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愛に生かされ、愛に生きる

2017-01-15 17:03:25 | メッセージ
主日礼拝宣教 マタイ7:7~12

今週の火曜日は阪神淡路大震災から22年目を迎えます。関西地方教会連合では、この出来事が風化し忘れ去られことのないようにと、毎年この日に集会が守られています。昨年は日曜日でしたので集会がもたれず、教会の礼拝で祈りに覚えましたが。今年は17日午前10時半から宝塚バプテスト教会において「1・17祈念礼拝」が行なわれます。時間の許される方はご出席ください。震災に遭われた人、又震災の出来事を知らない人も、ともに祈りを合わせて、この震災から今も問われ、求められている課題を覚え合うことができたらとの願いを込めて「1・17の祈り」を連合役員協働で作成されたものを、先に礼拝で覚えて祈りを合わせました。
新聞等によれば震災から22年も経ちながら、被災地の兵庫において未だに震災の影響を受けた方々が昨年60人以上もおられた、という悲しい現実を知らされ、心が痛みます。その中にはいわゆる孤独死なさった方々も多くおられたようです。被災者が入居されている集合住宅から行政支援の期限が切れるということで、あてもないまま出て行かざるを得ない状況に追い込まれている、そういう何ともやるせない問題も出てきています。私たちの中にも御自身、あるいはご親族、知人が被災された方々がおられます。
東日本大震災、また熊本地震もそうでしょうが、こうして機会あるごと当事者の声に耳を傾け、たとえ細々とでも覚え続けるというのは、ほんとうに大切な事だと思います。
多くの人が自分を守ることで精一杯という大変厳しさの増す社会状況の中で、主は私たちに何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。

本日は「愛に生かされ、生きる」と題して、マタイ7章7~12節より御言葉に聞いていきたいと思います。
まず、主イエスは今日の個所を「山上の説教」の中でお語りになりました。主イエスは、当時、神のみ心から遠く離れてしまったファリサイ派の人々や律法の専門家たちを憂いておられました。「では、弟子であるあなたがたはどう生きるのか」と主イエスは彼らに問いかけお勧めになった。それがこの山上の説教であります。律法の規定を守り教えることに優越感をもち満足しきっていた宗教家たちとは逆に主イエスは、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と語られます。もっと原語のニュアンスに沿えば、「求め続けなさい。探し続けなさい。門をたたき続けなさい」と、主イエスは弟子たちに強く訴えておられるのですね。

この「求める」ということについては大きく2つあると思うのです。
その1つは、願い求めること。「祈り」ですね。もう1つは、求め続けるという、意思とそれに伴う行為、行動です。
その点について、同じ記事が書かれたルカ福音書11章では、「求めなさい、そうすれば与えられる云々・・・まして天の父は『求める』者に聖霊を与えてくださる」となっています。そこで強調されているのは、「神さまに向かって真剣に祈る者に、まさに神さまの力あるお働き、聖霊が臨まれる」というダイレクトな祈りについてのメッセージとなっています。

一方、今日のマタイ福音書では、主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる云々と語られた言葉の後に、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃっています。つまり祈りとはそのようにアクション、意思をもって自ら行い続けるように招かれているんですね。これこそ「律法と預言者である」。つまり神の御心、神の愛に応えて生きる。ここにマタイの福音書の主イエスの重要なメッセージがあります。

よく「求めよ、さらば与えられん」という聖書の御言葉は、キリスト教会の看板に掲げられていたりします。私もこの御言葉に実際、大変励ましを受けたり、又強められてきた一人であります。皆さまも、主に祈り求める中で、主が祈りに答えてくださったという体験はきっとおありでしょう。
同時に、祈ったら猫も杓子も何でも思い通りにかなうというものではありません。祈りは何でも願いをかなえる、というようなうさん臭い魔法の杖ではなく、私たちにとってもっとよいものを知っておられる、生きた神さまとの対話であります。お願いしっぱなしというのではなく、神さまの御心を知り、それを受け取って生きるのです。
それに近い祈りがあります。使徒パウロはフィリピの信徒へ書き送った手紙にその祈りがありますので、ご紹介します。フィリピ1章9節以降です。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
 祈りは、生きた神さまとの関係性の中でゆたかに育まれていくものなのであります。

今日主イエスは、「祈り」についてもう一つ大切なことを私たちに示しています。
それは、私は「何のために」主に祈り求めているのか。あるいは、私は「何を」主に祈り求めているのか、ということです。自分のために祈る。求める。人はそうしないではおれないし、主イエスは必要を父なる神に積極的に祈り求めるように勧めておられますけれども、主はさらなるゆたかさへと私たちを招かれます。
それは、私の求めが私ごとに終始するのではなく、「私たち」の事柄とされていく。
そういう求め、そういう祈りへの招きです。先ほど使徒パウロの祈りをお読みしましたように。

私たちの大阪教会は、今年度「祈りの教会」というテーマをもって一年を共にあみたい、と願っております。ある方から私に「祈り」についての問いかけのようなお尋ねがありました。
それは、「私たちが教会の方々のことを祈る場合、ただ名前を呼んで祈るのと、その相手の方について知り、課題についても具体的に覚えて祈るのとは、ずいぶん祈りが変わってくるのではないでしょうか」という趣旨のものです。
相手の必要を把握していれば祈りも具体的なものになっていきます。自分の求めに留まらず、隣人、他者の求めを知り、思いを寄せて祈り合う。主イエスの招きによってそういう「祈りの家」であり続けるなら、またさらにその祈り合いが広がっていくならば、生きたキリストの教会として愛の証しとなっていくことでしょう。

さて、今回、1・17の祈りを諸教会・伝道所の方々にも、ぜひ祈りに覚えていただければと願い、可能な限り全国に発信させて頂きました。すると、九州や北海道の教会の方々から、次のようなメールが返ってきました。「週報に載せて共に祈ります」「大変な事だったことを思い起こし、いろんな傷や痛みを今も背負っておられる方々を覚えて祈ります」「礼拝の中で、少しアレンジして祈りに覚えたい」などとうれしい応答メッセージが届きました。こうして私たち関西地方の教会伝道所が覚えて祈っている具体的な課題を、全国の諸教会に知っていただいたことで、関西の教会だけの祈りにとどまらず、全国の教会の方々が関心をもって頂く祈りに広がっていった。共有して頂くこととなったんですね。ちょうど先週ここの「求めよ、さらば与えられん」というお言葉を思い巡らしていたわけですが。それはまさにこの「求め」の終わりが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉で締め括られていることに改めて気づかされる出来事でした。

「律法と預言者の本質」。それは生きた神さまとの関係性であり、隣人を自分のことのように愛するという求め、祈り。意志と実践です。宗教家や学者たちは律法の規律や遵守していることのプライドに囚われ、逆に律法と預言者の本質を見失っていたといえます。これは教会でも、又クリスチャンであっても、あまりにクリスチャンはかくあるべきというのを自分ばかりか、人にも要求したり、教会に対しても組織や人の動向、能力への依存を優先させてしまうと、動揺に愛の本質を見失ってしまう。そういう危険性があることを知らなければなりません。
主イエスの弟子たちに向けての教え、それは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。これこそ律法と預言者だ、という愛の教えであります。私たちはその教えの実体が主イエスのご生涯であり、十字架と苦難、その死によって身をもって示されたことを知っています。私たちはその弟子として神の愛に倣うようにと、招かれているのですね。
同じ山上の説教のマタイ5章に、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださる」とございます。
 主イエスは、弟子たち、また私たちに、「天のお父様の子」として生きるように、その御心を思って、敵味方の垣根さえ越えて神の国を求めるようにお教えになっています。

しかし、その要求に対して、私たちは自分の力や業で応えうるものを持ち合わせていないことを知らされます。どうして許せないような人を許し、敵対してくるような人のために祈れますか。感情をもつ私たち、人間的には無理な話です。そんな時、愛は自分のうちに探しても見つからないことに気づくでしょう。それはもうイエスさまがこの自分を十字架から執り成されるお姿を日毎に見上げながら、「求め続け、探し続け、門をたたき続け」ないと出来ることではありません。しかし、そういう迫りの中で神の愛を求め続けていくとき、実はほかならぬ私自身が生きた神さまにつながり、その愛に生きる者として育まれていくのであります。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御教えに少しでも具体性をもって生きていきたい。そんな求めと祈り、願いこそが、他のどんな修養を積むことに優って私たちをキリストの弟子とし、キリストの教会とされることを信じます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、」「何でも」ですから、特別でなくてもいい。日常の生活の中で、身近なことから、具体的に祈り求め続けることです。
きっと、そこにゆたかな実りある証が立てられていくことでしょう。今日もここから、私たち一人ひとり、キリストの使者として遣わされてまいりましょう。
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