今年も例年通り2月3日に長田神社古式追儺式が実施されました。
今年の2月3日は兵庫県立美術館のエッチング(銅版画)の教室がある日だった
こと及び午後も所用があった為、見に行けませんでしたがその前日に行われた
鬼7匹(赤鬼、姥(うば)鬼、呆助(ほうすけ)鬼、青鬼、一番太郎鬼、餅割鬼
尻くじり鬼)が本番に向けての鬼踊りの練習、絵馬殿での餅つき、餅花の拝殿
への献納などを見学することが出来ましたので写真紹介します。
まず、2月2日当日の鬼7匹の時間割り概要を記述しておきます。
9時~16時 鬼の餅つき(於:境内の絵馬殿)
餅は専用の餅つき機械でおこなわれます。
儀式として鬼がつく餅つきは11時過ぎから始まり30分程度で終了します
餅花つくり、12か月の餅(別名:鬼の餅または影の餅)、六十四洲の餅
さらに拝殿に献納される餅などがつくられます。
10時~16時 鬼役練習(禊-於境内 井戸)
7匹の鬼は禊(みそぎ)をしながら練習、神事、本番の準備などを行います
禊は境内の井戸の水を基本的には33回、最後には50回体に浴びせます
禊の時はフルチン状態であり撮影禁止となっています。
上の写真は餅つき神事の様子です。
準備された餅
上の写真は絵馬殿で作られた餅花
お餅は柳の木の枝につけられており厄除けの意味があります。
柳は生命力が強く魔除けに効果があるとされます。
上の写真は辰巳寿司に運ばれた餅花
上の2枚の写真は拝殿に奉納するために運搬中の餅花と拝殿の中の餅花
拝殿の奥の両側に、柳の大枝に餅とミカンをつけて花が咲いたように飾り付け
されます。宇宙及び星を表しているそうです。
上の写真は5匹の鬼(一番太郎鬼、赤鬼、青鬼、姥(うば)鬼、呆助(ほうすけ)鬼)
の鬼踊り練習風景
上の5枚の写真は餅割り鬼=鬼の大将(大役とも呼ばれます)と大役の女房役
である尻くじり鬼の鬼踊り練習風景
上の写真は練習と禊の間に暖をとる7匹の鬼役
上の写真は古式追儺式の看板と垂れ幕
次に話題を変えて長田神社古式追儺式の歴史について簡単に記します
慶雲3年(706) 中国より伝わる
寛文9年(1669) 一番太郎鬼の面に寛文九の銘あり
貞享~元禄(1684-1704)正月16日に長田神社の薬師堂で追儺式が実施
(中ノ庄長田社年中諸事付)
薬師堂の修正会の法会の結願として鬼追が行われた(仏式)
この頃は長田神社に薬師堂があった。(薬師堂の位置は下の写真)
上の写真は神戸芸術工科大学の皆様が描いたもので神戸市営地下鉄&神戸高速鉄道
の地下道にあります。摂津名所図会(寛政8年(1796))などを参照
文久2年(1862) 暁 鐘成(あかつき かねなり)作の「雲錦随筆」の中に
長田神社の追儺式の様子が書かれている
明治元年(1868) 神仏分離令で長田神社境内の薬師堂は廃棄追儺式は中断
明治17年(1884) 旧例により再興 旧暦の2月12日に追儺式が再興
神社拝殿の前で行われるようになる
明治26年(1893) 県庁に追儺神事古式書(長田神社蔵)を提出
この提出資料が古式追儺式の基本となっている
提出書類には西尻池の海岸で禊を行うとあるが
いつからかは不明であるが禊の場所が須磨海岸に変更
(神戸瓦斯醸造所、兵庫運河などで自然海岸がなくなった為)
明治43年(1910) 明治5年より制定の新暦 2月3日に実施
(旧暦の2月12日だと毎年日程が異なるため)
大正13年(1924) 長田神社本殿と拝殿などが焼失
昭和3年(1926) 本殿と拝殿が再建 拝殿の前に舞台が作られるようになる
昭和13年(1938) 阪神大水害で苅藻川が氾濫被害大
昭和16年(1941) 太平洋戦争で勃発により戦勝祈願行事が主となる
昭和20~24年(1945~1949) 一時中断
昭和25年(1950) 戦前の長田村協議会(前身は長田戸主会)と立志青年会を
継承した会として長田神社追儺式奉賛会が結成される
昭和31年(1956) 鬼役、太刀役の名前が正式に記録されるようになる
昭和57年(1982) 鬼役奉仕者の会「かんあけ会」が結成
平成7年(1995) 阪神淡路大震災によりこの年は中止
明治元年の項で述べた長田神社境内の薬師堂は廃棄された後、本尊の薬師如来は
福聚寺(ふくしゅうじ)に移し祀られたが、福聚寺に薬師堂が再建されるのは
昭和の初期になります。現在は長田神社古式追儺式の行事で福聚寺の薬師堂他で
太刀合わせの儀が行われています。
上の2枚の写真は福聚寺の薬師堂
関連ブログ:
長田神社 追儺式 on 2014-2-3 その1 須磨海岸での禊と福聚寺の太刀合わせ
長田神社 追儺式 on 2014-2-3 その2 ねりこみ、節分祭、追儺神事
長田神社古式追儺式神事 on 2012-2-3
今年の2月3日は兵庫県立美術館のエッチング(銅版画)の教室がある日だった
こと及び午後も所用があった為、見に行けませんでしたがその前日に行われた
鬼7匹(赤鬼、姥(うば)鬼、呆助(ほうすけ)鬼、青鬼、一番太郎鬼、餅割鬼
尻くじり鬼)が本番に向けての鬼踊りの練習、絵馬殿での餅つき、餅花の拝殿
への献納などを見学することが出来ましたので写真紹介します。
まず、2月2日当日の鬼7匹の時間割り概要を記述しておきます。
9時~16時 鬼の餅つき(於:境内の絵馬殿)
餅は専用の餅つき機械でおこなわれます。
儀式として鬼がつく餅つきは11時過ぎから始まり30分程度で終了します
餅花つくり、12か月の餅(別名:鬼の餅または影の餅)、六十四洲の餅
さらに拝殿に献納される餅などがつくられます。
10時~16時 鬼役練習(禊-於境内 井戸)
7匹の鬼は禊(みそぎ)をしながら練習、神事、本番の準備などを行います
禊は境内の井戸の水を基本的には33回、最後には50回体に浴びせます
禊の時はフルチン状態であり撮影禁止となっています。
上の写真は餅つき神事の様子です。
準備された餅
上の写真は絵馬殿で作られた餅花
お餅は柳の木の枝につけられており厄除けの意味があります。
柳は生命力が強く魔除けに効果があるとされます。
上の写真は辰巳寿司に運ばれた餅花
上の2枚の写真は拝殿に奉納するために運搬中の餅花と拝殿の中の餅花
拝殿の奥の両側に、柳の大枝に餅とミカンをつけて花が咲いたように飾り付け
されます。宇宙及び星を表しているそうです。
上の写真は5匹の鬼(一番太郎鬼、赤鬼、青鬼、姥(うば)鬼、呆助(ほうすけ)鬼)
の鬼踊り練習風景
上の5枚の写真は餅割り鬼=鬼の大将(大役とも呼ばれます)と大役の女房役
である尻くじり鬼の鬼踊り練習風景
上の写真は練習と禊の間に暖をとる7匹の鬼役
上の写真は古式追儺式の看板と垂れ幕
次に話題を変えて長田神社古式追儺式の歴史について簡単に記します
慶雲3年(706) 中国より伝わる
寛文9年(1669) 一番太郎鬼の面に寛文九の銘あり
貞享~元禄(1684-1704)正月16日に長田神社の薬師堂で追儺式が実施
(中ノ庄長田社年中諸事付)
薬師堂の修正会の法会の結願として鬼追が行われた(仏式)
この頃は長田神社に薬師堂があった。(薬師堂の位置は下の写真)
上の写真は神戸芸術工科大学の皆様が描いたもので神戸市営地下鉄&神戸高速鉄道
の地下道にあります。摂津名所図会(寛政8年(1796))などを参照
文久2年(1862) 暁 鐘成(あかつき かねなり)作の「雲錦随筆」の中に
長田神社の追儺式の様子が書かれている
明治元年(1868) 神仏分離令で長田神社境内の薬師堂は廃棄追儺式は中断
明治17年(1884) 旧例により再興 旧暦の2月12日に追儺式が再興
神社拝殿の前で行われるようになる
明治26年(1893) 県庁に追儺神事古式書(長田神社蔵)を提出
この提出資料が古式追儺式の基本となっている
提出書類には西尻池の海岸で禊を行うとあるが
いつからかは不明であるが禊の場所が須磨海岸に変更
(神戸瓦斯醸造所、兵庫運河などで自然海岸がなくなった為)
明治43年(1910) 明治5年より制定の新暦 2月3日に実施
(旧暦の2月12日だと毎年日程が異なるため)
大正13年(1924) 長田神社本殿と拝殿などが焼失
昭和3年(1926) 本殿と拝殿が再建 拝殿の前に舞台が作られるようになる
昭和13年(1938) 阪神大水害で苅藻川が氾濫被害大
昭和16年(1941) 太平洋戦争で勃発により戦勝祈願行事が主となる
昭和20~24年(1945~1949) 一時中断
昭和25年(1950) 戦前の長田村協議会(前身は長田戸主会)と立志青年会を
継承した会として長田神社追儺式奉賛会が結成される
昭和31年(1956) 鬼役、太刀役の名前が正式に記録されるようになる
昭和57年(1982) 鬼役奉仕者の会「かんあけ会」が結成
平成7年(1995) 阪神淡路大震災によりこの年は中止
明治元年の項で述べた長田神社境内の薬師堂は廃棄された後、本尊の薬師如来は
福聚寺(ふくしゅうじ)に移し祀られたが、福聚寺に薬師堂が再建されるのは
昭和の初期になります。現在は長田神社古式追儺式の行事で福聚寺の薬師堂他で
太刀合わせの儀が行われています。
上の2枚の写真は福聚寺の薬師堂
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長田神社古式追儺式神事 on 2012-2-3
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