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播磨町散策記 on 2021-11-25 その4 魚介類供養塔

2022年02月12日 04時51分07秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年11月25日、播磨町を散策してきました。東本荘の庄屋であった梅谷家の4代目当主

の梅谷七右衛門清政(1683-1762)の足跡を辿るというのが今回のメインテーマでありました。

本日はその第4回で梅谷七右衛門清政が寛延3年(1750)に建立した魚介類供養塔について

写真紹介します。

過去の記事

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 第2回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その2 新聞の父濱田彦蔵の碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その3 金泉寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の2枚の写真は兵庫県加古郡播磨町本荘2丁目16にある魚介類供養塔です。

設置場所は本荘中公会堂の横の小さな通路の奥にあります。

上の写真は現地の説明板です。

そのまま、転記しておきます。

 この宝篋印塔(ほうきょういんとう)には「魚類成仏」の四文字が見られ

「寛延三年に問屋中」とあり、寛延三年(1750)に当地の魚問屋が魚類成仏の供養

として建立したことがわかります。公民館を改築するために解体してこの位置に移転しました。

そのとき中から銅板に記した梵字(ぼんじ)の願文(がんもん)が現れましたが、

解読せず写真に記録して再び収めたということです。

寛延三年といえば、その前年に播州一円は百姓一揆によって地方の豪農・富商が襲われた年です。

当地方(現:播磨町)の魚問屋の財力やその繁栄のほどがしのばれます。

     昭和573月  播磨町教育委員会

上の写真は寛延三庚午 卯月(4月)吉祥日 と書かれています。

以下の文章及び写真は令和3年度播磨町郷土資料館特別展「梅谷七右衛門清政と播磨町の

先覚者たち」の資料からの引用です。

清政は跡継ぎの男子には恵まれませんでした。梅谷七右衛門孟政(以下「孟政」)は8番目に生まれた男の子でした。それまでに生まれた7人のうち、6人までが女の子、残る1人の男児は満3歳で亡くなりました。したがって孟政が清政にとって希望の星であったことは想像に難くないことでした。孟政は元禄8年(1695)の火事で焼失していた地蔵堂と地蔵菩薩立像を再建・修復しましたが、そのわずか2年半後の延享5年(1748)2月、32歳の若さで亡くなりました。残された父親、清政の悲しみがどんなに深かったか、察するに余りあります。彼は蓮花寺に孟政のための供養塔を建て、菩提を弔いますが、2年後の寛延3年(1750)、地蔵堂の境内に魚類成仏の供養塔として立派な宝篋印塔(魚介類供養塔)を建てて魚類の霊を慰めました。或いは息子の若死にが、自分たちの魚類殺生の祟りとでも考えたのではないでしょうか。

平成7年(1995)1月の阪神淡路大震災でこの供養塔が倒壊した時に、内部にあった

銅板(願文)を調査し、この塔の詳細な建立理由が判明しました。

上の写真は上述の願文(銅板)

上の写真は願文の大意

上の写真は本荘中の地蔵菩薩立像(江戸時代)

 

梅谷七右衛門清政の年譜について播磨町の下記サイトから確認できます。

 播磨町 梅谷七右衛門清政 (harima.lg.jp)

 


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