鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

報国寺~TAKEDERA

2016-12-20 | 寺院仏閣


2 0 1 6 年 1 1 月 1 2 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 3 3 分

神 奈 川 県 鎌 倉 市

功 臣 山 報 国 寺



鎌倉のシンボル・鶴岡八幡宮、鎌倉最古の寺院・杉本寺に寄り道して、ようやくこの日の目的地に到達しました。



コスプレ中の男女に続き、三門をくぐります。



境内に入ると、繁れる草木が我々をお出迎え。
この日の紅葉はまだほとんど色づいてはいませんでしたが、傍らの方はじっくりと眺めています。

 

 

草木もさることながら、私はぽつんとあった枯山水に目が移ります。

 

草木繁れる参道を進むと、



趣深い茅葺きの鐘楼



正面には「報告禅寺」の扁額がかかる本堂

ここでお詣りをしまして・・・・・・ここからが報国寺のメイン。
「竹の庭 入口←」の表示のとおり、本堂の左に受付があります。
拝観料は大人200円、お抹茶とセットで700円となっています。
お抹茶を味わいたい我々は、迷うことなく後者を選択。


それではいざ、竹の庭へ!

 

・・・とその前に、本堂裏の枯山水にも注目。
三門すぐの枯山水よりもずっと大きく、広い泉水が表現されているようです。



それではようやく、竹の庭へ!



コスプレおねいさまの後に続いて、竹林に入っていきます。
着物の女性と竹林って、なんだか幻想的な組み合わせですよね。

 







日常の喧騒から隔離された、幻想的な竹林・・・・・・というにはいささか観光客が多いです。
さすがはミシュラン★★★のスポット、Google先生でも "takedera kamakura" という検索候補が出てくるくらいですから。
観光客の多さを抜きにしても、やはりここは来て良かったとお互いが思える寺院です。
やはりミシュラン★★★は「ぜひとも立ち寄るべきスポット」なのでしょう。



山と海に囲まれた鎌倉の地勢のため、ここ報国寺もすぐ近くに崖が迫っています。



崖に掘られたほら穴にはお墓。
報国寺を開基したとされる足利家時の墓があります。
これらのほら穴は「やぐら」といい、平地の少ない鎌倉では、上流階級の者はこのやぐらに墓を造ったようです。

私がやぐらのほうを見ていると、御前は上を向いています。



どうやら鳥の巣を見つけたようです。J氏の頭を思い描いたのは私だけ?(内輪ネタ失礼)
それにしてもよく気がついたなぁ~。



御前の後に続いて、竹林を歩きます。


そして竹林の中にある茶席へ。



入場券とともに渡された抹茶券を提示します。



その場で点てられたお抹茶、お茶菓子は小さな落雁です。
茶席は混雑していて、竹林を望める席は空いていません。
5分ほど待って、



お抹茶! うまい!
眼前に広がる竹林を望みながらのお抹茶もまた良し!
・・・・・・逆に言えば、茶を飲まねぇやつには、この景色は見せねぇぞ~、ということにもなるわけですね。





竹の緑と、苔の緑。
竹が日に照らされて輝き、苔は陰でじっと生しています。
陰と陽が表現されているかのようです。


 







お茶をいただいた後も、竹林の陰陽をゆっくり味わい・・・・・・たかったのですが、細い通路に観光客が続々と来るので、そんな余裕はあまりなかったです。
それでも、竹林の美しさを感じることができる、さすがの★★★でした。





杉本寺にも寄ってみた

2016-12-06 | 寺院仏閣


2 0 1 6 年 1 1 月 1 2 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 4 8 分

神 奈 川 県 鎌 倉 市

鶴 岡 八 幡 宮 の 境 内 を 出 る



八幡宮の境内を出たところの脇道にて。



道沿いの学校に植わっていた巨大なアロエ???
私ひとりなら気づかずに先へ進んでいたでしょうが、傍らの彼女が見つけてくれました。
普段の一人旅とはまた違った視点で街を見られます・・・ありがたいことです。

ちなみに調べたところ、これはアロエではなくアオノリュウゼツランというようです。
リュウゼツラン(竜舌蘭)はテキーラの原料になる植物ですが、この種は原料にはならないようです。


脇道から金沢街道に入りました。
金沢といっても、兼六園の金沢ではなく、金沢文庫の金沢へ抜ける道です。



その名も(わか)れ道という交差点。
私と彼女は別れることなく、ともに金沢街道を歩きます。

・・・そうさ、別れることはないのさっ(^^♪



歩道がいくぶん狭い金沢街道を歩くこと約10分、



大蔵山杉本寺の前までやってきました。

このお寺は鎌倉でも最古の寺院と言われ、また坂東33箇所巡礼の1番札所になっています。
私は5年前、坂東33箇所巡礼を始めた時に参拝しています。
そういえば33箇所巡り、全然進んでいないなぁ(^_^;)
近いうちに再開したいところです。

せっかくなので、杉本寺もふたりで参拝することにしました。



入口で拝観料(大人一人200円)を支払い、



三門から境内へ。
するとさっそく、



本堂へ通じている苔の石段が目の前に現れます。
石段に苔がびっしりと繁茂していて、古寺の雰囲気を際立たせます。
現在は柵が設けられていて通行不可、脇の階段で本堂へと上ります。



本堂側から見下ろした苔の石段。
この日は見事な晴天、苔の緑もきらめいているかのようです。
そして苔の石段の後ろ、



本堂【神奈川県指定文化財】です。
屋根は茅葺きの質素な造りで、それほど大きくない本堂も、鎌倉最古の寺にはふさわしく思えます。



本堂の奥に、本尊の十一面観音3体【うち2体が国指定重要文化財】が安置されています。
本堂に備えられている寺務所で拝観券を提示すると、中に上がり十一面観音を拝むことができます。
杉本寺のご朱印も、こちらの寺務所でもらえます。

我々も靴を脱ぎ、中へ。
本堂の奥は薄暗く、ろうそくの火のみが灯る、落ち着いた空間。
本堂はそれほど大きくはないはずですが、それでも中は広く感じてしまうほど。
ふたりは落ち着き払って、思い思いの参拝をしたのでした。


この日は休日とあって参拝客がそれなりに多く、いくぶんせわしない参拝となってしまったかもしれません。
それでも本堂の中では、時間がゆっくり流れていたかのように感じました。


本堂を出た我々は、清々しい心持ちで杉本寺を後にしました。





花岳寺~赤穂藩主の菩提寺

2016-04-07 | 寺院仏閣


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 前 1 1 時 3 0 分

兵 庫 県 赤 穂 市

赤 穂 城 を 出 る







赤穂城【国指定史跡】の裏口にあたる塩屋門跡を出ました。

このまま赤穂駅に戻ってもよかったのですが、赤穂駅への帰途・・・



赤穂義士ゆかりの花岳寺に着きました。


花岳寺は、正保2年(1645年)赤穂藩初代浅野長直によって建立され、歴代藩主の菩提寺となりました。
赤穂事件ののちは、赤穂四十七士の木像・宝物を安置し、墓所が置かれています。



境内にある梵鐘は、「鳴らずの鐘」と呼ばれています。



赤穂四十六士が切腹し、その報が赤穂にもたらされると、赤穂の町民はその死を悼み、鐘を撞いて撞いて撞きまくったそうです。
それ以来鐘が撞かれることはなくなってしまったそうです。
そのためいつしか「鳴らずの鐘」と呼ばれるようになりました。
戦時中の金属供出で市内の鐘が徴収されるなか、この鐘だけは赤穂義士とのゆかりが深いため、供出を免れています。



本堂の前に立つ立派な松。
「二代目大石なごりの松」と呼ばれます。
大石内蔵助が赤穂を去る際に、松の木のもとで名残を惜しんだといいます。
しかしその松は害虫によって枯れてしまったため、あらたに松を植えたのが「二代目」なのだそうです。



本堂に入ると、渾身の筆遣いで描かれた天井画が目に入ります。
幕末に描かれたトラの画のようです・・・一見すると獰猛な妖怪にも感じてしまう、凄まじい迫力。



本堂の左手の建物。
おそらく四十七士の木像や宝物が安置されているのでしょうか。

私は中には入らず、そのまま出てしまいました。
今思えば、惜しいことをしたものですね。



花岳寺を出た私は、そのまま自転車でJR播州赤穂駅へと戻りました。





坂東33箇所霊場12番札所・慈恩寺

2014-09-19 | 寺院仏閣


2 0 1 4 年 8 月 1 4 日 ( 木 )

午 後 3 時 5 0 分

埼 玉 県 春 日 部 市

国 道 1 6 号 沿 い の コ ン ビ ニ で 待 機



ママチャリの旅、春日部で無情の雨が降ってきました。



コンビニで急遽雨ガッパを購入しましたが、蒸し暑い中こんなものは着たくありません。
軒先で雨足が弱まるのを待ちます。
しかしながら、雨が弱くなる気配はありません。

これから行こうとしているのは、坂東33箇所霊場の第12番札所となっている慈恩寺
春日部の隣町・岩槻に鎮座する寺院です。

このまま待っても時間がいたずらに過ぎるだけ。
夕刻になるとたいていの寺院は、寺務所が閉まってしまい、ご朱印をもらうことができなくなってしまいます。

コンビニにある分厚い地図で慈恩寺までのルートを頭に叩き込み、ふたたび春日部の街へ。
カゴの荷物は、船橋市指定ゴミ袋の中にしまい込んで雨水をガードします。
レインコートは着ないまま、雨降る道中を強行突破していきました。



国道16号線から慈恩寺までのルートは・・・
まず豊春駅入口交差点を駅方向に曲がります。
道なりに進み、東武野田線を越え、豊春駅を右に見ながら通過。
岩槻市に入ったあたりで急カーブがあるものの、そのまま道なりに進みます。
右手に岩槻北陵高校が見えてきたら、その次に見えるお寺が慈恩寺です。





進行方向右側に駐車場と、味のある鐘楼が見えてきます。
もう少し進むと、

 

寺名標と、正面に見える本堂
道路を挟んで駐車場。木々が囲うように立っていて、ちょうど雨除けになりました。


慈恩寺は、天長元年(824年)慈覚大師・円仁によって開かれた寺院です。

円仁は、15歳の時に比叡山に入り伝教大師・最澄の弟子になりました。
その後承和5年(838年)遣唐使とともに唐に入り、中国各地に留学、修行を積みました。
承和14年(847年)に帰国し、「入唐求法巡礼行記」4巻は、当時の唐の様子が克明に記されています。
61歳で第3代天台宗座主に就任。71歳で亡くなり、「慈覚大師」の諡号が与えられました。

「慈恩寺」の寺号は、慈覚大師が学んだ長安の大慈恩寺にちなんでいます。



正面からそのまま本堂へお参りします。



この本堂は、天保14年(1843年)に再建されたもので、昭和12年(1937年)に改修されています。



「鬼ヅモ大会、優勝」
「とりあえず雨を止ませてくだされ」



本堂でお参りした後は、寺務所でご朱印を頂戴します。



12番、慈恩寺!


境内を少しばかり散策。



なかなか立派な藤棚です。
大きさでは、市川の高圓寺亀戸天神にも引けを取らない・・・かも。



藤棚のすぐ近くに山門がありました。
山門は元禄4年(1691年)に建立されたと記録にあるそうです。


山門を出て駐車場に戻ってきましたが、これで慈恩寺の参拝はおしまい、というわけではありません。
慈恩寺と深いかかわりにある三蔵法師・玄奘(げんじょう)その人のお墓が、境内とは離れたところにあるというのです。


昭和17年(1942年)、日中戦争で日本軍が南京を占領していたときのこと。
稲荷神社を建立するために整地をしていたおり、ひとつの石棺を発掘します。
この石棺の記述から、中に納められたお骨が三蔵法師・玄奘その人であると確認されました。

そして南京に玄奘塔が建立されることとなり、その完成式典が行われました。
そのときに「三蔵法師の遺徳に感謝すべく、日中の仏教徒でともに霊骨を保管しよう」ということで、分骨がなされました。
お骨ははじめ東京の増上寺に保管されましたが、米軍の空爆にさらされるようになったため、岩槻の慈恩寺に疎開されることとなりました。

戦争が終わり、お骨は慈恩寺から別の奉安地を定めることとなっていたのですが、分骨が南京政府(日本軍の傀儡下にあった汪兆銘政府)のもとで行われたため、「中国に返還すべきではないか」という議論が起こりました。
そこで中華民国・蒋介石総統と親交のあった僧が総統の意向を問うたところ、「返還には及ばない。保管地が、三蔵法師にかかわる大慈恩寺にちなんだ寺院であるならば、その地を顕彰の地と定めてはいかがか」と回答を受け、慈恩寺に奉安されることになったそうです。

その後、三蔵法師の霊骨は、国民政府の脱出先である台湾と、奈良の薬師寺に、それぞれ分骨されています。



玄奘のお墓へは、まず山門の前の丁字路を曲がった細い道を進みます。
そのまま進んでも何の案内もなく不安になったところで、四差路とともに案内表示が現れます。
その表示に従って進んでいくと、しばらく何もなく不安になってくるところで、



「玄奘塔」と銘打った中国風の門構えが現れます。



奥には13層の玄奘塔
玄奘の遺骨はこの中に納められているそうです。

合掌。


「三蔵法師」の称号は「経」「律」「論」の3つに精通する高僧の尊称をいいますが、普通「三蔵法師」といえば玄奘を表します。
「西遊記」に登場する「三蔵法師」が玄奘その人であり、決して女性ではありません。

玄奘は13歳で僧となり、629年、26歳のとき、陸路でインドに旅立ちます。
16年後の645年に、経典657部などをもって帰国しました。経典の部数はかつてないほど膨大なものであり、帰国時には皇帝・太宗(李世民)みずからが出迎えたといいます。

そして、長安の大慈恩寺などで国家的事業のとして経典の翻訳が進められました。
「大般若経」の翻訳が完成した翌年、65歳(63歳とも)で亡くなりました。



門構えの脇には玄奘の銅像が立っています。

 

多くの経典を背負いつつ、天嶮の砂漠地帯である中央アジアを踏破した苦労が偲ばれます。



三蔵法師にははるかに及ばないながらも、私とて道中の身。
旅の無事を祈願して、玄奘塔を後にしました。



◆参考資料
慈恩寺 坂東三十三観音札所  http://www.jionji.com/
やさしい仏教入門 三蔵法師  http://tobifudo.jp/newmon/okyo/sanzo.html/




川崎大師と飴

2014-07-20 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 後 2 時 0 7 分

川 崎 市 川 崎 区

真 言 宗 智 山 派 大 本 山 ・ 平 間 寺 ( 川 崎 大 師 )



鶴見から、川崎市内で少しばかり道を間違えながらも、川崎大師に着きました。



大師前の仲見世です。さらし飴のお店がトントントントン小気味よい音で惹きつけてきます。
さらし飴は「森永ハイチュウ」のようなソフトキャンディで、味はただただ甘味のみなのですが、甘さはどちらかといえば控えめです。
飴の試食を3個4個としていくうちに、ついつい買っちゃいました。



左がスタンダードなさらし飴
そして右はせき止め飴だそうです。
4月から、喘息なのかなんなのかわかりませんが、咳が止まらない私は二もなく買っちゃいました。

そういえば鶴見でおでんを食べて以来、水以外のものは口にしていませんでした。
せっかくなので仲見世の飲食店で昼食をとることとしました。



いつもは冷たいもりそばあたりを食べるのですが、この日は曇りがちで気温が低かったので、めずらしく鍋焼きうどんを食べてしまいました。



それでは、ゴールデンウィークでにぎわう川崎大師へ。



正面入口の大山門です。
昭和52年に建てられた比較的新しい建造物です。
四方には京都・東寺の四天王像を模した像を安置しています・・・が、私はこのことを知らずにスルーしてしまいました。


この日は大開帳奉修の年に当たり、赤札というものを授与していました。
そのためなのか、普段は公開していない寺宝を公開し、開扉していない堂宇を開いていました。

そのひとつが経蔵です。





 

経蔵に鎮座する釈迦如来像、そしてそれをとりまく7000巻以上の納経と天井画。
これらすべてが撮影OKとなっていました。
経蔵は平成16年に落成した新しい建物なので、とくに撮影禁止にしなくとも問題ないのでしょう。

ほかにも大開帳奉修に合わせて公開された寺宝も見てきましたが、こちらは撮影NGでしたので、画像はありません。



スタンプだけはもらってました。


それでは大本堂へ。いつもどおり旅の無事を祈願します。



その後は境内散策です。


川崎大師の境内は、總持寺ほどではありませんが広いです。
そして海に近いところにあるので、地形の起伏はなく、広く天を見上げることができます。
村の鎮守の小さな社のような、樹木の植わっているところがぽつぽつとあります。



そのなかのひとつ、巌に安置されている観音銅像
この像が奉納されたのは明治36年なので、川崎大師のほとんどの建造物よりも古いものだそうです。

 

別のところには、遍路大師尊像が立っています。
昭和48年(1973年)、弘法大師が生まれて1200年を記念して造られたものだそうです。
ここでは、お賽銭をして、健康健脚を祈って大師像の足に献水することになっています。

・・・が、財布の中を見ると500円玉しかありません。

私はお賽銭をケチって、献水だけをして旅の無事を祈願しました。
この暴挙のバチがあたったのか、私はのちのちひどい目にあうことになります・・・。


境内散策をしていくうちに、長蛇の列に当たりました。
最初は何のための行列なのかわかりませんでしたが、列を整理している係員の話を聞くに、赤札授与のための行列だということでした。

そして赤札授与の行列は、だいたい1時間半待ちであろうという係員の見解も聞きました。

私は最初こそ赤札授与の列に並んだものの、1時間半待ちということを聞いて翻意。
「私は船橋に帰らなきゃいけないんだ」そう言い聞かせて赤札をあきらめました。


川崎大師の赤札は、10年ごとの吉例大開帳奉修期間中に限り授与されます。
弘法大師の直筆と伝わる「南無阿弥陀佛」の六文字が版なっていて、川崎大師の貫首が祈願をこめて一枚ずつ手刷りにしてできる護符です。

この赤札は「最強の護符」と畏怖されているのだとか。

そのご利益というのは、まず無量の功徳を授かる、つまり計り知れないほどの善行をしたことととなって死後極楽浄土へ行けるようになることです。
また、罪障消滅してあまねく利益が得られる、つまり身の回りの障害がなくなり願い事がことごとくかなうそうです。
さらに、一旦危急に面した場合にあらたかな霊験の不思議があらわれる、つまりは大きな厄災からも(一度だけですが)逃れることができるそうです。



赤札授与の列を抜けた私。
「最強の護符」をみすみす逃すあたり、もはや「持っていない」ことが明らかですねぇ(^_^;)
でも「南無阿弥陀佛」って、真言宗じゃなくて浄土宗じゃなかったか!? という野暮なことを言っちゃあいけないですよぉ。

もうしばらく境内散策を続けます。



八角五重塔、別名「中興の塔」です。
昭和59年に完成した建造物で、その名のとおり珍しい八角形の造りになっています。
八角形は円に近いので、「包容力」「完全性」を象徴しているそうです。



別のところからの八角五重塔。
手前にあるのは「祈りと平和」の像です。



境内にあるつるの池からの八角五重塔。



巌に据え置かれた鶴の像から、つるの池の名があります。
像が置かれた巌はなにやら亀をかたどったものになっているようです。


最後に不動堂



細かい小銭がなかったので、ちらっと見ただけ。



かつての山門であった不動門から境内を出ました。



仲見世で買ったさらし飴を噛みながら、チャリにまたがって東京へと向かいました。




2 0 1 4 年 7 月

後 日 談 ・・・


ひどいときは、何かセリフを吐くたびにゲホゲホ云っていた私の咳。
一過性の喘息だったのか、ハウスダスト症候群だったのか、はたまた自律神経失調症だったのか。

あれだけひどかった咳は、6月に入ったころに全く出なくなりました。
きっと川崎大師で買ったせきどめ飴が効いたのでしょう。



そう思っていたのですが、7月に入りカバンの整理をしていると・・・
溶けかかったせきどめ飴が発見されたのでした・・・。



◆参考文献
 ・川崎大師Webサイト http://www.kawasakidaishi.com/





總持寺・後編~スタンプラリー

2014-07-16 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 後 1 2 時 3 3 分

横 浜 市 鶴 見 区

曹 洞 宗 大 本 山 ・ 總 持 寺



總持寺を歩き回って45分、境内の半分を見たに過ぎません。
それだけ總持寺が宏大で、ひとつひとつの堂宇が巨大なのです。
おそらくは関東最大の寺院なのではないかと。



境内に置かれている灯篭は大きいものばかりです。
これだけ大きい灯篭は、靖国神社クラスのメジャーな寺社でしか見られないでしょう。



總持寺最大の建造物である大祖堂です。
これだけ大きな建物は、さすがに木造ではなさそうです。
ここでは、曹洞宗の太祖大師である瑩山禅師をお祀りしています。


瑩山紹瑾禅師は、文永5年(1268)に越前国で生まれました。
その母は観音信仰にとても熱心な人で、子供であった禅師も多分に影響を受け、子供の時分から経を読み、土で仏像を作っていたのだそうです。
禅師8歳にして、母に連れられ永平寺へ入り、13歳で出家、僧列に加えられました。
以降は諸国行脚の旅に出、寺門興隆と民衆布教に専念。28歳で徳島の城満寺を開いたのをはじめ数か寺を創立。
禅修行道場の体制を固め、曹洞宗を日本全土に広めていきました。



大祖堂の中は薄暗く、まじめに祈願するにはこの上ない雰囲気でした。
私も例のごとく、旅の無事を祈願します。

「チャリにトラブルが起こりませんように」
「ちょっと肌寒いんで、少しばかり気温が上がりますように」


そうして堂を出ようとしましたが、賽銭箱の横にこのようなものが置かれているのを見つけてしまいました。



「大本山總持寺スタンプラリー」です。
こんなものを見つけてしまったために、私のスタンプラリー熱?が上昇していきます。

そしてここからは、總持寺の境内をめぐる・・・というよりも、總持寺スタンプラリーが主題となっていきました。
スタンプをすべて集める! スタンプがそろわなきゃ帰らねぇぞ!! という、なぜか妙に固い決心をして、宏大な總持寺の境内をぐるぐる回ることになりました。

そして最初のスタンプ・・・



1番、大祖堂!
絵柄は瑩山禅師・峨山禅師の御両尊です。お寺のスタンプにしてはなかなかにコミカルな感じがします。


次は大祖堂の近くにある仏殿【国指定登録文化財】です。
最初に見たときは「総爺い」ご長寿ご一行様が記念撮影をしていたところです。



そして祈願そっちのけでスタンプのもとへ直行しました。
スタンプは意外にも外に置いてあります。そもそも仏殿は基本的に中に入れないようです。
スタンプを押したところ・・・



2番、仏殿????
1回目の押しが甘く一部写ってない部分があったので、重ねて押そうとしたところ大失敗!

・・・まっ、ひとつぐらいこういうスタンプがあってもいいかな。
そう思って先へ進みます。


3つ目のスタンプは放光堂【国指定登録文化財】です。こちらも裕次郎の墓参りの前に訪れています。



放光堂のスタンプも、賽銭箱の横に置いてありました。
ここにはスタンプの台紙も置いてあります。


3番、放光堂?!?!
ああ、二度も同じ失敗をしてしまった・・・。

失敗したスタンプが3分の1以上を占めるようでは話にならないよ・・・。
ということで、放光堂にあったスタンプ台紙を手に取り、リベンジへ。



今度は成功、3番・放光堂!
絵柄は阿弥陀様です。


放光堂でスタンプラリーをリセットしたので、再び仏殿と大祖堂へ。



2番、仏殿!
絵柄はお釈迦様です。



再び1番、大祖堂!
絵柄はやっぱり瑩山禅師と峨山禅師です。


残りのスタンプを探して、境内の外側へ出ました。



境内の内外を隔てる長廊下、その脇に建っている香積台【国指定登録文化財】です。
總持寺の総合受付的な位置づけなのか、中にはお土産物屋もあります。ご朱印もこちらでもらえるようです。

中は土足厳禁のため、ここで靴を脱ぎます。
この日の靴はキツキツで、履くのに3分ほどかかるから、あまり脱ぎたくないのですが・・・仕方ありません。



中にトイレがあったので、用を足します。
パワースポットという観点からは、日本でも指折りのトイレでしょう。
なんとも運をつかめそうな・・・(^_^;)



香積台の奥に鎮座する大黒尊天の木像です。
高さは180センチもあり、木彫りの大黒天では日本一の大きさを誇るそうです。
スタンプは、大黒様の御前に置いてありました。



4番、大黒尊天@香積台!



香積台を出て、三門付近まで戻ってきました。



三門前にあるロータリーの灯篭も見事なものです。

ですが、スタンプの場所がわかりません。
スタンプの台紙とともに、スタンプの場所が書いてある地図もあるのですが、その地図に書いてあるのはこれまでの4か所だけ。
残るスタンプは三宝殿と平成救世観音のふたつですが、これらについては「自分で探してみましょう」というようなメッセージが書いてあるだけという、不親切な作りです。

總持寺から与えられたふたつの試練を克服すべく、三門付近にあった境内図を見てみると、盲点的なところに三宝殿があるようです。



三宝殿へは、三門の脇にある階段を上っていけるようです。
境内のメインゾーン?とはちょうど反対側で、木々の影に隠れた目立たないところにあります。



三門と三松閣が高いところから見下ろせます、と思ったら二つの建物はまだ上のほうに。
規模の大きさをうかがい知ることができます。



白銀色に輝く?大きな仏像が目に入りました。
台座には平成救世観音とあります。
ですがこのあたりにはスタンプはありませんでした。



別の道を進むと、奥に三宝殿【国指定登録文化財】が建っていました。
ここで残りのふたつのスタンプを手に入れることができました。



5番、荒神様@三宝殿!



6番! 平成救世観音!




スタンプラリーは貫徹できましたが、思いのほか時間がかかってしまいました。
鶴見でお昼を食べるという計画は崩れ去り、そのまま川崎大師へと向かっていきました。



◆参考文献
 ・曹洞宗大本山總持寺 http://www.sojiji.jp/





總持寺・前編~裕ちゃんの墓

2014-07-15 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 前 1 1 時 5 5 分

横 浜 市 鶴 見 区

曹 洞 宗 大 本 山 ・ 總 持 寺



東福寺から、Google Mapを見つつ進み、JR京浜東北線の沿線にある總持寺まで来ました。



總持寺、でかいです。
入口では、寺務所の職員さんか修行僧かわかりませんが、芝生の草むしりをしていました。

さてチャリですが、總持寺のところにある鶴見大学の駐輪場に停めておきました。
鶴見大学は總持寺の一部みたいなものなんですねぇ。
私は鶴見大学の存在自体知らなかったのですが(^_^;)

入口から50メートルほどでしょうか、



「大本山総持寺」の寺号標が立っています。
なかなかご立派な寺号標ですが、これまたなかなかご立派な並木の影に隠れて目立たないところにあります。



寺号標からさらに進むと、三松関【国指定登録文化財】という総門にあたる門へ。

新緑の並木は続き、



でっかい三門に到達したところで並木道は終わります。
その先は、宏大な總持寺の境内です。


能登国に諸嶽観音堂というお堂がありました。總持寺の由来はここから始まります。
元亨元年(1321年)、住職の定賢権律師が、永平寺(越前国)の瑩山禅師に入山を要請し、寺院を禅師に譲りました。寺伝によると、二人の夢枕に観音様が現れてお告げをしたとあります。
禅師と律師は、夢のお告げがぴったり合ったことを慶び、寺号を「仏法(真言)が満ち保たれている総府」という意味の「總持寺」と改め、山号は諸嶽観音堂にちなんで「諸嶽山」と定めました。
瑩山禅師は、後醍醐天皇の公認を得るなど、曹洞宗を日本仏教の一大宗派にした名僧でもあります。

しかし、明治31年(1898年)4月13日夜火災がおこり、伽藍の大部分を焼失してしまいました。
明治40年、貫首の石川素童禅師は、新興の港湾都市として成長していた横浜にてあらたに總持寺を創建することを決断しました。
こうして總持寺は鶴見に大いなる境内を有し、能登でも諸嶽寺として続き、現在に至っています。



ただただでかい堂宇を誇る總持寺。



三門をくぐったところにある三松閣です。
この中には総受付があるようですが、こちらに寄る必要はありません。
總持寺は無料で境内に入ることができます。



扉には菊の御紋、京都の二条城で見たような感じの門は向唐門【国指定登録文化財】といいます。
この門は普段は閉められており、通常は金鶏門という別の門を通ることになります。



向唐門の延長線上、金鶏門をくぐった先にあるのは仏殿【国指定登録文化財】です。
外見からは2層の建物に見えますが、下の屋根はもこし(見せかけの屋根)であり、実際は巨大な1階建ての建造物です。

このときは老人ご一行が仏殿で記念撮影をしていました。

「このお寺は何ですか?」「總持寺ぃ~~」

どうやら總持寺では「ハイ、チーズ」ではなく、「1+1は2ぃ~」の代わりに「總持寺ぃ~」という掛け声が使われているようです。
「総爺ぃ~」と思ったのは私だけでしょうか?
でもじじいだけでなくばばあもいたので「総爺ぃ」には該当しませんね。おっとこれは失礼。



仏殿を右に見つつさらに歩くと、放光堂【国指定登録文化財】があります。
横幅が約30メートルもあり、安政年間に建てられたものが明治44年に移築されたものだそうです。



總持寺は宏大な寺院とあって、著名な人物も多く眠っています。

大正時代に内閣総理大臣を拝命し、超然内閣(非政党内閣)を組織して大正デモクラシーを招くことになる清浦圭吾
戦後間もない時期に内閣総理大臣を務めた芦田均
そして、昭和を代表する俳優にして、石原軍団の総帥・石原裕次郎


石原裕次郎の墓は、広大な墓地の一画にあります。
後醍醐天皇の御廟、むちゃくちゃでっかい大祖堂を通った先に墓地があります。



案内看板にしたがって、石原裕次郎の墓へ歩きます。



「天下無敵日比野雷風居士墓」とあります。「天下無敵」とは大きくでたなぁ~(^_^;) この墓の主は何者なのか!?

彼のお弟子さんと思われる人々が立てた碑文が脇に立っていました。
それによると、どうも明治時代の剣豪と思われます。
興味がわいたので調べてみました。


日比野雷風は明治の剣豪で、神道流居合の開祖です。
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が結ばれたときに、その内容に不満をもった民衆の一部が暴動を起こしました。いわゆる日比谷焼打事件です。
暴徒はポーツマス条約に賛同する記事を出した国民新聞社を襲撃しました。
そのとき雷風は親交のある徳富蘇峰社長のもとを訪ねていましたが、暴徒から蘇峰を身を挺して守り抜いたそうです。



一般の市井の人々の墓の中に、ひときわ目立つ大きな墓が現れます。



これが石原裕次郎の墓です。
石柱には「裕次郎」の名が刻まれ、献花と線香の煙が絶えません。
この日は「石原家」の水桶に花が活けられていました。軍団関係者がお参りに来たのでしょうか。

墓前に立つと、なんだか神妙な心持ちになる、そんな気がします・・・。



石原裕次郎の墓を参観して、ふたたび總持寺の境内へ戻りました。



◆参考文献
 ・曹洞宗大本山總持寺 http://www.sojiji.jp
 ・神道流ホームページ http://www.shintoryu.jp/index.php





鶴見・東福寺

2014-07-11 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 前 1 1 時 3 5 分

横 浜 市 鶴 見 区

京 急 花 月 園 駅 付 近



花月園駅わきの開かずの踏切を超えた私は、そのまま坂道を上っていきました。
すると小さな駐車場とともに、由緒ありそうな山門が建っています。

ここは總持寺・・・ではなく、東福寺というお寺でした。
静かなたたずまいに魅かれた私は、このお寺に立ち寄ってみることとしました。


東福寺は、真言宗智山派の寺院で、山号は子生山といいます。

・・・終わり。
鶴見の東福寺の解説文はこれだけです!・・・なにぶん信頼に足りる情報が少ないのです。東福寺の公式サイトはないですし。
あのWikipediaですら、鶴見の東福寺の記事はありません。あるのは紅葉で名高い京都の東福寺と、同じ横浜でも西区にある東福寺です。
でもこれだけだとちょっと・・・と思ってもう少し調べたところ、

東福寺は寛治元年(1087年)醍醐寺の勝覚僧正により開かれました。
堀河天皇の治世、天皇は皇子の誕生をご祈念し、東福寺の子育観音に願かけをなさいました。
その3年後、堀河天皇の皇子(のちの鳥羽天皇)がお生まれになったので、「子生山」の号と宸筆の額を賜ったといいます。





まずは入口に建つ山門です。
しっかりと「東福寺」と書いてあります。





石段を上がると、正面には本堂と思われるお堂が建っております。
こちらで旅の無事を祈願します。

「チャリにトラブルなく、無事に着きますように」
「少し寒いので、気温がちょっとでも上がりますように」


あまり広くない境内には、像やらお堂やらが所狭しと配置されていました。



堀河天皇のくだりで登場する子育観世音像は、ここ数年で新調されたものなのでしょうか。
ただ、ご本尊の如意輪観音は、子年ごとのご開帳となっているようです。



真言宗の寺院とあって、空海が諸国を行脚しているさまを像にした修行大師像もあります。



写経を収めている心経塔が立っています。
そしてこれらを覆っているかのように生い茂る緑がなかなかよかったです。



子育観世音像の周囲にある庭園には入れなかったのが少しばかり残念でしたが、静かな寺のたたずまいは心持ちを癒してくれました。



◆参考文献
 ・鶴見の歴史(横浜市公式サイト)  http://www.city.yokohama.lg.jp/tsurumi/information/introduction/sasshi/rekishi.html
 ・鶴見みどころ(横浜市公式サイト) http://www.city.yokohama.lg.jp/tsurumi/kanko/midokoro/midokoro80.html#44





朝の弘明寺

2014-07-06 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 6 日 ( 火 )

午 前 9 時 4 0 分

横 浜 市 南 区

坂 東 三 十 三 箇 所 第 1 4 番 霊 場 ・ 弘 明 寺



GW最終日の朝、よね氏宅を出た私は、たか氏とともに近所をぶらりと歩いていました。
そして近辺にある弘明寺に行ってみようということになりました。


弘明寺は「坂東三十三箇所巡拝」で一度参拝したことがありますが、それから5年ぶりとなります。


弘明寺は真言宗の寺院で、横浜市内では最古の寺院です。
養老5年(721年)にインドの僧・善無畏が来訪し、この地に結界を設けたといいます。
天平9年(737年)疫病が流行した際、河内国(大阪)の僧・行基が勅命により天下安泰を祈願するために全国を回ったとき、この地に寄って観音像を刻んで一宇を建立したといいます。
もとは「求明寺」と称されていましたが、観音経偈文の中の「弘誓深如海」の「弘」の字をとって、鎌倉時代以降は「弘明寺」となりました。



弘明寺に到着しましたが、妥当な駐輪場がありません。
近くの7に停めちゃいました。あとでコーシー買ったんで許してくださいね(^_^;)




山門をくぐって石段を上ると、すぐに本堂です。
駅名にもなっていてわりと有名な割には、とてもこぢんまりしたお寺です。



石段の途中に、京急が奉納した身代地蔵があります。

 

本堂です。
こちらにご本尊・木造十一面観音立像【国指定重要文化財】(通称・弘明寺観音)が安置されています。秘仏なので拝見することはできません。
ご朱印がもらえるのもこちらです。

ここで自転車旅の無事を祈願します。
なにぶん当方は横浜から船橋までチャリを走らせなきゃいけないのでねぇ。


 

鐘楼は境内の隅に立ちます。
釣ってある梵鐘【横浜市指定文化財】は、江戸時代中期のもので、西村政平という鋳物師が造ったものです。
文化財に指定されているからなのか、突き棒が天井に固定されて鐘を突けなくなっています。



本堂の向かいに位置する七つ石
インドの僧・善無畏はこの七つの石を地面に据えて結界を設けたそうです。



緑に囲まれてちょっと落ち着いた雰囲気のお堂。
ここでも旅の無事を祈り、弘明寺を出ました。



弘明寺の商店街を歩いて戻り、ここでたか先生とはお別れです。
たか先生、次の白熊対決麻雀大会では、後れをとりませんぞ~。



◆参考文献
 ・瑞應山蓮華院弘明寺 http://www.gumyoji.jp/





池上本門寺

2014-06-10 | 寺院仏閣

2 0 1 4 年 5 月 2 日 ( 金 )

午 後 3 時 5 0 分

東 京 都 大 田 区

第 二 京 浜 を 南 下 中



拙宅のある船橋から鬼ヅモ大会の開かれる横浜までママチャリで向かう旅。
いつもなら第一京浜を通るところ、この日は気分を変えて第二京浜を通って行きました。

第二京浜付近にある古刹・池上本門寺を詣でようと考えていましたが、時刻は閉門の差し迫る午後4時前。
この日の参拝はパスしてもいいかな~とも思いました。

しかし第二京浜の度重なるアップダウンに心身ともにやられていた私は「二度と第二京浜は使わない」と固く決心していました。
そうであるならば、この機会に、第二京浜に近い(第一京浜からは遠い)本門寺に行っておかなきゃ、とも考えたのでした。


第二京浜から脇道に入ると、それまでと比べ物にならないほど傾斜の急な坂が行く手を阻みます。
修行の地だけあって、寺院は山や台地の上におわすものですから、ママチャリを押しながら歩いて上ります。


そうして着いた池上本門寺・・・の裏手のようです。
駐輪場・駐車場の目の前に本堂と思われる大きな御堂がそびえておりました。


時刻は午後4時前、参拝時刻に余裕がありません。
しかし体力・精神はさらに余裕がなく、私は駐輪場近くにあった「お休処」なる屋内に駆け込みます。

するとそこは喫茶店でした。
思考能力が落ちていた私は、ためらわず冷たい飲み物と甘いものを注文します。

 

冷甘酒(400円)と豆乳アイス(500円)をいただきます。
店内の涼しさと相まって、心身の疲労が消え失せていくようです。


池上本門寺は、山号を長栄山、院号を大国院とし、日蓮聖人入滅の霊場として日蓮宗の大本山のひとつとされています。

日蓮は、弘安5年(1282年)9月8日身延山(山梨県)を出て、病気療養の湯治のため常陸に向かいました。
その途上、9月18日に武蔵国池上郷(現在の東京都大田区池上)の池上宗仲の館に留まり、一堂を建立したのが本門寺の始まりとされます。
10月13日、日蓮が池上郷で亡くなると、池上宗仲は法華経の字数(69,384字)に合わせて69,384坪の土地を寄進し、本門寺の基礎が成りました。

以来、本門寺は関東の武士より庇護を受け、江戸時代に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家などの祈願寺となりました。
第二次世界大戦の空襲によって寺内の伽藍のほとんどが焼失してしまいますが、戦後に復興して現在に至ります。



午後4時20分、池上本門寺の散策開始。
最初はお休処に隣接する経蔵【大田区指定文化財】です。



何度か焼失の末、天明4年(1784年)に再建されて現在に至ります。
江戸中期の大型の経蔵ですが、現在はお経は保管されていないそうです。


お次は大堂です。



戦災で焼失しましたが、昭和39年に鉄筋コンクリート造で復興しました。

「無事、横浜に到着しますように」
「鬼ヅモ大会、優勝したいなぁ」


大堂で本日最後の祈願をします。


大堂からやや外れたところにそびえ立つ五重塔【国指定重要文化財】。



文禄2年(1593年)徳川秀忠が悪性の疱瘡にかかった際、病気の平癒を祈願しました。
病は治り、秀忠は長じて2代将軍に就任し、平癒の御礼と武運長久を祈願して慶長12年(1607年)に建立されたものです。
関東地方で現存する五重塔で最も古く、また桃山期の様式による現存唯一の五重塔とされています。


ふたたび大堂のところまで戻り、



仁王門(三門)から参道を下って行きます。
以前奉納されていた仁王像は、当時20歳代のアントニオ猪木氏をモデルにしているのだとか。


ここで参道から少し外れて、

 

日蓮上人説法像です。
アルミニウム製の像で、昭和58年(1983年)の日蓮の700回忌に建立されました。


参道を歩き、96段の石段を下りていきます。





此経難持坂(しきょうなんじざか)【大田区指定文化財】と呼ばれています。
96段の段数は、「法華経」宝塔品の偈文(げもん)96字にちなむそうです。
難しそうな名前は、その偈文の最初の4字からとっています。
加藤清正が本門寺の祖師堂(江戸時代中期に焼失)を建立した際に整備された石段で、その当時のものが現存しています。


石段を下りたところに、お社が鎮座しています。



長栄堂といい、守護神・長栄大威徳天をお祀りしています。
この日はツツジがきれいに咲いておりました。


本門寺の入口・総門【大田区指定文化財】に到達です。



江戸時代の元禄年間に建てられた簡素な門です。
扁額は江戸時代初期の芸術家・本阿弥光悦の筆によるものだそうです。


これにて本門寺の散策は終了・・・ではなく、3分の2くらいでしょうか。
下った参道をまた上って、大堂のところに戻ります。

時刻は午後5時を回りました。


大堂とは道路をはさんで向かい側に本殿



その奥に日蓮聖人御廟所があります。



時刻の関係で閉門となっていました。

そして境内のはずれ、坂を下りたところの墓地。
このあたりは、入滅した日蓮聖人を荼毘に付したとされています。



そしてここに建つのが多宝塔【国指定重要文化財】です。
聖人の550回忌を期して、天保元年(1830年)に建立されました。
ここには、日蓮聖人が持っていた水晶念珠が奉安されているそうです。



斜陽に染まりゆく本門寺。



人気の全くない墓地と多宝塔に少しばかりビビりながらも、本門寺を後にしました。



◆参考文献
  日蓮宗大本山 池上本門寺  http://honmonji.jp/