主日礼拝宣教 出エジプト記20章1ー17
本日は敬老感謝をおぼえつつ礼拝をお捧げしております。
私たちの大阪教会には70歳以上の方が19名おられますが。今年はコロナ禍のために様々な状況から、出席したくてもできないという方々もおられることと存じます。礼拝の招きのことばとして詩編90篇から、「千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」との御言葉が読まれました。その90篇には、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が80年を数える」とありますけれども。今日の日本においては90歳、100歳というご高齢の方々が身近なところでも多くおられるようになり、今後教会でもますます増えていらっしゃるでしょう。礼拝と祈祷会に欠かさずご出席なさるSさんが、よく「この礼拝、祈祷会が元気のもとです」とおっしゃるのを私は大変うれしい思いでお聞きするわけですが。
8月より出エジプト記を読んでいますけれども、イスラエルの民が囚われのエジプトを出て、荒れ野の40年を旅するうちに、当然のことですが民の、第一世代の人たちが高齢となっていきます。民を先導するモーセやアロンも指導者として神の召命を受けた時、すでに80歳でしたけれども、モーセについて言えば120歳で生涯を終えるまで、彼の眼はかすまず、気力も衰えなかったとあります。けれども、だれもが言うまでもそういうわけにはいきません。険しい荒れ野を旅するうえでいつも、民のうちの高齢者のことを考えながら、彼らは宿営の旅を続けていったのではないかと思うのです。私共も昨今の大変な状況の中で、なお健やかに生涯の日を正しく数え続けていくにはどうしたらよいのかご一緒に祈り、考えながら共に実りある日々を歩んでまいりたいと願っております。
さて、本日は出エジプト記20章の「十戒」の箇所。「解放された者の道」と題し、主の言葉に聞いていきますが。神さまはこれらの十の戒めを授けるに当って、2節で、まずイスラエルの民に次のように語られていることに注目したいと思います。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。
神さまはイスラエルの民に対して、わたしとあなたとの一対一の関係で、「わたしは奴隷の家からあなたを導き出して自由にした。わたしはあなたの神である」と宣言しておられるということです。エジプトの国ではファラオ(王)が主(神)のように崇められていました。そこではイスラエルの民は自由を奪われ、ただ奴隷のように扱われ、苦役を負わされるほかありませんでした。神さまはその奴隷の家からご自身の民を解放し、導き出されたのです。
この十の戒めの前半の「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それに仕えたりしてはならない」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を心に留め、これを聖別せよ」との4つの戒めは、その救いの神さまに対するものであります。神さまと私との一対一、汝と我という関係性。それがまず、救いに与って生きる者の人生の基盤になっていくのであります。私たちキリスト者も、主イエスが全人類の罪を取り除く神の小羊として十字架にお架かりになって、尊い御血を流し、御体を裂かれたことによって、罪の囚われから解放を受けた者であります。主イエス・キリストにある神との和解。そこにおかれた汝と我という関係性こそが、主の御救いに与って生きる私たちの人生の基盤なのです。まずこの主の呼びかけに応えて生きる者でありたいと願うものです。
後半の「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」の6つの戒めは人に対するものであります。この10の戒めのうち「安息日を覚え、聖とせよ」「父母を敬え」以外は「~してはならない」と言う否定的な禁止命令であります。まあ、このように「してはいけません」と言われることに堅苦しい印象を持たれる方も少なくないのではないでしょうか。しかしそうではありません。その真意は、主の御救いによって自由の身となって解放された者は、その主の深い愛と憐れみを知ることのゆえに、「もはやそのようにはしないであろう」ということであります。いわば神さまの私たちに対する期待がそこにこめられているのであります。
まあこのように見てまいりますと、この10戒は、主の過越しという贖いによって解放された者が神の宝の民とされ、祝福のうちに生きるようにという招きのことばと言えるのではないでしょうか。その神さまの御意志が強く表明されているのが5-6節のところかと思います。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしに戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。
わたしを否む者には父祖の罪を四代まで問うという何とも厳しい断罪、裁きが語られておりますが。その一方で、わたし戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与えるという祝福の約束が語られております。けれども考えてみますと、罪を問われる者への三代、四代というのと、戒めを守る者への慈しみが幾千代というこのあまりにも大きな祝福の違いであります。その祝福の中心にあるのが、神の「熱情」とまでおっしゃるその「愛」であります。 それは、自由の身とされた民が再び奴隷のくびきを担い、囚われの身となって滅びの道に舞い戻るようなことがないように、熱情の愛をもって神さまはご自身の民を愛しておられるということであります。
わが子がその身に危険を及ぼすような行為をしたり、人に危害を及ぼすような行為をしたら、親は厳しくわが子を叱り、その過ちに気づくようにさとすのではないでしょうか。神さまは親がその子をさとすように私たちをいつくしんで下さるお方なのです。
私の母は私が物心つくようになった時期には今で言うシングルマザー、寡婦となって女手一つで私と妹を育ててくれました。私も小さい頃はやんちゃだったようで、幼稚園か小学1,2年頃、言う事を聞かないということで、時々「やいと」をすえられたものでした。文字通り手をやいた子だったわけですが。これは痛かった怖い母の思い出ですが。そんな母ですが私と妹を育て、生活するために本当にいろんな仕事を転々とし、多くの労苦を負ってくれていたということが、恥ずかしながら青少年期になってやっとわかるようになりました。やがてそういう母が年老いていき、だんだん小さくなっていき、弱くなっていくその姿を見るようになると、どこか寂しい思いにもなりました。が、この母の愛と支えがなかったなら、今の自分はなかった。自慢の母でした。 先週木曜日、救急搬送されていた病院から意識がなく、脈と呼吸が弱くなったという連絡が入り、急きょ看取りの覚悟を決め新幹線に飛び乗って小倉に向かうも、なんとその途上でもう母は亡くなっていました。悔しいという思いでいっぱいになりました。
コロナ禍の3月末に小倉の特養のホームのガラス越しに母の顔を見たのを最後に、ずっと会う事もできず、そして最期の看取りも叶いませんでした。 しかし思えば、小倉の南ヶ丘の家で母が一人のとき、認知症が進んで徘徊を繰り返すようになり、ある時には路上に低体温のまま倒れているところ、心ある方が救急車を呼んでくださったり、又ある時は高速道路を1人でさまよい歩いているところ保護されたりと、これまで何度も母は死にかかっては命拾いするということがあったのです。そのころは妹に大変な負担をかけました。まあ、いろんな方々に助けとお支えを頂いて今日まで来れたんです。あらためて、母は幸せだったのではないかとそう思えるようになりました。私には正直実はまだ母が亡くなったという実感がありません。まだ生きているという実感しかないのです。おそらく今後、ああ、もう母は地上にいないということに気づくのかとも思えますが・・・葬儀は昨日でしたが、私が式をさせていただきました。それはまだある程度会話ができていた生前、思い切って母に亡くなったときのためのお話をして、母は自分の宗教観があったわけですが、それでも「式はお願いするね」ということになったからです。私が高校生の時にバプテスマを受ける決心を母に話した時も、仕事を辞めて神学校に行くため小倉を離れて大阪に旅立った時も、心配しながらも理解を示して送り出してくれた母でした。牧師になった時も誰より喜んでくれたのはやはり母だったと思います。ただ感謝しかありません。
今日は敬老感謝を覚えての礼拝を捧げておりますが。十の戒で、人に対して最初に語られたものが「あなたの父と母を敬え」という主の御言葉なのです。また、この「あなたの父と母」とは、モーセに先導された民の同胞、神の家族にある霊的な父母であるとうことでもあります。具体的に私たちにとりましてそれは、主にあるこの教会の人生の諸先輩、信仰の先達、キリストにある父母であるということであります。この御言葉には、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」とありますように、信仰の先達によってこの教会が守られ70年、主の証が立てられてきた。その上に今の私たちの教会があり、信仰の恵みが分かち合われ続けているのです。そのお一人お一人に敬意を払いつつ、祝福と御守りとを祈り、覚えてまいりましょう。十の戒めは、人を縛り拘束するためにあるものではなく、奴隷の身から自由の身とされた神の民が、神の熱情の愛を知ること。その愛なる神を第一とし、神の愛に倣って他者を自分のように大切にして愛するなら、個々人のみならず共同体全体の祝福と平安が伴う。その神さまの宣言なのであります。新約の時至って、神は御独り子を十字架におかけになってまで、私たち罪深い者が救われるために、その熱情の愛を示してくださいました。
この主の恵みに応え、今週も御前に正しく人生の日々を数えてまいりましょう。