礼拝宣教 サムエル上16・1~13
そもそもイスラエルの民は出エジプト以来12部族のそれぞれの部族長はじめ、主に立てられた祭司や預言者、士師と呼ばれるさばき司をリーダーとして立てられていたのです。しかし民は「他の国々のように王が必要だ」と預言者サムエルに訴えたのです。それは、主のご意志に反することでありましたが、イスラエルの民はなおも王を求め、主は初代の王サウルをお立てになります、しかしサウルは主に過ちをおかし退けられることになります。この16章はそのサウルに替わり「主が新しい王を選ばれる」という箇所であります。
1節で主は預言者サムエルに、「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」とおっしゃいます。
サウル王は、イスラエルの12部族の中で最も小さかったべニアミン族の出身でした。彼は主の選びによってイスラエルの最初の王位につきました。9章~10章に、サウルが主に選ばれて油注がれ、イスラエルの王となっていく様子が記されていますが。そこには、彼が美しい若者で「彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と、その容姿は美しく、また身体もがっちりと体格もよかった。いわば人間的に良い条件を備えていた人であった事が分かります。サウルが王となった当初は主に聞き従い、その道は守られ祝されるのであります。しかし彼が世の権威や力を身に着けていく度に、いつの間にか主が自分を王として立てられたことを忘れ、主への畏れをなくしていきます。主がお命じになったことよりも自分の価値基準や判断を優先させるようになっていくのです。
15章に、「主の御声に聞き従うことより、目に見える戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行った」(19節)、主は戦利品を持ち帰ることをお認にならなかったにも拘らず、サウルは優れた良いものをお捧げしさえすればよいと考えたのです。23節以降に「主の御言葉を退けたあなたは 王位から退けられる」「あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けたのだ」と記されているとおりです。
そんなサウルのことを悲しみ、不安を抱いていた預言者サムエルは、新しい王の選び出しのため「出かけなさい」と主がおっしゃったとき、「どうしてわたしが行けましょうか」とためらいます。サウル王がそのことを聞きつけ、自分を殺すかもしれなかったからです。しかしそれでもサムエルは、主の「なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」と、お命じになられたお言葉に聞き従います。サムエルも自分の思いというものはあったわけですけれども、このサムエル記全体を通してサムエルは何時如何なる時にも、主の御声に聞き従ったことが分かります。それはサウルとは対照的です。
15章22節に主の御言葉がこう記されています。「主が喜ばれのは焼き尽くす献げものやいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにもまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」
どんな捧げものにもまさって、主の御声に聞き従って生きることこそが重要なのです。
さて、サムエルは主に命じられたとおり「エッサイとその息子たちに身を清めて、いけにえの会食に来るように」と招きます。主は先にサムエルに「わたしはそのエッサイの息子たちの中に、王となるべき者を見出した」「あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」と命じていました。
彼らがやって来ると、まずサムエルは長子であったエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だと思いました。ところが、主はサムエルに、7節「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間を見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われます。
続く、アビナダブ、シャンマと年長から7番目の息子までエッサイはサムエルの前を通らせますが、そのだれも主が選ばれることはなかったのです。
そこでサムエルはエッサイに、「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねます。エッサイは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と答え、彼にそこに呼ばれていなかった8番目の息子がいたことが判明します。
さて、エッサイはどうしてその末っ子をサムエルのもとに呼ばなかったのでしょうか?想像するに、末の息子はまだそのような場に連れて来るほどのものではない。まだ他の兄弟たちに比べると彼は如何にも未熟な者だから、というような人間的な思いが働いたからではないでしょうか。しかし、主のご計画は人の思い及ぶものではありません。5節にあるように「サムエルはエッサイとすべての息子たちをいけにえの会食に招いた」はずでした。末っ子は残しておけなどと主は一言もおっしゃっていないのに、エッサイは人間的な判断で末っ子のダビデを残して来たのであります。
主は「容姿や背の高さに目を向けるな」と言われます。「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」ここの「人は目に映ることを見る」を新改訳聖書では「人はうわべを見る」と訳しています。それはエッサイだけでなく私たちも自分の経験や知識で人を判断したり、うわべでしか見ていない、見えていない、そういうことが往々にしてあるのではないでしょうか。
7節にあるように当初預言者サムエルでさえも、エッサイの長子「エリアブに目をとめ、彼こそ主の前に油を注がれた者だと、思った」とあるように、世の常識や慣習、人の目に見える判断基準に従って決めようとしていたということです。
そういった人をうわべで見、評価してしまうようなある種の捕われから私たちを解放してくれるのは、主の御言葉です。主に聞き従って生きる。それが如何に大事かということです。サムエルは主の言われた事を思い起こすことで、過った自己判断から免れました。
ところで、本日の7節で「主は心によって見る」とおっしゃったその意味について、もう少し考えてみたいと思います。
不思議に思いますのは、7節で「容姿や背の高さに目を向けるな」と主が言われているのに、実際に選ばれたエッサイの末っ子は「血色が良く、目が美しく、姿も立派であった」と記されている点です。これって主が言われた事と一見矛盾しているようにも思えますが、そうではありません。主はおっしゃるように、その子の心を見られたのです。
そこでよく言われるのは、末っ子のダビデの信仰が他の兄弟たちよりも厚かったということです。しかしそれについては何も記されていませんので、分かりません。まあその後、ダビデはサウル王に気に入られて王に仕える者となるのですが、彼はそのかたわらずっと続けてきた父エッサイの羊の世話を引き続き守っているのですね(17章16節)。そういうダビデの忠実さについて知る事はできますけれども、彼の心を主がどのように御覧になったか、ということについては分からないのです。
ただ想像してみますに、恐らくダビデ本人は、どうして自分が招かれたのか知るよしもなかったのでしょう。まあお兄さんたちは年齢や人生の経験があったから選ばれてもおかしくなかったでしょう。そういった意味では、ダビデには野心など何もなかったのです。これまで7人の兄の存在の陰に隠れて、その権利や利益のすべてが年長者から順に優先されて何でも後回しにされてきたわけです。そういう中で末っ子の彼は未熟者、半人前と見られ、見下されるような存在として扱われることも多かったのではないでしょうか。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ペトロ一5章5節)。高慢な者はサウル王がそうなってしまったように、主よりも自分の力や能力に頼り、自分の思いや考えを主の言葉より優先させてるようになっていきます。しかし、末っ子のダビデにはある意味そういうものは何も持っていませんでしたから、全てに対して自由であったように思えます。
さて、そうして主はエッサイの末っ子であったダビデを選び、預言者サムエルによって油注ぎが行われ、ダビデはサウル王の後継の王として立てられていくことになります。
その主の選びと油注ぎの後から、「主の霊が激しくダビデに降るようになった」と記されています。まさに、そこからダビデは「主によって」王として立てられていくのです。
今日のこの箇所から、私たちも主の御声、聖書の命の言葉に聞き従う者、また「主によって立てられていく者」とされてゆきたいと願います。
最後に申命記7章6節以降を読んで宣教を閉じます。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、主の力ある御手をもってあなたたちを導き出し、救い出されたのである。」
そもそもイスラエルの民は出エジプト以来12部族のそれぞれの部族長はじめ、主に立てられた祭司や預言者、士師と呼ばれるさばき司をリーダーとして立てられていたのです。しかし民は「他の国々のように王が必要だ」と預言者サムエルに訴えたのです。それは、主のご意志に反することでありましたが、イスラエルの民はなおも王を求め、主は初代の王サウルをお立てになります、しかしサウルは主に過ちをおかし退けられることになります。この16章はそのサウルに替わり「主が新しい王を選ばれる」という箇所であります。
1節で主は預言者サムエルに、「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」とおっしゃいます。
サウル王は、イスラエルの12部族の中で最も小さかったべニアミン族の出身でした。彼は主の選びによってイスラエルの最初の王位につきました。9章~10章に、サウルが主に選ばれて油注がれ、イスラエルの王となっていく様子が記されていますが。そこには、彼が美しい若者で「彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と、その容姿は美しく、また身体もがっちりと体格もよかった。いわば人間的に良い条件を備えていた人であった事が分かります。サウルが王となった当初は主に聞き従い、その道は守られ祝されるのであります。しかし彼が世の権威や力を身に着けていく度に、いつの間にか主が自分を王として立てられたことを忘れ、主への畏れをなくしていきます。主がお命じになったことよりも自分の価値基準や判断を優先させるようになっていくのです。
15章に、「主の御声に聞き従うことより、目に見える戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行った」(19節)、主は戦利品を持ち帰ることをお認にならなかったにも拘らず、サウルは優れた良いものをお捧げしさえすればよいと考えたのです。23節以降に「主の御言葉を退けたあなたは 王位から退けられる」「あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けたのだ」と記されているとおりです。
そんなサウルのことを悲しみ、不安を抱いていた預言者サムエルは、新しい王の選び出しのため「出かけなさい」と主がおっしゃったとき、「どうしてわたしが行けましょうか」とためらいます。サウル王がそのことを聞きつけ、自分を殺すかもしれなかったからです。しかしそれでもサムエルは、主の「なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」と、お命じになられたお言葉に聞き従います。サムエルも自分の思いというものはあったわけですけれども、このサムエル記全体を通してサムエルは何時如何なる時にも、主の御声に聞き従ったことが分かります。それはサウルとは対照的です。
15章22節に主の御言葉がこう記されています。「主が喜ばれのは焼き尽くす献げものやいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにもまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」
どんな捧げものにもまさって、主の御声に聞き従って生きることこそが重要なのです。
さて、サムエルは主に命じられたとおり「エッサイとその息子たちに身を清めて、いけにえの会食に来るように」と招きます。主は先にサムエルに「わたしはそのエッサイの息子たちの中に、王となるべき者を見出した」「あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」と命じていました。
彼らがやって来ると、まずサムエルは長子であったエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だと思いました。ところが、主はサムエルに、7節「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間を見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われます。
続く、アビナダブ、シャンマと年長から7番目の息子までエッサイはサムエルの前を通らせますが、そのだれも主が選ばれることはなかったのです。
そこでサムエルはエッサイに、「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねます。エッサイは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と答え、彼にそこに呼ばれていなかった8番目の息子がいたことが判明します。
さて、エッサイはどうしてその末っ子をサムエルのもとに呼ばなかったのでしょうか?想像するに、末の息子はまだそのような場に連れて来るほどのものではない。まだ他の兄弟たちに比べると彼は如何にも未熟な者だから、というような人間的な思いが働いたからではないでしょうか。しかし、主のご計画は人の思い及ぶものではありません。5節にあるように「サムエルはエッサイとすべての息子たちをいけにえの会食に招いた」はずでした。末っ子は残しておけなどと主は一言もおっしゃっていないのに、エッサイは人間的な判断で末っ子のダビデを残して来たのであります。
主は「容姿や背の高さに目を向けるな」と言われます。「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」ここの「人は目に映ることを見る」を新改訳聖書では「人はうわべを見る」と訳しています。それはエッサイだけでなく私たちも自分の経験や知識で人を判断したり、うわべでしか見ていない、見えていない、そういうことが往々にしてあるのではないでしょうか。
7節にあるように当初預言者サムエルでさえも、エッサイの長子「エリアブに目をとめ、彼こそ主の前に油を注がれた者だと、思った」とあるように、世の常識や慣習、人の目に見える判断基準に従って決めようとしていたということです。
そういった人をうわべで見、評価してしまうようなある種の捕われから私たちを解放してくれるのは、主の御言葉です。主に聞き従って生きる。それが如何に大事かということです。サムエルは主の言われた事を思い起こすことで、過った自己判断から免れました。
ところで、本日の7節で「主は心によって見る」とおっしゃったその意味について、もう少し考えてみたいと思います。
不思議に思いますのは、7節で「容姿や背の高さに目を向けるな」と主が言われているのに、実際に選ばれたエッサイの末っ子は「血色が良く、目が美しく、姿も立派であった」と記されている点です。これって主が言われた事と一見矛盾しているようにも思えますが、そうではありません。主はおっしゃるように、その子の心を見られたのです。
そこでよく言われるのは、末っ子のダビデの信仰が他の兄弟たちよりも厚かったということです。しかしそれについては何も記されていませんので、分かりません。まあその後、ダビデはサウル王に気に入られて王に仕える者となるのですが、彼はそのかたわらずっと続けてきた父エッサイの羊の世話を引き続き守っているのですね(17章16節)。そういうダビデの忠実さについて知る事はできますけれども、彼の心を主がどのように御覧になったか、ということについては分からないのです。
ただ想像してみますに、恐らくダビデ本人は、どうして自分が招かれたのか知るよしもなかったのでしょう。まあお兄さんたちは年齢や人生の経験があったから選ばれてもおかしくなかったでしょう。そういった意味では、ダビデには野心など何もなかったのです。これまで7人の兄の存在の陰に隠れて、その権利や利益のすべてが年長者から順に優先されて何でも後回しにされてきたわけです。そういう中で末っ子の彼は未熟者、半人前と見られ、見下されるような存在として扱われることも多かったのではないでしょうか。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(ペトロ一5章5節)。高慢な者はサウル王がそうなってしまったように、主よりも自分の力や能力に頼り、自分の思いや考えを主の言葉より優先させてるようになっていきます。しかし、末っ子のダビデにはある意味そういうものは何も持っていませんでしたから、全てに対して自由であったように思えます。
さて、そうして主はエッサイの末っ子であったダビデを選び、預言者サムエルによって油注ぎが行われ、ダビデはサウル王の後継の王として立てられていくことになります。
その主の選びと油注ぎの後から、「主の霊が激しくダビデに降るようになった」と記されています。まさに、そこからダビデは「主によって」王として立てられていくのです。
今日のこの箇所から、私たちも主の御声、聖書の命の言葉に聞き従う者、また「主によって立てられていく者」とされてゆきたいと願います。
最後に申命記7章6節以降を読んで宣教を閉じます。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、主の力ある御手をもってあなたたちを導き出し、救い出されたのである。」