鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

アートアクアリウム2015

2015-10-21 | 美術館・博物館


2 0 1 5 年 8 月 4 日 ( 火 )

午 前 1 1 時 2 5 分

東 京 都 中 央 区

J R 新 日 本 橋 駅



この日は、世俗では真夏の平日。
そんな中、我々は休日をとりました。



今回の旅は、完全に私的(プライベートな)旅。
今回のテーマは、「日本の夏の美」。



そして、待ち合わせ場所としてはあまり似つかわしくないJR新日本橋駅で待ち合わせをしたのです。



新日本橋駅から地下道で接続しているCOREDO室町
その15階、日本橋三井ホールで開催されていた「アートアクアリウム2015」に行ったのでした。


開場時刻は午前11時、入場料は大人1,000円。
平日だというのになかなかの人列ができています。

長蛇の列に追随すること数分、日本橋三井ホールに到着。
私自身かな~り楽しみにしていたアトラクションということもあり、期待が高まっていきます。



そして・・・



すげぇぇぇ~!!



いきなり最初の作品でヤラれてしまいました。
期待どおりの、いや期待以上のものをお見舞いしてきました。
アートアクアリウム、大丈夫か? いきなり飛ばしすぎてやしないか?



第2ステージ。

 

円形のアクアリウムに、金魚が数匹。

 

照明は一定時間ごとに色を変え、同じアクアリウムでも違った様相を見せます。

 

この金魚は、頭に赤い帽子をかぶっているかのよう。
これを見て故・パンチョ伊東氏を思い出したのは、我々だけではないはずです。

 

お次は出目金です。
今度は同窓生のO氏(完全に内輪ネタですみません・・・)の話を始めた私。

 

それにしてもきれいなアクアリウムです。
金魚のフンひとつ見当たらないのがものすごく不思議。
細かく清掃しているのでしょうか、職員さんの仕事ぶりが光りますね。

 

このゾーンは通路の両サイドにアクアリウムがあるため、人の群れが滞っていました。
ゆっくり見られなかったのが少々残念。



第3ステージ、小さなアクアリウムの通路を抜け、大ホールに到達。
ここから大きな作品が並びます。

 

まりをイメージしたと思われるアクアリウム。
こちらは小さめの作品。



階層のように連なるアクアリウム。



天井からはクリスタルの雨が降り注ぎます。



祭壇と巨大な宝玉のようなアクアリウム。



よーく見たら地球儀になっています。
金魚も宝玉のように輝き、海を行き交う船のように悠然と泳ぎます。



おや? 水槽の外にも金魚??
綺麗な女性のポニーテールって、なんだか金魚の尾ひれのように妖艶ですよね。
そう思うのは私だけ??

 

アクアリウムによって、金魚がゆがんで見えたり、大きく見えたり・・・







極楽浄土に咲き誇るハスの花を連想させる作品。


それにしても大量の金魚です。
どれも金魚すくいで泳いでいるような金魚ではありません。

ちなみに・・・
金魚すくいで泳いでいる一般的な金魚はワキン(和金)といいます。
私の相方さん家ではアロワナなどの巨大淡水魚を飼っていたことがあるようで、「エサ金」という言葉を発していました。

ここで「エサ金」の言葉を使うのはやめなさい(^_^;)
なんて話をしながら、デジカメさんやらスマホさんやらでお互い写真をバシャバシャ撮りまくります。



最終ステージ。



ふすまをイメージしたアクアリウム。



その中を金魚が泳いでいるのですが、



背景が変わり、



金魚の泳いだ後にも模様がぽつぽつ。

二度と同じ画を描くことはできない、という作品でした。



我々はともに大満足のまま、COREDO室町を後にしたのでした。





水戸の塔

2014-04-04 | 美術館・博物館

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 3 8 分

水 戸 市 三 の 丸

茨 城 県 三 の 丸 庁 舎 前



水戸城の空堀を見た私は、水戸城登城の締めくくりとして高所から縄張りを望みたいものだと考えていました。

そうだ! 展望台といえばやはりあの塔しかないだろう。
そう思った私は水戸地方裁判所から水戸芸術館通りを歩いていきました。


途中にあった、吉田松陰留学の地の碑文

 (少し私が写ってますね・・・)

碑文は「四海皆兄弟」で始まる吉田松陰の詞が刻まれています。
記名は松陰の本名である「吉田矩方(のりかた)」となっています。

松陰は東北旅行のため脱藩し、嘉永4年(1851年)12月に水戸に入り、藩士の永井政介の自宅に1ヶ月ほど滞在しました。
水戸では、当代きっての学者であった会沢正志斎に学びました。
会沢より学んだ水戸学の精神は、松陰の私塾・松下村塾をへて明治維新の原動力となりました。



松陰が滞在した永井宅の跡地は、現在は健保協会の建物になっています。


さらに水戸芸術館通りを歩いていきます。



見えてきました(*^_^*)



ついに到着!
地震速報で見た以上に、かの塔は大きいです。

高さは100メートルで、展望室が84メートルの所にあります。
しかし窓がどこにあるのでしょうか??



水戸芸術館は英語名が Art Tower Mito で、塔が中心のようなイメージです。
でも実際は国内最大級の総合芸術施設で、音楽のコンサート会場、演劇の劇場が完備されています。
館長はあの小沢征爾氏が務めていて、水戸市は水戸芸術館の運営にかなりの予算をつぎ込んでいるとか。



では白銀の塔の中へ。

まずエレベーター近くにある券売機で入場券(200円)を買います。
そばに係員のお姉さまがお立ちで、私が入場券を買ったことを確認するとすばやくエレベーターのボタンを押してくださいました。

(私はきれいな女性に対しては、ついつい尊敬語になってしまいます)

エレベーターがやってきてドアが開くと、お姉さまは私を中へと導きます。
そして展望室はこちらです、みたいなことをおっしゃいまして、展望室のフロアのボタンを押して、

「いってらっしゃいませ」


あ、お姉さまはついてきてくださらないのね。



エレベーターは四面ガラス張りになっていますが、エレベーターが昇降するフロアが無機質な金属(チタンだったか)で覆われているので、景色は愉しめません。



エレベーターのフロア表示灯はなんと三角形です!!
一筋縄ではいかないタワーですねぇ(^_^;)



展望室に到達しました。



まぁ予想はしていましたが、窓は小さいです。



水戸市の中央にひろがる千波湖と、郊外に移転した茨城県本庁舎はよく見えました。



北側の窓からは、茨城県を横断する那珂川が悠然と流れるさまを見られます。



!!! 危ないじゃないか・・・足元注意。



お目当てだった水戸城が全く見えない。
この塔が三角形(正四面体)を組み合わせた構造になっているので、角度が悪かったのでしょう。

そういえば水戸芸術館の英語表記は Art Tower Mito でした。
そうであれば、この塔は展望塔じゃなくてひとつの芸術作品なんだ!
そのように考えれば納得ができます。



かわいい人が展望室に来ました。
何を撮っているのかな?


私は水戸城の空撮をあきらめて、早々に下ります。
エレベーターのボタンを押して待ちます。

エレベーターが上まで来てドアが開くと、今度は係員の別のお姉さまが乗っていらっしゃいます。
このお姉さまと一緒に下まで降ります。

お姉さまに対し、「あんまりよく見えませんでした」と申し上げると、
お姉さま「よく言われます」と。
そして「市街地なので、住民の方から『見えすぎると困る』って要望があったのです」とのお言葉。


エレベータに乗って約1分半、地上へ到達。
お姉さまの癒しのお声とはもうお別れです。



水戸芸術館にあったパンフレットをいただいて、外に出ました。



◆参考文献
水戸芸術館ホームページ(水戸市芸術振興財団) https://arttowermito.or.jp/




駆け足の近現代・・・歴博・其之五

2013-06-18 | 美術館・博物館

2 0 1 3 年 6 月 9 日 ( 日 )

午 後 4 時 1 4 分

千 葉 県 佐 倉 市

歴 博 ・ 第 5 展 示 室



ついに歴博で5話も使ってしまった・・・が、今回で歴博は〆です。
もはや佐倉城はサブメニューになっているような・・・。



第5展示室は近代、開国・幕末から明治、そして大正時代までを取り扱う。

ペルリ(ペリー提督)の風刺画とか、明治時代の学校の模型とか。
大正のムービースターのポスター、そして街並み。



当時のカフェーは、現在でいうところのキャバレーであった。

喫茶の気軽さとカフエーの濃艶とを兼ねた情熱工場
酒と喫茶の美人局うるとらは、
コーヒー一杯でも朗らかに商売しておりました(#^.^#)

隣りの薬屋では、ワキガに効くがあるよ~という看板がかかっていた。
当時もワキガは大きなコンプレックスだったようだ。



午 後 4 時 2 7 分

第 6 展 示 室


日本史でもっとも重要と私が考える近代をあっさり通過。
第6展示室の現代へ。




こちらは本物の赤紙。
「右臨時召集ヲ令セラル依テ左記日時到着地ニ参着シ此ノ令状ヲ以テ当該召集事務所ニ届出ヅベシ」
(旧字体は新字体に改めています)


鬼ヅモ同好会で一時期盛り上がった「決戦イロハかるた」を探したが、なかった。




1964年の東京オリンピックのポスター。
ふたたび東京でオリンピックは開かれるのか!? 猪瀬君、余計なことはするなよ。



午 後 4 時 4 8 分

歴 博 を 出 る


足の痛みに負けて、時間がまだ残っていたが歴博を出た。

学校の歴史の授業と同じく、古代をじっくり近現代をあっさり。
できれば近現代から古代へとさかのぼって進みたいが、どうやらできない模様。

滞在時間は2時間半程度であったが、まったく足りない。
構内はとても広いので、博物館であるが体調をととのえておかなければならない。



歴博よ、また存分に闘おうぞ!!



佐倉城登城・第8話へ続く。

アイス債権の由来?歴博・其之四

2013-06-17 | 美術館・博物館

2 0 1 3 年 6 月 9 日 ( 日 )

午 後 4 時 0 4 分

千 葉 県 佐 倉 市

歴 博 ・ 第 4 展 示 室



歴博でこんなに話数を重ねてしまうとは・・・まぁいいや。

第4展示室は「民俗」という、超時代的なテーマである。
早い話、複数の時代にまたがるものや、時代に関係ないもの・・・だと思う。


で、この部屋の最初の展示物が、なぜか三越のおせち料理のカタログ。
はっきりいってよくわからないので、この部屋はかなりスキップしている。
そのため、展示内容についてはあんまり覚えてない。


そんな中、私の心を射止めた展示が・・・



おまじないの言葉についてまとめた展示だ。

くしゃみをしたときに、ハークション!くそぉ!!だかなんだか言ってしまうのには理由があるのだとか。
くしゃみをすると、自分に宿っていた魂だか何かが逃げてしまうそうで、それにより病気になりやすくなるから、くしゃみをしたあとに呪文?を加えることで災厄から身を守るらしい。

くわばらくわばら・・・というのも、雷除けのおまじない。


そしてハッピーアイスクリーム!も、こういった呪文のひとつらしい。

「ハッピーアイスクリーム」といえば、わが鬼ヅモ同好会では一時期恐怖の呪文であった。
ルールは、同じ言葉や台詞を同時に言ったときに、相手の耳をつまんで「ハッピーアイスクリーム」と先に言った人は、その相手からアイスをおごってもらえるというものだ。

我が同好会にもいつの間にか採用され、数々のドラマを生んだ。
そして同校会員諸兄は律儀にもしっかりアイス債務を履行してきた。
(いや、某氏は債務を踏み倒したような気がするが・・・)

ここ数年はアイス債権は発生していない。
会員諸兄は、たいてい耳をつままれないように身構え、身を退き回避するためノーゲームになってしまうのだ。


同時に同じ言葉を言ったときの、ある種の間が気まずさを生む。
その気まずさを払しょくするための呪文が「ハッピーアイスクリーム」なのだという。

ちなみに歴博の展示によると、耳をつまむのではなく肩を触って「ハッピーアイスクリーム」と言うのだそうだ。



・・・とこのように長々と記述したが、第4展示室はわずか10分で出た。

閉館時刻まで、残り46分。
展示室は、あとふたつ。



佐倉城登城・第7話へ続く。

出世にはカネ!歴博其之参

2013-06-17 | 美術館・博物館

2 0 1 3 年 6 月 9 日 ( 日 )

午 後 3 時 4 8 分

千 葉 県 佐 倉 市

歴 博 ・ 第 3 展 示 室



歴博の終了時刻は午後5時。時間がなくなってきた。
展示室は第6展示室まであるので、展示室ひとつあたり20分弱で回らなければならない。


第3展示室は近世、江戸時代のはじめから開国まで。

江戸時代といえば、一般庶民が中心の化政文化が花開いているが、これは世界で最初なのである。
それまで文化の担い手は王侯将相、あるいは豪商や知識人など限られた階層の者たちであった。

展示物も、北前船の原寸模型、商家の再現、寺子屋の教材などなど多彩。


ここで私の興味を惹いたのが・・・



御大名出世双六である。
大名が出世して幕閣になるのが目的。

まずは右下、「(一)小普請 (二)御先手 (三)交代衆 (四)寺社奉行 (五)御小性衆 (六)御旗奉行」のマスからスタート。

サイコロを振って、出た目のマスに移動する。
たとえばが出たら、寺社奉行(寺社御奉行)のマスに移動する。

寺社御奉行のマスは上から2段目の中ほど。
上段ほど地位が高いので、この場合は異例の昇進ということになる。

そして寺社御奉行のマスの左に細かく、「御老中 三  御奏者 三  伏見奉行 三」とあるのは、寺社奉行に就くときに必要となる礼金・・・早い話、ワイロである。
所持金から、老中に3、奏者に3、伏見奉行に3支払うようだ。
プレイヤーのなかに老中がいたらワイロを3もらえる、といった具合だろうか。

次の番になったら右の部分に、「(一)(六)御城代 (二)(五)日光御名代 (四)隠居」とあるとおり、サイコロの目に応じたマスに移動し、また礼金を払う。
この場合、が出たらそのまま、昇進も左遷もない。

ここでを出したら「隠居」することになる。
位置は最下層の一番右なので「振りだしに戻る」のようなものである。
隠居するのに礼金は不要だが、次のマスは「(三)家督」しかないので、なかなか抜けられない。
そして家督のマスには、「御大老 二  若年寄 二  御側御用人 二  佐渡奉行 二  御書院番頭 二  御奏者 二  寺社奉行 二  御側衆 二」と出費がデカく、「隠居」はペナルティが大きい。

このようにして出世を目指すのだが、出世にはなんともカネがご入り用なのだという冷徹な現実を学んだのだった。



この部屋も展示物あまたであるが、時間がない&足が痛いというわけで早々に切り上げた。



佐倉城登城・第6話へ続く。

中世の黒き宮廷と戦国の世・歴博其之弐

2013-06-16 | 美術館・博物館

2 0 1 3 年 6 月 9 日 ( 日 )

午 後 3 時 1 0 分

千 葉 県 佐 倉 市

歴 博 ・ 第 2 展 示 室



歴博の第2展示室は中世、平安時代から安土桃山時代までを解説する。




画像の解説ボードは、蔵人頭(くろうどのかみ)(天皇の秘書長官)藤原某の日記から調べた1ヶ月間の異動記録である。
天皇の秘書長官はかなりの激務で、休日は一日もない!
内裏と重臣邸を行ったり来たりの外回りが多い!
そして内裏にそのまま宿直も週1ほど!

そして隣には「ミスター望月」左大臣・藤原道長の異動記録も掲示されているが・・・

内裏と自邸を往復するのみ。
「物忌み」と称して週休2日のペースでお休み。
宿直もなし。

・・・かつて在籍していた会社を思い起こしてしまった。あーやだやだ。





中国地方の戦国大名・毛利元就による起請文のレプリカ。
毛利家の体制は、もともと有力領主の連合体である国人一揆であり、起請文も連判状形式になっている。

毛利主従12名が連署しており、ちょうど時計の表示のように並んでいる。
 ・12時方向  毛利右馬頭(うまのかみ)元就
 ・1時方向  吉川駿河守元春 (元就の次男。吉川晃司氏の先祖らしい)
 ・2時方向  わからん!!
 ・3時方向  毛利備中守隆元 (元就の長男、毛利輝元の父)
 ・4時方向  宍戸・・・途中わからなくて・・・隆家 (元就の娘婿)
 ・5時方向  天野・・・わからん。
 ・6時方向  いや~読めないねぇ。
 ・7時方向  なんとかなんとか・・・元祐?? こんな人毛利家の家臣にいたかな??
 ・8時方向  天野中務輔(なかつかさのすけ)?隆重
 ・9時方向  小早川・・・うぅ、読めない・・・隆景 (元就の三男でのち豊臣五大老)
 ・10時方向  さっぱりわからん。
 ・11時方向  すがすがしいくらい読めない。

古文書の文字をみてもさっぱりわからない。
なにかコツでもあるのだろうか。





奥羽の戦国大名・伊達氏の分国法「塵芥集」のレプリカ。

ふっ・・・私は仙台で本物を見てきたぞよ・・・。



平安貴族の装束、寝食の道具、寝殿造の模型、武家造の模型、戦国時代の京都のでっかい模型、etc...
やはり展示の数はものすごく、全部をしっかり見る時間はない。

足の痛みがやばい。
各展示室を結ぶ通路にはそれぞれ休憩所が設けられているので、足を休めて120円の缶コーヒーを飲む。

こうしているうちにも地球は自転していく。



時間は刻々と過ぎていく。



佐倉城登城・第5話へ続く。

古代の民の迷宮・歴博

2013-06-16 | 美術館・博物館

2 0 1 3 年 6 月 9 日 ( 日 )

午 後 2 時 0 9 分

千 葉 県 佐 倉 市

国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 ( 歴 博 )





佐倉城を歩き回って、私の足が悲鳴を上げ始めていた。
蒸し暑さにもやられていた私は、目の前にある国立歴史民俗博物館(歴博)にためらいもなく入っていった。

入館料は、大人420円。



時空のトンネル?を進んでいくと、原始時代のゾーンへといざなわれる。




歴博は、とにかく展示物が多い。多すぎる。
模型資料もふんだんに展示され、とにかく厭きない。
ついには時間がとめどなく経過していく。
そして館内は広く、足の疲労が着実にたまっていった。

全部の展示物を紹介するのはとても無理なので、ここでは私がとくに興味をもったもののみを紹介していこう。



午 後 2 時 1 6 分

第 1 展 示 室


第1展示室は、原始・古代の展示。
日本史でいうところでは、律令国家が成り立つ奈良時代・平安時代初頭までを解説している。




縄文土器無双!!
日本各地で出土した縄文土器を展示するコーナー。
土器はおそらくレプリカであろうか。



My Favorite 縄文土器はこれ。
「火焔型深鉢」という種類で、新潟県で出土したものらしい。




土偶の群衆!! の中から代表を2体。
こちらは群馬県にある郷原遺跡から発掘されたもので、原品は国指定重要文化財。



大盛りの 亀が多か遺跡に ジョーもドキッ! (c)大泉洋氏?
青森県の亀ヶ岡遺跡で発掘された、マンガでもよく出るかたちの土偶さん。
ちなみに亀ヶ岡遺跡は、もっとも発達した縄文土器が出ているところでもある。




思い出の高床倉庫!!
そういえば学園祭で高床倉庫を造ったなぁ。
あの時造ったやつは、ネズミ返しもなかったし構造もぜんぜん違うし、ただの木造建築だったなぁ~今思えば。



弥生さんはトロ食い、(高倉)健さんは水だ!! (c)大泉洋氏?
弥生時代を代表する登呂遺跡では、水田の跡とともに高倉倉庫の跡が残る。




漢委奴国王!!
志賀島で発見された金印のレプリカ。
大きさは両辺2センチ強程度と、案外小さい。

ほかにも原始人の骨格、銅剣・銅鐸、環濠集落の模型、平城京の模型、古墳の模型、etc...
じっくり見ていくと、時間がどんどん経過してしまうのである。

私はこうして第1展示室で1時間ほど滞在してしまった。



佐倉城登城・第4話へ続く。

南蛮みやげ!仙台市博物館(仙台城・其之弐)

2012-12-13 | 美術館・博物館
2 0 1 2 年 3 月 3 0 日 ( 月 )

午 後 3 時 2 9 分

仙 台 市 博 物 館





仙台城本丸から、仙台市博物館の敷地に入った。



林子平のレリーフ。
子平は仙台藩の学者で、『海国兵談』を著し、当時の江戸幕府の海洋政策を批判した。



魯迅の胸像は、中国・紹興市より送られたもの。

魯迅は仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学し、医学を学んでいた。
帰国すると、中国人の精神を改造すべく執筆活動を始めたのは周知のとおり。


博物館の裏庭から館内へ。

大学時代には一歩も足を踏み入れることのなかった私が、大学卒業後10年目にして初めて入館する。
入館料は、大人400円。

コンテンツは、仙台の歴史、伊達家の歴史、そして慶長遣欧使節の展示がメインとなっている。




伊達政宗画像の複製。
原画は、当時きっての絵師・狩野安信による。

この絵もそうだが、政宗の画像や彫像には本来失われているはずの右目があえて入れられている。
これは政宗の遺言によるもので、身体の一部を失ったことは親不孝になるから、せめて像を描く際は両目を入れるよう願ったという。
別の話では、現世では失明で世の半分しか見えなかったので、死後は世が完全に見られるように、像には両目を入れるように願ったともいう。




黒漆塗五枚胴具足(伊達政宗所用)【国指定重要文化財】!!

・・・のレプリカ。はぁ。
まあ、ホンモノをそう簡単には表に置かないよな~。

手持ちの「展覧会案内」なるパンフを見たところ、
「展示期間 4月10日~5月27日、・・・」とあるではないか!
またまた時期外しである。




和歌詠草「入そめて」(伊達政宗筆)【仙台市指定文化財】。
伊達政宗が居城を岩出山から千代(仙台)に移したときに詠んだ。

入りそめて 国ゆたかなる みきりとや
ちよとかきらし せんたいのまつ

「たった千代とは短い! もっと永遠にこの地が続くように」。
そして「千台」を「仙臺(仙台)」に改称する。

仙臺 始めて見る 五城楼
風物 凄凄として 宿雨収まる
山色 遙かに連なる 秦樹の晩
砧声 近く報ず 漢宮の秋
疎松 影落ちて 空壇浄く
細草 春香ぐはしくして 小洞幽かなり
何ぞ用いん 別に方外を尋ねて去るを
人間 亦た自ら丹丘有り
韓コウ 「同じく仙遊観に題す」


「仙臺」とは、皇帝の支配を拒んだ仙人たちが住んでいたとされる伝説上の宮殿であった。
政宗があえてこの名称を用いた裏には、「俺は家康なんかには屈しない!」という気概が見える。



博物館のメインコーナーのひとつ、慶長遣欧使節の展示。


伊達政宗は、幕府の許可を得て、家臣の支倉常長らをスペインに派遣した。
これが慶長遣欧使節である。

常長は、宣教師のソテロらを伴い、月ノ浦(石巻市)より出帆。
太平洋を横断し、メキシコのアカプルコへ到達。

次いで船を乗り換えて大西洋を横断。
日本人で初めて太平洋・大西洋を横断したことになる。

常長はスペイン国王フェリペ3世に謁見。
太平洋貿易のための通商交渉に臨んだ。
一説には、スペイン海軍の出動を要請し、倒幕を企てたともいわれる。

常長はスペインで洗礼を受け、キリシタンとなった。
そして、カトリックの総本山であるローマを訪問し、ローマ市民権の付与を受けた。
また、ローマ教皇パウルス5世に謁見した。

常長の出帆後、幕府はキリスト教を禁教とし、キリシタンを弾圧した。
そのため、スペインとの外交交渉は成功しなかった。

再び大西洋、太平洋を横断し、マニラ経由で仙台へ戻った。

常長は帰国から2年後に死去したという。




支倉常長像【国宝】は、日本人を描いた油絵としては最古のものになるという。



帰国後、常長が政宗に献上した短刀【国宝】。
フィリピンで入手したものとされるが、スペイン王家から贈られたものとも。



常長がローマで授与されたローマ市民権証書【国宝】。
「支倉」が "Faxikura" と表記されており、当時は「ハ行」を「ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉ」と発声したという根拠ともなっている。


閉館時間が午後4時30分なので、いそいそと館内をめぐった。

ミュージアムショップで、



水玉模様陣羽織(伊達政宗所用)【仙台市指定文化財】をモチーフにしたハンカチを買い、博物館を出た。



日輪は、沈む前に博物館の頭上でいちだんと輝く。



博物館から東北大学へ行く道は、かつて大手門があった。



現在は旧大手門櫓【復元】のみが建つ。



日暮れとともに、仙台城を辞した。




長町武家屋敷街・第2章~資料館ハシゴ

2012-10-28 | 美術館・博物館

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 前 8 時 4 9 分

石 川 県 金 沢 市

長 町 武 家 屋 敷 街



土塀連なる風情ある通りから、大野庄用水の流れる通りへ出ました。

大野庄用水

大野庄用水の流れる通りは、野村家住宅、高田家跡、足軽資料館、老舗記念館、前田土佐守家資料館などが並ぶ武家屋敷街のメインストリートといえます。
ですがここの歩道には消雪パイプがついていないので、シャーベット状の雪が私の行く手を阻みます。

大野庄用水に沿って南方向に歩きます。

南側には前田土佐守家資料館があり、私が最初に入ろうと思っていたのですが・・・・・・開館時刻は午前10時。


資料館の開館まではまだ1時間以上あります。
この雪の中で待たなければならないのか・・・・・・!


すると、土佐守家資料館の向かいで雪かきしている淑女がひとり、私に語りかけます。
「よろしければ寄っていきませんか?」

金沢市老舗記念館

この淑女は金沢市老舗記念館の職員と思われる方でした。
老舗記念館には当初立ち寄る予定はありませんでしたが、淑女のはからいで早めに開館するとおっしゃいました。

入館料は100円。
通りを挟んだ向かいの前田土佐守家資料館との共通券は、350円。
もともと土佐守家資料館に行こうとしていたので、ここで共通券を購入し、老舗記念館に入りました。


「中屋」の看板

老舗記念館の建物は、加賀藩の薬問屋「中屋」の外観を保存、移築、復元したもので、現在は金沢の町民文化の展示施設になっています。


中屋は、戦国時代から始まる薬屋でした。
加賀藩3代藩主・前田利常からは「宿老役」を任ぜられ、以降代々城下町を運営してきたそうです。
また5代・綱紀からは御殿薬の処方を拝領し、藩御用達の薬屋に指定されています。



旧中屋店頭

まずは店頭
番頭(=支配人)、手代(=正社員)が座り、丁稚(=非正規使用人)とともに来客を接待しました。

丁稚はその商家に住込みで働きますが、給金はもらえません。
手代になってようやく給金がもらえるようになります。

主人の間

主人は基本的に表には出ず、少し奥の主人の間で控えているのがふつうでした。

おえの間

おえの間は、手代を中心とした中級クラスの店員がたたずむ部屋でした。
「おえの間」という名は、「お上」がなまったものだそうです。


2階は、金沢の町民文化にかかわる品々が展示されています。

婚礼の内掛け

こちらは婚礼の内掛け。

結納の品々

数々の結納の品々。
花嫁のれんは、婚礼当日に嫁ぎ先の仏間にかけるものでした。

そして数々の物品は工芸菓子と水引細工でできています。
水引細工は金箔や銀箔が用いられとても豪華。

軍配餅 巾着餅

子供が生まれると、男の子のときには軍配餅を、女の子のときには巾着餅を送り、子供の成長を祈願したそうです。


老舗記念館では、町民文化を通して加賀の工芸文化も垣間見ることができました。
土佐守家資料館が開館するまでのつなぎのつもりで入ったのですが、思いのほか素晴らしい品々を見ることができ、商家の生活も学べてよかったです。



さて次は、老舗記念館の向かいにある前田土佐守家資料館

前田土佐守家資料館

こちらは入館料300円。
老舗記念館との共通券を買うと、50円お得となります。


入館してまず目を引くのは、広い館内の中央に展示されている具足。

前田利政所用の具足

この具足は、前田土佐守家の始祖である前田利政所用のものだそうです。


前田土佐守家は、前田利家お松の方(芳春院)の次男・利政を始祖とする家系です。

利政は、父・利家や兄・利長とともに豊臣秀吉に仕え、能登に22万石の所領を与えられました。

関ヶ原の戦役においては利長とともに加賀大聖寺城主・山口宗永を討ち、加賀小松城主・丹羽長重の軍勢と戦いますが(浅井畷の戦い)、痛手を蒙ったため金沢へ兵を退きます。
利長は関ヶ原に参陣すべく、金沢で軍勢を整え再び西進を開始、丹羽長重を降伏させますが、利政は軍勢を出さず能登に戻ってしまいました。
これは、大坂にいた夫人が石田方の人質に取られたためとも、徳川家康の恐喝に屈して母の芳春院を人質に出した利長への反発とも、徳川方が敗北したときに備えたためともいいます。
この態度に対し、家康は利政の所領をすべて没収し、すべて兄・利長に与えました。

利長の死後、弟・利常が加賀藩を相続すると、利政の子・直之は加賀藩に仕え、1万石の俸禄を与えられました。

利政を始祖とする系統は、当主10代のうち4代が従五位下・土佐守に叙任されたことから、土佐守家と称されます。
また、加賀藩の家老である年寄職に就ける8家のひとつでした。



資料館には、利政の母・芳春院の手紙などの文献が多く展示されています。
江戸にいた芳春院は、利政の復権を家康や幕閣にたびたび働きかけていたようで、

「家康さんが利政の追放をといてくれるらしいわよ! あのオヤジがやっと首を縦に振ったのよ」

と利長に書状を送っていますが、その話はついに実現せず、

「あのクソおやじ、利政の件を実行するつもりはないんだわ! あ~やだやだ、なんだか喉痛いのよ」

と(表現は誇張していますが)恨み言めいたことを手紙に書いています。
江戸で幕閣たちとやりあっていた心労からか、芳春院はたびたび病にかかったそうです。


館内をひと回りしたあとは、雪が弱まるのを見計らって外に出ました。



長町武家屋敷街めぐりはまだまだ続きます。




金沢21世紀美術館

2012-10-28 | 美術館・博物館

2 0 1 1 年 1 2 月 2 4 日 ( 土 )

午 後 2 時 3 9 分

金 沢 2 1 世 紀 美 術 館



金沢21世紀美術館――。


私は芸術の類にはとんと疎く、基本的に美術館には行きません。
ましてや旅行に行ってわざわざ美術館に行くということはほぼないでしょう。

私にとっての希少なる例外がこの金沢21世紀美術館でした。

ここに来るきっかけというのが、初めて金沢を訪れる際、読みに読み込んだ「るるぶ」やら「まっぷる」やらでした。
美術館で見開き全部を使って紹介するのであるからには、外すことのできないところなのだろう。
そう思い、ここをコースに組み込んだのでした。


そして1年9か月ぶりの再訪――。

金沢21世紀美術館

この美術館は、外から見るとガラス張りの円形になっていて、美術館そのものがひとつの作品となっているかのようです。
そして中は、無料のゾーン、有料のゾーンと特別展ゾーンに分かれています。
有料ゾーンに立ち入るには300円、特別展ゾーンへはさらに特別料金を支払うこととなります。


まずは無料のゾーンを見て回ります。


「雲を測る男」(ヤン=ファーブル)

雲を測る男

作品のモチーフは、独房に収監された中で鳥類学者になった実在の囚人です。
しかし刑務官はその囚人に対して、鳥を観察することを禁じてしまいます。
「雲でも測って暮らすさ」 その囚人はつぶやいたといいます。


この作品は屋外に展示されていて、無料ゾーンの屋内から見ることができます。
この日はあいにくの曇天、とても雲を測る日ではなさそうでした。


「緑の橋」(パトリック=ブラン)

緑の橋

この作品も屋外展示、「雲を測る男」の足元にあります。


黒い大きな円を描き、室内の照明を暗くして「無」を表現した作品など、ありとあらゆる方法を用いて表現をなす作品が展示されています。
大半の作品は、学芸員女史がつきっきりで監視をしているので、撮影はできません。


「スイミングプール」(レアンドロ=エルリッヒ)

スイミングプール・上

金沢21世紀美術館を代表する作品です。
プールの下から上を見たらどうなるか!?を体験できる作品です。
普段は水上から湖底をのぞく人が大勢いるのですが、この日はあいにくの悪天候。
中庭にあるプールに近寄る人は全くおらず、監視役の学芸員女史すらいません。

300円払って、プールの湖底に来ました。
湖底は有料ゾーンにあります。

スイミングプール・下

予想どおり、下から見上げても誰もいないので、作品の面白味が激減です・・・(^_^;)


この美術館は、建物の外にも作品が置かれています。


「アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3」(フローリアン=クラール)

アリーナのための・・・

外の芝生から生えているラッパは、つながっているとかいないとか。


「カラー・アクティヴィティ・ハウス」(オラファー=エリアソン)

カラー・アクティヴィティ・ハウス

赤・青・黄の3色が、いろんな色を織りなします。
これも晴れた日のほうが映える作品ですね。



他の作品は撮影禁止のため、学芸員がビタっと張り付いていたため、撮れず。
(今回の画は、撮影禁止じゃないやつらだけど、ブログに載せてだいじょうぶかなぁ?)



そして美術館の敷地には、なぜか松濤庵という茶室があります。

松濤庵

江戸時代末期の前田家の隠居所に造られ、昭和初期に整備されました。
1979年(昭和54年)に金沢に移築され、現在に至ります。

松濤庵2

松濤庵3

やっぱ俺には、小難しいアートよりも
こういう茶室の方が性に合うねぇ~





茶室を出ると、あたりはだいぶ暗くなり始めていました。

このあとは、バスに乗って金沢の繁華街・片町に行って食事をしようと思いました。
が、「餃子の王将」を見つけた途端、反射するように入店。
そしてガッツリ食べてしまいます。

それでもなんとかがんばって歩きましたが、片町の隣にある香林坊で「スタバ」(KORINBO109店)を見かけ、これまた吸い込まれるように入店。
冬なのにアイスモカを飲みながら休憩しました。

一服した後、みたびバスに乗って金沢駅東口にたどり着き、そしてホテルへと戻りました。

金沢でもう1泊!