CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

川崎正蔵の墓 in 徳光院 on 2018-9-19

2018年09月20日 05時50分54秒 | 神戸情報
2018年9月19日、布引の滝の周辺にある歌碑の写真を撮るために出かけていました。
そのついでに徳光院に行き川崎正蔵の墓の写真を撮ってきましたので紹介します。

上述の歌碑は明治のはじめ頃、「花園社」という市民団体が滝の周辺を布引遊園地とし、
平安時代から江戸時代にかけて詠まれた歌を集め36基の歌碑を建立したものです。

川崎正蔵の墓の所在地の住所:神戸市中央区葺合町 布引山2-3 (大圓山 徳光院)



上の写真は川崎正蔵の墓碑です。
戒名の徳光院殿豁堂恵然大居士が刻まれています。

川崎 正蔵(天保7年7月10日(1836年8月10日)~大正元年(1912年)12月2日)は
薩摩出身の財界人、政治家。神戸川崎財閥の創設者。
天保7年(1936)、鹿児島の呉服商人の子として生まれました。
17歳(嘉永6年=1853)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎で貿易商の修行を積み、
27歳(文久3年=1863)のとき大阪に移って海運業を始めましたが、このときは、
持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗しました。
その後1869(明治2)年に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職、
1873(明治6)年には、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行いました。
翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を
成功させました。この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、
自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、
安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くように
なりました。明治維新直後から、新政府に参画した松方正義、五大友厚ら
薩摩藩出身の政治家と深くかかわり造船業の他、海運、貿易、機械、砂糖など
多角経営の事業で成功すると、明治19年(1886)4月神戸で官営兵庫造船所の
払い下げを受け川崎造船所を設立。造船、汽車などの重機械生産で巨万の富を
得て、神戸川崎重工の基礎を築いた。


上記は川崎重工のHPを参照しました。



上の写真は墓所にある墓碑全体で
中央が川崎正蔵、右手は川崎正蔵の妻?左手は川崎芳太郎?


上の写真は墓所の左手手前の聖観音石像


上の写真は墓所の遠景 階段を昇ったところに川崎正蔵の墓所があります。


上の写真は墓所の位置と周辺の地図です。


上の写真は墓園入口の六地蔵


上の写真は墓所の右手にある三重塔  周辺の整備工事中でした。

折角ですので徳光院の境内の写真も紹介していきます。

徳光院(徳光禅院)の基本情報

住所:神戸市中央区葺合町布引山2-3   TEL:078-221-5400
山号:大圓山 宗派:臨済宗天龍寺派 御本尊:十一面観世音菩薩
創建:明治39年(1906) 開基:川崎正蔵翁 開山:高木龍渕禅師


公式サイト:https://www.tokkouin.com/


上の写真は大圓山徳光院の縁起説明板

本堂

上の写真は本堂の遠景

庫裡


多宝塔



上の写真は多宝塔と多宝塔の現地説明板。

徳光院のハイライトは何といっても多宝塔である。
多宝塔は 国の重要文化財になっています。
室町時代の文明10年(1478)に建立されたものである。
本瓦葺、高さ12m。須弥壇に薬師如来像(文明8年(1476)作)および持国天・増長天像を安置する。
塔は神戸市垂水区名谷の龍花山明王寺から移建したもので、明治33年(1900)に川崎家の
所有となり、同家の邸内に移築。さらに昭和13年(1938)に現在地へ移築された。
名谷の明王寺には今も移築跡が残されています。

開山堂

上の写真は開山堂の遠景

鐘楼


山門



上の2枚の写真は徳光院の山門

弁天堂



上の写真は徳光院の弁天堂と弁天堂への登り口の鳥居と階段

経蔵


地蔵堂と不動堂


観音像(納骨堂)

ここに川崎正蔵の曾孫のあたる久坂葉子が祀られています。
戒名は清照院殿芳玉妙葉大姉

観音像(納骨堂)は開基川﨑正蔵翁の嗣子芳太郎氏長男武之助氏により1935年(昭和10年)
建立されたそうです。

久坂 葉子(くさか ようこ、1931年3月27日 - 1952年12月31日)は、日本の小説家。
本名、川崎澄子(かわさき すみこ)。
久坂葉子さんは、19才で早くも芥川賞候補になるなど、将来を嘱望されていた作家でしたが、
昭和27年(1952)の大晦日の夜、阪急六甲駅のホームから列車に身を投じ、
わずか21年の短い生涯を閉じました。



十三重の塔


狛犬

ユニークな狛犬です。

朝鮮半島から渡来のモニュメント



本堂の前の石像達





句碑

上の石碑には「百千鳥啼いて今大寺を司る」と書かれています。
ホトギス派の俳人 皆吉爽雨(みなよし そうう)による作品です。

石碑

「花の心を」と書かれています。



「照千里守一隅」と書かれています 銅像は寄進者?

五社稲荷

五社稲荷の一の鳥居
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玉岡かおる講演会 on 2018-9-8

2018年09月19日 05時33分37秒 | 神戸情報
2018年9月8日(土)、神戸ポートオアシスで玉岡かおる講演会がありました。
演題は「神戸の日の出と繁栄の軌跡~鈴木商店・お家さんの視点とともに~」です。

当日、会場内の撮影は禁止であったので写真は以前に入手のものを使用し、講演の内容
で印象的だったもの及び鈴木商店に関する基礎知識について書いていきます。

参照資料:鈴木商店記念館

まず、講演会の案内リーフレットを添付しておきます。(下の2枚の写真)




以降、講演会の内容については濃い緑で示します。

講演に入る前に神戸市教育委員会 社会教育部?の荒巻部長より栄町通7丁目の
鈴木商店本店跡地のモニュメントの紹介があったので写真を添付しておきます。


撮影:2017-10-14

詳細は下記サイト:
 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/0b90f50903c7b7d1a8c49de55f61a57f

鈴木商店への焼打ち(大正7年(1918)8月12日)があった以前の本店の写真を添付

上の写真はWikipedia 鈴木商店の中からコピーしたものです。
原典 historical postcards 
1897年開業のミカドホテル(後の鈴木商店本社ビル)の新館で、1906年竣工、1918年焼失。
設計は河合浩蔵
大正7年(1918)米騒動で焼き打ちに遭う前のミカドホテル時代のものです。
大正9年(1920)まで鈴木商店の本社として使用されていたそうです。


冒頭で古代の海岸線の地図が披露されました。

神戸の名前の由来にもなっている神社の多い街
岡太神社、広田神社、敏馬神社、生田神社、長田神社
古代、神社に付属して租庸調を納める封戸を神戸(かんべ)と言う。
生田神社には大同元年(806)44戸が与えられた。


玉岡かおるさんの著書の紹介
花になるらん―明治おんな繁盛記― 高島屋のご寮人さん・飯田歌を題材とした歴史小説


大正期を中心にした神戸の写真を多く紹介されました。

初代、鈴木岩次郎の辰巳屋(カネ辰)暖簾分け
 鈴木商店発祥の地、弁天浜

「辰巳屋」は、松原恒七の実父松原藤助の奉公先「辰巳屋嘉兵衛」の屋号に由来する。
辰巳屋嘉兵衛は、文化文政(1804-1829)の頃、鴻池・天王寺家・住友などと並ぶ
大阪10大金持ちに数えられた豪商であったという。
松原藤助は、文政7(1824)年に“辰巳屋”のれん分けで大阪大宝寺町に独立・開業、
辰巳屋二代目を継いだのが藤助の次男恒七で「辰巳屋恒七」を名乗る。
辰巳屋恒七は砂糖、べっ甲、象牙、サンゴ類の輸入を手掛ける貿易商で大坂の
本店の他に明治の初期に神戸出張所を弁天浜に設置、ここで初代の鈴木岩次郎が
雇われていた。初代、鈴木岩次郎は明治7年(1874)辰巳屋恒七から暖簾分けを
してもらい砂糖引き取り商として創業(カネ辰鈴木商店)し、砂糖、米、薄荷などを
扱い急成長し明治19年(1886)頃には神戸の有力八大貿易商(資力3万円以上)。
この頃、金子直吉(のちの大番頭)が入店。樟脳を扱う。
時期が不明であるが明治19年には弁天浜から栄町4丁目45番地に鈴木商店は移っています。


上の写真は初代、鈴木岩次郎の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28


上の写真は辰巳屋(カネ辰)の暖簾
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28


上の写真は鈴木岩次郎の人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28

初代 鈴木岩次郎の死去と鈴木商店の体制
明治27年(1894)6月5日に鈴木岩次郎が死去。鈴木よねを主人、金子直吉(樟脳)
柳田富士松(砂糖)を番頭とする体制ができる。
柳田富士松(1867-1928)は「辰巳屋恒七」の当主・松原恒七の長男であるが幼くして
恒七の妹夫婦柳田家に養子に出ていた。


上の写真は鈴木よね(お家さん)の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28



上の写真は鈴木よねの人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28

鈴木よねの略歴(2013-3-16神戸海洋博物館での知育講座で神木哲男先生作製)を添付。
 
 ・1852(嘉永 5)年:播磨国姫路米田町、塗師丹波屋・西田仲右衛門の三女として
           生まれる(8月15日)
 ・1877(明治10)年:鈴木岩治郎に嫁す
 ・1878(明治11)年:長男・徳治郎(のち岩治郎と改称)生まれる
 ・1881(明治14)年:次男・米太郎生まれる
 ・1884(明治17)年:三男・岩蔵生まれる
 ・1894(明治27)年:夫・岩治郎死去、長男・岩治郎、家督を相続し、
     兄・西田仲右衛門を後見人と定め、先代の事業を継続する、みずから店主となる
 ・1902(明治35)年:鈴木商店を合名会社(出資額50万円)とし、代表社員となる
            (出資額48万円)、金子・柳田(各1万円)
 ・1915(大正 4)年:緑綬褒賞を受ける
 ・1920(大正 9)年:紺綬褒章を受ける
 ・1923(大正12)年:鈴木合名会社、組織変更、貿易部門を分離、株式会社鈴木商店
   (社長鈴木 よね)とし、鈴木合名会社は持株会社として存続(代表社員 鈴木よね)
 ・1926(昭和 1)年:フランス政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を受ける
 ・1938(昭和13)年:死去(5月6日)、享年87歳




上の写真は金子直吉の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28


上の写真は金子直吉翁の頌徳碑です。 撮影:2011-11-2
金子直吉についてWikipediaより要約引用させていただきます。
金子直吉、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は
日本の実業家。明治19年(1886年)20歳で丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の
「大番頭」として柳田富士松翁とともに鈴木商店を支えた。大正時代には
三井財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンとも
いわれた。鈴木よね社長から経営を任された実質的な経営者でした。
昭和2年(1927)の金融恐慌で市場から退陣していますが、「帝人」や「神戸製鋼」など、
多くの企業群は現在でも第一線で活躍しています。



上の写真は金子直吉の人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28

上の写真は神戸市灘区の祥龍寺にある柳田富士松翁の頌徳碑です。 撮影:2011-11-2
柳田富士松翁は慶応2年(1966)大阪の生まれで金子直吉より1年早い
明治18年(1985)19歳で鈴木商店に丁稚奉公に入りました。
昭和3年(1928)2月9日脳溢血で死去。
金子直吉の動の姿勢と違い、守りの姿勢で経営活動をした。


鈴木商店の台湾進出
明治28年(1895)日清戦争が終結し台湾を領有。後藤回漕店の後藤勝造を通じ
後に民政長官になる後藤新平と金子直吉が懇意となり、品質の良いクスノキから
蒸留によって得られる樟脳と樟脳油を扱う問屋として利権を得ていきます。
台湾銀行との取引が始まり鈴木商店のメインバンクとなっていきます。

日本における樟脳業は明治24年(1891)をピークに原料難、台湾では日本で
樟脳の再製技術で実績を積んだ小松楠彌と鈴木商店が組み小松組脳行(合資会社)
を設立し樟脳と樟脳油を生産し日本に運搬され樟脳はそのまま売り捌かれ、樟脳油は
神戸の鈴木商店傘下の工場で再製され売り捌かれた。
台湾では日本での経験を踏まえ専売制度(明治32年)が導入された。

樟脳精製業からは日本樟脳(株)現在の日本精化(株)、樟脳再生業からは
日本テルペン化学(株)・日本香料薬品(株)、セルロイド工業からはダイセル、
人工皮革製造業の東レザー(株)からは帝人が生まれています。

さらに、製糖業においても台湾各地に製糖工場を立ち上げています。
鈴木商店・神戸製鋼所を筆頭株主とする台湾鉄工所も設立され製糖機械を
製造、台湾における重工業の先駆けとなった。

玉岡かおるさんは講演の中で林田桶店と現台湾総督府の写真を紹介されました。


上の写真は2016年9月18日神戸新聞朝刊に掲載の現台湾総督府の写真

林田桶店については写真が掲載されているサイトにリンクさせて頂きます。
 https://blogs.yahoo.co.jp/chibanittai/63977559.html


鈴木商店の事業多角化
明治37年(1904)から大正2年(1913)にかけて精製糖、製鐵、織物、製粉、化学繊維
製塩、製油、煙草、麦酒、火薬、セメント、船舶、損害保険など一挙に多角化を図っています。
商事部門では分社化をして日本商業を設立しています。

鈴木商店の絶頂期
大正3年(1914)7月に始まった第1次世界大戦に伴う好景気を通じて鈴木商店は
世界的貿易商社に躍進していきます。
商機と見た金子直吉は大正3年(1914)11月から鉄・船舶を中心とした一斉の「買い出動」
Buy any steel,any quantity,atany priceの号令を発します。

この頃(大正4年(1915)11月1日)天下三分の宣言書が発せられます
詳細は下記サイトに記載しています。
 鈴木商店 大番頭 金子直吉の「天下三分の宣言書」

実際に鈴木商店は貿易総額で三井・三菱を超えています。

 大正6年(1917) 鈴木商店15.4億円(三井10.95億円)
 大正8年(1919) 鈴木商店16億円(三井12億円)

この当時の国家予算がこの規模であったとのこと。また当時のGNPの10%に相当
当時のエピソードとしてスエズ運河を通る物資の10%が鈴木商店の商品
ヨーロッパ戦線ではSZKの刻印の入った小麦袋が土嚢として使用

反動不況と破綻
大戦の終結(大正7年(1918)11月11日)後も、ヨーロッパの復興需要で大きな利益を
あげたが7、ワシントン軍縮や関東大震災の影響で資金繰りが逼迫。大正12年(1923)
から台湾銀行主導の組織改革が行われたが金子直吉のワンマン体制打破に失敗。
ここでお家さん(鈴木よね)に関するエピソードを紹介します。「台湾銀行の2条件
(持ち株会社お整理と金子直吉の退陣)をのんで鈴木を助けてください」と若い店員が
須磨の鈴木よね邸に頼みにきた。「お家さんどうかわかってください。金子さんさえ切れば
鈴木は新しく残れるのです。神戸製鋼所をはじめ業績のいい会社がたくさんあるのです。」
お家さんは「ええのや・・・鈴木商店の繁栄は直どんが作って、直どんが潰した・・うちは
いい夢を見せてもろうただけのことや。お家さんとよばれて・・・」倒産整理の道を選んだ。
須磨の鈴木よね邸(敷地2,000坪)は大正8年(1919)に建てられており現在跡地は三菱重工
神戸造船所山畑社宅になっています。
昭和2年(1927)震災手形処理法案審議の過程で、約2億円の手形のうち、約1億円が
台湾銀行、さらにそのうちの7,000万円余りが鈴木商店の手形であることが明るみに出た。
審議は紛糾し昭和金融恐慌がはじまる。
上記の法案は成立し、救済される見通しがついたが台湾銀行は財閥系銀行がコール市場から
金を引き上げたためやりくりがつかなくなり3月26日、鈴木商店に対する新規融資を停止。
4月4日に鈴木商店は破綻した。

世界の三大倒産と言われています。鈴木商店以外の2つは
1.スウェーデンのクロイガー2.ドイツのシュテインネス

お家さんの執筆

お家さんの執筆にあたっては鈴木商店の3代目当主(鈴木岩次郎。よねの孫)の鈴木治雄さん
に了解をとりに行きました。


鈴木治雄さんは平成28年(2016)12月19日に死去されました(享年は98歳)
塩屋の鈴木よねの別荘だったところに住まれていました。

鈴木治雄さんについて神戸新聞2017-2-26に2月2日に行われた「おわかれ会」の様子
さらに同じく神戸新聞2013-12-29に追想として鈴木よねや金子直吉の思い出が語られて
います。

神戸市立中央図書館の図書と資料
神戸市立中央図書館が鈴木商店に関する図書と資料を纏めておられますので
紹介します。(下の2枚の写真)




鈴木商店について書いた小生のブログにリンクして筆を置きます。

 鈴木商店 大番頭 金子直吉の「天下三分の宣言書」

 読売テレビ開局55年記念ドラマ「お家さん」

 鈴木よねの旧本宅跡 on 2013-6-24

 鈴木商店所縁の人達のお墓 in 追谷墓地 on 2013-6-24

 神戸と映画 in 神戸映画資料館 on 2013-6-8
  鈴木よねの息子(長男)2代目鈴木岩次郎が神戸新開地の映画館「聚楽館(しゅうらくかん)」
  建設のときに多額の寄付をした話題

 祥龍寺の鈴木よね社長の銅像と大番頭金子直吉、柳田富士松翁の頌徳碑

 神戸製鋼神戸製鉄所の高炉2017年度に休止。跡地で発電所を増設。
  鈴木商店から分かれた会社である神戸製鋼の話題です。

 神戸臨港線
  大正7年(1918)の地図に鈴木商店の名前が出てきます

 須磨寺 一の谷鯖大師 貞照寺前の十六羅漢石造 と釈迦如来石仏
  番頭の金子直吉が寄付をした十六羅漢像が須磨寺の境内に残っている話題です。

 インド高速鉄道計画、双日が契約 円借款で最大、着工へ(共同通信) - エキサイトニュース  鈴木商店から派生した双日に関する話題です。

  7月23日 きょうは何の日
  大正7年(1918)富山県魚津町の漁家の主婦たちが米の県外移出を阻止する集団行動を
  起こした所謂「米騒動」と同年(大正7年)8月12日に起きた鈴木商店焼き討ち
  に関する話題です。


 今日は何の日 8月12日

   大正7年(1918)鈴木商店焼打ち鈴木商店などが米の買占めを噂され、マスコミ
   でもその元凶が鈴木商店と報道され暴徒化した民衆により鈴木商店本店
   が焼打ちされた。城山三郎は、その代表作『鼠~鈴木商店焼討ち事件』
   において、鈴木商店が誤報・妬みなどによって狙い撃ちにされたことを
   数々の証拠を用いながら説明。鈴木商店の潔白を明らかにしている。

 鈴木商店跡地のモニュメントの現況 on 2017-6-25&2017-10-14

   鈴木商店が焼打ちに遭った場所に設置された石碑に関するものです。

 神戸駅貴賓室 on 2016-7-1

   鈴木商店の本店(旧ミカドホテル)の写真があります。

 鈴木商店に関する本 in 兵庫県立図書館

   表題のとおり兵庫県立図書館所蔵の鈴木商店に関する図書を紹介しています。



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UCCカフェプラザ 名谷店 でのランチ on 2018-9-16

2018年09月19日 05時04分37秒 | 神戸情報
2018年9月16日、名谷PATIOの一角にあるUCCカフェプラザ 名谷店でランチを
頂きましたので写真紹介します。
こちらには何回か訪問したことがありますがブログを書くのは初めてです。

UCCカフェプラザ 名谷店の基本情報

住所:神戸市須磨区中落合2-2-1須磨パティオ専門店街1番館1F TEL:078-792-5655
お客様相談窓口:078-306-0866 英文表示:UCC Cafe Plaza
営業時間:7:30~21:00 定休日:なし(1/1を除き無休)



公式サイト:http://www.ufs.co.jp/brand/ucp/






上の2枚の写真は私が頂いた喫茶店ナポリタン 840円(税込)
昔ながらのナポリタンでボリューム満点です。


上の写真は奥様が選択したエビアボカドサンドスペシャル 930円(税込)

少し分けて食しました。美味しいです。

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香港ダイニング Shige でのランチ  on  2018-9-17

2018年09月18日 04時15分33秒 | 神戸情報
2018年9月17日、垂水センター街の香港ダイニング Shige でランチを
頂きましたので写真紹介します。
イタリア料理のUsagiのあった場所に2017年2月19日から営業した店です。


香港ダイニング Shigeの基本情報
住所:神戸市垂水区陸ノ町2−9  TEL:078-798-6056
料理ジャンル:中華料理
営業時間:ランチ:11:30〜15:00 LO14:30
     ディナー:17:00〜22:00 LO21:00
定休日:水曜日


公式FB:https://www.facebook.com/hongkongdiningshige/

地図は下記の訪問記で記載しています。
 香港ダイニング Shige でのランチ on 2017-9-18

shigeランチ1,080円(税込)をいただきました


まず海鮮入りサラダの前菜が出てきます(上の写真)


次にお盆で本日のお料理(二品)、お粥、デザ-トが出てきます。






上の3枚の写真はランチメニューの説明



上の写真は日替わりshigeランチ(1,080円)と飲茶セット(1,296円)の看板


上の写真は新メニューの香港撈麺セット(1,512円)の看板


上の写真はお店の外観です。

過去の訪問記:

香港ダイニング Shige でのランチ on 2018-4-10

香港ダイニング Shige でのランチ on 2017-9-18

香港ダイニング Shige でのランチ on 2017-6-3


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坂岡裕志&曽我香織ジョイントコンサート in レバンテ1号館1階ホール on 2018-9-10

2018年09月17日 09時49分56秒 | 神戸情報
2018年9月10日(月)、垂水に出かけていた時に偶然表題のコンサートが
行われていました。

記憶に留めるためにブログ記事を書きました。


上の写真がコンサートの様子です。
会場はレバンテ1号館1階ホール



上の写真は当日の演奏曲目などが書かれたリーフレットです。

演奏者の一人、坂岡裕志さんはHPを開設されておりそこで最新情報を
確認できますのでリンクさせていただきました。

  http://sakaeuph.wixsite.com/home

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平清盛900歳祭 on 2018-9-9

2018年09月17日 07時17分25秒 | 神戸情報
2018年9月9日、平清盛900歳祭が新川運河ステージとイオンモール神戸南の会場で
行われました。当日はあいにくの天気でしたが、清盛隊の熱心なファンなどが会場を
埋めていました。下の動画は運河ステージで12:00から行われた清盛隊と桂春蝶さんの
トークイベントの様子です。

平清盛900歳祭 on 2018-9-9


上記の動画以外の当日の様子を写真紹介します。


上の写真は神戸市消防音楽隊の皆様による演奏場面 (イオンモール神戸南)


上の写真は清盛橋の清盛くん


上の写真は清盛橋より新川運河を挟んで右手は運河ステージ、出展ブース
左手はイオンモール神戸南


上の写真はエントランスゲートの遠景


上の写真は仙台・熊本・神戸 震災復興の絆プロジェクトによる手形


上の写真は運河ステージの間慎太郎のライブ風景




上の写真は清盛隊と桂春蝶さん出演場面


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2018年 高砂 万灯祭 on 2018-9-15

2018年09月16日 11時49分33秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年 高砂 万灯祭 on 2018-9-15


上の動画で行った場所をリストアップしています。


上の写真は魚町倶楽部
建物の中を見学できました。
音楽ライブが行われていました。

明治37年(1904)、神戸製紙所高砂工場内に、アメリカ人技師長M.J.シェイの居住施設
として建設された。明治38年(1905)、社名が三菱製紙所と変わって、この洋館は現在地へ
移築された。 以降、三菱製紙高砂工場の厚生施設と使用されてきました。



昼間の写真を掲載した小生のブログにリンク
 山陽電車高砂駅周辺の散策(増補版) on 2018-2-17&2018-2-25 その3 三菱製紙魚町倶楽部






上の写真は出汐館の夜景です。


昼間の写真を掲載した小生のブログにリンク
高砂市旧鐘淵紡績(現カネカ)の出汐館 on 2018-6-3
出汐館は明治41年に操業を開始した鐘淵紡績高砂工場の迎賓施設として建てられたものです。
昭和11年(1936)の建築です。
「出汐館」の名称は謡曲「高砂」の一部から引用されているそうです。


上の写真は三連蔵の夜景


上の写真は高砂商工会議所の夜景


上の写真は播州信用金庫のハートマーク





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藤原京 大極殿院 北門跡の発掘調査

2018年09月15日 07時30分55秒 | 奈良情報
奈良文化財研究所は2018年9月13日、奈良県橿原市の藤原宮跡で、天皇が重要儀式を
執り行う「大極殿」を四方に囲む回廊の北門跡を確認したと発表しました。
北門の北側には天皇の住まいである内裏があり、天皇が政治を行う大極殿と普段の
生活の場である内裏を行き来する際に利用した際に利用されていたと思われます。
発掘調査では、門の4つの柱のうち南東隅の柱を据えた柱穴を確認した。
門の南北規模は約5・8m、東西規模は約4・7mとみられる。
南門(東西約35m、南北約10m)、東門と西門(共に南北約29m、東西約6.6m)よりも
かなり小規模であるが、門の基壇が削られるなど遺構の残存状態が悪いことから、
奈文研はもっと大きかった可能性もあるとしている。
また、大極殿院の回廊の東西規模は約116mと推定通りだった。
現地説明会は15日午後1時半から行われる。


尚、大極殿院の回廊、南北方向の長さは152mであることが確認されています。
下記サイトに発掘調査に関する報道 日経新聞電子版(2018-3-1)
飛鳥藤原京第195次調査
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2756519001032018CR8000/

上記の内容の報道をNHKテレビ(2018-9-14)で知った。
NHKの報道に加えて2016年12月22日に藤原京跡を訪問した時の写真を加えて
ブログを作成していきます。


Gooブログの記事
奈良・橿原の藤原京跡で「大極殿北門」跡を確認 天皇の公私の空間分ける重要な門


まず、発掘現場の概要を把握するために現地の写真を添付しました。

出典:橿原市 藤原京資料室展示パネルに手書きで追加






上の3枚の写真は橿原市 藤原京資料室展示の藤原京の模型です。
撮影:2016-12-22




上の2枚の写真は特別史跡 藤原京跡の現地説明板です。撮影:2016-12-22
朝堂院南門跡付近に掲示されていたものです。


上の写真は大極殿院を中心とした周辺の図を整理したものです。








上の4枚の写真は上述のNHK報道


上の写真は今回の大極殿院北門付近から大極殿跡であろうと推定される森
を臨んだ風景 撮影:2016-12-22


上の写真は大極殿東門跡の発掘調査地 撮影:2016-12-22




上の写真は大極殿院の大極殿跡地の近景 撮影:2016-12-22


上の写真は大極殿院閣門(南門)の現地説明板 撮影:2016-12-22


最後に2018-9-15の藤原宮大極殿院の発掘調査(第198次調査)「現地説明会」
大極殿院北門跡と回廊跡について実際に行かれた方のサイトにリンクさせていただきました。

 https://blog.goo.ne.jp/izumi_s11/e/870ff390bababba7c0ac5da82425edcf


http://guesthouse-egao.com/2018/09/15/「飛鳥藤原京第198次調査-現地説明会」に行ってき/



関連サイト:
 奈良文化財研究所 現地説明会

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エクラタンでのランチ on 2018-9-14

2018年09月15日 04時47分23秒 | 神戸情報
2018年9月14日、エクラタン(ECLATANT)で頂いたランチを写真紹介します。
初訪問のお店です。

エクラタンの基本情報

住所:神戸市中央区中山手通2-25-10 YKビル2階 TEL:078-251-3707
料理ジャンル:フランス料理  英文名:ECLATANT
営業時間:昼は11:30-14:00(L.O)、夜は17:30-21:00
定休日:月曜日(祝日は営業) オープン日:2017年7月16日


公式サイト:https://eclatant-kobe.com/

所在地の地図を添付しておきます。


当日はプリフィックスコース 2,800円(税別)を注文
メニューはこの他に5,200円のシェフおまかせのスペシャルコースがあります。


まずシェフおまかせのアミューズが出てきます(上の写真)


次に前菜です。上の写真は奥様が選択した3種類の海の幸と10種類の旬野菜の
レギュームパレット


上の写真は私が選択した前菜のハンガリー産ホロホロ鶏もも肉のコンフィと秋茄子の
ピュレ  シェリービネガのドレッシング



上の写真は奥様のメインで「牛頬肉の赤ワイン煮 季節野菜とパイ添え


上の写真は私のメインで舌平目のヴァプール デュグレレソース 白葱のフリット添え


上の写真はシェフおまかせのデザート盛り合わせ

飲み物に私はハーブティーを選択しました非常に美味しかったので
写真も添付しました。


全体に美味しく頂きました。

近くにはフランス料理の名店「松嶋」がありますが1番安いメニューで4,200円(税別)
に較べて2,800円(税別)で本格的なフレンチが頂けるエクラタンはお値打ちのお店です。
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東大寺大仏開眼1,250年慶讃大法要 on 2002年10月15日~10月19日

2018年09月14日 05時36分50秒 | 昔こんなものがあった 平成編
平成14年(2002)10月15日~10月19日、奈良東大寺で大仏開眼1,250年慶讃大法要が
営まれました。

昨日(2018-9-13)に書いたブログ「菩提僊那(ぼだいせんな)」と同じ下記番組で
紹介されていた上記の「東大寺大仏開眼1,250年慶讃大法要」について記していきます。

2015年1月2日、NHK総合テレビで21時から放送された番組「世界遺産ドリームツアー!
「外国人が驚く! 古都 奈良&京都」





上の2枚の写真は2002年10月15日の東大寺大仏開眼1,250年慶讃大法要の様子です。
菩提僊那は752年(天平勝宝4年)4月9日に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として
導師をつとめた。大仏の眼を書き入れたのが菩提僊那であった。
上記の開眼法要から1,250年を経て行われたのが「大仏開眼1,250年慶讃大法要」

当日の法要は、大仏殿の前庭で営まれ、盧舎那仏讃歌奉唱、橋本聖圓別当(住職)による
慶讃奉告文の奏上、『般若心経』『如心偈』の読経と続き、さらに、能、伎楽の慶讃奉納が
行われたようです。






上の3枚の写真は伎楽の慶讃奉納

伎楽(ぎがく)についてWikipediaの解説を紹介します。

伎楽は、日本の伝統演劇のひとつ。日本書紀によれば、推古天皇20年、推古天皇の時代に
百済人味摩之によって中国南部の呉から伝えられたという。
奈良時代の大仏開眼供養でも上演され、正倉院には、その時使用されたと思われる伎楽面が
残されている。


注1)推古天皇20年は西暦612年

注2)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 による 味摩之(みまし)の用語解説
-飛鳥時代の楽人。『日本書紀』によると、百済の人で呉に渡り、伎楽を学び、
推古 20 (612) 年に日本に帰化し、大和桜井に住んで伎楽の舞を伝えた。

伎楽舞とは、インド・チベット地方の民族舞踊が発達したものである。





上の2枚の写真も伎楽の舞
獅子舞のようなものが上演されたようです。



上の写真は式典の音楽担当者。
752年の大仏開眼供養ではベトナム人の僧侶仏哲が音楽を担当した

Wikipediaによる仏哲の解説
チャンパ王国(林邑国(中国語版)、現在のフエ)の出身。南インドに入り菩提僊那に師事
して密呪に秀でた。唐の開元年間に師とともに入唐、当時唐に滞在していた日本僧理鏡らの
招きにより、開元24年 / 天平8年(736年)に師の菩提僊那・唐僧道璿らとともに日本入りした。
大宰府を経て都に入り、大安寺に住した。聖武天皇からの信頼篤く、天平勝宝4年(752年)の
東大寺大仏開眼法要では舞楽を奉納し、「菩薩」、「抜頭」などといった舞や林邑楽
(仏哲らが伝えたとされるインド系雅楽の楽種の一つ)を楽人に伝え、また多くの
密教経典、論籍も請来したという。
仏哲らが伝えた林邑楽は、春日若宮おん祭で毎年12月に披露されており、2014年4月には
春日舞楽の雅楽団「南都楽所」がフエで「里帰り公演」を行なった


番組での紹介はなかったが新らしく造られた菩提僊那像の開眼法要が橋本聖圓別当(住職)
の手により行われたようです。

 菩提僊那像の製作基本情報

 製作年:2002年

 彫刻担当: 三輪途道 、三浦康道
 彩色担当: 篠崎悠美子

 安置先:東大寺本坊天皇殿 (聖武天皇の御命日5月2日拝観可能)



 
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