CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

明智光秀塚

2006年10月24日 06時30分17秒 | 旅行記

天正10(1582)年6月2日に,明智光秀(1528~82)は,本能寺で主君織田信長を急襲し
自害させた(本能寺の変)。その後,中国地方高松城攻めからから引き返してきた
羽柴(豊臣)秀吉(1536~98)と13日に山崎で戦ったが敗れた(山崎の戦い)。
光秀は再起を期して家臣5-6人と近江坂本城に戻ろうとしたが,
小栗栖(現 京都市伏見区)で土民から竹槍で襲撃され明智藪で自刃した。
その際,首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって知恩院近くまで来たが夜が明けた為
この地(東山区三条通白川橋下る梅宮町)に埋められたと伝えられている。
場所下の地図のとおりであり、餅寅という饅頭屋さんの隣の路地を少し
入ったところにあります。以上は塚の説明書に若干追加。
別の資料では次のように紹介されています。
天正10年6月17日、羽柴秀吉は三井寺で光秀の首実験を行い、翌日この首を
京の粟田口にさらした。
当初、この首は粟田口黒谷通の東に埋められていたが、明和8年(1771)に
この地に住む能狂言の笛ふきをつとめる明田利右衛門(明智の縁者か)が、
栗田口黒谷の五人組連中からもらい受けて自宅のこの地に移し菩提を弔った
という。幕末に「東梅宮・明智光秀墳」の道標が建てられ、明治36年には
歌舞伎俳優の市川団蔵が、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻んだ墓石を
造ったといわれる。(「京都の墓碑めぐり」竹村俊則著京都新聞社)

下の写真は餅寅の店の写真です。

下の写真は長存寺殿明窓玄智大禅定門と刻んだ墓石と五輪塔


下の写真は白川沿いで当日(06年10月14日)は河川の清掃が行われていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐倉が生んだ偉大な画家 浅井 忠

2006年10月04日 06時33分56秒 | 旅行記


佐倉が生んだ洋画の父
  浅井 忠(安政3(1856)-明治40(1907)

佐倉美術館横の銅像。

詳細説明はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葛谷御霊神社(くずがやごりょうじんじゃ):西落合御霊神社

2006年09月12日 05時59分13秒 | 旅行記

写真は9月9日、10日の例大祭を前にした西落合の御霊神社である。
正式名は葛谷御霊神社(くずがやごりょうじんじゃ)
祭神は 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 武内宿彌
寛治年間(1087-94)陸奥守源義家、鎮守府将軍として奥州の阿部討伐
の折、山城国桂の里の一族が義家卿の軍に従った。
常に氏神八幡宮に勝利を祈り無事賊徒を亡したその一族が京都に帰還の
途次、この地にとどまり、神威あらたかな氏神八幡宮および神功皇后、
武内宿禰を祀り、御霊社と称した。

〒161-0031 新宿区西落合2-17-17
TEL 03-3951-8512
FAX 03-3953-7897
最寄り駅 西武新宿線「新井薬師駅」 6分
場所は下の地図を参照。



明神鳥居をくぐると拝殿に通ずる。
2006年9月9日(土)の例大祭

結構な数の出店が出る。

9月9日(土)のカラオケ大会風景

祭りのハイライト御神輿
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅草サンバカーニバル

2006年09月07日 06時05分14秒 | 旅行記
8月26日(土)第26回浅草サンバカーニバルがあり
約50万人の人手であった。




公式HPへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お台場

2006年08月28日 05時58分57秒 | 旅行記

お台場で一番人が集まるフジテレビの本社ビル。
丹下健三氏がデザイン。
夏休みのイベントのせいかとにかく人が多い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正気歌碑----藤田東湖の歌碑

2006年08月24日 06時10分26秒 | 旅行記


歌碑の隣の解説書より要約転載。

墨田公園の中にある歌碑である。
墨田区向島一丁目3番
江戸時代末期尊王攘夷論者として知られていた水戸藩士
藤田東湖の歌碑である。
「天地正大の気粋然として神州に鍾る(あつまる)。
秀でては富士の嶽となり巍々(ぎぎ)として千秋に聳ゆ(そびゆ)」
と日本古来の国体を賛美した「正気の歌」は弘化2年(1845)
から3年間小梅の水戸藩下屋敷に幽閉されている時に作られて
ものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深川不動尊と永代寺跡

2006年08月16日 05時16分09秒 | 旅行記

1703年に成田山本尊の別院としてスタートしたのが
写真(2006-8-13)の深川不動尊の始まりである。

上の写真は深川公園にある富岡八幡宮別当永代寺跡の碑です
成田不動尊の出張開帳が、この永代寺の境内で執り行われた。
永代寺は明治に入り、神仏分離令により、廃寺となった。
門前にある吉祥院が1896年にその名を受け継いだ。
門前仲町はこのかつてあった永代寺の門前の街という意味から
つけられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富岡八幡宮二宮渡御

2006年08月14日 06時17分01秒 | 旅行記

8月13日(日)に富岡八幡宮二宮渡御があった。
昨年は3年に一度の本祭で「水掛祭」とも呼ばれる。

写真は7:30頃富岡八幡宮より出る時に撮ったものです。

写真は富岡八幡宮の正面からのものです。

写真は格納されている一宮です。
毎月1,15,28日に一般公開されているようです。
富岡八幡宮のHPはこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝海舟像

2006年08月13日 16時20分30秒 | 旅行記

勝 海舟 文政6年(1823)-明治32年(1899)

写真は墨田区役所横のうるおい広場に平成15年(2003)7月21日に建立された像です。
勝海舟の業績で最大のものは西郷隆盛との談判で明治新政府の江戸城総攻撃を防ぎ
江戸城を無血開場(1868年4月)を決め江戸の住人を戦渦より救ったことです。
また正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗上野介が伊井大老の命令で
日米修好通商条約(岩瀬とハリス)の批准書の持参に際し1860年(万延元年1月22日~9月28日)
に77人のチームでアメリカの準備したポーハタン号とともに咸臨丸の艦長として練習航海し
サンフランシスコ、ワシントン、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨーク、喜望峰経由で
インド洋、バタビア、香港と世界一周をしたことが海舟の世界を広げた。
この時福沢諭吉、ジョン万次郎も乗船していた。
批准書は第15代ブカナン大統領にワシントンで手渡された。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿淀橋の名前の由来

2006年08月12日 05時38分55秒 | 旅行記
淀橋は昔「姿見ずの橋」、「いとま乞いの橋」、「面影橋」などと
呼ばれていた。このあたりに中野長者と言われていた鈴木九郎が
自分の財産を地中に隠す為他人に知られることを恐れ手伝った人を
神田川に投げ込んだそうです。九郎と橋を渡った人が帰る時には
姿が見えなかったことからこのような名前がつけられていた。
花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えもあった。

鷹狩でこの姿見ずの橋で休憩していた徳川家光が、「不吉な話は
良くない景色が淀川に似ていたので淀橋と改めるように」命じた。


写真は現在の淀橋で新宿区と中野区の境界となっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする