礼拝宣教 出エジプト記12:29-42
先週は、午前の祈祷会には初めて教会を訪れたというご年配の女性の方がいらっしゃいましたが、その方は以前からお寺参りで教会の前をその都度通っておられたそうですが、その水曜日の朝目覚めた時、声が聞こえて「この教会へ行くとよい、そこにあなたの心安らぐ居場所があるから」といわれたそうです。それで今日こちらに参りましたが、訪ねてよかった、来週の水曜日も来たいということでした。私たちが教会に集うのはこの主の日と水曜日だけであっても、主は昼夜問わずこの前を通る人に目を留め、導いておられるのですね。
本日は「寝ずの番をされる神」と題して出エジプト記12章29節-42節のメッセージに聞いていきたいと思います。
ここにはイスラエルの民がいよいよエジプトの奴隷生活から解放されていく大きな出来事となった10番目の災いについて記されているわけですが。それは、エジプトの国のすべての初子が死んでしまうという大変厳しく痛ましい災いでありました。
このことでイスラエルの民は解放されることとなるのであります。「エジプトの国の中には、子を失ったエジプト人の大いなる叫びが起こった」のです。ファラオは確かに頑なでした。モーセらがどんなに主に礼拝を捧げるために荒野に行かせてほしいと言っても、行かせようとはしませんでした。そのため9度も主の警告と災いとがエジプトに及んでも、なお「主とは何者か」「どうして言うことを聞かねばならないのか」と拒み続けてきたのです。けれども、それだからといって何の罪もないように思えるエジプト中の初子が死ななければならなかったのはなぜなのだろうと考えてしまいます。
しかし、ここに至るまでの記事を読みますと、ファラオはイスラエル人が力を持つことを恐れ、非情にも生まれて来たイスラエルの男の赤ん坊をすべて殺せ、川に投げ棄てろと命じ、イスラエルの民に過酷な労働を課せ、不当に虐げ続けてきたのです。エジプトの人々も又、ファラオのあたかも自らを神のように誇り高ぶるその権力の下で、イスラエルの人々の労働力に甘んじ、その人々の生活と命に対し無関心と非情であったのではないでしょうか。
隣人の命を蔑ろにし続けてきた事への結果がこの様な形として表れてき、裁きを招いた、といえるのかも知れません。
話は変りますが、K姉の告別式でご長女のN姉のご主人のお父様とお話する機会がありました。この方は私と同郷で他の宗教を信じておられますが、話は孫たち世代の将来の日本についてといささか大きな話題になりまして、この方は昨今の「集団的自衛権」の閣議決定、「安全保障法制案」が採決されようとしている時代状況からしきりに私に、「やはりさきの大戦での反省と検証を自分たちの世代が踏まえ、それを伝えていかないと、孫やひ孫たちにまた過った道を行かせるはめになる、二度と同じ戦争は繰り返させてはいけない」ということを話してくださいました。たとえ宗教は異なっていましても、いのちの神への畏れといのちの尊厳について、理解し合うことができ心強く、うれしかったですね。「日本国憲法は多くの戦争の犠牲となられた方々の化身だ」と言われた方がございますが。今やその日本国憲法が骨抜きにされ、戦争ができる国へと舵が切られようとしているこの時に、如何に戦争を経験なさった世代の方たちが、殊に9条に込められた平和への願いを伝えていくのか、本当に正念場に来ていると思わされます。
さて、最愛の子を失ったファラオはモーセとアロンにこう言います。
「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしを祝福してもらいたい。」
イスラエルの人々が「荒野に行って主に仕えること」、「主を礼拝すること」を決して認めようとしなかったファラオは、ここにきて遂に「行って、主に仕えるがよい」というのです。それどころか彼は「わたしをも祝福してもらいたい」とモーセに願い出るのですね。自分の愛する子を失ってしまうというその体験がファラオにとって如何に大きなものだったかが伺えます。9度に及ぶ災いにも拘わらずその頑なな心は変らず、益々イスラエルの民を虐げるようなファラオでありましたが。さすがに10番目のこの最愛の子を失うという悲劇は、その王としての後継者を無くすということも相まって骨身に堪える経験となったのでありましょう。
エジプト人たちもファラオ同様、「イスラエルの民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったからである」と記されています。
イスラエルの人々の痛みや苦しみ、嘆きや悲しみを想像もしなかった、あるいは全く無関心であった彼らはこうして自らそれを知る者となったのですね。このようにファラオとその民の心を変えさせたのは他でもない、主ご自身でした。それは裁きの時ではありましたが、彼らにとって神を畏れ、自らを悔改める時ともなったのではないでしょうか。
ファラオは祝福を乞い願い、エジプト人らは求められるままイスラエルの民にすべてを与えた。それは「主は、イスラエルの民がエジプト人に好意を得させるようにされたので」とあるとおり、これもまた主の御業、主の計らいなのです。
ファラオは「行って、主に仕えるがよい」と如何にも権威的口調で許可を与えるのでありますが。最終的に世を治めているのは地上の王・ファラオではなく、主なる神であられます。礼拝者を招かれ、集わしめるのも。導き、救いに与らせ給うのも。人でも、世の権力でもなく、生ける神さまであられるのですね。その神さまのもとに「行って、仕える」。意味じくもファラオが語った言葉には、実は神さまに造られ、生かされている人間にとって、最も大切な務めが示されているのです。
「行って、主に仕える」:それは礼拝を捧げるということです。そしてこの「主に仕える」そのところに、ファラオが「わたしをも祝福してもらいたい」と語っているとおり、私ども人間の「祝福」の基があるのです。「行って、主に仕える」ところに、あらゆる束縛や拘束からの自由と解放があるのです。
エジプトを出たイスラエルの群れの中には、「種々雑多な人々もこれに加わった」と記されています。エジプトにはイスラエルの人々以外にも、苦役を課せられ、奴隷のように虐げられていた人々がいたようです。彼らも自由を奪われ囚われの状態でした。しかし今や、彼らもイスラエルの人々の信仰を受け入れ仲間とされ、主に仕える自由の民とされていったのですね。
クリスチャンもイエス・キリストによって罪からの解放と救いをいただき、新しいいのちを受け、自由の民とされたわけですが。私どもの原点は、その救いの「主に仕える」。そのところに自由と解放があるわけです。この地上において、主に仕えて生きる、というときにほんとうに多くの妨げや、誘惑、試練があるのも確かです。主を礼拝し、主に仕えて生きることを引き止めさせ、世の支配の下にとどめさせようとするような力。主より世の様々なものを優先させていこうとする働き、ファラオの勢力というのでしょうか。そういったものがあるのも事実です。私たちの心は弱く、すぐ萎えてしまいやすいし、熱しやすく冷めやすい罪の性質、弱さがあります。
しかしそのような私どもに対して聖書は、ここに確かな希望を語ります。それは世の力、死の恐れがエジプトを闇のように襲っている最中にも、又、慌ただしく追われるように荒野に踏み出した折にも、主は主の民をエジプトの国から導き出すために「寝ずの番をされた」ということであります。
この「寝ずの番をする」という言葉に、病気になって苦しんだ時に、自分のためにずっとそばにつききりに夜通し看病してくれた存在を思い起こす方もおられるでしょう。逆に、心配で夜も寝ないで看病したとか、ここには看護師さんもいらっしゃいますが、まともに眠れないまま夜勤を朝方までされる方もおられるでしょう。
そのようにここでは、「主がイスラエルの一人ひとりに災いがおよばないように、一昼夜寝ないでその一人ひとりを見守続けてくださった」と語られているのですね。
それは何かイスラエルの人々が立派だからとか、力があるからというのではなく、先週お話しましたように、「彼らは貧弱であったけれども、ただ主の慈しみとそのご真実のゆえに」、神さまは寝ずの番をしてイスラエルの人々を見守り続けて下さったというのです。
そのように今日も主イエスのみ救いにあって、私たちを常に見守り、寝ずの番をしてくださる神が生きて払いておられる。それは、私どもにとりましてどんなに大きな慰めと力であることでしょう。
また聖書はそこで終わらず、主によって解放され自由とされたイスラエルの民は、主ご自身が自分たちにしてくださったことを決して忘れないために、「主のため寝ずの番をして」、その救いと解放の出来事を今日に至るまでおぼえ続けているということです。これが「過越祭」であるのですね。
私たちクリスチャンもまた、「主に仕える」者としてこの世に生かされています。主の御言葉に聞き従い、主に仕えて生きる道のりは決してたやすいことではありません。様々な試練や誘惑、妨げにも遭いますが。しかし、そのような私たちもまた、主から寝ずの番をするがごとく守られ、そして主にある兄弟姉妹から絶えず祈られ続けていることを忘れることなく、自らも目を覚まし祈り執り成し続ける者とされたいと願います。今週も祝福の基である主の御言葉によってここから遣わされてまいりましょう。
最後に詩編121編7-8節を読んで本日の宣教を閉じます。
「主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。」
先週は、午前の祈祷会には初めて教会を訪れたというご年配の女性の方がいらっしゃいましたが、その方は以前からお寺参りで教会の前をその都度通っておられたそうですが、その水曜日の朝目覚めた時、声が聞こえて「この教会へ行くとよい、そこにあなたの心安らぐ居場所があるから」といわれたそうです。それで今日こちらに参りましたが、訪ねてよかった、来週の水曜日も来たいということでした。私たちが教会に集うのはこの主の日と水曜日だけであっても、主は昼夜問わずこの前を通る人に目を留め、導いておられるのですね。
本日は「寝ずの番をされる神」と題して出エジプト記12章29節-42節のメッセージに聞いていきたいと思います。
ここにはイスラエルの民がいよいよエジプトの奴隷生活から解放されていく大きな出来事となった10番目の災いについて記されているわけですが。それは、エジプトの国のすべての初子が死んでしまうという大変厳しく痛ましい災いでありました。
このことでイスラエルの民は解放されることとなるのであります。「エジプトの国の中には、子を失ったエジプト人の大いなる叫びが起こった」のです。ファラオは確かに頑なでした。モーセらがどんなに主に礼拝を捧げるために荒野に行かせてほしいと言っても、行かせようとはしませんでした。そのため9度も主の警告と災いとがエジプトに及んでも、なお「主とは何者か」「どうして言うことを聞かねばならないのか」と拒み続けてきたのです。けれども、それだからといって何の罪もないように思えるエジプト中の初子が死ななければならなかったのはなぜなのだろうと考えてしまいます。
しかし、ここに至るまでの記事を読みますと、ファラオはイスラエル人が力を持つことを恐れ、非情にも生まれて来たイスラエルの男の赤ん坊をすべて殺せ、川に投げ棄てろと命じ、イスラエルの民に過酷な労働を課せ、不当に虐げ続けてきたのです。エジプトの人々も又、ファラオのあたかも自らを神のように誇り高ぶるその権力の下で、イスラエルの人々の労働力に甘んじ、その人々の生活と命に対し無関心と非情であったのではないでしょうか。
隣人の命を蔑ろにし続けてきた事への結果がこの様な形として表れてき、裁きを招いた、といえるのかも知れません。
話は変りますが、K姉の告別式でご長女のN姉のご主人のお父様とお話する機会がありました。この方は私と同郷で他の宗教を信じておられますが、話は孫たち世代の将来の日本についてといささか大きな話題になりまして、この方は昨今の「集団的自衛権」の閣議決定、「安全保障法制案」が採決されようとしている時代状況からしきりに私に、「やはりさきの大戦での反省と検証を自分たちの世代が踏まえ、それを伝えていかないと、孫やひ孫たちにまた過った道を行かせるはめになる、二度と同じ戦争は繰り返させてはいけない」ということを話してくださいました。たとえ宗教は異なっていましても、いのちの神への畏れといのちの尊厳について、理解し合うことができ心強く、うれしかったですね。「日本国憲法は多くの戦争の犠牲となられた方々の化身だ」と言われた方がございますが。今やその日本国憲法が骨抜きにされ、戦争ができる国へと舵が切られようとしているこの時に、如何に戦争を経験なさった世代の方たちが、殊に9条に込められた平和への願いを伝えていくのか、本当に正念場に来ていると思わされます。
さて、最愛の子を失ったファラオはモーセとアロンにこう言います。
「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしを祝福してもらいたい。」
イスラエルの人々が「荒野に行って主に仕えること」、「主を礼拝すること」を決して認めようとしなかったファラオは、ここにきて遂に「行って、主に仕えるがよい」というのです。それどころか彼は「わたしをも祝福してもらいたい」とモーセに願い出るのですね。自分の愛する子を失ってしまうというその体験がファラオにとって如何に大きなものだったかが伺えます。9度に及ぶ災いにも拘わらずその頑なな心は変らず、益々イスラエルの民を虐げるようなファラオでありましたが。さすがに10番目のこの最愛の子を失うという悲劇は、その王としての後継者を無くすということも相まって骨身に堪える経験となったのでありましょう。
エジプト人たちもファラオ同様、「イスラエルの民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったからである」と記されています。
イスラエルの人々の痛みや苦しみ、嘆きや悲しみを想像もしなかった、あるいは全く無関心であった彼らはこうして自らそれを知る者となったのですね。このようにファラオとその民の心を変えさせたのは他でもない、主ご自身でした。それは裁きの時ではありましたが、彼らにとって神を畏れ、自らを悔改める時ともなったのではないでしょうか。
ファラオは祝福を乞い願い、エジプト人らは求められるままイスラエルの民にすべてを与えた。それは「主は、イスラエルの民がエジプト人に好意を得させるようにされたので」とあるとおり、これもまた主の御業、主の計らいなのです。
ファラオは「行って、主に仕えるがよい」と如何にも権威的口調で許可を与えるのでありますが。最終的に世を治めているのは地上の王・ファラオではなく、主なる神であられます。礼拝者を招かれ、集わしめるのも。導き、救いに与らせ給うのも。人でも、世の権力でもなく、生ける神さまであられるのですね。その神さまのもとに「行って、仕える」。意味じくもファラオが語った言葉には、実は神さまに造られ、生かされている人間にとって、最も大切な務めが示されているのです。
「行って、主に仕える」:それは礼拝を捧げるということです。そしてこの「主に仕える」そのところに、ファラオが「わたしをも祝福してもらいたい」と語っているとおり、私ども人間の「祝福」の基があるのです。「行って、主に仕える」ところに、あらゆる束縛や拘束からの自由と解放があるのです。
エジプトを出たイスラエルの群れの中には、「種々雑多な人々もこれに加わった」と記されています。エジプトにはイスラエルの人々以外にも、苦役を課せられ、奴隷のように虐げられていた人々がいたようです。彼らも自由を奪われ囚われの状態でした。しかし今や、彼らもイスラエルの人々の信仰を受け入れ仲間とされ、主に仕える自由の民とされていったのですね。
クリスチャンもイエス・キリストによって罪からの解放と救いをいただき、新しいいのちを受け、自由の民とされたわけですが。私どもの原点は、その救いの「主に仕える」。そのところに自由と解放があるわけです。この地上において、主に仕えて生きる、というときにほんとうに多くの妨げや、誘惑、試練があるのも確かです。主を礼拝し、主に仕えて生きることを引き止めさせ、世の支配の下にとどめさせようとするような力。主より世の様々なものを優先させていこうとする働き、ファラオの勢力というのでしょうか。そういったものがあるのも事実です。私たちの心は弱く、すぐ萎えてしまいやすいし、熱しやすく冷めやすい罪の性質、弱さがあります。
しかしそのような私どもに対して聖書は、ここに確かな希望を語ります。それは世の力、死の恐れがエジプトを闇のように襲っている最中にも、又、慌ただしく追われるように荒野に踏み出した折にも、主は主の民をエジプトの国から導き出すために「寝ずの番をされた」ということであります。
この「寝ずの番をする」という言葉に、病気になって苦しんだ時に、自分のためにずっとそばにつききりに夜通し看病してくれた存在を思い起こす方もおられるでしょう。逆に、心配で夜も寝ないで看病したとか、ここには看護師さんもいらっしゃいますが、まともに眠れないまま夜勤を朝方までされる方もおられるでしょう。
そのようにここでは、「主がイスラエルの一人ひとりに災いがおよばないように、一昼夜寝ないでその一人ひとりを見守続けてくださった」と語られているのですね。
それは何かイスラエルの人々が立派だからとか、力があるからというのではなく、先週お話しましたように、「彼らは貧弱であったけれども、ただ主の慈しみとそのご真実のゆえに」、神さまは寝ずの番をしてイスラエルの人々を見守り続けて下さったというのです。
そのように今日も主イエスのみ救いにあって、私たちを常に見守り、寝ずの番をしてくださる神が生きて払いておられる。それは、私どもにとりましてどんなに大きな慰めと力であることでしょう。
また聖書はそこで終わらず、主によって解放され自由とされたイスラエルの民は、主ご自身が自分たちにしてくださったことを決して忘れないために、「主のため寝ずの番をして」、その救いと解放の出来事を今日に至るまでおぼえ続けているということです。これが「過越祭」であるのですね。
私たちクリスチャンもまた、「主に仕える」者としてこの世に生かされています。主の御言葉に聞き従い、主に仕えて生きる道のりは決してたやすいことではありません。様々な試練や誘惑、妨げにも遭いますが。しかし、そのような私たちもまた、主から寝ずの番をするがごとく守られ、そして主にある兄弟姉妹から絶えず祈られ続けていることを忘れることなく、自らも目を覚まし祈り執り成し続ける者とされたいと願います。今週も祝福の基である主の御言葉によってここから遣わされてまいりましょう。
最後に詩編121編7-8節を読んで本日の宣教を閉じます。
「主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。」