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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

新しい契約によって生きる

2024-11-10 14:09:59 | メッセージ
礼拝宣教   エレミヤ31章27-34節   

本日はエレミヤ書31章から「新しい契約に生きる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
聖書は新約と旧約とからなっております。そのどちらにも約束の「約」がついていますが。これは契約を意味しております。神が人と契(ちぎ)りを結んだ、約束を交した。聖書は言わばその誓約書であるとも言えるでしょう。
この世の中も「契約」社会として、物を買ったり、保険に加入するにも、家を建てたり住宅を借りるにも、又就職するのにも、相手があり、契約を交わします。大阪教会の会堂建築も建築業者との間で請負契約を互いに取り交わした時は大変緊張しましたが。双方の契約内容は守られ無事完成に至り幸いでありましたが。契約には互いの信頼関係、信用を基にした誠実さが求められます。まああってはならないことですが、契約した約束事に違反するようなことが起これば、契約は破棄されて大変なことになってしまうわけです。旧約聖書の時代、ユダの民は神との契約を軽んじ、自ら滅びを招いてしまいました。祝福をもたらすはずの契約が破綻してしまったのです。しかし神は彼らを見放してはおられませんでした。
なぜ神は、呼びかけにそむき罪に滅びるような民を、なおも導き救いの回復をお与えになるのでしょうか。

今日は神が人と約束された「新しい契約」についての記述から、まず「神の救いの確かさ」を読み取っていきたいと思います。
32章27-28節にこう記されています。「見よ、わたしがイエスエルの家とユダの家に、人の種と動物の種をまく日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる」。
神は打ち砕かれた彼らを回復、復興なさるというのです。
この「見よ、わたしが」とのお言葉には、主なる神さまの力強い再創造の業が宣言されています。そのむかし神は、出エジプトしたイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らが祝福に与るか、滅びに至るか、その契約にかかっていました。
これについて神は、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(19章5節~6節)と言われました。
イスラエルとユダの家が神に信頼をし、忠実に従うのなら「神の民」として祝福されるのです。しかしこれに反して不信と背信とに生きるなら、厳しい裁きがなされるという警告がなされたのです。にも拘らずイスラエルの民は、度々その神との契約を軽んじ、欲するままにふるまい続けるのです。このユダの民はエレミヤの再三にわたる「悔い改めよ、主に立ち返れ」という警告にも拘わらず、罪を犯し続け、遂に先の北イスラエル同様、崩壊して捕囚の民となってしまうのです。その彼らの中には、「神に見放された、見捨てられたのだ」と言う者もいました。
しかしそうではありません。神はそのような彼らを断腸の思いをもって「立ち返って命を得よ」と、見守り続けておられたのです。
北イスラエルと南ユダ王国の崩壊で何もかもが終わったように見えました。けれども、そうではなかったのです。神は後に実現する「新しい契約の日」に向け、「今、わたしは彼らを建て、また植えようとして見張っている」とおっしゃるのです。神は決して民から目を離してはおられないのです。たとえ絶望的といえる状態であっても、神は決してお見捨てになることなく、彼らがゆるしの恵みによって新しく創造されていくようにと、見守り導かれようとしておられたのです。

さらに29節を見ますと、「人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」とあります。
国の崩壊と捕囚の惨禍は、確かにその時社会を腐敗させ、又それを容認していた世代の責任とも言えるでしょう。しかし新たな世代は次の時代をどう生きるかが問われているのです。先祖の後を追うように背信の道を行くのか。神に立ち返って生きるのか。それが各人に問われているのです。神は一人ひとりが神に立ち返り、新たな一歩をあゆみゆく者が祝福を受けるようにと望んでおられるのです。私たちも又その祝福に与るものとされてまいりましょう。

さて、その「新たな契約」についてでありますが。
31-33節に「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはわたしの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と語られています。
神さまは新しい契約について、「わたしの律法(御心)を人の胸に授け、人の心にそれを記す」と語られました。エゼキエル書36章26節には、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊をおく。」とも語られています。
かつてエジプトから導き出された時に結ばれた神の契約は「十戒」に基づくもので、それは本来神の民とされた彼らが祝福に満ちた世界を築くために与えられた高い倫理性をもった優れた戒めでした。しかいイスラエルの民はその戒めを軽んじ、逆らい続けたのです。再三にわたる預言者たちの「悔い改めよ、神に立ち返れ」との警告に対しても民は聞く耳を持ちませんでした。そうした彼らの不誠実によって遂に始めの契約ははたんしてしまい、北イスラエル王国、そして南ユダの王国は崩壊し、捕囚の民となるのです。
それにも拘わらず神はその民から目を離されることなく、なんと彼らと「新しい契約」を結ぶ日が来る、と予告されるのです。
始めの契約は石に刻まれた戒めが民の指導者モーセを通して授けられましたが。この新しい契約は、「神御自身が彼ら一人ひとりの胸の中に授け、その心に記す」というのが大きな特徴であります。ユダの民はその後、捕囚から解放され、その歴史を省みて心新たに神殿の再建の着手や神への信仰復興へと歩み出します。しかし世の戦いは険しく、民はその後も時代に翻弄されながら、様々な厳しい迫害の時代を経験するのです。
その後(のち)ユダヤの民がローマ帝国の植民地下におかれていた時、遂に神の御子イエス・キリストが世に誕生なさるのです。それはエレミヤ、又エゼキエルといった預言者が、「神自ら人の胸の中に授け、人の心にそれを記す」「新しい心を与え、人のうちに新しい霊をおいて、石のようなかたくなさを打ち砕き、柔らかくしなやかな心を与える」と語られた新しい契約の実現の始まりでした。エレミヤによって語られた預言の言葉は、神の御子イエス・キリストによって実現されていくのです。神によって始められた主の救いの実現の出来事は、今も時代を超え世界のいたるところで、新しい霊をもって人のかたくなな石の心を取り除き、柔らかな肉の心を授け、新しい人に造り変えられる再創造の出来事として起こり続けています。
34節「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。
「主を知る」。それはまさに、神さまの側のお働きと導きであり、聖霊のお取り扱いになされます。「神は生きてお働きになられる」「神はわたしと共におられる」という確信、その信仰の体験によって私たちは神の前に日々新しく創造されていくのです。そこから世にはない喜び、感動が溢れ出てくるのです。

ところで皆さまは聖書の神をどのようなお方であるとイメージするでしょうか。私たちは聖書の中にそのお姿を垣間見ることができるでしょう。創造主、クリエーターなるお方。あるいはご自分の民を教え導き、正しく裁かれる厳格なお方。そうでしょう。
31章3節には「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」。さらに20節「神がエフライム(これは北イスラエルのことですが)、エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにいられないと主は言われる。」とありますように。神さまは「熱情愛をもつ、いつくしみ深いお方である」と言い表されています。
ご自身に逆らい続け、罪の滅びに向かう民に対して、神の愛は常識をはるかに超えています。             わたしは彼を憐れまずにはいられない」と主は言われます。
この神の愛はヘブル語でヘセド、「憐み」と訳されます。それは神さまが人と契約を結ぶときに伴う神の熱情的な愛を意味します。「神はとこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」「彼のゆえに、胸は高鳴りで、わたしは彼を憐れまずにいられない。」お方なのです。
世にあって私たちは様々な困難や苦難があるでしょう。けれどもそれは、神が私たちを子として取り扱っておられるからです。神は試みの中で私たちが神に信頼して生きるように願っておられるのです。これはご自分の宝の民とされるためです。私たちが失敗した時も、弱った時も、もがき苦しむ時も、神は契約に伴う熱情の愛といつくしみで私たちを愛してくださるのです。
かつてイスラエルの民は神に選ばれ宝の民とされました。申命記7章7節によれば、「主が心引かれて選ばれたのは、あなたたちがどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対することのゆえに、」とあります。しかし、民は高慢になり、主のその愛を忘れてしまいました。神の憐れみ、熱情的な愛によらなければ彼らは滅んでしまったことでしょう。
私たち一人ひとりも又、主イエスにある新しい契約のもとこのいつくしみ深い、熱情の神の愛を受けて今を生かされていることを忘れずに日々心新たでいたいものです。
主は言われます。34節「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。
神は罪に滅びるほか無いような人間を深く憐れみ、熱情の愛を注いでいて下さる。私たちはこの事実を主イエスの十字架に血を流されるとてつもない代償によって知り、信じることができます。その大いなる赦し、救いが私どもにももたらされているのです。
この神の熱情の愛が注がれていることを忘れて高慢になることがないように、私たちの胸の中に主の十字架の愛のお姿を刻んで歩んでまいりましょう。日々感謝と賛美をもって、主の良き知らせを伝え、証しするものにされてまいりましょう。新しい契約に与った者として。
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主日礼拝式 2024/11/10 バプテスト福祉ディ

2024-11-09 08:06:53 | 教会案内

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TiA Christmas GOSPEL CONCERT 12/3 宝塚ベガ・ホール

2024-11-06 17:38:52 | イベント
 
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TiAsクワイアチーム KANSAI

2024-11-06 17:10:51 | イベント

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わたしがあなたの傷を治し、打ち傷をいやそう

2024-11-03 19:53:07 | メッセージ
礼拝宣教    エレミヤ30章1-3節,12-22節 

本日は先ほど読まれましたエレミヤ書30章から御言葉に聞いていきます。
預言者エレミヤを通して語られた罪の告発と悔い改めの招きの言葉は、ユダの民の心に届きません。彼らは遂に神に背いた罪の裁きによってバビロンの捕囚となります。
それにも拘わらず神はなおもその民に向け、懲らしめと共に「回復を約束」をされるのです。
1-3節「主からエレミヤに望んだ言葉。『イスラエルの神、主はこう言われるわたしがあなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記しなさい。見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する時が来る、と主は言われる』」。
神はこの約束を巻物に記録させました。
「タイムカプセル」というものがありますね。学校卒業のときなどに、それぞれが将来の夢や希望の言葉を一つのカプセルに入れて埋めます。長い年月が経った後、そのカプセルを掘り起こし、そこで自分たちの過去と今をみつめ、確認していく、そうした機会になっているようですが。
ここで神が回復の約束を巻物に記録させたのは、後の時代になってその主の回復の約束が信実であることを、神に背いた民が改めて知るためのものであったのです。それは捕囚の民が70年後に知ることになるのですが。捕囚の状態にあった民はその回復の言葉を握り歩んでいったのです。
ヘブライ書11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」と記されていますが。聖書という書物は単ある文学書や教訓書ではありません。ここにはまさに、神がこの創られた世界に主権をもって介入し、お働きになっておられる、そうした神の義と愛による救いのご計画が証しされています。
「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40:7)生ける神の言葉は今も霊と力とによって証明され続けているのです。
さて、その「回復の約束」についての記録は、この30章から31章にかけて書き記されておりますが。本日は特に30章12節以降の主御自身による「いやしと回復」について、主が語られた言葉より、共に聞いていきたいと思います。
12-13節「主はこう言われる。お前の切り傷はいえず、打ち傷は痛む。お前の訴えは聞かれず、傷口につける薬はなく、いえることもない」。
ユダの地が、民の罪のゆえに荒れ果てていました。焼け跡に取り残された民も、又捕囚とされた民も皆傷つき痛んでいていたのです。しかしその傷は外傷だけではなく、最も深刻なのは心の傷でした。その傷口に塗る薬はなく、いやす方法もないのです。また、「愛人たちは皆お前を忘れ、相手もしない」と言うのは、神こそが主なるお方でありながら、強国にこびて寄りすがり、安泰を図っていたつもりであった彼らが、見放されていく様を物語っています。
それは14節にあるように、ユダの民の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、神がバビロンの攻撃をもって民を撃たれ、過酷に懲らしめられたのを見ることになるのです。さらに15節「なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、わたしがお前にこうしたのだ」。
何とも厳粛な裁きの前に人は成すすべがありません。実際滅ぼしつくされても致し方のない悪行が横行していた社会の状況であったのです。
ところがです。それにも拘わらず17節「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう。」と、主ご自身が、人の力によってはなはだいやし難い傷を治し、いやす、と言われるのです。
罪の傷、いやすことのできない罪。そのことをテーマにした、あのキリスト者であり神学者であったキルケゴール氏の「死に至る病」という著書が世に出されました。死に至る病とは「絶望」です。絶望は死に至るというのです。世の多くの人たちがその書を手にされてきたことでしょう。私は高校生の時に出会った魂の書となった一冊でした。その深い洞察と力強いメッセージに心打たれてきましたのも、この死に至る病、すなわち絶望からの解放、希望こそが、真に人を生かす力となるからでしょう。
昨今の国内、又世界状況に目を向けるときに、人の罪による破壊といやしがたい傷が世にあふれています。しかしそれは、単なる社会批評家のような人事ですまされるものではありません。人が、又社会が創造主に立ち返り、断たれた関係性に気づき直す以外、本質的回復を得ることはできません。
今日のところで聖書は何度も、主なる神自ら「わたしが治す」「わたしがいやす」「わたすが回復する」「わたしが再びふやす」「わたしが栄光を与え、昔のように立て、報いる」と主ご自身が語られたと伝えています。神が創造された人間が人間として生きていくために、神ご自身が罪によって断たれたいやしがたい傷をいやし、回復の道を開いて下さるというのです。
18節以降には、神ご自身によるヤコブの子孫の回復と繁栄が約束されていますが。しかしその出来事に至るまで70余年の時を要することとなります。その間は気づきと悔い改めへの招きの時であったと言えましょう。
その民の厳しい試練の最中29章で、エレミヤらは廃墟とかしたエルサレムからバビロンの捕囚の民に、主の言葉をしたためた手紙を書いて送ります。そこにはこのように書かれていました。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
それを読んだ民の中には、そんなたわごとなど信じられるものかと、さらに心をかたくなにする者たちもいたことでしょう。又、罪の裁きについて厳粛に受けとめることなく、神は即我々を解放してくださると軽々しく宣伝していた偽預言者たちもいたようです。その一方で、この捕囚の現実は自分たちの罪の裁きとして生じたことだと、しっかりと受けとめ、「約束された回復」の希望の言葉を胸に抱きながら、主に依り頼んで生きる者たちもいたのです。残りの民と言われた人たちです。彼らは元ある状態に戻る生き方ではなく、主の言葉に望みをかけて、新たに造り変えられていきる道を選ぶのです。
それは29章12節以降で主が、「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くして求めるなら、わたしに出会うであろう。」と語られた言葉を自らのものとして受けとり、死に至る病、絶望の淵から生還した人たちでした。

明日はこの大阪教会を会場に、アフリカのルワンダに国際ミッションボランティアとして佐々木和之さんが「平和と和解の働きのために」派遣されてから今年で20年の経過報告をしてくださいます。あの同じ町に住む者同士のジェノサイド(大虐殺行為)は今も深い傷を残していますが。その絶望からの回復の道を切りひらく働きが今も続いています。
その佐々木さんの働きを支援する会が発行する会報誌「ウブムエ」(2022年3月8日季刊誌)で佐々木さんはこういうことをおっしゃっていました。
「和解とは元々あった関係が、抑圧的なものであれば、そこに戻すことは目標になりません。被害者と加害者の関係も同じです。暴力が起きなかったことにはできないのです。それを踏まえた上で、それを乗り越えていく新しい関係性をつくること、関係の構築が大切なのです」。
ゆるす、ということは大変なことです。傷つけた相手がゆるせない。失敗した自分がゆるせない。社会がゆるせない。しかし、たとい人にはいやしがたくとも、神さまご自身がいやし、回復してくださる。この救いに死に至る病から生還する希望がかかっています。
本日の21節以降には次のような主の預言の言葉が告知されています。
「ひとりの指導者が彼らの間から治める者が彼らの中から出る。わたしが彼を近づけるので、彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて、わたしに近づくであろうか」。
ほろびる以外なかったような者が、唯このお方によって神の民とされ、救われるのです。
エレミヤより少し前に主の預言者として遣わされたイザヤは次のように語りました。
イザヤ書53章4-5節「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたからだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。
絶望の死に至る病から罪のあがないといやしによって、神との生きた関係性を取り戻してくださるお方、それは人間の姿、肉なるからだをとって私たちのところにお出でくださった神の救い、イエス・キリストです。それも主は十字架をとおして自らの体を裂かれ、血を流して私たち人間の罪をあがない、まさにいやしがたいその傷をおいやしくださったのです。
この生ける神の言(ことば)、主イエス・キリストのいやしと回復、その解放によって新しく創造された者として歩んでまいりましょう。
お祈りします。
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主日礼拝 案内 2024/11/3

2024-10-31 13:44:19 | 教会案内
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まことの牧者

2024-10-28 07:45:52 | メッセージ
主日礼拝宣教    エレミヤ23章1-6節  

本日は「まことの牧者」と題して主の言葉から聞いてまいりましょう。
先ほど読まれました23章の前の22章のところには、エレミヤが主の言葉をユダの王らに語られた言葉が記されております。2節以降「ダビデの王座に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉に聞け。主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え、寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。・・・もしこれらの言葉に聞き従わないならば、・・・この宮殿は必ず廃墟となる。」
さらに、エレミヤは主の言葉を語ります。13節以降「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を支払わない者は。・・・あなたの目も心も不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をおこなっている。」

本日23章の冒頭においては、エレミヤは「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは。」と言っていますが。この「牧者」とは誰のことでしょう。私も牧師とか言われる身なので人事ではありませんが。
古代ユダヤ社会は神の戒めと律法からなっており、宗教指導者と社会的指導者が強い結びつきをもっていました。本来ならば彼らは自ら神の御心に生きて、それを示し、民も又、神の御心を聞いて実践するなら神の平安と祝福を享受することができたのです。ところが彼らは神の御心に反し、おのが道に従ったため滅びに向かっていくのです。
今もまさに、エレミヤが主の言葉を語った時代と同様の事が世界のいたるところで起こっています。権力の暴走、戦争、搾取、収奪、無実の人の血が流されています。時代は変わろうとも神に背を向けた人間同士の争い合い、奪い合いは尽きることがありません。唯、主の言葉に聞き、従って生きるところに平和と正義があることを信じます。

今日の週報の巻頭言は、聖書教育誌10月号に記載されました西南学院大学神学部教員、金丸英子さんの言葉(一部)を紹介させていただきます。
「バプテストは『バプテスト』教会を建てるために始まったのだろうか。聖書が教えるように、首長でも宗教官僚でもなく、キリストだけを首(かしら)に戴く「キリスト」の教会を望んだのではないか。その時、復活の主との出会いの経験と神の言葉を信じる聖書への信頼だけを拠り所にし、伝統や慣習の古き衣を脱ぎ捨てて、歩み出した。バプテストの先達は、神の前に自らの足らざるを知らされていた。だからこそ、復活の主を見上げて共に生きる在り方を聖書に求め、交わりを育もうとした。そのために体制(宗教体制も含め)と相入れず、権威におもねることを「是」としなかったため疎まれ、排除された。しかし、個の内面の自由に枷をかけ、異なる声を黙らせて均一化する全体主義的な力や目論見に対しては、立場や利害を超え、時には神学や宗教の違いをさえも超えて、文字通り身を挺して「否」を唱えた。それがバプテストとしての信念、バプテスト教会の使命と信じたからである。この信念は、「自分の目で聖書を読み、自分の頭で考える方」へと私たちの背中を押し、「自分の声を取り戻して、自分の言葉で語るように」と励ます。他者にもそう励ます。そのミッションを帯びていきたいものだ。神と人とに対しても、自分自身に対しても。」
含蓄のある言葉だなあと拝見させていただきました。どのような時代、又どのような状況におかれても、神を畏れ敬い、人を真に生かす主の言葉に聞き、生きるところに真実の正義、平和があると信じます。自らを戒めるとともに、神の正義を祈り求める存在として私たちは招かれているのです。

さて、牧者といえば「羊飼い」ですね。詩編23編には、よく私たちも知っていますダビデ王の詩、賛歌が記されています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
ここでダビデ王は、主御自身が私をいつも養い育て、危険なものからも共にいて守り、助けてくださる真の羊飼である、と歌います。ダビデはこの主に信頼し、依り頼んで生きたのです。主を愛し、信頼し、主の御声に聞き従って、王としての務めを果すことができたのです。
ところがダビデの子であったソロモン王の後の王たちは、律法を読み直し宗教改革を断行したヨシュア王を除けば、大半の王は主の言葉に聞き従おうとはしませんでした。彼らは2節にあるように、羊の群れを散らし、追い払い、顧みることをしません。
22章にありましたように、「恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を支払わず、目も心も不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をおこなっていた」のです。王たちは権力に自分の基を置き、私利私欲のために働いていたのです。
それは祭司や預言者という宗教的指導者たちもそうでした。彼らも自らの立場を守るための御用学者、偽宗教家でした。主の言葉に聞き従うのではなく、王におもね、自らの地位をいかに築くかに心を囚われていたのです。王や宗教的指導者たちは、自ら進んでよい羊飼いとなることはありませんでした。彼らは自分たちの利益や安泰を図ることに心と思いがあったために、主の言葉を聞く耳を持たなかったのです。やがてユダの国、王や指導者たちは滅び、裁きを身に受けることになります。しかし、主はただ彼らが滅びることを望まれたのではありません。本心から立ち返って生きることを願っておられたのです。
3節「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない。」
主はこのようにその救いの回復と希望を語られるのです。それは人の知恵など到底及ばない神のご計画でありました。
4節「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。」
なんと主御自身が、群れを散らされたところから集め、ダビデ王の時代のような繁栄を取り戻してくださるというのです。それは神を畏れ敬い、神の御心を行うことによって真に喜びに生きる社会、又世界の訪れです。この主の回復の言葉を語ることができたエレミヤの胸中は、心に覆っていた嘆きと悲しみの闇に光が差し込んで来る思いであったのではないかと想像いたします。

主は言われます。5節「見よ、このような日が来る。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。」
主は回復のための神の直接的な介入者として「正しい若枝」を起こされるのです。
この「若枝」(ネツェル)については、預言者イザヤも同じ言葉で預言しました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず。耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い。この地の貧しい人を公平に弁護する。」(イザヤ11:1-5)
この「正しい若枝」は、神の義による統治を実現する神の知恵と知識の霊がとどまる王です。
その「王」の名は「主は我らの救い」と呼ばれる、とも言われます。名は体を表すといわれますが。それは「救いをもたらす王」であるということです。又、この「救い」は「正義」という意味をもつ言葉であることから、「正義の王」であるということです。しかしその時代の王や指導者たちも「正義のために」ということを口にするのであります。それは時に都合よく曲げられ、すり替えられ、社会的に弱い立場の人たちを見捨てていったのです。
預言者イザヤはそれに対してこの若枝である王は、目に見えるところによって裁きを行わず。耳にすることによって弁護することなく、弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護される、と語りました。人を偏り見ることなく正しい裁きをもって導く指導者、しかもいつくしみをもって弁護する「救いの王」「正義の王」を起こすと神の約束を語っているのです。
捕囚となった者も、また廃墟と化したエルサレムに取り残された者も、深い絶望感に陥っていました。しかし彼らはそういう中で、主が預言者イザヤ、又エレミヤを通して語られた「救いの王」「まことの王」の出現とその正義による民の回復に望みをおき、それぞれの地で生き抜いたのではないでしょうか。それから70年近くの後、政権はペルシャの王キュロスの手に渡ります。神はキュロスを用いてその神の約束を実現します。ユダの民は捕囚からの解放、そしてエルサレムへの帰還、さらに神殿の再建といった神への信仰復興へと導かれていくのです。
神を畏れ敬うリーダーが神に立てられ、神の愛に立ち返ることを通して、神の律法と礼拝の大切さを再確認することができたユダの人々が神の民として生きる時代が訪れるのです。しかしそれは決して平たんな道のりではありませんでした。その後も神に逆らう勢力は神の民を圧迫し、非常に厳しい迫害の時代が訪れます。再び「救いの王」「正義の王」を待ち望む切実な神への祈りが捧げられ、それが時代に翻弄される神の民の支えと希望になっていきました。そしてその後、ローマ帝国の支配と圧政、その傀儡政権の時代の最中において神の約束、「正義と恵みの業を行う」イエス・キリストが誕生されるのです。イエスの弟子たち、そして私たちキリスト教会はナザレのイエスというお方のうちに、この預言者エレミヤの言葉が実現していることを見て、信じているのです。

ヨハネ福音書10章10節「わたしが来たのは、羊が命を受けるためである。」11節、14節「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」28節「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
それは十字架の死と復活を通して実現されました。さらに聖霊の降臨による偉大なお働きを通してもたらされたのです。
「主は我らの救い」「主は我らの正義」「主はまことの牧者」。この主に導かれる私たちも、主の正義と恵みの業がこの社会に、又世界に行われますよう祈り努めてまいりましょう。
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2024/10/27 主日礼拝式 

2024-10-24 18:44:58 | 教会案内

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まことの神に信頼せよ

2024-10-20 19:17:53 | メッセージ
礼拝宣教   エレミヤ書10章1~16

今日の宣教箇所、エレミヤ書10章1節~16節は一言で言えば偶像を拝むな。頼るな。真の神に信頼し立ち返りなさい。ということですが、私たちには関係がないことばのように聞こえるかも知りません。私たちは偶像を拝んだりしないからです。また私たちはまことの神様を知っています。私たちが信じている神様は天地万物を造られた創造主であり、私たちを愛して救うために、ご自分のひとり子さえも惜しまず、十字架の死に引き渡された愛なる神様であることを信じているからです。だからと言って本当に関係がないことでしょうか。
皆さんもご存知であるように偶像というものは木や金、銀で作られた目に見えるものだけではないからです。

さて、私たちは7,8、9、三ヶ月間礼拝で創世記を学びました。
創世記から今日のエレミヤ書まではかなり距離があります。これから、その間のイスラエルの歴史、その聖書の物語の流れを大まかに、覚えていきたいと思います。それによって、今日のエレミヤ書の御ことばの背景を理解することで神様の切実な思いが私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。

創世記は旧約聖書の重要人物であるアブラハム、イサク、ヤコブとヨセフの物語でした。創世記の最後50章26節で「ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、館に納めた。」で創世記の記事は終わります。
それではその後ヤコブの一族イスラエルの運命はどのように展開していたのでしょう。アブラハムに約束された祝福のもととなる運命を背負って生きていくイスラエルは、思いもよらない彼らの波乱万象の歴史が本格的に始まります。ヨセフもその兄弟たちもまたその時代の人々もみな死んでヨセフの知らない新しい王がエジプトに起こり、彼らの立場は一変します。奴隷のように扱われます。その理由は増え続ける彼らの民の数と彼らの強さに恐れたからです。ここで神様がアブラハムに約束された御ことばが実現されていることに心を留めたいと思います。あなたの子孫を星のように、海辺の砂のように、数えきれないほど、おびただしく増やすということと、あなたの子孫は自分たちのものでない国で寄留者となり、奴隷になって、彼らは四百年間苦しめられる。という神様の計画のなかで預言通りになっています。ここで、私たちは神様の語られた御ことばはその通りになることを覚えたいと思います。それと、神様はご自分の民を苦しんでいるまま放置される方では決してありません。
出エジプト記2章23節~25節まで読みますと、「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。イスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」と書いてあります。そこで神様はその民をエジプトから救い出すために先立準備された者、ミデヤンの地で羊を飼っているモーセを呼び出し遣わします。モーセを通して全能の神様の方法でエジプトから連れ出したご自分の民を今度は荒野で養い律法を与え神様の民として、生きる道を教え訓練をします。
レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記の内容をみますと、神様はイスラエルに異邦人の中で選民として、どう生きるべきかを徹底的に教え込みます。してはならないことと、しなければならないことを事細かく、念入りに教えます。神様の厳しさがここにありますが、その厳しさは子どもの幸せを願って止まない父の愛が根底にあるからです。神様の厳しさを知ればしるほど、私たちは神様の愛の深さ、その哀れみを覚えられます。本当の意味で十字架の恵みの深さが覚えられます。

創世記50章24節でヨセフが死ぬ前兄弟たちに神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。と言ったように、イスラエルは40年間荒野で生活を経てやがて約束の地カナン地に入ります。神様は荒野で彼らにエジプトから連れ出してくださった神様だけに信頼し、頼り、仕えるように訓練させましだが、彼らの信仰はこのカナン地でどうなっていくのでしょう。モーセの次の者ヨシュアによってカナンの地を征服しその地に定着し始めたイスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべでのわざを知っていた長老たちの生きている間は主に仕えたと書いてあります。
士師記によれば、その後に主を知らず、主がイスラエルのためにされたわざも知らない他の世代が起こって主の前に悪を行い、バアルに仕えます。彼らはエジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの周りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせます。
イスラエルの歴史はこういうことの繰り返しでした。列王記に記録されているようにほとんどの王たちは偶像崇拝と周りの強い国に頼るだけではなく、あらゆる悪を行い、神様の前に不信仰の罪を犯します。その度に神様は預言者を遣わし、悔い改めて立ち返るように警告をします。繰り返し、繰り返し、哀れみの神様は忍耐の限りを尽くし預言者の口を通して警告しても、彼らは聞きませんでした。

その預言者の一人エレミヤも、今日の聖書箇所で国の滅亡を前にして悲痛な思いで神様から頂いたことばを伝えますが、彼らは頑なに聞きませんでした。
結局、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユタ王国、二つに分断された国は、北イスラエルはアッシリアに捕虜になって連れて行かれます。ユタ王国はバビロンの捕囚になって連れて行かれます。
預言者たちの預言通りに彼らは裁かれました。しかし、裁きは裁くだけで終わりません。主は愛する者を懲らしめるという御ことばがあるように、裁きは神様の愛から出たもので、悔い改めて救われることを前提とした建設的なもので、そこには希望があります。
エレミヤ書29章:11~14節にこう書いています。耳に慣れた御ことばかも知りません。「わたしはあなたがたのためにたてている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。-主の御告げーわたしは、あなたがたの繁栄を元通りにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々とすべての場所から、あなたがたを集める。-主の御告げーわたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
このところから教えられることは、―現実は厳しく暗く思われることがあっても、物事を肯定的に前向きに考えて現実から逃げたりせず、疑わず、恐れず、私たちを救ってくださった神様に、全面的に信頼して、どんなときにも希望を持つ大切さです。

今日創世記後出エジプト記からエレミヤ書のところまで簡単に話しをしました。
それでは本文エレミヤ書10章1~16まで所々を読ませていただいて結論に入ります。「イスラエルの家よ。主があなたがたに語られたことばを聞け。異邦人の道を見習うな。国々の習わしはむなしいからだ。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。主よ。あなたに並ぶ者はありません。
あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」アーメンです。

今日の御ことばは、その時代の選民として神様に結ばれたイスラエルの人たちに向けられたものでありますが、今日私たちにも、また広くはすべての人にも共通のメッセジーであります。
人は神様の恵みによって信仰が与えられ、救われていなければ、霊的に盲目状態です。救われて霊の目が開かないと、何でも信じる価値がないものでも、いとも簡単に信じてしまいます。何の力もない。わざわいも幸いも下せないものを恐れたりします。私たちも経験してきたことではないでしょうか。
もし、この場に神様を知らない方がいらっしゃいましたら、これだけは覚えていただきたいと思います。主イエスキリスト以外にどんな宗教にも罪の赦しと救い、永遠の命のことばはありません。それに肝心な人生の指針がありません。
人々は誰もが幸せな人生を願います。ここで覚えたいのは、神様も私たちが幸せであるように、誰よりも願っておられることです。そのために、私たちに救い主御子イエスキリストが与えられています。私たちに御ことばが与えられています。天地万物を造り、私たちを救ってくださった真の神様に信頼して、その御ことばに従うことが、私たちの人生を最も価値ある豊かなものにしてくれます。

イスラエルは自分たちをエジプトの奴隷から救ってくださった神様を忘れました。捨てました。と書いてありますが、私たちは、御子イエスキリストの血の対価を払ってご自分の子どもにしてくださった父なる神様をどんなときにも忘れず、信頼していきましょう。この世のものに頼らず、自分に頼らず、まことの神様だけに頼って生きていきましょう。
最後にイザヤ書55章1~3節までの御ことばをもって今日の宣教を終わらせていただきます。

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために、労するのか。
わたしに聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」



       2024年10月20日      橋本知映
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2024/10/20 主日礼拝式 宣教

2024-10-19 09:12:05 | 教会案内

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