2017年1月9日、奈良県高市郡明日香村稲渕地区にある男綱の架け替えを
見学するために明日香村稲渕に来ていました。
その時に訪問した龍福寺と竹野王碑について写真紹介します。
龍福寺の基本情報
住所:奈良県高市郡明日香村稲渕1084 TEL:0744-54-2762
宗派:浄土宗 山号:天徳山 御本尊:阿弥陀如来
開祖:義淵僧正(法相宗の開祖)
Goo地図はこちら
龍蓋寺(岡寺)、龍門寺、龍泉寺、龍象寺とともに五龍寺と言われ
天武天皇の時代に活躍した義淵僧正が創建したものです。
栢森地区にも同名の竜福寺があります。
上の2枚の写真は龍福寺の本堂です。
上の写真は天保4年(1833)の銘が入った鬼瓦(以前本堂に使用)
上の写真は竜福寺と竹野王碑の説明板
上の写真は道路側より龍福寺を観た景観
上の写真は山門
上の写真は観音堂?と竹野王碑の蓋い屋
上の写真は竹野王碑
地元では、竹野王の撰文によることから「竹野王の石塔」と呼ばれ、在銘
(天平勝寶3年-751年)石造層塔では日本最古
上の2枚の写真は竹野王碑の現地説明板
この塔は天平勝寶3年(751)竹野王の撰文になるもので、在銘(天平勝寶3年-751年)
石造層塔の中でその最古のものとして注目をあつめている。層塔はもと五重石塔で
あったと考えられるが、現在は4層軸部以下が残っている。
上層の軸部の上端は方形の造り出しがあって、中央に円穴があけられているが何か
ここに納められていたものと想われる。(舎利容器or経巻か?)
総高さ190cm石質は流紋岩室凝灰岩で風化が著しく、初層軸部の四方に細字で
銘文が刻まれているが難読である。
竹野王碑は昭和53年4月1日に明日香村の指定文化財に指定
碑文より751年に「朝風」という地に竹野王によって造立されたことも判る
朝風という地名は、現在の飛鳥川と檜前川との間にある丘陵地と考えられ、
現在でも小字「アサカゼ」が残っている
竹野王は『続日本紀しょくにほんぎ』や長屋王ながやおう家け木簡にもその名が見え、
長屋王の近親の女性であったと考えられます。正面にはインドのアショーカ王が
世界中に立てたという石塔についての伝説が記されています。
Wikipediaより竹野女王の解説文を引用紹介します。
竹野女王(たけののじょおう/たかののおおきみ、天智天皇10年(671年)? -
天平宝字2年(758年)以前)は、奈良時代の日本の皇族。位階は従二位。
系譜は明らかでないが、長屋王邸から「竹野王」「竹野王子」の名が記された
多数の木簡が出土したことから、長屋王の近親者と考えられている。
天平11年(739年)1月、藤原房前の未亡人牟漏女王とともに従三位に叙せられる。
聖武朝末の天平感宝元年(749年)4月に正三位に叙せられ、孝謙朝の天平勝宝3年
(751年)1月には女性としては異例の従二位にまで昇進した。
角田文衛の説では、聖武天皇の夫人・北殿の母と目される牟漏女王と並んで従三位に
叙されていることから、聖武天皇の夫人・南殿の母で藤原武智麻呂の妻と推測している
判読できる文字が説明版で解説されているが写真で確認できたのは「天平勝宝三年(751)
歳次辛卯四月二十四日丙子、従二位竹野王」の右側面のみであった。下に添付
上の2枚の写真は龍福寺から観た稲渕の集落
稲渕の集落は50数軒程度の小規模な集落である。
自動販売機が1つも置いてない希少な存在の集落である。
見学するために明日香村稲渕に来ていました。
その時に訪問した龍福寺と竹野王碑について写真紹介します。
龍福寺の基本情報
住所:奈良県高市郡明日香村稲渕1084 TEL:0744-54-2762
宗派:浄土宗 山号:天徳山 御本尊:阿弥陀如来
開祖:義淵僧正(法相宗の開祖)
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龍蓋寺(岡寺)、龍門寺、龍泉寺、龍象寺とともに五龍寺と言われ
天武天皇の時代に活躍した義淵僧正が創建したものです。
栢森地区にも同名の竜福寺があります。
上の2枚の写真は龍福寺の本堂です。
上の写真は天保4年(1833)の銘が入った鬼瓦(以前本堂に使用)
上の写真は竜福寺と竹野王碑の説明板
上の写真は道路側より龍福寺を観た景観
上の写真は山門
上の写真は観音堂?と竹野王碑の蓋い屋
上の写真は竹野王碑
地元では、竹野王の撰文によることから「竹野王の石塔」と呼ばれ、在銘
(天平勝寶3年-751年)石造層塔では日本最古
上の2枚の写真は竹野王碑の現地説明板
この塔は天平勝寶3年(751)竹野王の撰文になるもので、在銘(天平勝寶3年-751年)
石造層塔の中でその最古のものとして注目をあつめている。層塔はもと五重石塔で
あったと考えられるが、現在は4層軸部以下が残っている。
上層の軸部の上端は方形の造り出しがあって、中央に円穴があけられているが何か
ここに納められていたものと想われる。(舎利容器or経巻か?)
総高さ190cm石質は流紋岩室凝灰岩で風化が著しく、初層軸部の四方に細字で
銘文が刻まれているが難読である。
竹野王碑は昭和53年4月1日に明日香村の指定文化財に指定
碑文より751年に「朝風」という地に竹野王によって造立されたことも判る
朝風という地名は、現在の飛鳥川と檜前川との間にある丘陵地と考えられ、
現在でも小字「アサカゼ」が残っている
竹野王は『続日本紀しょくにほんぎ』や長屋王ながやおう家け木簡にもその名が見え、
長屋王の近親の女性であったと考えられます。正面にはインドのアショーカ王が
世界中に立てたという石塔についての伝説が記されています。
Wikipediaより竹野女王の解説文を引用紹介します。
竹野女王(たけののじょおう/たかののおおきみ、天智天皇10年(671年)? -
天平宝字2年(758年)以前)は、奈良時代の日本の皇族。位階は従二位。
系譜は明らかでないが、長屋王邸から「竹野王」「竹野王子」の名が記された
多数の木簡が出土したことから、長屋王の近親者と考えられている。
天平11年(739年)1月、藤原房前の未亡人牟漏女王とともに従三位に叙せられる。
聖武朝末の天平感宝元年(749年)4月に正三位に叙せられ、孝謙朝の天平勝宝3年
(751年)1月には女性としては異例の従二位にまで昇進した。
角田文衛の説では、聖武天皇の夫人・北殿の母と目される牟漏女王と並んで従三位に
叙されていることから、聖武天皇の夫人・南殿の母で藤原武智麻呂の妻と推測している
判読できる文字が説明版で解説されているが写真で確認できたのは「天平勝宝三年(751)
歳次辛卯四月二十四日丙子、従二位竹野王」の右側面のみであった。下に添付
上の2枚の写真は龍福寺から観た稲渕の集落
稲渕の集落は50数軒程度の小規模な集落である。
自動販売機が1つも置いてない希少な存在の集落である。
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