姫路 船場城西・城南地区の散策シリーズの第6回として2022年10月3日に
訪問した千姫像と船場八景③梅雨松夜雨の写真を紹介します。
訪問した千姫像と船場八景③梅雨松夜雨の写真を紹介します。
第3回 船場川船繋ぎ岩
第4回 炭屋橋(船入川之跡)
第5回 材木町 歳徳寺
千姫像
上の写真は千姫像と現地説明板 千姫像の作者は吉田英智さん
この像はいつも千姫が祈りを捧げていた男山にある千姫天満宮の方向を向いています。姫路城二の丸の化粧櫓の方も見ていたと思われます。
現地説明板は男山の中腹に鎮座する千姫天満宮の総代会の皆様により文章が作成され総代会の会長の古本保美さんの謹書で平成9年(1997)に建てられました。前半部は千姫の境遇について説明。後半に千姫と本多忠刻の歌が紹介されています。
初秋の風を 簾にまきとりて (忠刻)
軒はにおほふ 竹の葉の露 (お千=千姫)
この連歌は二人の間に長男幸千代が生まれ、二人の幸福感がにじみ出ている。
この連歌は元和5年(1619)8月14日、将軍家から1隻の大きな安宅舟を本多忠政に預けられたのを記念して詠まれたもので本多忠刻と千姫夫婦の他、両親の忠政、於熊、2人の子供、弟の本多政朝一家の歌も記録に残されています。
お題は「船」。船は前の姫路城主因幡鳥取城主「池田新太郎光政」から献上されたものです。
上の写真は千姫と本多忠刻成婚400年を記念して2016年に制作された、
千姫色彩乾漆座像です。作者は色彩乾漆作家のサブロウコスギ氏です。
イオン株式会社名誉相談役である二木英徳氏からの寄贈です。
千姫色彩乾漆座像は姫路城西の丸のカの渡櫓に展示されています。
撮影:2022-10-12
現地説明版には下記のような書かれています。
千姫は、慶長2年(1597)、のちの江戸幕府2代将軍徳川秀忠と江の長女として生まれました。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎますが、慶長20年、大坂夏の陣で秀頼と死別。その翌年、本多忠政の嫡男忠刻と再婚しました。
元和3年(1617)、本多忠政が姫路へ転封になると、忠刻とともに姫路城に移りました。
本像は土の原型の上に砥粉や木屑入りの漆を厚く塗りその上に麻布を張ってその作業を繰り返し行なう伝統的な技法によって作られた乾漆像です。
羽子板を手に勝姫、幸千代たちの遊ぶ姿を慈愛あふれる目で幸せそうに見つめる千姫を表現したもので、容姿や服装は「本多平八郎姿絵」などからイメージして造形されたものです。
千姫色彩乾漆座像です。作者は色彩乾漆作家のサブロウコスギ氏です。
イオン株式会社名誉相談役である二木英徳氏からの寄贈です。
千姫色彩乾漆座像は姫路城西の丸のカの渡櫓に展示されています。
撮影:2022-10-12
現地説明版には下記のような書かれています。
千姫は、慶長2年(1597)、のちの江戸幕府2代将軍徳川秀忠と江の長女として生まれました。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎますが、慶長20年、大坂夏の陣で秀頼と死別。その翌年、本多忠政の嫡男忠刻と再婚しました。
元和3年(1617)、本多忠政が姫路へ転封になると、忠刻とともに姫路城に移りました。
本像は土の原型の上に砥粉や木屑入りの漆を厚く塗りその上に麻布を張ってその作業を繰り返し行なう伝統的な技法によって作られた乾漆像です。
羽子板を手に勝姫、幸千代たちの遊ぶ姿を慈愛あふれる目で幸せそうに見つめる千姫を表現したもので、容姿や服装は「本多平八郎姿絵」などからイメージして造形されたものです。
本多忠刻公(1596-1626)についてWikipediaよりその生涯をレビューする。
一部加筆。
本多 忠刻(ほんだ ただとき)は、江戸時代前期の大名。播磨国姫路新田藩の初代藩主。
慶長元年4月14日(1596年5月11日)、徳川家康の家臣・本多忠政の長男と
して生まれる。母は松平信康の次女・妙高院(熊姫・ゆうひめ)。
祖父の忠勝が慶長6年(1601年)に伊勢桑名に入部すると、忠政と共に桑名に移った。長じるに従い、忠刻は眉目秀麗で優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美丈夫だった。
大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長20年5月7日(1615年6月3日)の
道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げた。
戦後の元和2年9月29日(1616年11月8日)、将軍・秀忠の長女で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。この婚姻に関しては大坂落城後の7月に千姫が江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話がある。また、家康が臨終の際に政略結婚の犠牲とした孫の千姫のためを考えて、忠刻や熊姫に婚姻を命じたとする逸話もある。
元和3年(1617年)、千姫の化粧料として父・忠政(15万石)とは別個に新知行10万石を与えられて姫路に移った。
剣術を好み、兵法者・宮本武蔵を迎えて師事し、自家の家士をしてその流儀を学ばせた。また武蔵の養子・三木之助を小姓として出仕させ、側近とした。
千姫との間には元和4年(1618年)に長女・勝姫(池田光政正室)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれたが、元和7年(1621年)に幸千代は3歳で早世した。
寛永3年5月7日(1626年6月30日)に結核のため死去した。享年31歳。なお、23歳の宮本三木之助と21歳の岩原牛之助が忠刻の供をして殉死した。
忠刻の死により、弟の本多政朝が世嗣となった。
一部加筆。
本多 忠刻(ほんだ ただとき)は、江戸時代前期の大名。播磨国姫路新田藩の初代藩主。
慶長元年4月14日(1596年5月11日)、徳川家康の家臣・本多忠政の長男と
して生まれる。母は松平信康の次女・妙高院(熊姫・ゆうひめ)。
祖父の忠勝が慶長6年(1601年)に伊勢桑名に入部すると、忠政と共に桑名に移った。長じるに従い、忠刻は眉目秀麗で優雅さを持ち、誰もが振り返るほどの美丈夫だった。
大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長20年5月7日(1615年6月3日)の
道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げた。
戦後の元和2年9月29日(1616年11月8日)、将軍・秀忠の長女で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。この婚姻に関しては大坂落城後の7月に千姫が江戸に戻る途中、桑名の七里渡しの船中でたまたま忠刻を見初めたのがきっかけになったという逸話がある。また、家康が臨終の際に政略結婚の犠牲とした孫の千姫のためを考えて、忠刻や熊姫に婚姻を命じたとする逸話もある。
元和3年(1617年)、千姫の化粧料として父・忠政(15万石)とは別個に新知行10万石を与えられて姫路に移った。
剣術を好み、兵法者・宮本武蔵を迎えて師事し、自家の家士をしてその流儀を学ばせた。また武蔵の養子・三木之助を小姓として出仕させ、側近とした。
千姫との間には元和4年(1618年)に長女・勝姫(池田光政正室)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれたが、元和7年(1621年)に幸千代は3歳で早世した。
寛永3年5月7日(1626年6月30日)に結核のため死去した。享年31歳。なお、23歳の宮本三木之助と21歳の岩原牛之助が忠刻の供をして殉死した。
忠刻の死により、弟の本多政朝が世嗣となった。
船場八景とは
姫路船場八景は天保10年(1839)頃、船場庶民の作った和歌から酔月亭鷺雪が選出したと言われる。下記の8カ所が船場八景の和歌の題名です。
①男山秋月 ⑤景福寺晩鐘
②愛宕晴嵐 ⑥福中橋夕照
③梅雨松夜雨 ⑦鹿川帰帆
④薬師暮雪(説明板不明なし)⑧水車落雁(説明板不明なし)
船場八景の設置場所は以下の場所に掲示されています。(下の写真)
③梅雨松夜雨について
現代訳も含めて梅雨松の歌について解説されています。
上の写真は西国街道沿の文化財マップで千姫像は市之橋の南側すぐの所にあります。
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