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信仰と忍耐と知恵

2014-02-16 18:07:56 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネの黙示録13章 

先週は2・11信教の自由を守る日の集会が守り行われました。「子どものとき戦争があった」~にもかかわらず、教会を信じる、というテーマで講演がありました。講師はご自身、戦前戦時中の学校で皇国史観に基づく軍国教育を受け、「戦前戦中の、国を愛する(愛国心)教育は『国のために死ぬ』ことを教えていたが、それは人間を分裂させていく『死ぬための教育』であった。又、長崎での被爆と敗戦を経験した時には、聖書の『この世の終わり』が重なった。」そのような経験をなさったそうです。さらに戦前戦中の教会については、礼拝参加者の減少が進み、治安維持法の監視の下、宮城遥拝と君が代の斉唱によって礼拝が始まり、聖書や讃美歌の自己抑制がなされたといいます。憲兵や公安(特別警察)などの国家の圧力によって、語れること語れないこと、歌えること歌えないことが定まっていったのです。信教の自由の有難さと共に、これを守ることの大切さを改めて思わされる者ですが。さらに戦前戦中の時代は国家による宗教支配の象徴として、「日本基督」の成立や教団代表者の伊勢神宮参拝等がなされていった事を例にあげられ、戦前戦中の教会はご自身のことを踏まえつつ「キリスト告白のたたかいと挫折」の時代であったと言われました。
それから焼け野原の敗戦を迎えると、学校では「民主主義」が教えられるようになりますが。戦後の教育は戦前の「死ぬことを教える教育」とは好対照に「生きることを教えられた」、と証言された言葉が印象に残りました。その後のキリスト教会はかつての教会の戦争協力に対する自覚と反省がなされ、「改めてキリスト告白に立つ」その連続と非連続の時代を辿ってきたとのお話しを伺いながら、今日の日本の状況について改めて考えさせられました。果たして先の教訓が活かされた時代の歩み、教会の歩みとなっているでしょうか。

本日は、ヨハネの黙示録13章から「信仰と忍耐と知恵」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
ここのところは小見出に「二匹の獣」とあり、非常にグロテスクな印象がありますが。ヨハネの黙示録が書かれた背景には、ローマ帝国支配下のもと、「教会とキリスト教徒」に対する厳しい弾圧と迫害がありました。そのような力、権力がこのような獣にたとえられているのです。
第一の獣はローマ帝国を、第二の獣は偽預言者をそれぞれ象徴していると考えられますが。弾圧と迫害を加えるその獣にどう教会と信徒たちは向き合い、対していったらよいのか。ヨハネは神の霊によって示されたことを書き記し、諸教会と信徒らに送ります。そう申しますと「それではもう黙示録とは過去のことでしかないのか」と思われかも知れませんが。しかしそれは単に過去の時代に限定されるものではなく、世界の歴史上においてこの黙示録の時代と類似するような出来事が残念ながら幾度となく繰り返されています。今の時代の流れの中でキリストを信じる私どもに対しても、この書はキリストの教会として立つ信仰を伝え、又人の世にあっての警鐘を促すものとして生きているのです。
さて、第一の獣とありますが。それは12章7節~9節にあります、高慢になって神に逆らい「天での戦いに破れて地に落ちた竜(悪魔とかサタンとか呼ばれるもの)の」地上での働きを代行するもの、それが獣なのであります。3節で「竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威を与える」のでありますが。獣には「10本の角と7つの頭」があったということで、それは黙示録が記される時代までの初代ローマの皇帝アウグストから始まる7人の皇帝を表していると考えられています。
3節には又、「この獣の頭の1つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった」とありますが。これは何の事なのかと思いますけれど、一説には7人の皇帝の一人であったネロが自殺して帝国は打撃を受けるのですが、ローマ帝国の勢力は後の皇帝と共に勢いづき、繁栄するのであります。そのことを象徴的に示すものともとれますが、定かなことは分かりません。死んだとも思われ致命的な傷を負った獣の頭の一つが再生したことに、「全地が驚いてこの獣(ローマ帝国)に服従」し、人々はこの獣を拝んだというのです。このところを読みますと、皇帝礼拝というものは単に皇帝が権力を笠に上から強制的にそれを強いたのではなく、ローマ帝国の再生の出来事に魅かれた人々、いわば世間一般大衆からの絶大な賛辞や指示のうえに成り立っていったという事が考えられるのです。
5節に「この獣はまた、大言と冒涜の言葉を吐く力が与えられた」とありますが。そこにもきっとローマ一般大衆の支持を得ていたという背景があったから、獣はいともたやすく大言や冒涜の言葉を吐くことができたのですね。
 6節以降、この第一の獣の勢いは衰えを知りません。「獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた」とあります。こうして第一の獣であるローマ帝国は、自らを神とし、地上でサタンの働きを代行しながら国民の心をつかみ、支配するのであります。このように第一の獣は国民を巧妙にマインドコントロールして、支持を受けと賛辞を得ながら礼拝の対象として神格化されていきます。その中で、皇帝を崇拝せず、神としないキリスト信徒たちを捕え、剣でもって殺め、迫害していくのであります。これは冒頭ご紹介した講師の証言に語られた、戦時中の日本の状況とも重なる面が多いでしょう。
10節において主の霊はヨハネを通して、その迫害と弾圧の下におかれている教会と信徒たちに言われます。「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」
けれどもこの忍耐の日々とその先には希望が備えられています。どういうことかと申しますと、実はサタンである竜の働きを代行とした獣が活動できる期間は42カ月迄と定められてる、ということであります。この絶対的に見える獣の支配も、実は天地万物を造り、統べ治めておられる御神のもとにあり、その悪しき世も必ず終わりが来るということであります。だからその真の神を知っている信徒たちに、やがて歴史に対する主なる神の介入と審判がなされて、忠実な信徒は祝福に与ることができる、それゆえに「忍耐と信仰」が必要である、と訴えているのであります。

さて、11節以降にはもう一つの獣が登場します。その容姿、又役割については、「小羊の角に似た二本の角があって」「第一の獣を拝ませた」「大きなしるしと行いよって、地上に住む人々を惑わせ、第一の獣の像を造るように、地上の人々に命じた」などとあることから、第二の獣は、第一の獣、ローマ帝国を拝むように促す、すなわち皇帝礼拝を先導する「偽預言者」と解することができます。なぜ偽預言者かと言いますと、小羊はイエス・キリストを象徴しますので、小羊の角に似た2本の角を持っていたというのですから、あたかも自分が救世主であるかのように、しかしよくよく聞けば竜のようにものを言ったということです。そして第一の獣の像を拝もうとしない者への迫害と弾圧を断行します。
皇帝礼拝を拒むことは、拒否する人にとって信仰上の問題であったとしても、他の人、国民の眼からすればそれは皇帝やローマ帝国への忠誠に対する反逆罪とみなされたのであります。イエス・キリストの十字架刑も神への冒涜罪ではなく、ローマ法に基づく反逆罪として裁かれたということが思い起こされます。こう言う事は、戦時中の治安維持法の監視下で宗教者や思想信条に立って戦争に反対した個人や団体に対し政治権力が政治犯として厳しい弾圧を加えていったこととも重なります。これは又、国旗国歌法に対して思想信条上、それに従うことができない者を処分する今の身近なところで起こっている現状とも相通じます。
偽預言者の巧妙な働きは、人々の手か額に「獣の刻印」を押させ、それが押されている者と押されていない者の差別化を計り、「この刻印が押されている者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった」というのであります。思想信条のために生活、命をも脅かされされる状況に立たされる。それはどれほどの苦悩を人にもたらすでしょうか。過去の教会の選択に過ちがあったとしても、決してそれを非難することなどできない厳しい実情があったと思うのです。先のご講演後の質疑応答で、どなたかの質問に対して講師は、「隠れキリシタンが踏み絵を前にした時に踏まないことがキリストに忠実であることであったとしても、私であったら苦しみ悩んだ末に踏んでいたかも知れない。しかし、苦しみ悩んだ末に踏んでしまう外なかった者に対して、イエスさまは『踏んでもいいんだよ』といってくださっているのではないだろうか。私はそこで本当に救われた」というようなことをおっしゃられたんですね。それはそういった状況に立たねばならなかった者の家族、当事者としての重たい言葉でありますが。人間と言うのはそんなに単純なものではありません。白と黒の間を行き来しながらそのどちらでもない、思いはあってもそこで悩み苦しみ揺れ動く自分がいるのではないでしょうか。その中で幾多の葛藤を繰り返しながらも、やはり私たちは今イエスさまがここにおられたらどのようになさるのだろうか、どう対処なさるだろうか、ということ考えながら祈り求めていく、そこに私たちなりの正直で誠実な主と向き合って立っていく姿勢があると思うのです。それができる、できないではなく、むしろ実はそういうもはや祈る外ない私たちに、主は寄り添い、伴ってあゆむべき道を備えてくださるのではないでしょうか。信仰の道とは、実はそういう白か黒かということでは決して括ることのできない、人間の弱さや足りなさの上になお恵みとして与えられる救いの路を信じ続けることではないでしょうか。

最後に、ヨハネは獣の刻印についてこう述べます。「この刻印とは獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるのか考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」

この666という数字を様々な人たちがクロスワードパズルや暗号のようなものとして読み解こうとして、怪しげな解釈を加え、おどろおどろしくあげつらって人々の不安をかきたてようとしていますが。しかし、それは的外れな事であります。ヨハネはここに知恵が必要であると言っています。この666は皇帝ネロの名前をへブル語で数字化されたものという説が有力であるそうですが。肝心なのはそれが「人間を指している」と明記されていることです。「獣の刻印」、それは神ではなく、神の御前に高慢になった人間とその権力が造り上げたものに過ぎないものです。神ならざるもの神のように崇めまつり、偶像化していく勢力はやがてすべてが明らかにされ、神の審判が下るときが訪れるのであります。
この天来の知恵に基づき、私たちは信仰の眼でこの時代の、今おかれているそのところから見つめ、「信仰と忍耐と知恵」をもって真の主なるお方に従ってまいりたいと切に願います。
この書物はヨハネの黙示録の時代に限定されたものであるにも拘わらず、しかし、歴史は繰り返されると申しますが、本当に同様な歴史が世界中で幾度となく繰り返されてきました。大衆の支持を得ながら「世界平和」のためだと称して戦いが繰り広げられ、私たちの日本もその一つであります。そういう中、今私たちは二度と同じ過ちを繰り返すことのないよに祈り求め、何よりも真の平和の主、イエス・キリストの言動とその福音に聴いていく者とされてまいりましょう。

フィリピの信徒のために使徒パウロが祈った言葉を引用して宣教を閉じます。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」(1:9-11)
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