2018年9月8日(土)、神戸ポートオアシスで玉岡かおる講演会がありました。
演題は「神戸の日の出と繁栄の軌跡~鈴木商店・お家さんの視点とともに~」です。
当日、会場内の撮影は禁止であったので写真は以前に入手のものを使用し、講演の内容
で印象的だったもの及び鈴木商店に関する基礎知識について書いていきます。
参照資料:鈴木商店記念館
まず、講演会の案内リーフレットを添付しておきます。(下の2枚の写真)
以降、講演会の内容については濃い緑で示します。
講演に入る前に神戸市教育委員会 社会教育部?の荒巻部長より栄町通7丁目の
鈴木商店本店跡地のモニュメントの紹介があったので写真を添付しておきます。
撮影:2017-10-14
詳細は下記サイト:
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/0b90f50903c7b7d1a8c49de55f61a57f
鈴木商店への焼打ち(大正7年(1918)8月12日)があった以前の本店の写真を添付
上の写真はWikipedia 鈴木商店の中からコピーしたものです。
原典 historical postcards
1897年開業のミカドホテル(後の鈴木商店本社ビル)の新館で、1906年竣工、1918年焼失。
設計は河合浩蔵
大正7年(1918)米騒動で焼き打ちに遭う前のミカドホテル時代のものです。
大正9年(1920)まで鈴木商店の本社として使用されていたそうです。
冒頭で古代の海岸線の地図が披露されました。
神戸の名前の由来にもなっている神社の多い街
岡太神社、広田神社、敏馬神社、生田神社、長田神社
古代、神社に付属して租庸調を納める封戸を神戸(かんべ)と言う。
生田神社には大同元年(806)44戸が与えられた。
玉岡かおるさんの著書の紹介
花になるらん―明治おんな繁盛記― 高島屋のご寮人さん・飯田歌を題材とした歴史小説
大正期を中心にした神戸の写真を多く紹介されました。
初代、鈴木岩次郎の辰巳屋(カネ辰)暖簾分け
鈴木商店発祥の地、弁天浜
「辰巳屋」は、松原恒七の実父松原藤助の奉公先「辰巳屋嘉兵衛」の屋号に由来する。
辰巳屋嘉兵衛は、文化文政(1804-1829)の頃、鴻池・天王寺家・住友などと並ぶ
大阪10大金持ちに数えられた豪商であったという。
松原藤助は、文政7(1824)年に“辰巳屋”のれん分けで大阪大宝寺町に独立・開業、
辰巳屋二代目を継いだのが藤助の次男恒七で「辰巳屋恒七」を名乗る。
辰巳屋恒七は砂糖、べっ甲、象牙、サンゴ類の輸入を手掛ける貿易商で大坂の
本店の他に明治の初期に神戸出張所を弁天浜に設置、ここで初代の鈴木岩次郎が
雇われていた。初代、鈴木岩次郎は明治7年(1874)辰巳屋恒七から暖簾分けを
してもらい砂糖引き取り商として創業(カネ辰鈴木商店)し、砂糖、米、薄荷などを
扱い急成長し明治19年(1886)頃には神戸の有力八大貿易商(資力3万円以上)。
この頃、金子直吉(のちの大番頭)が入店。樟脳を扱う。
時期が不明であるが明治19年には弁天浜から栄町4丁目45番地に鈴木商店は移っています。
上の写真は初代、鈴木岩次郎の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は辰巳屋(カネ辰)の暖簾
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は鈴木岩次郎の人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
初代 鈴木岩次郎の死去と鈴木商店の体制
明治27年(1894)6月5日に鈴木岩次郎が死去。鈴木よねを主人、金子直吉(樟脳)
柳田富士松(砂糖)を番頭とする体制ができる。
柳田富士松(1867-1928)は「辰巳屋恒七」の当主・松原恒七の長男であるが幼くして
恒七の妹夫婦柳田家に養子に出ていた。
上の写真は鈴木よね(お家さん)の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は鈴木よねの人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
鈴木よねの略歴(2013-3-16神戸海洋博物館での知育講座で神木哲男先生作製)を添付。
・1852(嘉永 5)年:播磨国姫路米田町、塗師丹波屋・西田仲右衛門の三女として
生まれる(8月15日)
・1877(明治10)年:鈴木岩治郎に嫁す
・1878(明治11)年:長男・徳治郎(のち岩治郎と改称)生まれる
・1881(明治14)年:次男・米太郎生まれる
・1884(明治17)年:三男・岩蔵生まれる
・1894(明治27)年:夫・岩治郎死去、長男・岩治郎、家督を相続し、
兄・西田仲右衛門を後見人と定め、先代の事業を継続する、みずから店主となる
・1902(明治35)年:鈴木商店を合名会社(出資額50万円)とし、代表社員となる
(出資額48万円)、金子・柳田(各1万円)
・1915(大正 4)年:緑綬褒賞を受ける
・1920(大正 9)年:紺綬褒章を受ける
・1923(大正12)年:鈴木合名会社、組織変更、貿易部門を分離、株式会社鈴木商店
(社長鈴木 よね)とし、鈴木合名会社は持株会社として存続(代表社員 鈴木よね)
・1926(昭和 1)年:フランス政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を受ける
・1938(昭和13)年:死去(5月6日)、享年87歳
上の写真は金子直吉の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は金子直吉翁の頌徳碑です。 撮影:2011-11-2
金子直吉についてWikipediaより要約引用させていただきます。
金子直吉、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は
日本の実業家。明治19年(1886年)20歳で丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の
「大番頭」として柳田富士松翁とともに鈴木商店を支えた。大正時代には
三井財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンとも
いわれた。鈴木よね社長から経営を任された実質的な経営者でした。
昭和2年(1927)の金融恐慌で市場から退陣していますが、「帝人」や「神戸製鋼」など、
多くの企業群は現在でも第一線で活躍しています。
上の写真は金子直吉の人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は神戸市灘区の祥龍寺にある柳田富士松翁の頌徳碑です。 撮影:2011-11-2
柳田富士松翁は慶応2年(1966)大阪の生まれで金子直吉より1年早い
明治18年(1985)19歳で鈴木商店に丁稚奉公に入りました。
昭和3年(1928)2月9日脳溢血で死去。
金子直吉の動の姿勢と違い、守りの姿勢で経営活動をした。
鈴木商店の台湾進出
明治28年(1895)日清戦争が終結し台湾を領有。後藤回漕店の後藤勝造を通じ
後に民政長官になる後藤新平と金子直吉が懇意となり、品質の良いクスノキから
蒸留によって得られる樟脳と樟脳油を扱う問屋として利権を得ていきます。
台湾銀行との取引が始まり鈴木商店のメインバンクとなっていきます。
日本における樟脳業は明治24年(1891)をピークに原料難、台湾では日本で
樟脳の再製技術で実績を積んだ小松楠彌と鈴木商店が組み小松組脳行(合資会社)
を設立し樟脳と樟脳油を生産し日本に運搬され樟脳はそのまま売り捌かれ、樟脳油は
神戸の鈴木商店傘下の工場で再製され売り捌かれた。
台湾では日本での経験を踏まえ専売制度(明治32年)が導入された。
樟脳精製業からは日本樟脳(株)現在の日本精化(株)、樟脳再生業からは
日本テルペン化学(株)・日本香料薬品(株)、セルロイド工業からはダイセル、
人工皮革製造業の東レザー(株)からは帝人が生まれています。
さらに、製糖業においても台湾各地に製糖工場を立ち上げています。
鈴木商店・神戸製鋼所を筆頭株主とする台湾鉄工所も設立され製糖機械を
製造、台湾における重工業の先駆けとなった。
玉岡かおるさんは講演の中で林田桶店と現台湾総督府の写真を紹介されました。
上の写真は2016年9月18日神戸新聞朝刊に掲載の現台湾総督府の写真
林田桶店については写真が掲載されているサイトにリンクさせて頂きます。
https://blogs.yahoo.co.jp/chibanittai/63977559.html
鈴木商店の事業多角化
明治37年(1904)から大正2年(1913)にかけて精製糖、製鐵、織物、製粉、化学繊維
製塩、製油、煙草、麦酒、火薬、セメント、船舶、損害保険など一挙に多角化を図っています。
商事部門では分社化をして日本商業を設立しています。
鈴木商店の絶頂期
大正3年(1914)7月に始まった第1次世界大戦に伴う好景気を通じて鈴木商店は
世界的貿易商社に躍進していきます。
商機と見た金子直吉は大正3年(1914)11月から鉄・船舶を中心とした一斉の「買い出動」
Buy any steel,any quantity,atany priceの号令を発します。
この頃(大正4年(1915)11月1日)天下三分の宣言書が発せられます
詳細は下記サイトに記載しています。
鈴木商店 大番頭 金子直吉の「天下三分の宣言書」
実際に鈴木商店は貿易総額で三井・三菱を超えています。
大正6年(1917) 鈴木商店15.4億円(三井10.95億円)
大正8年(1919) 鈴木商店16億円(三井12億円)
この当時の国家予算がこの規模であったとのこと。また当時のGNPの10%に相当
当時のエピソードとしてスエズ運河を通る物資の10%が鈴木商店の商品
ヨーロッパ戦線ではSZKの刻印の入った小麦袋が土嚢として使用
反動不況と破綻
大戦の終結(大正7年(1918)11月11日)後も、ヨーロッパの復興需要で大きな利益を
あげたが7、ワシントン軍縮や関東大震災の影響で資金繰りが逼迫。大正12年(1923)
から台湾銀行主導の組織改革が行われたが金子直吉のワンマン体制打破に失敗。
ここでお家さん(鈴木よね)に関するエピソードを紹介します。「台湾銀行の2条件
(持ち株会社お整理と金子直吉の退陣)をのんで鈴木を助けてください」と若い店員が
須磨の鈴木よね邸に頼みにきた。「お家さんどうかわかってください。金子さんさえ切れば
鈴木は新しく残れるのです。神戸製鋼所をはじめ業績のいい会社がたくさんあるのです。」
お家さんは「ええのや・・・鈴木商店の繁栄は直どんが作って、直どんが潰した・・うちは
いい夢を見せてもろうただけのことや。お家さんとよばれて・・・」倒産整理の道を選んだ。
須磨の鈴木よね邸(敷地2,000坪)は大正8年(1919)に建てられており現在跡地は三菱重工
神戸造船所山畑社宅になっています。
昭和2年(1927)震災手形処理法案審議の過程で、約2億円の手形のうち、約1億円が
台湾銀行、さらにそのうちの7,000万円余りが鈴木商店の手形であることが明るみに出た。
審議は紛糾し昭和金融恐慌がはじまる。
上記の法案は成立し、救済される見通しがついたが台湾銀行は財閥系銀行がコール市場から
金を引き上げたためやりくりがつかなくなり3月26日、鈴木商店に対する新規融資を停止。
4月4日に鈴木商店は破綻した。
世界の三大倒産と言われています。鈴木商店以外の2つは
1.スウェーデンのクロイガー2.ドイツのシュテインネス
お家さんの執筆
お家さんの執筆にあたっては鈴木商店の3代目当主(鈴木岩次郎。よねの孫)の鈴木治雄さん
に了解をとりに行きました。
鈴木治雄さんは平成28年(2016)12月19日に死去されました(享年は98歳)
塩屋の鈴木よねの別荘だったところに住まれていました。
鈴木治雄さんについて神戸新聞2017-2-26に2月2日に行われた「おわかれ会」の様子
さらに同じく神戸新聞2013-12-29に追想として鈴木よねや金子直吉の思い出が語られて
います。
神戸市立中央図書館の図書と資料
神戸市立中央図書館が鈴木商店に関する図書と資料を纏めておられますので
紹介します。(下の2枚の写真)
鈴木商店について書いた小生のブログにリンクして筆を置きます。
鈴木商店 大番頭 金子直吉の「天下三分の宣言書」
読売テレビ開局55年記念ドラマ「お家さん」
鈴木よねの旧本宅跡 on 2013-6-24
鈴木商店所縁の人達のお墓 in 追谷墓地 on 2013-6-24
神戸と映画 in 神戸映画資料館 on 2013-6-8
鈴木よねの息子(長男)2代目鈴木岩次郎が神戸新開地の映画館「聚楽館(しゅうらくかん)」
建設のときに多額の寄付をした話題
祥龍寺の鈴木よね社長の銅像と大番頭金子直吉、柳田富士松翁の頌徳碑
神戸製鋼神戸製鉄所の高炉2017年度に休止。跡地で発電所を増設。
鈴木商店から分かれた会社である神戸製鋼の話題です。
神戸臨港線
大正7年(1918)の地図に鈴木商店の名前が出てきます
須磨寺 一の谷鯖大師 貞照寺前の十六羅漢石造 と釈迦如来石仏
番頭の金子直吉が寄付をした十六羅漢像が須磨寺の境内に残っている話題です。
インド高速鉄道計画、双日が契約 円借款で最大、着工へ(共同通信) - エキサイトニュース 鈴木商店から派生した双日に関する話題です。
7月23日 きょうは何の日
大正7年(1918)富山県魚津町の漁家の主婦たちが米の県外移出を阻止する集団行動を
起こした所謂「米騒動」と同年(大正7年)8月12日に起きた鈴木商店焼き討ち
に関する話題です。
今日は何の日 8月12日
大正7年(1918)鈴木商店焼打ち鈴木商店などが米の買占めを噂され、マスコミ
でもその元凶が鈴木商店と報道され暴徒化した民衆により鈴木商店本店
が焼打ちされた。城山三郎は、その代表作『鼠~鈴木商店焼討ち事件』
において、鈴木商店が誤報・妬みなどによって狙い撃ちにされたことを
数々の証拠を用いながら説明。鈴木商店の潔白を明らかにしている。
鈴木商店跡地のモニュメントの現況 on 2017-6-25&2017-10-14
鈴木商店が焼打ちに遭った場所に設置された石碑に関するものです。
神戸駅貴賓室 on 2016-7-1
鈴木商店の本店(旧ミカドホテル)の写真があります。
鈴木商店に関する本 in 兵庫県立図書館
表題のとおり兵庫県立図書館所蔵の鈴木商店に関する図書を紹介しています。
演題は「神戸の日の出と繁栄の軌跡~鈴木商店・お家さんの視点とともに~」です。
当日、会場内の撮影は禁止であったので写真は以前に入手のものを使用し、講演の内容
で印象的だったもの及び鈴木商店に関する基礎知識について書いていきます。
参照資料:鈴木商店記念館
まず、講演会の案内リーフレットを添付しておきます。(下の2枚の写真)
以降、講演会の内容については濃い緑で示します。
講演に入る前に神戸市教育委員会 社会教育部?の荒巻部長より栄町通7丁目の
鈴木商店本店跡地のモニュメントの紹介があったので写真を添付しておきます。
撮影:2017-10-14
詳細は下記サイト:
https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/0b90f50903c7b7d1a8c49de55f61a57f
鈴木商店への焼打ち(大正7年(1918)8月12日)があった以前の本店の写真を添付
上の写真はWikipedia 鈴木商店の中からコピーしたものです。
原典 historical postcards
1897年開業のミカドホテル(後の鈴木商店本社ビル)の新館で、1906年竣工、1918年焼失。
設計は河合浩蔵
大正7年(1918)米騒動で焼き打ちに遭う前のミカドホテル時代のものです。
大正9年(1920)まで鈴木商店の本社として使用されていたそうです。
冒頭で古代の海岸線の地図が披露されました。
神戸の名前の由来にもなっている神社の多い街
岡太神社、広田神社、敏馬神社、生田神社、長田神社
古代、神社に付属して租庸調を納める封戸を神戸(かんべ)と言う。
生田神社には大同元年(806)44戸が与えられた。
玉岡かおるさんの著書の紹介
花になるらん―明治おんな繁盛記― 高島屋のご寮人さん・飯田歌を題材とした歴史小説
大正期を中心にした神戸の写真を多く紹介されました。
初代、鈴木岩次郎の辰巳屋(カネ辰)暖簾分け
鈴木商店発祥の地、弁天浜
「辰巳屋」は、松原恒七の実父松原藤助の奉公先「辰巳屋嘉兵衛」の屋号に由来する。
辰巳屋嘉兵衛は、文化文政(1804-1829)の頃、鴻池・天王寺家・住友などと並ぶ
大阪10大金持ちに数えられた豪商であったという。
松原藤助は、文政7(1824)年に“辰巳屋”のれん分けで大阪大宝寺町に独立・開業、
辰巳屋二代目を継いだのが藤助の次男恒七で「辰巳屋恒七」を名乗る。
辰巳屋恒七は砂糖、べっ甲、象牙、サンゴ類の輸入を手掛ける貿易商で大坂の
本店の他に明治の初期に神戸出張所を弁天浜に設置、ここで初代の鈴木岩次郎が
雇われていた。初代、鈴木岩次郎は明治7年(1874)辰巳屋恒七から暖簾分けを
してもらい砂糖引き取り商として創業(カネ辰鈴木商店)し、砂糖、米、薄荷などを
扱い急成長し明治19年(1886)頃には神戸の有力八大貿易商(資力3万円以上)。
この頃、金子直吉(のちの大番頭)が入店。樟脳を扱う。
時期が不明であるが明治19年には弁天浜から栄町4丁目45番地に鈴木商店は移っています。
上の写真は初代、鈴木岩次郎の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は辰巳屋(カネ辰)の暖簾
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は鈴木岩次郎の人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
初代 鈴木岩次郎の死去と鈴木商店の体制
明治27年(1894)6月5日に鈴木岩次郎が死去。鈴木よねを主人、金子直吉(樟脳)
柳田富士松(砂糖)を番頭とする体制ができる。
柳田富士松(1867-1928)は「辰巳屋恒七」の当主・松原恒七の長男であるが幼くして
恒七の妹夫婦柳田家に養子に出ていた。
上の写真は鈴木よね(お家さん)の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は鈴木よねの人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
鈴木よねの略歴(2013-3-16神戸海洋博物館での知育講座で神木哲男先生作製)を添付。
・1852(嘉永 5)年:播磨国姫路米田町、塗師丹波屋・西田仲右衛門の三女として
生まれる(8月15日)
・1877(明治10)年:鈴木岩治郎に嫁す
・1878(明治11)年:長男・徳治郎(のち岩治郎と改称)生まれる
・1881(明治14)年:次男・米太郎生まれる
・1884(明治17)年:三男・岩蔵生まれる
・1894(明治27)年:夫・岩治郎死去、長男・岩治郎、家督を相続し、
兄・西田仲右衛門を後見人と定め、先代の事業を継続する、みずから店主となる
・1902(明治35)年:鈴木商店を合名会社(出資額50万円)とし、代表社員となる
(出資額48万円)、金子・柳田(各1万円)
・1915(大正 4)年:緑綬褒賞を受ける
・1920(大正 9)年:紺綬褒章を受ける
・1923(大正12)年:鈴木合名会社、組織変更、貿易部門を分離、株式会社鈴木商店
(社長鈴木 よね)とし、鈴木合名会社は持株会社として存続(代表社員 鈴木よね)
・1926(昭和 1)年:フランス政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を受ける
・1938(昭和13)年:死去(5月6日)、享年87歳
上の写真は金子直吉の銅像
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は金子直吉翁の頌徳碑です。 撮影:2011-11-2
金子直吉についてWikipediaより要約引用させていただきます。
金子直吉、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は
日本の実業家。明治19年(1886年)20歳で丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の
「大番頭」として柳田富士松翁とともに鈴木商店を支えた。大正時代には
三井財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンとも
いわれた。鈴木よね社長から経営を任された実質的な経営者でした。
昭和2年(1927)の金融恐慌で市場から退陣していますが、「帝人」や「神戸製鋼」など、
多くの企業群は現在でも第一線で活躍しています。
上の写真は金子直吉の人物紹介
出典:鈴木商店 記念館(2017年1~12月KIITOで開催のイベント)撮影:2017-1-28
上の写真は神戸市灘区の祥龍寺にある柳田富士松翁の頌徳碑です。 撮影:2011-11-2
柳田富士松翁は慶応2年(1966)大阪の生まれで金子直吉より1年早い
明治18年(1985)19歳で鈴木商店に丁稚奉公に入りました。
昭和3年(1928)2月9日脳溢血で死去。
金子直吉の動の姿勢と違い、守りの姿勢で経営活動をした。
鈴木商店の台湾進出
明治28年(1895)日清戦争が終結し台湾を領有。後藤回漕店の後藤勝造を通じ
後に民政長官になる後藤新平と金子直吉が懇意となり、品質の良いクスノキから
蒸留によって得られる樟脳と樟脳油を扱う問屋として利権を得ていきます。
台湾銀行との取引が始まり鈴木商店のメインバンクとなっていきます。
日本における樟脳業は明治24年(1891)をピークに原料難、台湾では日本で
樟脳の再製技術で実績を積んだ小松楠彌と鈴木商店が組み小松組脳行(合資会社)
を設立し樟脳と樟脳油を生産し日本に運搬され樟脳はそのまま売り捌かれ、樟脳油は
神戸の鈴木商店傘下の工場で再製され売り捌かれた。
台湾では日本での経験を踏まえ専売制度(明治32年)が導入された。
樟脳精製業からは日本樟脳(株)現在の日本精化(株)、樟脳再生業からは
日本テルペン化学(株)・日本香料薬品(株)、セルロイド工業からはダイセル、
人工皮革製造業の東レザー(株)からは帝人が生まれています。
さらに、製糖業においても台湾各地に製糖工場を立ち上げています。
鈴木商店・神戸製鋼所を筆頭株主とする台湾鉄工所も設立され製糖機械を
製造、台湾における重工業の先駆けとなった。
玉岡かおるさんは講演の中で林田桶店と現台湾総督府の写真を紹介されました。
上の写真は2016年9月18日神戸新聞朝刊に掲載の現台湾総督府の写真
林田桶店については写真が掲載されているサイトにリンクさせて頂きます。
https://blogs.yahoo.co.jp/chibanittai/63977559.html
鈴木商店の事業多角化
明治37年(1904)から大正2年(1913)にかけて精製糖、製鐵、織物、製粉、化学繊維
製塩、製油、煙草、麦酒、火薬、セメント、船舶、損害保険など一挙に多角化を図っています。
商事部門では分社化をして日本商業を設立しています。
鈴木商店の絶頂期
大正3年(1914)7月に始まった第1次世界大戦に伴う好景気を通じて鈴木商店は
世界的貿易商社に躍進していきます。
商機と見た金子直吉は大正3年(1914)11月から鉄・船舶を中心とした一斉の「買い出動」
Buy any steel,any quantity,atany priceの号令を発します。
この頃(大正4年(1915)11月1日)天下三分の宣言書が発せられます
詳細は下記サイトに記載しています。
鈴木商店 大番頭 金子直吉の「天下三分の宣言書」
実際に鈴木商店は貿易総額で三井・三菱を超えています。
大正6年(1917) 鈴木商店15.4億円(三井10.95億円)
大正8年(1919) 鈴木商店16億円(三井12億円)
この当時の国家予算がこの規模であったとのこと。また当時のGNPの10%に相当
当時のエピソードとしてスエズ運河を通る物資の10%が鈴木商店の商品
ヨーロッパ戦線ではSZKの刻印の入った小麦袋が土嚢として使用
反動不況と破綻
大戦の終結(大正7年(1918)11月11日)後も、ヨーロッパの復興需要で大きな利益を
あげたが7、ワシントン軍縮や関東大震災の影響で資金繰りが逼迫。大正12年(1923)
から台湾銀行主導の組織改革が行われたが金子直吉のワンマン体制打破に失敗。
ここでお家さん(鈴木よね)に関するエピソードを紹介します。「台湾銀行の2条件
(持ち株会社お整理と金子直吉の退陣)をのんで鈴木を助けてください」と若い店員が
須磨の鈴木よね邸に頼みにきた。「お家さんどうかわかってください。金子さんさえ切れば
鈴木は新しく残れるのです。神戸製鋼所をはじめ業績のいい会社がたくさんあるのです。」
お家さんは「ええのや・・・鈴木商店の繁栄は直どんが作って、直どんが潰した・・うちは
いい夢を見せてもろうただけのことや。お家さんとよばれて・・・」倒産整理の道を選んだ。
須磨の鈴木よね邸(敷地2,000坪)は大正8年(1919)に建てられており現在跡地は三菱重工
神戸造船所山畑社宅になっています。
昭和2年(1927)震災手形処理法案審議の過程で、約2億円の手形のうち、約1億円が
台湾銀行、さらにそのうちの7,000万円余りが鈴木商店の手形であることが明るみに出た。
審議は紛糾し昭和金融恐慌がはじまる。
上記の法案は成立し、救済される見通しがついたが台湾銀行は財閥系銀行がコール市場から
金を引き上げたためやりくりがつかなくなり3月26日、鈴木商店に対する新規融資を停止。
4月4日に鈴木商店は破綻した。
世界の三大倒産と言われています。鈴木商店以外の2つは
1.スウェーデンのクロイガー2.ドイツのシュテインネス
お家さんの執筆
お家さんの執筆にあたっては鈴木商店の3代目当主(鈴木岩次郎。よねの孫)の鈴木治雄さん
に了解をとりに行きました。
鈴木治雄さんは平成28年(2016)12月19日に死去されました(享年は98歳)
塩屋の鈴木よねの別荘だったところに住まれていました。
鈴木治雄さんについて神戸新聞2017-2-26に2月2日に行われた「おわかれ会」の様子
さらに同じく神戸新聞2013-12-29に追想として鈴木よねや金子直吉の思い出が語られて
います。
神戸市立中央図書館の図書と資料
神戸市立中央図書館が鈴木商店に関する図書と資料を纏めておられますので
紹介します。(下の2枚の写真)
鈴木商店について書いた小生のブログにリンクして筆を置きます。
鈴木商店 大番頭 金子直吉の「天下三分の宣言書」
読売テレビ開局55年記念ドラマ「お家さん」
鈴木よねの旧本宅跡 on 2013-6-24
鈴木商店所縁の人達のお墓 in 追谷墓地 on 2013-6-24
神戸と映画 in 神戸映画資料館 on 2013-6-8
鈴木よねの息子(長男)2代目鈴木岩次郎が神戸新開地の映画館「聚楽館(しゅうらくかん)」
建設のときに多額の寄付をした話題
祥龍寺の鈴木よね社長の銅像と大番頭金子直吉、柳田富士松翁の頌徳碑
神戸製鋼神戸製鉄所の高炉2017年度に休止。跡地で発電所を増設。
鈴木商店から分かれた会社である神戸製鋼の話題です。
神戸臨港線
大正7年(1918)の地図に鈴木商店の名前が出てきます
須磨寺 一の谷鯖大師 貞照寺前の十六羅漢石造 と釈迦如来石仏
番頭の金子直吉が寄付をした十六羅漢像が須磨寺の境内に残っている話題です。
インド高速鉄道計画、双日が契約 円借款で最大、着工へ(共同通信) - エキサイトニュース 鈴木商店から派生した双日に関する話題です。
7月23日 きょうは何の日
大正7年(1918)富山県魚津町の漁家の主婦たちが米の県外移出を阻止する集団行動を
起こした所謂「米騒動」と同年(大正7年)8月12日に起きた鈴木商店焼き討ち
に関する話題です。
今日は何の日 8月12日
大正7年(1918)鈴木商店焼打ち鈴木商店などが米の買占めを噂され、マスコミ
でもその元凶が鈴木商店と報道され暴徒化した民衆により鈴木商店本店
が焼打ちされた。城山三郎は、その代表作『鼠~鈴木商店焼討ち事件』
において、鈴木商店が誤報・妬みなどによって狙い撃ちにされたことを
数々の証拠を用いながら説明。鈴木商店の潔白を明らかにしている。
鈴木商店跡地のモニュメントの現況 on 2017-6-25&2017-10-14
鈴木商店が焼打ちに遭った場所に設置された石碑に関するものです。
神戸駅貴賓室 on 2016-7-1
鈴木商店の本店(旧ミカドホテル)の写真があります。
鈴木商店に関する本 in 兵庫県立図書館
表題のとおり兵庫県立図書館所蔵の鈴木商店に関する図書を紹介しています。