CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

タイ料理クンメー(JR新大久保駅よりすぐ)

2004年12月21日 20時45分08秒 | Weblog
首都バンコク風の味を少し日本人向けにアレンジされており、
ちょっぴり辛いものもあるが、味はなかなかのものである。
日本人のお客さんが80%以上か?女性が多いのもここの特徴。

営業時間(11:30~0:00,ラストオーダー23:00)
TEL:03-3368-1166
新宿区百人町

写真はたこ焼き風の料理でちょっぴり辛いのが魅力
酒のつまみにぴったり。
12月19日(日)C氏と食事。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京にて

2004年12月20日 07時20分01秒 | Weblog
12月19日から東京への出張で携帯からのメッセージになります
クリスマスに備え飾りも工夫がこらされています
青色が多いのが
特徴か?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

周防大島市の誇り宮本常一先生

2004年12月19日 04時54分27秒 | 岩国情報
周防大島市が本年10月1日に誕生した。旧東和町の出身で
民俗学者の宮本常一さん(明治40年1907-昭和56年1981)
について記す。
今年の5月に開館した周防大島文化交流センターに先生が
収集された民具、書籍、写真を保管されている大阪の
天王寺師範(現大阪教育大学))卒業後、32歳まで大阪で
小学校の先生をした後、本格的に全国を歩きました。
民族学は柳田国男、渋沢敬三の指導を受けた。
歩き回った先で会った人の記録をとりそれにより
人々の生活の変化を明らかにしていきました。
晩年は故郷で郷土大学を開き地域に貢献しました。
著書の「忘れられた日本人」など。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昌明館付属屋及び門

2004年12月18日 06時15分25秒 | 岩国情報
住所:岩国市横山2丁目359
昌明館付属屋及び門は寛政5年(1803)7代岩国藩主
吉川経倫の隠居所として建築された。
昌明館そのものは7代の経倫の死後8代藩主経正公夫人の
喬松院の居所とされ、明治になってからは岩国県庁が
置かれていた。平成7年(1995)11月に吉川家資料館
として公開されるようになった。
昌明館付属屋及び門は1995年岩国市の有形文化財に
指定された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

義済堂の碑---岩国市横山

2004年12月16日 05時58分19秒 | 岩国情報
義済堂は明治6年(1873)廃藩置県で禄を貰えなくなった
岩国藩士の職場を確保する為、吉川氏が設立した。
創業当初は製紙業、養蚕業など幅広い分野の商品を商い
していた。現在は織物業を営んでいる。
碑は吉川氏の徳恩と初代の功績を記念して建てられた。
碑の場所は吉香神社の隣の北東側にあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

褒忠社(ほうちゅうしゃ)---岩国市横山吉香公園内

2004年12月15日 19時06分21秒 | 岩国情報
吉香神社の末社である。吉川家の死節の臣をまつる。
元は吉川広家(初代)紅葉谷でまつっていたが廃藩後
これを神社に改めたものである。
神前の石碑は1865年に藩の参政山田青門が撰んだ
ものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清泰院(岩国市川西)

2004年12月14日 06時21分26秒 | 岩国情報
福原越後の殉難の碑がある。越後はここで切腹させられた。
元は竜護寺であったが、現在は日蓮宗の寺。
寺は川西保育園(岩国市)を経営している。
明和7年(1770)の創建。第6代藩主吉川経永の夫人の
菩提所である。
入り口の楼門は僧独立ゆかりの長崎崇福院の門に
にているそうである。
宇治の興聖寺の門にも似ている。
宇治市黄檗の万福寺にある門にも似ている。
独立が帰化僧隠元和尚と同じで中国の様式を
取り入れた門であると推測する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福源のはげの定食---福源(その2)

2004年12月13日 06時09分59秒 | 岩国情報
福源の住所:山口県岩国市立石町1丁目5-6-101
TEL:0827-22-5208

12月11日(土)に標題のはげの定食を食べた。
冬季限定で1匹のはげから薄造り、寿司、みそ汁が
セットで出てくる。 値段は1,500円とリーズナブル。
20食限定。

また、ふぐとカニセットもある。こちらは予約が必要
3,800円である。

福源その1の情報
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福原越後殉難の碑

2004年12月12日 06時19分57秒 | 岩国情報
福原越後元(モトタケ)は、禁門の変で苦境に陥った藩を
救う為、岩国市の竜護寺で元冶元年(1864)11月12日
切腹しました。禁門の変=蛤御門の変
長州藩は幕末皇室に忠節を尽くした結果、朝廷で重んじ
られるようになっていました。
孝明天皇は幕府が勅許を得ずに諸外国と通商条約を
結んだことを非難され、勤皇の志を持つ諸藩に倒幕攘夷
の密勅を出されました。
諸藩は幕府に遠慮して動かなかったが、長州藩だけは
下関で外国船を砲撃するなど攘夷を決行しました。
その後、朝廷の方針は倒幕攘夷と公武合体との間を
揺れ動きます。文久2年(1862)薩摩藩の島津久光は
兵600名を率いて上洛し、公武合体、幕政改革について
建白書を提出しました。朝廷も幕府も久光の脅迫に屈し、
これから薩摩藩の横行がはじまります。
そして、尊王攘夷派の長州藩は朝廷から追い出されました。
長州藩は朝廷に対して「我々の忠誠心に変わりはなく、
以前のようにお役に立たせていただきたい」と陳情する
ことにしました。元治元年(1864)、福原越後ら三家老
(三家老は他に国司信濃(親相)1842-1864と
益田右衛門1833-1864)は藩主(毛利敬親公)の命を受け
約2千人の兵を率いて上洛し、参内を願い出ます。幕府は、
参内を許さず薩摩・会津・桑名藩兵で各門を守らせました。
これに対して長州藩は蛤御門を強行突破しようとした。
争いの最中に長州藩の放った砲弾が御座所の傍に落ち、
「長州は逆賊であると天皇が激怒された」という話が
伝わり、長州藩の戦意は俄かに落ち退却した。
勢いに乗った幕府は、勅命を得て全国の藩に長州征伐の
命令を出します。(第一次長州征伐)
この時、「三家老の首を差し出して恭順すれば許す」という
幕府の条件を呑まざるを得ませんでした。
三家老は藩を救うために切腹しました。
しかし、この屈辱に奮起した高杉晋作らは、民衆を集めて
奇兵隊を組織し、 2年後に再び行われた第二次長州征伐で、
(長州側からは四境の役という)
幕府軍を散々に打ち破って明治維新の基を開きました。
殉難の碑は大正12年4月28日に吉川氏より福原越後の功績を
称え沖原光孚撰の文を碑にした。正3位勲1等功2級
福原越後は文化12年(1815)8月28日徳山藩主毛利広鎮
(ひろしげ)の6男として生まれ永代家老福原家の養子になり
福原家を継いだ。
福原家は広島福井村の豪族であったが戦国時代に毛利の武将
となり寛永2年(1625)には10,125石を領していた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二宮佐渡守房清の墓と陶晴賢の遺髪塚

2004年12月11日 08時09分36秒 | 岩国情報
岩国市藤生の鐘秀山松巌院の境内の墓地に
二宮佐渡守房清の墓と陶晴賢の遺髪塚が
あります。
弘冶元年(1555)9月21日から10月1日に
毛利元就と陶晴賢が戦った厳島の戦いで
陶軍の三浦越中守を討ち取った二宮佐渡守
は敵将陶晴賢の遺髪を厳島の古戦場を眺望
できる場所に塚を建て、自らもそこに並べて
墓を建てました。

松巌院の場所などの詳しい情報はこちらを参照下さい
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする