今日もジリジリと暑い。早いもので、もう今回の沖縄滞在の最終日だ。
午前中、車で本島南部、荒崎海岸に向かった。一度は訪ねたいを思っていたが、行き方も分からなかったので、なかなか来られなかったところだ。今日も行きつけるかどうか分からないが。
1945年6月18日、南風原の陸軍病院から南部へ撤退し伊原周辺の壕にいたひめゆり学徒隊に解散命令が出された。翌日、第3外科壕にガス弾が打ち込まれ、壕内は地獄と化した。ひめゆり学徒隊は、194名が戦死したというが、18日の解散命令後の死者が128名にもなっているという。
死の恐怖におののきながら三々五々壕を脱出したひめゆり学徒は、小さなグループに別れ、戦場をさまよった。海からは艦砲が、陸からは戦車砲や迫撃砲が、雨あられのごとく降ってきた。
荒崎海岸に追いつめられたグループは、同21日、米兵の銃撃の乱射を受ける中、一高女の教師1人と生徒7人、卒業生1人、県立第二高等女学校の生徒1人が手りゅう弾で自ら命を絶ったという。
(この項は、『歩く・みる・考える沖縄』等より)
平和創造の森公園の近くから入るということは分かっていたが、草ぼうぼうの地道が続き、標識もない。車を置いてしばらく歩き、アダンの薄暗い林を抜けると、突然、明るい海岸に出た。やはり慰霊に来たと思われるおじさんに道を聞いて、なんとかひめゆりの慰霊碑にたどり着いた。
この海岸に追い詰められて自決した「ひめゆり学徒隊」生徒たちと先生の慰霊碑。名前とともに、16歳とか19歳とかの没年が彫られている。
合掌
64年前、この美しい海岸はアメリカ軍の艦船に埋め尽くされ、投降勧告の
マイクが響き、海岸には死体がゴロゴロしていたとは信じられない景色だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
帰り道、糸満市米須の「魂魄の塔」にも寄った。
ここは、沖縄戦後初めて、沖縄住民によって作られた慰霊塔・碑という。
戦後、米軍の命令で、ここに集団移住させられた(現那覇市)真和志村の金城和信村長はじめ、村民が周辺の畑を耕そうとしたら、住民や兵隊の遺骨がゴロゴロ出てくるので、まずそれらの遺骨を収集して一か所に集めて埋葬することから始めねばならなかった、ということらしい。
なんと3万5千柱もの遺骨が集められたそうだ。
******************
夕刻、みんなで泊港まで散歩。
岸壁で、今回の沖縄最後のビールを飲む。
午前中、車で本島南部、荒崎海岸に向かった。一度は訪ねたいを思っていたが、行き方も分からなかったので、なかなか来られなかったところだ。今日も行きつけるかどうか分からないが。
1945年6月18日、南風原の陸軍病院から南部へ撤退し伊原周辺の壕にいたひめゆり学徒隊に解散命令が出された。翌日、第3外科壕にガス弾が打ち込まれ、壕内は地獄と化した。ひめゆり学徒隊は、194名が戦死したというが、18日の解散命令後の死者が128名にもなっているという。
死の恐怖におののきながら三々五々壕を脱出したひめゆり学徒は、小さなグループに別れ、戦場をさまよった。海からは艦砲が、陸からは戦車砲や迫撃砲が、雨あられのごとく降ってきた。
荒崎海岸に追いつめられたグループは、同21日、米兵の銃撃の乱射を受ける中、一高女の教師1人と生徒7人、卒業生1人、県立第二高等女学校の生徒1人が手りゅう弾で自ら命を絶ったという。
(この項は、『歩く・みる・考える沖縄』等より)
平和創造の森公園の近くから入るということは分かっていたが、草ぼうぼうの地道が続き、標識もない。車を置いてしばらく歩き、アダンの薄暗い林を抜けると、突然、明るい海岸に出た。やはり慰霊に来たと思われるおじさんに道を聞いて、なんとかひめゆりの慰霊碑にたどり着いた。
この海岸に追い詰められて自決した「ひめゆり学徒隊」生徒たちと先生の慰霊碑。名前とともに、16歳とか19歳とかの没年が彫られている。
合掌
64年前、この美しい海岸はアメリカ軍の艦船に埋め尽くされ、投降勧告の
マイクが響き、海岸には死体がゴロゴロしていたとは信じられない景色だ。
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帰り道、糸満市米須の「魂魄の塔」にも寄った。
ここは、沖縄戦後初めて、沖縄住民によって作られた慰霊塔・碑という。
戦後、米軍の命令で、ここに集団移住させられた(現那覇市)真和志村の金城和信村長はじめ、村民が周辺の畑を耕そうとしたら、住民や兵隊の遺骨がゴロゴロ出てくるので、まずそれらの遺骨を収集して一か所に集めて埋葬することから始めねばならなかった、ということらしい。
なんと3万5千柱もの遺骨が集められたそうだ。
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夕刻、みんなで泊港まで散歩。
岸壁で、今回の沖縄最後のビールを飲む。