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城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

2014年10月27日 05時13分11秒 | 旅行記
本日(2014-10-27)は旧暦ですが吉田松陰先生の命日です。
 吉田松陰の命日 安政6年(1859)10月27日(1859年11月21日)
そこで本日は松下村塾松陰神社について写真と動画で紹介していきます。

このシリーズで記事を書くのをさぼっていましたが再開します。
過去2回の記事は下記のとおりで記事にリンクしておきます。





いきなりですが松下村塾の動画を下に添付しておきます。



安政2年(1855)12月、獄を出て杉家宅で幽閉された先生は、家族などを相手に、獄内
に引き続いて『孟子』の講義をはじめます。
これに近隣の子弟が大勢参加するようになると、安政4年(1857)11月、杉家隣の小屋
を改装し、8畳1間の塾が開かれました。この時より松下村塾は事実上、松陰先生が
主宰する塾となり、それまでの初代の玉木塾・2代目久保塾とは性格を大きく変貌
させます。尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学などを始めとした広範な学問が教授
され、ただ講義を聴くだけでなく、活発な議論もくり広げられていました。
約二年しかなかった松下村塾ですが92名(諸説ある)が卒業し、維新までにそのうち
20名が亡くなるものの総理大臣2名・大臣2名・県知事4名と、異例な一大学閥と言える
ほどの人材を輩出しています。その名前の一部を列挙しておきます。伊藤博文、
山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎らが、明治政府の
最高指導者を担った。他の門下生には、萩の乱を起こした前原一誠や飯田俊徳、
渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、
中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、宍戸璣(山県半蔵)

その後、8畳1間から10畳の講義室を増設しました。これが現在も松陰神社境内に
 保存されている松下村塾です。


吉田松陰先生の年譜を下記に紹介します(Wikipediaより)

文政13年8月4日(1830年9月20日)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に
          家禄26石の萩藩士・杉百合之助、瀧の次男として生まれる。
天保5年(1834年)、父の弟である吉田大助の仮養子[5]となる。吉田家は山鹿流兵学師範
          として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。
天保6年(1835年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。
天保11年(1840年)、藩主・毛利慶親の御前で『武教全書』戦法篇を講義し、
          藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
天保13年(1842年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。
弘化2年(1845年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。
嘉永3年(1850年)、九州の平戸へ遊学。山鹿流兵学者の山鹿万介や葉山左内に学ぶ。また肥後熊本で、宮部鼎蔵を知る。
嘉永4年(1851年)、平戸藩主の参勤交代に従い江戸へ出る。佐久間象山に学ぶ。
          東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を
          守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。
嘉永5年(1852年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、
          金子重之輔と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に乗り込もうとするが、失敗。
安政元年(1854年)、伊豆下田港にて、再航したペリー艦隊に金子と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。事が敗れた後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。その後、叔父の玉木文之進が
          開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、
          幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。
安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難、
         老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。
安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致される。老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、
         江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)


上の写真は吉田松陰先生が両親宛に残した句の説明板です。
松下村塾の入り口少し手前にあります。


次に松陰神社の動画を紹介します。

2014年10月4日に訪問した松陰神社です。
以下松陰神社の公式HPの由緒書きより引用させていただきました
松陰神社の御祭神、吉田矩方命(吉田松陰)が殉節されてから31年後の明治23年(1890)8月、
松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。
明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となって、このほこらを公の
神社として創建しようと、山口県に請願書が提出されました。同年10月4日に、
 当時の社格制度の中で県社の社格をもって創建が許可されました。

松陰神社の基本情報

住所:萩市椿東1537  TEL:0838-22-4643
御祭神:吉田矩方命(吉田松陰)

Goo地図はこちら


関連サイト

 

シリーズの目次

萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。

第1回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

第2回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

第3回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

第4回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

第5回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

第6回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

第7回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

第8回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

第9回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

第10回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり

第11回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

第12回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その12 野山獄跡、岩倉獄跡

第13回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その13 住吉神社

第14回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その14 旧萩藩 御船倉

第15回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その15 梅屋(山本)七兵衛旧宅

第16回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その16 旧山村家住宅

第17回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その17 すし喜でのランチ

第18回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その18 田町・御成道

第19回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その19 旧益田家物見矢倉




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