本日は日本においてマッチの輸出で財を成し中国の清朝を変革しよう活動した
要人を支援した麦少彭(ばくしょうほう)を取り上げます。
神戸では呉錦堂と共に有名な華僑の一人です。
上の写真は麦少彭(ばくしょうほう)の肖像 出典:6)のPage70
須磨の別荘と生田神社西側の本邸
神戸市の西須磨小学校の百周年を記念して「西須磨の年輪」という本が1992年に
出版されました。この本の226ページに大正初めの頃の西須磨小学校周辺の略地図
という表題で麦少彭(ばくしょうほう)の別荘の位置が示されていました。
(下の2枚の写真)略地図には17 麦邸と記載
上の2枚の写真の17の位置。麦少彭の別荘は住友家の別邸の東側にありました。
出典:7)のPage226
隣家は日本のマッチ王として有名な瀧川辨三の別荘です。
また、地図には記載されていないがかっては貿易商デラカンプの別荘があった。
麦少彭の別荘は双濤園と呼ばれており明治33年(1900)開設の同文学校の創立
に関わった亡命者の梁啓超(亡命期間は1898-1911)が別荘に滞在していた。さらに
梁啓超の師であり同じく日本に亡命した康有為も来神時(明治45年(1912))時に
この別荘に滞在した。4)のPage181及び5)のPage24
双濤園は怡和別荘とも呼ばれた。
また、生田神社の西側にあった麦少彭の本宅は明治33年(1900)に鄭鵬万より購入
したもので留春別墅(りゅうしゅんべっしょ)と名付けていました。
この本邸の敷地面積は500坪位で木造の2階建洋館と前庭がある豪奢なものであった
と麦少彭の娘さん(黄麦秀容さん)が証言されています。4)のPage189-190
上の写真は中国服姿の麦少彭夫妻 出典:4)のPage191
次の麦少彭について略歴を調べてみましたので簡単に記述していきます。
麦少彭( ばく しょうほう) 中国語ではマイ・シャオポン(1861-1910)
1861年(文久元年)2月5日 広東省南海県西樵大凛郷 広東省広州府南海県(現・仏山市)西樵山に生まれる。1)
20歳の時すなわち1881年(明治14年)大阪の居留地川口で商売をしていた叔父の麦旭初を頼って、父梅生に伴われて来日した
父の麦梅生は長崎で海産物商を営んでいた。叔父の麦旭初が興した神戸と大阪の怡和号(いわごう)の内、神戸支店(栄町1丁目12番南京町西詰)
を任され、マッチの輸出で業績を伸長させた。1)3)
事業に失敗したのは、正金銀行の買弁であった葉鶴齢の保証人となったから。
事業を立て直すべくパタビア、ラングーン、インドネシア等へ赴きマッチ販売の
代理店を各所に設け営業拡大を計画したが帰途のシンガポールで病に罹り、香港で
名医の治療を受けたが、明治43年(1910)1月10日、香港で死去 1)4)
麦少彭は居留地101番館のグルームの番頭として茶蔵の差配をしていたといわれるが年代など詳細は不明。3)
麦少彭の功績
・神戸関帝廟の創建
明治21年(1888)神戸在留中国人が増加するなか、有力者の藍卓峰(らんたくほう)、鄭萬高(ていばんこう)
とともに神戸税関長の穎川君平(えがわくんぺい)と諮って建立された。
関帝廟は昭和20年(1945)6月5日の神戸大空襲で全壊したが昭和23年(1948)に本堂が再建。2)
リーフレットからの引用ですが神戸の関帝廟の生い立ちについて下記をご参照下さい。
1888(明治21)年、「慈眼山長楽寺」として誕生
関帝廟は、俗に「南京寺」とも呼ばれますが、その正式寺名は「慈眼山長楽寺」。
1888年(明治21年)4月、大阪府布施市にあった長楽寺が廃寺になるのを、現在の神戸市中央区中山手通7丁目53-1に移し、関帝、十一面観音、天后聖母をまつりました。これが関帝廟の始まりとされています。
それまでも、神戸に住む華僑の人々の間では関帝が信仰の対象としてまつられてはいましたが、ここに中国の伝統寺院としてひとつに統合され、以後華僑たちの心の拠り所となったのです。
長楽寺は、中国福建省の高僧である隠元禅師が、時の徳川幕府より許しを得て宇治に建立した黄栗宗の大本山・萬福寺につながる寺で、初代住職には長崎聖福寺より松井宗峰師が迎えられました。
現在はどの宗派にも属さず、関帝廟として独立した寺院となっています
・神戸中華同文学校の設立
明治32年(1899)5月28日、梁啓超が神戸にやってきて、在神華僑が力を
合わせて学校を設立するように提唱。麦少彭等がこれを支持学校が設立された。
明治33年(1900)3月に校舎ができた。当初は横浜大同学校の分校として創設。
創設時の校舎の場所は中山手通3-24(神戸税務署の南側)6)
麦少彭は神戸中華同文学校の総理を勤めていた。
マッチの輸出
明治時代中期の日本の輸出品の中で燐寸は重要な位置を占めていました。
輸出先の最大市場は中国であった。
麦少彭と呉錦堂はマッチ王の滝川辨三・滝川儀作親子とタッグを組み中国への
輸出を拡大させていきました。当時、マッチ生産高の80%が中国、インド、
ペルシャ向け輸出で、スウェーデン、アメリカ、日本が三大マッチ生産国であった。
明治37年版の『日本燐寸界名鑑』には兵庫県燐寸貿易業の部に怡生号(呉錦堂
神戸内栄町2丁目)、 怡和号(麦少彭 神戸栄町1丁目)、タタ商会(インド人
神戸栄町2丁目)らが掲載されている。
上の写真は明治35年(1902)に華僑が扱ったマッチの輸出額である。
出典:3)のPage39
マッチのラベルには商標がつけられていました。
下記青字の部分は小生のブログ「たるみ燐寸博物館訪問記 on 2018-10-9」から再掲
マッチは文政10年(1827)イギリスの薬剤師J.ウォーカーが摩擦マッチ、ウォーカーマッチ
(Friction Lights )を発明し、販売したのが始まりで、その後1855年スウェーデンの
イェンシェピング社のJ.E.ルンドストレームが安全性を改良した「安全マッチ」を発明
特許も取得し普及していった。
日本ではマッチは明治の初め早附木(はやつけぎ)とか摺附木(すりつけぎ)と呼ばれ
最大の輸入品であった。
国産のマッチ製造に貢献したのは燐寸の開祖、清水 誠(まこと)(1845-1899)です。
彼は明治8年(1875)東京霞ヶ関の吉井友実卿私邸において黄りんマッチの試作に成功
その後改良を加え明治9年(1876)4月に東京三田四国町に「新燧社(しんすいしゃ)」を
設立、同年9月に東京本所柳原町に移転し、安全マッチの本格的製造を開始した。
神戸では明治10年(1877)神戸監獄使役場での生産が初めてと言われている。
その後荒田町、湊町、琴ノ緒町、大開町などで民間のマッチ生産が行われました。
明治12年(1879)本田義知が明治社、明治13年(1880)滝川辨三が清燧社を設立
操業を始めた。明治18年(1885)播磨幸七が鳴行社を、明治20年(1887)には
直木政之助が奨拡社。滝川辨三の養子の瀧川(梶岡)儀作は良燧社を設立した。
直木政之介は燐寸輸出の覇者として知られています。
これらの人物の内、滝川辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれている。彼は燐寸工場を合併して
大同マッチを設立、一時期1社でシェア70%を占めるまで成長させた。
最盛期の大正8年(1919)には神戸のマッチ生産額シェアは80%を占めていた。
また、同年の輸出においては神戸港が全国の79%を占めていた。
昭和に入ってからは生産地の中心地が姫路、淡路などに移るようになって神戸における
マッチ生産量シェアも減少しています。
鐘紡株の買い占め失敗
明治39年(1906)、日露戦勝バブル景気の最中、人気の鐘紡(現カネボウ)株を呉錦堂と組んで買い占めていたのが麦少彭であった。
そのころ、すでに日本に帰化(明治34年(1901))していたが、
兜町で話題を独り占めの青年相場師、鈴木久五郎(鈴久)が「中国人に相場を左右されてたまるか」と買い向かっていく。
この仕手戦の勝利者は鈴久の方であった。
出典
1)天野健次 歴史と神戸 22巻2号(117号) 神戸史学会 1983.4
p.48~51 神戸居留地と在留外国人<中国編>
2)神戸華僑華人研究会 編『神戸と華僑 : この150年の歩み』 2004.4
神戸新聞総合出版センター(のじぎく文庫)p.64~67 関帝廟の再建
3)岸百艸 歴史と神戸 5巻4号(24号) 神戸史学会 1966.11
p.38~42 《在神中国人断章》麦少彭一斑
4)鴻山俊雄 『神戸大阪の華僑 : 在日華僑百年史』 華僑問題研究所 1979.7
p.180~196 十四、華僑の教養と文化・医療-明治中期以降昭和年頭まで-
5)鴻山俊雄 『日中交流七十年 その道一筋の回顧』 華僑問題研究所 1988.7
6)陳徳仁/安井三吉 「孫文と神戸」(1985)
7)西須磨小学校百周年記念誌「西須磨の年輪」(1992)
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