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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

新生のいのちの始まり

2025-04-27 14:00:57 | メッセージ
礼拝宣教    マタイ28章16-20節 

先週は主イエスの復活を記念するイースター主日礼拝を共に捧げることができ感謝でした。
突然現れた天使から、「復活なさったのだ」と告げられた2人のマリアは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きます。こんな思いもよらない事が起こったのですから、「恐れ」が起こるのも当然ですが、そういう中でこの女性たちは、「わたしは復活する」と言われたイエスの言葉を思い起こし、信じて「大いに喜び」走り出すのです。復活の主イエスは「信じて大いに喜ぶ」この女性たちと一番最初に出会い、「おはよう。」と、それは喜びがあるようにという意味のあいさつによってご自身を顕されるのです。復活の主イエスは今日も私たちに、「おはよう。喜びがあるように」と呼びかけておられます。

本日はマタイ福音書最後の場面となります、復活の主イエスが弟子たちを派遣する御言に聞いてまいりましょう。
さて、この女性たちの報告を受けた弟子たちは、「ガリラヤへ行きなさい」と主イエスに指示された山に登ります。この山がどこの山かは明記されていませんが、かつてイエスさまが弟子たちを集めて「説教」をなさった山とも言われております。その時弟子たちは、自分たちの師・先生としてイエスさまのお話を聞いていました。
しかし今日の場面で弟子たちは、御前に平伏して「復活の主イエス」を礼拝しているのです。
この山は復活の主イエスがキリスト、神の救い主として最初に礼拝された場所であり、教会であったとも言えるでしょう。十字架につけられる前に弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げました。イエスを裏切ったユダはもういません。ここには、「疑う者もいた」とありますが。主イエスはそんな弟子たちのことをよくご存じでした。あまりに深い失望感、そして恐れや不安、その弱さをもすべてです。
私たちも悲しみに沈んでいる時、もうだめだと思うような時、この弟子たちのようにどこか疑いながら信じているという事があるのではないでしょうか。
しか、18節「イエスは、近寄って来られる。」のです。何が起こっているのか、これからどうなるのか、その不確かさにおじけ、惑う私たちの現実に復活の主は近寄って来ておられるのです。
さて、弟子たちはまず、自分が何者であるか、自分の存在意義は何かを再確認することが必要でした。それは生きる力を取り戻すのに大変重要なことだったのです。
主イエスは次のように弟子たちにお語りになります。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。
かつて弟子たちはイエスさまと出会った時から、新しい人生を歩み出したのでした。そのイエスさまはすべての人の救いのために死なれますが、復活され、今や「天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されるのです。
この地上のあゆみにおいて御父である神のご計画に、十字架の死に至るまで完全に従われた。そのことによって「天と地の一切の権能」をお受けになったのです。この復活の主イエスのお言葉によって、自分を見失い、存在意義がわからなくなっていた弟子たちは自分を取り戻し、新生のいのちを生きる始まりとなるのです。

この弟子たちに向けて復活の主イエスは三つのことを伝え、世に遣わされます。
一つ目は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」です。
それまではイスラエル、ユダヤの民こそが神に選ばれた民でありました。しかし復活の主イエスが、「天と地の一切の権能を授かった」と宣言されたこの時から、神の救いはユダヤの民のみならず、すべての民に開かれたのです。この「すべての民」のもとの訳は、「あらゆる異邦人たち」という意味だそうです。
自分たちは神の選びの民だと自負し、異邦人たちとの間にあった偏見や隔ての壁が、主イエスの十字架と復活によって突き崩され、あらゆる人たちに神の救いの福音が宣べ伝えられるようになるのです。私たちもユダヤの民からすれば異邦人であります。そのような私たちが神の救いと解放に与る者とされているのは唯、神のいつくしみ、慈愛による以外ありません。主イエスを通して私にも開かれた救いの恵みは、私と違いをもつあらゆる人に開かれていることを覚えたいです。

ところで、この「あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさい」というお言葉は、マルコ福音書では「全世界に行って、すべての造られたものに父君を伝えなさい」となっていますが。それを聞きますと、何だか今の場所を離れて遠い地に出て行かなければならないのか?又、弟子は宣教師や牧師などのように直接的な伝道の働きをする人のことなのか?そう思われる方もいるかも知れません。しかしそもそもキリストの弟子とは、主イエスの救いを信じ、御言に聞き、御心を行って生きる。それがキリストの弟子です。
又、「あなたがたは行って、すべての民を」というとき、それは今まで限られていた認識で限定していた人間関係から一歩踏み出してゆく、その新鮮な出会いのことです。毎週の礼拝では、そのそれぞれの場所に生きる私たち一人ひとりが一週間の証しと感謝と祈りを携え、共に神を賛美し、互いを祝福します。
今私たちの教会には海外からこの大阪に来られ一緒に礼拝や祈祷会を持つ方がたが与えられ、その拡がりと豊かな喜びを共に与っています。神が愛される一人ひとりとして尊重し合える関係性は私たちの大きな恵み、また喜びです。この礼拝から私たちはそれぞれの場所へと派遣され、それぞれのあり方で主の証し人として生きていくのです。そのように主の福音が伝わって、新たに主と出会い、喜び生きるキリストの弟子が生まれるなら本当に幸いなことです。実際そのように2千年の時を経て、世界中にキリストの弟子が起こされ続けています。

二つ目は、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい。」です。
律法の行いによって救われるのはヨハネのバプテスマ迄でした。今やだれもが、すべての源であられる父なる神のゆるしと愛に招き入れられ、聖霊のゆたかな招きによって、信じる者はみな「神の民」とされるのです。その表明としるしが、「父と子と聖霊」によるバプテスマなのであります。
バプテスマは主イエスの尊い恵みに与った者が、最初に主の救いのみ業を証しする時です。そこに集う者たちは共にその神の救いの御業を確認し、感謝と喜びを共にします。
又、バプテスト教会のバプテスマは、全身を水に沈めます。イエスの十字架の死を思い起こしつつ、古い自分が死ぬことを表します。又、水からあげられるときには、主が死より復活されたことを思い起こしつつ、主の復活に与って新生のいのちに生きる者とされたことが表すのです。
このようにバプテスマは、新生のいのちの始まりを目に見えるかたちで証ししているのです。その新生のいのちには生きる目的が与えられています。それが先ほどから話しております、キリストの弟子として生きることです。
「何のために生まれ、何をして生きるか。」朝ドラの「あんぱん」の先週のテーマになっていましたが。ちなみに、「アンパンマン」の歌の一節にあります。
新生のいのちに与った私たちも、復活の主イエスのお言葉を行い、主の証しの人生を生きてゆくのです。

三つ目は、その具体的な生き方ですが。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」です。
この主イエスが仰せになられた、「あなたがたに命じておいたこと」とは、やはり同じガリラヤの山でイエスさまが語られた「山上の説教」、昨年もマタイ5章~7章から読みましたが。
そこには本当に具体的なことが語られています。それらのイエスさまのお言葉の根幹にあるのは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」又「隣人を自分のように愛しなさい。」という事であります。主イエスが最後の晩餐のときに「わたしの掟を守りなさい」と言われた掟は、「互いに愛し合いなさい。」でした。私たちはこれらの主のお言葉を自ら生き、伝え、分かち合って生きるようにと招かれているのです。

主イエスは弟子たち、教会が行なうべきそれらの使命を語った後、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われます。
それは、私たちが困難に思える時、弱さをおぼえる時も、私たちから決して離れないという約束です。今も、いつも、世の終わりまで共におられる主の弟子として日々を歩み続けてまいりましょう。
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主日礼拝式 2025/4/27

2025-04-24 06:09:17 | 教会案内

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そこでこそ、わたしに出会う

2025-04-20 17:53:50 | メッセージ
イースター礼拝宣教    マタイ28章1-10節

イースターおめでとうございます。
受難節の約一ヶ月を経て、先週は特に主イエスの十字架の死を偲ぶ受難週を過ごしてまいりました。   十字架で死なれ墓に葬られた主イエスは、3日目の日曜日の朝、その身を「起こされた」と聖書は伝えます。
この日以来キリスト教会では日曜日を主イエスの復活を記念する主の日として覚えて、毎週礼拝が捧げられています。
キリスト教は、神の御子が私たち人間の姿となって世に来てくださったこと。そしてその神の御子が人間の罪のために苦難と死を通して罪の贖いの業を成し遂げてくださったこと。さらに、その墓に葬られた神の御子が起こされ、復活されたことを伝えています。この神の御子、イエス・キリストの受肉、十字架の苦難と死、そして復活を信じ、神に向きを変えて生きる者には神の救いに与る大いなる喜びと希望がある、というのが聖書の伝える良き知らせ、福音なのです。

先週はイエスの十字架の苦難と死の記事を読みましたが。その後イエスの遺体は墓に葬られました。
本日の箇所の冒頭に、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に見に行った。」と記されています。
この女性たちはイエスが十字架刑つけられ、処刑されていくその苦難と息を引き取られる最期まで見守っていた大勢の女性たちのうちの二人でした。マグダラのマリアは、ガリラヤ湖西岸マグダラの出身でイエスから7つの悪霊を追い出してもらい、イエスに従うようになった女性です。もう一人のマリアは、姉マルタとのエピソードや弟のラザロが生き返った話などが良く知られています。彼女はイエスさまのお話に救いを見出し、いつも聞き入っていました。イエスが十字架におかかりになる前、感謝と敬愛から純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスに注ぎ、人からは批判を受けますが。イエスは、「わたしの葬りの日の用意をしてくれた。このことは世々にわたって記念となる。」と言われるのです。
この二人のマリアはどちらもイエスを心からお慕いしていたのです。それは彼女たちにとって本当にイエスさまが救いだったからです。それだけに彼女たちのイエスを失った悲しみと嘆きはどれほど深いものであっったでしょう。
悲嘆にくれる中、安息日が明けてイエスの葬られた墓を見に行ったその時、大きな地震が起こりました。 
先週も、イエスが十字架上で大声で叫ばれて息を引き取られた時、「地震が起こり、岩が裂ける」という出来事が起こった、と伝えていましたが。ここではこの大きな地震とともに、主の天使が出現し、何とイエスの墓をふさいでいた石をわきへ転がし、その上に座っていたと言うのです。
この光景をみた墓の番をしていた番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった、とあります。神を神と認めず知ろうともしなかった彼らは、唯恐怖と不安で死んだようになりました。
一方、女性たちは主の天使から、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と告げられます。
そうして、二人は空っぽの墓を見ることになるのです。この女性たちも大きな地震と起った目の前の出来事に恐れを抱くのでありますが。
しかしこの女性たちが番兵たちと違っていたのは、イエスが前もって告げていた「十字架の死の後、三日目に復活する」という言葉を確かに聴き、心に納めていたということです。そして主の天使が「あの方は、復活なさったのだ」と言った時、その言葉を思い起こすのです。 
同じ出来事に遭遇し、片や不信の中で死人のようになった番兵たち。片や天からの大きな希望を受け取った女性たち。
私たちも主イエスが何と言っておられるか。いつも目を覚まして心に留めているなら、それがどのような状況、恐れを抱く時でさえも、喜びと希望をもたらすのです。しかし主の救いの愛、その言葉を拒み、認めないのなら大きな恐れ、絶望となるのです。
聖書の御言、生きた神の言に私たちは普段から耳を傾け、日々主に聴き続け蓄えておくことが、時に適ってどんなに大きな恵み、幸い、救いになるかということであります。聖霊の助けを求めつつ、聖書を読み続け、いつも目を覚ましている者でありたいと願います。

さて、主の天使は彼女たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と語りかけます。
するとそれを聞いた女性たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行」くのです。「恐れながらも大いに喜んだ」。それは一見相反するような様相です。イエスの無残な死、大きな地震、主の天使の出現と、次々に想像もつかないような出来事に遭遇したのですから、恐れが生じるのは当然でしょう。
けれども主の天使から、「そこで、主イエスにお目にかかれる。」と告げられたとき、二人には言葉で言い表わすことができない大きな喜びが湧き起こったのではないでしょうか。
「ガリラヤ。」それはかつてイエスさまに仕え、ともに従って歩んできた日常があった場所です。そこで復活なさった主イエスとまたお会いできるという希望の知らせ。恐れながらも大いに喜びつつ、彼女たちは急いで墓を立ち去り、このよき知らせを一刻も早く弟子たちにもたらしたい、伝えなければならないという思いで走り出すのです。
ところでこのマタイ福音書は他の福音書には見られない場面を記しています。
9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」というのですね。この「おはよう」はギリシャ語の原語では、「喜びがあるように」と言う意味の、日常で交わす挨拶のようなものだということであります。
何と復活の主イエスが直接この二人の行く手に立っておられ、常日頃おっしゃたように「喜びがあるように」とお声をかけられるのです。
すると、「女たちはイエスに近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。彼女たちの喜びがいかに大きかったかが伝わってくるようです。
不安でいっぱい。悲しみでいっぱい。そうした厳しい状況に心ふさがれる中で天使の知らせを聞き、その復活の主イエスと出会う。これはこの女性たちばかりのことでなく、それぞれの導きにおいて主イエスと出会った私たちの物語でもあると言えるでしょう。

さあこうして、本日の箇所の最後のところで大変重要なことを、復活の主イエスはこの女性たちに伝えます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
主イエスは、ここで弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼んでおられます。弟子たちはどこまでもついてゆくと言っていたのにイエスさまを見捨てて逃げ去りました。それにも拘わらず主イエスはこの弟子たちを、「わたしの兄弟」だとお呼びになるのです。
主イエスのゆるしと愛の大きさ、深さ、そして何と暖かな招きの言葉でしょうか。弱さのゆえにつまずき、失態をさらしたその弟子たちをだれも笑うことはできないでしょう。イエスさまを置き去りにし、背を向けて逃げる、人の弱さ。人目を恐れ戸に鍵をかけるような人間の弱さ。それらをご存じでありながらも復活の主イエスは、私たちをご自分の兄弟と呼びかけ、招いておられるのです。
この主イエスの愛と招きを受け取ったとき、私たちは再び主イエスと出会うことができます。たとえ、どのようなところからでも、また、どう生きてゆけばいいのかわからない中でも。いや、むしろそういった日常生活の場、ガリラヤとはそういうことです。復活の主イエスは私が弱かろうが、小さかろうが、失敗や間違を繰り返す者であろうとも、わたしの兄弟、わたしの姉妹よ、と呼びかけ、どんな時も共におられ、共に歩んでくださる、その力強い約束であり、宣言であります。

使徒パウロが語った有名な、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16-18節)。それは平和で平穏な状況の中で語られたのではなく、むしろ迫害や惑わしなどのいろんな試練に悩み苦闘する人たちの間で語られたのです。このような状況なのにどうして喜ぶことができるのか。感謝できても喜べない。私たちにもそういったことがあるでしょう。けれども主イエスはそこで「喜びがあるように」というのです。それは、わたしはどんなときもあなたと共にいる、と約束し、宣言される主イエスがおられるからです。
わたしの兄弟よ、わたしの姉妹よ、私たちのガリラヤ、その人生の、日常の中で「会おう」との主イエスの招きに応え、歩み出すとき、何ものも決して奪うことのできないその主の平安、主の平和を知り、体験することになるでしょう。私たちの復活も、今日ここから始まっています。世にはない神の国の喜びを体験する毎日となりますように。祈ります。
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イースター礼拝式 2025/4/20

2025-04-17 15:55:17 | 教会案内

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イースター礼拝式 2025/4/20

2025-04-15 15:01:43 | お知らせ
イースター礼拝式 2025/4/20
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大声で叫ぶイエス

2025-04-13 14:14:43 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ27章32-56節 受難週 

「お帰りなさい」
今日から受難週に入りました。本日は教会歴で棕櫚(しゅろ)の主日とか、或いはパームサンデーと呼ばれる、主イエスのエルサレム入場を覚える日でもあります。ここから始まる主イエスの十字架の苦難とそこに顕された神のいつくしみ深い愛を覚え祈りつつ、この一週間を歩んでまいります。

本日は、主イエスが十字架につけられて、ののしられ、侮辱される中、大声で2度叫んで息を引き取られる記事から、御言に聞いていきます。
そこには、イエスの十字架を無理に担がされたキレネ人のシモンからはじまり、主イエスと一緒に十字架につけられた2人の強盗、そこに通りかかり頭を振りながらイエスをののしった人々、さらにイエスを侮辱した祭司長、律法学者、長老たち、処刑に関わった兵士たち、百人隊長と見張りの番兵たち、そしてそのイエスを遠くから最後まで見守り続けていた大勢の女性たちと、実に多くの人たちが登場します。
この十字架刑は、ユダヤを統治していたローマ帝国が極悪非道の罪を犯した者を処刑するための刑罰でした。しかし主イエスは無実でありました。理不尽極まりない濡れ衣を着せられたのです。 
一体なぜ、主イエスはそのような残虐極まりない刑に処せられねばならなかったのでしょうか。聖書はそこに人間の罪の深さ、神の愛に背を向け遠く離れた人の深刻な状態を伝えているのです。

まず、「そこを通りかかった人々は、『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』と言います。
「神殿の崩壊と再建」。それはかつて主イエス御自身がおっしゃった言葉でした。しかしこれは単に建造物の事ではなく、主イエスはご自身の十字架と復活までの3日間で実現される霊的再建を言われたのです。それは、罪のゆるしと悔い改め、つまり真心から神のみむねに生きる真の礼拝者たちが起こされていく事です。私たちもまさにその恵みに招かれている者であります。

又、祭司長たちも律法学者たちや長老たちも一緒に、「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」とイエスを侮辱します。さらに一緒に十字架につけられた強盗たちも、「同じようにイエスをののしった」とあります。このように、十字架につけられた主イエスは、その周囲にいたユダヤの民衆たち、またユダヤの宗教的指導者たち、そして犯罪人たちから、「神の子なら十字架からおりて、自分を救ってみろ。そうしたら信じてやる」と、ののしられ侮辱を受けるのです。
しかし、そのような挑発的な言葉に対して主イエスはただ黙し、一言もお答えになりません。
それらの人々は、自分も救えないのに一体何ができるというのか?そこに神の子としての証明があるというのか?イエスよ、自分の正しさ、正当性を表して自分を救い、神の子であることを証明せよ、と言うのです。          
律法学者もファリサイ派の人たちも、律法の戒めや規定を守ることで自分を正当化し、その自分の正しさこそが天の国に入る証明書のように考えていました。逆に、律法を守ることができない人々を見下し、裁いて、罪人だとみなしたのです。

一方、主イエスはご自分の正しさを主張なさいません。あのゲッセマネで祈り、「父よ、御心が行われますように」と神に全てをゆだね、その御心に唯黙して聴き従われたのです。          「十字架から降り栄光を顕せば信じよう」「神の子なら御心により救ってもらえるはずだ」と言う挑戦的な世の声に主イエスはお答えになりません。唯神の正しさ、信頼すべき父の神の御心にご自分を従わせたのです。

さて聖書は、主イエスが十字架にかけられてから、「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」と記します。お昼というのに全地が暗闇に覆われた。それはユダヤの地だけでなく、全地、全世界が暗闇に覆われたのです。神の子が十字架にかけられ、全地の救いはその苦難と死の闇を通って実現される。これは大変象徴的な出来事であると言えます。              
私たちは闇を通るのでなければ本当の意味で救いを体験することはできません。救われているという経験は、救われたい、救いが必要であるという状況、その闇の中で得られるものです。神不在の、神の言のない闇、飢え渇きを通って人は救いと出会い、救われるのです。

では、このイエス・キリストの姿からその救いに与ってまいりましょう。
主イエスは3時ごろ十字架から、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と大声で叫ばれます。そのあまりにも悲惨なイエスが絶叫される姿を目にした人々は、「神の子なら、あんな無残な死に方をするはずはない」「十字架で見捨てられた敗北者となったのだからメシア、我らの救いの王のはずではない。」と見なしたわけですが。それは今日でも多くの人の躓きになっています。神の子であり神を信頼して従っておられるはずの主イエスがどうして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにったのですか。」と絶叫なさったのでしょう。その問いに答えることは確かに容易なことではないかと思います。
ただはっきりわかるのは、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫するほどにイエスは苦しみ痛まれたということです。拷問を受け、茨の冠を押しつけられ、ひきずり回されながら十字架を担ぎ、釘で手足を打ち付けられて磔にされ、長時間焼きつける陽にさらされ続け、苦しみと痛みの極みをその身に負ったイエス。その生身の人間の叫びであります。
この姿において、私たち人としての苦しみや痛み、その極みまで主イエスが知っておられ、共におられるという底知れない愛が体現されているのであります。これが救いであります。

イエスの「エリ、エリ」という叫びを聞いた人の中には、「エリヤを呼んでいると言う者もおり、兵士の一人が、「海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒をつけて、イエスに飲ませようとし」、他の人々は「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったとあります。それはイエスの痛みを和らげるという同情からではなく、イエスが自分から延命を望んでエリヤの助けを求め、エリヤが助けに来るかどうかを試すためにそうしたようです。
けれどもイエスはそれを受け取りませんでした。ご自身が最後の晩餐で、「わたしの天の国であなた方と共に新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言われたとおり、それを口になさらなかったのです。
イエスはその痛みと苦悩をどこまでもご自身に負われ、遂に「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです。しかもそれは、「神よ、なぜですか」、という問いかけに対して神の答がないまま、最期までその痛みと苦悩を身に負って死なれたのです。
神の子イエスは私たち人間の「なぜですか」と叫ぶほかない絶望的な苦悩を知って下さいました。不条理しか言いようのない死に至るまで、神の子が共に来て下さった。こうして、「その名はインマヌエル、神が私たちと共におられると呼ばれる」と言う預言が世に顕されたのです。そうして今私たちは主の晩餐において、その主イエスの苦難と死による救いを記念して、ぶどうの実から作ったものを主と共にいただく事がゆるされているのです。

さてイエスがそのように息を引き取られた後、57-58節「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」と記されてあります。
この「神殿の垂れ幕」は、ユダヤ人、ユダヤ教徒にとりましては大変大事な聖所と至聖所とを仕切るもので、一年に一度大祭司だけがこの垂れ幕の奥にある至聖所に入ることが許され、ユダヤの民のために贖罪のとりなしの務めがなされていたのです。女性、こどもは神殿の前庭まで、男性は少し奥まで。たとえ特別な立場の人でも至聖所に入ることはできません。異邦人に至っては神殿を隔てる壁の異邦人の庭までです。垂れ幕を見ることさえできなかったのです。
ところが、イエスが十字架上で2度目に大声で叫び息を引き取られた後、この隔ての垂れ幕が上から下まで真二つに裂けたというのです。
それは、イエスの十字架の苦難と死によってユダヤ人だけでなく、異邦人も女性もこどもも分け隔てなく、罪のゆるしと救いの御座に近づく道が開かれた。まさに新しい契約の幕開けでした。
ヘブライ人への手紙9章11-12節には、「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、あがないのための雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とあり、さらに10章19-20節には、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」と記されてあります。救いの道を開いて下さった神の子イエスは偉大な大祭司であり、同じヘブライ書4章15節には、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから憐れみを受け、恵みにあずかって時宜に適った助けをいただくため大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。」と記されています。そのようにイエスの十字架の苦難と死を通して、全世界のすべての人、だれもが神の救いにあずかり、神と共に歩むことができる道が開かれたのです。

さらに、「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」という不思議な出来事が記されています。
イエスの十字架刑を実際に執行したローマの百人隊長と兵士たちは、地震やそれらのいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言ったとあります。
この恐れとは何でしょう。それはまさに、「本当に神の子であった主イエスを十字架にかけて殺害した」という恐れでありましょう。神を恐れず人を人とも思わなかったローマ兵たちが、ここでまさに神への恐れを強く抱くのです。「私が神の子を十字架につけた。」この気づきこそ救いの至聖所の入り口なのです。

聖書にはまた、「大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」とあります。
この女性たちはイエスに救いを見出し従って来ました。それまで女性や子どもは人の数に入れられることなく、神殿の聖所に入ることなど許されていなかった彼女たちは、神の救いを必要とし、待ち望んでいました。神の前に一人のかけがえのない命ある存在として、取り戻されることを切に願っていたのです。
望みとしていたイエスが十字架に磔にされ息絶えるまで、イエスの苦しみ痛みをこの女性たちも絶望的な思いで嘆き苦しみ、叫んでいたのではないでしょうか。しかしその三日後この女性たちはイエスの復活の最初の証人となるのです。暗闇は光に、嘆きと悲しみは喜びに変えられていくのです。

本日は、「大声で叫ぶイエス」という宣教題が与えられました。主イエスは私たち人間のお姿となり、
最期には、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」と絶叫されるまでに苦悩し、痛み、肉を裂き、血を流して死なれました。それは私たちの罪がイエスの苦難と死をとおしてゆるされ、あがなわれ、神の前に取り戻されるためです。同時に、私たちの苦しみ、うめき、叫びを知る偉大な大祭司として救いを実現するためです。人となられた神の子イエスが、今私と共にいて下さる、その救いの確かさを覚えつつ、この受難週を過ごしてまいりましょう。計り知れない神の愛に感謝します。
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2025/4/13 受難週 主日礼拝式

2025-04-11 10:32:14 | 教会案内

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ウイーンからの春風 コンサート ナンドール・セデルケニ ヴァイオリン 柳澤 ひかる ピアノ

2025-04-10 08:53:07 | イベント
 
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御心が行われますように

2025-04-06 16:44:05 | メッセージ
礼拝宣教    マタイ26章47-56節 受難節Ⅴ 

本日の箇所は、主イエスが裏切られ、逮捕され、弟子たちが皆逃げ去ってしまうという場面でありますけれども。この事が起こる直前まで、主イエスはゲッセマネの園でうつぶせになり必死に父の神に祈りました。                       
主イエスは弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言われ、少し離れた場所へ祈りに行かれます。しかし、主イエスが祈って弟子たちのところに戻られると、弟子たちは皆眠っていたのです。                  そこで主イエスは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言われます。そして主イエスが再び祈りに行き、弟子たちのところに戻って来られたときも、彼らは眠っていました。                               弟子たちはとても疲れていました。強いストレスを感じていたのです。王となって民を治めるにふさわしい方、神の権威を帯びた信頼すべき方と、そう信じて従ってきた彼らに、主イエスは苦難を受けて死ぬとか。神殿やエルサレムの崩壊を予告されるのです。主イエスが「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と祈られる姿を、彼らはいたたまれない思いで見ていたのでしょうし、不安や恐れもあり、心が疲れきって眠ってしまったのでしょう。                     さらに三度目の祈りから戻って来られた主イエスは、まだ寝ている弟子たちをご覧になってこう言われます。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される・・・」。   
そしてこう話しておられると、12人の1人であるユダがやって来るのです。         主イエスはすでに十二人の弟子の一人のイスカリオテのユダが、自分を裏切る者であることをご存じでした。あの最後の晩餐の場面で主イエスが、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている。」とおっしゃると、弟子たちは非常に心を痛めて「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたとあります。弟子たちは皆、主イエスを慕い愛してましたが、皆心のうちに強いストレスがあることを感じていました。だからこそ、「わたしではありませんよね」「そうだあなたではない。あなたがわたしを裏切るわけがない」と、はっきり言って欲しかったのだと思います。                                       けれども主イエスはそうおっしゃいませんでした。彼らは35節にあるように、「たとえ御一緒に死なねばならなくなったとしても、あなたの事を知らないなどとは決して申しません。」と言うのですが、結局は主イエスを見捨てて逃げるのです。主イエスはお見通しでした。
私たちは、「ユダってひどい人間じゃないか」と思うかも知れません。主イエスを売った銀貨30枚といえば、まあ1か月分の賃金に価します。ユダってどういう神経をしているのか、と思うかも知れません。しかし主イエスを裏切ったユダについて、わざわざここで「十二人の一人である」と記しているのは、十二人の弟子全員が主イエスを見捨てて逃げた。他の弟子たちもユダのような裏切り者になったかも知れないし、実際主イエスを見捨て散っていったことを、聖書は赤裸々に伝えているのです。                                      確かにユダは主イエスを売り渡した張本人でありますが。その受取った金額から考えても、単にお金が欲しかったのではなく、主イエスが自分の思い描いた通りではないことに、いろんな不満が重なり、極端な行動に走っていったと考えられます。他の11人の弟子たちもどこかそれと似た心の状態だったのかも知れません。「心は燃えても、肉体は弱い」。主イエスがおっしゃったように、私たちも又、この弟子たちのことを笑うことなどできません。裁くことなどできません。
このユダは、主イエスを捕えるときの合図として、「自分が接吻した相手がその人だ。捕まえて、逃さないように連れて行け。」と祭司長や律法学者、長老たちが遣わした大勢の群衆に予め伝えていました。そうして実際主イエスに近寄り、「先生」と言って接吻し、人々は剣や棒をもって主イエスを捕らえようとします。                               ユダは主イエスの弟子として、その十二人の一人にも選ばれ、固い信頼関係で結ばれていたはずでした。すべてを捨てて従って行ったはずのユダが裏切りを企て、このように接吻をもって主イエスを陥れた心の複雑さを考えさせられます。                         今日において、虐待やDVによる傷ましい事件が報道で伝えられますが。その犯行に及んだ多くの人は憎いから加害を加えたのではなく、むしろ相手を愛していた。とても好きだったという場合があるとのことです。そこには何らかの強いストレスや過去の経験など複雑な深層心理が働き、そういう傷ましい行為に結びつくことがあると言われています。いずれにしても、人の心の奥底にある深淵を思わされます。                                    このユダも、主イエスへの願望や期待が大きかったし、主イエスを愛し慕っていたのでしょうが。先に申しましたように、その主イエスご自身による言動に決定的な失望が生じ、歪んだ形の行為に暴走していったのでしょう。では彼の身に起こったことを教訓として、私たちはこのユダの暴走から何を教訓とするでしょうか。主イエスは言われます。「誘惑に陥らないよう目を覚まして祈っていなさい」。                                       実は主イエスは、十字架の苦難と死の告知だけでなく、受難と死の後の復活についても語っておられたのです。主イエスがゲッセマネの祈りの最中に、弟子たちに「目を覚ましていなさい」と言われたのは、受難と死、さらに復活をもって実現される「神の御心」に対して目を覚ましていなさいと言うことなのです。を主イエスが信じていたということなのです。それは、神が預言者を通して語っておられる全世界に向けた救いのメッセージであります。主イエスは、それがご自身を通して必ず実現されるべき事として語られているのです。
56節「このすべてのことが起こったのは預言者たちの書いたことが実現するためである。」  そこに書かれているのは、主のしもべ(僕)が苦難を受け、それによって罪のゆるしと悔い改めが全世界にもたらされていく神の壮大なご計画であります。                       今日の時代においても、いかなる時も様々な不平や不満、そして愛が冷えて誘惑に陥ることがないように、神の御心とご計画を信じ、祈り、目を覚ましていなさいと、主は言われるのです。
主イエスはゲッセマネの園で父の神に祈りました。                     最初の祈りは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と言うように、「できることなら」と個人的な感情や思いが強くこめられていました。しかしその祈りは、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という祈りに導かれていきます。                          また二度目の祈りは、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と祈られます。ここには個人的願いはもはやありません。主イエスご自身、神の御心が実現されるよう血の汗したたるほどに苦闘しながら祈られたのです。それは主イエスご自身が、誘惑から守られ御心が行われるための祈りでした。その誘惑とは、自分の力を誇示し、自分の力で打ち勝とうとする誘惑です。                       50節のところで、「人々が進み寄り、イエスを手にかけて捕らえたそのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸して剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とします」。それを見た主イエスはこう言われます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」                                        この剣を抜いた者は主イエスの弟子でした。主イエスが捕らえられることに強い憤りを感じて自ら剣を取って主イエスを捕らえようとする者を倒そうとしたのです。しかし主イエスは、暴力をいくら用いたとしても何も解決しないばりか、暴力は暴力を呼び、武力で人を征服する者は、皆武力で倒れると、警告されます。主イエスは弟子たちにもかつて、「悪人に手向かってはならない」(マタイ5:39)と語られていました。これは今日のキリスト教界、キリスト者すべてにも語られている事です。                                       主イエスはまたこう言われます。53-54節「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかし、それでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。                 主イエスが願いさえすれば、そうした天の軍団を送ってもらい、捕らえる者を倒して自ら助かることもできたのです。しかし主イエスはそうしません。そのようなことをすれば、「聖書の言葉が」語り伝えている神の救いのご計画が実現されなくなるからです。主イエスはそうした天からの力と権能をもっておられましたが、ただ神の「御心が行われますように」と、すべてを神に従い、自らを明け渡されたのです。
剣を抜いた弟子も、また主イエス捕らえるために剣や棒を取って来た群衆も共に武力を用い、暴力を振るおうとしましたが、主イエスはその力を用いませんでした。武力や暴力によっては、「聖書の言葉」「預言者たちの書いた」神の救いのご計画は、実現されることが無かったからです。それは罪による滅びの道でしかなかったのです。                           主イエスは先のゲッセマネの園での三度に亘る切実な祈りを通して、神に従い通すことを選ばれました。それがまさに、「あなたの御心が行われますように。」との祈りです。          主イエスが捕らえられた時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまいました」。しかし主イエスは、その弟子たちを愛してやまなかったのです。主イエスは唯、罪による滅びからの救い、真に人間が解放されて、新しく生まれることを神の御心と、確信していたのです。      
今、何かのしかかる心配や不安があるでしょうか。強いストレスがあるでしょうか。今日も主が共にうめきつつ、神の御心から外れないよう、誘惑に陥らないように、目を覚ましていなさい、と呼びかけておられます。
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2025/4/6 主日礼拝式 レント(受難節Ⅴ)

2025-04-04 07:57:38 | 教会案内

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