礼拝宣教 エズラ記3章1-13節
先週は特別集会で田口先生よりすばらしい霊の糧を戴きました。頂いた神の言葉、メッセージ、これをただ受けるだけでなく、しっかりと消化し、エネルギーに変えて、さらに福音に生きる人生、隣人と分ち合う人生とされていきましょう。2日間の特伝で祈りの力について改めて教えられましたが、神さまに期待して祈り続け、行動し、主の御業を見せて頂く、そのような生き生きとした信仰生活を送ってまいりましょう。
主日礼拝での宣教を日ごとの家庭の食事(家庭料理)とするなら、特別集会は年に一、二度くらいのレストランで食事を戴くようなものです。先週は豊かな霊の御馳走をたらふく戴いたわけですが、けれども、これが毎週続くと栄養が偏ってしまいますよね。たまにはビフテキやフルコースといった外食もよいでしょうが。それが毎週となりますと、どこか飽きがき、栄養バランスも偏ってしまいます。特別な集会はよいものですが、何より私どもは週に一度、礼拝を真心込めて主にささげ、地道に御言葉に学び、それを力と変えて生きていく、そういう不断のあゆみが霊の体を養い、保っていくうえで必要なのです。そのところから、すべての祝福と恵みは与えられます。週ごとの礼拝、又祈祷会、そこで捧げられる祈りと賛美、感謝の応答は私たちの命の力です。
先程本日の聖書箇所であるエズラ記3章が先に読まれましたが。
このエズラ記は、そのような礼拝の場であった神殿を破壊され、バビロンの捕囚とされたイスラエルの人々が、ペルシャ王キュロスの好意で64年の歳月を経て、エルサレムに帰還し、神殿を再建するという話について記された書物であります。
①「神殿再建に先立つ礼拝の開始」
まず今日の箇所で注目したいのは、神殿の再建に先立ち、エルサレムに帰還した人々がなしたことは前のソロモンの神殿があった場所近くで「礼拝を開始した」ということであります。1節に「民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」と記されていますが。
この「一人に人のように」というのは、神の民の霊的な一致を表しています。つまりこの霊的一致が礼拝の開始につながっていたのです。新約聖書では、ペンテコステの出来事として、一同が「心を一つにして集っているところに聖霊が降り、教会が誕生し、神の御業が起こされ、広く福音が宣べ伝えられていく出来事が起こされていきます。今もそうであります。
今日の箇所において、エルサレムに帰還したイスラエルの民のこの霊的一致いわゆる改革は、彼ら一人ひとりが、バビロン捕囚の出来事を顧みながら、単にそれを悔いるということではなく、主の方へ立ち返った、主に向き直ったことによってもたらされました。彼らは原点に立ち返ったのです。近年政治家がよく「~改革だ」「改革が必要だ」などと繰り返し強調し、改革という言葉が飛びかっておりますが。この改革というのは英語でリフォーム(Reform)です。それは何か新しい事をして変える、斬新なことを始めるということではなく、「原点に立ち返る」というのがもともとの意味なのです。神殿の崩壊とバビロン捕囚という耐え難い経験をしたイスラエルの民は、その経験の中から、「真の神に立ち帰る」ことこそ、この民の生きている、又活かされている祝福と恵みの原点であることに改めて気づきます。そこから礼拝が開始されていった、というのです。
私たちは特に主の晩餐式において、主の恵みと祝福の原点に立ち返る時として主イエスの救いの御業を思い起こします。それはほんとうに大切な時であります。
本日は「神殿の再建」というテーマをつけさせて頂きましたが。まず捕囚から解放されたイスラエルの人々の中で、「神に心動かされた者」たちが主の神殿を建てるためにエルサレムに上っていったということが1章5節に記されています。まずこの「神に心動かされた者たち」から神殿の再建が始まりました。そして彼らがまずなしたことは、昔の土台の上に祭壇を築いて礼拝をささげるということでした。先程言いましたようにまさにリフォームですね。私たちの大阪教会も新会堂建築のビジョンを与えられておりますが。
3節で「彼らはその地の住民に恐れを抱きながら、その昔の土台の上に祭壇を築いた」とあります。礼拝をささげることを困難とさせていく働きや事どもが起こらないとは限りません。そのような移行の期間にも揺らぐことのない霊的な土台をしっかりと築いていなければなりません。
そこにおいて「教会の祈りの力」が必要不可欠であります。心を一つに祈ることをとおして、主は困難な中にあってもその力ある業を顕わしてくださいます。会堂建築など、神さまの栄光を表そうとするプロジェクトには得てして、それを阻もうとするサタン的な勢力や働きが様々なかたちで起こってくるものです。そう言う時に、私たちは何をもってそれに対処すべきでしょうか、それこそ主を第一として依り頼み、祈りのスクラムを組み、愛を持って仕え合うことを怠らないことです。必ずや前進することができます。何よりも、主イエスが共にいて下さるお約束があるのですから。
②「神殿の基礎」
さて、ここまで「神殿の再建」に先立ちイスラエルの人々が神の言葉に基づいて祭壇を築き、礼拝をささげ、最善のものを主にささげていったということを見てきましたが、ここからはその神殿の基礎についてみ言葉を受けとっていきます。
この神殿の基礎が据えられた時の状況について次のように記述しています。
12節、13節「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫びをあげた。人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった」。
はじめここを読んだ時、年取った祭司、レビ人、家長らは唯ただ感激して、大声を出して泣いたのかと思っていたのですが。それはどうも違うようです。
彼らはバビロン捕囚前にエルサレムにおいてソロモン王の時代に建てられただ神殿を見た事があるとありますから、恐らくそれと今、目の前にある基礎が据えられただけの状態とを比較したのかも知れません。ソロモンの時代の神殿は金や銀といった最高の材料でもって建てられた荘厳なものでした。それに比べると、その基礎はあまりにみすぼらしく映ったのでしょうか。彼らにとってほんとうに残念なことに、この後建築工事は16年もの間中断を余儀なくされます。工事の再開に当って主は預言者ハガイの口を通してイスラエルの民を鼓舞されるのですが。そのハガイ書2章で約束された新しい神殿の栄光と祝福について、「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると、万軍の主は言われる」と述べられているのですね。
再建工事に取り掛かった当初、イスラエルの人々の力量は本当に小さく、乏しかったのでしょう。しかし、イスラエルの人々はその乏しく貧しい中から、ソロモンの時代にもまさる犠牲と献身を主のために捧げたのではないでしょうか。それは確かに目に見えるところではソロモンの時代の神殿と比較すれば、豪華絢爛とはいかなかったでありましょうが。主は人々が主のために心を込め、犠牲と献身をもって建てた神殿に栄光を顕わしてくださるのです。救いと解放の原点に立ち返ることをその基に据え、妨げや困難な中でも不断の祈りと献身のうちに建てられていった第二神殿。主は「この新しい神殿の栄光は、昔の神殿にまさる。この場所にわたしは平和を与える」(ハガイ書2:9)と言われるのです。
このエズラ記3章から今日示されているメッセージを私たちはしっかりと聞いていかなければならないと思います。それは、私どもにとって神殿の基礎(教会の基礎)は「十字架と復活の主イエス・キリストであられる」ということです。神殿の基礎、教会はこのイエス・キリストという神の愛と救いを土台(基礎)にして建てあげられている。そのことを忘れてはならないのです。戴いたかけがえのない主の愛に対して、喜びと期待をもって主に祈り続け、心から主にささげていく者とされていきたいと願います。様々な世の誘惑、サタン的な力が働き、私たちの行く手を阻もうとするかも知れませんが。それでもなお、主に信頼をし続けてまいりましょう。心を合わせて祈りつつ、共に主のみ業に参与して、成し遂げてまいりましょう。主は必ず、あふれて余りある祝福と恵みをもって応えてくださいます。
エフェソ2章19-22節(新約聖書新共同訳p.354)を読んで宣教を閉じます。
「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」
先週は特別集会で田口先生よりすばらしい霊の糧を戴きました。頂いた神の言葉、メッセージ、これをただ受けるだけでなく、しっかりと消化し、エネルギーに変えて、さらに福音に生きる人生、隣人と分ち合う人生とされていきましょう。2日間の特伝で祈りの力について改めて教えられましたが、神さまに期待して祈り続け、行動し、主の御業を見せて頂く、そのような生き生きとした信仰生活を送ってまいりましょう。
主日礼拝での宣教を日ごとの家庭の食事(家庭料理)とするなら、特別集会は年に一、二度くらいのレストランで食事を戴くようなものです。先週は豊かな霊の御馳走をたらふく戴いたわけですが、けれども、これが毎週続くと栄養が偏ってしまいますよね。たまにはビフテキやフルコースといった外食もよいでしょうが。それが毎週となりますと、どこか飽きがき、栄養バランスも偏ってしまいます。特別な集会はよいものですが、何より私どもは週に一度、礼拝を真心込めて主にささげ、地道に御言葉に学び、それを力と変えて生きていく、そういう不断のあゆみが霊の体を養い、保っていくうえで必要なのです。そのところから、すべての祝福と恵みは与えられます。週ごとの礼拝、又祈祷会、そこで捧げられる祈りと賛美、感謝の応答は私たちの命の力です。
先程本日の聖書箇所であるエズラ記3章が先に読まれましたが。
このエズラ記は、そのような礼拝の場であった神殿を破壊され、バビロンの捕囚とされたイスラエルの人々が、ペルシャ王キュロスの好意で64年の歳月を経て、エルサレムに帰還し、神殿を再建するという話について記された書物であります。
①「神殿再建に先立つ礼拝の開始」
まず今日の箇所で注目したいのは、神殿の再建に先立ち、エルサレムに帰還した人々がなしたことは前のソロモンの神殿があった場所近くで「礼拝を開始した」ということであります。1節に「民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」と記されていますが。
この「一人に人のように」というのは、神の民の霊的な一致を表しています。つまりこの霊的一致が礼拝の開始につながっていたのです。新約聖書では、ペンテコステの出来事として、一同が「心を一つにして集っているところに聖霊が降り、教会が誕生し、神の御業が起こされ、広く福音が宣べ伝えられていく出来事が起こされていきます。今もそうであります。
今日の箇所において、エルサレムに帰還したイスラエルの民のこの霊的一致いわゆる改革は、彼ら一人ひとりが、バビロン捕囚の出来事を顧みながら、単にそれを悔いるということではなく、主の方へ立ち返った、主に向き直ったことによってもたらされました。彼らは原点に立ち返ったのです。近年政治家がよく「~改革だ」「改革が必要だ」などと繰り返し強調し、改革という言葉が飛びかっておりますが。この改革というのは英語でリフォーム(Reform)です。それは何か新しい事をして変える、斬新なことを始めるということではなく、「原点に立ち返る」というのがもともとの意味なのです。神殿の崩壊とバビロン捕囚という耐え難い経験をしたイスラエルの民は、その経験の中から、「真の神に立ち帰る」ことこそ、この民の生きている、又活かされている祝福と恵みの原点であることに改めて気づきます。そこから礼拝が開始されていった、というのです。
私たちは特に主の晩餐式において、主の恵みと祝福の原点に立ち返る時として主イエスの救いの御業を思い起こします。それはほんとうに大切な時であります。
本日は「神殿の再建」というテーマをつけさせて頂きましたが。まず捕囚から解放されたイスラエルの人々の中で、「神に心動かされた者」たちが主の神殿を建てるためにエルサレムに上っていったということが1章5節に記されています。まずこの「神に心動かされた者たち」から神殿の再建が始まりました。そして彼らがまずなしたことは、昔の土台の上に祭壇を築いて礼拝をささげるということでした。先程言いましたようにまさにリフォームですね。私たちの大阪教会も新会堂建築のビジョンを与えられておりますが。
3節で「彼らはその地の住民に恐れを抱きながら、その昔の土台の上に祭壇を築いた」とあります。礼拝をささげることを困難とさせていく働きや事どもが起こらないとは限りません。そのような移行の期間にも揺らぐことのない霊的な土台をしっかりと築いていなければなりません。
そこにおいて「教会の祈りの力」が必要不可欠であります。心を一つに祈ることをとおして、主は困難な中にあってもその力ある業を顕わしてくださいます。会堂建築など、神さまの栄光を表そうとするプロジェクトには得てして、それを阻もうとするサタン的な勢力や働きが様々なかたちで起こってくるものです。そう言う時に、私たちは何をもってそれに対処すべきでしょうか、それこそ主を第一として依り頼み、祈りのスクラムを組み、愛を持って仕え合うことを怠らないことです。必ずや前進することができます。何よりも、主イエスが共にいて下さるお約束があるのですから。
②「神殿の基礎」
さて、ここまで「神殿の再建」に先立ちイスラエルの人々が神の言葉に基づいて祭壇を築き、礼拝をささげ、最善のものを主にささげていったということを見てきましたが、ここからはその神殿の基礎についてみ言葉を受けとっていきます。
この神殿の基礎が据えられた時の状況について次のように記述しています。
12節、13節「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫びをあげた。人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった」。
はじめここを読んだ時、年取った祭司、レビ人、家長らは唯ただ感激して、大声を出して泣いたのかと思っていたのですが。それはどうも違うようです。
彼らはバビロン捕囚前にエルサレムにおいてソロモン王の時代に建てられただ神殿を見た事があるとありますから、恐らくそれと今、目の前にある基礎が据えられただけの状態とを比較したのかも知れません。ソロモンの時代の神殿は金や銀といった最高の材料でもって建てられた荘厳なものでした。それに比べると、その基礎はあまりにみすぼらしく映ったのでしょうか。彼らにとってほんとうに残念なことに、この後建築工事は16年もの間中断を余儀なくされます。工事の再開に当って主は預言者ハガイの口を通してイスラエルの民を鼓舞されるのですが。そのハガイ書2章で約束された新しい神殿の栄光と祝福について、「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると、万軍の主は言われる」と述べられているのですね。
再建工事に取り掛かった当初、イスラエルの人々の力量は本当に小さく、乏しかったのでしょう。しかし、イスラエルの人々はその乏しく貧しい中から、ソロモンの時代にもまさる犠牲と献身を主のために捧げたのではないでしょうか。それは確かに目に見えるところではソロモンの時代の神殿と比較すれば、豪華絢爛とはいかなかったでありましょうが。主は人々が主のために心を込め、犠牲と献身をもって建てた神殿に栄光を顕わしてくださるのです。救いと解放の原点に立ち返ることをその基に据え、妨げや困難な中でも不断の祈りと献身のうちに建てられていった第二神殿。主は「この新しい神殿の栄光は、昔の神殿にまさる。この場所にわたしは平和を与える」(ハガイ書2:9)と言われるのです。
このエズラ記3章から今日示されているメッセージを私たちはしっかりと聞いていかなければならないと思います。それは、私どもにとって神殿の基礎(教会の基礎)は「十字架と復活の主イエス・キリストであられる」ということです。神殿の基礎、教会はこのイエス・キリストという神の愛と救いを土台(基礎)にして建てあげられている。そのことを忘れてはならないのです。戴いたかけがえのない主の愛に対して、喜びと期待をもって主に祈り続け、心から主にささげていく者とされていきたいと願います。様々な世の誘惑、サタン的な力が働き、私たちの行く手を阻もうとするかも知れませんが。それでもなお、主に信頼をし続けてまいりましょう。心を合わせて祈りつつ、共に主のみ業に参与して、成し遂げてまいりましょう。主は必ず、あふれて余りある祝福と恵みをもって応えてくださいます。
エフェソ2章19-22節(新約聖書新共同訳p.354)を読んで宣教を閉じます。
「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」