日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

キリストを探し求めて

2024-12-15 12:29:23 | メッセージ
礼拝宣教   マタイ2章1—8節 アドベントⅢ 

羊飼いたちは、帰ってきました。博士たちは、帰ってきました。
彼らが帰って来たのは、どんな「ところ」だろう?
羊飼いたちがいた「ところ」博士たちが帰った「ところ」、
聖書の言葉はどちらも同じ。それらは、どんな「ところ」だったのか、
どちらもそこには、夜の風景がありました。
夜・・・、あなたの夜は、どんな夜ですか?そして、あなたの今は、夜ですか?
羊飼いたちが、主の栄光に照らされ、博士たちが、星を見た、それは夜のこと。
羊飼いたちは帰ります、その「ところ」、そこで、今日という日々が始ります。
私たちも、いつもの「ところ」に帰ります。そこはまた、夜が訪れます。
でもそれは、昨日とは違う夜なのです。光の訪れを待ち望む夜、そして、
ここに、その光!(一枚の届いたクリスマスカードより)

「お帰りなさい。」アドヴェント最終週となりました。いよいよ来週は主のご降誕をお祝いするクリスマス礼拝を迎えます。ご家族、また友人知人にもこの良き知らせを伝え、分かち合えると幸です。共に祈り備えてまいりましょう。

本日は、東方の占星術の学者たちの記事より、み言葉を聞いていきます。
彼らはユダヤのエルサレムに全世界の王なる主を探し求めて旅し、遂に神の御子キリストのもとに導かれていくのです。学者たちはベツレヘムでお生まれになったユダヤの王のしるしと思われる不思議な星を見て、ヘロデ王のもとを訪ねます。
この東方の学者は「マギ」とも言われていました。口語訳や新改訳では「博士」と訳されておりますが。それは当時のペルシャで広く知られた天文研究者や自然科学者を指していたようです。彼らは東方から来たとありますが、それはバビロンやペルシャという国の方角です。その地はかつてユダヤの人々が長い間捕囚の寄留民として暮らし、多くの人がそこに移住しました。そう考えますと彼らのルーツはユダヤ人や混血の人かもしれません。あるいは彼らの先祖を通して預言者エレミヤが語った王なるメシアの預言を知るようになった可能性も十分あります。その彼らが特別に輝く星を見つけ、「これは伝え聞いてきた王なるメシア、救い主がお生れになったしるしに違いない。」と確信し、贈り物まで用意して遠く危険な道のりをやって来るのです。いや、すごい信仰だなと思いますが。彼らは夜空の満天の星を見上げる時、天と星をお創りなった主なる神の存在を思い、畏れ敬う確かな信仰が与えられていたのではないかと想像いたします。その神の御子がついに地上に王として来られる。彼らは胸をときめかせながら、遙々エルサレムのヘロデ王の宮廷を訪れるのです。そうして「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねるのであります。
主イエスは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。まさに、この東方の学者たちは、神の救いの御子を礼拝したいという一途な心でエルサレムのヘロデ王の王宮を訪ねるのです。
今日もそれぞれに、主を礼拝するために対面・オンライン如何を問わずお一人おひとりが誰に強いられたわけでもなく、自ら進んでこの礼拝に集っておられます。遠方で1時間いやそれ以上の時間をかけて来られている方、歩くのが大変であるにも拘わらず来られている方、遠回りをして乗り合わせて送迎してくださる方もいらっしゃいます。先週は心臓のカテーテルの手術後間もない方が本当に喜びと感謝いっぱいの思いをもって礼拝に集われていましたね。素晴らしい笑顔でした。

もう15年も前になりますが、ある方が大阪教会のブログに寄せて下さった文章が目に留まりました。
「先日、教会のクリスマス・ツリーの飾り付けをしていたとき10月11日に入信したばかりの9歳のT君も一緒に手伝ってくれた。そのうちに彼は大きな星を見つけて『これどこにつけるの?』と聞いてきたので、その星の由来を説明した。東方の博士たちを導いた星のことを!すると、彼は『僕が飾りたい!その木のてっぺんに飾りたい!』小さい彼にはとても無理な話であった。人の助けが必要であることは勿論である。『ぼくが』という強い意志が彼を動かした。彼を抱っこしても届かない。ツリーは階段近くにあったので、階段の間から手を伸ばす方法を彼は思いついた。その木の先端に手が届く方向へ下にいる者が曲げてやると、苦心の末ついに届いた。見事にその星は定位置に収まったのである。T君の顔は『やった!』という満足感でみなぎっていた。多くの方々の祈りに導かれ、でっかい星を『ぼく』」飾りたいのだと小躍りしたことが遂に実現につながった。背丈が問題ではなかったのだ。T君の意欲が周辺にいる人たちを巻き込んだ。その星が他の飾りに先駆けてあるべき位置に就いたとき、彼のよろこびようは尋常ではなかった。彼は信徒になってはじめてのクリスマスを迎える準備に大役を果たしたのです。じっとしてはおれなかったあの異国の博士たちは遠く山河をこえてエルサレムにやってきた。途上けわしい道もあったであろうが東方でその方の星を見た彼らを導かないはずはないと固く信じてひたすら進んできたと思う。博士たちの努力や熱心が、救い主を見つけたのではない。救い主の誕生と、そのしるしが彼らを動かしたのだ。信仰者があらゆる努力をして救い主を造り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです!」(Y)
ほのぼのとしたエピソードでありますが。その彼も救いの主、キリストを迎え入れてから青年になり今年で16回目のクリスマスを迎えます。
そうですね。この方のおっしゃる通り、東方の博士たちの努力や熱心が救い主を見つけたのではなく、救い主の誕生と、そのしるしか博士たちを動かしたのですね。信仰者があらゆる努力をして救い主を作り出すのではなく、救い主はすでに生まれているのです。この素晴らしい恵みに与るばかりの私たちであります。

さて、東方の学者たちの「ユダヤの王がお生まれになった。その方を拝みに来た」という言葉を聞いた、3節「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。
これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった事、祝われるような出来事ではなかった事を物語っています。 
そこには神の民としての畏れや渇きはありません。権力を掌握していたヘロデ王にとって、自分に取って代わるような新しい王が誕生するという知らせは、自分の地位や権力を揺るがしかねない都合の悪いものであったのです。エルサレムの住民もまた、自分たちの生活が守られるならよいが、それを揺るがすようなことは不安の材料にほかならなかったのです。
自分のライフスタイルや生活を守ろうとする中で、真正面からみ言葉を聞けない時、祈れない時があるかもしれません。先週の礼拝では、ヨセフが主の天使から「婚約者マリアの胎の子は聖霊によって宿った。」とのお告げを受ける箇所を読みましたが。
事の次第を聞かされたヨセフに驚きと「恐れ」が生じ、彼は非常に戸惑いました。けれどもヨセフはヘロデ王やエルサレムの人々のようにただ「不安を抱く」のではなく、主のみ言葉に目を覚まされ、主に聞き従う歩みへと方向転換されていくのですね。また、ルカの福音書を読みますと、時を同じくして登場する羊飼いたちは、ヘロデ王のように地位や権力もなく、又エルサレムの住民のように安定した暮らしもありませんでした。彼らは自分を守るものを一切所有していない人たちであったのです。一日一日羊を飼う者として生きていた素朴な人たちであり、自然の中で神に祈らずにはいられない人たちでした。にぎやかな街の華やかさから置き去りにされ、町の人たちから疎外されていたその羊飼いたちに、真っ先にあの天使のみ告げ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という喜びの知らせが届けられたのです。主は、どんな人が最もこの良き知らせを聞いて喜ぶかを知っておられたのです。彼ら羊飼いたちは大変恐れおののくのですが。その恐れは、ヘロデ王やエルサレムの住民たちが抱いた「不安」とは全く違ったものでした。彼らは「自分たちのもとに救い主がお生れくださったという知らせが届くとは、一体どういうことか」という驚きとともに、神さまは私たちを忘れることなく覚えていてくださる」という、偉大な神の愛に心震えたのです。この羊飼いのように素朴で柔らかな心で福音、良き知らせを受け取れる、そんな歩みを続けていきたいものです。

さて、本日の箇所でもう一つ注目したいのは、救い主の誕生をはじめに知り、拝むために探していたのが、ユダヤの人々でなく、ユダヤ以外の異邦の地に住む人々であった、ということです。
それは神の祝福から隔てられていた人びとです。
このマタイの福音書は神の民であるユダヤ人に向けて書かれているのですが。救い主がお生まれになって最初の知らせが届いて、それを大いに喜んで受け取っていったが、何と異邦人たちであったことを記しているのです。キリストによる神の救いはエルサレムから始められ、全世界にもたらされることはイザヤ、エレミヤ、ミカといった預言者たちが語って来た、神のご計画でありました。
世界の王、メシアの誕生について語り継がれた預言は東方の学者たちから始まって今日の私たちキリスト教会にもたらされているのです。
今日の礼拝招詞として申命記4章のみ言葉が読まれました。「しかし、あなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたの神に出会うであろう。」と記されています。
神が主体としてお働きくださるその救いの出来事を一途に求めて、あのキリストを探し当てた東の国の学者たちのように、それは私たちにも語りかけられている生きたみ言葉なのであります。

最後に、ヘロデ王はメシアが生まれる場所についてユダヤの祭司長や律法学者たちに調べさせると、「ベツレヘムです」と答えます。
まあこれは、当時のユダヤでは一般的な理解でした。しかし、肝心なその「時」については何も知らなかったのです。救い主、キリストと出会う上で決定的なことはこの「時」ギリシャ語で「カイロス」ということであります。ギリシャ語にはもう一つ「クロノス」という時を指す言葉があります。こちらは日常的な時間のことです。一方、「カイロス」とは神の時を指しているのです。それは神の宣教の時、神の伝道の時、神の救いの時、神の恵みの時ということです。それは時間的な基軸ではなく、主なる神さまの支配、神の国が歴史の只中に差し込んでくる時であります。
そのカイロス、神の時はいつなのか、それがわからなければ、そのすばらしさを体験することはできません。また、それがどれほど価値あることか知らなければ自分の事とはならないのです。ヘロデ王やエルサレムの住民はせっかく救い主が来られたのに、その時をわきまえ知ることができなかったのです。それは今を生きる私たちにとっても重要な教訓ではないでしょうか。
神の呼びかけ、神のご計画と導き、救いと祝福の出来事が今起こっていることに気づけるか。神の時のしるしを見分け、探し求めながら生きているかどうかにかかっています。
主イエスは、「いつも目を覚まして祈っていなさい」と言われました。神の救い、キリストを探し求めているなら、あの異邦人の学者たちのように、その時、その価値を知らせてくださる神のしるし、聖霊のお働きに導かれ、探し当てることができるでしょう。神はすでに用意して下さっています。

祈りましょう。
愛と恵みの神さま、全世界の人々のためにあなたが救い主イエス・キリストを贈ってくださったクリスマスを前に、今日は東方の星の学者たちの行動から、み言葉を聞きました。私たちは今日こうしてあなたに礼拝を捧げることができます幸いを感謝します。闇のような中にあっても、あなたの救いの星は変わることなく世界中を照らし続けています。神さまその救いの星は私たちがどこにいようとも、どのような折も、曇りであっても、雨が降っても、変わることなく輝き、照らし続けてくださっていることをみ言葉から今日知ることができました。今、クリスマスシーズンの華やぎの中で戦争、気候の変動に伴う食糧問題、疫病や様々な災害があります。あなたは、世界のこの状況を誰よりも知っておられるお方です。主よ、私たちが時を見分け、キリストを見出し、主のみ言葉に聞き従って、あなたの慈愛に生きることができるように導き、助けてください。また、世界にもたらして下さるこの驚くべき救いの喜びと希望を一人でも多くの方に知っていただけますよう、先に福音に与り、生かされている私たちを用いてください。
救いの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12/15 主日礼拝式(アドヴェントⅢ)

2024-12-13 18:44:31 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共に生きる道

2024-12-10 10:57:46 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ1章18節-25節  

本日も救いの主、復活の主に導かれてアドベントⅡの礼拝を共に捧げております。
アドベントは日本語で待降節です。待ち望んだ救いの主が、遂にお生まれになるという天使の喜びの知らせに始まり、降誕・クリスマスに備えて祈りつつ、歩む時であります。
全世界に与えられた救いの福音は、先ほど読まれましたように聖霊により身ごもったマリアを、ヨセフが天使いのお告げのとおり、「恐れず妻マリアとして迎え入れる」ことによって訪れるのであります。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。神がお与えくださる救いの主、イエス・キリストを迎え入れる。ここにすばらしい喜びと平安・平和のクリスマスがあるのです。

今日は、マタイ1章18節~25節より御言葉に聞いていきます。
この主イエスの誕生の予告についてのお話はルカ福音書ではマリアへの受胎告知として記されております。マタイとルカに共通していること、又異なる点を読み取っていくことは意義あることです。マタイの福音書に特徴的なのは、22節において「主が預言者を通して言われていたことが実現するためである」と記されている点です。それはこれまで旧約聖書のエレミヤ書を読んできましたように、ユダの民は捕囚からの帰還と神殿再建を果たしユダヤ人の信仰復興がなされていきますが。その後も、周辺の大国による侵攻、さらに最も厳しい迫害と苦難の時代が訪れるのです。それは旧約聖書外典のマカベヤ記等からも読み取ることができます。その厳しい状況下、かつて預言者たちが語った、「救い主(メシア)の到来の予告」が人々の生きる望みでありました。
マタイによる福音書には歴史の主が、ユダヤの民の苦難を共に担い、導かれたという視点があります。ルカによる福音書ではマリアが、マタイ福音書ではヨセフが「聖霊」のお働きによって導かれ、やがて同じ聖霊によって主の福音が全世界に拡がってゆくのです。この偉大な神のご計画を覚えながら、今日の御言葉に聞いてゆきたいと思います。

さて、ヨセフとマリアは婚約していました。当時の婚約は、結婚と同じ法的効力をもっていたようです。この当時のユダヤ社会では、たいてい女性は12、13歳で婚約をしていたそうですが。マリアが10代前半であったことはほぼ間違いないようですが、ことヨセフに関していえば諸々の説があり、かなり年齢が高かったといわれています。
又、婚約期間はだいたい1年で、その期間を経てから、夫となる人が妻となる人を自分の家に迎えて同居を始める。これが当時ユダヤ式の結婚であったようです。このヨセフとマリアの二人はその婚約期間中であったのです。
ところが、ヨセフは婚約者のマリアが一緒に暮らす前に妊娠したことを知ります。
自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなに失望させ苦悩させたことであったでしょう。
又、彼は神を畏れ敬う人であり、神の律法規定に正しく従う人でしたから、不貞を働いたかも知れぬ女性を迎え入れることなど出来ないと考えたことでしょう。更には、このことが公になれば、彼女はさらしものとなり、裁かれ、最期は石打の刑で母子ともにその命が絶たれる悲劇となりかねない。そんな心配までヨセフの頭をかけめぐっていたのではないでしょうか。それはもう混乱と恐れが入り混じった感情であったのではないかと想像します。
裏切られたことへの苦しさ。又、神と律法に正しくあろうとする思い。そして、自分の良心として何とかマリアと生まれてくる子を守りたいという板挟みの中で悩み考え抜いた末に、彼は良心に正しくあろうと、マリアと密かに縁を切る決心をするのです。

さて、ヨセフがそのように考えていると、主の天使が夢に現れてこう告げます。
聖書の中には「夢」についての記述が多くあります。旧約聖書ではヤコブが夢で天の梯を上り下りする天使を見て力づけられます。ヤコブのその11番目の息子ヨセフも夢を見て、その夢を説いて神さまのご計画が明らかにされ、実現していきますが。このヨセフも夢の中に天使が現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げられるのです。
神の御心は実に明快です。主の使いがヨセフに告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。」ということです。箴言19章21節口語訳では「人の心には多くの計らいがある。しかし、主の御旨のみが実現する。」とあります。
ヨセフは律法に基づいて正しさに生きるか。あるいはマリアと子を助けるべきか。迷います。しかしどれを選んだとしても人の計らいは不完全なのであります。心配や後悔がつきまといます。人間ヨセフの正しさの限界がありました。そういう中でヨセフは主の御声に聴き従いました。そこに迷いはありませんでした。私たちは何を規範に歩むべき道を決めるでしょう。主なる神さまは常に生ける御言葉をもって、私たちを導こうとされています。私たちに平安と希望、生きる力と確かさを与えてくれるのです。

さて、ここで注目したいのは、主の使いがヨセフに、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った。」と伝えたことです。ルカ福音書のマリアへの受胎告知の折りは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1章35節)と天使ガブリエルが伝えています。
このように、マリア、そしてヨセフの身に起こっている出来事は、すべて神のご計画とその御旨に基づき、聖霊によって起されたことなのです。
それは二人にとって、それぞれ自分の思い描いていた歩みとは異なるものであったのです。いろいろな困難や葛藤が起こってくる。しかし、聖書は聖霊に導かれて歩み出すとき、「神の義(ただ)しさ」が明らかになり、確かな人生が切り拓かれ生きて行くことができるのです。
私たちも、聖霊が私たち自身の願望とは異なるかたちで導かれることがあるかも知れません。時にそれは困難な道、茨の道かも知れません。けれどもそれが神の備えてくださる道であるなら、聖霊は常に導かれ、その確かさにある歩みをなすことができるのです。それが「インマヌエル」、神が共におられるという体験です。

ヨセフに話を戻しますが。
誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。どんなに彼は孤独だったでしょう。けれども、そのような孤独なヨセフに主は天の使いを遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、自分の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中でなされた出来事なのです。
ヨセフは、自分には神さまが共におられる。これから自分たちが負うことになっていく道には神さまが共におられる。そうした信仰の確信へと導かれていくのです。
24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れます。」
信仰の確信により彼は新たな日を歩みだします。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼は一切を主に明け渡し、新たな道をマリアと共に主の招きに応えて歩み出すのです。

私たちそれぞれも、日常の中で人としての弱さや無力さを感じたり、苦しみ悩み、葛藤することがあるでしょう。
ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフと同様、私たちもいろんな困難を覚える状況になった時、自分が正しいと思える考え方で解決しようとするのではないでしょうか。人間的な心遣いや配慮も大事ですが、それを優先するあまり、的が外れた方向へ向かうかもしれません。神さまだけが正解を知っておられ、最善を導き、万事を益とすることがお出来になるのです。世の習わしや模範的な回答でなく、すべての真理の源であられる主の御心がどこにあるのかを謙虚に御言葉から聴き取ってゆく、その姿勢が大切でしょう。それが信仰であります。
ローマ12章2節には、「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」とあるとおりです。
神の御心に聞き従うとき、私たちの人生の道はまっすぐにされゆきます。まあそうは申しましても、私たちにはそれがなかなか分からない、だからこそヨセフのように苦悩するわけです。そういうもう人の側では何が正しいことなのか、どう生きていけばいいのか分からない、そういう時こそ、ヨセフを信仰に立たした聖霊の力、御霊の導きを求めていきましょう。
「わたしを呼び求めよ。そうしれば、わたしはあなたに答える。」先月エレミヤ書で、主が私たちに語られました。ヨセフはその聖霊のお導きに従ってマリアとその子を迎え入れる新たな一歩を踏み出しました。
ルカ福音書11章13節には、主イエスが「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」とおっしゃっています。さらに、使徒パウロは苦難の時は、ローマ8章26節に「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどの祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と記しています。
主によって私たちはこんなにも大きな励ましを頂いているのです。ヨセフとマリアのように私たちも恐れず主を迎え入れましょう。聖霊の確かなお働きに導かれつつ、インマヌエル、「主がわたしたちと共におられる。」命の道を歩んでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼

2024-12-08 13:49:26 | お知らせ
先週12月5日木曜日の朝、敬愛する中島義和牧師が天に召されました。中島先生はかつて大阪教会の牧師を長きに亘り務めてこられました。晩年は大阪教会大阪旭伝道所の牧師として働かれました。
12月7日、大阪教会にて告別式が恙なく行われました。
中島牧師を偲び、バプテスト連盟理事長はじめ、関西地方教会連合諸教会の方々、又しんもり福祉会・平和の子保育園が立ち上がっていく当初から共に関わりを持たれた現理事長、又中島牧師が部落解放に関わる諸活動にご尽力なさっておられたので、その同士等も含め、礼拝堂はいっぱいになりました。
地上でのお別れにお寂しい思いをなさっておられるご遺族のうえに、主の御慰めとお支えがゆたかにありますようお祈り申しあげます。平安
                      日本バプテスト大阪教会牧師

中島 義和略歴

1929年 12月17日 父 義雄 母 君子 次男として福岡県に生まれる
      旧制中学、その後、外語専門学校
1949年 西南学院バプテスト教会にて受浸(尾崎主一牧師)
      西南学院大学神学科入学、篠栗・中久原伝道所で奉仕
1952年 西南学院大学神学科卒業、日本バプテスト大阪教会牧師就任
      以降、大阪教会諸伝道所の開設・教会組織に尽力
1954年 平賀久子と結婚(東福岡教会・河野貞幹牧師司式)
1955年 長男 信吾、長女 嗣子(1957)、次男 義信(1962) 誕生
1962年 関西地方教会連合結成・会長就任
1963年 日本バプテスト大阪教会牧師辞任
1964年 日本バプテスト連盟総主事就任、大井バプテスト教会協力牧師
1977年 日本バプテスト大阪教会牧師就任
1996年 日本バプテスト大阪教会牧師辞任
1997年 日本バプテスト大阪教会大阪旭伝道所開所・牧師就任 
2019年 大阪旭伝道所休会 自宅療養、以後、病院型療養施設入所
2024年 12月5日 召天 94歳

関西地方教会連合会長,大阪キリスト教連合会長,バプテストめぐみ会理事長
バプテスト連盟医療団専務理事,しんもり福祉会理事等、歴任。連盟部落問題特別委員・部キ連委員としての働きに尽力
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TiA TNG Choir Gospel Workshop

2024-12-04 17:43:39 | イベント
 

12月3日宝塚ベガホールで行われた TiA Christmas Gospel CONCERT
KIZUNAに、ワークショップを積み重ねて来られたTiA Choirsチーム関西・TNG Choir が初出演を果たされました。

Gospel workshop会場として使っていただき、光栄です。

宝塚ベガホール 12/3
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024/12/8 アドベントⅡ 主日礼拝式

2024-12-04 17:21:10 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエス・キリストの系図

2024-12-01 13:25:54 | メッセージ
宣教    マタイ1章1~17節 アドベント・世界祈祷週終日

いよいよ12月に入りました。今年も残すところ1カ月となりました。また、本日より主イエスのご降誕を待ち望みつつ歩む、待降節・アドベントに入りました。守り支えられている主の恵みひとつ一つを数えながら、クリスマスをお迎えしたいと思います。

本日のアドベントから新約聖書のマタイ福音書より御言葉を聞いていきます。今日はその1章「イエス・キリストの系図」の箇所であります。
新約聖書を初めて手になさった人は、まず、最初にマタイ福音書のこの系図をご覧になるでしょう。そして多くの方が自分と関係のない話だと、もうそこで読む意欲を失ってしまう人も少なくないでしょう。とても勿体ないことです。
しかしこのイエス・キリストの系図は、聖書の「神による救い」とはいかなるものかを示す大切な記事なのです。言い換えますなら、救いを必要とするすべての人に向けられたメッセージともいえるわけです。

それは、旧約のアブラハムの族長時代。次に、イスラエル統一の王であったダビデからの王国の時代。さらに、捕囚と苦難を経験したユダの民が、解放されて神殿再建と信仰の復興を得ますが、再びギリシャやローマといった大国の支配される暗黒の時代。そうした3つの時代を貫き、イエス・キリストへとつながっていきます。それはおおよそアブラハムから2000年もの年月が及ぶものでした。が、私たちはイエス・キリストの誕生からおおよそ2000年を経てきた時代の今を生き、生かされているのであります。

この「系図」と訳された原語は、ギリシャ語で「ビブロス ゲネセオース」という言葉で、「創造の経緯」と直訳できます。ひらたく言えば「いのちの誕生の書」といった意味合をもちます。それは神さまがお造りになられた人の「いのち」が連綿とつながれ、神の創造の業が続けられて来たことを表わしていると言えるでしょう。
普段は系図というと、その由緒、家柄、家系を証明するものをイメージします。まあ王室や皇族方はそれを重んじておられるでしょうが。一般的には家系や血統ということなど普段意識していないものです。
しかし、当時ユダヤの祭司たちは自分たちの誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。自分が何族であり、主だった先祖から何代目だとか、嗣業の地はどこにあるとかを記憶していました。それは、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになっていったからだということです。そこで自分が「神に選ばれた民」であるという、存在意義を見いだし力づけを受けて、共に結束して生きることができたからです。
だから系図はユダヤ人にとってとても大事なものとなったのです。
ところが、今日のイエス・キリストの系図には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリアと何と5人もの女性が登場しています。先に言いましたように、ユダヤの系図は父方の系図であるにも拘わらず、不思議にもこうした女性たちが登場するのです。

まず、夫を亡くして寡婦となった異邦人タマルは、義理の父であり信仰の父祖ヤコブの子であるユダが、自分を擁護する義務を果たそうとしない冷酷さに苦しみ、神の前に自分の存在を賭けて遊女を装いユダの子孫を宿した女性でした。次のラハブは、異邦の地エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でした。彼女はエリコの町を偵察に来たイスラエルの遣いの者たちを守るように助けるのです。それは彼女が彼らの主、天地創造の生きた神を信じた「信仰による」と聖書にあります。彼女は後に、イスラエル人サルモンとの間にボアズを生みます。そのボアズは異邦人ルツと出会います。彼女はかつてイスラエル人の夫に先立たれるのですが、その姑の神を信じ、その信仰によってイスラエルの地に住み、ボアズとの間にオベドが生まれます。そのオベトからエッサイ、エッサイはダビデと系図が続きます。この王国時代のダビデの妻というのはバテシュバのことですが。彼女はダビデ王の横恋慕に遭い、その夫ウリヤはダビデの策略によって殺され、ダビデはバテシェバを召しかかえるのです。ダビデというのは偉大な王であり、多くの賛歌を詩編に残した信仰者でしたが、救いの主、イエス・キリストの系図にその深い罪が、隠されないまま赤裸々にされているのです。
では、マリアはどうだったのでしょうか。その素性について何も記されていません。ただわかっているのは、彼女が信仰によってイエス・キリストを受胎し、生み育てたという事です。
この5人の女性たちは、それぞれに悲しみや重荷を背負って生きていましたが。そこで生ける神と出会い、心の底から信頼し、より頼むその信仰によって「神の創造の経緯」であるイエス・キリストの系図に用いられているのです。
人の世では恥となるようなことは隠したい。立派な父方の家系は箔が付くということで、このような女性たちの先祖がいたとしたら、極力隠したままにするでしょう。しかし救い主、イエス・キリストの系図はそれを露わにします。彼女たちはその信仰によって神に認められた人たちであるからです。

救いの神は世にあって如何に弱い立場におかれようとも、罪人と忌み嫌われようとも、生ける神を畏れ、敬い、慕い求める信仰を決して見過ごしにさらず、心に留めていてくださるお方なのです。この信仰による救いが、イエス・キリストの系図を通して示されているのです。
私たちは神の救いに与った者も、この信仰によって神の前に罪を言い表し、信仰によってイエス・キリストを救い主と信じたからです。
神の御独り子、イエス・キリストは、私たちと同じ人間の姿になられ、世にお生まれくださいました。イエス・キリストは「世の人の罪を取り除く神のあがないのための小羊」として私たちのところに来てくださいました。それは私たちが主に立ち返って、キリストにある新しい命に与って生きるためです。
歴史における神の創造の御業は続いています。この救いの主、イエス・キリストの系図に、信仰によって私たちひとり一人もまた連なる者とされているのです。私たちは確かにアブラハムからなる血肉のものではありませんが、神は「アブラハムの祝福によって地上のすべての民が祝福に入る」ことが約束しておられるのです。さらにローマ書13章にありますように、「共におられる主、イエス・キリストによって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木されて」いるのです。
私たちの存在がどんなに弱く小さく思えても、神の前に立ち得ないような罪人であったとしても、招き給う神は信仰によって、私たちをご自分の民としてくださるのです。何とありがたいよき知らせ、これが福音であります。私たちが主、イエス・キリストによって神に立ち返る道を聖霊によって歩む時、だれもが神の平安と祝福を受け継ぐ者とされるのです。

本日は世界祈祷週間の最終日であります。先にも言いましたが、神は「アブラハムによって地上のすべての民族がその祝福に与る」と語られました。それはイエス・キリストによって実現されているのです。それは又、血肉によらず聖霊の働きであるのです。
イエスは、素性のよくわからないマリアより聖霊の導きによって生まれ、聖霊によって神の国の到来を告げ、聖霊によって十字架の救いの業を成し遂げられました。救いの主、イエス・キリストは血肉、血縁によらず、神の霊によって人の力や業を遥かに超えた神の愛と慈しみを現わされたのです。そのことによって、私たちはまことの神を知り、信じる信仰が与えられ、主の救いに与る者とされているのであります。
今も私たちの社会、世界に目を向けると、ほんとうに暗く、闇のような出来事が起っています。現実の状況に絶望感やあきらめのような無力感さえ漂う世の中です。けれどもこの時代にあってなお、ローマの信徒への手紙8章14節にありますように、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
私たちの生の全領域において、主が生きてお働きくださっていることを聖霊によって信じ、主の救いの証し人として一日一日を喜びと希望に満たされて歩んでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024/12/1 主日礼拝式 アドベント(待降節)

2024-11-30 09:18:03 | お知らせ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆかり☆ゴスペル クリスマスコンサート2024 12・1 当教会

2024-11-27 16:52:54 | イベント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「わたしを呼べ」

2024-11-24 14:13:30 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ33章1-3節、10-11節   世界祈祷週間        

本日から来週の日曜日まで、世界バプテスト祈祷週間として覚えていきます。それに先立ちお世話下さっている女性会より、世界バプテスト祈祷週間の主旨や祈りの課題等の説明とアピールがありました。日本バプテスト連盟の国内伝道、又国外伝道の働きをはじめ、世界各地において行われています様々な救援活動、和解といやし等の奉仕活動が守られ、世界の至るところで主の栄光が顕わされますよう共に祈ります。

10月から2ヶ月間に亘り読んできましたエレミヤ書、今日で最終回となりました。
先週は、危機的な時代の中で、王に主の言葉を語ったために獄舎に拘留されていた預言者エレミヤが主の命じられたとおりいとこのアナトトの畑を買うというエピソードから聞きました。その畑のある地にはベニヤミン族のレビ人たちが住んでいたのです。
それは、神に対して背を向け続けたことによって崩壊していく町々が、いつの日か回復し、人々が再びその地の畑を売り買いするようになる、というユダの民の希望のメッセージであったのです。

エレミヤは紀元前(BC)627年に預言者としての召命を神から受け、40年間預言者として活動しました。預言者は「見張り人」と呼ばれていました。見張り人は、「見張り台」の上に立って、寝ずの番をして、外敵が襲ってくるのを見張ります。人びとや社会の危機を察知して警告を発する者です。そのような、時代のときを見張る預言者が警告したにも拘わらず、人びとがそれに聞こうともせず、剣によって殺害された場合、その責任はその個々人にあるのです。(エゼキエル33章)
その一方で、預言者が危機を警告しなかったがために死者が出た場合には、血の責任は預言者にあると、預言者エゼキエルの書同33章に記されています。警告を発すべき者が発しないことの責任は重大であることを熟知していたエレミヤは、自ら迫害に遭いながらも、「神に立ち返って、その回復に与るように」と、熱く、誠心誠意をもって民に語りかけ続けます。
エレミヤはエルサレムから4キロほどに位置するベニヤミンの地のアナトトの祭司の息子でした。アナトトはレビ人の町であったようです。(ヨシュア21:17)祭司の系統であり神に仕える働きをするレビ人は他の部族と異なり嗣業の土地を与えられず、他の部族の捧げ物の中から糧を得ていました。また、共同の放牧地で羊を飼って生活をしていたのです。それは神がお命じになったことであり、神はご自身こそが彼らの嗣業となられると、おっしゃったのです。彼らは神に仕える者として敬われることはありましたが、人々の心が神から離れていく中で、レビ人を疎んじられ、流浪の民と見下されることもあったようです。エレミヤはそのような人びとの視座から、神の預言者としての召命を受け、その務めを担うことになったのです。

さて、本日の箇所も、獄舎に拘留されていたエレミヤに神は再び語られます。3節「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」。
エレミヤが囚われの身となったことは、ユダの民がやがて捕囚の身となることを象徴的に表していました。神の警告を聞かなかったエルサレムは陥落し、荒れ果て、バビロンの支配下におかれてしまうのです。苦しみと将来の希望など持てない状況に置かれていたそのエレミヤに、主が「わたしを呼べ」とおっしゃったのも、ユダの民が苦境の中で絶望することなく、主が「わたしを呼び求めよ」と語られた神の愛のメッセージ(使信)であったのです。預言者エレミヤその者が神の解放、救いのメッセージとしてもちいられていくのです。いや、預言者というのは、本当に大変な任務であるなあと思わされます。

さらに、ここで神はエレミヤに、「あなたに隠された大いなること」、新改訳では「あなたの知らない、理解を越えた大いなる事」を告げようとお語りになりました。それは2節にあるように、「神は創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる」お方であるからです。人の理解できることはほんの僅か一部分でしかありません。それさえ正しいかどうかわかりません。しかし主なる神さまは、すべてを確かにすることがおできになられるのです。その主なる神さまが「わたしを呼べ」とお語りになるのです。
こんなにも直接的に、一対一で相対して、「わたしを呼べ」と主が大胆お語りになっているのです。それは先に申しましたように、エレミヤのみならず、苦境におかれる者すべてに向けて呼びかけられているのです。エレミヤ書29章では「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしに出会うであろう。」と主は語られます。この力強い呼びかけに私たちも応え、主を呼び求めまていきましょう。

さて、10節以降には、その「あなたの知らない、理解を越えた大いなること」について語られています。
それは、その神に背を向けて陥落し廃墟と化したエルサレムが、何と再び人びとで満ち、喜び祝う声、感謝と「万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美する高が聞こえるようになるという大いなるビジョンがここに示されています。
かつて神に背き腐敗していた民、打たれ、砕かれ、嘆きと後悔ばかりであった民が、日常の生活を取りし、回復してくださった神に感謝し、主をほめたたえる賛美に満ちた活き活きとした礼拝がささげられるのです。今年の大阪教会のテーマをみなさん覚えておられるでしょうか。「まず、礼拝から」ですね。その「まず、礼拝から」の本質は、主の大いなる解放と救いに感謝を携え、「主をほめたたえよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主の御名がほめたたえられ、賛美されるところにございます。
「わたしを呼べ」と仰せのとおりに、「主よ」と呼び、叫び、祈り求める者の声に、主はお答えくださるのです。そしてその声が、やがて喜びと感謝、主をほめたたえる賛美の声に変えられるのですね。それこそが、主に信頼して生きる者の希望であります。

先週の礼拝後、肺炎の重度化で緊急入院をされているMさんの状況について担当医師はかなり深刻であるということと、検査や治癒についてもまだ当分の日数はかかるということをお嬢さんから伺いましたので、祈祷会に参加されている方々と共にお祈りしました。又、朝の早天祈り会でも祈りました。さらに先週の礼拝後、Mさんのお連れ合いとお嬢さん、教会員の有志の方々と共に、「わたしを呼べ」と仰せになる主に信頼し、「主よ、おいやしください」と思いを一つにして共に祈りました。すると、その日の夕方、何と吉田さんの主治医から、もう退院しても大丈夫ですよ、というお話しがあったという、ご連絡があったのです。まさに、すべて主によってなされたという以外無いような出来でした。思わず、「ハレルヤ、感謝します」と、主をほめたたえました。
先日も、やはり途方に暮れていたときに、「わたしを呼べ」という、御言葉にすがり「主よ」と祈ったところ、即座にその祈りが答えられる出来事が起りました。信仰は御言葉による体験です。御言葉によって祈り、神の霊の力の証明を確認して生きる。これこそ神が私たちに期待している、生きた信仰の生活です。主は生きておられ、わたしたちが主に信頼し、祈り求めることを喜んでいてくださいます。又、教会の祈りに神さまが即答してくださることを私自身経験してきました。それがたとえ思っていた通りでなくても、後になってみると最善なことであったということもあります。主イエスは「はっきり言っておく。どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ17:19)そのように言われています。
コロナ禍で集うことが困難になった2年間、信仰によるつながり、教会性を保っていくために、お一人おひとりの近況とともに、祈祷課題を載せたメールや郵送を続けました。「祈りの輪」という名をつけましたが。コロナ禍も落ち着きを見せた時点で、直接お会いできるなら、と一旦祈りの輪は終りましたが。しかし本日の「わたしを呼べ」との主の呼びかけに再びわたしたちっが心を合わせて応えていく時が来たと思っています。
私たちはもっと、「わたしを呼べ」と仰せになるこの主に期待をしていいのです。私たちがもっともっと主に依り頼み、祈り求めるところに主は答え、わたしたちのまだ知らないような大いなることを表わしてくださるでしょう。そしてそれは「主は我らの救い」と、心の底からほめ歌う、賛美へと変えられていくと信じます。
信仰という希望の道を与えられた者として、互いを祝福し祈りましょう。神が創られた世界を祝福し祈りましょう。神の国の地上における実現を祈り求めてまいりましょう。

祈ります。
主よ、互いに祈りに覚え合うことにより、平安と神の国の喜びを知ることができますように。
主よ、教会の主にある霊的交わりによって、神への期待と信頼を学ぶことができますように。
主よ、今日は特に、世界各地の友を覚えて祈る世界祈祷週間ですが。苦しみと困難の中で祈る友、平和を造り出そうとする友、厳しい状況下で子どもたちに教育を得させ、将来に希望を育もうとする友を覚え、あなたの守りと祝福がありますように。
主よ、全世界があなたの御名を高く掲げ、賛美する日が一日も早く訪れますように。
主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする