CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

折口信夫父子墓碑へのバーチャル訪問

2024年09月09日 15時46分17秒 | バーチャル探訪
石川県羽咋市一ノ宮町にある折口信夫父子墓碑にバーチャル訪問したいと思います。
このブログ記事を書くキッカケになったのは2024年7月2日読売新聞朝刊30面に
折口信夫父子の墓という名称で文化部の待田晋哉さんが記事を書かれていました。


上の写真が折口信夫父子の墓碑です。
墓碑には「もっとも苦しきたたかひに最くるしみ死にたるむかしの陸軍中尉 
折口春洋ならびにその父信夫の墓」と刻まれています。


折口信夫(1867-1953)が折口春洋の死を嘆き、自ら墓碑を選定、昭和24年に春洋の生家藤井家の墓地に建てたものです。

気多大社境内に設置の折口博士父子の歌碑と共に折口信夫父子の墓が下記サイトでも紹介されています。

折口信夫(1867-1953)博士の一生
明治20年(1887)2月11日大阪府西成郡木津村(現大阪市浪速区敷津西町)に父秀太郎(医業)、母こうの四男として生まれる。
明治43年(1910)國學院大學を卒業。大阪で中学校教師をしたのち、國學院大學に勤め、国文学、民俗学、芸能学、言語学と研究分野を広げる。大正10年(1921)9月國學院大學教授となり、昭和3年(1928)5月慶應義塾大学教授を兼任、昭和7年(1932)3月に文学博士となる。
一方で詩歌の才能に優れ、釈迢空の筆名で独自の歌風を確立する。
生涯独身で、門弟の鈴木金太郎、藤井春洋等と同居。昭和19年(1944)7月21日に春洋を養嗣子とする。
昭和24年(1949)7月、春洋の生地である羽咋市一ノ宮町に父子墓を建てた。 昭和28年(1953)9月3日午後1時11分、胃癌のため没した。享年66歳。

さらに詳細な年譜は下記サイトに詳しく書かれています。

私がこれまでに書いた折口信夫に関する写真と記述を再掲載しておきます。

上の2枚の写真は奈良県明日香村の飛鳥坐神社の境内にある折口信夫博士に由来の歌碑と説明板
撮影:2016年12月22日
民俗学・国学者であり、「死者の書」の著述で知られる折口信夫氏は、飛鳥坐神社の
宮司の家に養子に入ったこともあり、そのことを終生誇りに思っていたそうです。
説明板には81代宮司の飛鳥助信(1781-1859)を祖父にもつとの記述が見えます。
現在の宮司は87代目。
国文学者である折口信夫は飛鳥坐神社の神主家・飛鳥助信(飛鳥坐神社の神官の子
を意味する。母方の祖父)、造酒ノ介(彼はもと、大和の明日香村岡寺前の
岡本善右衛門の8男であったが、同地の古社飛鳥坐神社の累代の神主家飛鳥助信
の養子となった)の孫に当たる。

そのため、境内には釈超空(折口信夫)の歌碑があるというわけだ。

飛鳥坐神社への訪問記



上の2枚の写真は談山神社境内にある折口信夫(釈迢空(しゃく ちょうくう))の歌碑と折口信夫氏の紹介板
撮影:2013年7月6日

談山神社への訪問記は下記ブログで書いています。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ダイニング SACHI でのラン... | トップ | 藤原道長の御岳詣がNHK大河ド... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

バーチャル探訪」カテゴリの最新記事