礼拝宣教 ガラテヤ4章8-20節
① 「神の先立つ恵み」
本日はガラテヤ4章より「福音の真理に立ち返れ!」と題して、御言葉に聞いていますが。今回もパウロのガラテヤの信徒たちに向けた語調は厳しいものであります。その理由について、8節~10節でパウロはこう述べます。
「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろんな日、月、時節、年などを守っています。」
日、月、時節、年とは、そういうものによる占いや迷信のことです。
ガラテヤの信徒たちはかつて、天地万物をお造りになり一切をつかさどっておられる、ただ唯一の神さまを知りませんでした。
天体の動きや、木や石、それらを刻んだ像など、目に見える物質的なものを神々として崇拝していたのです。
それは、万物の造り主であり、世界をすべ治めておられるほんとうの神さまが、すべての人を愛していてくださることを知らなかったからです。それで彼らは、虚しいものを神のようにして依り頼んでいくほかなかったのです。
わたしたちも、かつてはそうではなかったでしょうか。
しかし、彼らはガラテヤに滞在中であった使徒パウロから「福音の真理」を聞くことによって、すべてのみなもとであられる父なる神を知りました。そして罪から贖(あがない)いだしてくださる神の御子イエス・キリストによって父なる神と和解をして、聖霊を受け、あらゆる偶像や諸霊の下から解放されたのです。
パウロは、ガラテヤの信徒たちに「今は神を知っている」と言ったすぐ後に、「いや、むしろ神から知られている」と言い直します。
人の理解には限りがあり、時に間違いや思い込み、知っているようで実は何もわかっていなかったということが多くあるものです。
ガラテヤの人たち、まあ、わたしたちもそうですが。自分の理解で「神を知っている」なんて言うことはたいへん傲慢なことといえますね。
まず何よりも神さまご自身がわたしたちを知っていてくださり、目を留めていてくださる。
この「人間の力や働きによるものではない、どこまでも神さまからの救いの出来事である」ということ。それこそが「福音の真理」なのであります。
② 「再び囚われた生き方へ」
使徒パウロは、そのような神さまからの救いの出来事に与ったガラテヤの信徒たちに、「なぜ、あの無力で頼りにならない、いやそれどころかあなたたちを支配しまどわし、引きずり回すような諸霊のもとに逆戻りして、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのか」と嘆きます。
ここでパウロは「今また、あなた方は、いろんな日、月、時節、年などを守っています」と先にも申しましたけれども。このガラテヤをはじめ、異教的世界においてはこうした日、月、時節、年といったもの、星や天体の巡りによって何か人の運命や人生が影響を受けているように考えて、それらを崇拝したり、呪術師から聞いたことに自分の行動や考え方が囚われて、人生が支配されている。それらの奴隷となっている。そういうことが、まあこれは現代でもよくあっていることでしょう。
たとえば、日本でも一年で昼と夜が半々になる彼岸や、祖先を供養する日として重んじられている盆などは、その日を守らず墓参りや供養をしなかったら、先祖がたたり、疫病神が取りつくということが主張されれば、それはまさにそういった時節や日による言い伝えが人の心を縛っていくことに他なりませんね。
子孫がそのような目に遭うことを本当に先祖が願っているのでしょう。もしそうであるとするなら、そのような先祖とは私にとって一体何なのかと思いますが。
私たちの日本には他にも厄年や仏滅、大安吉日、友引といった暦があり、断固それを守っている方もおられるでしょう。又、5月から元号が「平成」から「令和」にかわりましたが、元号は天皇が時間や歴史を支配していることを表します。
昭和天皇は敗戦後、自らご自分は神ではないと公言なさいました。すべての時間と空間、歴史を支配できるお方は、天地万物をお造りになられ、導かれる、主なる神さまのほかにおられません。
太陽も月も星も主なる神さまがお造りになられたものです。
わたしたちは主イエス・キリストによって本当の力ある存在であられるお方に直接祈ることが許されています。その方に確かな道を導かれる平安を頂いているのですね。虚しい占いや諸悪の霊から解放されていることに、ただ感謝であります。
さて、今日のところでは、一度異教的世界から救い主イエス・キリストを信じ、解放を受けたガラテヤの信徒たちが、律法主義的クリスチャンの影響を受けて、ユダヤの律法の細かな日、時節に定められた祭りごと、新月祭、過ぎ越し祭、新年祭、安息日を守らなければ救われないというような呪縛に囚われていったということです。
神さまは御ひとり子、主イエス・キリストを人間の罪の贖いとして十字架に引き渡され、そうして私たちは信仰によって救われています。それは完全な主の救いの業であって、信じた私たちは、もうその完全な救いの中に入れられているのです。
ところが、ガラテヤの信徒たちは、信仰によってその御救いに与っていたにも拘わらず、
人間の取り決めた日や祭りごとを守らなければ救われないというような、神さまの尊い犠牲を台無しにしてしまうような惑わしによって、主への信仰を失いつつあったのです。
パウロは彼らに言います。「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」
パウロはガラテヤの教会と信徒たちに対して強い危機感を持ったのですね。(私たちの教会は日本バプテスト連盟に加盟しておりそのことによって相互の見守りがあるということはありがたいことですが。)
教会も孤立しますとどこか独善的になってしまい、福音の本質さえ揺らぐことが起こりかねません。ともに吟味し、互いに祈りあう、主にある関係性はすばらしい主のたまものだと思います。
③ 「ガラテヤの信徒たちとパウロの関係」
さて、12節以降から、パウロはガラテヤの人たちとの出会いを回想していますが。
そこで「体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。
(療養のため立ち寄ったガラテヤでパウロは伝道することとなったのですが)そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスでもあるかのように、受け入れてくれました。(中略)あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してわたしに与えようとしたのです」と記しています。
パウロは病を、しかもそれは伝道する相手が躓きを覚えるくらいの状況を抱えていたようです。
古代の異教社会にあって病気は、悪霊の仕業によるものとされ、病気にかかった人は、悪霊に取りつかれた人間と見なされたのです。
まあそのような病を抱えていたパウロに対してガラテヤの人たちは、神に選ばれ使徒とされたのなら、なんでこんなことになっているんだと「さげすんだり」「忌み嫌ったり」はしなかったのですね。。
むしろ彼らはそのパウロのその弱く見苦しい姿につまずくどころか、彼を主ご自身であるかのように迎え入れることを幸いとし、自分たちの目を使徒パウロのために差し出したい程の気持ちをもっていたというのです。
そういう中でパウロが伝えていったイエス・キリストの福音はガラテヤの人たちのうちに広がり、教会が形作られていき、ゆたかに分かち合われていくことになったのです。
ところが、パウロがそのガラテヤの信徒たちとその群れを後にしてから、ユダヤ人の律法主義的クリスチャンの一部の人たちがガラテヤの信徒の群れに入り込み、主イエスの贖いのまったき御業、完全な救いという福音の真理とは異なる教えを説き、次第にガラテヤの信徒たちは彼らの教えに影響され、割礼やユダヤの教えと祭儀を守らなければ滅びる、救われないという教えに傾いてしまうのです。
クリスチャンでありながらユダヤの律法主義者である彼らにガラテヤの信徒たちは
うまく取り込まれてしまい、何と自分たちの信仰の導き手であり、信仰の父であった使徒パウロに対しても、「律法を守らないのはおかしい」と言う否定的な見方するようになったのです。
あれほど主イエスの十字架の福音による感謝と喜びと愛に満ちた日々は、いったいどこへ行ってしまったのか、それはどんなにかパウロは悲しませたでしょう。
このようなガラテヤの信徒を取り込んでいった、律法的考え方や又その熱心さによる自己達成によって救いを得るというような考え方は、現代のキリスト教会においても気をつけなければならないことでしょう。これは残念なことに案外生真面目で、熱心な人が陥りやすいんですね。
パウロもイエスさまと出会う前熱心な律法の子でありましたから、神のためにと粋がり、その熱心さ余って激しく繰り返し、ユダヤ教以外の人たちを迫害していたのです。
けれども実は自分が熱心に迫害していたのは、神の救いのご計画である主イエス、救い主であった。
そこからパウロは主を自分の救い主として一生涯依り頼んでいくクリスチャンと主から新しく造り変えられて、その主イエス・キリストの福音を異邦人世界の人々に伝え、証しするものとされたのですね。
まあここで誤解してもらっては困るのは、「熱心」になるということ自体悪いことではありません。むしろ素晴らしいことです。
ただこの熱心がどこに向いているか、それが問題なのです。
方向性が大事なんですね。
ここでは律法を守らねば、これこれをしなければ、そうしなければ救われない、そういう「熱心」は、自分にその方向性が向いていて、それは出来なければ自分を責め、出来ているように思えば高慢になってしまう。そうして自分だけでなく、人までも裁いていくことになってしまうのです。こうした類の熱心の出所は、往々にして自己中心の思いから生じるものであって、そこには虚栄心や嫉妬であったり、妬みよる働きによるものです。
主イエスに出会う前のパウロは、超熱心なユダヤ教徒であり、知識や業績を兼ね備えて
いたエリートでした。が、彼のそういった自我の意識が民衆を引きつけていたキリスト教会と信徒に対する嫉妬や妬みが激しい迫害という罪の力となったんですね。
けれど主イエスの福音に満たされたパウロの熱心さは、その方向性が神の愛に基づくものとして、主にある兄弟姉妹への愛に方向づけられていくのですね。
その熱心は自己中心的なものではなく神への愛、隣人愛という方向性をもって、ほんとうに人を生かす力が働くんですね。
④ 「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」
殊にパウロはある意味、ガラテヤの信徒たちの霊の親、信仰の父でありましたから19節以降で、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と言っています。
病に苦しみつつ愛を持ってキリストの福音を伝え、産みの苦しみを経て誕生したガラテヤの教会です。主イエスは彼らのうちに住まわれていました。
ところがキリストの救いのお姿、十字架のお姿が見当たらない。代わりに律法やまつりごとが重んじられています。
それでも、使徒パウロはあきらめません。
その方向性がはっきりしているからです。
「わたしの子供たちよ、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」
パウロは再び彼らの内に「キリストが形づくられ」る、その救いと恵みの回復を切に祈りながら訴えているのです。
最後に、今日のこの4章を読みながら思います事は、わたしたちもある意味このガラテヤの信徒たちのように、異教的な文化や慣習を背後にもちながら育つ中で、主イエスの福音と出会い主なる神に知られ、見出されて救われたものでありますが。まあ私たちそれぞれが主の御救いに与っていくまでには、その背後で、どれだけの信仰の諸先輩方また霊の親や家族、教会の兄弟姉妹の祈りと支えがあったことでしょう。また教会の寛容な受け入れとお許しの中で主イエスの十字架と復活の福音に育まれ救われてきたことを私自身忘れるわけにはいきません。
けれども、信仰の歩み、教会生活が長くなっていきますと、ややともしますと、ある意味律法主義的に何々しなければクリスチャンではないとか。あるいは、であらねばならないと。そういった縛りを自他共に課していたりしていないでしょうか。
これは祈祷会で出た話でしたが、ある教会でクリスチャンは兄の葬儀に出てはいけないと言われて、家族の葬儀には出れないのかと悩んだと言うお話を伺いちょっと驚きましたが。あるいは家に仏壇や神棚、位牌があるから撤去したり焼いてしまうことを強要していくような教会もあるようですが。こういった、「~あらねばならない」と言う杓子定規に凝り固まった教えがどれほど主イエスの恵みの福音、救いの良き知らせを曇らせているかと思います。
わたしたちは本当に救われているならどうしたら良いか直接神さまに、ご聖霊にご相談し、聖書から御言葉を聴き取って、信仰によって選びとって行けば良いのです。
決められたとおりのことに従うのではなく、主なる神さまと向き合い、一対一の対話をもって主に求めていくわたしたちの信仰を、主は知っていてくださり、最善をお導きくださるのです。
いずれにしろ、私たちも弱く、つまずきやすいものには変わりありません。であればこそのさらのこと、主イエス・キリストが私たちの内に形づくられ、キリストが活き活きと生きてくださる必要がございます。どんな時でも主イエスの十字架における贖いと復活の新しい命に満たされた私たち一人一人、この大阪教会でありたいと願います。
今週も、今日の福音の御言葉をもってそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。
祈ります。
フィリピ3章9節b-11節