小栗 忠順(1827-1868)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。
通称は又一。「又一」は、代々小栗家当主が名乗る名前。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介と改名した。三河小栗氏第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた中川忠英。
安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う(仏より240万ドル借款)。さらにパリ万博の使節団に対し仏より600万ドルを借款し薩長を討伐するための武器の購入を謀った。また、江戸薩摩藩邸焼打ちを実行した人物でもあります。
徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。
のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。
幕末の政治家。明治初期の新聞記者。名を鯤(こん)、通称瀬兵衛(せへえ)。匏庵(ほうあん)・鋤雲と号し、安芸守(あきのかみ)を称する。幕府の医官喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男。同じく医官の栗本氏の養子となり、1850年(嘉永3)内班侍医となったが、上司の忌諱(きき)に触れて1858年(安政5)蝦夷地(えぞち)移住を命ぜられた。10年間を箱館(はこだて)に過ごし、この間フランス人宣教師メルメ・ド・カションEugene-Emmanuel Mermet de Cachon(1828―1889)と親交を結び、1862年(文久2)士籍に列し幕臣となってから一貫して親仏派の領袖(りょうしゅう)として幕末外交史上に活躍した。
1864年(元治1)目付に任じ、横浜鎖港談判にあたり、翌1865年外国奉行(ぶぎょう)となる。この間、フランス軍事顧問団の招聘(しょうへい)、横須賀造船所の設立に尽力し、フランス文化の移植と殖産興業に努めた。1867年(慶応3)に渡仏した将軍名代徳川昭武(とくがわあきたけ)(1853―1910)をたすけてフランスに派遣され、幕仏間の親善を図ったが、幕府倒壊により1868年帰国。その後一時世間との交渉を断ったが、1872年『横浜毎日新聞』に入り、翌1873年『郵便報知新聞』(『報知新聞』の前身)に編集主任として招かれ、1885年に同社を退くまで才筆を振るい、成島柳北(なるしまりゅうほく)、福地桜痴(ふくちおうち)らとともに声名をはせた。その間、1878年には東京学士会員に推された。60余編の遺著が『匏庵遺稿』に収められている。
栗本鋤雲は徳川昭武が欧州各国を視察している時期にフランスに渡り仏政府から
600万ドルを借款する交渉をしたが失敗した。
上の写真は大河ドラマでフランス語で徳川慶喜のことを批判する栗本鋤雲(池内万作)
そこで、渋沢は裕福な者から借銀をして準備金を用意することを考えました。
この出資者は、揖東郡日飼村(たつの市)堀彦左衛門(2500両)、加東郡垂水村(加東市)藤浦常八(1250両)、多可郡下比延村(西脇市)広田傳左衛門(800両)のほか地元・今市村伊藤長次郎(600両)、同村入江十郎(300両)、同村鈴木又蔵(200)両、同村入江亀太郎(150両)、その他一人(120両)、四人(200両)両ずつ、一人(60両)で、総額6330両を集めました。利息は年8朱で10年返済でした。
これらの出資者は、すべて産物会所及び引替所の役職に就いています。
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