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須磨関について

2022年02月13日 03時45分21秒 | 神戸情報

須磨関について調べてみました。

参照資料は以下のとおりです。

1) 兵庫県教育委員会編 大田町遺跡発掘調査報告書
    神戸市大田郵便局等新築工事に伴う発掘調査報告書(1993)

2) 兵庫県教育委員会編 兵庫県古代官道関連遺跡調査報告書Ⅳ(2018)

須磨の関は神戸市須磨区の観光協会のサイトによれば次のように解説されています。

須磨の関は、大宝令に定められている摂津の関のことで、海陸を兼ねた関であったといわれています。 天下の三関、(「伊勢の鈴鹿の関」「美濃の不破の関」「越前の愛発(あらち)の関」)についで重要な関でした。関守稲荷神社は、この関の守護神として、まつられたと伝えられ、境内に百人一首で知られる源兼昌の歌碑があります。「源氏物語」で光源氏が須磨に退居していた時、巳(み)の日祓(ひはらい)をしたところをここになぞらえ「巳の日稲荷」ともいわれています。

須磨の関跡の地としては、現光寺の地、多井畑などと諸説があります。

これからはもう少し掘り下げて記載していきます。

上の写真は須磨駅家~明石駅家の山陽道のルート 出典:1)Page57

写真の中に須磨関跡の位置として古山陽道沿いに描かれています

須磨駅家~明石駅家の山陽道のルートは、近世と同じく海岸沿いを通っていたか、

鉢伏・鉄拐山の切り立った崖の続く海岸ルートを迂回して

須磨駅家~多井畑~塩屋~舞子~朝霧~明石駅家を経由する多井畑ルート

須磨駅家から北に向かい白川峠を通り布施畑から大山寺、長坂を通過し明石駅家に

到達する白川ルートが考えられています。

須磨関はどこにあったのか

現在では、須磨の関がどこにあったか特定できずその場所については次の3つ説がある。

 

(1)関守神社付近説

上の写真は須磨駅家候補地の太田町遺跡、行幸町遺跡及び天神町遺跡の位置を示しました。

地図の左手下の方に関守稲荷神社の位置が示されています。出典:2)のPage16

天神町遺跡の位置には西国街道沿いにあった旧前田家邸宅跡(神戸市須磨区天神町)

があり、前田家はその昔、駅家の管理運営を任されていた駅長の末裔ではないかと思われ、

しかも、後に須磨の関が設けられる位置で、この周辺に駅家があったものと推測されます。

前田家の邸内には、元宮長田神社があり、前田家は大宰府神社へ毎年、ここの菅原道真

所縁の菅の井の水を届けていたそうです。

 

関守稲荷神社の位置は明らかに現在の場所とは異なっています。

現在、関守稲荷神社の境内にある「長田宮」の石碑の側面に表記の「川東左右関屋跡」

と出土された場所が暗渠となった千森川と旧西国街道の交叉する地点であったことを

併せると関守神社は昔は千森川の河口付近にあったと推測。

須磨関もその位置にあればつじつまが合う。

上の写真は現在の関守神社の境内

上の写真は関守神社の中にある源兼昌の歌碑である。
金葉集巻四冬歌270。小倉百人首の第78番にあります。
淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬ須磨の関守
通釈:「夜、須磨の関の近くに宿っていると、淡路島との海峡を通って来る千鳥の鳴く声に、
目を醒まされる。旅人の私も悲哀の情を催すが、須磨の関守はこの声に幾晩眠りを
破られたことだろうか。」
須磨かるたにも選ばれているようです。

また、関守稲荷神社の入り口には「史蹟須磨関屋跡」と刻まれた石碑もあります。

上の写真は関守神社に掲示の須磨の関に関係する歌の看板。

明治28年(1895)に須磨で静養中の正岡子規が詠んだ俳句

須磨の関守跡(関守稲荷神社付近)にて

瓜茄子 どこを関所の 名残とも

 

(2)千守(森)川の河口付近説

上の写真は関守稲荷神社の境内にある石碑です。

明治初年土中から見つかった石碑で、正面には「長田宮」、側面には「川東左右
関屋跡」と書かれています。
出土された場所は東方100mに暗渠となった千森川と旧西国街道の交叉する地点であった。
すなわち今の関守跡の候補地の一つである関守稲荷神社とは離れた位置からの出土である。
この石碑が事実であれば関屋跡(櫓台)が千森川の東に一時期あったことになる。

 

(3)多井畑説

古代には、交通の難所である赤石櫛淵を避けて、大きく北に迂回して、多井畑から

下畑を経て塩屋までの約8Kmんお道があった。この迂回路の中間付近である多井畑に

関所が設けられたとする考え方である。

 

 

古代の関

古代には、摂津国の国境であった須磨に関所が置かれた。

大化2年(646)に出された大化改新の詔で畿内を東は名張、南は紀の川上流、北は逢坂山

西は赤石櫛淵の間とすると定められた

そうして、畿内に出入りする重要地点である、愛発(あらち)、不破、鈴鹿、須磨などに

関所が設けられました大化改新の詔の詳細は下記のとおりです。

大化の改新(645)の翌年大化2年(646)正月に第36代孝徳天皇が出した大化の詔の

第2条に次のように国司や郡司といった地方行政組織をつくり中央集権体制を整備した。

文章は改新の詔 - Wikisourceより引用(一部改変)

初修京師。置畿內國司。郡司。關塞。斥候。防人。驛馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京每坊置長一人。四坊置令一人。掌按檢戶口督察奸非。其坊令取坊內明廉强直堪時務者充。里坊長並取里坊百姓淸正强幹者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿內東自名墾橫河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識淸廉堪時務者爲大領少領。强幹聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。

とある。即ち、

はじめてみさとをつくります。畿内に司(國司)、郡司、關塞(せきそこ=防御施設)斥候(うかみ=スパイ)防人(さきもり=西海地域の防衛隊)、驛馬(はゆま=駅に置く馬)、傳馬(つたわりうま=郡に置く馬)を置き、および鈴(すず=駅鈴)・契(しるし=手形)造り、山河によって行政区を定めよ。凡そみさとにはまちごとに長人をさを置け、よつのまちにうなかし一人おきて、戶口をかんがへおさめ、かたましくあしきをただし、あきらむることをつかさどらせよ。そのまちうなしにはまちのうちにいさぎよくこはくただしくて、時のまつりことにたへたるものを、とりてあてよ。里坊さとまちをさにはならびに、里坊のおほんたからの、いさぎよくただしくいさをしき者をとりてあてよ。もし其さとまちに人なくば、並びの里まちに、えらび用ることをゆるす。およそ畿內うちつくには東は名墾なはりの橫川(三重県名張市)まで、南は紀伊に兄山せのやま(和歌山県伊都郡かつらぎ町)まで、西は明石の櫛淵(くしふち)まで、北は近江の狹々波ささなみの合坂(あふさか)山(大津市)までを、

畿內國うちつくにとせよ。およそこほり四十里よそさとをもて大郡とせよ。三十里以下の四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。そのこほりのつかさには、ならびに國造くにのみやつこのひととなり、たましひいさぎよくして、

時のまつりごとに堪たるものをとりて、おほみやつこ、すけのみやつことせよ。こはくいさをしくさとくて、てかき、かづしるにたくみなるものを主政まつりごとびと主帳ふんひととせよ。

およそ驛馬はいま傳馬つたへうまの数は、符(つたえのしるし)に剋数(きざみしかず=必要数だけ傷をつけるのでその数)に依れ。諸国・関には鈴契すずしるし(驛鈴と手形)を与える。長官が管理せよ。長官がいない場合は次官が管理せよ。

 

須磨関は陸関と海関を兼ねていたか?

今迄は須磨の関が古代山陽道に面した陸関としての記述をしていたが海の関であった

事を示唆する資料があるので紹介します。

海の関は海上交通を監視・取り締まるためのものであった。

関市令*1の第廿七に「若し船、筏関を経て過ぎば、亦過所(通行許可証)請へ

とあり、摂津関(須磨関)が海関であったことは明白である。

よって、須磨関は海陸を兼ねる関であったと推察する。

 *1 関の管理と通過、東西市の管理運営と交易、およびそれに関連して、

   外国人との交易、度量衡器に関する規定を含む

須磨関はいつまで存在していたのか?

古代三関(越前の愛発関、美濃の不破関、伊勢の鈴鹿関)は延暦8年(789)7月

全て停止または廃止されました。それに伴い同年11月に摂津関(須磨関)も停止されました。

古代三関は第40代天武天皇の672~673年に天皇の命により飛鳥浄御原の防備のために

設置されました。

中世以降の関は都の防衛という側面よりも関銭(通行料)を徴収することが目的となり

幕府や武家、荘園主、地方豪族、寺社などが競って関所を設置した。

須磨の関がこの時代に復活したかどうかは調査不足で不明である。

また、兵庫津の海関として有名な北関(東大寺が徴収)、南関(興福寺が徴収)と

須磨関が共存することがあったのどうかも不明です。

関所は江戸時代に入ると「出女、入鉄砲」で防衛面が強化されたが明治2年(1869)に

完全に撤廃されました。


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