の鳥居
昭和53年8月に寄進されたもので、幅10メートル、高さ9メートル、鉄でできています。



鳥居の先にのびている松の参道
「何が出るかな~、何が出るかな~」



本殿に向かって参道の右側・・・なにやらひとりの男が荒波に向かって元気玉を放った像
いや、逆?・・・荒波から何かの力を授かる男の像でしょうか。



この像はムスビの御神像と呼ばれています。
昭和61年(1986年)に寄進された銅像で、日本海の荒波に乗ってやってきた幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)大己貴命(オオアナムチノミコト)が授かる場面を主題としています。
大己貴命は長じて「ムスビの神」となったとされ、大国主神(オオクニヌシノカミ)として出雲の神様になったといいます。





本殿に最も近い鳥居・銅の鳥居【国指定重要文化財】。
周囲は荒垣という垣根で囲われており、神のおわす世界との境界をなしているようです。



銅の鳥居をくぐり縁結び祈願!・・・その前に、いったん境内を出ます。



巨大な神楽殿、やはり巨大なしめ縄を横目に・・・



時刻は午前10時45分と早いのですが、やっぱりお昼は出雲そばですね!
数あるそば屋さんの中から私が足を運んだのは、「八雲」さん。
めちゃくちゃ美味かった!!




午 前 拾 壱 時 拾 分

ふ た た び 境 内 へ




神楽殿の脇から境内へ。



ふたたび銅の鳥居【国指定重要文化財】。
造営は寛文6年(1666年)で、長州藩の2代藩主・毛利綱広の寄進によります。
現存する銅製の鳥居では、日本最古のものとなっています。

銅の鳥居の先にあるのは拝殿、そして本殿【国宝】が鎮座しています。
ふつう鳥居、拝殿と本殿は一直線に配置されるものなのですが、参道の石畳からもわかるように、出雲大社では道の鳥居と、拝殿、本殿の位置にズレがあるのです。
なぜなのか・・・それは謎とされているのですが。



拝殿へ。
拝殿のすぐ先に本殿があって、拝殿にてお祈りを捧げるのが一般的です。
出雲大社においては拝殿と本殿が離れているので、一般の参拝客はここではお祈りをしません。



拝殿からさらに進むと、玉垣【国指定重要文化財】という塀、それに囲われた社殿が見えてきます。
玉垣は2段の石積みの礎石に据えられたヒノキ材の塀で、江戸時代中期の寛文年間(1661年~72年)に造営されたものです。
一般の参拝客は、この玉垣から内側のエリアには入ることができません。



玉垣とともに内側を守護する八足門【国指定重要文化財】。
江戸時代の寛文年間に創建されたものが解体され、延享元年(1744年)の再建に際して現在の場所に移築されたものです。
八足門の先には瑞垣楼門【国指定重要文化財】による囲いがあり、その内側に本殿【国宝】が鎮座しています。



八足門の前に賽銭箱が据えられており、ここでお祈りを捧げます。
参拝の作法は、出雲大社独自の二拝四拍一拝
ということで・・・

(ペコッ ペコッ)
パン! パン! パン! パン!

縁結び祈願! 縁結び祈願!!
縁結びきが~~~ん!!!


(ペコッ)


ちなみに二拝四拍一拝は、出雲大社の境内にあるすべての社でするものだそうです。
大社の外の神社では、出雲国であっても、出雲大社の分社であっても、通常の二拝二拍一拝でよいとされます。



この旅行の大きな目的である縁結び祈願を成し遂げました。

拝殿の裏、すなわち八足門のお賽銭箱の向かいで御朱印がいただけるので、列に並びました。
出雲大社の御朱印のお代(初穂料)は定められておらず、あくまでも「気持ち」をお納めするというかたちとなっています。
全国の神社仏閣の一般的な御朱印の初穂料は300円なので、ここでも300円をお納めしよう・・・・・・そう考えて財布をのぞいてみました。

小銭・・・1円玉、10円玉多し、100円玉もあるものの明らかに300円には足りない。
お札・・・1万円札しかない。

普通の神社仏閣ならば、1万円札を出せば9,700円のお釣が返ってきます。
しかしここでは「お気持ち」というシステム、1万円を差し出して何も言わなければ、お釣は返ってきません。
ならば1万円を差し出して「9,700円の釣りを渡せ」などと言えるでしょうか。

「神社へのは初穂料は、神への感謝の気持ち。
 それを惜しむとは情けない」


・・・などと、ドラクエの教会の神父のようなセリフはおっしゃらないでしょうが、そう思われても仕方がありません。
ならば今回の初穂料は・・・ありったけの小銭を全部納める!



推定174円をお納めして、出雲大社の御朱印をいただきました。
右行に「参拝」の2文字、中央に「出雲大社」の印影、そして左行に日付のみ。
とてもシンプルではありますが、それでも「大社」の重みのある御朱印です。

「神社への初穂料は、神への感謝の気持ち。
 それを惜しむとは情けない」


・・・ぐぬぬぬぬ。





八足門から、玉垣の周囲を時計回りに歩いてみましょう。




屋根だけですが御本殿【国宝】が見えます。
屋根の造りは檜皮葺(ひわだぶき)で、檜の皮が約64万枚用いられているそうです。

左側は筑紫社(つくしのやしろ)【国指定重要文化財】。
創建は延享元年(1744年)と考えられています。
祭神は多紀理比売命(タキリヒメノミコト)
天照大御神素戔嗚尊(スサノオノミコト)との「誓約(うけい)」で生まれた女神で、海の女神として宗像(むなかた)大社にお祀りされています。




御本殿の左真横から。
画像左が筑紫社、その奥に御本殿

画像右手前は神饌所(しんせんじょ)【国指定重要文化財】。
神饌とは神様にお供えするためのお酒(お神酒)やお食事のことで、神饌所はそれらを準備する建物というわけです。

神饌所の奥には、わずかながら楼門【国指定重要文化財】が見えます。




玉垣の北西から。
画像左から御本殿楼門筑紫社



祭神・大国主神の御神体が奉安されている御本殿
ふつう御神体は御本殿の入口に向かって相対して奉安されているのですが、出雲大社だけは御神体が西向きで奉安されているそうです。
つまりこの画像だと、大国主神の御神体に相対しているというわけですね。
なぜ御神体の向きが入口に向かっていないのか、その理由は謎とされています。




御本殿の裏へ。



視線を地面のほうに移すと・・・おやおや、可愛らしいウサギさん。
出雲大社と何の関係があるのでしょうか?


出雲大社の神様・大国主神が、地上の神々のリーダーとなる以前のこと。
そのころの大国主神は、大己貴(大穴牟遅・オオアナムチ)と呼ばれていました。
大己貴には意地悪な兄弟がおり、彼らは総称して八十神(やそがみ)といいました。

ある日、八十神たちは美しいと評判の八上比売(やかみひめ)に求婚するために、因幡(いなば)国(鳥取県東部)へと旅をしていました。
このとき大己貴は荷物持ちをやらされ、一行の最後尾を歩いていました。

旅の途中の気多(けた)の岬(現在の白兎海岸)で、毛皮をはがされて泣いている白兎に出会います。
八十神たちは意地悪く、

「海に浸かれ。そして風に当たれ。そして山で寝ていれば治る」

と教えました。
白兎が言われたとおりにすると、症状は悪化してしまいます。
しばらくして大己貴が通りかかりました。
白兎が事情を話すと大己貴は、

「すぐに川の真水で体を洗いなさい。そしてガマ(蒲)の穂を敷いて寝ていなさい」

と教えました。
白兎が言われたとおりにすると、みるみるうちに回復していきました。
すると白兎は大己貴に告げます。

「八上比売と結婚できるのはあなたです」

果たして因幡国に先に着いた八十神たちは、八上比売に求婚を断られてしまいます。
後れてやってきた大己貴が求婚すると、八上比売はこれを受け入れたのでした。

これを聞いた八十神たちは激しく憤り、大己貴を2度も殺害!!してしまいます。
しかしその都度生き返り、力をつけていった大己貴は、逆に八十神たちを降伏させてしまったのでした。





「うわ~、大きいなぁ~」
出雲大社のウサギさんたちが、御本殿を見上げているようです。




御本殿の反対側、出雲大社の最も奥に鎮座するのは、素鵞社(そがのやしろ)【国指定重要文化財】です。
ご祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)で、大国主神の前世代の父神です。
素鵞社の創建年代は不明ですが、現在のお社の再建年代は延享2年(1745年)6月とわかっています。




玉垣の北東まで来ました。
見える建物は、右から御本殿御向社(みむかいのやしろ)【国指定重要文化財】、天前社(あまさきのやしろ)【国指定重要文化財】。
御向社と天前社は、御本殿の左側に鎮座する筑紫社とともに「脇宮三社」と呼ばれ、出雲大社の主祭神・大国主神と関わりの深い神が祀られています。




玉垣の東側。
画像右から天前社御向社、そして御本殿です。

天前社のご祭神は、蚶貝比売命(キサガイヒメノミコト)蛤貝比売命(ウムギヒメノミコト)の2柱の神々で、それぞれ赤貝、ハマグリを神格化した神々です。
2柱の神々は、大己貴が八十神の策略にかかって焼死してしまった際に、その身を削って大己貴を蘇生させたのだそうです。
御向社のご祭神は、須勢理比売命(スセリヒメノミコト)
素戔嗚尊の娘で、のちに大国主神の妻となります。


玉垣を時計回りに一周しました。
今度は外側の建物を見てみましょう。



玉垣の南東に、一棟の長い建物があります。
十九社(じゅうくしゃ)(東十九社)【国指定重要文化財】です。



扉が19枚あることから「十九社」というそうです。



玉垣の南西にも十九社があります。
こちらは西十九社【国指定重要文化財】です。



神無月になると、日本におわす八百万神は神議(かみばかり)と呼ばれる会議をするために、出雲大社にお越しになります。
そのため出雲地方では神無月といわずに「神在月」というのだそうです。
神議は7日間行われるそうで、その間神々はこの十九社にてお泊りになるのだそうです。

ちなみに神議は出雲大社で行われているのではありません。
出雲大社はあくまで神々がお泊りするお宿、某番組の表現を借りれば「ロイトン出雲大社」というわけですね。



出雲大社の境内をぐるりとひと回りしたので、



最後におみくじを引いて、出雲大社の参拝は終了!