CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

2014年10月08日 05時21分20秒 | 旅行記

2014年10月4日から10月6日まで2泊3日で城下町萩を訪問しましたのでシリーズで紹介していきます。

本日はその第1回で「萩市指定史跡 旧湯川家屋敷」を写真・動画で紹介します。
英文表記:Yukawa Family Old Residence
訪問日は2014年10月6日



萩市指定史跡 旧湯川家屋敷の基本情報

所在地:山口県萩市川島67

問い合わせ先:萩市江向510 0838-25-3139 萩市観光課 (平日のみ)
       萩市椿3537-3 0838-25-1750 萩市観光協会

開館時間:9:00~17:00 観覧料:100円/1回


紹介HP:http://hagishi.com/news/upfiles/2011012610201041_2.pdf

    http://machihaku.city.hagi.lg.jp/satellite/bunkazaiopen/index.htm

所在地の地図(Goo地図)を添付しておきます



動画で旧湯川家屋敷を紹介します。

旧湯川家屋敷は、長く湯川家の方々によって守られてきましたが、平成5年9月9日付けで、
東京に住んでおられる湯川文隆氏より萩市に寄付されました。
萩市では、この屋敷を同年12月1日付けで市の史跡に指定し、保存をはかることになったそうです。





上の写真の黄色のジャンバーを着ている方から説明を受けました。

この施設への訪問者は土日祝日で40~50人 平日だと5~6人位の時もあるそうです。

出典:旧湯川家屋敷パンフレット

(1)史跡旧湯川家屋敷について  
旧湯川家屋敷は、藍場川の最上流に位置しています。
川沿いに長屋門があり屋敷の中へは、橋を渡って入ります。主屋(おもや)には、玄関・座敷と茶室
などがあります。茶室回りの意匠は特に優れています。
また、この屋敷では、藍場川の水を屋敷内に引き入れて流水式の池水庭園をつくり、池を出た水は
家の中に作られた「ハトバ」で家庭用水として使われた後、再び藍場川に戻っていきます。
このように旧湯川家屋敷では、藍場川沿いの民家として典型的な水の利用法を見ることができ、
しかもその技術が優秀です。藍場川の歴史を語る風景として非常に価値が高いといえます。
湯川家の建物は、正確にはいつ建てられたのかわかっていませんが、湯川家の古文書の中に、
明治3年(1870)に建物を改築した記録が残っていますので、当初の建物は明治以前に建てられた
ものと考えられます。
湯川家は禄高23石余の武士で、遅くとも明治の初めにはこの建物に居住していたものと思われます。

(2)藍場川
藍場川は、萩市内を流れる人口の川です。享保(1717)に江向まで、元文4年(1739)に新堀川までの
用水路として開削されましたが、その後延享元年(1744)に川舟が通航できるように拡張、
整備されました。この川の水は、田畑への農業用水や、川舟を使った荷物(たきぎや米)の運搬、
家庭用水や防火用水に使われました。また、江戸時代には「大溝」と呼ばれていたようですが、
下流の江向に明和年問(1764-71)に藍場(藍玉座)ができたために、明治以降いつしか
「藍場川」と呼ばれるようになりました。


(3)ハトバ
簡単にいえば、「川沿いに階段を作って、水に近づけるようにしたところ」です。
この湯川家屋敷のなかにも、風呂場と台所の2カ所に作られています。
道沿いにあったり、屋敷のなかにあったり、屋根があったりなかったりとさまざまですが、
藍場川沿いには、今もたくさん残っています。

   ① 庭園 川の水を庭に引き込んで、池を作っています。
           また、池の水がどこに流れているかに注目してください。 
   ② 台所のハトバ 庭園から流れ出た水は、建物の下をくぐって、台所のハトバに出てきます。
           ここで野菜や茶碗を洗った水はまた藍場川に還っていきます。
   ③ 風呂場のハトバ ここの風呂場のハトバは、外から見ると三角形のでっぱりがつき出ていて、
           雨の日でも濡れずにお風昌の水を汲むことができます。

英文での説明

Yukawa Residence

The Yukawa Residence is entered over a huge slab of stone serving as a bridge across the canal.
The Yukawa family were low-ranking samurai, but their house is much larger and grander than usual for a family of their rank, probably due to their position as "keepers" of the canal.

The large tatami rooms contain artworks and various implements, but more interesting is the bathroom and kitchen.
In the kitchen, stone steps lead down to the water's edge and the opening is covered by a canopy.

Here the family drew water for the cooking and cleaning and also used a small waterwheel to power a mortar and pestle.
Many of the houses along the waterway still have these hatoba. There is a nice garden with a teahouse and a small pond fed by the stream that runs through the garden.
The water comes from and returns to the Aiba.



Read more: http://www.japanvisitor.com/japan-city-guides/aiba-waterway#ixzz3FPPM9GWn


上の写真も同じく旧湯川家屋敷パンフレット に書かれている旧湯川家屋敷の平面図です。



拡大版はこちら
  http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/rev1.pdf

上の写真は萩城下町絵図(1854-1855)における湯川家屋敷の位置を示したものです。

「樋番(ひばん)」と書かれているのが湯川家屋敷の位置です。

 樋番は松本川から樋門(ひもん)を開いて取水し萩城下新堀川まで水を通すもので
 樋門の管理をしていたもので、湯川家の先祖が担当していました。

拡大版はこちら
  http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/hagijyoukamachiezu1.pdf


上の写真は中庭です。


上の写真は説明板です。


上の写真は門の脇にある句碑です。
豊岡藩主家当主の京極高光(杞陽)の俳句が刻まれています。

Wikipediaより京極妃陽についての説明文を引用紹介します。

「京極 杞陽(きょうごく きよう、1908年2月20日 - 1981年11月8日)は、日本の俳人。本名は高光(たかみつ)で、豊岡京極氏13代当主。華族令が廃止される前までは子爵の爵位を持つ華族であった。2006年7月1日にNHKデジタル教育チャンネル『NHK俳句』にて、「静かなる美 京極杞陽」と題して特集番組が放映された」


上の写真は藍場川の景観です。



このシリーズの目次

第1回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

第2回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

第3回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

第4回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

第5回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

第6回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

第7回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

第8回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

第9回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

第10回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり

第11回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

第12回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その12 野山獄跡、岩倉獄跡

第13回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その13 住吉神社

第14回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その14 旧萩藩 御船倉

第15回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その15 梅屋(山本)七兵衛旧宅

第16回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その16 旧山村家住宅

第17回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その17 すし喜でのランチ

第18回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その18 田町・御成道

第19回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その19 旧益田家物見矢倉

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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和気清麻呂顕彰碑

2012年09月01日 16時56分59秒 | 旅行記
2012年7月18日に岡山県の津山への道中でJR西日本姫路駅と岡山駅の間を
各駅停車の列車に乗りました。
姫路発 8:00 岡山着 9:28 約1時間半の乗車であった。

9時前に車中からすごく目立つ石碑があったのでシャッターを切りました。
あとで調べたら標題の和気清麻呂顕彰碑でした。

和気清麻呂顕彰碑の基本情報
住所:岡山県和気町藤野
問い合わせ先:和気町教育委員会 0869-88-9110

25,000分の1 電子国土基本図地図情報(国土地理院 地図閲覧サービス)による
和気清麻呂顕彰碑の位置を示します。
 中央の経緯度 北緯34度48分37.7秒  東経134度10分18.7秒 
+印が和気清麻呂顕彰碑のある位置です。


上の写真が山陽本線の吉永駅と和気駅の間の田んぼの中にある和気清麻呂顕彰碑。
近くには「和気氏政庁跡」の碑も建っているそうです。
付近の「大政」「国司免」「初米田」などの地名から,和気氏の郡衙(役所)があった地と
いわれています。

碑の近くに下記のような和気町の教育委員会作成の説明書きがあるようです。
「この碑は記紀による日本建国2600年記念事業として昭和15年(1940)岡山県内
教育関係者の寄付および奉仕によって建てられました。
ここは地名を「大政」といい大政所に因むもの、すなわち古代の郡衛・郡家の跡と
推定されて、当時清麻呂公顕彰の風潮下で建碑地となりました。
この地での郡衛・郡家の存在を証する物は未確認ですが、近傍の地名を見ますと
条里地割りに沿って古代山陽官道の駅の跡と思われる地名である
「尺所」(和気町尺所」がある上に「飼葉」(和気町藤野・吉田)の地名もあります。
また、郡田を示す「香炉田」(和気町日室)、郡治に因む「治部田」(和気町藤野・吉田)、
領巾田(采女化粧田)を示す「古布羅田」(和気町藤野)がつづき、郡総社であった
宗堂の地名「宗堂」(和気町泉)もあります。
このように古代郡政関係の地名が周囲に多く並びますので、この辺りに郡衛・郡家が
あったとみて差し支えないでしょう。
なお、この碑から南西約1キロメートルのところに「天永3年(1112年)、大神主・
和気朝臣欽行」の棟札を有する由加神社があり、また北東約1キロメートルには
和気広虫・清麻呂と和気氏先祖・応神天皇を祀っている和気神社があります。」


和気清麻呂についてWikipediaより引用させていただきます。
和気 清麻呂(わけ の きよまろ、天平5年(733年) - 延暦18年2月21日(799年4月4日)
は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。
氏姓は当初、磐梨別公(いわなしわけのきみ)[1]、のち藤野(輔治能)真人、
和気宿禰、和気朝臣に改めた。官位は従三位・民部卿、贈正三位、正一位。
備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。769年(神護景雲3年)7月頃、
宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が
宇佐八幡神の神託として、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。
道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも
考えられているが、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。[2]

称徳天皇は側近の尼僧和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は
堪えられぬため、弟の和気清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、
命じる。
清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、
神が禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。
清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に
顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を
訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」[3]を
朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した(宇佐八幡宮神託事件)。
762年(天平宝字6年)道鏡は孝謙上皇の病を宿曜秘法を用いて治療し、それ以来、
孝謙上皇と道鏡は密接な関係があったとされる。764年(天平宝字8年)孝謙上皇は
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧の後、淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇として
重祚すると、道鏡の権勢は非常に強まり、765年(天平神護元年)太政大臣禅師、
翌766年(天平神護2年)には法王となった。こうした状況に、道鏡に欲が出たのでは
ないか、とも推測されている。さらに、称徳天皇も道鏡を天皇の位に就けたがっていた
とも言われ、清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷
の上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)
に流罪とした。
神護景雲4年(770年)8月称徳天皇は崩御し、道鏡失脚後、光仁天皇により従五位下
に復位した。その後、播磨・豊前の国司を歴任する。この時清麻呂は自ら強く望んで、
美作・備前両国の国造に任じられている。

785年(延暦4年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路
を確保した。その後、788年(延暦7年)にのべ23万人を投じて上町台地を開削して
大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとしたが工事を行ったが費用がかさんで
失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の
茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)。
清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。平安遷都の建設を進言し
延暦12年(793年)自ら造営大夫として尽力した。
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永平寺 on 2011-9-26

2012年08月02日 06時46分49秒 | 旅行記
2011年9月26日に福井県の曹洞宗総本山永平寺に行ってきましたので
写真紹介します。永平寺と並ぶ曹洞宗総本山は總持寺です。

永平寺の基本情報
住所:福井県吉田郡永平寺町志比5-15 TEL:0776-63-3102
山号:吉祥山 宗派:曹洞宗
本尊:本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏
開創:寛元2年(1244年) By 道元禅師

当日(2011-9-26)、午前中は敦賀散策をした後、敦賀駅でさばずしを購入して
福井駅にむかった。(下の写真がJR敦賀駅の駅弁 さばずし)


福井駅から京福バスの永平寺ライナーで永平寺へ直行。
永平寺ライナーの時刻表などの情報はこちら


上の写真は仏堂。
仏殿は明治35年(1902)、道元禅師(高祖大師)の650回忌を記念し改築された
総欅(けやき)造りの中国宋代の形式に従った石畳敷きのものです。

須弥壇(しゅみだん)中央には釈迦如来、右に未来弥勒仏(みろくぶつ)、
左側に過去阿弥陀仏(あみだぶつ)の三世如来が祀られています。
通常のお寺の本堂に相当する建物です。

上の写真は僧堂。この建物も道元禅師(高祖大師)の650回忌を記念し改築されたもので雲堂とも
称される。中央には文殊菩薩(聖僧)が祀られており、修行僧が教えに従い座禅し、
食事をし、更には睡眠をとる等、最も大切な道場である。


上の写真は御真廟。
道元禅師の御真廟で、二世懐弉禅師の御尊像と御霊骨、三世・四世・五世
の御尊像も一緒にお祀りされている。


上の写真は白山水。
白山連山に連なる湧き水(霊水)で、僧侶は現在もこの霊水を守護神として朝夕
祈りを捧げています。


上の写真は承陽門(唐門)。


上の写真は庫院。


上の写真は中雀門(手前)と山門(奥)。


上の写真は鐘楼。


上の写真は報恩塔(納経塔)です。


上の写真は一葉観音。
現地説明板より要約引用
観世音菩薩は世音を観じて慈悲の手を垂れられる菩薩で、機に臨み変に応じて種々の
相を現される。昔、道元禅師が仏法を求め大海を渡られたとき、大時化に遭遇し難儀された。
船上で観音経を唱えると一葉の観音が現われ、やがて浪が静まり無事に航海できたことから
後の人々が旅の安全を願い、また人生行路の平安を願う信仰となり、一葉観音講中の方々の
発願によってこの尊像が出来現在に至っている。

昭和47年(1972)9月に開眼供養が行われました。


上の写真は祠堂殿。
檀家さんの位牌が祀られています

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滋賀県長浜市大通寺

2011年09月18日 06時02分47秒 | 旅行記
本日は大通寺を写真紹介します。

大通寺は真宗大谷派の寺院である。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。
本尊は阿弥陀如来。山号は「無礙智山」。別名は「長浜御坊」、「長浜別院」。
地元では「長浜御坊」やごぼうさんの名で親しまれています。

大通寺の基本情報
住所:長浜市元浜町32-9  TEL:0749-62-0054
公式HP

湖北の中心道場であった総坊を前身とし、慶長7年(1602)に本願寺第12代の
教如上人を開基として長浜城跡に創建。慶安4年(1652年)に現在地に移転する。


上の写真は大通寺の表参道。


上の2枚の写真は山門。天保12年(1841)の建立で総欅(けやき)造の二層門。
32年もかけて建造されたそうです。

上の写真は本堂(阿弥陀堂)。
徳川家康公が伏見城の殿舎を教如上人に贈り京都の東本願寺の御影堂にしていた
ものを家光公の時代に大通寺に移築したものと伝えられています。
建物は重要文化財に指定されています。

上の写真は本堂の左手にある大広間の玄関。
本堂と同様、承応年間に東本願寺から移築したもので、伏見城の遺構と伝えられる。
附(つけたり)指定の玄関は江戸時代中期の宝暦10年(1760)に建立。


上の写真は本堂の右手にある太鼓楼。

上の写真は山門の飾りで、あまりにも立派なのでついシャッターをきりました。
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旧岩崎邸 

2007年01月14日 09時35分50秒 | 旅行記

写真は昨年末に撮影した三菱財閥創始者の旧岩崎邸(台東区池之端)
 明治29年(1896)に完成 設計:英国人ジョサイア・コンドル

建設当時は1.5万坪の敷地であったらしいが現在は0.5万坪の
敷地に洋館、和館、撞球室(ビリヤード室)、庭園の一部が残されて
いるそうです。建設当時は20棟以上の建物があったらしい。

庭園は越後高田藩 榊原式部大輔の屋敷跡に建てられたそうです。



設計者の英国人ジョサイア・コンドル氏は日本の西欧建築の父
とも言われ、鹿鳴館、ニコライ堂など建築設計がある。
また、その弟子には東京駅を設計した辰野金吾氏ほかがいる。



建物の中ではボラティアによる説明や土曜ミニコンサートもあり
楽しめる。

ミニコンサートは
1月20日(土) ソプラノ メニッシュ純子 ギター 坪川真理子
1月27日(土) ヴァイオリン 澤田若菜 ヴァイオリン澤田昭子

問い合わせ 03-3823-8340


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勝・西郷の会見の地と江戸城無血開城

2006年12月03日 07時50分16秒 | 旅行記

上の写真は明治維新の前慶応4年(1868)3月14日に行われた陸軍総督の
勝安芳(海舟)46歳と軍参謀の西郷隆盛42歳の会見の様子を記した
モニュメントがJR田町駅の近所15号線沿いの都営地下鉄浅草線三田駅の
上あたりにあります。
当時このモニュメントのある場所は薩摩藩の江戸屋敷のあったところで、すぐに
自然の海岸線に面していたそうである。会見の場所は蔵屋敷。
明治5年(1972)鉄道も敷かれ更に埋め立てが進み現在は海岸線からは
遠くなっています。

1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川家の運命はもはや風前の灯火であった。
徳川慶喜(32歳)は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していたが、
これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もり、最後の決戦に
臨む覚悟でいた。
新政府軍による江戸城総攻撃は3月15日と予定されていたが、会見で
西郷が勝の「公のために」という説得を受け入れ、1868年(慶応4年)
4月11日に江戸城は開城され、新政府軍に明け渡された。
これにより江戸100万の民は戦禍を免れた。

西郷が出した条件は、「4月11日までに、慶喜は水戸に引きのき、
謹慎せしむべきこと、武器、軍艦等を一旦官軍に引き渡すこと」などの、
5か条の条約。
しかし、旧幕府軍にとっては納得のいかない開城だったことも
事実であり、海舟は、自ら海軍局に赴き、きちんと明け渡しが完了するまで
監視していたという。


表舞台は上記のようであるが裏の立役者は山岡鉄舟。
高橋泥舟、勝海舟と並び、幕末の三舟と称された男である。
その山岡が、わずか2~3人の部下と共に官軍の本陣(駿府)に赴き
西郷隆盛と直談判した結果なのである。

こうして明治新政権は1868年9月8日に誕生した。



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志賀直哉旧宅跡

2006年11月28日 06時13分54秒 | 旅行記

写真は志賀直哉が父直温(なおはる)と明治14年(1897)に
移り住んだ場所です。当時直哉は14歳でここで29歳まで過ごして
います。処女作の「或る朝」をはじめ「網走まで」「正義派」
「大津順吉」など初期の名作を生み出しています。
この土地に関する作品には「剃刀」「自転車」があります。
当時の屋敷は1682坪もあったそうです。
当時の家屋は昭和20年の戦災で全焼して残っていません。
現在はブリジストンの三河台アパートになっておりバックは
2007年春オープン予定の東京ミッドタウンです。
行く先の目印はフランシスコ会の教会の前です。
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赤い靴の主人公「岩崎きみちゃん」像

2006年11月19日 05時17分34秒 | 旅行記

上の写真は麻布十番にある赤い靴の主人公「きみちゃん」の像です。
この像は麻布十番で洋品店を営む山本さんが港区に働きかけ1998年に建てられた。
1番 赤い靴 はいてた 女の子  異人さんに つれられて 行っちゃった
2番 横浜の 波止場から 船に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった
3番 今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう
4番 赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢うたび 考える
童謡「赤い靴」(大正11年(1922年) 野口雨情作詞、本居長世作曲)
この詩で有名な「赤い靴」で歌われている女の子は実在の人物でした。

名前は、岩崎きみ。明治35年(1902)7月15日生まれ。母は岩崎かよ。
女の子が母親姓なのは、私生児だからです。
母親かよ明治14年(1884)生まれ昭和23年(1948)没
父親は「刑務所暮らしが長かった人」だそうです。
故郷で暮らすのに肩身が狭かった未婚の母・かよは、2年後、幼いきみを連れて北海道・函館に渡り、知人の紹介で鈴木志郎と結婚しました。
志郎は、当時「ユートピア」建設を目指していた社会主義系の新聞「平民新聞」の記者でした。
志郎は間もなく、北海道留寿都町に開設された開拓農場「平民者牧場」への入植を決意します。
彼に人生を託したかよも一緒に行くことにしましたが、当時、北海道での開拓労働は命がけの仕事でしたから、3歳の幼子を連れて行くのは危険すぎました。
そこでかよは、やむなくきみを、子供に恵まれなかったアメリカ人の宣教師夫妻の養女に出したのです。(養父母ヒュイット師夫妻)
母かよはきみちゃんがアメリカに行って幸せに暮らしていると信じて野口雨情にこのことを話し、この詩が生まれました。
しかし実際にはきみちゃんは鳥居坂教会の孤児院(現在の地下鉄麻布十番駅の近くの十番稲荷神社のある所にあった)で病気がちであったためアメリカには行けず明治44年(1911)9月に9歳で結核で亡くなっている。
母親かよは、そのことをまったく知らないまま、
年を重ね、やがて亡くなったのだそうです。
母と子の絆を「きみちゃん」の像に託して作成されたと注釈されている。

亡くなった東京・麻布永坂町(現・麻布十番)だけでなく、
1)横浜山下公園や、
2)かよと志郎が開拓に挑んだ北海道の留寿都
3)きみちゃんの生まれ故郷の静岡市清水区の日本平にも、
きみちゃんの像があります。

参考書:合田道人著「童謡の謎」
    2006年9月20日北海道新聞

下の写真はきみちゃん像のある麻布十番商店街の一角。


    
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六本木ヒルズ

2006年11月12日 21時51分40秒 | 旅行記

すっかり東京の新名所となった六本木ヒルズ230の店舗が入り
どこも賑わっている。
写真は麻布十番商店街方面からの遠景です。

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静御前の墓と静御前まつり

2006年11月05日 17時30分24秒 | 旅行記

写真は静御前の墓でJR宇都宮線栗橋の駅から2分のところにあります。
毎年10月の第3週に静御前まつりが開催されています。
栗橋町の教育委員会の説明書によれば「静御前は磯の禅師の一人娘として仁安3年(1168)の生まれとなっている。静は、文治五年(1189)奥州の義経を追って、侍女と共に京都を後に奥州平泉へ向かいました。下総国の下辺見という所で、義経の最後を知らされた。
そのことを知った静は、すぐに髪を切って仏門に入るつもりで都へ行こうとした。しかしその途中、長旅の疲れもあり「伊坂の里」で病に罹り同年9月15日に帰らぬ人となったとある。

いずれも栗橋町に残っている伝承を基にしたもので公式な生没年ははっきりしていません。

まつりの詳細はこちらをご覧下さい。
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