礼拝宣教 エレミヤ31章27-34節
本日はエレミヤ書31章から「新しい契約に生きる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
聖書は新約と旧約とからなっております。そのどちらにも約束の「約」がついていますが。これは契約を意味しております。神が人と契(ちぎ)りを結んだ、約束を交した。聖書は言わばその誓約書であるとも言えるでしょう。
この世の中も「契約」社会として、物を買ったり、保険に加入するにも、家を建てたり住宅を借りるにも、又就職するのにも、相手があり、契約を交わします。大阪教会の会堂建築も建築業者との間で請負契約を互いに取り交わした時は大変緊張しましたが。双方の契約内容は守られ無事完成に至り幸いでありましたが。契約には互いの信頼関係、信用を基にした誠実さが求められます。まああってはならないことですが、契約した約束事に違反するようなことが起これば、契約は破棄されて大変なことになってしまうわけです。旧約聖書の時代、ユダの民は神との契約を軽んじ、自ら滅びを招いてしまいました。祝福をもたらすはずの契約が破綻してしまったのです。しかし神は彼らを見放してはおられませんでした。
なぜ神は、呼びかけにそむき罪に滅びるような民を、なおも導き救いの回復をお与えになるのでしょうか。
今日は神が人と約束された「新しい契約」についての記述から、まず「神の救いの確かさ」を読み取っていきたいと思います。
32章27-28節にこう記されています。「見よ、わたしがイエスエルの家とユダの家に、人の種と動物の種をまく日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる」。
神は打ち砕かれた彼らを回復、復興なさるというのです。
この「見よ、わたしが」とのお言葉には、主なる神さまの力強い再創造の業が宣言されています。そのむかし神は、出エジプトしたイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らが祝福に与るか、滅びに至るか、その契約にかかっていました。
これについて神は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(19章5節~6節)と言われました。
イスラエルとユダの家が神に信頼をし、忠実に従うのなら「神の民」として祝福されるのです。しかしこれに反して不信と背信とに生きるなら、厳しい裁きがなされるという警告がなされたのです。にも拘らずイスラエルの民は、度々その神との契約を軽んじ、欲するままにふるまい続けるのです。このユダの民はエレミヤの再三にわたる「悔い改めよ、主に立ち返れ」という警告にも拘わらず、罪を犯し続け、遂に先の北イスラエル同様、崩壊して捕囚の民となってしまうのです。その彼らの中には、「神に見放された、見捨てられたのだ」と言う者もいました。
しかしそうではありません。神はそのような彼らを断腸の思いをもって「立ち返って命を得よ」と、見守り続けておられたのです。
北イスラエルと南ユダ王国の崩壊で何もかもが終わったように見えました。けれども、そうではなかったのです。神は後に実現する「新しい契約の日」に向け、「今、わたしは彼らを建て、また植えようとして見張っている」とおっしゃるのです。神は決して民から目を離してはおられないのです。たとえ絶望的といえる状態であっても、神は決してお見捨てになることなく、彼らがゆるしの恵みによって新しく創造されていくようにと、見守り導かれようとしておられたのです。
さらに29節を見ますと、「人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」とあります。
国の崩壊と捕囚の惨禍は、確かにその時社会を腐敗させ、又それを容認していた世代の責任とも言えるでしょう。しかし新たな世代は次の時代をどう生きるかが問われているのです。先祖の後を追うように背信の道を行くのか。神に立ち返って生きるのか。それが各人に問われているのです。神は一人ひとりが神に立ち返り、新たな一歩をあゆみゆく者が祝福を受けるようにと望んでおられるのです。私たちも又その祝福に与るものとされてまいりましょう。
さて、その「新たな契約」についてでありますが。
31-33節に「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはわたしの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と語られています。
神さまは新しい契約について、「わたしの律法(御心)を人の胸に授け、人の心にそれを記す」と語られました。エゼキエル書36章26節には、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。」とも語られています。
かつてエジプトから導き出された時に結ばれた神の契約は「十戒」に基づくもので、それは本来神の民とされた彼らが祝福に満ちた世界を築くために与えられた高い倫理性をもった優れた戒めでした。しかいイスラエルの民はその戒めを軽んじ、逆らい続けたのです。再三にわたる預言者たちの「悔い改めよ、神に立ち返れ」との警告に対しても民は聞く耳を持ちませんでした。そうした彼らの不誠実によって遂に始めの契約ははたんしてしまい、北イスラエル王国、そして南ユダの王国は崩壊し、捕囚の民となるのです。
それにも拘わらず神はその民から目を離されることなく、なんと彼らと「新しい契約」を結ぶ日が来る、と予告されるのです。
始めの契約は石に刻まれた戒めが民の指導者モーセを通して授けられましたが。この新しい契約は、「神御自身が彼ら一人ひとりの胸の中に授け、その心に記す」というのが大きな特徴であります。ユダの民はその後、捕囚から解放され、その歴史を省みて心新たに神殿の再建の着手や神への信仰復興へと歩み出します。しかし世の戦いは険しく、民はその後も時代に翻弄されながら、様々な厳しい迫害の時代を経験するのです。
その後(のち)ユダヤの民がローマ帝国の植民地下におかれていた時、遂に神の御子イエス・キリストが世に誕生なさるのです。それはエレミヤ、又エゼキエルといった預言者が、「神自ら人の胸の中に授け、人の心にそれを記す」「新しい心を与え、人のうちに新しい霊をおいて、石のようなかたくなさを打ち砕き、柔らかくしなやかな心を与える」と語られた新しい契約の実現の始まりでした。エレミヤによって語られた預言の言葉は、神の御子イエス・キリストによって実現されていくのです。神によって始められた主の救いの実現の出来事は、今も時代を超え世界のいたるところで、新しい霊をもって人のかたくなな石の心を取り除き、柔らかな肉の心を授け、新しい人に造り変えられる再創造の出来事として起こり続けています。
34節「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。
「主を知る」。それはまさに、神さまの側のお働きと導きであり、聖霊のお取り扱いになされます。「神は生きてお働きになられる」「神はわたしと共におられる」という確信、その信仰の体験によって私たちは神の前に日々新しく創造されていくのです。そこから世にはない喜び、感動が溢れ出てくるのです。
ところで皆さまは聖書の神をどのようなお方であるとイメージするでしょうか。私たちは聖書の中にそのお姿を垣間見ることができるでしょう。創造主、クリエーターなるお方。あるいはご自分の民を教え導き、正しく裁かれる厳格なお方。そうでしょう。
31章3節には「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」。さらに20節「神がエフライム(これは北イスラエルのことですが)、エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにいられないと主は言われる。」とありますように。神さまは「熱情愛をもつ、いつくしみ深いお方である」と言い表されています。
ご自身に逆らい続け、罪の滅びに向かう民に対して、神の愛は常識をはるかに超えています。 わたしは彼を憐れまずにはいられない」と主は言われます。
この神の愛はヘブル語でヘセド、「憐み」と訳されます。それは神さまが人と契約を結ぶときに伴う神の熱情的な愛を意味します。「神はとこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」「彼のゆえに、胸は高鳴りで、わたしは彼を憐れまずにいられない。」お方なのです。
世にあって私たちは様々な困難や苦難があるでしょう。けれどもそれは、神が私たちを子として取り扱っておられるからです。神は試みの中で私たちが神に信頼して生きるように願っておられるのです。これはご自分の宝の民とされるためです。私たちが失敗した時も、弱った時も、もがき苦しむ時も、神は契約に伴う熱情の愛といつくしみで私たちを愛してくださるのです。
かつてイスラエルの民は神に選ばれ宝の民とされました。申命記7章7節によれば、「主が心引かれて選ばれたのは、あなたたちがどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対することのゆえに、」とあります。しかし、民は高慢になり、主のその愛を忘れてしまいました。神の憐れみ、熱情的な愛によらなければ彼らは滅んでしまったことでしょう。
私たち一人ひとりも又、主イエスにある新しい契約のもとこのいつくしみ深い、熱情の神の愛を受けて今を生かされていることを忘れずに日々心新たでいたいものです。
主は言われます。34節「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。
神は罪に滅びるほか無いような人間を深く憐れみ、熱情の愛を注いでいて下さる。私たちはこの事実を主イエスの十字架に血を流されるとてつもない代償によって知り、信じることができます。その大いなる赦し、救いが私どもにももたらされているのです。
この神の熱情の愛が注がれていることを忘れて高慢になることがないように、私たちの胸の中に主の十字架の愛のお姿を刻んで歩んでまいりましょう。日々感謝と賛美をもって、主の良き知らせを伝え、証しするものにされてまいりましょう。新しい契約に与った者として。